去る6月2日(日)、大学の同窓会の遠足があった。
行き先は、当初は北京の西郊外、門頭溝地区にある古民家村の「桑谷村」と「霊水村」を歩く予定だったのだが、
当日チャーターした車の運転手にナビに最初の「桑谷村」を入力してもらい、連れて行かれた場所はどうも腑に落ちない。
古民家郡にしてはあまりにも新しい家が多すぎるが、まったく古民家がないかといわれれば、そうでもないような。。。
しかしごく普通の郊外の村のような気もするし。。。
首をかしげたまま、なんとなく山の中腹にあるお寺までのゆるやかなハイキングとなった。
家に帰って後から調べたら、なんと「桑谷村」は二つあることが判明。
「どうも普通の村だなあああ」と思っていたのは、別の村だったのですねー。
しかしこれまた中途半端にお寺などもあったりするので、そこまで登り、それなりに満足。
この当たりは、「定都峰」といい、「不到定都峰、枉道北京城(定都峰に来らずんば、北京城に来た意味なし)」というらしい。
山の中腹に出現した広慧寺。
寺の入り口
境内には、樹齢数百年の銀杏の古木が。圧倒的な存在感。
広慧寺の構造は、ごくシンプルな三合院。
中国語のサイトによると、「現地の人たちによると、広慧寺の歴史は潭柘寺よりも長いという」とある。
潭柘寺といえば、「先に潭柘寺ありき、後に北京ありき」といわれる由緒正しきお寺。
桑谷村は潭柘寺鎮にあり、両者は地理的にも遠くない。
そういえば、あまり関係ない話だが、私もまだ潭柘寺には行ったことがない。
あまりにも有名すぎ、あまりにもベタ過ぎると、とかく行く機会を逃してしまうものだ。
いずれまた行きたい。
閑話休題。
広慧寺は「明代の創建」と、あちこちのサイトに書かれている。
もし譚拓寺よりも古いのであれば、それでは矛盾することになるが、
おそらくすでに原型のようなものがあり、明代に隆盛したということだろうか。
当時は大勢の僧侶を抱えていたという。
中国語サイト
『仏教ガイダンス』には、次のような解説がある。
「清代に入ると、宮廷の宦官らの避暑地となっていた時期もあるが、
清末、清朝の没落に伴い、恭親王・亦忻門下の大宦官・安徳海が、広慧寺を商人らに売り、人件費の支払いなどに当てた。
それ以来、広慧寺の「皇家寺廟」という肩書きがなくなり、人々から少しずつ忘れられていった。」
恭親王・亦忻といえば、列強連合軍が北京になだれ込み、
泡を食った咸豊帝(西太后の夫)が承徳に避難している間に西洋人らを相手に戦後処理を担当した咸豊帝の弟。
彼が皇帝になっていたら、西太后の出る幕など到底なかったし、中国の近代史も変わっていただろう、といわれる人物。
彼は一時期、譚拓寺に長期滞在しており、地理的に近いこの寺とは、そういう意味で縁もあるということだろうか。
また安徳海といえば、後に西太后にかわいがられ、専横をほしいままにした宦官。
そのせいで敵を作りすぎ、宦官のくせに外地に出た(清朝の宦官は北京近郊以外は外出してはならないという決まりあり)ことを摘発されて失脚した人だ。
彼が失脚しなければ、後の李連英の栄華もありえない。
そうやって歴史的有名人の名前がバンバン挙がってくると、
「ほおおほおお」と少しはありがたみも出てくるというもの。
見学している時点では、そこまでの知識もなく、ただ漠然と見、後から復習して写真を見返すことしかできないが。
同窓会の皆さん。お茶目です。
中のご本尊は、北京の他の古刹と同様、如何にも新しいもの。
何しろ、大躍進ですべて溶かしてブロックにしてしまったらしいですから。
北京周辺には古いものはほとんど残っていないとのこと。
門頭溝の家屋の特徴「石片瓦」。
石で作った瓦を使用している。
このあたりの岩は、横に圧力をかけると、紙のように薄くわれる特徴があり、それを瓦として利用しているもの。
光を受けると、七色に輝き、それは美しくて風情がある。
私が愛してやまない風物だが、実用性はあまりよろしくない。
昔、門頭溝近くの谷に家を建てて住んでいた頃、
今ではもうこういった古建築の再現にしかあまり使われなくなった石片瓦を求め、あちこちを探し回ったことがある。
なんとか見つけることはできたが、今度はその施工が難しく、できる職人さんがあまりいないという。
実用的ではないとは、そういうことであり、つまりは本来なら雨水を下へ流していき、
家の中に入れないようにするのが瓦の役目なわけだが、岩をめくって作られるこの瓦は表面が完全に平らではないし、形状も完全に一致させることは難しい。
端の方は少しのダメージでぼろぼろと崩れてしまうからだ。
密封性が悪く、規則的でもないため、雨漏りを起こしやすい。
その昔、流通が不便で外から物資を運んでくるよりは、その辺にあるものを利用して作ったほうが安上がりだった時代には、
それでも苦労してこの石瓦を使おうとして皆、施工の腕を磨いたりもしたのだろう。
ところが今では山の中だろうと、谷の中だろうと、舗装された道路をトラックで乗りつけることができる時代になり、
その必要性はなくなってきたというわけだ。
それでもこの石瓦の美しさにヤラれてしまっていた私は採用を強行。
案の定、激しく雨が降りしきるある季節に派手な雨漏りを引き起こして家の天井や壁をカビだらけにさせてしまった、
という苦くも甘美なる思い出がある。
境内の様子。
石瓦は今、100%用いるよりは、素焼き瓦と模様を作りつつ使うのが主流。
美観的にもそのほうが素敵だと私も思う。
ところで、安徳海に売り飛ばされた後の広慧寺は、どうなったのだろうか。
前述の中国語サイト
『仏教ガイダンス』にも
「四十年代末期には次第にお参りに訪れる人も少なくなり、僧侶らもいずこかへ消えていった。
お堂は風雨にさらされ、荒廃していった。新中国の成立後、徐々に広慧寺は取り壊され、
その建材で桑峪小学校が建てられた。」
という風に、ほとんど瓦解され、「白骨化」どころか「ぺんぺん草」のみの状態だったらしいことがうかがえる。
そこに2008年まではほとんど廃墟だった写真を発見した。
以下に中国語サイト
『複式猪圏(複式ブタ小屋)』というお茶目な名前のブログにアップされていた写真をそのまま拝借させてもらう。
写真には確かに無残な姿が。。。
どうやらこの5年間で再建したようですな。。。