いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥 記事の一覧表

2011年04月13日 01時04分15秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥

北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
 「糞取り夫」から国家主席・劉少奇の盟友にまで登り詰めた男・時伝祥の生涯と過ぎ去りし時代を描く。

記事の一覧表: 


    1、労働模範・時伝祥
    2、糞覇の元での生活
    3、都会の汚名を怖がらない
    4、時伝祥、嫁を取る
    5、花嫁が雄鶏と婚礼
    6、解放直後の北京
    7、農村の土地改革、始まる
    8、糞業、ついに国有化
    9、ボランティア精神
    10、食糧生産に肥えで貢献
    11、足の指切断の危機


北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 11、足の指切断の危機

2011年04月11日 15時22分05秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
脚の瘤は長年の過酷な労働、不衛生な労働環境が起因したことは想像に難くない。
20歳前後の頃、満足な靴を買うこともできず、真冬は零下20度の厳寒でさえも靴下らしきものもなく、
しもやけよりはかなり凍傷に近い状態が慢性化したような状態で、
鋭く尖った小石やガラスなどを踏んでは化膿させ、そのまま細菌に感染して膨れ上がるような状態を繰り返していたことは、前述のとおりである。

破傷風にならずとも、長年の脚の切り傷、大腸菌がうようよいる環境に常にさらされていることで、
瘤になったことは充分に考えられる。

脚の指を切断する、といわれ、時伝祥は目の前が真っ暗になった。

この時、彼はすでに労働模範になっており、
彼が人々から尊敬され、崇拝される唯一の理由は、屈強な肉体を駆使した人民への奉仕のためである。

脚の指を切断されたら、歩行に障害が出ることは否めないだろう。
たとえ日常生活は送れたとしても、100kgもある糞桶を背負って大地に立ち、踏んばることはもうできないに違いない。
糞桶を背負えない自分など、もはや自分ではない―――。


時伝祥は再三、党の上司にも訴え、医者にも訴えた。
あちこちの病院を訪ね歩き、ついに脚の指を切断しないでも瘤を除去できるという手術を承諾する医者を見つけたのである。
こうして時伝祥の脚の指は、切断されず、瘤も無事除去され、脚は完治した。


時伝祥が医者の主張をまったく信頼していないところが、面白い。
医者を盲信しない姿勢は、どちらかというと中国人のほうに一般的なような気がする。

時伝祥は文字も読めない文盲の農民出身だが、基本的には「自分ありき」なのである。
脚を残したいなら、それを実現してくれる医者を自分で探し出すのみ、と納得するまでとことん病院行脚を続ける。

医者がどんなに専門知識があろうと、自分より教養があろうと、
「自分」ありき、人を盲目的に信用することはない。

広大な国土の中、警察力が必ずしも機能しない時代・場所の方が多かったお国柄で発達した処世術といえる。
ある意味では、血縁者・地縁者しか信用しない傾向もその延長線にある。


これは昨今流行のネット恋愛に対する姿勢にも共通する。
「どこの馬の骨ともわからない」ことへの抵抗は、低い。

なぜなら現実世界でも「どこの馬の骨ともわからない」人が、がんがん騙しもすれば、道義の通らないこともする。
それは騙されるほうが悪いのであって、騙したとぎゃあぎゃあ騒いでも現実は何も変わらない。

自己防衛の腕を上げるほうがよほど現実的なのだ。
その現象がネットでも起きたからといって、それも今更ぎゃあぎゃあ騒ぐほど珍しい現象でもないのだ。

今どきの若者の出会いは、学校・職場にも適当な相手がおらず、友人の紹介でもだめなら、さっさとネットで見つける。



少し遡り、ちょうど北京が共産党軍に解放されたその日、
時伝祥は糞の汲み取りに行った公共トイレに捨てられた乳飲み子の女の子を見つけたことがあった。

時伝祥は、共産党が設立したばかりの福利院(孤児院)に赤子を送り届け、その父親的な存在として、何かとめんどうを見ていく。
「解放」の日に拾われたので、名前は「石解放」と名づけた。

「石」は「時」と同音である。
実はその生みの親は、当時裕福な家庭の娘だったが、恋人は北平陥落の直前、国民党軍とともに自分をおいて台湾に飛んでいってしまった。
このため途方にくれた家族が女中に公共トイレに捨てさせたのであった。

何年もたち、アメリカで裕福な暮らしを送るようになっていたその女性は、
弁護士を通じてその当時遺棄してしまった自分の娘を探し当てた。

それが時伝祥の義理の娘であったのだ。
自分の娘を拾い、奉仕の精神に富んだ大人に育て上げてくれたことに感謝し、彼女は巨額の資産を北京の環境・衛生の事業に寄付したという。


このほかにも時伝祥が隊長だった時、隊では住民のごはん時は時間をはずすこと、
糞桶を背負って入る前に、通るからよけてくれ、と事前に声をかけるとともに、
洗濯物などは取り入れ、糞回収が終わってから干すように声をかけた。

中庭いっぱいに洗濯物を干していたら、背中の糞桶が当たって、糞がついてしまっては台無しだからだ。


時伝祥の軌跡を追う経緯で、労働模範になって以後のエピソードも先に書く形になったが、
その仕事への姿勢、雰囲気をつかむためにそのほうが分かりやすいのではないか、と思い、敢えてそうした。

どのような行動が評価されて労働模範になったか、理解するには、具体的なエピソードの羅列がなければ、わからないからである。



以上、見てきたように、時伝祥の私利私欲を越えた奉仕精神、細かい気遣いが、
住民らから賞賛され、さらには数々の武勇伝の感謝状も多く清潔隊に届けられた。

それが糞取り作業員の中で最も高給取りの70元月給ともなって反映されたといってよい。


その働きは政治的にも反映されていく。
1955年「清潔工人先進生産者」の称号を贈られ、翌年には「崇文区人民代表」に選ばれる。

つまり区会議員のような立場である。
同年には共産党にも入党する。

現代でも人口の約3%しかいない党員だが、
建国当時はもっと少なく、狭き門だったことを踏まえなければならない。

1958年には、北京政治協会委員に選ばれる。

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写真: 時伝祥記念館。

     道具の展示場所。
     



「時伝祥と同時代の環境衛生工員が使用していた帽子、長靴、靴。



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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 10、食糧生産に肥えで貢献

2011年04月10日 22時15分28秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
1961年の春、南翔胡同の張ばあ様の家に糞回収に行った際、
時伝祥はトイレがメンテナンスの必要な状態にありながら、ご老体で作業もままならないことを見て取った。

そこで休みの日を利用し、トイレの穴を掘りなおし、
拾ってきた古レンガで穴の周りにレンガを積んで整備し、こぎれいに掃除した。

張ばあ様は感激し、何度も清潔隊に感謝状を書いて送った。
のちに時伝祥が入院した際、ばあ様はそれを聞きつけ、2度の見舞いに訪れている。



新中国成立後も人糞が大切な肥料である事情に変わりはなかった。
食糧増産の党の呼びかけに応えようと、時伝祥は隊の同志らとともに未開発の「肥源」を求めて探索に出かけた。

つまりは何かの偶然で糞回収の縄張りからはずれ、タンクが深かったためにその後もあふれることなく、大量の糞を溜め込んでいるようなケースである。

ある時、時伝祥と仲間たちはそんな長年の手付かずのタンクを見つけ、大喜びした。
貴重な肥えを一滴たりとも無駄にしないため、時伝祥は服を脱いで腰の深さまであるタンクの中に飛び込んだ。

ほかの同志らもそれに続き、喜び勇んで糞と格闘し、すべてきれいさっぱり回収したのであった。

糞まみれなど、たとえ慣れていたとしても決して気持ちのいいものではない。
しかしこれで食糧増産に貢献できると思うと、その誇らしさの方が大きかった。


新中国の成立後、民国時代より食糧問題が深刻化した事情があるらしい。その原因は次のとおり。

  1、 政策として、工業化を加速させた。
     つまりこれまで農業をしていた人々の一部を労働者として工場に入れたため、その分生産量が減る。
 
  2、 都市人口の増加。1と相成す理論だが、これまでの食糧生産者が都会の消費者になるのだ。
     生産しないだけではなく、ひたすら消費する側に回る。
  
  3、 都市の食糧輸入の停止。 
     実は1949年以前、沿海都市の小麦製品の原料のかなりの部分を輸入に頼っていた。
 
     統計によると、1922年から1930年までの小麦の輸入は、年間平2516956担(1担は50kg)、
     上海の小麦製品工業の原料の28.78%を占めた。

     つまり年間需要の3ヶ月分は輸入に頼っていたことになる。
     これが1933年になると、年間需要の10ヶ月分を輸入に依存するようになっていた。


1954年9月、糧食部の部長、つまり食糧省の大臣・章乃器は、全人代の発言で誇らしげにこういった。
我々は50年来、米・小麦を輸入に頼ってきた現状を断ち切り、今では逆に海外に輸出するまでになった、と。


1953年10月2日、毛沢東は国民の食糧売買を禁止する。
すべての食糧は国家以外に売ってはならない、と。

10月19日に決議された『食糧計画買取と計画供給の実施に関する命令』では、
「すべての買取り量と供給量、買取り基準・価格と供給基準・価格は、必ず中央の統一規定に従うか、もしくは中央が許可したものでなければならない」
と規定する。

これにより食糧の自由市場は消滅し、政府がすべての食品を独占することになる。


ここでいう「買取り」とは、農民の余った食糧を買い取ることをいうが、
いくら農民の元に残せばそれ以上を「余った」というかの基準は、
相当低く設定されており、その量で農民はお腹いっぱいになることはできなかった。

政策として、強制的に工業化を推し進めるには、工場で働く労働者を増やさなければならない。

そうなると、食糧を生産しない都市人口が増えることになり、彼らの食糧も供給してもらう必要がある。
さらに工業発展のためには、海外から高価な機械を買わねばならないが、
そのためにも農作物を輸出し、外貨を得なければならなかった。

だから農民を腹いっぱい食べさせるだけの食糧を手元に残すわけには行かなかったのである。


1962年の発言ではあるが、劉少奇がその苦しさについて、率直に認めている。
「今、国の食糧需要と農民が売りたいと思う量の間には、差があり、しかもかなり大きな開きがあります。
 もし農民の希望通り、本当に自分が満腹になった後に残った食糧だけを国に売りたいというなら、
 本当に農民がすべてお腹いっぱいになった後のあまりだけを国が買ったとしたら、
 我々の食糧はなくなってしまいます。

 労働者、教員、科学者、その他の都市住民には、食べ物がなくなってしまいます。
 工業化は進まなくなり、軍隊を縮小し、国防もままならなくなってしまいます。」


1953年のこの政策の開始以後、
中国の農民は、秋の収穫後のごく短期間の間だけ腹いっぱいに食べることができた以外、
その他の季節はいつも腹をすかしている状態だった。


統一買取り・販売を実施してから、税と強制買取りの2つを合わせた所謂「征購」の比率が10%も増えた。
1955年の征購比率は、全食糧の31%にまで増え、農村では飢餓状態が出現する。

そのためにその後の2年間は征購をやや減らさざるを得なくなる。
それでもなお毎年「余剰食糧」の買取りは続けられるが、実際にはまったく「余剰」ではなく、深刻な飢餓状態にあったため、
再び農村に「再販売」する食糧が、年間40%を超えた。

農村から強制的に買い取り、これを一旦都市の倉庫に入庫し、
そこからもう一度貴重なガソリンを使って農村に戻す無駄は、想像に余りあるが、
それでも一旦は国庫に食糧を収め、不測の事態に備えた。

その後、この「征購」がますます過酷になり、
1959年大躍進後の大飢饉にもつながるが、ここでは主題からそれるので、触れない。


ともあれ、根本にあったのは「自力更生」への悲願に尽きる。
アヘン戦争以来、100年近い半植民地状態を経験し、外国からいじめられないようにするには、
他国と同じくらい工業を発展させ、相手を上回る技術を工業、軍事のあらゆる面で持たない限り、
いつでもその危険性にさらされることになる、と。



以上のような時代的背景を見ても、時伝祥が肥溜めの中に飛び込み、格闘した苦労は、
確実にお国のために貢献しており、彼がそれを誇らしく思う気持ちは、まったく正しかったといえる。

それくらい建国、「自力更生」の生みの苦しみの中で、農産物増産が大きな役割を果たしていた。


その後、収穫高を実際より多く報告する傾向は全国的に広がり、「征購」はますますエスカレート、
ついに大躍進後の3年間の大飢饉を出すに至る。

これはすでに時伝祥が労働模範として、全国的な有名人になってからのことで、
話が前後するが、その「偉業」を紹介する経緯で、先に書く。


全国的に食糧は極度に不足したが、
党からは都会に留まっている者でも農村に帰れる人はなるべく帰るように呼びかけた。

農村も都会も同じように飢えたが、都会では農業生産もできず、手も足も出ない状態だが、
農村なら野の動植物を取って食べるなどして、何かしら生き残れる可能性がある、という判断である。

この呼びかけを受け、時伝祥は妻と子供たちを自主的に山東の農村に帰した。


またある年、小麦の収穫の時期、農村での刈り取りの人手が足りないということで、
都市の各職場からも助っ人を出して応援するよう指示が出た。

時伝祥の隊では十数人が出され、残りはたった7人となったが、日常のノルマが減るわけではない。
崇文門の住民は、同じように毎日何度もの用を足し、
トイレの穴は同じペースで満杯になり、汲み取りしてくれる人を待っているのだ。

時伝祥は部下を叱咤激励し、人手が減ったからといって住民の生活に不便をもたらしてはいけない、と日曜日を返上し、
自分は持病をおして踏ん張った。

これはすでに労働模範になった後でのことなので、
全国の有名人、人民の英雄の体を気遣い、上司・同僚らは休むように言ったが、
「人手が足りない時に一人寝ていることができますか?」
と、聞かぬ。

収穫が終わるまでの1ヶ月余りの間、普段は17人でこなしているノルマを7人でやり通した。

無理に無理を重ねたこともあり、時伝祥の病状は日に日に悪化していった。
ある日、布巷子胡同で作業している際、突然目の前がまっくらになり、
両足に力が入らなくなり、そのまま地面に座り込んだまま動けなくなってしまった。

党支部の上司がこれを聞きつけ、急いで無理やり病院に運び込んだ。
検査の結果、一つは高血圧を抱えていること、さらに足に大きな瘤(こぶ)があり、
医者は瘤のある足の指を切断するよう決定した。




高血圧は45過ぎの年齢であれば、今では普通に見られる症状である。
しかし当時はあまり聞かなかった、と50代以上の人はいう。

では、高血圧になる可能性があるとしたら、貧しかった時代なので、
やたらと塩辛いおかずを食べていたことは、充分に考えられるだろうし、肉体的にきつい労働をする夫に気を使い、
妻がけんめいにラードで精をつけさせていた可能性もある。

解放後に給料が50元の高給になっていたのだから、エンゲル係数を高くすればできないことではない。


私が初めて中国に来た90年代初めでもまだ一般庶民にとっては、
植物油もラードも「精のつく栄養たっぷりのもの」であり、
普通にレストランで頼んだ炒め物は、皿の底に少なくとも5mmから1cmの油がたまっていたし、
チャーハンの米粒は油の中を泳いでいるような状態だった。

豚の角煮を注文すれば、脂肪部分から溶け出した脂は、
すくい出すことなく、表面に1cmくらいの透明な膜を張っていた。

日本人の私から見ると、見ただけでメタボになりそうな高カロリーだが、地元の人は嬉々として食べていた。


計画経済の配給制だった時代、北京市民の一人当たりの肉の配給は、
豚肉が1ヶ月に2両から5両(1両は50g、つまり100g-250g)という厳しい内容だった。

知り合いの50代男性は、小さい頃に「糧票(配給切符)」を親から預かり、肉の支給を受けに行くお使いをする際、
母親から「なるべく白い脂肪の部分をもらって来なさい」と命じられたという。

赤身の肉では、あっという間に食べ終わってしまうからだ。
脂肪部分はカロリーが高く、「肉」としての栄養価が少しでも高く発揮できる。

各家庭では、この白い脂肪の固まりを少ない水と一緒にぐつぐつ煮て脂分を煮出し、真っ白なラードを作った。
そして野菜を炒める時に油代わりに使うか、油と一緒に少し入れ、
肉なし炒めでも「肉」入りにする工夫をしたのだという。

肉と同じように油も配給では、一人当たり1ヶ月に2両から6両(1両は50g、つまり100g-300g)しかないので、
炒め物にはとても足りない。
このため炒め物が食卓に上ることはめったになく、普段は漬け物をおかずとすることが多かったという。


90年代初めは少し豊かになり始めたばかりの時代である。
ここぞとばかりに大量の油、大量の脂肉が出てきたのも、それこそが庶民の考えるごちそうだったからだろう。


それが2008年のオリンピック前後になると、45歳以上で糖尿病が続出、高血圧・高血糖・高血値のオンパレードとなり、
ついに国民全員が成人病を気にする時代に突入した。

レストランのチャーハンの皿の底に油が残ることはなくなり、
炒める油もかなり抑えるようになった。

そうしないと、「あそこのレストランは油っぽい」とお客がこなくなるからだ。
それでも炒め物は油が多いというので、家庭では炒め物の登場回数が減り、
あえもの系のコールド・ディッシュにおかゆ、または野菜あんだけの餃子で済ませることが多くなる。

炒め物をするにも、高価なイタリア製オリーブオイルが普通のローカルスーパーに登場し、よく売れているようである。
どうせ油を使わないといけない時は、悪玉コレステロールだけを下げるなどの効能が知られているオリーブオイルにしようというわけである。

このように中国人の油・脂に対する認識が変わるのは、
やっと2000年以後のことの故、やたらと塩辛いか、やたらとラードを摂取していたかという可能性はある。

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香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『身辺の劉少奇』より


大躍進を支持するデモ行進。


「生産量、今年はイギリスを越えるぞ」



香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『大視野 身辺の劉少奇』より

当時の農村の人々。




映画『時伝祥』のシーンより。



病に倒れる時伝祥。


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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 9、ボランティア精神

2011年04月09日 15時18分17秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
時伝祥にはほかの糞取り作業員とは、一味違った仕事の順序があったという。
糞取りに行く前、まずはいついつ来るから、と住民に伝え、庭に物を出しておかないように
、万が一糞桶が触れて汚れたら大変だから、と注意を促す。

糞を汲み取る際は、作業が終われば周りを掃き清め、
中庭などに万が一、たれてしまった場合は、石灰を撒き、清潔になるよう、注意を怠らなかったという。


解放後まもなく、清潔隊の汲み取りにもトラックが導入される。
もう昔のように糞車を手で押して毎日数十kmも往復する必要はなかったが、
胡同の道幅は狭く、トラックが入れる道までは一定の距離があり、その間は相変わらず、背負って歩くしかない。


糞桶は大量の糞を入れても持ちこたえることができるように頑丈な木で作られている。
このため桶自体の重さだけでも20kgもあり、ひ弱な肉体なら空の状態で背負ってもふらふらするだろう。

ましてや中身がいっぱいになれば、最低でも100kgにもなる。
時伝祥の左肩には、長年背負ってきた糞桶の重さのために黒い大きな、かつ広いたこができている。
肉が破れ、化膿し、治癒しては再び破れ、同じことが繰り返された、他より厚く硬くなった皮膚の盛り上がりである。


が、すでに40過ぎのベテラン糞夫である時伝祥は、巨躯を凛と伸ばし、
軽々と100kgを超える糞桶を背負う。桶の中身はぴくりとも揺れることはなく、優雅かつ静かに背負われている。


時伝祥は隊長として、作業効率の向上にも頭を絞る。
その結果、それまでは7人1班だったのを5人1班に変えたほか、それまでは一人1日50桶しか背負えなかったのを、
80桶まで増産(?)、自分は90桶背負った。

1シフトで最大5トンの糞を背負い、住民は清潔なトイレ環境を堪能することができるようになった。
糞回収の間隔が空くほど、トイレは臭く、糞もあふれやすいことはいうまでもない。


処理能力が上がったのは、何も皆がそれまでさぼって糞桶を背負わなかったからではない。
つまり回収のトラックと人のタイミングを合理的に考え、うまくタイムロスがでなくなるように工夫したからである。

「作業員がトラックを待たず、トラックが作業員を待たない」ようにするにはどうしたらいいか、輸送の無駄をなくすシフト作りに頭を絞った結果である。



以下の話は、どうやら時伝祥が労働模範となり、かの劉少奇と握手した写真により一躍、全国的に有名になった前後のことかと思われるが、
やはり献身的な働きぶりが伝わっている。


これ以後、特に「臭い」話が続くが、ご了承を。

1959年の秋、連日の雨のせいで崇文門の花市大街の一帯は膝を越えるほどの大雨となった。

話はそれるが、今年の北京はゲリラ豪雨に襲われること無数、雨が降るたびに都市機能が完全に麻痺した。
華北の半分砂漠気候も入る北京地方は、乾燥が激しく、普段はほとんど雨も雪も降らないが、数年に一度ほど、ゲリラ豪雨の襲撃の恐ろしい年がある。

一度雨が降ると、ものの数分で道路のここそこに10cm、20cmの深さの水溜りができてくる。
下水道への排水口が少なく、雨の逃げ場所が少ない。
傘をさして、体の上は雨を防げたとしても、歩けば靴とズボンが確実に水浸しになるため、
雨がやんでも水が引くまで移動することすらできない。

さらには地面を掘り下げて半地下にして交差させている立体交差道路では、
瞬く間に水の深さが50cmを超え、自動車の浸水を怖がるドライバーがその目前で立ち往生、
その後ろは数十kmにも渡る大渋滞、車はぴくりとも動くことはない。地下鉄の入り口から浸水し、地下鉄の運行停止もあった。

高度成長期に入って10年前後の中国。
こういったインフラを解決できるのは、もう少し時間がかかるのかもしれない、と感じる。



2011年でもそんな具合なのだから、
1959年の時点で膝まで浸かったというのは、さもありなん、と妙に納得してしまう。

崇文門の花市大街のある胡同は、長さ2kmもある上、道幅が狭く、まったくトラックが入ることもできない。
時伝祥の「やるぞ!」の掛け声を合図に作業員は糞桶を背負い、突進して行った。

時伝祥らは膝まで雨に浸かりながらも水の中を泳ぐように歩く。
車といわず、手ぶらであっても前に進むことも難しい中、夜明け3時から始め、午後2時まで11時間で糞桶を合計1000杯分も背負った。
膝まで浸かる中であれば、トイレの汚物は付近をうようよ泳いでいる壮絶な状態だったろうことは想像に難くない。



花市下四条に耿じい様というご老人がいた。
子供たちは同居していないご老人の一人暮らしだったところへ、この雨で家のトイレの壁が倒壊してしまった。

壁のレンガはすべてトイレの穴に落っこち、糞便があふれ返り、悪臭が周りに立ちこめていた。

壁はセメントではなく、ただの泥でレンガをつなげていた可能性が高い。
セメントは高価な上、普段の北京ならめったに雨も降らないので、意外と何年もそれで用が足りてしまうことも多いのだ。

それでも数年に一度の激しい雨では、このように崩れてしまうこともある。
所詮は露天のトイレ、しかもほとんどの場合、背の高さほどもないような壁なので、崩れても人が死ぬこともないだろうし、
雨がやんで乾いたら、また泥で固めるべ、という程度に考えている。

事実ほとんどの場合はそうする。
ただこのじい様のようにご老人の一人暮らしで自力で力仕事ができない場合は、やや厄介だろう。


時伝祥は、じい様宅のトイレの惨状を目の当たりにすると、
まずは穴も見えないほど雨水の入り込んだ部分を糞勺で水分を救い出し、
手を穴の中につっこんでレンガを一つ一つ拾い上げた。

糞をすべて救い出したところで、時伝祥の手は糞便だらけになっていたが、
水でレンガを一つ一つ丁寧に洗い、泥を練り直し(やっぱり泥つなぎだ!)、
レンガを積み上げて壁を元通りにして、じい様に引き渡したのである。

普段から老人の一人暮らしと知っているだけに、
自力では何もできないだろうことを予想しての心遣いである。


またある年の冬、北京第十一中学の校舎の三階のトイレは上水道の配管が壊れ、
糞便と汚水があふれてうようよと泳ぐ凄惨なる状態となっていた。

冬なので、それがさらに凍っているという絶望的な状態だ。
北京の冬は零下10-20度にもなる。
学生も先生もトイレを使うことができず、授業どころではなくなってしまった。


時伝祥はその噂を聞き、休日を利用し、部下の一群を引き連れていった。

まずはつるはしで氷を砕いた。
この作業は糞取り作業員にとってお手の物だ。

ほとんどが外にある北京城のトイレは、冬になれば、衝きもりなしに作業は進まない。
冬の回収は過酷な重労働だ。

がちがちに凍った巨大な塊になった汚物を、衝きもりでがんがんと突き崩し、一かけ一かけ取り出していく。

気も遠くなるような根気のいる作業だが、それが彼らの日常だ。
氷を突き崩すと、配管を直し、糞水を三階から背負っており、
トイレの修理を完了させ、ぴかぴかに掃除して去って行ったのである。

*******************************************************************************
映画『時伝祥』より。

映画『時伝祥』のシーンより。

雨の中を作業する。夏のゲリラ豪雨で臨時出動。




雨の中、レンガを積み上げる。




部下が手についた糞便を見て、嘔吐する。



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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 8、糞業、ついに国有化

2011年04月08日 17時34分08秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
以上、見てきたように農村の社会主義化は、1949年の建国からほぼ7年をかけて進められた。

では、糞業界はどうだったのか。

まずは党の当局により、毎日連日に渡る啓蒙教育が持たれる。
農村と同様、いきなりの「共有化」に抵抗を持つ一般の糞夫もいる。

糞夫には、時伝祥のように糞覇に雇われた者だけではなく、所謂「自営業」者もいるのだ。
先祖代々、父ちゃん、爺ちゃんから伝えてもらった「糞道」があり、
その汲み取りの権限がおまんまの種、命の源であり、石にしがみついてでも離さない覚悟、命の次に大事なものだ。

それをいきなり皆と共有しろと言われても、大パニックになる。
民国時代の数々のデモ、ストを見よ。
すべてのすったもんだが同じ経緯だったではないか。


公務員となることのメリットを説き、糞道の権利がなくなったからと言って、
生活には困らないことなどを時間をかけて納得させなければならない。

民国時代はまだ内戦が続いていたため、市政府の行政も流動的、
じっくりと糞夫らを啓蒙する時間も予算もなかったから成功しなかったといってよい。

政権が統一され、戦争がなくなれば、時間をかければ解決できる問題ではあったのだ。
また糞覇の元で働いてきた糞夫らには、「階級闘争」の仕方(??)とイデオロギーを教え込まなければならない。
これに数年の時間がかかったらしい。


そして四年後の1953年11月3日、『糞便管理制度の改造に関する布告』が公布され、
完全に旧来の糞道占有制度を廃止し、法に則り罪の深い糞覇を下すべき罰を下すことが規定されたのである。


二日後、糞覇らの告訴大会が開催された。
時伝祥も参加するよう呼ばれた。

彼は出刃包丁を底光りするまで磨きこみ、腰にぶちこんで会場に乗り込んだのである。
出刃包丁持参の時伝祥を見て、党幹部が「そんなものを持ってきてどうする気だね」と聞いた。

時伝祥は黒目を眉根に寄せ、顔を赤黒く変色させて
「糞覇の奴らを二人くらいでも切りつけて、糞取りの兄弟らの仇を討たにゃ、腹の虫が収まらねえ!!」
と、六尺(180cm)を越える塗り壁が如き巨躯に妖気を発散させ、
今にも糞覇に襲いかからんばかりの勢いだった。

そうだそうだと会場は、時伝祥の出刃包丁を見て、興奮に火がついた糞夫らの熱気で一気に室温が上がった。



―――年老いた糞夫の石加斎は、糞覇の元で数十年も身を粉にして働いてきたのに、
老いて病気になったからと言って、糞覇から糞廠の外に追い出され、
凍てつく極寒の夜明け、樹の下で凍死したではないか。

一生糞をほじくり、体が動かなくなったら、追い出されて野垂れ死にだ、あんな壮絶な人生があるか、あれが人間の生き方か。



―――もう一人いたな。作業中に足に怪我をして、その後に糞覇に動かない体にされちまった兄弟が。

糞夫らはわれ先に非難の声を上げ、この場で刀傷沙汰が起きずには済まない一触即発の雰囲気となった。


党の幹部は出刃包丁を振りかざす時伝祥をなだめ、
ここで一人や二人の糞覇を袈裟斬りにしたところで何も変わりはしない、
すべての糞覇、すべての搾取階級を消滅させてこそ、苦しみの中にある人民を救い出せるのだ、
さあ、言いたいことがあるなら壇上でいいなさい、とたたみかけた。


時伝祥は出刃包丁を振り上げた手を下ろし、替わりに壇上に躍り上がって、
火の如き口調で、糞覇らの非道を訴えた。

その硝薬の立ち込めるが如き殺気が、聞き入る糞夫らの心をえぐる。
思い出すには耐え難かったためこれまで封印していた記憶を引きずり出した。

糞夫らは怒号し、涙し、歯軋りした。
時伝祥の後、他の糞夫らも次々に壇上に躍り出、糞覇への恨みを解き放ち、ぶちまけた。

この日、20数人の糞覇が有罪判決を受けた。
中でも極悪と判決された四人の銃殺刑が決定、その中には、かの糞覇の巨頭・于徳順も入っていた。




于徳順、又の名を「于大肚子(でか腹の于)」。
かつては北京糞業公会の会長兼第九公会の会長でもあった。

弱小な糞道主を次々と併呑、北京城内に36本の糞道を持ち、
その財産は土地が1550畝(ムー)、邸宅が100ヶ所以上といわれる。

糞夫らへの横暴はよく知られており、深く怨みを買っていた。
実に劇的な最期である。

壮絶な最期を遂げたのはむしろ、糞道という「東亜病夫」の象徴の如き亡霊であったといえるだろうか。




1954年、糞業が完全に公営化されると、時伝祥は北京市崇文区糞便清潔隊の所属となった。
隊の中でもリーダー格になっていた時伝祥の月給は、1956年には70元余りになる。

「掏糞工人(糞取り作業員)」の中では、最高額だ。
世間の他の職業と比べても高給であったことは、いうまでもない。
充分に家族を養うことができる額だ。

時伝祥だけでなく、当時の糞取り作業員には、一種の職業意識、独自の美学があった。
糞すくいに一切、服や周りを汚さない。

すくう、移す、背負う、そのすべての動作で少しも周りに飛び散らせない、汚さない、惚れ惚れする職人技。
トイレの周りは水やほうきできれいに洗い清め、掃き、消毒と臭い消しのために石灰を撒く。
石灰の白さはいかにも清潔ですがすがしかった。


時伝祥にも独特の凛然とした尊厳らしきものが漂っていた。
180cmを超える巨躯に清潔な中山服を着、仕事が終わると、すべての道具を水槽に入れ、洗ってぴかぴかに磨いた。

自宅は小さいながら、清潔で整頓が行き届き、こういう職業だからこそ、身だしなみに気を配った。


伝わるところによると、糞桶を背負って北京の街を行く時伝祥は、
眉間に皺を寄せた苦悩の表情を浮かべることはなく、いつもフンフンと鼻歌を歌っていたという。

今や自分は糞取りではなく、清掃工なのだ、皆の家の清潔・衛生、健康のために仕事をしているのだ、
と人に誇らしげに話した。

社会主義になってから与えられた位置づけ、
役割を心から気に入り、自信を持ち、誇りを持って暮らせば、自然と鼻歌もフンフンと流れ出るというものである。


その誇りが自らも社会の一端を担い、人の役に立ちたいという動機となる。この時期の数々の「武勇伝」が伝わる。

当時の北京は四合院群がすでにほとんど大雑居長屋になっており、
ベッドと食卓を置いたら、あとは通路しか残らないような小さな部屋に一家5人暮らしなどはざら、
人々がひしめき合って暮らす超人口過密状態だった。

中庭1つを囲んだ四合院が2-3個縦に並んだような二進院、三進院でもトイレは1ヶ所だけ、ということが多かった。
男女それぞれのトイレは、ともに露天の土をむき出したところに穴を掘り、左右にれんがを置いて足場としただけのごく簡単な作り、
しかも穴が1つしかないことが多かった。

数十人、下手すると100人は暮らす雑居四合院にこのキャパでは、
糞があふれかえり、住民が悪臭に苦しめられることも多い。

時伝祥は、汲み取りに行った先でそういった状況に出会うと、だまって辺りからレンガを探してきた。
いくつか探し出すと、穴の周りを囲い、2段ほど高くしてやる。

そうすると、穴の容量が増し、糞があふれないようになるという思いやりだ。


*******************************************************************************

写真: 時伝祥記念館。



「肩当て。糞夫が糞桶を背負う時の必需品。重い桶の肩への負担を和らげ、服の摩擦を防ぐ。靴カバー。糞便が靴にかからないようにする。



当時のふとん。





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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 7、農村の土地改革、始まる

2011年04月07日 10時43分41秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
地主を打倒し、人々に平等に土地を分け与えるという土地改革は、
すでに国共内戦の時期から先に共産党によって統治が行われていた「解放区」では実施されていたが、
全国的に実施されたのは、全国統一後も半年以上たってからである。


1950年6月、中国共産党第7回三中全会にて、全国規模で土地改革を実施することを決議、
『中華人民共和国土地改革法』など一連の文書が次々と公布された。


つまりは地主の土地、家畜、農具、余った食糧、余った家屋を没収し、
土地を持たない、または土地の少ない農民に分け与えよ、という一連の政策の実施である。


但し、日本の戦後の進駐軍による農地改革のように自分で耕せない土地はすべて没収、という段階まで一気に徹底させたわけではない。

ある一定の規定値以上の土地、小作人、雇用者を持つ者を「地主」と規定し、自前使用のほかは没収したわけだが、
それに満たない場合は、土地を貸し出したり、人を雇ったりしていても「富農」に分類し、土地の没収はされなかった。

また小作人、雇用者を少数抱えている者でも「中農」に分類され、これも土地の没収はなかった。

どれくらいの土地の広さを持てば「地主」なのかは、
前述のとおり、広大な国土の北と南ではまったく概念が違うため、個々の地方によって決められたようである。

土地の生産力の高い高温多湿の南方では小さく、北方では大きく枠を決めたのだろう。ここでは本題と外れるため、詳細は省く。


一気にすべての人の土地を均一化しなかったのは、社会主義に徐々に国民を慣れさせるためであり、
さらには戦争で荒廃し切った国土を早く回復させ、まったく貯蓄のなかった国庫を満たすために、
既成の体制のまま頑張ってもらって生産力を上げるためでもあった。

農村の完全な社会主義化はその後、十数年の月日をかけて徐々に進められていく。


都会でも同様であり、北京市が共産党下に入った段階では、まだ体制が一気に変わったわけではない。

時伝祥の目線から見れば、1949年に解放を迎え、労働者の世の中が来た、と喜んでいる中で
当局主導の下、労働組合の発足が始まる。

時伝祥はすでに40歳を越えており、糞夫としてはリーダー格になってしかるべき年どころでもある。
前門区の糞業工人工会の組長に選ばれた。


自分たちが主役になれるという興奮と期待の渦の中、
あれよあれよと夢中になって過ごしているうちに半年ほどが経ち、
1950年6月から農村の土地改革が始まり、同僚たちが次々と北京を離れていったのである。



時伝祥も山東の田舎に帰るかどうか、大いに迷いがあった。
山東の実家では、土地改革で再び時家も土地を持つ自作農になることができ、
壮年の男子といえば家には弟一人しか残っていない。

広大な土地を耕し切れないから帰って来い、と山東から知らせも届いた。


迷っているうちに、北京ではどんどんと糞夫の数が減ってくる。
ここで彼の伝記には、彼が糞夫らを組織して賃金値上げの労働争議を起こしたこと、
糞夫の月給がほかの労働者より遥かに高い50元となったことが書かれている。


つまり働き手の人数が減ってきたために、残った糞夫らへの労働負担が増えたが、給料は上がらない。
仕事はどんどんきつくなるわ、糞覇は相変わらず、威張ったままでいる。

が、共産党政権になってからは、党の組織から労働者の権利や尊厳を説く思想教育ががんがんと進められつつあった。
もはや糞覇の味方をして、でたらめな理屈で糞夫らをいじめる警察も存在しなくなったのだ。

そこで賃金値上げ要求を起こしたのである。
糞覇の方もいかんせん人手不足である。

もはや解放前と違い、糞夫らには帰る場所がある。

都市に残るメリットをはっきりと示さねば、本当に誰もやり手がいなくなる可能性もある。
賃金値上げは受け入れられ、それが50元にもなってゆく。


人手不足の事情は、糞業が完全に国営化しても同じである。
50元といえば、普通の工場労働者の月給が20元程度であったことを思えば、破格の待遇だ。

しかし裏を返せば、それくらい出さないと、人材を確保できないという現実があった。
解放前には北京市だけで5000人も群がりひしめいていたことを思えば、なんという違いだろう。



時伝祥は素直にこれらの変化がうれしかったのだろう。
労働者の世の中が訪れ、社会から尊重されるようになり、待遇まで雲泥の差のごとくよくなった。
素直に労働者の天下になったこの職場で、他の革命家に負けぬように一肌脱ぐべえ、と奮起したのである。

もはや山東に帰ることは、考えなかった。



社会におけるあらゆる社会主義化は、ゆっくりと数年の時間をかけて推進、浸透が進められた。
糞業も然(しか)り、農村も然(しか)り。

農村では、土地を持てるようになった農民らが大喜びしたわけだが、
一度はすべての農民に分配された土地は、その後再び「公共化」に向けて組織化される。

--しかしそこは慎重に。
一度分配した土地をもし一気に公共化した場合、人々の心理的抵抗があまりにも大きい。

ぬか喜びさせておいて、やっぱり取り上げるのか、と解釈されかねない。
農民たちのやっとの思いで手に入れた土地に対する愛着・執着・情念は、鬼気迫るがごとき迫力だっただろうことは、想像に難くない。


だからこそ土地改革の直後、農民の生産への士気は大いに上がったという。
自分の土地を手に入れ、平和も訪れた。
戦いのために田畑を踏み荒らされたり、兵隊が理不尽にも収穫を押収するようなこともなく、働いた分だけ見返りがあるのだ。


土地改革は1950年から始まり、1952年末までには新疆、チベットなどの辺境地域を除き、国土の90%で終了した。
農業人口の60-70%に当たる3億人の人々が土地改革の恩恵を受けたという。

1951年の農業生産高は2873.7億斤(1斤は500g)。
これは内戦が終わった2年前の1949年の28.8%増し、
翌年の1952年には49年と比べ48.5%増しとなったというのだから、確かに驚異的な増産だ。


しかし土地の分配から3年たった1953年には、
早くも中央政府から『農業生産合作社の発展に関する決議』の文書が公布され、初期段階の農村の社会主義化が始まる。

つまり「入股(株主になる)」という形で、土地を合作社に預け、
集団で作業し、収穫物は株の額により配分するというものである。


それでもこの段階では土地はまだ私有財産であり、土地を合作社に委託し、
その土地の大きさにより株の額が決まり、収穫物の配分の量が決まった。

農具、耕作に使う家畜も個人の財産であり、合作社で使う場合は、「借りる」ことを建前として、レンタル料も支払った。


こうして人々を「集団作業」、「大鍋飯(ターグオファン=同じ釜の飯を食う。平等に分け前を得る)」に慣れさせること3年。

これと並行して社会主義の利点を説き、繰り返し叩き込む啓蒙教育も徹底される。
集団で作業することにより、農作業の効率が上がること、
1頭いれば、使いまわしの効く水牛を何頭もそれぞれの家庭で飼う無駄、
集団で飼育すれば、購入代・手間・飼料代のすべてにおいて節約できることなどを繰り返し説き、
人々に「社会主義」とは何かを啓蒙していくのである。


今度は逆に「差」があることに人々が不満を抱くようになる。
同じだけ作業をしているのに、「富農」だけ株が多く、たくさんの分け前をもらえること、
農具・耕作家畜のレンタルで料金を支払われる人のいることに対する不公平感が広がる。

その雰囲気が熟したタイミングを見計らい、
一気に本格的な「高級合作社」が普及するのは、1976年からである。

土地の私有制をかなぐり捨て、これまで富農などがやや多くの土地を所有していたのを認めていたが、
これも廃止し、完全な平等、社会主義となる。



ここからさらに数年かけて人民公社に発展させていく。



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写真: 時伝祥記念館。

記念館は四合院とその中庭をサンルームにした構成となっています。









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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥  6、解放直後の北京

2011年04月06日 18時14分11秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
こうして糞夫を続けつつ、時伝祥は家族とともに新中国の成立を北京で迎えた。

1949年1月31日、共産軍が北京に入城、共産党は旧国民党の市の衛生局所属の清潔総隊をそのまま引き継いだ。
当局は糞汚管理所を発足させ、各区に次々と「糞業工人工会(労働組合)」を発足する。
プロレタリアート革命が成功したのだから、この「労働組合」は資本家の参加しない「本物」というわけだ。


その年の8月、市政府は『城市存晒糞便処理弁法(都市の貯蔵・日干し糞便の処理に関する条例)』を公布、
城内の糞廠、糞坑、糞山を取り除くよう定めた。

その作業には丸々3ヶ月を要し、城外に運び出した大便は約61万トン。


・・・・聞いただけでも気絶しそうなほどの膨大な量ではないか。
一辺がたった6kmしかない北京城のどこにそんなに大量の糞を「隠し」所蔵していたのか、めまいもするくらいに不思議だ。


「無政府」とは、この状態をいう。

内戦が長引き、国共両軍の戦いがクライマックスを迎えるにつれ、行政機能が麻痺したままの状態が長期化すると、
誰も法律を守らなくなり、人の迷惑も顧みなくなり、世論による監視の機能もなくなる。

糞夫、糞覇にとって郊外の遠くまで糞を運んでいくのは当然、めんどうであり、重労働だ。
警察が機能しなくなれば、城内に少しでも広い土地があれば、そこで直接糞の加工を始めてしまうわ、
加工はしないまでもせめてしばらくそこに干して、水分を減らしてかさを軽くしてから運び出そうとするわ、
穴を掘って一時的に糞を溜め込むわ、それならまだしもそのまま空き地に山積みにするわ、と、もう好き放題である。

24時間体制で悪臭を放ち続けたことは疑いない。

しかし戦争状態では、誰にもどうすることもできないではないか。



戦争状態で砲弾が飛び交う中、1日に何度も城外に往復していたら、いつ流れ弾に当たらぬとも限らないとか、
兵士徴用に「誘拐」されるかわからないから嫌だ、てなもんだろう。

老舎『駱駝のシャンツー』が、城外の海定にある清華大学まで客を送りに行ったら、
その帰りに軍閥に拉致されて兵士に徴用されてしまうではないか。

せっかく何年もかけて血のにじむ思いをして買った人力車もあっけなく没収されて。
あれは馮玉祥の部隊である。
各軍閥が限りある壮丁を兵として取り合うものだから、ひと気のないところで「壮丁」と見れば、拉致されることも少なくなかったらしい。

かくして北京城内は、新聞で糞夫らの恐喝を罵っていた頃が懐かしいほどの「悪臭城」と成り果てる始末であったのだ。



糞だけではない。
行政機能の麻痺は、あらゆる分野に及ぶ。

ゴミもしかり、前述の治水問題しかり。まずはゴミから見ていこう。


解放直前の北京城内では、ゴミが文字通り「山」積みになっていた。
どれくらいの「山」かといえば、屋根まで積みあがっているところ、城壁(高さ11.3m)まで(!!)積みあがっているところ、
街の入り口、胡同の入り口をふさぎ、交通機能を麻痺させているところなど、普通の日常生活もままならない状態だったという。


安定した政府が存在しないということは、税金を徴収し、公務員を雇い、ゴミの始末をする人がいないということだ。
人々は生活ごみを家の外に捨てるだけで、数kmも離れた城外まで捨てに行くような人はいないに決まっている。

内戦状態の市政府はころころと主人が入れ替わり、収入と支出の自己完結をする間もないのだから仕方がない。


1949年3月、共産党が北京に入城してから1ヶ月後、市の人民政府は「北平市清潔運動委員会」を発足、
各区に支部を設け、市民を動員して大規模なごみの搬出を行った。

発足まもない市政府には予算がないから、それなら「人力」動員というわけだ。
市民の手により91日間に渡るゴミ搬出が続けられ、20万1638トンにもなる長年のゴミを一気に運び出した。

その年の11月、2年後の1951年3月の二度にわたり、
さらに大掃除を決行した結果、もう60万トン余りのゴミを城外に運び出した。

1952年からはトラックによる運行も始まった。

城外に運び出されたゴミは、沼地の埋め立てに使われたほかは、
穴を掘り、埋め立てられた。

統一政府が機能しだしたことにより、徐々に街の様相が落ち着きを取り戻してきたのである。




内戦の間、放置されたままだったのは、町の清掃業務だけではない。
治水も清末辺りから充分な予算が出ていなかったのではないか、と思われる。

アヘン戦争勃発辺りからもう政府は余裕がなくなっていた。
少なくとも辛亥革命から解放まで40年近くは、ほぼ放りっぱなしである。

長年、河底を浚(さら)わなかったため、水の流れが鈍くなるわ、水門は壊れて機能しないわで水量も減り、
水系の果たすべき環境への調整弁的な役割が破綻していた。

北京城内の三海(中・南海、北海)、積水潭、什刹海等の人工湖はほとんど水流の入り込まないためにただの池と化して久しかった。

本来なら城内の湖は、北京の西北の玉泉山水系から引いてくる水が、
最終的に南から来る大運河と合流する北京城の東南にある通県まで続く総合水系の一環でなければならず、
お堀の水とも通じ、常に滔滔と新鮮な水が流れ込み、流れ去っていなければならない。

それが入り口から入ってこず、出口からも出て行かないただの池となり果ててしまったがために、
ボーフラが湧き、長年の伝染病の源となる始末であった。


1950年、人民政府は北京市の水系を本格的に整備し始めた。

玉泉山水系は水源地から数十kmの田園地帯を通り、市の中心地区とその周辺に入ってくる。
その機能が健全でなければ、城内の環境、衛生状態、ひいては人々の健康にまで大きな影響を及ぼすことになる。

その意味でも川底を浚(さら)い、メンテナンスをすべき最優先は、玉泉山水系だったのである。


さらに1950年には、水源からすぐの玉泉山のふもとにある金河、長河で上流を浚い、
北京城内の水系を構成する内外城を囲むお堀、紫禁城のお堀である筒子河の川底の泥を取り除いた。

泥がなくなると、各河の水流量は一気に増えて流れも速くなり、ボーフラと汚水をすっきりと運河に向けて押し流していったのである。


また水量全体をさらに増やすため、玉泉山の金河、長河の岸に沿って水源として井戸を10本掘った。
その出水量は1日当たり2.4万立方メートルにもなり、新たな山の地下水を北京城に向けて送りこんだ。
これに加え、玉泉山のふもとにある巨大なる昆明湖の貯水力もあり、毎年6ヶ月ある水不足期間の水供給の問題を解決したのである。


今でも北京市内で市民の憩い場になっている龍潭、玉渊潭、陶然亭、紫竹院等の湖は当時、葦が生い茂るただの悪臭漂うため池でしかなかったが、
水系とつなげて入り口と出口を作り、底をさらうことにより、清潔な水辺に変身を遂げ、公園に整備されて人々に癒しを与えた。



新中国の成立後、共産党の指導の元、
北京の糞業界で次々と「糞業工人工会(労働者組合)」が組織されたことは、前述のとおりである。

が、この時点では、まだ解放前と同じ体制、つまり糞覇の元で糞夫が働き、
給料を受け取るという体制のままである。

糞道の私有制という体制は、動かされていない。

そこに共産党が労働者の味方となり、労働組合の組織を指導し、
資本家になされるがままで泣き寝入りしないようにノウハウを叩き込んだ、という状態だろうか。


糞業界自体では、まだこの程度の変化に留まっており、
糞覇らにとっては糞夫らがえらく扱いにくくなっただけだが、大きなうねりは実は農村のほうからやってくる。

つまり農村で土地改革が行われ、すべての農民に土地が分けられたので、
糞夫らが次々と農村へ帰ってしまい、糞夫が激減したのである。


民国時代の北京に5000人もの糞夫がいたことを思い出してほしい。

北京城にそれだけの糞夫が必要だったのではなく、ほかにもっとましな生き方、食べ方が見つからないがために、
我も我もと押しくら饅頭のように数千の肉体をねじ込み、この人数となった。

その多くは、時伝祥のように土地を持たない農民たちである。
農村で地主の下で働くのでは、生きるための食べ物がなんとか手に入る以外は、ほとんど貯蓄も残らず、
家の新築もできなければ、一生嫁を取ることもできない、ほぼ農奴と変わらない暮らししか残されていない。

それなら都会に出てきて糞夫をやれば、少なくとも少しずつ貯金をしたり、田舎に仕送りすることもできる。


工業化以前の社会では、安定した収入の稼げる仕事などめったに転がっているものではない。
糞夫の収入は巡査の給料とほぼ同じだったことに触れたことがあるが、
山東から出てきた農民がいきなり巡査に採用してもらえるわけがない。

こういう安定した職業は、たいていが役人の親族などの「内輪」で埋まっており、
部外者に就業機会が回ってくることはめったにない。

同じように商人の使う従業員は、同族・同郷で固めている場合が多く、部外者に回ってくるチャンスは多くはなかった。

だからこそ最も人に軽蔑される糞取りでも、そのやる価値があった。

そこへ共産党による土地改革があり、自分の土地が持てるようになるというではないか。
大多数の糞夫が喜び勇んで糞勺と糞桶を放り出し、家路を急いだのも無理はない。


*******************************************************************************

写真: 時伝祥記念館。

上は、当時の国家主席・劉少奇と時伝祥が握手する有名な写真の塑像。
劉少奇と王光美の息子・劉源将軍が時伝祥の息子・時純利に贈ったものだという。

       




民国時代に改良された、ふたのついた一輪車。

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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥  5、花嫁が雄鶏と婚礼

2011年04月05日 19時56分17秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
このように時伝祥の家では、唯一の女の子であった妹を飢饉の年に童養[女息]として「安売り」してしまったがために、
男兄弟の嫁取りの足しにすることはできなかった。

当時、時伝祥の実家に残されていたのは年老いた母親と弟だけである。
土地もないことから、二人ともどこかに日雇い労働にでも出るか、土地を借り受けて小作人となるかして、
どうにか生き延びていたことだろう。

弟が稼いだ金があったとしたら当然、自分の嫁取りに使わなければならない。
でなければ、自分だって一生嫁も取れない生涯で終わってしまう可能性が高いのだ。

母親が稼いだお金があるとしても、女の細腕で稼いで嫁取りの金まで貯めることができたとは想像しにくい。

このように分析してみると、時伝祥の嫁取り資金は15歳から22歳までの7年間に貯めた糞取りの報酬で貯めたと考えるしかない。


きつく、汚く、つらく、尊厳のない仕事ではあったが、それでも生きるための最低限の収入を男たちは稼ぎ出していたのである。



花嫁の崔秀庭は、花婿の不在のまま婚礼の日を迎えた。

婚家の敷居を跨いで入ってきた花嫁を迎えたのは、「雄鶏」である。

映画『時伝祥』では、この場面を再現している。
赤い布を頭にかぶった花嫁を介添え人が二人両脇から抱えて連れ添い、花嫁の手に雄鶏を抱えさせ、
仲人が「嫁鶏随鶏―!!」と叫ぶ。

つまり中国語で俗に言う「嫁鶏随鶏、嫁狗随狗(一旦嫁げば、相手が例え鶏、犬であっても、夫につき従うべし)」
をビジュアル化しているシュールなる「身代わり」だ。

花嫁は、ばたばたと暴れる雄鶏と生涯の愛を誓い合う。


交通手段の不便な時代、恐らく花婿の到着が間に合わない同様のケースはあちこちに見られたために、
雄鶏を身代わりに結婚する儀式の習慣があったのだろう。

結婚というのはタイミングであり、双方の年齢、結納金などの折り合いがつき、
両家が納得しているうちに既成事実を作っておかないと、いつどちらかの気が変わるかわからない。


婚礼はぎりぎりの経済力で行われた。
雄鶏も実は近所からの借り物で婚礼が終わった暁には「花婿」は近所の家に戻された。

新婚の晩、花嫁は一人で婚礼用の赤いふとんを敷き、赤い上着を着て寝たが、
これも翌日には「借り物だから」と姑がすべてひっぺがして、持ち主に返却したのである。



花嫁の崔秀庭はこの後、時家に住み込んで姑に従って家事手伝いをして過ごし、
半年経った春節に帰省した時伝祥とやっと初めて夫婦になることができた。


時伝祥は1年間の給金を胸にかかえ、家路を急いだことだろう。
甘い新婚生活を楽しめたのは、春節休みの間の1ヶ月のみ。
時伝祥は単身、北京に戻るしかなかった。

時伝祥が15歳から22歳の間にこつこつと貯めて来た給金は、
恐らく嫁取りのためにすっからかんに使い果たしてしまったことだろう。

一から生活の基盤を立て直すには、まだもう数年は糞覇の元でたこ部屋暮らしを続けるしかない。
その状態ではとても妻を呼び寄せるような条件もなく、その後も夫婦が一緒に過ごせるのは、1年のうち春節の半月から1ヶ月間だけという七夕夫婦だったと思われる。

二人が最初の子供・時純庭を授かったのは、結婚して6年目のことだった。
1年に一回、1ヶ月未満の夫婦生活では、世間並みの夫婦なら年に12回ある子作りのチャンスも年に1回。

それではなかなか子を授からなかったのも自然の道理だろう。


その2年後、ちょうど日本の敗戦(1945年)前後に妻と子供をやっと北京に呼び寄せることができた。

一家が移り住んだのは、宣武門槐柏樹街8号の1間わずか8平方メートルの部屋である。
ベッド1つとテーブルをおいたら、もう何も入らなくなるような小さな空間だが、それでもやっと訪れた一家が共に暮らせる人間らしい生活である。


時伝祥の伝記では解放前、妻子を呼び寄せる前のことと思われるが、
あるエピソードが必ず紹介される。

ある弁護士の家に汲み取りに行ったとき、あまりののどの渇きに水を一杯所望した。

すると、出されたお椀には死んだ蝿が浮き、水の底には魚の骨が沈んでおり、一目で猫のためのお碗と知れた。
時伝祥はさっと青ざめ、怒りのために打ち震えて無言で去った。

――俺は犬猫にも劣るというのか。
心の底からこの稼業がいやになり、糞覇の元に帰ると、やめて山東の田舎に帰る、と宣言した。



この件については、どっちもどっちという気がしないでもない。

時伝祥は解放後、出入りする家庭で水やその他のものを所望しないように弟子らにも躾けている。
この時期はまだ若く、その当たりのポリシーができていない段階にも思える。

時伝祥は怒っただけで帰ってきたが、これまで見てきた他の糞夫らの傍若無人ぶりを見ると、
この家の主人は糞夫らに汲み取りをボイコットされ、しばらくは「臭い目」に遭わなければならなかったとも限らない。

そういったことが巷の話題になっているだけに、すべての家庭で時伝祥がこういう目に遭うとは、考えにくい。
むしろ映画にもあったように対応に出たのが、女主人などの世間を知らぬ浅はかな輩であり、後々のことも考えずに行動したことのようにも思える。

社会底辺の人々には、彼らなりの復讐の仕方というものがあり、機嫌を損ねると手に負えないことを知らぬ輩が。


糞夫稼業に嫌気がさして、山東の田舎に帰る、と啖呵を切った時伝祥だが、
180cmを超える巨漢、20代の働き盛りの時伝祥を糞覇は、放そうとしなかった。

糞覇にとっても、時伝祥は貴重な戦力だったらしい。


偶然にこういう写真を発見した。

このあまりにもやせ細った糞夫ら二人を見よ。
(写真の貼り付けの仕方がわからない。。UTRを開いてもらうしかないです。。)


父子が縄で糞車を引っ張り、後ろからさらに一人押し、三人係りだ。
糞車の重さが時代によって違うことを考えると、腕っ節の強さの判断をすることはできないが、
こうして比べてみると、同じ糞夫でも時伝祥が堅強なる肉体の持ち主だったことには間違いない。
その時伝祥を糞覇が密か重宝していたとしても不思議はない。


糞覇は時伝祥を手放したくないがために、
お決まりの警察との結託プレーを展開、時伝祥を「八路」だといって、ひっ捕らえさせたのである。

つまり国民党政権下にあった時代、共産軍=八路軍のスパイではないか、という嫌疑である。
ごく普通の市民のように見えても心の奥底で共産主義に共鳴し、
密かに情報を送る、同士を匿う、テロ活動をするなどの活動に従事する人がいたからである。


つまり「八路」といえば、誰でもしょっ引ける便利な口実でもある。
毎日取り調べで適当に因縁をつけて困らせ、数日留置所に入れておき、時機を見計らって糞覇が保証人として請け出してやる。

さらには、山東に帰るとは口実で、延安(当時の共産党の本拠地)にでも逃げるつもりだな、と因縁をつけ、
北京を離れることまかりならぬ、と半ば軟禁状態にしたのである。


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写真: 時伝祥記念館。蝋人形での再現もあります。



   
   そうそう。このズボンはぶかぶか具合がちょっと本物に近いです。すそがすぼまっているのは、ほかの業界ではあまり見かけませんが、わざとでしょうか。



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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 4、時伝祥、嫁を取る

2011年04月04日 20時15分02秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
実家からは嫁を取るから帰って来い、という知らせが受けた時伝祥は、
糞覇・史鳳群のところに休みの願いを出しに行く。

嫁を取るので、これまでの給金を精算し、1ヶ月の休みをくれ、と。
糞覇は「おまえのような臭い糞取りにどこの家の娘が嫁ぐんだ?? 金もやらんし、休みも許さん! さっさと失せろ!」と言った。

こうして時伝祥は自分の結婚式に帰ることができなかったのである。


・・・・と、このエピソードは旧社会の糞覇の労働者に対する残酷な搾取を表すものとして、時伝祥の伝記には必ず登場してくる。

確かに計画経済時代、国営企業では遠方から働きに来ている人には、
「探親(親族訪問)」休暇があり、道中にかかる時間は別途で加算され(例えば、北京から列車とバスを乗り継いで3日かかるなら往復でプラス6日間)、
さらに有給休暇もあり、結婚に際して1ヶ月くらいの休暇を出すのは、当然であっただろう。


しかし高度成長期に入ってからの中国、つまりは私の実感では2000年以後の沿海地区の深セン、上海近郊などの工場地帯、民間企業では、
週末に1日休めればいい方で、春節にまとまった休みが取れる以外、1年のほかの時期に1ヶ月も休みを取るなどとんでもないことである。

替わりはいくらでもいるとばかりに即刻クビになるだろう。
現代の日本でも結婚のために1ヶ月休ませてくれ、などといえば、それはもう狂気の沙汰だ。

前述の映画のシーンでも叱られてしょんぼりとして部屋に帰ってきた時伝祥をベテラン糞夫が
「おまえもどうかしてるよ。糞夫が結婚のために休みを取るなんて聞いたことがないぞ」と言っている。


特殊な技術もいらない単純労働に入る糞取りという身分なら、
自分が1ヶ月もいなくなれば、替わりはいくらでもいることくらい分からないかなあ、あほやなあ、とつっこみを入れたくなってしまう。


時伝祥が労働模範になったのは、計画経済花盛りの時代である。

人々はすべて国家機関で働く公務員であり、休暇制度は条件ごとに完璧に機能していた。
だからこそ、結婚で休みの許可が出なかったことが、資本主義の残酷なる過去として人々の同情を集め、
翻って社会主義万歳という構図が成立した。

彼のエピソードが掘り出され、全国に流布したのはまさに50-60年代であり、
そのエピソードが今でもそのまま利用されているのである。

ご本人はもう鬼籍に入っているのだから、それ以上変えようもないのだから仕方がない。
もし現代人の心を動かそうと思えば、もう少し別のエピソードを掘り起こしなおし、
最初から伝記の重点を組みなおした方が効果的なのは間違いないのだが。。

何しろ中国がここまで変わってしまえば、人々の沸点も琴線もまったく違う。



閑話休題。

時伝祥の場合、都会の事情がわからない母親が勝手に日取りを決めてしまっていた可能性もある。

出典は忘れたが、司馬遼太郎が社会に出たことのない農民がサラリーマンになるには相当の訓練が必要になる、とどこかに書いていた。

目が覚めるまで寝ることができ、誰にも命令されたことがない人間が、その反対のことをするのは、相当経験を積まないとできない。
現代人なら学校教育の中ですでに相当訓練されているからそれを苦痛とも大変とも思わないだろうが、
組織の中で行動したことがない人は、例え結婚という人生の一大事であろうとも勝手に休めないことを想像できないものかもしれない。



時伝祥の母親・呉氏が見立ててくれた花嫁は7歳年下(ということは、15歳!)の崔秀庭である。

余談ながら日本であれば、文字も読めない文盲の百姓なら何とかべえ、とか如何にも百姓らしい名前をつけるが、
時伝祥にしても崔秀庭にしても、名前だけでは上流階級とまったく区別がつかない。

文字が読めずとも、村には八卦占いの爺様でもいて、高尚な名前を選んでつけてくれるのであろう。
この当たりは古い文明の継承を感じ、固定した階級のない社会の片鱗に感心してしまう。


さて。
山東では結婚式の準備が進められていた。

時伝祥の伝記では如何に糞覇から搾取されたか、という話が強調されるが、
何はともあれ現金を稼ぐことができる職業であったことには間違いない。

何しろ嫁をもらうことができたのだから。


中国では娘を嫁に行かせる場合は、
生まれてからそれまでの養育のためにかかったせめて飯代だけでももらわないと、出すわけには行かない、という考えがある。

つまり十五年間の一人分の食糧に相当する金額を結納に用意できないと、男は結婚できない。


このため一昔前までどの農村にも、あまりにも貧しくて一生独身を通さなければならない男性が一人や二人はいた。

日本語でカッコウは「カッコー」と泣くが、
中国語でカッコウの鳴き声は「光棍好苦(クワングンハオクー=独り者は苦しいな)」である。

つまり生涯、性欲も満たすことのできない、つらく苦しい生涯、という笑えない鳴き声だ。


それくらい貧乏と嫁取りは深刻に結びつき、あちこちにごろごろ転がっている不幸だった。



もし女兄弟が幾人かいれば、
姉妹が嫁に行く時にもらえる結納金をほかの兄弟の嫁取り資金に当てて相殺することもできる。

昔は兄や弟の嫁取りのために姉妹が望みもしない結婚をすることもよくあった。
または互いに現金のない家同士が、兄に相手の家の娘をもらい、妹が相手の家の青年に嫁ぐ「交換婚」もよく行われた。

この場合、女性が行きたくないとだだをこねると、兄まで嫁をもらえないことになる。




時伝祥の家の女兄弟は、妹が一人いるのみ、
しかもすでに小さい頃に「童養[女息](トンヤンシー)」に売られてしまっている。

童養[女息]も嫁取りの負担を少しでも安く上げるための制度である。
つまり成人した娘をもらうにはまとまった資金が必要となり、これがなかなか出ない。

女の子が小さいうちに買い取れば、年齢が小さい分だけ安くなり「お買い得」となる。
一人食い扶持が増えるだけなら、そんなに負担ではない場合もあり、
しかも働き手としてこき使うのが常なので、労働力として大いなる戦力となる。


だからこそ、親は娘を童養[女息]に出すのは、不憫で仕方ないのだが、
飢饉の年、どうしても食べていけない場合は背に腹は換えられない。

また買い取る側でも飢饉の年などは「お買い得品」とばかりに買い取っておくのである。
豊作の年に「コストパフォーマンスのよい」童養[女息]が取れる可能性は少ないからだ。


では、童養[女息]は一生奴隷のようにこき使われて不幸な生涯か、といえば、こ
れはもう個人の能力と運にかかっている。

働き手として家族の中で存在感を増し、大人になってから息子の数人もぼこぼこと生めば、
堂々たる嬶(かかあ)になることもある。


童養[女息]は生まれたばかりの子供のお守りのためにもらうことも多く、
7-10歳年上の姐やがそのまま嫁になる場合、自分の旦那を小さい頃から洗脳することもできる。


例えば、私が90年代、工場に勤務していた時、北京の東郊外・通州の若い女の子の部下がいた。
彼女がいうには、自分の祖母は童養[女息]であり、祖父よりかなり年上のため、
祖父はいつも祖母の尻に敷かれ、何かを主張しても聞いてもらえず、家庭の主導権は完全に祖母が握っていたという。


あるいは例えば、時代劇ドラマ『走西口』では、没落した金持ちの母子が農村に住みつき、
隣の家に娘を童養[女息]にもらってもらう。

乳飲み子の息子のお守りをさせ、洟垂れ小僧になると男の子はトイレの後にお尻を拭くのさえ、
すでにティーンエイジャーになっている彼女にさせる甘えぶり、
成人してもいつも彼女の影に隠れているほどの精神的依存が激しいシーンが出てくる。


もっとも後には子供がなかなかできないので、
姑が舅に「あの子を小さい頃から激しく労働させすぎたかしら。どうして孕まないのかしらね」と相談するシーンがある。

童養[女息]としての彼女が、小さい頃から婚家に気を使いつつ、
人のいやがるきつい労働にも敢えて挑んできた様子が垣間見える。

それでも元はお世話になった金持ちの家のお嬢様ということで、舅姑はそれなりに彼女を慈しんで育てている。


また二人が老いてからは童養[女息]である彼女が自らの労働で老人二人の食い扶持を生産して養い、
感謝されながら暮らし、人間の尊厳は維持できているので、まだ幸せなほうに当たるだろう。



そうかと思えば、山崎豊子『大地の子』では、主人公・陸一心の妹は童養[女息]として、
極貧の家庭で姑と夫にこき使われ、夭折するしかない場合もある。


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写真: 時伝祥記念館。




入り口の塑像。彼の最も有名な言葉「寧願一人臓、換来万家浄(例え一人汚れようとも、万家の清潔と換える)」が背景に。


    


    
    
しかーし! この塑像。間違っているところが。

糞勺を肩に背負っていますが、そんなわけがありません。

糞が肩にかかるやないか! 

糞夫らの所作はそれは見事だったといいます。
一滴も糞をこぼさない、動作はきびきびと優雅、肩からだらだら糞をこぼすようなことはするわけがありません。

おたまは下についてなければいけません。

それともう一本持っているのは、糞斗のはず。
空き缶が針金でつながれ、液体をすくえるようになっていなければなりませんが、
この塑像が持っているものはわけわからんです。

塑像の作者は、どうやら糞業を理解していなかったと見えますな。

こんなにでかくては、トイレの穴に入らない! 

しかもこのズボン、ちょっと細身すぎです。

これは今の流行りのデザインでは?? 

90年代までの中国人男性というのは、
チャックを下まで下ろさなくてもそのまますっぽりはけるくらいのぶかぶかのズボンをはき、ベルトでしわしわに縛っていたものです。

このびちびちのズボンでは、労働できない! 
しゃがむことさえできませんぞ。

しかし「今」を生きる人を啓蒙しようという大役を背負っている記念館と塑像のコンセプトとしては、
「今」この塑像を見た見物客、特に若い世代が「ダサー!!」と馬鹿にしてしまっては、啓蒙効果も半減というものです。

やはりそこは、少し現代の人の審美眼に合わせるのは、致し方ないことなのでしょうなあ。


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北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 3、都会の汚名を怖がらない

2011年04月03日 00時08分23秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
現代でもゴミ拾いをやっている河南人、四川人は地元ではそれを決して明かさない。
近所や親戚の人には、都会では工事現場で働いている、レストランの雑用をしている、などと聞こえのいいことをいうが、
実はそんな生易しい職業ではごみ拾いほどの収入はない。

現代のある興味深いエピソードがある。

海賊版CDやDVDを販売する業者に警察が手を焼き、摘発に努めたが、いたちごっこでさっぱり効果が上がらない。
摘発された業者は罰金を払って受けだされると、再び凝りもせず元の海賊版販売の稼業を続けるのだという。

そこで業を煮やした警察が考えたのが、犯人の本籍地の警察に知らせることだった。

すると、これが効果覿面、地元で犯罪者であることを知られたくないばかりに常習犯が大人しく足を洗ったのだという。



都会での自分は仮の姿――どんな汚いこと、人に顔向けできないことをしても平気。
広大な国土と膨大な人口の渦巻く国だけに一旦都会に紛れ込んでしまえば、
何をやっても故郷の人たちに知られることはない――。

現代でもどこか、そんな気分が存在することを認めないわけには行かない。

逆に言えば、都会の片隅でも同郷の人間は信用する。
悪いことをして故郷の人々に悪い評判を広められたくないがために自分を騙す確立が低いと思うからだ。


後述する『時伝祥』という彼の生涯を描いた映画には、
年をとってから時伝祥の妻が「(嫁入り先が決まった時)あなたが糞汲み取りしてるって、うすうす知っていたわ」というシーンがある。

時伝祥の四人の子供たちはあちこちで父親に関する活動に関わっており、
この映画の脚本も監修していると思われるが、
恐らく時伝祥の母親は、嫁いでくる娘やその家族、仲人などにも息子の北京での職業をうやむやに言っていたのだろう。


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写真:時伝祥記念館に到着いたしました。なぜ龍譚公園の中にあるのかというと、彼はずっと崇文区の公務員だったからなのですね。



2008年の設立。まだぴかぴかです。四合院とその中庭をサンルームにする形式で作られています。
入場無料です。龍譚公園の入場料が2元かかりますが。







入り口に入ると、時伝祥の塑像、左には蝋人形が陳列されています。
中はひんやりクーラーが効いています。

入場無料の公園の中の建物でこの快適さはけっこう感動的です。
レストランに入ってもかろうじて外気との温度差が感じられる程度の冷房しかかかっていないことが多いですから。


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北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥 2、糞覇の元での生活

2011年04月02日 23時58分33秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
時伝祥は家を出る時に母親が作ってくれた綿入れの上着を足掛け8年も着続けた。
最後には継ぎ当てだらけで原型も留めないほどになりつつ――。

破れた部分は、ゴミの中からぼろ布を拾ってきて当て布に縫い、それが最後には10層以上にもなった。


最初の1年の大晦日も迫った頃、零下20度を下回る外気の中で仕事をするのに満足な靴・靴下もなく、
凍傷で感覚がなくなったところにガラスを踏んだ傷が膿んでむくみ、足は形状もとどめぬ状態となった。

後数日で春節という時、ついに痛みに耐えられなくなり、
糞覇に「1年働いたので、少し前に靴を買うお金をください」と頼んだが、
返って来た答えは、そんなわがままをいう奴はいらないから出て行け、である。


これを横で聞き、見かねたベテラン糞夫が
「子供一人、あなたのために1年働いたというのに、年も押し迫ったこの時に放り出すなんていくらなんでもあんまりでしょう」
とかばってくれた。

糞覇の方にしてみれば、本来はしめたものだったのである。
1年の給金をあと数日後にまとめて支払わないといけないところを、こ
れを口実に1年ただ働きさせて追い出すことができるところだったのだが・・・。


糞覇は「糞夫らがストライキを起こそうとしている」と、警察に訴え、
時伝祥ら十三人を逮捕させたという。


ということは恐らくこの時、ベテラン糞夫の一言で普段からの糞夫らの怒りが爆発し、
少なからぬ人数の糞夫の集団が非難の声を上げて糞覇に詰め寄り、
糞覇は思わず身の危険を感じ、自力では収拾をつけられなくなったということではないか。



前述の1930年代の行政と糞業の闘争において、
最終的に糞覇の資本家らが行政側に取り込まれたことを思い出してほしい。

登記費、改善費の徴収と聞き、当初は自分たちの雇い入れている糞夫らを駆り立てて反対デモを起こさせていたが、
後には糞覇の巨頭である于徳順と孫興貴ら自らが糞便事務所の主任と副主任に就任し、体制側に取り込まれている。


税金の支払いという余計な出費も神妙に受け入れ、糞覇らが行政に協力した理由は、何か。
彼らに何のメリットがあったというのだろうか。

それは恐らく糞夫らと揉め事が起きた時、
失う物を持たぬ命知らずの肉体労働者らを抑え込むのに警察を利用できることを取引条件にしたからではないのか。

時伝祥らが抗議した時、警察は糞夫らの言い分などはなから聞きもせずに引っ立てていったことだろう。
時伝祥ら十三人は、有無を言わさず跪かされ、さんざんに殴られた。

そろそろ潮時というタイミングで糞覇は、保証人となって時伝祥らを受けだしたのである。


糞の汲み取りの毎日の路線は、六部口から広安門、岳各庄から小井の一帯へ、往復20-30里(10-15km)の距離を一日4往復した。
六部口は中南海のやや南辺り、そこから広安門は北京南城の西南側に当たる。

岳各庄と小井は、さらに西南の郊外、今でいえば西三環路の外に行ったところにある。
恐らくここに糞廠があり、糞を送り届けたのだろう。これを1日4往復というのだから、相当きつい労働だ。


15歳からこの稼業に入った時伝祥は、成人する頃には180cmを超える壮漢となっていた。
山東人は大男が多いが、まさに俗に言う「山東大漢」である。

22歳の年、山東の実家で母親が時伝祥のために嫁を取ってくれた。
糞夫が都会で嫁を取ることは難しい。

「屎壳郎(ふんころがし)」、「糞花子(糞こじき)」と人々から蔑まれる職業である。
嫁の来手はなかった。

自分の田舎に帰り、都会で糞夫をやっていると明かす人はほとんどいない。
何かもう少し聞こえのいい職業を言って近所の人に偽り、
他人は仕送りされた現金で実家が暮らしている様子だけを目にする。



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写真: 北京の南「龍譚公園」に「時伝祥記念館」なるものがあるというので、
時伝祥を書くなら、ぜひ行かねばならぬでしょう、というわけで、行って来ました。

前哨戦。龍譚公園の中をてくてく歩きました。広大な敷地なので、記念館にたどりつくまでに風景に思わず見惚れ、シャッターをパシャパシャ。

お住まいがご近所だということで、友人のしゃおりんさんにお付き合いいただきましたー。
残念ながら1日目は休館!! 翌日出直しました。






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北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥 1、労働模範・時伝祥

2011年04月01日 18時49分37秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
1937年の盧溝橋事件から日本占領期間、続けて国共内戦の時期にかけては、戦争で糞業改革どころではなくなる。
糞具を改善し、糞道の登記を行ったところまでかろうじて進め、
そのまま1949年の新中国成立を迎えるのである。

共産主義となり、すべての職業の「公営化」が実施される中、
糞業があっけなく公営化されたことは、いうまでもない。

「糞覇」はいなくなり、打倒され、すべての糞夫は公務員となったが、
逆に市の行政が糞業で儲ける目的もなくなった。

これについては後述する。



中国で糞夫といえば、すぐに名前が挙がるのが「時伝祥」である。

1950年代の労働模範であり、
中国の小学校の教科書には日本でいえば、二宮金次郎のように「見習うべきえらい人」として、エピソードが必ず載っている。

そして必ずセットに掲載されているのが、劉少奇との握手の写真である。



共産主義になってからの糞業の流れを見る前に、ここからしばらくは時伝祥の生涯を追いたい。

一つには、これまで民国時代の糞夫の生態を追ってきたが、実在する糞夫の実例がなかったことがある。

時伝祥の前半生を追うことにより、実際に糞夫が経験した事象をこれまでの総括としたい。
その次に時伝祥の後半生を通して、解放後の糞業の経緯を見て行きたい。

彼の人生は共産主義下の糞業の生きた標本の如し。
その人生に沿い、共産主義となってからの糞業の沿革を追う。

      糞桶を背負った時伝祥。 
      



時伝祥は1915年、山東省斉河県の生まれである。
斉河県は、山東省の省都・済南のすぐ西にあり、
これまで見てきたとおり、北京の糞夫はほとんどが山東省出身、その例に漏れない。


時伝祥は貧しい農家・時家の五男一女の6人兄弟の四人目として生まれた。
貧しさのために上の兄二人は小さい頃に裕福な家の養子に売ってしまい、
3番目の兄が実質の長男、次に時伝祥、その下にはさらに弟と妹がいた。


一家は塩害にやられた8畝(=ムー、30坪。ムーの計算の仕方はこちら)でどうにか飢え死にしないだけのぎりぎりの食糧を養っていた。
塩害がひどいために実際に耕作できるのは6、2ムーのみ、不作の年は1ムーに40斤(=1斤は500g)しか収穫できなかった。

ということは6ムーで240斤、つまりは120kg、
1ヶ月に10kgを一家6人で食べると、1ヶ月1人当たり1、2kgほど。

・・・・確かに生存条件ぎりぎりといえるだろう。


6ムー余りといえば、180坪。日本人の感覚からすると、すさまじく広大な土地ではないか、と思う。
実は現代でもそうで、今でも北方にいけばいくほど、かなりの広さの土地の支給を受けているようだ。

出張などで華北以北の地方に行き、タクシーを拾った際、家の土地はどれくらいだ、と聞いたりすれば、やはり5ムーだの8ムーだの答えが返ってくる。
これが南方になると、生産力が高く人口密度が高くなるため、どんどん少なくなる。

安徽省出身だったお手伝いさんに聞くと、家の土地は半ムーだという。

南方では雨がじゃんじゃん降るほかにも、
灌漑施設が充実しており、天候に関係なく安定した水の供給がある。
だから半ムーでも一家の食糧を十分に作ることができるのである。

これに対して黄河以北では、北京郊外や山西省も含めてあまり灌漑施設を見かけない。
農民自身も「靠天(天任せ)」と口を揃えていう。

しとしとと雨の多い土地から来た日本人の私なんかから見ると、
「靠天」ってあーた、ぜんぜん雨ふらへんやんか!! と思うくらい、北京などは年に数回くらいしか雨が降らない。


これでどうやって作物が生き延びるのか、と思うくらいだ。
だからそんな気候でも育つとうもろこし、粟の類を植える。

雨が降らないから雑草さえ生えない。
農民は植えたら、植えっぱなし。
水遣りもしなければ、雑草とりもせず、日がなぼおおっと太陽に当たって家の前で座っている。



           
           時伝祥

あやや。。。どアップ、ちょっと怖いかも。。
でも当時の糞夫の標本的な人物として、やはりよくよく観察したい面構えでもあり、やっぱりこの大きさで載せます。



一個人の力で灌漑施設をどうにかできるものではなく、これは大規模な国家の力に頼るしかない。
庶民にできることは、少ない収穫を大切に食べることしかなかった。

ある時、地元の有力者・趙老官(老官はベテランの官僚というほどのニュアンスか。つまりは地元で長く役人を勤めた人ほどの意味か)のために
父親と時伝祥は、二人で豚の売却の代理を引き受けた。

ところが道中大雪が降り、豚の半分が凍死してしまった。
怒った趙老官は、死んだ豚の代金のかたに一家の命の綱である8ムーの土地をごっそりと奪っていった。

あまりの憤懣のため、父親は全身をむくませ、腹を風船のように大きく膨らませて憤死した。
食べる綱の土地がなくなり、一家の中で上の兄(三男)は糞夫になるために北京に出て行った。

妹は童養[女息](トンヤンシー、子供のうちから嫁を育てること。将来の嫁でもあり、労働力でもある)に売られていき、
一家は瞬く間に離散。


時伝祥は15歳、外で給金をもらって稼ぐためにはやや中途半端な年齢であり、弟と二人だけが母親の元に残った。
しかし妹が嫁いだ翌年、今度は斉河が氾濫して大洪水となり、次に大飢饉が起こることは、目に見えていた。

これ以上、家に留まっていてももはや飢え死にを待つしかない。
かかる命の限界まで追い立てられ、時伝祥は北京へ旅立って行ったのである。



斉河県は、東に黄河と接しており、その向こう側が済南市になる。
斉河は黄河の支流だ。

洪水の頻発というのは、乱世の象徴である。

古来より「黄河を制する者が天下を制す」の言葉があるように、中国に統一王朝の存在する意義は治水にあった。

治水には大規模な予算と人員の動員が必要となり、そのために統一王朝が必要となる。
一説には元王朝がわずか100年でつぶれてしまったのも、治水を放置したからとも言われる。

つまりモンゴル人が科挙を廃止しようが、宋の遺民が南人と馬鹿にされようが、
色目人の役人がでたらめな税の取立ての悪政を行おうが、生活できる限りは我慢するが、
飢饉まで追い詰められたら、反乱に立ち上がるということである。

その飢饉が確実に起こるのが大洪水の後だ。


治水は数十年程度は放っておいても大きな違いは出ない。
しかし100年近くも放っておくと、堤防は崩れ果て、川底の泥がたまって水位が上がり、洪水が起きやすくなる。

元朝が最も致命的だったのは、こうしたインフラのメンテナンス軽視だったというのである。

他の王朝も同様に生命力が弱ってくると、それまできちんと行っていた治水のメンテナンスを怠るようになり、
数十年かけてじわじわとたまってくる。

この時代でも清朝末期にはアヘン戦争以来、治水に回る予算が大幅に削られていたであろうことは想像に難くない。
ましてや民国の乱世になってからは、放置しっぱなしである。

そのつけがじわじわと現れ始めたといっていいだろう。


時伝祥は15歳の年、母親からもらった7個の糠餅(ぬかを混ぜ込んで焼いたお焼き)を懐に抱え、
何人かの仲間の少年らとともに北京を目指した。

食糧は数日で尽き、残りの日々は乞食をしつつ、13日かけて北京にたどり着く。


当初は知り合いを頼りに行ったが、相手は貧乏な彼と関わり合うのを嫌い、受け入れてくれなかったという。
路頭に迷っているところを糞夫の李大爺(李の爺様)に拾われ、
糞覇の元に連れて行かれて雇い入れてもらい、時伝祥の糞夫人生が始まる。


先に糞夫となっている三番目の兄貴はどうなっているんだ、とつっこみを入れたくなるが、
通信手段の不便な当時、ましてや互いに文盲という状況では、
連絡がつくには数ヶ月から1年の時間がかかったことは想像に難くない。

仕事に慣れ始めるまでは精神的な余裕もなく、当時の給料は年に一度の一括払いも多いので、
春節になるまで手紙を出す現金さえなく、まだ連絡がついていかなったことも考えられる。


年に一回の一括払いという方法は、もらう方にとっては悪いものではない。
オリンピック以前までは、数ヶ月に一度しか給金が出ないという職場もけっこうあった。

私が通っていた按摩屋は三ヶ月に一度、一括で給料が支給され、それが按摩の少年たちにはえらく評判がよかった。
貯金を最大の目標としている彼らにとり、日常の消費への誘惑は悪魔のささやきだ。

普段は宿舎で暮らし、食事も出るのだから現金がなくても暮らしてはいける。
そして3ヶ月分の給料といえば、けっこうな大金になる。

その達成感のうれしさのために消費しようとは思わず、
いそいそと全額貯金し、数年経ってみれば、けっこうな額になるというのだ。



ましてや時伝祥の時代のように銀行に預けるという方法もなかった時代、
毎月現金をもらってもたこ部屋では保管もままならない。

一日の労働に疲れた体には、酒の誘惑ほど甘いものはない。
こうしてせっかくあたら若き青春をすり減らして稼いだお金を飲み代に使い込んでしまうほど恐ろしいことはないのだ。

男たちは春節前に1年分の給金を受け取り、故郷に持ち帰ることを楽しみだけに日々を過ごす。


糞夫として時伝祥は糞覇の元で昼間は糞集めに精を出し、夜は十三人と1頭のロバとともに一部屋に寝た。
布団はなく、オンドルもなく、ロバのえさ用に積み上げてある藁の中に転がり、麻袋の切れ端をかぶり、レンガを枕とした。

寝る体制に入ったら、さっさと油灯を吹き消さないと、すぐに糞覇の怒鳴り声を喰らうことになる。
この糞花子(花子は乞食の意味。糞こじき)どもは無駄遣いしか脳のない奴どもめ、と。



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