いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

定州1、開元寺塔

2016年06月01日 13時06分50秒 | 河北・定州府

さて。和[王申]の話の途中、突然なのですが、
先日、あんてぃーく倶楽部の遠足で行った河北定州の記事を差し挟みたいと思います。

忙しかった諸々の作業がようやく一段落ついたので、
やっと整理する時間もできました・・・。


さる5月末に河北省定州へのツアーがあり、参加いたしました。
マニアックかつ貴重な場所に連れて行ってくださる、あんてぃーく倶楽部主催者様、
いつもありがとうございますー!



ええー。

では場所から確認ですねー。

 

北京から石家庄に向かう高速鉄道の路線にあります。
高速鉄道で2時間ほど。
便利になりました。

こんなところに街中にいろいろな古跡がコンパクトにまとまった町があるとは、
まったく知りませんでしたー。
つれてきてもらったおかげです・・・。



歴史的には、


春秋時代、斉の宰相・管仲が戎狄に備えてこの地に城を築いた。
その後、戦国時代の紀元前414年に中山国の首都・于顧となったことが、最初の大きな軌跡のようです。
中山国は、北方の少数民族・白狄族の作った国だそうな。

漢代は景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じ、以後世襲で17代、329年続く。

北魏の天興3年(400)、「天下平定」の意をこめて「定州」の名を初めてつける。

宋代は北方戦線の最前線だったため、重要都市として、優れた武将を多く赴任させたという。











まず最初に向かったのは、町のシンボル、開元寺の塔。


塔が建てられたのは宋代ながら、

お寺はすでにかなり前の時代からあったとのこと。

開元寺の前身となる七帝寺は、北魏の太和年間(491年)の建立。
隋の開皇16年には、七帝寺を正解寺と改名。
唐の天即年間(904—907年)に正解寺を開元寺と改名。


塔の創建は、宋の真宗・咸平四年(1001年)。


宋の初年、開元寺の僧・会能が天竺に仏典を探す旅に出かけ、
仏舎利を手に入れて持ち帰ったことより、その仏舎利を納める仏塔を建立したものである。


完成は宋の仁宗・至和二年(1055年)。
あしかけ55年がかかった。


 

 塔の遠景




 


 

・・・とはいえ、仏舎利を納めるためだけに、55年もかけて塔を建てたわけではなさそうだ。

宋代、ここは遼との戦いの最前線。
定州の北は、契丹の遼と国境を接していた。

史料に
「天下十八道の中、惟(ただ)河北が最も重し」
「河北三十六州軍、惟(ただ)河北が最も重し」
ともいう。

塔は敵の動向を見張るための絶交の物見台となった。
このため「瞭敵塔」ともいう。




開元寺塔はすでに1000年もの間、その場所にそびえ立っており、
十数回の地震をも乗り越え、その姿を現在に残す。

ただ残念なことに、清の光绪十年(1884年)六月の地震で
塔体の東北部が、上から下までごっそりと崩れ落ちた。



 

 光緒年間に東北部分が上から下までみごとに崩れ落ちたままの写真。



1986年に本格的な修復を行い、現在に至るそう。


 

 最初の入口。



ところで宋代以来、塔は人々の遊覧の場として、常に多くの人を惹きつけてきたため、
歴史的に何度か「ドミノ倒し」の圧死事件が起きている。

明の穆宗・隆慶二年(1568年)正月十六日。
人々が塔に押し寄せていたところ、州守(調べたが、出てこない。。。恐らく州知事とか?)がやってくると誰かがデマを流し、
パニックとなった群衆が押し合いへし合い、階段でドミノ倒しが起き、圧死者二百三十七人を出した。


清の乾隆三十八年(1773年)五月五日、村民が大勢塔に登っているところへ、
州牧(州長官)が塔の入り口を封鎖したとのデマを誰かが流し、
パニックとなった民衆が出口に殺到。
圧死者三百人余り。


・・・・・圧死者200-300人って・・・。

私らが行った日は、そのほかの見学者はほとんどおらず、
もちろん2-300人も圧死できるような状態ではありませんでした。

今でこそ、塔から見渡せるだけでも高層ビルやマンションが立ち並び、
高いところへ登ることなど珍しくないのでしょうが、
昔の人の高所に対するあこがれというのは、現代人の想像を超えていたのでしょうなああ・・・。


 
 
 

 最初の階段を上がってすぐに表れる、やや西洋の教会を思わせるドーム。


 


ところで、開元寺塔は今、世界遺産への登録を申請中だという。
しかし1986年に行ったという修復工事は、当時の現代文明への崇拝からなのか、
完全に鉄筋コンクリートで固める現代工法なのだそう。

建築のことがあまりよくわからない私でも、
どうも無機質できれいすぎるなあ、と古代の息吹きのいの字も感じなかったのは、
そのせいかいな、と妙に納得してしまった・・・。


まあそれでもそのおかげで、今は倒壊の心配もせず、
突然の地震の襲撃におびえることもなく、安心して階段を踏みしめられたのですが・・・・。

ちなみに急な階段の連続だったこの塔登りのおかげで、
その後なんと一週間も下半身の筋肉痛でほとんど歩行できない状態になりんしたー!
体力不足が情けないのですが、きっと鍛えられたと思いますー!


 

 回廊の天井部分。


 

 窓から見える外の風景。



 

 各階に残る仏画。これは古いオリジナルなんでしょうね。


 



 

 天井の造作はどうもコンクリートの現代建築のような気がしますなあ。


 


 


 


 

 見学者が手で触れる場所は、ガラスで保護していました。

 


 

 おおー。 

 石碑の文字は、清華大学建築学科の教授・羅哲文先生の名前が!

 国民党が重慶にいた頃から、梁思成の元で弟子として、働いてきた人ですね。

 京都と奈良をアメリカの空襲から守ったのが、梁思成だったという事実を
 80年代の「奈良シルクロード博」のシンポジウムに招かれていた羅哲文先生が初めて明かし、
 日本側に事実が明らかになったとか・・・。

 
 梁思成本人はすでに亡くなって何年も経った後で・・・。



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