いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2016年9月の記事一覧表

2016年09月30日 20時45分44秒 | 月別 記事の一覧表

2016年9月の記事一覧表:

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。

2016.9.1.    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
2016.9.2.    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
2016.9.3.    3、陳家興隆の歴史的背景
2016.9.4.    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
2016.9.5.    5、わずか19歳で進士に
2016.9.3.     6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
2016.9.7.    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
2016.9.8.    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
2016.9.10.   9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院

2016.9.11.  『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……

 

2016.9.13.    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
2016.9.14.    11、王岐山と陳廷敬
2016.9.15.    12、王岐山と張英
2016.9.16.    13、「号」に込められた意味

2016.9.26.  『現代ビジネス』のコラム下に『紫禁城の月』を紹介

 


『紫禁城の月」と陳廷敬13、「号」に込められた意味

2016年09月16日 09時26分15秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

話がやや前後するが、再び陳廷敬の話に戻る。

「号」に込められた思いについてである。


「号」から見ることのできる個性がある。

通常名前は親がつけるものであり、本人がその後如何ともし難いものである。
ましてや陳廷敬の場合は、皇帝に一字を足してもらったのだから、
なおさら本人の意志では如何ともし難い問題である(笑)。


これに対して「号」は、成人してから自分でつけることができるため、
その人の個性、思いを強く反映したものになる。

陳廷敬の号は「説岩」、晩年の号は「午亭」、「午亭山人」。
それぞれ考察してみたい。


1、「説岩」:
 
 古い時代の漢字では、「説」は、「悦」に通じる意味があった。
 読み音が同じだったため、意味も共有する。

 そう言えば現代中国語で「説」の読み音はshuo、「悦」の読み音はyue。
 これに対して日本語は「説=せつ」、「悦=えつ」であるから、古代漢語により近いことになる。

 なるほど日本語は古い時代の中国語をより近い形で維持しているのだなあ、と本題からずれたことを考えた(笑)。


 閑話休題。
 つまり「説岩」とは「悦岩」。岩が好きだという意味だ。

 --どこの岩が好きかといえば、もちろん故郷の岩である。
 「説岩」には、「故郷を思う」という意味が込められている。

 陳廷敬の自著『午亭文編』によると、故郷の中道庄の南、つまり皇城相府の止園書院のそばに巨大な岩があり、
 その上に登り、月を眺めることができる。
 そのためこの岩を「月岩」というとのこと。


 古代の聖人たちは「説(悦)言」した。
 つまり「哲言(哲学的な名言)」を口にすることを喜びとした。
 しかし自分はそこまでの高い境地には至っておらず、
 ただ「悦岩(=説岩)」、=岩を愛でることしか能がない・・・。
 ――という謙遜の意味を込めた号だ。

 謙遜の部分は、ええとして、つまりは「故郷に帰りたい」という思いが強くこもった名前、
 と解釈することができるものである。



2、「午亭」、「午亭山人」

 陳廷敬の晩年の号。
 
 一説には「亭」とは、「あずまや」ではなく、
 古代の末端行政組織であった「県郷亭里」の中の「亭」だと言う。

 秦・漢代、十戸を一甲とし、十甲を一里、十里を一亭として数えた。
 つまり「亭」は、千戸という行政単位である。

 ちなみに、かの漢の高祖・劉邦は故郷では「泗水亭長」だった・・・。


 --そして「午亭」とは、秦代の陳廷敬の故郷一帯の行政区名「陽阿県午壁亭」を現しているという。
 つまりこの二つの号もやはり陳廷敬の故郷を想う強い思いが反映された名前と言える。


遠く北京で生涯のほとんどを過ごしながら、その心は常に故郷の方を向いていたのかもしれない。




陳廷敬がその三弟陳廷[忄素]に贈ったとされる詩の掛け軸がある。
陳廷敬の書による白居易の『池上篇』。

今では皇城相府の外城「冢宰第内府」の陳廷敬の起居室内の中央に掛けられている。

(誠にすまんことですが、肝心なものをきちんと撮影できていないようです。
 事前に見取り図などの資料もなく、予習できなかったせいです……うううう……。)


この掛け軸には、清代の高官のものでもめったに存在しない「御筆印鑑」が捺印されている。
つまり皇帝お墨付きを意味する印鑑だ。

かつて日本で展覧会に出品されたこともあるという。


 十畝之宅  十畝の大きさの邸宅(皇城相府の屋敷のつもり(笑))
 五畝之園  五畝の広さの庭園(止園などの庭園のつもり(笑))
 有水一池  池が一つあり
 有竹千竿  竹が千本あり

 勿謂土狭  土地が狭いと謂う勿(なか)れ
 勿謂地偏  場所が辺鄙だと謂う勿(なか)れ
 足以容膝  膝を納めるに充分で
 足以息肩  肩を休めるに充分であれば、いいではないか。

 有堂有庭  お堂(家屋)があって庭があり
 有橋有船  橋があって船があり
 有書有酒  書籍があって酒があり
 有歌有弦  歌があって爪弾く楽器があるのだから、何をそれ以上望もう。

 有叟在中  その中に叟(おきな)が一人
 風神飄然  風神の如く、飄然(ひょうぜん)たり。
 安分心足  自らの分(ぶ)をわきまえれば、心これに足る。
 外無求焉  外に何を求めようか。

 如鳥択木  あたかも鳥が安全な木を選び
 姑務巢安  巣をつくるように。
 如魚在沼  あたかも亀が小さな砂穴を作って住みつき
 不知海寛  大海の広さなどには、おかまいなしであるように。

 雲鶴怪石  庭園を飛びかう白鶴と奇怪な形をした庭石
 紫菱白蓮  池にはヒシとハスが植えられ、
 時飲一杯  時には酒を一杯傾けたり、
 或吟一篇  あるいは詩を一篇吟じてみたり。

 妻孥熙熙  妻子が目の前で戯れるのを眺め、
 鶏犬閑閑  鶏や犬が暇そうにしているのに見入り、
 優哉悠哉  なんと優雅なことではないか。
 終老其間  そんな風にして年を取って死んでいくのだ。



--どうでもいいけど、さすが白居易。
わかりやすっっ!


農村の媼(おうな)に読んで聞かせて意味が通じなければ書き直した、
と言われるほど詩句の平易さにこだわった人だけあって、ようううう、意味がわかりますわ(笑)。



ところでこの詩は三弟陳廷[忄素]の知県としての任期が満期になり、
さらに出世しようと虎視眈々としている姿を見て、陳廷敬がその気負った気持ちをほぐすために贈ったと言われている。

「そんなに望まなくてもいいではないか。故郷にはこんなに満ち足りた生活があるのだから」
と。


しかし当の本人は中央で出世街道をひた走っており、三弟陳廷[忄素]としては、
「あなたに言われたくない」
という心境だったかとは思うが……。

陳廷敬としては、本心--自身が心より憧れた生活だったのだろう。


--こうして見てみると、陳廷敬というのは本当に出世したくてしたのではなく、
目の前にあることを懸命にこなしているうちにいつの間にかこんな地位になってしまいました、
というような人だったように感じられる。

がつがつ出世に血眼にならなかったところも、最後まで失脚せずに晩節を全うした秘訣なのかもしれない。


陳廷敬は故郷に対する思いを常に、強烈に抱き続けていたようである。
弟に寄せたこの白居易の詩も、実は自分が最も強烈に感じていた故郷への思いなのではないか。
--書あり酒あり、ほかに何を望まん
と。





皇城相府


紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 上巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所

   

紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 下巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所




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『紫禁城の月』と陳廷敬12、王岐山と張英

2016年09月15日 09時08分12秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
『大清相国』(日本語題名『紫禁城の月』)の中で、
王岐山には、主人公の陳廷敬のほかにももう一人、崇拝する人物がいる。
--それが陳廷敬の同僚だった張英である。


安徽省桐城市の六尺巷(路地)は長さ百メートル、幅二メートルの一見どこにでもありそうなごく普通の狭い路地だ。
二〇一四年十一月十四日午後、中央政治局常務委員、中央紀律委員会書記の王岐山がここを訪れた。
桐城は清代「桐城学派」を育てた場所なのである。

「桐城学派」は清代文壇最大の散文流派として、
清朝二百年余りを通じて文壇をけん引し、近代にまで影響を与えた文学流派だ。
戴名世、方苞、刘大櫆、姚鼐を桐城派の「四祖」と呼ぶ。

過去記事でも科挙合格者の上位番付けを紹介したが、安徽省が常に上位に入っていたことを思い出されたい。
桐城も経済的に豊かな、中間層が分厚く育った地域だったのだろう。

張英もそんな「桐城学派」を代表する人物である。


桐城学派後期の代表的人物である姚永朴が『旧聞随筆』の中で「六尺巷」の由来について書いている。
「張文端(つまりは張英)公の屋敷の横に細い隙間があった。
 隣に呉氏という一家が住んでいたが、呉家の敷地がその境界線を越えて占拠していた。

 張家の家族がそれを不満に思い、北京にいる張英公のもとに手紙を書いて訴えた。

 すると張英公は詩をしたためて送り返した。いわく、

   一紙書来只為壁  手紙を送ってきたと思ったら、ただの壁一枚のためか
   譲他三尺又何妨  相手に三尺譲ったとして、何の不都合があろうか
   長城万里今犹在  長城は万里の先まで今でも存在しているが
   不見当年秦始皇  当時の秦の始皇帝は、もうその姿が見えないではないか。


 家族はその手紙を読むと、三尺手前に退いて敷地を相手に譲った。
 一方、隣の呉家でも自然とその義理堅さに感じ入り、自らも三尺譲った。

 その細い空間が道となり、『六尺巷』と呼ばれるようになった」



東紫苑記:

ええー。
まずは桐城を地図で確認しておきましょうね。






上海からも大して遠くありませんね。
まさに豊かな江南の範囲内、という感じですな。










今は、こんなにピカピカになっておるようですな。



張英は、康熙朝の名臣、文華殿大学士。
前述のように『紫禁城の月』にも登場する人物である。

張英は王岐山は、崇拝するもう一人の人物でもある故、
その所縁の土地を訪ねてきたのだった。



以下、記事の続き:


官一品の京官(中央に勤務する官僚)の張英は、家族の者に隣人に対して三尺譲るように言い含めた。
何でもないごく小さな事ながら、誰にでもできることだろうか。 
官僚が「進退を知る」のは、古来より難事なのである。


張家ではもう一人高官を輩出している。

張英の次子張廷玉が、軍機大臣まで登り詰め、
康熙、雍正、乾隆の三代の皇帝に仕え、栄光の中でその生涯を全うした。


張廷玉は、父の「進退を知る」の美徳に倣った。

死後、牌位が太廟(紫禁城の東南に位置する。王朝の先祖と功臣を祭る廟)に祀られた。
清代全体において、漢人大臣の牌位が太廟入りを許されたのは、張廷玉たった一人である。

美談「親子双宰相」は未だに桐城の語り草になっており、「六尺巷」も国家3A級観光景区に指定されている。

 

王岐山は桐城を訪問すると、感慨深げに言った。
「今の人は皆英語は理解できても、古文を解読できなくなってしまった。
 国や地方の指導者でもあまり読書をしない者が増えてきた」


二〇一四年全国「両会」(全人大と会政治協商会議の二大会議)の開催中、
王岐山は次のように発表した。

即ち、汚職蔓延の風潮抑止を重要任務とし、力ある抑止力を形成、
「不敢腐(汚職の勇気が出ない)」の風潮を作り出さなければならない、と。

改革を全面的に推進し法に則った政治を進め、制度の手綱を一層引き締め、拘束体制を監督・整備・奨励、
「不能腐」(物理的に汚職が不可能)な体制作りを目指す。

最後には理想信念の確立、宗旨意識の強化により、
指導者が「不想腐」(汚職を望まない)ようにするという方針を宣言した。

 

--王岐山が中央紀律委員会のリーダーとなってから七百日が過ぎたが、摘発したのは「大トラ」だけではない。
二〇一三年の一年だけでも全国で十八万人を超える党員幹部を処分した。

司局級以上の官僚で摘発された者は、さらに膨大な数に上るという。
官僚たちの今の心境は、

「いっそのこと閻魔大王に遭わされてでも、老王(王のおやじさん)には遭いたくない」
気持ちだと総括するメディアもあるくらいだ。

「不敢腐」(汚職の勇気が出ない)が画期的な効果を上げていることを充分に裏付ける言葉だろう。


官僚らを「不想腐」(汚職を望まない)にさせるため、
「老王」(王のおやじさん)にはどんな手段があるのか、と皆が聞くだろう。

  
六尺巷の張英、張廷玉親子こそが、「不想腐」(汚職を望まない)の鑑だと言える。
張英の第十一代目子孫、張英の第五子張廷瑑の後裔である張沢国は、次のように答えている。

「張氏親子は儒家思想を全うすることを終始忘れず、身を以ってそれを実践しました。
 一旦官位についたからには、信念を持って儒家の求めるところに沿い努力を続けました。

 『為官一任、造福一方』(一旦官位についたからには、人々に福をもたらすべし)。
 善事をするのは当然であり、むしろそうしなければならない、
 しなければ自身の道徳基準と良心に背くことになると信じていたのです」



張英は崇禎十(一六三七)年生まれ。
「幼い頃から経書を読破し、目を通しただけですらすらと暗誦した」という。

康熙二(一六六三)年、挙人に及第、六年に進士に及第、十二年に翰林院編修に任命され、
その後は侍読学士を担うようになる。

康熙十六(一六七七)年、命を受けて南書房に入る。康熙帝は「古大臣の風あり」と評ずる。
康熙二十八(一六八九)年、工部尚書に抜擢され、さらに礼部尚書も務める。
康熙三十八(一六九九)年、文華殿大学士に就任する。

張英には息子が六人いたが、第四子と六子が夭折したほか、
残りの四人は皆大成し、全員が進士に及第、入朝して官僚を務めたが、中でも次子張廷玉が傑出していた。

 
前述の張英の後裔張沢国氏は、かつて桐城市博物館の館長を務め今年六十四歳になる。
王岐山が今回六尺巷に訪問するに当たり、現地での案内メンバーの一人となった。

「張英と張廷玉は、ともに『廉』の字を最も大切にしていました。
 張英の時代、官僚の昇進は上級官僚の推薦で決まりました。

 このため下級官僚は上級官僚に賄賂を贈って取り入りました。

 しかし張英はかかる風潮に一切同調することなく、誰かを見極めてその能力を認めるとそのまま皇帝に推薦しました。
 それを他人が知ることは一切ありませんでした。

 こうして賄賂を受け取ることもなく、派閥を形成することも避けることができたのです。

 息子の張廷玉もきわめて廉潔な人でした。
 雍正年間、雍正帝は張廷玉の俸禄が少なすぎて家計が苦しそうなのを見て取りました。

 しかし俸禄は法で額決められており、勝手に値上げするわけにはいきません。
 そこで特別に不動産を下賜し、そこを店舗として貸し出すことで収入を増やしてあげようとしたくらいでした」



『康熙大帝』、『雍正皇帝』、『乾隆皇帝』の歴史小説三部作の中で張廷玉を生き生きと描いた作家の二月河は、
王岐山との対談の中で次のように述べている。

「雍正帝が官僚を抜擢する際の基準は、『公』、『忠』、『能』でした。
 『廉』というのは、最初から口にしません。
 『廉』は最低基準であり、言わずもがなだからです。 

 『廉』も全うできないようなら、官僚でいる資格などないという考えです。
 張廷玉は朝廷に数十年も仕えましたが、一度も不正を起こさずめったなことも口にしませんでした。

 自身の座右の銘として、
 『万言万当、不如一默』(一万語の発言がたとえ正しかったとしても、沈黙に勝るものはない。黄庭堅の詩『贈送張叔和』より)
 と言っていました。

 どんなに得意の絶頂にある時でも、あるいは苦悩のどん底にある時でも、
 自らを終始『深い淵に臨むが如く、薄氷を履(ふ)むが如き』位置におくべし、ということです」




--『万言万当、不如一默』。
 
一説によると、張廷玉は『康熙朝実録』の編纂に際し、雍正帝に不利な事実の多くを不採用にしたという。
簒奪の疑い濃厚な雍正帝を前にひたすらだんまりを決め込んだとか。

もしかしたら張廷玉にとっては、簒奪如何よりも今上皇帝がすさまじく勤勉であること、
根本的な問題を解決しようと格闘していることの方が大事だったのかもしれない。
その姿に共鳴したのか……。



一方の王岐山である。

二〇一四年八月、全国政治協会十二回常委会第七次会議において、委員たちは王岐山に次のように訴えた。
「汚職摘発が始まってから、末端官僚たちの『不作為』(サボタージュ)が深刻になっている」

王岐山はこう答える。

「比較するとしたら、『不作為』(サボタージュ)の方が悪さをするよりはまし。
 今は不正を粛正するのが焦眉の急であり、その次の任務がサボタージュの取り締まりだ」

 
これに対して張氏親子は一貫して言動に気をつけていたが、『不作為』(サボタージュ)をしていたわけではない。
康熙帝は藩の廃止をめぐって張英等の大臣を集めては、よく対策を検討したという。

その際も張英は常に夜明け前から出勤して夜が暮れてから退勤、勤勉そのものだった。
民生の利害に絡む問題、水害、日照りなどの天災については、最善を尽くそうとしたといわれる。

--六尺巷から遠くないところに文廟があり、そこが桐城市博物館となっている。
そこには、雍正帝が張廷玉に下賜した銅製の印鑑があり、「御賜調梅良弼」と彫られている。

 『調梅』: 宰相の代名詞
 『良弼』: 優れた補佐の意味

印鑑は、雍正帝が張廷玉が自分の肱骨の大臣であり、最も頼りになる片腕だと賞賛したものである。


雍正八(一七三〇)年、西北での紛争が勃発したため、軍機処が設置された。
張廷玉は軍機大臣に任命され、軍機処の性質、官職、職能、紀律等について、厳格な規定を制定した。
その後清末まで王朝の政治中枢となる軍機処の基礎を作り上げたのが、張廷玉だったのである。


軍機処が処理する事柄については、その大きさに関わらず、
「即日以内にすべて完結」させ、決して翌日に持ち越さないことを決めた。

時には轎(かご)の中でもまだ文書に目を通し、一切先送りにしなかった。
雍正帝は「張廷玉一日分の作業、他人なら十日かかっても終えられるとは限らない」と賞賛した。


張沢国氏はいう。
「老宰相(張英)と小宰相(張廷玉)には、今日でも最も必要とされる思想がありました。
 それが儒家の根本思想です。

 一旦朝廷の官僚となったからには、清正廉潔でなければならない、
 進退が美しくなければならない、実績がなければならない、
 常に『以天下為己任(天下が我を任じてくれた)』の言葉を忘れない……。

 これも古来より官僚たちが、追求すべき共通の理想でしょう」



昨今の中国では、一族郎党を抱き込んでの不正が汚職問題の中で最も頑固な病理となっている。

中央党校の林喆教授は、以前こう語っていた。
「ある中央紀律委員会との対談で責任者が言いました。
 汚職事件のほとんどは、最終的に一族郎党が破滅する結果が待っている、と。

 つまり昨今の汚職事件の特徴にこの『家族化』にあるということです。
 汚職官僚の背後で完全にクリーンな家庭などおよそ見つけることは困難なのです」

 
この事実に対し、王岐山は去年1月に挙行された十八回中央紀律委員会二次全会で次のように宣言している。
即ち、配偶者・子女がすべてすでに海外に移住している国家公務員への管理と監督を強化する、と。

去年十一月、中央紀律委員会サイトの公式文では、次のように通達が出た。
「新任指導者の配偶者・子女の職業、財産、海外出国等の関連事項公開制度の試行プロジェクトを推行する」

同時に指導者の個人関連事項報告の抜き取り検査・照合弁法を早急に制定し、
精査結果の報告運用と規律違反への懲罰を強化する方針が示された。

国際的にも大きく取り上げられている「裸官」取り締まりがようやく始まったと言っていい。
(裸官: 配偶者や子供を海外に移住させて、不正に蓄財した資産を国外に移したり、
  不正発覚の際には自身も国外逃亡を図る悪徳官僚のこと。
  中国には資産や家族を置かず、すぐに海外逃亡可能にしている状態が「はだか」と称される)



今年十月、中央紀律委員会と最高法院(裁判所)等の八機関の責任者による中央反腐敗協調チーム国際追逃追臓工作弁公室が発足された。
将来的にはリアルタイムの海外逃亡人員データバンクを作成、国際的な汚職摘発の法執行協力を強化するという。

これにより海外逃亡した官僚の生存空間を縮める方針だ。




――歴史を振り返ると、陳廷敬は親族の不正に遭遇した時、自ら身を隠すことを選んだ。
これに対して張氏親子は、親族に不正問題が起きないようにした。

「張英は長年、科挙試験の主試験官を務めていました。
 試験が始まると、会場に入り数ヶ月も出て来ることはできません。
 この間、家族はお粥にさえ事欠くように状態になることもありました。

 夫人の姚含章は他人に借金すること、助けを求める声を上げることを潔しとしなかったため、
 自分の首飾りを質に入れて小麦を買い、その時間を乗り切りました」
 
と前述の張英後裔、張沢国氏は説明する。


張沢国氏によると、姚含章は桐城の名門一族の出、才女でもあり詩集の著作もあったという。
前述の桐城学派の「四租」にも姚姓の人がいる。
姚家というのは、おそらく桐城では有名な名門一族だったのだろう。


ある時、隣の女中が張家に隣家の女主人の言葉を伝えにやってきた。
張家の玄関から入ると、継ぎ当てのある服を着た婦人が家事をしていたので、張家の女中かと思い、
「お宅のご夫人は、どちらですか」
と聞いた。すると、
「私ですけど、何か」
との答えが返って来たという。

--姚夫人がどれだけ倹約家だったかわかるというものである。
とても政府高官の夫人とは思えない様子だった。


東紫苑記:

つまりびた一文も汚職せず、俸禄だけで暮らせば、
大臣クラスの高官でも女房まで継ぎ当てのある服を着、宝石を質に入れて小麦を買うような生活をしないと、
凌げないような給料体系になっていたということ。
そもそもがおかしいのだ。


--その議論はここでは、これ以上はしないことにしよう。
先に進む。




張英は一時的に故郷に帰った時も、常駐する京師(北京)にあっても、
一年の経費を細心の注意で予算組みをするように家族に求めた。

それを十二に割り、毎月ごとに家計を総括。
別途に一封残して、突発の貧寒の急のために残しておいたという。
もしくは「善事のために残した」。


老宰相は毎年の誕生日にも宴席を設けなかった。
誕生日の祝いをする場合は、宴席を設けるのではなく慈善に充てた。

姚夫人が最低限の予算を算出し、毎年少しずつ貯めて充分な額になると、
服、寝具、食糧を買い、天災の年に一族の人々、ならびに社会の飢民、被災民に寄付した。

張沢国氏はいう。
「老宰相は普段から自分は倹約し、他人には吝嗇しませんでした」


張家では当初、名前に世代ごとに決まった漢字を決めていなかった。
張英の後の世代になり、族譜(家系図)を編纂する時、初めて次世代から使う漢字の韵文を決めた。
それが「聡訓伝家、先沢長存」だという。

「張英のかつての書斎が『聡訓斎』という名前でした。
 この韵文は老宰相の精神を末代まで伝えていこう、祖先の恩恵を長く、保存したい、という意味が込められています」


張英とその夫人は、自ら実践することで手本を示し、張家では善事を喜びとする気風が培われた。
「張家の子孫は、これまでに桐城に粮倉を2つ建てました。
 普段からお金を出しあい、豊作の年に米を買い貯め、倉庫に保管しておきます。
 天災、凶作の年にそれを持ち出して被災民の救済に充てるのです。

 被災民はそれを借り受け、豊作の年に返すことができます。
 どうしても返すことができなければ、それも追究しませんでした」


張廷玉は、そのような父親の家風作りの信念を受け継いだ。
ある時、殿試で雍正が答案の採点のために目を通していると、元は第五位に審査されており、
二甲に当たる文章があり、勇壮な気勢が秀逸だった。

(二甲は、科挙の最終試験で上位から四位以下、数人のグループを指す。
 一甲は、上位三位まで。二甲は四位以下、若干名。三甲はそれ以下のその他大勢を指した)


そこで一甲の第三位に順位を上げようと思った。
答案の封を取ったところ、それがなんと張廷玉の長男張若霭の答案であることがわかった。

張廷玉は事情を知ると、幾度も懇願した。
天下に人材はあまたいる、三年に一度の大試験では誰もが鼎甲(第一甲=上位三人)になりたいと願っている、
すでに高官の職にある自分の息子がさらに一甲の第三位に入り、天下の寒士の先をいけば、
なんとも心が落ち着かない、二甲に列してほしい、
一甲の栄光を天下の寒士らのために留めおきたい、と。

そこまで言われると、雍正帝も渋々張廷玉の懇願に応じるしかなかった。
その代わりに膨大な字数の長い聖諭を発し、張廷玉のかかる心意気を褒め称えたのである。

「張英の六尺巷の故事における謙譲の精神は、張廷玉にも突出して体現されています」
と張沢国氏はいう。


一方、王岐山は第十八回中央紀律委員会第四次全会でこういった。
「中華の伝統文化は、責任文化であり、徳治礼序を大切にしました。
 『孝、悌、忠、信、礼、義、廉、耻』が中華文明の遺伝子であり、国のために忠誠を尽くし、
 家のために孝行を尽くすのは、何をおいても大切にされなければなりません。

 自らの歴史文化を尊重し、文化の根脈を掌握し、その神髄を自らのものとし、
 灰汁を取り除き、優れた伝統を貫き通して高揚させ、
 家規(家庭の規定)、郷規(村の共同体の規定)、民約を整え、教化の作用を発揮しなければなりません」




王岐山は六尺巷の参観後、中央紀律委員会のサイト上に続けて二篇の文章を発表した。それが、

『徳法相依 相補而行』(徳と法を依(よ)りあわせる 互いに補い合って進むべし)
『譲人三尺又何妨—安徽桐城「六尺巷」の啓示』

である。

前者では
「近年摘発した汚職事件を見ると、人間の姿をしていない役人もその中にはいた。
 根本問題は、すべて『徳』の一文字に太原される。つまりは道徳心のかけらもないのだ。
 『為政以徳、正心修身』。

 党員・官僚は必ず歴史の教訓を今日に生かし、畏怖の心を忘れず、
 慎独慎微(周りに人がいなくても、小さなことでもおざなりにしない)、
 マナー、ルールを守らなければならない。決して法も天も忘れ果てたような大胆な行いをしてはならない」

後者では
「官僚になるには、まず人として立派でなければならない。人格の昇華には、まず修身が必要」
と述べている。


東紫苑記:

……と何やら小学校の道徳授業のような説教くさい話になっている。
『徳治政治』ですか。

日本人が読むと、何やらいい年になった大人に今さら道徳教育ですかと違和感を覚えるが、
延々と続く熱心な字句のオンパレードに、真剣さは伝わってくる。

道徳の再構築が有効な抑止力になる、と本気で考えていることだけは感じられる。



以下、記事を続ける:


『聡訓斎語』の中には、張英の言葉が多く収められている。
これは張英が自身の生涯の修身心得の総括を記した書物である。

曾国藩は『聡訓斎語』を座右の銘として肌身離さず持ち歩き、その子孫・後裔には終身の書とするよう求めたと言われる。



桐城市地方志弁公室の外には、龍眠河が見えた。
橋がかかっており、張廷玉が資金を出して町に寄付したものだという。
橋の名は『紫来橋』、またの名を『良弼橋』という。

かつてまだ桐城を城壁が取り囲んでいた時代は、城の東門から入り橋を通らなければならなかったが、
洪水になると橋がよく流された。

元代から清代に至るまでこの橋をどれだけ架け直したかわからなかった。


張廷玉は幼い頃故郷に戻った際、橋がなくて人々が苦労しているのを目の当りにした。
いつかきっとこの橋を架け直したいと心に誓ったという。

成人して政府中枢に身をおくようになったある時、
雍正帝が故郷で父親のために祠堂(ほこら)を建てるよう張廷玉に銀1万両を贈った。
祠堂は完成したが、お金は半分以上余った。

張廷玉はさらに自分でも資金を出し、一族の人々からもいくらか寄付を受け3年半をかけてこの橋を完成させた。
橋は頑丈な造りとなっており、その後本体の一部が壊れたとはいえ、
今でも基礎はその当時のまま、市民に頼りにされるインフラとなっている。









ネットからの転載。

紫来橋



権力闘争がわかれば中国がわかる ―反日も反腐敗も権力者の策謀
福島 香織
さくら舎



こちらもなかなか興味深い内容でした・・・・。
上記の当世の情勢を理解するには、とても役に立ちました・・・。


『紫禁城の月』と陳廷敬11、王岐山と陳廷敬

2016年09月14日 08時59分19秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』は、王岐山が部下らに強烈に薦めたことで中国でベスト・セラーになった。

王岐山といえば、この数年しゅうきんぺい政権のもとで
自ら先頭に立って汚職摘発に大ナタを振るう紀律委員会の書記である。

「トラからハエまで」――大物も小物もいっしょくたに汚職官僚を次々と逮捕している。

人に恨まれる役を敢えて買って出た結果、すでに幾度も暗殺の憂き目に遭っているという。
そのような状況の中で任務を遂行し続けている。


そんな自らの立場に重ね合わせ、「官たるもの、こうありたい」、
そして部下たちにも「おまえたちもこうあれ」という意味を込め、
自分と部下らを奮い立たせるための理想とした書、ということになる。



--とは、聞いていたが、具体的にどういうことなのか、
そのあたりの事情がわかるSohu(中国語のポータルサイト)の記事があった。

以下に本記事を中心に、数回にわたり中国メディアにおける王岐山と『紫禁城の月』との関係を探ってみたいと思う。


ネタバレになる部分や登場人物が錯綜する部分もあるので、私なりに順序も整理しつつまとめてみた。

本国における本書の意義、影響力を知るために少しでも助けになればと願う次第である。

王岐山の崇拝する汚職摘発の名臣:大清相国・陳廷敬(2014.12.19)









王岐山は元々、歴史専攻の出であり、若かりし日に西北大学歴史系(学科)で学んだ後、
陕西省歴史博物館の職員をしていたこともある。

歴史は興亡の鑑(かがみ)。
官僚としての評価と名声について、歴史を学んだ者ほどよくわかっている人間はいないだろう。



二〇〇七年末、王岐山が北京市市長から異動になった時、
別れの際に同僚たちに王躍文の歴史小説『大清相国』(日本語題名『紫禁城の月』)を薦めた。

小説のためフィクションはもちろんある。
しかし主人公であり、康熙年間の文淵閣大学士だった陳廷敬が、
権勢の絶頂にある大臣らを向こうに回し、幾人もの汚職官僚を摘発した
「廉政(清廉な政治)史」上、欠かすことのできない人物であることは確かなのである。

 
王岐山は数年前に陳廷敬の巡視の物語を人に薦め、
今回は張英の故居を訪れた(東紫苑記: 張英も本書の登場人物ですな。詳しくは後述)。

王岐山の注目する歴史上の名臣は、果敢に汚職を摘発するほか、
自身も勤勉かつ清廉な人物だったことがわかる。

この二つの側面が、まさに王岐山の汚職摘発の方針に沿うものだった。


北京市長から異動になる時、王岐山は同僚らに『大清相国』を推薦した。
本書では陳廷敬が地方行政を巡察するくだりに大きな部分が割かれている。


陳廷敬のキャリアを俯瞰すると、「吏治(官僚機構の管理)」に従事していた時間が極めて長いことがわかる。
吏部(人事、官僚の紀律管理を担う省庁)尚書(=大臣)を二回担い、
監察、弾劾、提案を職務とする都察院では、その長官である左都御史を二回も務めた。

中国最古の監察機構である「御史台」は、後漢の時代から始まりその長官は「御史大夫」と称されたが、
明清代になると「都察院制度」に改革された。


都察院では適当な御史を皇帝が欽点(指名)し、地方及び各部門の監察を行うことになる。
官僚の汚職・違法行為が発覚すれば、御史には直接皇帝に上奏して弾劾する権限がある。

全国の監察業務を統率し各省の主政務官僚を監督することが、陳廷敬の職務の重点であったのだ。



山西省陳廷敬研究会の副会長であり、晋城地方志弁公室に長年在籍していた研究員馬甫平氏は、こう言う。
「陳廷敬は明末に生まれ、清初に生きた人です。
 当時、山西は『程朱理学』の影響が非常に強く、必然的に陳廷敬もその影響を受けました。

 理学は数百年の発展を経て、理論上すでに完璧な体系を整えていました。
 そこで理学思想の実践を強調する理学家が多く出現したのです。

 陳廷敬も同様です。
 理学では個人の道徳観念を強調します。
 つまりは官界で清廉に振る舞うこと、汚職官僚に対して敢然と挑むことを強調しました。」



陳廷敬を語る上で「理学」との出会いは、重要である。
「理学」―― 別名:宋明理学、道学、宋学、程朱理学、性理学、朱子学、陽明学。

宋代の程顥・程頤(二程子)、朱熹が発展させた思想である。
自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、
自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に至ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。



陳廷敬は生涯、幾度か山西の実家に帰郷した。
中でも康熙元(一六六二)年、母親の病気を受けての帰郷・長期滞在では、
明代の理学大家、薛[王宣]の著作を手に入れ深くその思想に傾倒した。

京師(北京)に帰るのも忘れて長く山西に滞在しすぎた、ともいわれるほどである。




本書の中では、陳廷敬が地方に二度出向き、
現地の官僚との知恵比べの中で監察を遂行していく様子が描かれている。

--どの地方に、何を調べにいくかの詳細については本書に譲るとして、ここでは詳しくは述べない。
 



ただ史実として、陳廷敬が次のような奏文を提出した事実がある。
題名は《請厳督撫之責成疏》
--総督・巡撫職の責任の厳格化の要請

「総督」は数省の経済と軍事の最高責任者(正二品)、
「巡撫」は各省の民政の最高責任者(従二品)、
官位としては総督の方が上ながら、巡撫とは直接の主従関係にはなく、それぞれが直接皇帝の采配に従う。


つまり本奏文では地方高官の監督をきつくしろ、と言っている。
「吏治(官吏の管理)の要(かなめ)は、地方総督、巡撫等の高官の監督と責任追究の強化である。」
「上官が清廉であれば、官吏(現地で採用した下級役人)は自然と不正を働く勇気がなくなるというもの。
 上官が清廉でなければ、官吏が清廉であろうとしても逆にそれもかなわぬ。」

当時の都察院では必要な場合、特に御史を他の政府部門に駐留させるか、
または地方各省を巡視し、汚職官僚の摘発を行っていた。




これは現在の中央巡視制度と類似する部分がある。

 
二〇〇二年十一月、「党の紀律検査体制の改革と整備、巡視制度の構築と整備」が党の十六大報告に書き込まれた。

二〇〇三年八月、中央紀律委員会と中央組織部巡視組が正式に発足された。
中央巡視組は通常五年以内--つまり政府からの任期一回以内に三十一の省区市の巡視を行う。

 

二〇一二年、王岐山は中央紀律委員会書記に就任後、巡視制度を大きく変革した。
巡視組では三つの「不固定」の試行を始めたのである。


  一、巡視組長の「不固定」: 
     中央紀律委員会では独自の巡視組長の候補リストを作り、
     組長はもはや「鉄帽子」(永遠に安泰・固定された職位)ではなくなり、
     毎回そのたびごとに授権する制度に変えられた。


     中国行政体制改革研究会の副会長・汪玉凱は、
     これにより「人情の牌(パイ)」を打って物事を解決しようとする、
     巡視を受ける側の機関にとっては、「根回しが極めて難しくなる」と評論した。


   --つまり監察を受ける前にこっそりと責任者である巡視組長を接待したり、
   賄賂を贈ったり、人情に訴えたり、弱みをつかんで脅したり(ハニートラップで証拠の動画を取るなど)して、
   監察に手心を加えてもらうとか、見て見ぬ振りをしてもらうということができなくなる、という意味である。


   監察に来る巡視組長は、候補者リストの中の誰かに指名されるが、
   それが事前にわからないため、事前に手を打ちようがないのだ。


  二、巡視の地区と機関の「不固定」: 
     巡視組が「一級沈む」(現任地における行状ではなく、前任地まで遡って調査する)。
     つまり監察対象となる指導者が過去にトップを務めたことのある地方に出向き、過去の行状を調査するのである。

     さらには銀行、住宅と都市と農村建設等の部門とも協力し合い、指導者の個人情報を抜き打ち検査し報告する。


  三、巡視組と巡視対象の関係の「不固定」: 
     内部事情に詳しい関係者によると、
     王岐山は巡視組に対し、巡視方式の革新を宣言、「明察」(公然とした調査)と同時に、
     「暗訪」(覆面調査)もしなければならない、と叱咤激励したという。




以上の巡視制度の改革は、腐敗の粛清を強化した。
二年もたたぬうち、中央紀律委員会では省区市(省、自治区、直轄市の総称)三十一ケ所への常規巡視を終え、
雲南省委員会の元書記白恩培、湖北省の元副省長陳柏槐などの多くの省・部(中央省庁)レベルの幹部を逮捕した。
すべては巡視中に問題がみつかったことが逮捕のきっかけになった例である。

 
二〇一四年一月、王岐山は十八回中央紀律委員会三次全会で発表した作業報告の中で
「組織制度と方式方法の革新、専項(=特定項目)巡視の模索」を打ち出した。

「専項(=特定項目)巡視」の考えを提唱して二ヶ月以内に、
巡視組は科学技術部、復旦大学、中粮グループという三機関に対して専項(=特定項目)巡視を遂行した。

二〇一四年七月、一汽グループ(自動車製造の大型国営企業)に対する専項(=特定項目)巡視の中で、
一汽グループの元副総経理(社長)安徳武の汚職事件、
一汽大衆(フォルクスワーゲン社との合弁会社=国営企業)の副総経理(社長)李武の汚職事件等が発覚し、これを取り締まった。


二〇一四年十一月十八日、王岐山は中央巡視工作動員部署会で次のように指摘している。
即ち専項(=特定項目)巡視の要は、「専」にある。
ある特定の事、人、下属機関、プロジェクト、専門予算のついたプロジェクトに対して、
ターゲットを絞って巡視することにある、と。



--これを『大清相国』の描写に当てはめると、
陳廷敬が山東、雲南の軍政長官を取り締まったことは、
すべてある種の「専項(=特定項目)巡視」として捉えることができると本書の著者、王躍文氏はいう。


現在、中央巡視組は文化部(日本の文部省に当たる)、
中石化(=中国石油化工集団公司、大型国営企業)等の十三の機関に対して、
今年の第三ラウンド目の巡視を行っており、巡視方式はすべて専項(=特定項目)巡視の方式だという。



東紫苑記: 

……とおわかりだろうが、
本記事は陳廷敬(後半は張英も)の足跡と王岐山の足跡を交互に比べる構成になっている。

それが個人を賞賛する記事か否かは、ここではおいておいて、
つまり中国の読者は、目の前で進む汚職摘発を四百年前の出来事との共通性を踏まえながら読み進めている。
歴史小説でありながら、まるで現代の現象を見るかのようにとらえつつ……。

王岐山の激しい汚職官僚の逮捕劇を受け、マスコミではよくこんな言葉が紙面に躍った。
「ついにこれは大トラだ」
「ただのハエばかりつかまえて、ごまかすな」

すっかり流行語になっているトラとハエだが、実は陳廷敬も「大トラ」狩りにも関わったことがある。
 


康熙年間、錚々たる名臣が内閣に名を連ねたが、大臣同士の派閥が乱立、派閥闘争は熾烈を極めた。

その中で保和殿大学士・索額図(ソンゴトゥ)と武英殿大学士・明珠(ミンジュ)の間の闘争が特に激烈を極め、
互いにそれぞれの利益網を形成し牽制し合い、狂ったように汚職に勤しんだ。

二人の権勢を前にしては、官界の上も下も誰も声を上げる勇気のある者はいなかった。


……どちらの「大トラ」をどうするのか、については、本書を読んでのお楽しみ。
ここでは詳しくは述べないことにする。

すでに本書を読んでから本ブログをご覧になっている方は、「ああ、この場面ね」とわかるだろう。


 

この当時、陳廷敬はまだ文渊閣大学士のポストには昇級しておらず、
官位は二人には及ばなかったが、孤高を守り抜きどちらの派閥にも属さなかった。


これについて、馬甫平氏は次のように言う。
「陳廷敬が大トラ打倒に加担したかどうかは、史料には記載されていません。
 しかし本人の言動を通して、どういう立場を表明していたのか、推測することができます。
 それを皇帝の前で行った、ある講義の中で示唆しています」

--作者王躍文は『大清相国』(日本名『紫禁城の月』)の中でこのくだりを極めて繊細な筆遣いで描写する。

 

このエピソードは、現代の「トラ狩り」にも大いに通じるものがある。

二〇一四年七月二十九日、深刻な紀律違反の疑いのため中央政治局の元常務委員、中央政法委員会の元書記周永康に対して、
中央紀律委員会の立件審査が決定したと新華社が発表した。

周永康は元々中央最高決定層の核心メンバーであり、
中国政界で絶大な影響力を誇り、中国全土に利益ネットワークを擁する人物である。


さらには長年守られてきた「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)、
「退休即安全」(引退すればそれ以上は追究しない)の慣習がある。



東紫苑記:

「刑不上常委」については、
つい最近、友人の福島香織嬢からご自身の最新著書をいただき、そこに説明があるので、引用したい。



「中国きょうさんとうは有史以来、常に党内権力闘争を続けている。
 最大の権力闘争は文化大革命の背景でもあった毛沢東vs.劉少奇、林彪であり、
 改革開放後は、鄧小平vs.胡耀邦、趙紫陽およびその周辺の複雑な権力闘争のおかげで
 学生の民主化運動が激化し、あわやきょうさんとう体制が崩壊という事態にまでなった。

 この苦い経験を反省して鄧小平は、二度と党内を完全に分断するような、 
 指導者同士が息の根を止め合うような激しい権力闘争が起きないように
 集団指導体制という寡占独裁による合議システムを取り入れ、
 『刑不上常委』(政治局常務委員は刑事上の罪に問われない)という暗黙のルールを作った。

 『刑不上常委』とは、『刑不上大夫』という古典の言葉が元になっている。
 大夫とは周から春秋時代の貴族・特権階級に相当する地位であり、
 彼らは知識人として賢く礼を知っているので、たとえ罪を犯したとしても刑事罰に問われなかった。

 同様に、きょうさんとう貴族の政治局常務委員も、 
 党員としての礼節と智慧を持っているので、罪に問われない、というわけだ。」
 (『中国バブル崩壊の全内幕』宝島社、p185)



周永康事件への取り調べの困難は、想像を絶するものがあった。
メディアの報道によると、周永康事件の捜査の過程、王岐山は中央紀律委員会を率いて、
上から下に至るまで、海外から内地に至るまで「五大戦役」を戦い抜いたという。


  1、李春城、郭永祥等の「四川軍」直系の摘発。
  2、蒋潔敏、王永春を代表とする「石油派閥」の摘発。
  3、李東生等の公安系統官僚の摘発。
  4、冀文林、李華林を代表とする「秘書派閥」の摘発。
  5、周永康事件に関わる多数の親族メンバーの摘発。


最終的に中央紀律委員会が撤収した後、周永康は立件審査され、
「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)の慣習が、完全に打ち砕かれたのである。


中国の古い諺に「打鉄還需自身硬」(鉄を打つには、それ自身が堅くなければ、打つこともできない)
という言葉がある。


陳廷敬はその点を完璧に全うした、と王躍文氏は言う。
「汚職摘発と同時に、摘発する側も道徳的に潔癖なまでにクリーンで居続ける。
 だからこそ、汚職摘発の面で果敢に相手を取り締まることができるのです」



中国バブル崩壊の全内幕
宮崎 正弘,石 平,福島 香織
宝島社

『紫禁城の月』と陳廷敬10、陳廷敬以後の『皇城相府』

2016年09月13日 15時33分44秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
最後に皇城相府のその後の物語を紹介したいと思う。


そもそも『皇城』とは、清代でいえば紫禁城のもう一つ外をぐるりと囲む城壁のこと、
その中は紫禁城と同様に一般人が立ち入ることのできない『禁地』である。

地方の田舎町にその名がついているとは、どういうことなのか。
いくら陳廷敬が帝師だったからと言って、あまりにも僭越なのではないかと考えるのが自然である。




次のような俗説もある。

即ち、陳廷敬が母を北京に呼び寄せたいと願ったが、
年を取っての移住を億劫に思う母が同意してくれなかったため、故郷に『小北京』を作って孝行した--。

しかしこの俗説は、年代的にも無理がある。

陳廷敬の建てたのは、皇城相府の『外城』だが、その創建時期は康熙四十二(一七0三)年。
これに対して母の張氏が亡くなったのは康熙十七(一六七八)年、と遥か前である。
母親のなくなった当時、陳廷敬はまだ翰林院掌院学士兼礼部侍郎という二品官でしかなかった。

僭越なことをやらかすことができるような高官でもなかったのである。



--真相は次のようなものだ。

陳廷敬の死後、『小北京』として屋敷を自慢に思う気持ちから、村人たちは雅称として『皇城』と名付けたかった……。

しかしそれではお上の逆鱗に触れること間違いないため、仕方なく『黄城』と呼んでいた。
中国語で『黄城』と『皇城』は同音。
--ともに「huang2 cheng2 」(ホワンチョン)と読むから、せめて音だけでもあやかりたいと思ったのである。

その後清末になり、清政権の弱体化のどさくさに紛れて次第に『皇城』と名乗るようになった--ということらしい。



陳家は乾隆年間に挙人を二人輩出した後は、衰退してゆく。

前述のとおり、山西は元々科挙の合格者を多く輩出する地域というわけではない。
時代が下り政権が安定するにつれて、官界は南方勢が中心となっていく。


清末民初には、皇城相府全体が老朽化して修繕もままならない状態となる。

さらに新中国成立後は、ご多聞に漏れず政治運動の荒波にもみくちゃにされる。
壮大な資本主義の遺産として打倒の対象となり、陳氏の後裔の人々も身を縮めて生きることになった。

特に文化大革命では破壊の嵐が吹き荒れた。

康熙帝の真筆『点翰堂』の扁額は引きずりおろされてかち割られ、
陳廷敬の肖像画は跡形もなくどこかへ消えてしまい、陳廷敬の墓も暴かれた。



八十年代になってもまだ農家の石炭置き場やブタ小屋の横に置かれているものがあった。
--今、皇城相府の門楼に立つ石碑『午亭山村』の左右に置かれている康熙帝真筆の対聯である。

  春帰喬木濃蔭茂  
  秋到黄花晩節香

    春風が吹き、喬木が高く濃く茂る。
    秋霜が降り、菊の花が咲いて、その晩節が香る。


康熙帝が陳廷敬の死の一年前、康熙五十(一七一一)年に贈ったと言われる。



かつて栄光に包まれた文化の薫陶高き屋敷は、石炭を積み豚を飼うための農村の一家屋となり果てた。
--中国全土で見られた光景である。


九十年代初めでも皇城相府の『点翰堂』の建物は、まだ牛舎。
中庭を鶏がコッコと駆け回っていた。


















そんな廃屋同然だった皇城相府を現在の姿にした立役者がいる。
八十年代から三十年に渡り村のために奮闘してきた村の党委員会書記、張家勝氏だ。

張氏の家系は元々村の出身ではなかった。
祖父が河南から息子と孫を連れて移り住んできたという家の出身だ。

地元で高校を卒業する頃、ちょうど八十年代『改革開放』の黎明期が訪れた。

張氏は建設業に従事して塗装の技術を習得すると、その後は独立。
近隣の村々の家を一軒一軒営業して回り、塗装の仕事を取ってきた。
--村で最初の「万元戸」の誕生である。


その後、その人望と実力を買われてまずは村の民兵連長に選ばれた。
一九八四年、さらに村の委員会主任に選ばれて皇城村数百戸を率いる立場となった。


当時の皇城村は人口七百人余り、平均年収は一人わずか六百元(日本円で約一万円)ほどしかなかった。
どうしたら村を豊かにできるかと考えた結果、
張氏はすでに山西省のあちこちで採掘が始まっていた石炭に目をつけたのだった。

自分たちも炭鉱を開坑しようではないかと思い立ち、許認可の取得、地質調査、坑道の掘削に奔走した。
その結果、数年後には年間生産量三十万トンの炭鉱が安定稼働するようになる。
もちろん雇用などの面で村人を最優先に考慮した。
こうして村人の平均年収は一気に四千元(日本円で約六万円)を超えるようになった。



これは皇城村だけに限らず、山西省全体で起きていた現象である。

中国で「煤老板」(メイラオバン、炭鉱経営者)といえば、山西人のこと。
田舎の成り上がり者の代名詞である。

それだけ石炭は山西に富をもたらした。

ただ皇城村の違うところは、経営に積極的に乗り出したのが「村」という行政単位であり、
村の官僚が村人の権益を代表して経営に当たったことである。

こうして皇城村は、晋城界隈でトップ収入の村「首富村」として名を馳せることとなった。



一九九五年、張氏は村の共産党支部書記に就任。

この時には、村の炭鉱の年間採掘量は百三十五万トンにまで拡大、順調そのものだった。

しかし張氏の頭にあったのは、その先のことだった。
「掘り尽くしてしまったら、その後はどうすればいい?」

村の美しい田園風景は、失われてしまった。
炭鉱により村の景観が一変したのである。



そこで注目したのが、村が出した清代の高官、陳廷敬とその屋敷であった。

張氏はこの遺産をプロデュースすることに力を入れ始める。
一九九七年十二月、陽城県委員会と県政府の主催で全国の有名学者を皇城村に招待。
それまでほとんど存在が注目されていなかった陳廷敬に関するシンポジウム『清代名相・陳廷敬学術研討会』の開催にこぎつけた。



その後一九九八年から二〇〇三年までの間、村は石炭の採掘で蓄積したなけなしの資金を皇城相府の修繕に投入した。
かけた経費は合計一億元余り。

観光地として対外的に開放しつつ、徐々に進めていった。



中でもドラマ『康熙王朝』の撮影誘致が大きく貢献した。

一九九九年冬、張氏は知り合いから五十集のドラマ『康熙王朝』制作の話を耳にすると、
早速プロデューサーへの接触を試み、皇城相府を撮影ロケ地として売り込んだ。

制作側の条件は、受け入れ側も撮影のための資金を提供するというものだった。
その額二百八十万元(日本円で約四千六百万円)余り。

当時村の蓄積をすべてひっくり返しても、用意できないほどの大金だった。

当然、村の幹部以下、反対意見が多かった。
張氏はそれを一人一人説得して回り、ついに村民代表大会で資金供出の件を可決させる。

最終的には自己資金だけでは足りず、銀行から借金をしてまで用意した。


--調べてみると、『康熙王朝』の第十六集に登場するというので、動画で確認してみた。

なるほど、康熙帝を出迎える大仰な行列や調度品のセットなど、確かにかなり大がかりである。
その一部を負担したり、室内の装飾を整えたりする費用に充てられたということだろうか。



二百八十万元の大博打はどうなったか。
--壮絶、大当たりしたのである。

二〇〇一年に『康熙王朝』の放映が始まると、中国全土から観光客が皇城相府にどっと押し寄せた。

この年の観光収入は千五百万元。
一九九九年の五十倍にも当たる額だ。
もちろん二百八十万元の投資が、一年で回収できた計算になる。

二〇〇八年の入場者数は六十万人、観光収入は一億元にも迫った。


その後村ではさらなる多角経営に乗り出し、今では製薬のほか電気自動車分野にまで進出、
総資産十二億元、従業員数四千人を超えるグループ企業を作り上げた。

二〇〇八年、村人の平均年収は三万一千元(日本円で約五十一万円)に達し、村単位では山西省首位となった。
村民の八十パーセントの家庭にインターネット、自家用車があり、九十八パーセントが洋風の一戸建ての自宅に住み、
医療保険・年金の適用率百パーセントという中国の農村部では驚異的な生活レベルを実現した。


そんな「村おこし」と呼ぶには、あまりにもスケールのでかい……興しに興したり、という張家勝氏だが、
残念なことに二〇一五年十二月、交通事故で亡くなった。享年五十九歳。








この光景は、大うけ(爆)。

この二人は、銅像のコスプレ。

中国の観光地を回ったことがある人はわかるだろうが、
中国では、この手の銅像があちこちにおいてある。


昔の手作業を模したもの、昔の装束を着た人、人力車……。
皆、いっしょに並んだり、上にまたがったり、ぶら下がったり、
……かなり荒っぽいことをして、記念写真をする。

荒っぽいことをされるのは、最初から想定内だから、……だから銅製なのである!!
少々のことをされても、びくともしないくらい頑丈なもの!


それくらいの耐久性がないと、中国人の観光客相手にはご奉仕できないというものである。
……そしてこの二人はそれをパロディった、生きた人間の銅像コスプレ。

いやああ。シュールすぎて渋いわああ。
訝しげに覗き込んでいる兄ちゃんの表情も秀逸でっす(爆)。







噂の『康熙王朝』の撮影シーン。




『紫禁城の月』雑感、G20でも同じことが……

2016年09月11日 11時04分49秒 | 『紫禁城の月』雑感とメディア動向

数日前、中国の杭州で幕を閉じたG20。
中国政府が威信をかけた国際首脳会議の開催に、戒厳令さながらの規制が敷かれたことが話題になったばかりである。

そんなG20関連のニュースを読んでいて、
「お!」
と目に留まった記事があった。


数日前のダイヤモンド・オンラインの記事
「中国がG20で見せた、世界で孤立したくないという本音」
の冒頭にこんな一段が出てくるのである。


「杭州サミット期間は西湖の畔にもほとんど市民が見えなかったでしょう。
杭州市民は約1週間の有給休暇をもらっていたの。杭州の戸籍を持っていれば、
 全国どこの観光スポットに行っても入場券が無料になるというサービス付きだった。

ただ、ルックスが比較的良い市民、
 特に党や政府関係の職場で働いている人間は半ば強制的に西湖の畔を散歩するように命じられたわ。
 私もその一人」

 杭州市人民政府で働く女性幹部が私にこう語った。



こ、こんなシーン、確か『紫禁城の月』にもあったような・・・・(下巻310頁)。


・・・・つまり、来客のために「俳優」の如く、エキストラを用意し、さも自発的に散歩しているように西湖の畔を歩かせる・・・・。
しかも見目麗しさが動員の選別基準とされている・・・・。


今も昔も、官僚がやることは変わっていないということか。。。
そしていつの時代もそれに振り回される庶民の悲哀は同じ・・・。

ご自身も官僚としての経験のある作者・王老師の作品の醍醐味は、ここにあると言える。
そしてこれは、日本人作家には、なかなか描けない内容だ。
肌感覚、実体験の違いは、どうしようもない・・・。

本書は今から400年も前の1600年代の「歴史小説」ではあるが、それだけのものとして読むのは、大変もったいない!

今の中国や中国の人々の考え方を理解する上でも役に立つ、中国的エピソードが満載なのである。


中国は科挙による完全な実力主義の官僚登用が確立した宋代の時点で、史学的には「近代」に突入した、と言われる。
一定の試験を経て選抜された巨大な官僚群による、皇帝の元での「合議制」。
そしてその官僚を中央から派遣して地方を治める「中央集権」。
・・・その基本的な体制が、今でもあまり変わりがないのである。

 


 

紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 上巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所

  

紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬 下巻
東 紫苑,泉 京鹿
メディア総合研究所







皇城相府


『紫禁城の月』と陳廷敬9、(写真中心)『屯兵洞』、大学士第 点翰堂 内府 小姐院

2016年09月10日 18時18分16秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
内城を後にする前に、『屯兵洞』を見ておこうということになった。
そこで山の手の方に上る場所を探す。

  


  




内城の山の中腹にある『屯兵洞』に到着。
ここは戦乱期、家丁(下僕)らを寝泊りさせるための宿舎。

合計5階建て、125部屋を供える。いやあああ。なかなかの迫力。
戦う本気度が伝わってきますな。

部屋同士は、つながっているものもあれば、いないものもある。
また上下階は中で行き来できるようになっており、そのまま室内から城壁の最前線に出ることもできる。

最上階は、山の手の城壁の中に作られており、城外に向けて狭間(さま、防護用の銃口を突き出す穴)が開けられているそうな。
東側の城壁は山の中腹にあり、敵がもし裏山から攻めてきて山の頂上から石や弓矢を降らせてきた場合は、非常に不利になる。

そのため山側の城壁には瓦屋根がついた構造になっていたという。
石や矢が降ってきても、直接戦う兵士に当たることがないように。


もちろん平和な時代が続くうちにそれはもはや必要なくなり、
朽ち果てた後は再建することはもうなかったのか、今はもうすっかりその姿はない。


   


      


ここでいったん、内城から出る。内城と外城の間の通路を歩いていると、
演目を終了させた役者の皆さんのお帰りに出くわした。









実は朝9時だかに、入り口の駐車場前の広場で「康熙帝のお成り」を再現した「皇帝行列」の演目が催されていた。
それがみたい気もしたが、この日は午後からも回る場所が目白押し、
ゆっくりばかりもしてはいられない、ということで、泣く泣くあきらめたのであった。

またこの演目が終われば、観光客がどっと城内に入ってきて一気に芋を洗うような大混雑になるだろうことが予測された。

したがって「鬼のいぬ間に洗濯」とばかりに、
行列の出し物の大音響を遥か遠くに聞きつつ、我々は、見物に明け暮れていたわけである。

よくよく写真を見ていただければわかるが、行列の官吏の服を着ているのは、ほとんどおばさんである(笑)。
重要な、皇帝の役などのみに、プロの役者さんを呼んでいる。

官帽を目深にかぶり、衣装をぶかぶかに着て体型をごまかしている。

働き盛りの男性は皆、都会に出稼ぎに出ており、中高年女性の方が集まりやすいということなのだろうか。
とにかく地域の雇用に貢献しているようで、けっこうなことかと思う(笑)。


  


  

道中の門構え一つとっても、どれも贅を凝らした彫刻が施してあり、ため息が出るわいな。
内城の北側を出たところで、外城の北側に少しだけ入る。











陳廷敬の功績の一つである、通貨制度の整備について、人形を使ったモチーフが展示されている。
このあたりの経緯については、『紫禁城の月 大清相国…』の中で生き生きと描かれており、
「おお。これですかい」と興味深々である。


さて。
ここで入り口近くまで戻り、外城の入り口に行くことにする。

……というか、実は何も考えずに夢中で突進して行ったので、外城から先にまわってしまったのだが、
本ブログでは、建築の年代順に追っていく、というコンセプト上、ここでようやく外城登場っす。




外城は、陳廷敬の時代に新たに作られた区域である。
平和な康熙年間後半、--康熙38-42年(1699-1703)。


戦争の心配のない時代に作られたため、防衛については形式程度にとどめ贅を尽くした造りになっている。




  

この門構えを見ただけでも、ゴージャスではないですかー。
陳廷敬のほかにも、兄弟7人が外地に官僚として勤め、せっせせっせと稼ぎを実家に持ち帰ってきた。

その後裔らも清代中期まではぼちぼち高級官僚を輩出、その他にも製鉄稼業で利益を出しているのだ。



大学士第『総憲府』。




別名『冢宰府』。


「冢宰」とは、宰相の別名。
つまりは宰相にまで登り詰めた陳廷敬の邸宅、の意。


一方「総憲」は、都察院左都御史の別名。
つまりは不正の告発官、悪と戦う正義の味方を象徴する呼び名。

陳廷敬本人としては、そういう自負を持って自宅を名付けたということになる。


  














  

入り口を入って最初の建物が、『点翰堂』。

掛かっている扁額の文字は、康熙帝の真筆と言われる。
長年、科挙の採点官を務めてきた陳廷敬のことを表現した。

康熙帝は洛陽へ行く道中、当時、服喪して故郷に帰っていた陳廷敬の邸宅に滞在したという。

『点翰堂』は、康熙帝が地元の官僚たちを謁見したり、旅の道中、日常政務をこなすための事務所として使われた。
その状態をそのまま保存している。




こちらの文字も、康熙帝の真筆。












陳廷敬が公務で出かける時に組んだ行列に使う各種道具ですな。









東側の部屋。


『点翰堂』から東を見ると、みごとな石刻のアーチ門が見えたので、
思わず誘われるように、そちらの方向にふらふらと向かう。
地図でいう『東花園』になりますな。


  <





  



  













北京の遺跡では、めったに見られないようなゴージャス、彫刻てんこ盛りな石刻を見て、
テンション上がりまくりでっす。


次に再び、『点翰堂』に戻り、さらに奥を進んで行く。
次の建物は、『内府』と呼ばれるエリア。


康熙帝の滞在時の生活空間となったところである。













北側の建物は、展示場になっている。
陳廷敬直筆の書状が残っている。






  





康熙帝の肖像画が、かかっているが、
ここがかつては大臣と政務の相談をする場所だったという。

康熙帝が去ってからも、そのままの状態で保存した。








次に、西の方にある『小姐院』に向かう。







  

『小姐院』は、陳家の未婚女性たちが暮らした場所である。
男性たちの目に触れないようにするために、ここから出ることは許されなかった。


正面の二階建ての建物に令嬢たちが住まい、東西の平屋には、女中たちが控えていたという。


女性たちのしつけを表すいくつかの表現がある。


  行不揺頭: 歩くときに頭を揺らさない。
  笑不露歯: 笑うときに歯を見せない。
  立不依門: 立つときに門にもたれかからない。
  座不顕膝: 座ったときに膝を見せない。

……本当のお嬢様というのは、立ち振る舞いも美しかったのだろう。

そのほかにも将来息子の科挙受験の勉強を見たり、夫と教養高い話のやり取りもできるよう、
男性と同じ儒教の古典の教養も教育された。




















女性たちの刺繍


  







『小姐院』の南側には、庭園が広がる。
屋敷の外には一歩も出られない女性たちにとって、ここが唯一、散歩できる場所だったのだろう。








陳廷敬の孫にあたる陳静淵という女性がいた。
陳廷敬の長男・陳豫朋の長女である。士大夫の家に生まれ、幼い頃から儒教的古典の薫陶を受けて育ち
長じてからは父親同士が友人関係にあった衛封沛の元に嫁いだ。


夫は科挙の初期段階に合格して貢生の資格を持ち、
二人の間には、息子が一人生まれた。

ところが、不幸にも夫はまもなく早逝。
やむなく息子を連れて実家に戻ってきた。

『小姐院』は未婚の若い娘が住む場所、
そのほかの各屋敷も、それぞれの家族が暮らしており、その家の男性がいるわけである。


このため、当時の習慣では、出戻った女性が他の家族と長く同じ屋根の下に住むことは好ましくないとされた。
……そのようなわけで、陳静淵が住まいにしたのは、止園の中の書堂であった。
(『止園』などの庭園は、残念ながら、カメラのトラブルで撮影していません)(号泣)


帰ってきてからも、憂いと病いに苛まれて、床に臥すことが多く、
結局、幼い息子をおいて、わずか23歳でこの世を去ってしまったのである。

まさに牢獄の中で過ごすかのように、限られた人間としか接触することが許されず、
移動の自由もなかった当時の女性というのは、生きる張り合いのようなものが、見いだせない人も多かったのだろうか。

いつも不思議に思っていたのは、康熙帝や乾隆帝の娘たち、--公主らの短命さである。

衣食足り、栄養不足には断じて思えないし、適切な医療が行けられなかったわけでもないだろうに、
なぜこんなに若くて死ぬねん、という疑問である。


康熙帝の成人した公主8人のうち、9女(20歳)、10女(26歳)、13女(23歳)、15女(19歳)の半分が若死に。
乾隆帝の成人した公主6人のうち、4女(23歳)、7女(20歳)、9女(23歳)、養女(26歳)、と実に4人が若死に。


その理由は、陳静淵と同じだったのかもしれない。
社会との関わりが持てず、生きる意味を見いだせなくなったことか。




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『紫禁城の月』と陳廷敬8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院

2016年09月08日 12時05分56秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
内城を入って右手(南側)に見えるのが、『御史府』である。
陳廷敬の叔父・陳昌言の邸宅。進士に及第し、江南学政まで務めた人物である。

元々の名前は『中和居』と言ったが、
陳昌言が浙江道監察御史になって以来『御史府」と呼びならわされるようになった。


   


  

『台諌清風』は、邸宅の主人を表現する。
「台諌」は、諸官僚の行状を監視し、告発することを任務とする「御史」という官職の別名。

つまりは、他人の不正を告発する「御史」自身が汚職をしていたのでは埒が明かないわけで、
「御史」というのは、まず自らもが清廉潔白な人でなければ世間が納得しない。

「御史」というのは、清廉潔白の代名詞のような存在であり、
事実この邸宅の主人・陳昌言も世間からそのような評判を得ていたと主張する四文字である。


  



  




その間取りは、弟・陳昌期の『世徳院』とまったく同じ。兄弟二人の住居が、対を成す形になっているという。





現在、『御史府』は、「陽城生鉄冶鋳技術展覧館」として、展示されている。
陳家の家業であり、陽城一帯の主要産業だった鋳鉄技術に関する展示がされているということらしい。




お! 展示されているのは、今、中国人の爆買い必須アイテム、鉄瓶ではないですかー!

爆買いブームを受けて、鋳鉄の産地・澤州でも生産を始めたということですねー。

ルクルーゼ式の琺瑯コーティングの鉄なべ、ダッチオーブン式の鉄肌露出型の鍋、いろいろ揃っていますねー。
日本で売られている100スキやニトスキなんかは、すべて中国産なわけだから、
この『澤州鉄器』も日本に輸出されているのかもしれないですなー。





  




その昔の鋳鉄の工法が、パネル式に説明されていますな。





外では、大音量の民族風音楽に合わせて、機織りのパフォーマンス、進行中。



内城の北側のエリアに行くと、『河山楼」が登場。
写真は、以下の過去記事と重複しますー。
あしからず。

また建設の経緯も以下の過去記事のとおり。

陳廷敬と皇城相府2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる  





  


    

売店にされてしまっています・・・。




『河山楼』の麓には、お酒の量り売りのお店も。




実は、ここのお店の話は、前日、陽城市内の同じようなお酒の量り売りのお店で聞いていました。

過去記事・定州12・明の城壁の最後でも触れている通り、
田舎町の甕入りの量り売りのお店というのは、偽物が少なく、安くてめっぽうおいしいものが多いものなのだ。

地元の、本物ののんべえしか買いに来ない、化粧箱もへったくれもあったものじゃない、
ペットボトルにギイコギイコと汲み上げるだけの酒に偽があれば、すぐにバレるというもの。

そんなわけで、こんな佇まいのお店を見つけたら、まずは入ってみたくなる。


    

中に入ると、案の定、甕が並んでる並んでる。  





  

しかもここは山西省。それぞれの甕のお酒の名前を聞いていくと、有名な名前のオンパレードー!!
竹葉青酒、杏花村、[さんずい+分]酒、などなど、どこぞの唐詩で聞いたことがある名前がずらり。

しかもお値段は、1斤6元から。
そして味もまた、値段に不釣り合いなくらいレベルが高い!

・・・とまたしこたまさまざまな種類を買いこんでしまったのである。
名声にたがわず、その味は前回、定州で買った地酒よりもずっとレベルが高かった!

皆、うまいお酒ですわ!
このお店の主人が、言っていたのだ。

「皇城相府はもう行ったか? え? 明日行く? 
 それなら、中で同じように甕の測り売りをしている店があるから、見てみたらいいよ。 
 あそこのお酒は、うちから出しているけど、値段は3-4倍はするからね。」

……というわけで、ああ、このお店のことでしたか、と合点が行ったわけである。
もちろん皇城相府の中なので、そりゃあテナント代もうんと取られているんでしょうから、
当然といえば、当然の話ではないか。

ご商売、ご苦労様です!

……と酒の話ばかりしている場合ではない。

『河山楼]からどんどん進んで行きましょう。
西北方向に進んで行くと、『麒麟院』に抜けることができる。


  







またまた立派な日本語つきの説明。
『麒麟院』は、陳廷敬の祖父・陳経済の邸宅だったところである。

しかしその後は、北門に近いため、車馬の出入りに便利だという理由で、車馬の「駐車場」にされた。
馬やロバ、牛などの使役畜を麒麟に見立て、敷地内の装飾に多く取り入れたことから、この名がついた。











  

『麒麟院』から東=山側を見やると、上まで続く階段が見える。




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『紫禁城の月』と陳廷敬7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院

2016年09月07日 07時21分25秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬



陳廷敬が、科挙の試験を受けに故郷を出て行った時、完成していた部分は、この「内城」の部分である。
ここが明末の動乱の際、最初に城壁で囲んだ部分である。

陳廷敬の叔父・陳昌言が『斗築可居』(住みながら、戦うことのできる住居)と名付けた。  


  

これがその『斗築可居』の入り口。門の上にその四文字が並ぶ。
創建当時は、ここが敵を出迎える最前線だったわけで、直立に切り立った壁が敵を寄せ付けない。  



  





そしてこの鉄板の張り付けようの気合いの入っていること!!
実戦やる気満々感が、あふれております!
ハンパないです!かっこいいー!!

・・・と鉄鋲に見惚れている場合じゃない。

内城の中に入ると、細い通路がまっすぐ続き、その突き当りに陳家の祠堂がある。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の中でも、
陳廷敬が実家から出発する前に家祠でご先祖様に供養を捧げてから出発する場面が出てくるが、それがここですな。


  



祠(ほこら)の前の狛犬さん。一般的によく見る、丸々とした狛犬さんより、スリムで珍しいフォルムだわ。
宗祠の中も四方を建物で囲んだ形式になっている。





  

















ご先祖さまの位牌がずらり。





祠の西北にあるのが、「容山公府」。
陳廷敬のご先祖様の一人、陳天祐の屋敷

陳天祐は、明の嘉靖年間の進士。
陕西按察副使まで務めた。
陳家で最初に進士に及第した人である。





  
  
  

康熙帝直筆の扁額。

陳廷敬が北京で康熙帝より賜った書を扁額に仕立てて故郷の邸宅に飾ったものである。


次に祠から見て東南にあるのが、『世徳院』。
陳廷敬の生家。

つまりは父・陳昌期の住まいだった院である。
創建は明の中期、大体、明の嘉靖年間から万暦年間といわれる。




   


一応、日本語の説明がすべてに入っているのが、すごい!
ここに日本人が一体、どれだけ来たことがあるのだろうか……



三階建ての主楼はなかなかの迫力。




一階が生活部分。二階は蔵書楼。三階は印刷刻版を保存しているために印書楼というそうな。









  


これが陳昌期の生活空間であり、陳廷敬もここで生まれたということでしょうなああ。











お庭では、手仕事のパフォーマンスが。靴底に刺繍を施したりしている。








最も南側の端。
も、ものすごい細い隙間じゃ



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『紫禁城の月』と陳廷敬6、時代背景の理解に

2016年09月06日 07時58分39秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』にまつわる連載が続いていますが、
本書の理解の参考になるのではないか、と思われる本ブログの過去記事を紹介したいと思いますー。


1、河北・定州2、貢院
 
 本書では、科挙受験の描写が詳しく登場しますが、
 地方の貢院がそのまま保存されている貴重な場所です。

 本書の本体の表紙に採用された貢院の写真もここで撮影しましたー。

 本書の中でもたびたび登場する「考藍」(受験生が試験場に持ち込む食糧や文物四宝を入れる竹籠)、
 カンニング・チョッキ(!!)、当時の受験生の実際の試験答案、答案を学政が採点した後の様子、
 史書の中の科挙合格者のページ(ずらりと見事に浙江、江南、江西の長江デルタ地帯の出身者が上位を占める!)
 などの実物があります。

 本書に出てくる科挙受験シーンを読む時、その光景を想像するための一助になれば、と思いますー。


2、清代、轎(かご)のお話

 これはこのシリーズ全体を読んでいただきたいですねー。
 本書を訳している途中、轎の話がよく登場するので、それを踏まえて調べ始めたものなので。

 特に「1、正陽門前の大渋滞」は、陳廷敬が毎日、出仕する時の様子を連想できるものかと思います。
 実際に引用している王士禎は、陳廷敬と完全に同時代の人。

 陳廷敬と詩才を争ったといわれる人物です。
 同じ漢族の科挙出身の進士キャリア組でもありますし。

 つまり、出勤の風景は、よく似たようなものだったと思われます。

  
3、清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

 本書の後半に出てくる康熙帝の太子と康熙帝の微妙な関係・・・。
 康熙帝の皇子らによるガチンコの後継者争いを踏まえた内容ですな・・・。

 その30人近くいた康熙帝の息子たちは、最終的にどうなったのか・・・・。
 その気になるところを一挙にまとめてみましたー。


4、和[王申]少年物語

 まだ連載途中ですが、和[王申]の生い立ちの時代背景を探るシリーズ。
 和[王申]は、本書よりやや時代の下った、乾隆帝(康熙帝の孫)の時代の人ですが、
 それでも清朝という時代の理解には、いくらかは役に立つのではないか、と思われます。

 満州族の中堅世襲家系の若者、満州族の通婚関係など。。。





『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』  上下巻 メディア総合研究所








山西晋城・皇城相府。陳廷敬の生家。

『紫禁城の月』と陳廷敬5、わずか19歳で進士に

2016年09月05日 14時20分16秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
前述のとおり、陳廷敬は明の崇禎十一年(一六三八)生まれ。
幼少の頃から、神童の誉れが高かった。

 
陳廷敬九歳の時の詩が伝わる。

『牡丹詩』

 牡丹後春開
 梅花先春[土斥]

 要使物皆春
 須教春恨釈

    牡丹の花は、春が終わってから咲き、
    梅の花は、春が始まる前に咲く。

  牡丹が最後に咲くのは、そのあでやかさで万物を皆、春にさせ、
  花たちのすべての春の恨みを解き放たんがため。


……子供が詠んだとは思えないような妖艶な詩である。


詩作は塾で出された課題だったともいう。
また牡丹が満開だった時期、父の陳昌期が近隣の士大夫仲間を集めて庭園で宴席を設けた際、
大人たちが陳廷敬をからかい課題を与えたところ、上記の詩を詠んだともいう。

ほどなく塾の先生が、もう自分の手には負えないと去っていった。
父陳昌期は兄の子陳元に教えさせることにした。

陳廷敬の六歳年上のいとこに当たる。

陳元の父親である陳昌言は、崇禎七年(一六五九)に進士に及第して以来、
直隷楽亭知県から始まり江南学政を歴任するまでの高級官僚としてのキャリアに邁進していた。

進士となって以来故郷で過ごすことはほとんどなく、妻子を実家に残して赴任地での生活を送っていた。

陳昌期はそのような兄の子供たちの父親代わりになり、陳家を守っていたのである。
こうして陳廷敬は、いとこの兄と父親の薫陶を受けて勉学に励んだ。


順治八年(一六五一)、陽城界隈から挙人を十人も輩出したため、
「十鳳重鳴」と言って地元が大喜びしたことは前述のとおりである。

陳元はその「十鳳重鳴」の一人として挙人に及第している。

しかしまもなく陳廷敬はこの兄をも、そして父親をも追い抜き、真っ先に進士に及第することになる。

陳元は順治八年(一六五一)に挙人に及第したものの、
進士に及第したのは弟分の陳廷敬に遅れること二年経った順治十六年(一六五九)、陳元二十六歳の年だった。

陳元もそのまま翰林院庶吉士となったが、惜しいことにわずか三十一歳で早逝する。



それは後の話である。

順治八年(一六五一)、十三歳の年に陳廷敬は父の陳昌期とともに秀才の試験を受けにいった。
四十六歳の父もまだ科挙への応試をあきらめていなかったのである。

ところがこれまで厳しく勉強を教え込んできた父が受からず、若干十三歳の息子が合格して秀才の資格を得た。
その後、陳廷敬は順治十四年(一六五七)に郷試に及第して挙人となり、
そのまま翌年の会試にも及第 わずか十九歳で進士となったのである。




  

  皇城相府


陳廷敬の少年時代に関するエピソードが伝わる。


一つは柿の葉に関する話だ。

幼い頃より神童の誉れ高かった陳廷敬は、勉強と作詩に関しては申し分なかったが、
書にはあまり自信がなかった。

せっかくの名詩も力強く美しい文字で書かなければ、台無しになるというものである。


ところがある日、父親の陳昌期が久しぶりに息子が持ってきた自作の詩を見たところ、
見事な書の上達ぶりに驚いた。

問い正すと、庭に柿の木があったので柿の葉の裏に文字を書いて練習したのだという。

葉裏には繊毛がびっしりと生えており、墨がなかなか乗らない。

筆に着実に力を入れないと、繊毛の向こう側にある葉の本体まで墨が届かないのである。


その結果、筆に力を入れて書く訓練になり、
男性らしく生命力を感じさせる文字を書けるようになった。



  

  皇城相府 城壁の最上部にある祠。



陳廷敬の抜群の記憶力に関するエピソードもいくつか伝わる。

清初の中国の人口は六千五百万人ほどだったと言われるが、
その中で科挙の最高峰である進士に及第できるのは四年に一度、わずか二百人から三百人ほどである。
(この時期は人材不足のため、一時期だけ四百人単位で採用していたとはいえ)

現代の日本と比較しても、日本の総人口一億二千万人に対して毎年の東大合格者数は三千人。
「進士」の枠はそれよりずっと狭いのだ。

一生受験勉強に励んでもめったに合格できるものではない難関に若干十九歳で合格してしまった人である。
これくらい超人的な話を聞かないと、納得行かないというものだ(笑)。


十五歳の時だった。
ある時、陳廷敬は街を散策し何気なくある薬屋に入った。
番頭と雑談になったので、話をしつつ台の上にちょうどあった店の帳簿をパラパラとめくっていた。

最後までめくり終えると、帳簿を閉じ台の隅に寄せて話を続けた。

そこで突然表の扉が開き、客が入って来た。
扉が開いた瞬間の空気の流れで突風が起きたかと思うと、帳簿が吹き飛ばされ、
ちょうどそばにあった火炉(ストーブ)の中に落ちてしまった。

慌てふためいた番頭が即座に火の中から救い出したが、なんと帳簿は2/3ほども燃えてしまっていた。
番頭は狼狽して店の中をうろうろと歩き回るのみである。

それを見て気の毒に思った陳廷敬が、
「ご心配なく。私が書き出しましょう」
というではないか。

番頭が驚いて聞いた。
「え。帳簿一冊分ですよ」
「ええ。先ほど一通り目を通したので、たぶん再現できると思います」

そうして書き出された帳簿は、燃える前のものと本当に寸分違わぬ内容だったとか。



 

  皇城相府 



また次のような話もある。

前述のとおり、陳廷敬は十五歳で結婚した。

ある日、妻の王氏は陳廷敬が外で「天下の書は読み尽くした」と大言壮語していると伝え聞いた。
王氏はそれを聞きとがめて夫に意見する。

「古今の書物がどれだけあるか、誰にもわからないのですから、
『読み尽くした』なんていい加減なことをいうのは、どうかと思いますよ。
 例えば皇暦ひとつにしてもあなた、読んだことがありますか」

陳廷敬はそう言われ、それもそうだと納得した。


皇暦はつまりは朝廷の欽天監が発行するその年の正しい暦である。
天文学的な動き、二十四時節などの季節の節目のほかにも縁起のいい方角、禁忌内容なども書かれている。

政府が独占で印刷・発行・発売するため、民間で印刷することは長らく禁止されていた。
元代、皇暦の販売で得られる収入が国家収入の千分の五ほどにもなったという。
……という中国文明の歴史が始まって以来、綿々と続く暦の記録である。

その歴代の皇暦を陳廷敬はどこからか手に入れ、丸々すべてを暗記したのである。

後年、陳廷敬は進士に及第し順治帝の御前に上がることになった。

順治帝がどこからか
「陳廷敬は皇暦をすべて暗記しているらしい」
という噂を聞きつけたらしく当てずっぽうにある年を口にし、その年の皇暦を言ってみよと命じた。

すると陳廷敬は一字一句も違わず、すらすらとよどみなく暗誦した……と伝えられる。



まるで聖徳太子がいっぺんに七人の話を聞きわけたとか、
弘法大師が両手で鏡文字と正文字を同時に書いたとか、
その類の都市伝説的な匂いがするエピソードではある……(笑)。


しかし世の中には黙っていても頭の中に情報が焼きついてしまうような天才体質の人がいるのは、
なんとなくわからないでもない。

科挙に及第する人というのは、こういうタイプなのだなあと
つくづく実感できる話ではないか。


  

  皇城相府 



陳廷敬は順治十五年(一六五八)、北京へ会試の受験に向かう。

その際の道中のエピソードが残っている。

山西から驢馬車に乗って出発し河南に入ったところで、
先方に大型の轎(かご)とそれに続くいくつかの小型轎の行列に出くわした。

どうやらえらいお大尽さまの行列に出くわしたようである。

御者が陳廷敬に
「追い越すのは、不敬に当たりますから、このまま後ろをついて行くしかありません」
と声をかけた。

それを聞いた陳廷敬は血気盛んな年齢に加え、神童と呼ばれ続けて恐れを知らぬ性格もあり、
「天下の大道を、誰が通ってはいけないと言った? かまわないから追い越しなさい」
と命じた。

御者が驢馬に鞭を当てて轎行列を追い越そうとすると、
「どこの不届き者がふてえことをしようとしている?!」
と一喝する声が鋭く響き渡った。

さらには屈強なる武者が数人、肩を怒らせてやってきた。
さすがの高慢な若者もこれには、まずいことになったとうろたえ思わず答えた。
「山西の陳敬がここにいる」
と。

その名を用心棒どもが大轎に乗ったお大尽に報告に行った。
それはある武官のお偉方の行列だったのである。

なんと山西の神童陳敬かと相手はその名を知っており、
たちまち笑顔で轎から降りてくると、自ら挨拶をした上、宴席まで設けたのである。
 

宴もたけなわとなったところで、
武官はその神童の名声たるや如何ばかりやと試してみたくなり、詩のかけ合いを誘いかけた。


  両輪並進      両輪を並べて進んでも
  輪速不及轎快   その速さが轎に及ばないとはどういうことだ


陳廷敬の頭には、早くもその返句が浮かんだ。


  八爪斉下      8つの脚が揃って地面を這って進めば、
  輪速哪及轎速   車輪は、いくらなんでも轎よりは早いはず。


つまり驢馬車のくせして轎より遅いとは何事、
とお大尽の地位を慮って敢えて追い越そうとしなかったこちらの配慮も無視して嫌味な句をひっかけた。

すると陳廷敬の方も「八本の脚」、--つまり一つの轎を背負う轎夫四人の脚八本を揶揄、
いくら地面に這いつくばっても車輪の速さには勝てるはずがない、と皮肉を返したのである。


陳廷敬のみごとな瞬発力に満座の人々が、ぐうの音も出なかったとさ、
……というこれまた都市伝説のようなエピソードである。











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『紫禁城の月』と陳廷敬4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻

2016年09月04日 07時30分08秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

陳家では、明の中期から徐々に政府高官を輩出し、
陳廷敬に至るまでに百年単位の伝統を築き上げていた。

皇城相府の入口を入ってすぐの牌楼、--大牌楼と小牌楼(奥)にその功績が連ねられている。


 大牌楼: 陳廷敬世代以後の功績
 小牌楼: 陳廷敬までの功績



  

  皇城相府のゲートを入ってすぐにまず飛び込んでくる大牌楼。








  一番下に「陳廷敬」の文字が確認できる。




 


裏側から見た様子。文字の内容は、表が最高官職名。裏が科挙の合格記録(功名)。






遠くの方に見えるのが、小牌楼。
  


まずは奥の小牌楼に書かれて名前を見て行こう。


合計六人。

 陕西漢中府西郷県尉・陳秀     :陳廷敬から六代前の祖先。明の正統年間(一四三九-一四四九)あたりのことかと思われる。
 直隷大名府滑県県尉・陳[王玉]   :陳秀の息子。明の弘治・正徳年間(一四八八-一五二一)あたりか。
 嘉靖甲辰科進士・陳天裕      :陳[王玉]の息子。陕西按察副使等を歴任。
 万暦乙酉科挙人・陳所知      :陳天裕の孫。虞城知県等を歴任。
 儒林郎浙江同監察御史・陳昌言   :陳廷敬の叔父(父の兄)。明の崇禎七(一六三四)年の進士。
 順治丁酉科挙人・陳廷敬

ええー。上記の内容は、書かれた文字のとおりではないので、あしからず。
本来は表に生涯での最高官職。裏に功名(科挙の合格記録。進士なのか、挙人なのか、貢生なのかと言ったこと)が書かれている。
しかし写真が遠すぎて文字が判別できないので、とりあえず手に入った情報内で概要だけ……。

とにかく陳廷敬の六代前始祖の陳秀が下っ端役人になってから丸々二百年かけて、
ようやく宰相となるような人材を一族から輩出したことがわかる。


この小牌楼が作られたのは、清の順治十四(一六五七)年。
つまりは陳廷敬が地元の郷試で挙人に及第した時に作られたものである。

この直後に陳廷敬は引き続き都に上って会試を受け、若干十九歳で見事に進士にも及第し、出世街道をまっしぐらに進む。
ところが地元では挙人に合格しただけで、家では牌楼をおっ立てるこのフィーバーぶりだったことが伺える(笑)。



ご先祖様の軌跡は次回に詳しく見て行くこととして、
次に入口の大牌楼の方の内容を先に見ておこう。

これは康熙三十八(一六九九)年、皇帝の詔を受けて陳廷敬が建てたものだ。
真ん中の列の一番上には、「冢宰総憲」の四文字。


冢宰: 宰相の別称。百官の長。
総憲: 都察院左都御史の別称。官僚の不正有無を監督する都察院の長官が左都御史。
    陳廷敬が任命された官職の一つ。
    正義の人だったことを示す。


その下には、陳廷敬の曽祖父・陳三楽、祖父・陳経済、父・陳昌期に対し、
陳廷敬の功績を受けて朝廷から死後に追封された名誉職の名前がずらりと並ぶ。



牌楼の左右各列は陳廷敬が吏部尚書(人事部門の大臣)に昇級した時点での
兄弟、子供、甥たちの功名が羅列されている。


左: 

 己亥科賜進士翰林院庶吉士・陳元         : 陳廷敬のいとこ。父の兄(陳昌言)の子。
 壬子抜貢国子監正候候補行人司司副・陳廷継    : 陳廷敬の二弟。
 候選知県改補府同知」陳廷愫           : 陳廷敬の四弟。
 征仕郎広東廉州府欽州州判候補知県・陳廷[戸衣]  : 陳廷敬の五弟。
 奉直大夫警部湖広清吏司郎中
  改兵部武庫清吏司郎中加一級・陳廷統      : 陳廷敬の六弟。


右:

 湖広岳州府臨湘県知県・陳廷弼          : 陳廷敬の七弟。
 甲子科挙人揀選知県」陳廷翰           : 陳廷敬の八弟。
 江南淮安府邳睢霊壁河務同知加一級:陳謙吉    : 陳廷敬の長男。
 甲戌科会魁賜二甲第十二名進士
        翰林院庶吉士・陳豫朋       : 陳廷敬の次男。
 丁丑会魁賜二甲第八名進士
        翰林院庶吉士・陳壮履       : 陳廷敬の三男。
    


陳廷敬の兄弟、子供たちのほとんどが官僚となり、各地で活躍していたことがわかる。


一族の男たちは、現役中は政府に命じられるまま都や赴任先の地方を転々とするが、
どこかに根を下ろそうという気持ちはさらさらない。


余剰資産は赴任先からせっせせっせと故郷に運び、引退すれば故郷で余生を過ごした。

そのような数百年、連綿と続けられた「送金」によりこの荘厳な都市の如き大屋敷が出来上がったのである。

 

 

 

さて。
ようやく陳廷敬本人の生い立ちの話ができるところまでたどり着いた(笑)。

陳廷敬は明の崇禎十一(一六三八)年生まれ、父陳昌期の八男四女の中の長子である。
父陳昌期は生涯に二妻三妾を娶った。
 

父の一人目の妻李氏は、陽城県白巷里の人。
現地の素封家の娘だったが、子も産まぬままに早逝した。
 
二人目の妻張氏が、陳廷敬の生母である。
陳廷敬を筆頭に六男三女を生む。
陳昌期の子供の四分の三3は張氏の出による。

九人も子供が生まれていれば、いくらほかに妾がいても
もう「私ももうお産は勘弁してほしいから、替わりにお勤めしてちょうだい」という域というものである(笑)。

絆の深い夫婦だったと想像することができる。
 

張氏は沁水県(やや西に位置する附近の県)の出身。
明の万暦年間の進士張之屏の孫娘、挙人で直隷威県の知県張洪翼の娘だ。

また母方では、明の万暦年間の高官だった王国光の孫娘にも当たる。
(陽城の城壁を建てた人物としてこのブログでも紹介したとおり)
陽城界隈の有力家系の流れを存分に汲み、自身も高い教養を身につけた女性である。

 

このように同じレベルの家柄同士で通婚がなされていたこと、
女性も高い教養をもち、子弟の教育に貢献していたことが窺える。

また完全なお見合い結婚というか、ほとんど本人の好き嫌いのわがままは通らぬほどの政略結婚でもあったろうが、
九人も子供を成すのだから、それなりに心の通い合った結婚だったのではないだろうか。



皇城相府



次に陳廷敬の兄弟の軌跡である。


 長男: 陳廷敬

 次男: 陳廷継
   以下を見たらわかるとおり、残りの兄弟は全員、中国全土に出払っており、数年に一度も帰って来れないような状況である。
   誰か一人くらいは両親のもとに残らねばならぬと覚悟を決めたらしい。
   このため敢えて官僚にはならず、実家で親に仕え家業を守った。

 三男: 陳廷[草かんむり+尽]
   妾程氏の腹。州の稟生。稟生は生員の中の優秀者。十九歳で夭折。

 四男: 陳廷[りっしんべん+素]
   貢生。武安知県。「陳青天」と呼ばれ、民に慕われた。
   「青天」は、北宋の包青天。大岡越前のような存在。正義の味方、よき役人の見本のような人物をいう。

 五男: 陳廷[戸の下に衣]
   妾程氏の腹。貢生。太原・平陽訓導、広東欽州僉判、湖広鄖陽通判、羅定知州などを歴任。

 六男: 陳廷統
   貢生。湖広民沅靖道、福建延建邵道を歴任

 七男: 陳廷弼
  貢生。臨江知県。[さんずい+豊]知州、粤東糧駅道を歴任。

 八男: 陳廷翰
  挙人。知県に任命されるも、赴任しないうちに三十三歳で死去。


こうして見ると、八男の陳廷翰が自力で挙人に及第しているほかは皆、貢生である。

つまりは科挙のごく初期段階の称号である「秀才」の中から選抜された者、という名目。

時代によっては、その程度の資格では下っ端役人にもありつけるものではないのだが、
どうやらいくらかお金を積み、さらに陳廷敬が政府高官だという「兄の七光り」を受けて官職についたらしい。


前述のとおり、この時代、南方の優秀な人材が大量に出仕ボイコットをしている中で、人材が不足していたという事情もあっただろう。
さらに陳廷敬という「保証人」がいることは、ある程度の抑止力になる。

不正を働けば、兄である陳廷敬にも害が及ぶからだ。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相』の中に登場する弟は一人だけだが、実はこんなにたくさんの兄弟がいたとは……!

 

あまりにも大量の兄弟をわらわらと登場させると物語の主旨があらぬ方向にぶれてしまうので、おそらく作者王老師はある程度デフォルメされたものと思われる。 

 

そのあたりの手法もさすがー! 

 

 

 

さて。

 

小説の中で、このあまたの兄弟の中、登場するのは、誰でしょうか??

 

……それは、読んでのお楽しみー!

 

 

 



皇城相府



陳廷敬は生涯に二人の妻を娶った。

一人は山西の本家で両親と一族を守る本妻。
もう一人が、北京の宮仕え先で娶った妾である。

妾とはいえ、生涯のほとんどを北京で過ごした陳廷敬である。
数年に一度しか会うことができず、ともに過ごせたのが生涯のうち数年しかなかった本妻と比べると、
所謂「現地妻」であり、名目上は「妾」ながらどちらがいいかと言われると微妙なところである。
(そんなことは誰も聞いていないって?? ついつい女性目線で考えてしまうわけですよ)

それは陳廷敬の人生の成り行き上、そうなってしまったことであり、
若かった二人は、それを選ぶことも変えることも難しかったにちがいない。

何はともあれ内閣大学士にまで登りつめたような政府高官が、
生涯にわずか二人しか女性を娶らぬというのは、当時の中国社会ではごく珍しい事象だったに違いない。


本妻王氏は、陳廷敬より二つ年下、
この界隈で最も出世した有名人、明代の礼部尚書だった王国光の玄孫である。

陳廷敬の母親張氏は、母方の家系では王国光の孫に当たるので、王氏は陳廷敬の母の姪
……つまりは陳廷敬の「はとこ」に当たるということになろうか。

王氏は名家の令嬢だけあり、幼い頃より高い教育を受け才色兼備と近隣では評判の少女だった。


一方の陳廷敬の方はといえば、
陳家は家柄こそは一国の大臣(尚書)まで務めた王家ほどではないにせよ、
当主の陳昌言は今や江南学政を務めるまでの高官となり、
さらに王家の血を引く張氏もすでに嫁いでいる。

また陳廷敬本人は九歳で詠んだ『牡丹詩』、
十三歳で科挙試験に合格し秀才になったことなどですでに近隣に「神童」として名が知れ渡っていた。


二人は互いに会ったことはなくても、互いの名と噂はすでに何年も前から耳にしていたのである。


ある時、王氏は大人たちに連れられて陳家に遊びにきた。

通常、漢族の女性たちはめったに外出もせず、自分の親族の男性以外と同席して顔をさらすことはなかったが、
女性同士の親戚づきあい、集まりには出かけて行くことがあった。

叔母が陳家に嫁いでいることもあり、母親たちに連れられて、
女性たちだけの集まりに伴をして参加することもあったのだろう。



  
  
  皇城相府 



王氏は大人たちに陳家に連れて来られた折、
大人たちがおしゃべりに夢中になっている間、一人で屋敷の探索に出かけたのか。

そこで自作の詩を吟じていた陳廷敬に行き会う。
思わず引き込まれて
「素敵な詩だわ」
と声をかけた。

「あなたが陳敬(元の名)ね」

陳廷敬は驚いて振り返った。
「どうして僕の名前を知っている」
「陳家の『童子第一』(童子の中で一番)を知らない人はいないわ」
「そういう君は王家の人だね」
「どうしてわかるの」
「僕の拙い詩作を聞いて意味を理解できるのは、才色兼備の噂高い王家のご令嬢以外に考えられないからね」


……とは言っても、陳廷敬はこの日、
母方の張家、ひいては母方母系の王家の女たちが訪ねてくることは知っていたはずである。

男子はその場に同席はできないが、王氏が来ているかもしれない、
とは大方の見当がついていたものかと思われる。



二人は意気投合した。
陳廷敬は大胆にもこう吟じた。

 
 久聞王家出佳人
 王門佳人進陳門
 才貌双全人人愛
 喜鼓闘胆問春風

   王家に佳人ありと聞いて久しい。
   王門の佳人が陳門をくぐった。
   才色兼備な女性を嫌いな人などいるはずがない。
   嬉しさのあまり、大胆にもその気持ちを聞きたいものだ。

 
王氏は聞くと、恥らいながらも自分も返礼した。

 陳家少的上有詩才
 詩句琅琅入画来
 耳聆目睹心翻浪
 仔細作媒春花開

   陳家の御曹司は詩才に優れている。
   詩の句が滔々と流れ出てまるで絵を描くようだ。
   耳をそばだて、目で見て心がかき乱される。
   詩才が仲を持って、春の花が咲こうとしているわ。
 
二人のこの様子を知った両家の大人たちは、願ったり叶ったりの縁ではないかと喜び、
二人のためにこの縁談を嬉々として進めてくれたのであった。

……という話なのだが、私としては、上記の詩句にやや違和感を覚える。

何かというと、外国人の私にもわかるほどのごく単純明快な詩句が並んでいるからだ。
仮にも父親を抑えて先に秀才に合格し、数年後には全国の精鋭の中に名を連ねようとしている天才の作った詩にしては、
あまりにも子供だましすぎはしないか、という疑いである。

もしかしたら後世の人たちが想像して作ったものなのかもしれない。
ただ二人が詩作を通じて会話ができるほど互いに教養高く、
思考レベルの高い精神的側面でつながれた夫婦だったことは確かなようである。

……だとすれば、上記のエピソードもあながち事実から乖離してもいない楽しい想像の範囲内といえるのかもしれない。



  
皇城相府 




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『紫禁城の月』と陳廷敬3、陳家興隆の歴史的背景

2016年09月03日 01時04分53秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

これまで見てきたように、陳家は明末の動乱で農民軍から甚大な被害を受けてきた経緯がある。
その農民軍の中から李自成軍が頭角を現して明の首都を陥落させた。

それに対し明の仇を取ることを大義名分にして勝ったのが、清軍である。
その結果、社会の秩序が取り戻され世の中が落ち着いて平和が再び訪れた。

このため沢州界隈の人々は平和を取り戻してくれた新しい政権を支持しようという積極的な心理があったかと思われる。


実は満洲族が紫禁城の主となってからも山西では政権転覆の反乱が起きたことがあった。

順治六(一六四九)年、大同総兵の姜[王襄]が清朝に対して反乱を起こしたのである。
山西南部の陽城県でも張斗光がこれに呼応して一揆軍を起こし、一時期沢州をも占領したことがあった。

張斗光は陳家にも帰順を勧める使者を派遣したが、
陳廷敬の父陳昌期は、その場で書状を破り捨てて使者の罵り断固とした拒絶の意を表明した。
農民の烏合の衆への不信感、さらには成立して間もない清政府への信頼が窺い知れる。


帰順を拒否された張斗光は案の定まもなく数千人の軍隊を率いて陳家に襲いかかった。
この時には河山楼、堅牢な周囲の城壁などの一連の防衛体制が完成して久しかったため、
陳昌期は自信を持って一族郎党を指揮し、敢然とこの攻撃を受けて立ったのである。

三日後、清軍が北からまもなく到着すると聞き、農民軍は包囲を解いて去っていった。


満州族が紫禁城に入ってまだ間もなかったこの頃、すべての人々が清朝を支持していたわけではなかった。

特に南方では服従を潔しとしない風潮が色濃く残った。
明を転覆させた農民軍は陕西省から興り四川を占領し、山西などを蹂躙して首都の北京へ向かっていった。

つまり農民軍が通過した土地は、その激しい略奪の対象となり甚大な被害を受けた。


--それを成敗してくれたのが清軍、という図式である。
このため「悪者から解放してくれたいい人たち」として、満州族の政権を歓迎する気分があったかと思われる。

しかし南方はもとから農民軍の被害を被っていない。
むしろ清軍がいきなり攻めてきて激しい市街戦の末に占領されたので、清軍に対する心象が著しく悪かった。







城壁の上に上がる階段










南方人の清朝への抵抗意識という背景も陳廷敬とそれに続く一族の後裔が多く科挙に及第し、
活躍する場を与えられたことに深く関係する。

というのは前述のような経緯のために、本来は教養高く科挙の合格者を多く輩出していた江南から、
皆出仕を見合わせていたことを考え合わせねばならないからだ。


長江デルタの流域に当たる江蘇、浙江などの地域は、
明代に全国で最も多く科挙の合格者を輩出してきた地域である。


中国全土でも最も手工業が発達しており、気候も温暖だ。
工業生産、農業生産ともに申し分のない高い生産性を誇る上、水運により東西南北すべての地域との交通の便もよい――。
まさに全国で最も豊かで経済的に豊かな土地である。


それは現代でも変わらない。
現在でも大学入試での平均点数が最も高く競争が激しいのが、この二省である。

またたとえば、こんなところにもその特異性が現れている。
日本政府が観光ビザを発行する限定地域だ。

観光ビザが出るのは北京戸籍、上海戸籍、広州戸籍、深せん戸籍の所有者などのいわゆる「第一線都市」と言われる大都会の本戸籍の持ち主のほか、
省全体を指定されているのが、江蘇省戸籍、浙江省戸籍である。
つまりそれは日本に来ても単純労働のために違法滞在をする可能性のないくらい経済的に豊かな人々、ということを意味する。

この二省の人々だけ都市戸籍でなくとも、たとえ農村の人でも関係なく観光ビザを発行する。

これが他の地域であれば、事情が異なる。

たとえば、北京を例にとると、
北京から少し郊外になる「河北省」と住所のつく本籍の人には、上記の観光ビザは発行されないのである。

そのへんの感覚は北京に住んでいれば一目瞭然である。
北京の中心部の摩天楼は、先進国と変わらないほどの大都会だが、
そこからほんの七、八十キロほど郊外に走ると、そこにはもう百年も前にタイムスリップしたかのような別世界が広がる。
確かに北京市内と河北を同じ扱いにすると、大変なことになると納得が行く。


以上のような例を見ても、この二省が全国の中で如何に特殊な扱いを受けているかがわかる。
都会だけでなく農村の隅々に至るまで豊かな、ごく稀な地域なのだ。



閑話休題。
とにかく本来なら、最も人材を多く抱え、政府に貢献するはずの江南以南地域なのだが、
この時期なおも清朝に対する抵抗心が根強く、
反乱を起こさないまでも積極的に仕官しようという風潮になかった。

このため敢えて科挙も受験しないことで静かな抵抗を示していたのである。


--そのような「ライバル不在」現象も幸いした。
本来は科挙合格者輩出地としてはあまり有名ではなかった山西から、
この清初という特殊な時期に多くの合格者を出した背景の一つだったかもしれない。




皇城相府


清初、政権を取ったばかりの清朝廷は、広大な国土を治めるための人材を欲していた。
明の滅亡により官僚の雇用制度が一旦はごわさんになったわけだから、
新たに官僚を雇い入れる必要が生じたのである。

清の順治二(一六四五)年、清の入関後、初めての科挙が実施される。

--「入関」は、満州族が東北の大地から山海関を超えて南下したこと。
つまり万里の長城を超えて中原に侵入し、中華世界の主になったことを示す。


明代、一度の進士合格者数は二、三百人だったが、
この年は人材の著しい不足により一気に四百人採用した。

さらに本来は四年に一度しか実施しない科挙試験を順治十五年と十六年には、二年連続で実施。
慢性的な人材不足を補おうとしたのである。


以上のように政権側は喉の渇きを癒すかのように人材を求めて止まなかったが、
肝心の人材の宝庫であった江南の士太夫らが腰を上げない。
科挙をボイコットすることにより無言の抵抗を続けていたのである。


そのような「鬼の居ぬ間に洗濯」ができた影響もあってか、清初の山西は進士・挙人の「大豊作」(爆)の潮流を迎える。

特に陽城では、順治三(一六四六)年の会試では同時に十人が進士に及第、
「十鳳斉鳴」と言われた。

さらに順治八(一六五一)年の郷試でも同時に十人が挙人に及第、
「十鳳重鳴」と言われた。


また陳廷敬が進士に及第した順治十四年(一六五七)の会試では、山西から一気に八人も及第し、世間を騒然とさせた。

『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』の中でも山西からの進士合格者が多すぎて、
主試験官だった衛向書が不正を疑われるという場面が出てくる。

(本文第十三章あたり)

それほど山西の科挙人材「大豊作」がしばらく続いたのである。




皇城相府



そもそも山西は昔から科挙合格者数の上位には入っていない。

まずは以下の各省の進士/状元の順位表を見てほしい。

明代、各省の進士の地理分布
 
  順位 省  進士数
  1  浙江  3697
  2  江西  3114
  3  江蘇  2977
  4  福建  2374
  5  山東  1763
  6  河南  1729
  7  河北  1621
  8  四川  1369
  9  山西  1194
  10 安徽  1169
  11 湖北  1009
  12 陕西   870
  13 広東   857
  14 湖南   481
  15 広西   207
  16 雲南   122
  17 甘粛   119
  18 貴州    32
  19 遼東    23


明代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省  状元数
 1  江西  20
 2  浙江  18
 3  江蘇  17
 4  福建  10
 5  安徽  6


清代の各省の進士の地理分布

  順位 省  進士数
  1  江蘇  2949
  2  浙江  2808
  3  河北  2674
  4  江西  2270
  5  山東  1919
  6  河南  1721
  7  山西  1420
  8  福建  1371
  9  湖北  1247
  10 安徽  1119
  11 陕西  1043
  12 広東  1011
  13 四川   753
  14 湖南   714
  15 雲南   694
  16 貴州   607
  17 広西   568
  18 甘粛   289
  19 遼東   186


清代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省  状元数
 1  江蘇  27
 2  浙江  20
 3  安徽  7
 4  山東  5
 5  河北/福建 3


明代の山西省の順位は十九省中九位。
清代は七位。

状元の数はもちろんトップ五には入っていない。


前述の「豊かな地域ほど、進士輩出数が多い」の法則で行けば、
どうもあべこべな結果でもある。


山西は安徽省の「徽商(安徽商人、新安商人)」と並んで、「晋商(山西商人)」輩出の地として、
昔から豪商を多く出すことで有名な地である。
(潮商と並び、「三大商幇」というそうな)



その豊かな経済力から言えば、もう少し科挙合格者を出していてもいいようなものである。


両者の業務形態の違いからその差が生じるといわれる。

「徽商(安徽商人、新安商人)」は、元々は安徽の南部徽州の山中を出身とするが、
商売の活躍の舞台はそこではなく、揚州が中心だった。

徽州は山が多く耕せる土地が少なくて生産性の低い土地柄だったため、
二男、三男坊が都会に丁稚奉公に出る、いわゆる「丁稚小僧大量供給地」だったのである。

故郷に帰っても居場所など残されていない彼らが必死になって働き、地位を築いていったのが、
揚州の「塩商(塩の専売特許業者)」の業界の中だった。


明清代、塩は政府の専売である。
塩には高い税金がかけられた。

日本のように海に囲まれているわけでもなく、岩塩が取れる場所も限られている……。
庶民がなかなか自力で塩を手に入れられないことに目をつけたといえる。

人体を保つためになくてはならない食品なだけに税金を徴収しやすかったのである。


徽商はその利権に食い込むことにより豪商として頭角を現すが、
政府の特権を使った商売だけに「政商」の側面が強く、権力闘争の影響も受けやすかった。

そこで自身の家からも政府高官を輩出し、内と外の両方で呼応しつつ商売を進めて行かなければ危機に対応できない。

このため一族の中から科挙合格者を出し、中央政府の中枢に食い込ませることが何よりも重要だったのである。
一族の中で最も優秀な子は、商売は継がせずに受験勉強に専念させた。


実は「晋商(山西商人)」の場合は、これと反対なのである。
一族の中で最も優秀な子には商売を覚えさせ、どうも商売の勘所が悪い子にだけ余興のつもりで科挙を受験させた。


晋商の商売は辺境貿易が中心である。
地理的にモンゴルやロシア、東北に近い山西は異民族相手の商売で財を成した。


辺境の地は、いわば無法地帯である。
いつ何時、不測の事態が起こるかわからない環境で臨機応変にその場その場で判断を下し、
危機を乗り越える必要がある。

それには、ぼんくら息子では到底対処することができない。
だからこそ最も優秀な人材を商いに投じたのである。

逆にいえば辺境貿易は政権中枢の権力争いの影響はあまり受けない。
したがって科挙に全精力を集中させてどうしても政府高官を輩出させなければならない必要性がないのである。


反対に徽商にとっては「利権の確保」こそ最も重要であり、
中央での政治活動によりその利権をいったん手に入れることさえできれば、
あとは大名商売。

商売の方は、少々のぼんくらが経営していても、大した才覚がない経営者でも順調に事が運んだのだろう。



……という背景もあり、
康熙年間以後になると江南からの進士合格者がぐっと増え、山西出身者は次第に減っていく。

陳廷敬と陽城周辺の士太夫の中から大量の科挙合格者が出たのは、
ある特殊な時代背景の一時的な現象だったともいえるのかもしれない。





皇城相府



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『紫禁城の月』と陳廷敬2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる

2016年09月02日 09時31分17秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

そんななか、時代はいよいよ明末の動乱時代に突入した。
皇城相府が現在のような要塞都市の様相を呈するようになったのは、この時代のことである。

時代は明の最後の年号である崇禎年間。
主役は陳廷敬の父の代、陳昌言(陳廷敬の叔父)と陳昌期(陳廷敬の父)兄弟である。

前述の陳修の代からは、陳三楽、陳経済……と三世代下った時代に当たる。


陳経済の長男陳昌言はその後、崇禎七(一六三四)年の科挙に及第して進士となり、
直隷楽亭知県、監察御史、巡按山東、提督江南学政等の重要官職を歴任することになるが、
それはこの農民軍の襲撃が終わり、一段落した後のことである。


  

  皇城相府、正門。この頑丈な鉄鋲のでかさをご覧あれ。飾りではなく、実戦のやる気マンマンのものものしさじゃ。





明の崇禎五(一六三二)年、明末の動乱が始まり、王嘉胤の農民蜂起軍が陽城に迫った。
王嘉胤は元々辺境の守兵だったが、逃亡して故郷の陕西省府谷県に潜伏していた人物である(逃亡兵はお尋ね者)。

明代の辺境守兵が如何に過酷な状態にあり、如何に逃亡兵が多かったかは、過去記事を参考にされたし。
  

        楡林古城・明とモンゴルの攻防戦9、明代の戸籍制度
     楡林古城・明とモンゴルの攻防戦10、守城と屯田


『水滸伝』など無法者たちの正義を訴える物語は、宋代という設定ではあるものの、実際には明代に書かれている。

それが当時の社会で軍戸から逃亡してお尋ね者になり、表社会に出れなくなってしまった人間の数が如何に多かったか

を示していることは、どこかですでに触れたとおりである。
王朝転覆の狼煙が逃亡兵から上がったことは、避けられない流れだったことがわかる。


王嘉胤は逃亡して故郷の陕西省府谷県に戻っていたが飢饉で食うに困り、崇禎元(一六二八)年、仲間とともに蜂起した。
--いわゆる李自成の乱の始まりである。


王嘉胤が最も初期に蜂起した人物であり、
後に頭角を現す高迎祥、李自成、張献忠、王自用等は皆、元々は王嘉胤の部下から身を起こしたのだ。
そして当然、皆陕西の同郷でもある。

蜂起軍はまたたく間に広がり、陕西、甘粛、寧夏、山西で三万人を超える勢力に膨れ上がった。
その勢いは留まるところを知らず、明の兵部尚書洪承畴の率いる明の主力軍を破ったこともあった。

(ところで兵部尚書といえば、現代でいえば防衛庁長官のような地位。キャリアのトップが実際に軍を動かすんですかね。関係ないですが)



崇禎四(一六三一)年、蜂起軍は明の官軍延綏(えんすい)東路孤山総兵である曹文詔の圧倒的な兵力に囲まれたため、
押し出されるように陽城一帯に侵入した。

ところがここで当の王嘉胤が身内に殺されるという事件が起こる。
明末清初の王嘉胤の同族、同郷の残した記録によると、

王嘉胤を殺したのは、妻の弟張立位と同族の兄弟王国忠だったという。


山西陽城県で曹文詔軍が王嘉胤の蜂起軍と激戦を繰り広げたが、蜂起軍の士気は高く、
王嘉胤の指揮にも抜かりがなかったため、明軍は連戦連敗を余儀なくされた。


そんな中、王嘉胤の妻の弟である張立位が、偶然にも曹文詔の元で兵士になっていたのである。




前述のとおり、明代の身分制度は固定されており通婚もほぼ同戸籍内で行われた。


「逃亡兵だった」という王嘉胤の経歴を見れば、王嘉胤が「軍戸」出身だったことがわかるが、
ほとんど賎民扱いの軍戸に、ほかの階層から嫁いできたいと思う女性はほとんどいない。
したがって王嘉胤の妻も「軍戸」家庭出身だった可能性が高いわけである。

その妻の弟がこれまた軍人としてどこかの部隊に所属しており、
それが偶然にも曹文詔の部隊だった、というのは驚くに値しない。

軍戸同士の姻戚。

一方が逃亡の末に反乱軍となり、もう一方がその身分当然の義務として官軍に配属されていただけの話である。


--張立位にしてみれば、まったく意図せぬところで、
自分の所属する部隊が討伐する対象が、なんと姉婿だったということになる。


そこで張立位は、自分が王嘉胤の妻の弟であることを上司に告げ、
王嘉胤軍に身を投じる振りをすれば隙を見つけて王嘉胤を殺すことができる、と献策した。

その案が採用された。

こうして張立位は曹文詔から派遣されて王嘉胤のそばに行き、王嘉胤に「帳前指揮」に任じられたのである。
何しろ妻の弟である。
相手に気を許すのは、当然の成り行きと言えよう。


ほどなくして王嘉胤は、泥酔しているところを
帳幕の中に忍び込んだ張立位と同族の王国忠の二人に寝首をかかれて殺される。
享年四十過ぎ。

蜂起軍はそのまま部下の王自用が仲間から推戴されて率いることとなる。
  

さて。
このように道徳もモラルもへったくれもない、
犬畜生な行動をとった後、この二人がどうなったかという結末も興味深いので、見ておきたい。



王嘉胤の妻の弟張立位は、王嘉胤を殺した功で明の崇禎帝に左衛協副将に取り立てられた。
その後も明軍のために将軍として戦いを率いた。
満州族との戦いで山西の殺虎口の戦役で重傷を負い、そのまま戦死した。

--死後、明の朝廷から「龍虎将軍」の追贈されている。


一方、王国忠の方といえば、王嘉胤を殺した功で「蒲州協副将」に任命された。
しかし後に李自成軍との戦いで敗れ、明の朝廷に免職される。


「王」姓のとおり、彼は王嘉胤と同族である。
いとことは言わぬまでも、はとこか、曽祖父あたりまでたどれば同じ血だったくらい近い仲だったのだろう。

その王嘉胤を殺して自分だけ出世したという経緯では、
原籍の府谷には戻ることはできない。


やむなく綏德(陕西省北部)に客住した。

しかしまもなく李自成軍の将軍の一人、李過の部隊が綏德を陥落させた。
かつての首領だった王嘉胤を殺した犯人の一人、蜂起軍にとっての叛徒王国忠を探し出すよう、李自成は李過に命じていた。


王国忠はじきに見つけ出され、その場で制裁として殺された……。

--以上が、陽城襲撃前後の内輪もめの顛末である。

 


皇城相府の城壁の上からの眺め













王嘉胤を失った後も陕西の蜂起軍では王自用が新たな首領に推戴され、「紫金梁」と号した。
各地の農民蜂起軍とも連合し、三十六営二十万人にも膨れ上がったのである。
……これが、陽城に押し寄せた農民軍の規模だ。

略奪なしにこの群衆を養えるわけがない……。


 
不完全な統計によると、崇禎五(一六三二)年、
「紫金梁」とその軍隊が陽城県内を襲撃すること十二度に渡ったことが判明している。
十月一ヶ月だけでも皇城、郭峪に四回侵入、崇禎六(一六三三)年の前半五ヶ月は七回も侵入した。
 

そもそも農民蜂起軍は、なぜ頻繁に陽城にやってきたのだろうか。

 1、陽城は沁河のほとりにあり、沁河は東南に流れて鄭州近くで黄河に合流する。
   つまりは黄河の支流の一つの流域に沿った地区である。
   
   
  太行、中条、太岳の三山が交わるところにあり、山深く谷が入り込んでいて身を隠すにはちょうどよい。

  しかもここから中原を俯瞰することができ、山西から河南の中原地帯に入ろうとする軍隊にはちょうどよい根拠地になる。

  出ていけば中原を攻めることができ、負ければ退去して山の中に潜伏して体制を立て直すことができる。
  このため古来より激戦地となってきた。

 2、陽城は古来より経済的に豊かだった。
  特に北部の北留、潤城の二鎮は沁河流域で最も栄えた石炭と鉄鋼の里、商業と貿易の重鎮だった。

  澤州と西部の河東諸県を結ぶ交通の要所にもあるため、周囲はこの豊かな土地を取ろうと虎視眈々と狙っていた。




そもそも鄭州に近い、河をたどっていけば鄭州に出られるという位置関係が、
すでに安寧でいられない運命を決定づけている(笑)。


鄭州は古来より各勢力が激突する激戦地である。
西の勢力が勢いを拡大させようとすれば、黄河の川底に沿って東に出ようとするのが最も自然だろう。

陕西より北にいけば次第に寒冷になり、乾燥した土地でロクな食べ物はない。
西に行っても砂漠ばかりで、大した収穫にはならない。
南に行くには、山だらけで前に進めない。
東は豊かで食べ物もお金もたくさんあるし、行きやすい。

……となるからだ。


中国大陸は黄河と長江という二大大河が山を削りながら西から東に流れ、
その過程で削った土砂をどんどん東の河口に溜めて平らな土地を作り続けたことで出来上がっている。

東にいけばいくほど土地が平らになり、流域の栄養分を蓄えながら流れてくるので土地も肥沃、
海に近いから貿易も漁業もできる、と経済活動の種が山ほどある。
人口も多ければ生産性も高く、経済的にも豊かだ。

食えなくなって反乱を起こした人々が、東に向かおうとするのは、自然の流れである。



西の勢力が東に出る場合、もっとも歩きやすく平らな場所というのは河原になる。
山をえっちらおっちらと越えて行くよりも、勾配の少ない河原を行くのが最も安易に決まっている。

そして山がなくなり、ぱっと平原が開けたところにあるのが鄭州である。
そこから東には広大な中原平野が広がる。
気候も温暖、圧倒的な食糧の生産力を誇る中国大陸でもっとも豊かな土地と言っていいだろう。

今も河南省の一省だけで人口は一億人。
中国首位である。


鄭州は王朝交替のたびに激しい戦火にさらされてきたため、
これだけ古い歴史を持つ都市であるにもかかわらず、古跡がほとんどない。
残し得なかった宿命があると言える。




陽城周辺は、飢えた蜂起軍の大群襲撃に怯えていた。

実は陽城周辺では、崇禎年間以前にも、農民反乱軍の襲撃を受けたことがあった。
明の正徳七(一五一二)年、河北覇州の劉六、劉七の農民蜂起軍が皇城と山一つを隔てた西隣の白巷里に侵入したのだ。


それが現在の潤城鎮の上、中、下の三庄だが、当時は製鉄業で栄えていた。


村民が「大きな鉄釜で道を塞ぎ、屋根に上って瓦を投げつけ」て敵を撃退したという。
その当時、皇城、郭峪は潤城に比べて人口も少なく経済的にも豊かにではなかったために、襲われることはなかった。



明末になり皇城相府のある郭峪村、中道庄村の経済と文化が発展し、
樊渓河のほとりには豪商、政府高官の豪邸が軒を連ねるようになったため、当然農民軍の略奪の対象となった。


潤城屯城の出身で明末の刑部右侍郎だった張慎言が、免職になって故郷に帰っていた。
崇禎四(一六三一)年秋、張慎言は一族郎党の者たちと団結し、屯城に「同閣」と名付けた防衛土木工事を始めた。

「同閣」には身を隠すことのできる地下蔵もあれば、上から敵を攻撃できる城壁と防護壁もあった。
別名「砥洎城」。

ここは今回の旅でも回っているので、のちにレポートしたい。






砥洎城が完成したことにより、農民蜂起軍への備えが万全となった。

山一つ隔てたところに住む陳昌言、朕昌期兄弟には、それが大きな刺激になった。


蜂起軍が手前の潤城から順番に攻略しているという情報が、日々伝えられて来る……。

さらに山奥にある中道庄村でもその被害の甚大さを伝え聞き、危機感を強めて自らの防衛も始めたことがわかる。



--こうして『河山楼』の建設が始まったのである。


  

  

  遠くに『河山楼』が見える。




『河山楼』の工事は、崇禎五(一六三二)年の正月明けに始まった。
写真を見てわかるとおり、地上六階建ての細長い塔である。
敵の襲来があれば、ここに立て籠もろうとした。


陳氏兄弟は一族郎党の者を動員し大工を招き、石三千個、レンガ三十万個を使ってわずか六ヶ月で完成させた。

何しろ蜂起軍の襲来が刻々と伝えられる中での工事である。
作る方も自分と家族の命がかかっているから必死の突貫工事となる。


入口の門は火攻めにも耐えられるように石で作り、後ろには頑丈な閂(かんぬき)を作った。
屋上には敵攻撃のための壁を備える。



  

  『河山楼』




構造工事の終わった矢先の七月、内装工事を始める吉日を占っていると、突然賊の襲来が知らされた。

そこで慌ただしく石、矢、食糧、石炭、金目のものを運び入れ夜はぴたりと門を閉じて守備に入った。
立て籠もりの間の食糧はすべて陳家が提供し、楼の中には老若男女約八百人が避難した。


陳家が製鉄工房を営むために関わりのあった人々かと思われる。
屋敷の使用人だけでなく、近隣の村内に住む従業員や下請け業者、関連業者といった内輪の人々だろう。

まもなく賊が襲来、辺り一面が赤い装束の色で真っ赤に染まった。


--明末の李自成を中心とした陕西軍には歴史上、衣装の特徴的な名前は特についていない。
漢末の乱『黄巾の乱』、元末の乱「紅巾の乱」のようには……。

しかし陽城界隈を徘徊していた頃は、確かに赤装束で固めていたようである。



蜂起軍は郭峪の一鎮だけでも一万人ほどもいたかと思われる。
敷地内に乱入してくると金目の物を奪って回ったが、楼に入ることができないため腹いせに屋敷に放火を始めた。


近づけば上から矢や石の投下で攻撃されるので、賊は楼に近づくことができずにいた。
あまりの腹立たしさに飢え死に、焼け死に、渇き死ににでもさせてやらねば気が済まぬとばかりに賊は楼を包囲し始めた。
しばらく包囲して兵糧攻めにしてやろうとしたのである。

しかしそのような籠城戦を当初から想定していた陳兄弟は、
工事の最初から楼内に井戸を掘っており、数日程度の包囲ではびくともしなかった。

……とは言っても、敵に本格的に居座られれば今後何が起こるか予測不可能である。
楼の外の村の家屋の被害も拡大するだろう。




  

  皇城相府『河山楼』。




包囲二日目の夜、このまま籠城が無事に行くのか、陳昌期(若き日の陳廷敬の父)は、行く先に不安を覚えた。
そこで楼から抜け出し包囲を突破して澤州府に救援を求めに行こうとしたのである。

賊軍が寝静まったのを見計らい、夜の闇に紛れて屋上から縄をつたって下に降りようとしたのだが、
腕力が足りず、降りる途中で手がすべって地面に落下した。

無理もない。
生まれた時から科挙への合格のみを目指し、
箸と毛筆より重いものなど手にすることもないまま成人した書生である。

気持ちだけが先立ち、肉体が伴わないことを自覚していなかったのである……。



陳昌期はそのまま気を失ったようで、屋上から見守っていた兄の陳昌言がいくら待っても
下からはうんともすんとも動向が聞こえない。

これは大変なことになったと兄の陳昌言は恐怖で凍りつき、頭の中が真っ白になった。


弟は落下して死んでしまったのだろうか……。

もし生きていれば、何としてでも助け上げて手当てせねばならぬし、
たとえ死んだとしても、このまま夜が明ければ大変なことになる。

死体が賊に見つかれば切り刻まれるのか、どんな壮絶な屈辱を受けるのか想像もつかない。


弟を行かせたことを後悔し、パニックの中で目まぐるしく次の方策を考えた。

一階の入り口を開けるわけには行かなかった。
重厚な石門は動かしただけで大きな音を立てずにはおかない。
付近で寝ている賊に気付かれることは必至だ。

そこで壮丁(=下僕)の李忠に五両の銀を与えるからと約束して、縄をつたって下に降りてもらった。

前述のとおり、この当時使用人の給料が一ヶ月一両程度だった。
五両といえば五ヶ月分の給料、現代でいえば百万円から二百万円といったところか(笑)。
命がけの仕事を引き受けてくれたわけである。


李忠が無事に下に降りると、
さらに上から竹籠を下ろし、陳昌期の身柄を籠の中に入れて引っ張り上げさせた。

--こうして生きているのか死んでいるのかはわからないが、とにもかくにもどうにか陳昌期の肉体を確保することができたのである。

陳昌期が意識を取り戻したのは、数日後のことだった。
信じられないことに体にはどこも異常はなく骨も折れておらず、頭もはっきりしていた。
わずかに額に血痕が残るのみだった。

こんな騒ぎがあった後では結局救援要請には行かずじまいである。

縄から手を滑らせて高層から真っ逆さまに下に落ちた陳昌期二十四歳は、まったく無傷のまま無事に生きながらえた。
 

救援を呼びに行く作戦をあきらめた陳兄弟は、次の方策を考えた。

すぐに音を上げて楼から出てくるだろうという敵の希望をくじくため、井戸から汲んだ水を楼の上から敵に示したのである。


それを見た賊は、いくら囲んでも水が豊富にあることを知って観念、わずか五日で包囲をあきらめあっけなく立ち去っていったのだった。

こうして賊は立ち去り、陳家では陳昌期を含め一人の犠牲者を出すこともなく危機を乗り切ったが、
楼から出て見ると、その惨状は目を覆わんばかりであった。

近隣の郭峪も含め、村中が放火され家財道具を持ち去られ、
その狼藉の跡を見れば、とても生活できるような状態ではないことは一目瞭然だった。

やむを得ず兄の陳昌言は年老いた母と一族郎党を率い、陽城の県城に一時期移り住むことになった。


陽城の県城は当時堅牢な城壁を備えていた。
それは明の万暦六(一五七八)年、潤城中庄出身の吏部尚書王国光(陳廷敬の妻王氏はその玄孫)が、
先頭に立って寄付を集めて建設したものだった。


こうして見ると、陽城の付近というのは、
確かに明代の頃から多くの中央官僚、尚書(=大臣)クラスの高官を輩出し、
その人たちが中心になって故郷の建設に貢献していることがわかる。

このように県城に住めば官兵が守ってくれるし、
堅牢な城壁もあるため、いくらか安心して暮らせるという判断だったのである。



ところが陳昌期は、家族とは行動をともにせず、
一人中道庄に残り、『河山楼』の内装や後続工事の指揮を続けた。

次の賊の襲来がいつ来るとも知れぬため工事は昼夜を徹して急がれ、十月には完成した。


楼の中には槍、銃、弓矢、投石用の石、火薬などが充分に備えられ、
地下室には井戸がほかにも、各種石臼などの長期生活のための調理器具も持ち込み、巧妙に煙の排気口も作った。


三階以上の階の床はすべて木を組み、楼の構造への負担を軽減させた。
さらには地下室から村の外に抜けられるように地下道を掘った。

こうしてあらゆる事態を想定し『河山楼』の防衛力は、さらに高められたのである。
 

楼の竣工した十月、再び賊兵が立て続けに樊渓河の両岸を襲った。
まさに間一髪……。


翌年の五月までに周辺の村落は度重なる襲撃を受け、その魔の手から逃れられたところはどこもなかった。

『郭峪村志』に収められる石碑の碑文によると、
斬殺、焼殺、首吊り自殺、井戸に身を投じた自殺、子供の餓死は千人を下らず、
幸いにも生きながらえた者も、ほとんどは体に障害を残す身になったという。


金目の物はすべて持ち去られ、驢馬の体の飾りつけでさえすべて持ち去られ、家畜は食べ尽くされた。

それでも『河山楼』の中に立てこもった人々だけでも無事に生きながらえることができ、現地の復興の中核となった。





皇城相府。 城壁の上から。






皇城相府


陕西の農民軍は陽城に留まることはなく、そのままイナゴの大群のように去っていった。

その後、王嘉胤の部下だった李自成の軍が首都の北京まで登りつめ、
一時期、紫禁城を占領はしたものの清軍に取って替わられた経緯は、歴史の証明するとおりである。



陳昌言は考えていた。

大急ぎで『河山楼』を作ったおかげで人間の命だけは取りとめたものの、
家財を奪われ、食糧、家畜を守ることができなかったことを……。

また老母を伴い、堅牢な城壁に守られた県城の中で暮らした経験から城壁の重要さを痛感していた。


幸い中道庄は大きくもなく家々は密集しており、村人たちは皆同族同士である。
そこで陳家の兄弟は一族の長老たちに相談した。

この際だから思い切って村を城壁で強固に守ってはどうか、と。
皆で出せるだけの資金を出し合い建設費用に充てようと提案したのである。

ところが思わぬことにいざ私財をなげうてということになると、反対する者も多かった。
そこはやはり人情というものだ。
金が絡んでくると人というのは世知辛いものである。


やむを得ず陳家は自分の家族の範囲内だけで城壁を建築しようと考えた。
しかし陳家の家屋の一部には、権利関係に問題があった。

すでに陳家の家屋が建てられているにも関わらず、
東西端の土地の権利をまだ買い取ることができていなかったのである。

貸すのはよいが売り渡すのは嫌だ、と持ち主が何世代にも渡って売り渡しを拒否し続けていたからである。

城壁を建てるに当たり、その土地の権利を完全に買い取るために大金を積んだ。
大工事をする以上、買い取るしかなかった。

--こうしてようやく土地の権利問題の不備をなくし、工事の準備が整った。


内城の城壁は崇禎六(一六三三)年に工事が始まった。
巨額を投じ、七ヶ月で完成させた。

名付けて『闘築居』。
――戦いながら生活、の意である。

山の斜面を利用して南北に展開させ、東西は河と谷の隔絶を利用した。
外界との出入りは西と北に二ヶ所、門はすべて鉄で覆って火攻め対策も抜かりない。

城壁工事に使ったレンガは合計三千万個、
山深い場所への資材の運搬、周囲で絶えない戦闘、略奪を思えば、そのスピードは奇跡的だったといえる。



堅牢な城壁が完成し、陳家の一族はようやく枕を高くして眠ることができるようになった。





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