いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦 記事の一覧表

2012年08月12日 15時19分43秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
 長城をはさんだモンゴルとの飽くなき戦い。中国版・防人(さきもり)の悲哀とたくましき姿。

記事の一覧表:

    1、オルドスの真下
    2、明の万暦年間の建物が多いわけ
    3・アルタン、ハーンの位を継ぐ
    4、土達を最前線に
    5、英宗、大同城下に連行される
    6、逃亡者の増加
    7、フフホトと板昇
    8、嘉靖帝の不信感
    9、明代の戸籍制度
    10、守城と屯田
    11、関羽信仰の示すもの


楡林古城・明とモンゴルの攻防戦11、関羽信仰の示すもの

2012年08月11日 19時40分50秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
楡林、東山関帝廟。

あいやー。出たー。
最近はやりのアニメチックな狛犬。

どこぞの美術大学卒業のアーティストに作らせたら、
小さいころから、ディズニーや日本のアニメを見て育った世代。
審美眼がそれに汚染されているというわけだ。

    

この狛犬は、この10年以内に新しく作られたものに違いない。
どちらかというと、ディズニー顔?? ライオンキング系??

まあ。訪れる側も現代の審美眼なわけだから、観賞用としてはいいでしょうけど。
子供が背中に這い登る用に作られたんでしょうし。
信仰のためなら何でもありじゃ。

    

陝西というのは、関帝信仰がさかんなところらしい。
古くから中国では、「県県有文廟、村村有武廟(県ごろに文廟なり、村ごとに武廟あり」)というのだそうだが、


文廟は、孔子を祀る廟。科挙を目指す文人やそれに受かってきた官僚らの崇拝対象であり、文明的な「礼」の象徴である。
これは庶民が自発的に建てるというよりは、庶民に文明的になってほしいと教化するお上側による
トップダウン方式の押しつけ的な形に近いだろう。

これに対して、「村村有武廟(つまりは関帝廟)」のほうは、
星の数ほどある村村に政府がお金を出して建てることはあまりなく、
人々が信仰のために自分で建てたものが多い。

      

写真: 楡林東山関帝廟にある石碑。



関帝廟は、いうまでもなく、三国志にも登場する劉備玄徳の弟分・関羽を祭った廟である。
私は関羽信仰というのは、
政府を頼らない庶民同士の相互補助システムの道徳的な支柱なのではないか、と感じている。

それがなぜ陝西において、盛んなのか、ということについては、
後程、考証したいと思う。


関羽が象徴するものは、仲間のために命がけで戦う勇気。
一旦見込んだ友人、主人は決して裏切らず、曹操にほれ込まれ、どんなに優遇されても決してなびかず、
劉備玄徳の元に帰ってきたぶれない魂。

それが養老年金制度とも社会保険制度とも無縁な大部分の人々の相互保障に必要な「道徳観」なのではないだろうか。

国に税金を払い、それを国が再分配するという年金や社会保険のシステムが
すべての人に行きわたっていないのは、
近代社会が成立するまで、どの国でも同じだが、
日本の封建社会は、どちらかというと、「国」「藩」の単位が小さかったために、
「お上」が近く、目が行き届きやすく、それがめんどうを見た。
だからつながりは「上下」である。


これに対して中国は、中央集権の時代が千年以上も続いてきたから事情が違う。
「お上」はあまりにも遠く、首都にいる。

地元の一番偉い人は、科挙に合格した秀才が中央から派遣されてくるが、
「原籍回避」原則のために、絶対によそ者しか配属されてこず、しかも数年で変わる。

そこで相互補助の役割は主に「宗族」が担ってきた。
同じ姓でつながる父系を中心とした血縁集団の中で、互いのめんどうをみてきたわけである。

福建の「土楼」に暮らす人々などは、そういう「宗族」集団で、
原始社会主義のような暮らしをしているわけだ。
何百人もの人が、宗族のもつ土地をいっしょに耕し、老人も女も子供もいっしょにそれを分け合って食う。

しかしよその土地に何か商売をしに行ったり、役人となって官界で生きていったり、
そういう「宗族」から離れて生きていかなければならない、大きな距離を移動する人、
よそ者ばかりが集まる都会では、そこに「友情」が補助的な役割として入ってきた、ということではないだろうか。

現代の中国では、すでに「宗族」のシステムは、ほとんど崩壊してしまっている。
もちろん、田舎にいけば、まだ残っているところもある。

私のお世話になっている中国人社長は、自分が事業に成功した今、
甥らをアメリカに留学させたり、いとこの嫁の弟を社員に雇ったりしている。
これも一つの「宗族」システムといえるのではないだろうか。


前から思っていることだが、中国における「友達」の意味は、日本とはまったく重みが違う。
中国の「友達」とは、相互補助システムの仲間、という意味だ。
つまりは「収穫」も含めて、ある程度は分け合うような考えがある。
だから友人同士の借金は当たり前。

前述のドラマ「北京愛情故事」でも、貧乏な鳳凰男が、病院の支払ができず、友人を呼びつけて支払いをさせる場面が出てくる。
貧乏な彼にそれを返すことができないのは、承知の上の「出世払い」である。

それを現金で返す場合もあれば、
「心」で返す場合もあるし、「体」で返す場合もあるし、「人脈」で返す場合もある。

「心」で返すとは、たとえば悩み事をたくさん聞いてくれる、会いたい時にいつでもかけつけてくれる、
必要としている答えを出してくれる、自分とはレベルが違うくらい頭がいいのに、友達と認めてくれる、
もしくは違う土地にいて、現地でのさまざまな便宜を図ってくれるといったことだ。
これも後述のように「機会平等」でない社会なので、「地元」以外で用事をこなすには、必須となる。

「体」で返すのは、各種雑用を頼まれてくれるということ。
引っ越しの手伝い、自分が仕事でいけない時に女房子供老人のコンパニオンになってくれる、
仕事の使いっぱしりをしてくれる、といったこと。

「人脈」は、そのままだが、社会学でいう世界の「低信用社会」の一つである中国では、「機会」はまったく「均等」ではない。
だから人脈の価値が、高信用社会よりはるかに高い。
そういうものを持っていれば、お金がなくても人に価値を認められる。

そういう人間としてのすべての「カード」を互いに照らし合わせ、
自分のカードと交換する価値がある、と見込んだ相手同士が
「友達」ということになる。

もちろん精神的なキャパの小さい、年齢の若いころに交わした友情の方が、
「分母」が小さい分だけ、簡単に「分子」もデカくなりやすいから、
幼馴染、同級生というだけで、生涯の「交換」になりやすいことは、いうまでもない。
大人になってからは、「マントウを分けてくれた」ことが、「友情」の得点にはならなくても
小さいころのその行為が、一生の「友情」につながるといった。。。。

関羽というのは、そういう「友情」として、互いに自分の「カード」を出し合う、と決め合った相手に
自分の「カード」を最大限に、惜しみなく出す、「義」という徳の高い存在として
中国人には、とらえられているのではないだろうか。

北方中国(私のカテゴリーでは、黄河以北)で、特に男同士で最も重視される要素が「義」だろう。
「友情」は、互いのカードを出し合う、と決めた了解なのに、
人のカードだけ最大限にもらっておきながら、自分のカードは、けちけちと出さない、
それが最も忌み嫌われる。

出した成果が少なくとも、それが本人の「分母」に比べ、
どれだけ大きな「分子」であるか、ということが、尊ばれる。
収入が月500元しかない人の400元のカンパは、月5000元の人の1000元より周りから評価が高い。


北京で周囲の夫婦を見てて、よくある典型的なパターンは、こういうものが多い。
つまり奥さんは給料は低くても、首になりにくい、福利厚生の厚い、公務員かそれに準ずる仕事につき、
家族が日常的に暮らせる程度の生活費は稼いでくる。

だんなは普段はぶらぶらしていて、何をしているのかよくわからないが、
周りから「義」に厚い、と評価してもらうために、せっせと点数アップのために活動にいそしんでいる。
手を貸してくれ、といわれれば、飛んでいき、酒につきあって相手のうっ憤に共感を示し、
自分たちのグループに足りない「人脈」を新たに開発して、周囲に貢献する、といったことである。

そうすると、いざ大きな出費があった時には、あちこちに借金をしてまわっても
集まるお金が大きくなる、ということである。
男の価値は、普段の「日銭」を稼ぐことよりも、
いざという時にかき集められる資金の大きさで決まる、ということだ。
ちょこちょこと日銭を稼いできても、
家族が大きな危機に見舞われた時に金をかき集められない男の方が軽蔑されるのである。

ちなみに女に求められる「徳」は、「慈祥」(慈悲深い)ということだろうか。
家族のために世話を焼くことである。これは日本も同じだろうが、かなり範囲が広い。
子供の世話、双方4人の老人の世話、だんな、子供たちの友人の世話。
男性が目を細めて話をする女というのは、たとえば、友人のお母さんが自分の分までセーターを編んでくれた、などというものもあり、びっくりすることがある。

いわゆる「ねね」タイプですかな。
秀吉の部下らの三度の飯のほかにも、ふんどしまで洗っていたという。。。
ああいう系ですかね。


以前にも書いたかもしれないが、
それだけ日常生活の中に「いざという時」に友人から借金をかき集めないといけないような状況が起こりうる。

・不測のけが、病気: 会社勤めしている本人以外に医療保険がないことが多い。
 配偶者、こども、公務員ではなかった親、無職の親戚などなど。
 医療保険をかけていても、適応されない範囲も多い。

・不測の事故・失態: 交通事故で相手にけがをさせた、妙ないいがかりをつけられた。
 法的な疑惑をかけられて拘留された場合、釈放運動、保釈金の支払いなど。

・不動産の支払い: 定職を持っていない人は、銀行から住宅ローンを組むことはむずかしい。
 また2軒目、勤務先以外の土地でもだめ。所有権が曖昧な、農村の土地もだめ。
 何かと制限が多い上、速攻でお金がいることが多いので、時間差で借りなければならないことも多い。

日本のように「自己破産」という制度はない。
「自己破産」は、社会的な信用の失墜により、日常生活の不便、名誉失墜をもたらすからこそ成立するが、
こちらでは、「社会的な信用の失墜」がなくてもそういう不便はすべてすでに起こっている。
しかもよその土地に逃げてしまえば、過去は知られないで済む可能性が高い。
こちらの人に言わせてみれば、
「破産を宣言したら、すべてがチャラになるなんて、そんな天国のような制度があれば、
全員が借りるだけ借りて、さっさと宣言するだろう」てなもんである。

高利貸しもあるが、私のイメージでは、多くの場合、「地縁」や「宗族」による抑制力の利く相手にしか貸さない。
大都会のようにあまりにも雑多になりすぎた社会であれば、それさえも通用しなくなる。

よく耳にするのは、ひどく田舎な、閉鎖的な社会での高利貸しだ。
そういう土地柄では、親戚、地元で軽蔑されること、名誉を奪われることを何よりも恐れる。
だから高利貸しもお金を貸すのである。
故郷から夜逃げしても、残された親、兄弟、親戚を借金取りやくざがいじめ続けると、
良心にさいなまれて、大抵は取り立てることができる。


・・・という風に見ていくと、
陝西に関帝廟が多いというのは、納得いくのである。

生産能力の脆弱な、農業地帯の最北端ぎりぎりの土地に生きる人々にとって、
他人の助けを必要としなければならないことは、豊かな土地より多かったのではないだろうか。
乾燥と寒冷のダブルパンチの環境では、ちょっとの気候変動でもすぐに不作になる。
不作の年には食べるものも足りなくなり、
少ない収穫を取り合うということは、権力者からの搾取もきつくなるし、命にかかわってくる。

またモンゴルとの最前線にいるということは、
すべての庶民が武力で自らを自衛しなければならない場面と隣り合わせに生きていること意味し、
戦いに強く、勇敢だった関羽を崇拝するのもうなずける。
彼らがさらされているのは、モンゴル側のゲリラ的な襲来であるため、
必要なのは、大軍の作戦・指揮に優れている諸葛孔明や岳飛のような武将ではなく、
一人で戦う能力が最大限に強い武人だろう。

これは結局、私が日常的に接している北京の人々の価値観にも共通することのような気がする。
北京は首都であり、都会なのだが、実は生産するものはあまりなく、工場も農場も少ない。
長江デルタ(上海、南京、杭州、蘇州など)や珠江デルタ(広州、深せん、東完など)周辺の工場地帯のように、
能力如何に関係なく、とりあえず誰でも働くことのできる職場というのは、そんなに多くはない。

実は中国の北方人は、「南方人はケチ」、「南方人は薄情」、「南方人は義理に厚くない」と、悪口をいう。
つまりはどちらかというと、「友情」の概念は、日本人に近いのだ。
「働かない人は、怠け者だから」、「自分に必要なお金も普段から確保できないのは、計画性がない」という、
日本人に近い価値観を持っている。
それが可能なのは、単純労働の働き口が最低でも随時確保できる社会構造になっているからだ。

農民であっても、南方なら気候が温暖なため、2月過ぎから11月まで、1年のうち9か月以上、
へたすると、もっと作物はとれる。
菜っ葉くらいなら、いつでも畑に生えているわけで、飢える可能性は低い。
それに対して、北方は生産性が低く、結局工業についても同じことがいえる。
だから「義」が、南方よりも社会的に重視されるようになるということではないのだろうか。



陝西の関羽信仰が他地方に比べ、なぜ盛んなのか、ということについて、論証を重ねてきた。

では、具体的にどう盛んだったかというと。

まず中国全体で関羽信仰が「バージョンアップ」したのは、明代以後といわれる。
明代以前までの関羽は、「王」の尊称で呼ばれたが、明代以降は「帝」に昇格。

庶民の信仰もあるが、政府も率先して推進していった。

洪武二十七年(1394)、南京で勅令で関廟を建立。
建文三年(1401)、朱棣(永楽帝)は、帝位を簒奪する戦いを起こす際、 関公の「お告げ」があったと称した。
 こうなると、帝位についた後は、大々的な関公信仰となったことは、いうまでもない。

正徳四年(1509)、すべての関廟を「忠武廟」と改名するよう勅令を出す。
万暦二十二年(1594)、関羽を「帝」に封じ、「英烈廟」と改名。

どうやらこれを見ていると、関羽の「忠」が、為政者には喜ばしく映ったらしい。

楡林の関帝廟は、石を投げれば当たるほどあり、数も定かではなかったという。
万里の長城の陝西部分は、東は府谷(黄河の東側)から西は定辺(黄河の西側)に至るまで、
沿途に36ヶ所の要塞都市が作られたが、ほとんどすべてに関帝廟があった。
最前線がそうなら、州、県城内、その周辺は、さらに関帝廟あり。

どうやらお上にも都合よく、庶民にも愛される要素が高かった凝縮の結果が、
ここまで盛んな信仰となったということらしい。


*********************************

写真: 楡林東山関帝廟。扁額。下の方に小さく関羽の木彫りが。



 楡林、東山関帝廟の境内。

 




本殿の後ろにあつ建物。


    

職員の人たちの事務エリアでしょうか。


ついに東山関帝廟から出てきてしまいた。
それでもしばらく関羽話は、つづきまっす。

    

ばあさまとそのわんころ。
楡林、東側の城壁に貼り付くように建っている民家にて。



楡林城の東側に開けられた口。
ここは昔、城門があった場所ではないので、ただ切り開いてあるだけだ。


東側の城壁は、山の斜面を利用したものなので、西に下っていくと、ひたすら下り坂。


石畳みの街並みが続き、ノスタルジック。。

     






楡林は、まさに「小北京」。
古い北方建築の街並みが、色濃く残る町だ。

    


どの門構えにも風情があり、ついつい釣られて、何度もシャッターを切ってしまう。




春節直後なので、貼り換えたばかりの春聯がまぶしい。

    


    




人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦10、守城と屯田

2012年08月10日 13時55分42秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
赴任先にたどりついた軍丁は、全員が軍事訓練と防御の任務につくかといえば、そうではない。
明代は、軍隊を基本的には「自給自足」させる方針を貫いた。

特に北辺のモンゴルとの国境に大量の兵士を配備しなければならない情況では、付近の農民の生産力も低く、余剰食糧は多くない。
もし自給しない場合、すべての食糧の費用、またそれを運河で南方から運んでくる輸送費という莫大な費用を負担すれば、国がつぶれかねないからである。

全国の軍戸200万戸から、一戸から一丁(成人男子1人)を出し、戦争がない時も含めて
永久に赴任させ続けるのだから、少なくとも彼らの生きるための食糧が常に必要となる。

常時200万人の軍隊を維持するためには、生きるための最低条件として1人1ヶ月に口糧(食糧)1石を支給すると、
1ヶ月に200万石、1年に2400万石が必要となる。

これは明代の全国の年間総税収とほぼ同じ額である。
屯田という選択しかなかったことが、納得できる。



さて。
赴任した兵士らは、2つのグループに分けられる。

  1、「守城旗軍」: 軍人として、日ごろは軍事訓練と防衛を任務とする。      

  2、「屯田正軍」: 土地を与えられ、農地を耕し、食糧の現物を軍に納める
         (「租税」とは呼ばず、「子粒」という)ほか、各種の賦役を負う。


分け方に決まりはなく、恐らく体の壮健なる、はしっこそうな輩は「守城」に優先的に回されたのだろう。


その比率は、例えば京衛軍では、七分が下屯、三分が守城。
遼東では、八分が屯種(屯田を耕す)、二分が守備と巡回。


つまりは2-3割が軍事に従事する以外は、ほとんどすべてが「屯軍」として、
ひたすら百姓仕事に従事しろ、というわけである。

「守城旗軍」には、一応「月糧」が支給される。
「一応」というのは、生活するにはぜんぜん足りないからそういった。

そのために「余丁」がついてきており、生活の糧となる土地も支給される。
それを耕して軍服などを用意したり、家族の生活のために当てたりしなければならない。

妻や両親、兄弟などもついてきていれば、彼らも含めてせっせと働け、というわけである。
逆に上官は、兵士らには「月糧」以外にも収入があることを見越しており、

ちょっとくらいピンはねしても死にはしないとばかりに、何かにつけては横領、差し押さえ、未払いを決め込む。
これが理由で何度も兵士の反乱が起きているのだ。


次に「屯田正軍」には、重いノルマが待っている。
彼らの納めた食糧で、現地の軍糧を賄おうという仕組みなのである。

「屯田正軍」に与えられる土地は、土地の生産性によって、地方によって違うが、南方の水田なら10畝(ムー)、北方は50畝から100畝。
(ムーの広さは、Wikipediaを参考に)

納めるべき「子粒」(穀物の税)は、明初はもっと高かったが、逃亡が相次いだために全国で一律、年間6石、と決められた。
このほかにも馬の飼育、屯草(冬の馬の飼料)、薪の供出、土木工事の使役などさまざまな義務が課せられるのである。


これも本人だけでなく、「余丁」に妻子、家族総出で働くことが期待される。
実際、特に万里の長城を守る北辺の兵士は、生産性の低い土地で、そうでなくてはこなせない。


土地を耕すに際しては、明初の当初は、屯軍一人に対して、農具と牛を1頭支給すると規定されていた。

これも故郷から数千里も離され、地縁のある土地から根っこをごそりと抜き取るように連れて来られたため、
農具、牛を調達してくることができない中では、特に重要となる。

スキやクワといった農具は、金属で鋳造するものなので、一度支給されたら大切に使えば、
何世代も使い続けることもできるだろう。

しかし牛はそういうわけには行かない。

耕牛の不足は、時代が進むにつれてかなり深刻だったようだ。
例えば、我らが舞台・大同/宣府の管轄区では、万全都司(宣府前・左・右の三衛の所属)には
1万頭の牛がいてしかるべきだが、弘治年間の屯牛の数はわずか1128頭。

しかもこれはごく楽観的な数字でしかなく、虚偽の報告を上げて実際はもっと少なかった可能性もある。
ただいくら破廉恥を覚悟しても1000頭程度に報告したということは、現実は推して計るべしである。


では、耕牛の減少は、一体どういう理由が多かったのだろうか。

 1、敵の略奪
   これまで見てきたとおり、北辺では日常化した異民族の襲撃により、そのたびにあらゆる財産が略奪された。
   大同/宣府から甘粛に至るまでの延々と続く万里の長城沿いでは、主にモンゴル勢が、
   遼寧では時代が下るほど、女真族の略奪が激しかったのである。

   それでも大きな事件の場合は、補充されることもある。
   正統14年(1449)の「土木の変」では、数十万人の戦死者を出すという大敗に帰した。

   当然のこと、大同/宣府界隈の牛はほぼごっそりとすべて敵に奪い取られていったわけである。
   が、この時は後に中央政府が、ほぼ定額どおりに牛を補っているのだ。

  2、牛の死亡
   むしろこちらがほとんどを占めていたといえる。
   あまりの租税の取立ての厳しさに牛を酷使し、過労死させてしまう。

   または南方の場合、狭い土地に人々が顔を突き合わせて暮らしているために
   牛の飼料となる草、ワラなどを確保することができず、栄養失調で死なせてしまう。

   牛だってあぜ道から足を踏み外し、転落死することだってあるだろう。
   死なないまでも脚を折り、労働に耐えなくなってしまうこともあるだろう。

   あるいは、老死である。
   法律では、屯牛は政府から貸し出されるものであり、死なせてしまった場合、
   屯軍が弁償しないといけないことになっている。

   牛が老死か、病死か、その判断は極めて主観的であり、つまりは予算が厳しくなってきたり、
   横領などの腐敗が日常化してくれば、
   牛を補充する予算を出すことを上官が渋るようになることは、想像に難くない。


牛が死んでしまう前にオスとメスをかけ合わせれば、子供が生まれるではないか、と思うが、
どうやらあまりそういうシステムが、兵士同士の間で作られていなかったらしい。

遊牧民のように家畜の繁殖のノウハウを持つ民族には簡単にできることでも
例えば、南方からきた一家なら、意外と難しいものなのかもしれない。

各家に1頭しか支給されないということは、単独では実現しない。
よそ者同士の寄せ集まりの衛所の中で、信頼関係がなければできないこの仕事は部外者が想像する以上に難しいことがある。

牛は一回の出産で1頭しか生まない。
長期的な信頼関係をもって1回ずつの出産を持ちまわることも、簡単なように見えて、腰が引けるものである。


耕牛の不足による打撃は、北方のほうが大きい。
南方は温暖な気候で作物がよく育つため、1戸あたりに支給される土地も少ない。

南方は水田が中心。湿った田んぼを牽(ひ)くのは、それほど牛も疲れない。
5-10ムー程度であれば、数軒で1頭の牛を使いまわしても、牛を過労死させるほどではない。

しかし長城付近の農業地帯の最北限では、作物があまり育たないために支給される土地も広大である。

50ムーって、1ムーが99.1736平方メートル、ほぼ100平方メートル弱だとすると、5000平方メートルである。
100ムーなら、1万平方メートル。気の遠くなるような数字だ。

1頭で1万平方メートルも耕させられたら、牛だって過労死するでしょう。
しかも乾燥地帯でがっちがっちに固まった土である。

このため特に遼寧あたりでは本来、牛は1戸に1頭でも足りない、2-3頭が適数だといわれていたらしい。

さもありなん、と納得するが、実際には数頭も支給はなく、1頭しかもらえない。
そのために多くの牛が過労死していったらしい。

これも負のスパイラルの一環である。
牛なしには、畑が耕せない。耕せなければ、作物の収穫が少ない。
そうなると、ノルマの「子粒」が払えない。逃亡するしかなくなる。

・・・・という図式にはまり込んでいくのである。



負のスパイラルは、牛の不足だけではない。
さまざまな要因がいくつにも重なり、軍人の逃亡に歯止めがかからなくなっていく。

その要因をさらに一つ一つ見ていこう。

屯軍に支給される土地は、遠隔地である場合もあった。
特に南方、中原の土地で多く見られた。

つまり、人口の過密なところに軍隊を駐屯させた場合、その周辺の土地はすでに民間人に占拠されており、
政府がそれを屯田のために買い取るのは、莫大な費用になるからできない場合がある。

特に一般に「腹裏」と呼ばれる中国、南方を中心とした国土の中心地では、
民田と屯田が雑居しており、交差しながら複雑に入り組んでいた。

屯田だけを一つの場所にまとめるというわけにいかない。

たとえば、福建訂(さんずいに変える)州衛の左千戸所の屯地は、一部が江西信豊県にあった。
数千里も離れている。

数千里も離れた二つの場所を同時に耕すのは、無理な相談である。
そこで遠隔地の方を人に貸して、小作料を取ることになるが、小作料の取立てだって一苦労である。

前述のとおり、数千里も離れた土地に旅するのは、一財産がぶっ飛ぶ。
しかも遠く離れているから、地元に影響力もコネもない。
そんな情況で小作人が払えない、と居直ってしまった場合、取り立てる手段さえない。

そうなると、遠隔地の土地はしだいに小作人に乗っ取られるか、現地の有力者に乗っ取られるか、という運命しかない。
ところが、納めるべき「子粒」は、減らない。

少ない土地でそのノルマをこなさないといけないのだから、苦しいに決まっている。
このために首が回らなくなることもあったのである。




*****************************************************************

写真:楡林

さて。城壁の陥没部分に突き当たったところで、あきらめて下に降りてきました。
城壁に沿い、少しずつ南に下りていきます。

   


石畳が続き、風情がありますなあ。




城壁を下から見上げると、こんな感じ。泥の側面がむき出しだっす。
オルドスの砂漠のすぐ南にあるこの地域では、雨があまり降らない、砂漠気候なので、
この状態で明代から500年放置しても崩れることなく、残ってきたのでしょうなあ。




城壁の横にもへばりつくように民家が建てられています。





はるか向こうにお寺が見えます。



通用口発見。城壁にトンネルを開けています。
それにしても奥の深いこと。城壁が如何に分厚いか、よくわかりますな。




城壁と牛ー。





楡林城の東南部分にある「楡林東山関帝廟」。
万暦二十五年(1597)の創建という。




楡林城は、明代のモンゴルとの対峙の際、最も重要な地位にあったにも関わらず、
なんと城内に残る明代の建築群としては、ここが唯一の存在なのだという。
ほかは部分的に残っていても、大きな建築群の塊としては、残っていないということらしい。



手前に見える骨組みは、仮設舞台。
春節期間の出し物のために組まれたらしい。

私たちが訪れたのは、春節のにぎわいも少し納まった頃だったので、静かだった。









人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦9、明代の戸籍制度

2012年08月09日 13時26分57秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
ここで一度、明朝の軍人集団とは、いったい如何なる人たちで構成されていたのか、という背景を押さえておこうと思う。

これまでの経緯を見ると、明の軍隊はアルタン・ハーンにやられ放題。
軍隊は何をしておるんじゃ、といいたくなるのは、私だけじゃないと思うが、いくらかその実情に迫るためでもある。

明朝の軍隊は、ほとんどが「軍戸」という世襲の家庭から出された兵たちで構成されていた。

明代、国民はいくつかの戸籍の種類に分類され、それぞれが世襲で固定され、
戸籍の種類をほかに変えることは、極めて難しかった。

史料によりカテゴライズの方法はさまざまだが、《明史》では、大きく「軍戸、民戸、匠戸、竈戸」の4つに分ける。

 ・軍戸: 軍役を担う一般の軍戸のほかにも校尉、力士、弓兵、舗兵の戸がある。

 ・民戸: 主に「民差」(所有する土地の広さに合わせた租税と徭役という義務)
  を課せられた一般の民戸のほかにも、儒戸、医戸、陰陽戸あり。

 ・匠戸: 主に「匠差」(職人技術を駆使した徭役)を課せられた。
  そのほかにも厨役(コック)、裁縫、馬、船の戸がある。

 ・竈戸:主に塩を焼く。塩は政府の専売、高く売りつけるため、
  産業を拡散させないようにする必要があったのだろう。

そのほかにも炭を焼く「柴炭戸」、茶を栽培する「茶戸」など、地方によってさまざまな「戸籍」があった。


「軍戸」が全国にどれくらいいたかというと、永楽年間で200万戸。

明初、全国の総人口は、1千万戸と概算していたというから、実に全人口の1/5も占める。
(前述の文章で明の人口は1億5000万人いたと書いたが、時代によって変動が激しく、統計もまちまち。)
5軒に1軒が「軍戸」だというのだから、実に巨大なる集団である。

軍戸に指定される経緯には、いくつかのルートがある。

 1、元代の「軍戸」から、そのまま継続している家系。

   元代の軍人も「軍戸」として世襲制であり、明はそれをそのまま引き継いだ。
   明は純粋な漢族による「民族王朝」でありながら、遊牧王朝にあまりにも似たようなことをする、
   とよくいわれるが、これもその表れの一つといえる。

   明の建国まもない洪武2年(1369)、「前朝の戸籍を変えるべからず」の令が施行された。
   つまり、元代の軍戸だった家系は、ほかの戸籍に変われなくなったのである。
   このような家系も相当数いたといわれる。

 2、「従征」: 統一戦争の兵士であり、平定した場所に守備に配属された兵士の家系。

 3、「帰附」: 敵側から降伏した人々。

 4、「滴(さんずいではなく、ごんべん)発」: 犯罪を犯したために兵となった人々。

 5、「役(つちへんに変える)集」: 明初の行われてからは、しばらくは施行しなかったが、
   のちに逃亡する軍士があまりにも多くなり、兵が不足した正徳年間に復活させた。

   民戸3戸の中から1戸を「正戸」として、軍役を担う。
   その他の2戸は「貼戸」(補助の意)として、正戸を助ける。
   軍役は世代交替とともに交替し、3戸が順繰りで負担する。


「軍戸」は、明代の社会の中で、どういう地位にあったのだろうか。
本来なら、「建国の功臣」ともいえる軍人の後裔もいるわけで、他の王朝の倣いでいけば、最も優遇されてしかるべき階級ではないのか。

明治維新を経た日本では、薩摩、長州の下級武士という主力階級が、未だに現代日本で社会の中枢を担うし、
中国でも共産軍の功臣とその家系が、社会の中枢にいる、というように。

ところが、明では最も皇帝に近い大臣クラスは、もちろん内閣入りしているから別として、
「軍戸」は、人々が最もなりたくない、最も娘を嫁がせたくない、
その家に絶対に生まれ変わりたくない家系となってしまうのである。

賎民ではないが、ほぼそれに近いくらい、人々は「軍戸」にされることを恐れおののいた。

それはなぜか。
ほとんど「農奴」に近いくらい搾取がきついからである。
当初はそう意図していたわけではなかったが、結果的に次第にそうなっていってしまう。


軍戸の義務の内容を具体的に見ていこう。

「軍戸」からは、常に「一丁」(成人男子1人)を兵役に出す義務がある。
その赴任先である各地の「衛所」については、原籍の近くで配属されることはほとんどなく、遠隔地が意図的に選ばれた。

恐らくは、現地で赴任した場合、現地の民間人と結託して武装蜂起することを恐れたのだろう。

衛所に赴任する軍士は、「正軍」、または「旗軍」、「正丁」ともいうが、
そのほかにもう一人、一家の「人丁」(成人男子)の中から「余丁」を連れて行くことが義務付けられていた。


「余丁」は、赴任先で「正丁」の軍服などを稼ぎ出すための補助的労働をすることになる。
赴任先によっては、(遼東など)「余丁」を3丁から5丁連れてこい、と命じるところもあり、義務はなおのこときつい。

例えば、成化12年(1476)、陝西で徴兵された軍丁は、1万1千人。
配属先の衛所は福建、広東、広西、雲南、と地の果てとも言えるくらい遥か遠い地ばかりである。
逆にその年、陝西の各衛所には全国各地から6400人が配属されてきた。


赴任には妻子、果ては親兄弟までもを伴うことが奨励されている。
後述するが、赴任先での義務は、人手がなければ、とてもこなせるものではないからだ。
またどんなに苦しくても家族がいれば、逃亡にも少しは歯止めがかかるからである。


何しろ、一旦赴任したが最後、体が立たなくなるまで赴任先で過ごさなければならないのだ。
ほぼ一生である。

半数以上が妻子同伴で出かけたという。

「軍戸」の最初の義務は、この赴任先までの旅費を用意することである。
そのために原籍では、土地が支給されており、その土地で稼げ、ということになっていた。

しかし「正丁」が妻子を伴い、「余丁」も妻子を伴った場合、10人近い大所帯となる。
その旅費の用意は、「千里で(家の財産が)半廃、2千里で尽廃」といわれた。
つまり2千里以上離れたところに赴任させられたら、ほとんど数十年分の財産が一気に吹っ飛ぶということだ。

さらに兵部尚書の楊士奇(宣徳・正徳年間)はいう。
「軍士らは、互いに水土不服(土地の水と気候、環境が体に合わない)。
 南方人は、寒冷に倒れ、北方人は瘴癘(マラリア)に倒れる。
 七千里、八千里の遥か、路は遠く、旅費はかさみ、道中で死ぬ者、逃亡する者多し。
 衛にたどりつく者少なし」 

ただ一部には、貸すことで少しましな実入りになることも、ごくわずかではあるが、ないわけではなかった。


例えば、浙江杭州衛の屯軍は、省城に住んでいる場合、支給された屯田まで数百里も離れていることがあった。
この場合は、小作に貸したとしても、近距離だから小作料の取立てにもいける上、
江南の温暖な土地は生産量も高いので、小作料もほぼ取り立てることができただろう。

福建の福州衛でも屯軍の半数は市井に住み、郊外の屯地を小作に出した。
広東の潮州衛の屯丁は、自分で耕すことを嫌がり、人に貸す傾向が強かった。

これらの土地は、貸しだしても6石という「子粒」を支払ってもまだ充分に楽に暮らして行けるくらい
生産性の高い、ラッキーな土地である。

そういう場所では、逆に今度は、土地のあくどい有力者に言いがかりをつけられて
召し上げられないようにすることが主題となってくる。

これが次の要因である。つまり有力者による乗っ取りである。


****************************************************************

写真: 楡林

楡林の東の城門の上に登ってきました。
はるか向こうまで城壁が続いています。




城壁の上は、このように土がむき出した状態。
れんがはもうとっくにはげおちております。

    


西側に見渡す楡林市。
手前が城内の旧市街。それを保存したまま、その西側に近代的なビルのたつ新市街が広がっています。
保存と発展を一体にしたまさに理想的な都市づくりですねー。




はるか向こうにこれまで歩いてきたメイン道路が見えます。



こちらは「甕城」の中である。(「甕城」については、こちら

なんと「甕城」の中の土地ももったいない、とばかりに住み着いている人たちがいるのですなー。





こうして城壁に上る野次馬たちに上から家の中や生活を覗かれても、へっちゃらってことっすかねー。




その「家」の脇には、「甕城」の出入り口が。








城壁の上は、別に観光用に整備されているわけではない。
私たちが、頼まれもしないのに、勝手に上っているだけである。
したがって、落ちてもけがしても「自己責任」。
ところによってはこんな細い「綱渡り」のような道もある。




そういう「未整備」の状態が延々と続く。

    

そ、そしてついに陥没した部分が!
あいやー。この細く残っているれんがの部分を渡って向こうに行く運動神経はないー。
しかも斜めになっているし。。おデブな私が乗っかったら、そのまま横倒しになったらどうしよう。。
地元の人はそれでもがんがん進んでいますが。。。
写真でもはるか向こうに人影が見えますね。
君たちは、雑技団ですか。。。すごすぎ。。。

    

外側を覗くと、立派な陣容を見せていますなー。



楡林のこれだけすばらしい観光資源を見ると、おそらく数年以内に大規模な開発がありそうですな。
数年後に訪れてみたら、この城壁もぴかぴかの新しいれんがにくるまれて、
まるでディズニーランドのようなテーマパーク化してそう。。。
こういう西部劇のような荒涼とした雰囲気は、味わえなくなるのでしょうな。。。

こちらは城壁の外、はるか向こうに見える道観。





人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ -->

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦8、嘉靖帝の不信感

2012年08月08日 22時30分18秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
事の経過は世宗(嘉靖帝)に報告されたが、世宗はアルタン・ハーンの意図をはなから懐疑的にとらえ、
兵部にもう一度検討するように命じた。

世宗の奇人変人ぶりは、書き出すときりがないので、やめるが、
嘉靖年間の数十年間にもわたるアルタンハーンとの開けろ、いや開けない、の押し問答は、
最終的には、この皇帝の異常なまでの意固地な性格に起因するところが大きい。
読んでいてもどかしくなるが、しばらくは世宗の奇妙なる人格に起因する経緯を追うしかない。

世宗はまずは宣大軍務の総督兼軍糧管理の大臣を決める。
しかし世宗とのやり取りが続く中で、モンゴルとの通貢にどうやら世宗は賛成ではないらしい、と見て取った大臣らは、
その意を汲んだ意見を多く出すようになる。

「モンゴルは騙し討ちが多いので、その通貢の要請は信じるべからず。
我が軍を油断させるためか、隙を狙って国境を犯さんとせんか、内心測りがたし。
ただ大義に則り拒絶してこそ、その謀略が自滅するものなり。
今できることは内修のみ。将を選び、兵も糧も足らしめることが第一義。」

と、総督大臣を早急に鎮に向かわせるよう、催促した。
これを受けて世宗は、我が意を得たり、とばかりにご満悦の様子、すぐに諭旨を出した。

「醜虜(醜き韃虜=モンゴル人への蔑称ですな)は年々国境を犯し、平穏に過ごす年なし。
各国境の総兵、巡撫は特に責任を以って当たるべし。
宣大近畿重鎮は、特に気をつけて準備を怠らず、くれぐれも事を失しないように、大きく警戒心を張るべし。

今、うその言葉で通貢を求めるその胸の内は測りかねるが、派遣された大臣は常のやり方のごとく、
意味のない文章で責任逃れするべからず(常々、前線からの奏文がいいかげん、という不満の表れですな)。
必ずや将を選んで兵を訓練し、国境を出て追撃し、侵入の大罪を追究し、通貢を絶やせ。

アルタン・アブガイを生け捕りするか、斬ることができたら総兵・総督は大抜擢し、
部下の功ある将士には五級昇格、銀500両の賞金を以って応えるべし。
戸部(大蔵省に当たる)からは銀四十万両の予算を出し、兵部(防衛庁に当たる)からは馬価二十万両を出す。
それぞれに清廉なる郎中(爆。大金を扱うので、公金横領しそうにない評判のいい人物ということですな)を選び、
従軍して采配を振るうべし。さらに科道官各一員を選び、前線に送るべし。
虜(=モンゴル)を破る奇績なくば、大臣、京に戻るべからず。鎮の巡官と一体で連座すべし」
(《明世宗実録》巻251,嘉靖二十年七月丁酉条。)

・・・・と、世宗の指示は、アルタン・ハーンの思いとは、まったく別の天のかなたに妄想が飛び、
交易したいと申し入れているだけなのに、合計60万両もの予算を出して軍備拡張を進める、という迷走ぶりである。

しかも交易を申し入れている相手に戦いをふっかけ、功なくば大臣も駐屯巡撫・総督クラスも帰って来るな、
首都の土を踏ませぬぞ、とドスを聞かせている。
ありもしない謀略に身構えているわけである。

これを見ると明の側こそ、モンゴル側に関する情報がほとんどなく、相手の胸中を推し量るための材料ゼロである。
相手への不信感で岩のごとく凝り固まり、先方の意図がまったく通じない。
まるで昨今の日中関係を見ているようだ、と思ってしまうが、橋渡し役になる人物が間にいることが、
如何に重要か、と痛感させられる場面でもある。
その「キーパーソン」になるのが、アルタンの若妻・三娘子なのだが、その登場は後のことである。



朝貢の拒否という結果を突きつけられたアルタン・ハーンは、さながら阿修羅の如く怒り狂い、
当初の脅し文句のとおり、大軍を遠く太原まで駆けさせ、略奪の限りを尽くしたのである。

嘉靖20年(1541)8月、アルタンハーンは、17万人の軍勢で山西の太原府を襲い、
2万人を殺し、略奪を行う大規模な侵攻を行い、中原の人々を恐怖のどん底に陥れた。

前述のとおり、これまでモンゴル軍の襲撃は国境付近に限られており、
太原のような国境からかなり奥にある大都市にまで姿を現すことはなかった。

まさにこれまで見てきたとおり、漢人ブレインの「質」向上に伴う襲撃レベルの向上である。
それにしても太原は、長城からかなり南にあり、こんな奥までよくも入らせたものだ、とあきれる。
明の軍隊は、何をしとったんだろう。

太原は今でも山西の省都であり、国境付近のすかんぴんの農村とは比べ物にならないくらい
豊かであったことは、いうまでもない。
17万人の兵士ら全員が、十分にありつけるくらい豊穣なる収穫があっただろう。

ところが、この襲撃で思わぬ「おみやげ」まで持ち帰ってしまう。
それが天然痘である。

古来より寒冷地区に天然痘は存在しないので、免疫のない人々に瞬く間に感染し、
数ヶ月の間に人口の半分近くの命を奪ったという。

翌年、捕らわれの身だったのを命からがら逃げてきた漢人の証言でわかったことである。
草原に白骨が累累と横たわっている、と。

天然痘は中原においては、この当時すでに1000年の歴史をもつ「由緒正しき」病気である。
宋・元代にはすでに病人の皮膚を粉末にして飲ませる免疫法が開発され、
命を奪う病気ではなくなっている。
明代には天然痘はもはや子供の病気でしかなく、ほとんどの成人には免疫があった。

モンゴル人にとっては、これまでぴんぴんしていた人間が発病したが最後、1ヶ月以内に
あっという間に死んでしまうのだから、その恐怖は、想像に余りある。

草原で天然痘患者が出ると、家族全員から隔離させ、漢人に看病させた。
おそらく漢人の奴隷の使役は、一般的に見られたのだろう。
漢人なら、奴隷だから死んでも惜しくない、という非情なる気持ちと、
免疫があるからかからない、という意味もある。

もしどうしても世話できる漢人が見つからない場合、遠くから食べ物を投げよこすしかない。
まるで2004年のSARSのときのようだ、と思ってしまうが。。
湖南省あたりでは、患者を洞窟に押し込め、近づくのが怖いから
ロープ伝いにインスタントラーメンをとばし、送り込んでいたという話も聞く。

たとえ命を取り留めたとしても、夫婦なら1年は別居したという。

これ以後も長城の外の人にとって、「中」に入るのは、常に天然痘がネックになった。

後の例で見ると、例えば「隆慶の和議」以後、
民間取引が許可されるようになっていた時代の万暦14年(1586)、(この時から40年後)
楡林に近い紅山商品交易集市が開かれる直前、数人のモンゴル貴族が天然痘のために命を落とした。
この時、天然痘にかかりながらも幸い命を取り留めた人も何人かいた。
彼らは病気が治癒すると、モンゴルに帰ったが、
なんとその持ち帰った菌にやられ、草原で再び大量の犠牲者を出したという。

またこれより120年ほど後、清朝であまたいる皇子の中から、康熙帝が皇帝に選ばれたのは、
すでに天然痘にかかり、その後治癒しており、免疫があったからという。
長城の外から「中」に入り、戦う女真族にとって、天然痘は同じように恐怖だったのである。

さらにこの230年後、乾隆帝が熱烈に接待したチベットのパンチェン・ラマも
長城を超えて北京に入ると、あっという間に天然痘にかかり、ぽっくりとあっけなく命を落としてしまった。

北方騎馬民族は、このように長城の中に入ることを大変恐ろしがる。
清代に彼らとの交流の場のために、わざわざ承徳を建設したのも、
長城の中に入りたがらない彼らがリラックスして行事を楽しめるように、という配慮からだったくらいである。

そんな「中原の洗礼」を奇しくもアルタンハーンは受けてしまった。

****************************************************
写真: 楡林

坂道が続く。

    


途中で見かけた古い家。
一昔前は、町中の家が、皆こういう構造だったのでしょうな。




あいやー。すさまじい勾配になってきましたぞ。
車が通れないのはもちろん、人間が上るにもかなり無理が。。
この勾配は、ロバ用ではないでしょうかな。

    


しかし後ろを振り返ると、町並みが大パノラマー!

    

    





    

    

       
坂道を一番上まで上ると、ついに楡林城の城門が見えてきました。
東門にあたります。楡林城の東側は全体を丘に肩を傾けるように建っており、
城門の向こう側は、丘の上の高台になっています。

    




人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦7、フフホトと板昇

2012年08月07日 08時41分02秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
アルタン・ハーンは、トメト部の部族長の子として生まれてモンゴルの覇者となったため、
その本拠地は一貫してトメト部の放牧する草原である。

まさに北京から北の燕山山脈を越えたところから西にかけて広がる地域だ。
後に彼が建てた新しい町・フフホトは、その中心にある。

この一帯を中国語では、「豊州灘」という。
一般的に「年間降水量400mm」というのが、乾燥地帯と湿潤地帯の分かれ目といわれており、
大体北緯39-42°の間、そのボーダーラインに万里の長城が連なる。

アルタン・ハーンの根拠地である豊州灘は、ステップ草原の中心地ではなく、
農耕地帯とのグレーゾーンに位置する。
つまりは長城のすぐ北である。佳県もまさにそのグレーゾーンに近い。


嘉靖初年ごろから、さらわれてきたのではなく、自分の意思で自主的に逃げてきた漢人が増え始める。
さらわれてきた場合は人間扱いされず、寿命の縮むような劣悪な仕事、劣悪な住環境、劣悪な食事が待っている。

あるのは望郷の念のみ、積極的に現地で生きていこう、生活をよくするために工夫しようという前向きな気持ちにもなりはしない。
となれば、自然とモンゴル人が彼らにさせようと思いつく、遊牧の範囲内の仕事しかしないことになる。

しかし自分の意志で逃げてきた人間は違う。
やみくもに逃げてきた人は稀で、ほとんどの場合、すでにモンゴル側とコンタクトがあり、

しかも相当に気心がしれるほど、信頼関係が出来上がっており、逃亡後のビジョンを互いに話し合っていることが多い。

彼らは逃げてくるのだから、もはやモンゴルで骨をうずめる覚悟で臨んでおり、
そのためにそこでの生活を少しでも楽しく、これまでのライフスタイルを維持できる形で持ち込みたい、と前向きに努力する用意がある。

そうなれば、農業をやってできないことはない気候である。
そしてここには、地平線まで続く広大な土地が広がっており、これを好きなだけ耕すことができる。

重税を取り立てる悪徳役人もいなければ、地主のために搾られることもない。
こうして豊州灘には、「板昇」と呼ばれる漢人居住地区が徐々に形成され、広大な畑が広がるようになる。

遊牧は完全な自給自足システムといわれるが、16世紀のモンゴルではもはや相当にそれが崩れている。
特に元朝の統治者として中原王朝の皇帝・貴族と同じように、中国全土のあらゆる物産・食糧に囲まれて
暮らした経験を経ているだけに、もはや元に戻れない習慣も多くある。


古代であれば、衣服はまさに獣の毛皮だけで暮らしてきたのであろうが、
下着を始め、綿や絹が気持ちいいに決まっている。

食事も昔は乳製品と肉だけで暮らしてきたのだろうが、少しでも炭水化物の穀物を食べれば、
栄養のバランスもよく、健康になり、かつ長生きになることは間違いない。
なければそれでも死なないが、できれば常食したい、という願いがある。

そんな彼らが、漢人の耕作を歓迎したのもうなずける。
アルタンハーンとしては、明の経済封鎖に対抗できる、
自国内でなるべく自給できるシステムを作る試みとしての希望を見ていた。

アルタンハーンが政権を取った時代、ダヤンハーン時代から続く長い平和のために
モンゴルでも人口が増え、飽和状態になりつつあった。

遊牧というシステムは、相当に広大な土地がなければ、維持できない。
1年中、家畜が同じところで草を食めば、食べつくして砂漠化させてしまう。

いったん砂漠化した土地が、自然に草原に戻ることはない。
それを防ぐために、それぞれの季節に牧草地が決まっており、草という貴重な生きる糧を
食い尽くさないように気を使う。

人口が増えれば、それだけ多くの家畜がなければ、皆の腹を満たすことができないことになり、
草原の密度のルールがこわれてゆく。

嘉靖15年(1536)、寧夏において、モンゴルで最も豊かだったといわれる牧場が蝗害(いなご)で全滅した。

中国の歴史には、よく蝗害で大飢饉が起きる場面が出てくるが、モンゴルでも起きたといういなごの害を少しWikipediaから見てみた。
以下、抜粋・要約しつつ、まとめてみた。


「蝗害(こうがい)とは、トノサマバッタなど、相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。

群生行動をしているバッタは、水稲や畑作作物などに限らず、全ての草本類を数時間のうちに軒並み食べ尽くしてしまう。
当然、地域の食糧生産はできなくなるため、被害地の住民は深刻な飢饉に陥いる。大量に発生したバッタは大量の卵を産むため、数年連続して発生するのが特徴である。

バッタは蝗害を起こす前に、普段の「孤独相」と呼ばれる体から、「群生相」と呼ばれる移動に適した体に変化する。
これを相変異と呼ぶ。
「群生相」になると、それまで食べなかった植物まで食べるようになる。

群生相、孤独相はそれぞれ生まれつきのものである。
ただし両親の遺伝子の組み合わせによるものではなく、親が暮らした集団の密度によるものである。

バッタ科の雌は、産卵管を使って土や砂地の地下数センチメートルに産卵する。
背の高い草が密集している場所での産卵は苦手であり、
近年北米で蝗害が減った原因のひとつは、アメリカバイソンが減少して草の背丈が伸びすぎたためとも言われている[1]。

大量に産卵が行われるには草原や河原の砂地などが必要であり、蝗害は草原と耕作地が隣接しているような場所で発生しやすい。
また、群れを維持するためには大量の植物が必要であり、日本のように狭い土地では蝗害はほとんど発生しない[3]。

一般には、これらの地帯でたまたま高気温、高降水量となった時に大発生する[4]。
ただし、歴史上の中国などでは、旱魃になったほうが蝗害が起こりやすくなる。

つまり、洪水で河があふれて周囲の砂地が湿ったり、逆に旱魃で河が細くなって湿った砂地が現れると、
そこに一時的な草場ができるため、バッタが集中的に発生して群生相が生まれる原因となる。

群れが次世代の群れを生むため、被害の年は連続することが多い。
一方で、何かのきっかけで群れが一度消滅すると、次に群生相が生まれるほど個体の密度が上がるまでは数十年と大発生が見られないこともある[1]。

もっとも、バッタの大発生は周期的なものであり、連続して起こることはないとする文献もある[3]。
大規模な移動を行うのは、一般的には食を求めてとする説が多いが、繁殖に関連する現象とする説もある。」



・・・・ということである。
これを当時のモンゴルの状況に当てはめて考えてみると、
つまり人口増加に伴う家畜の過密放牧、それにより草が短くなりすぎたことによって
起きた可能性があるということではないだろうか。

人口増加により、牧民の暮らしが悪化し、統治者であるアルタンハーンにそのプレッシャーが
かかってきたことは想像に難くない。

どうにかして民を食わせないといけない。
そのための模索の一つが、長城内への侵入、略奪でもあった。



経済封鎖による閉塞感、牧民の生活の貧困化、というさし迫った問題を抱え、
目指す方向性を思いあぐねていたらしいアルタン・ハーンの使者が、ある日くそまじめに長城の門を叩いた。

嘉靖二十年(1541)七月、アルタン・ハーンは使者・石天爵を大同の陽和塞に派遣し、
初めて正式に「通貢したい」という願いを示した。

略奪による経済の維持は、もう限界だと感じた末に行き着いた結論である。

「父のスアラン(諰阿郎)が先朝に常に入貢していたことに倣い、下賜品を賜うことができ、
市の開催の許しを得ることができれば、漢韃(漢人と韃靼人)の双方にとり、利益とならん。
近頃は貢道(朝貢のルート)が通じないために毎年、略奪に侵入することとなれり。

人畜の多くが災害・疫病の被害に遭ったため、神官に占ってもらったところ、入貢が吉なり、と出た。
天爵は元は中国人なるも、モンゴル人の中に暮らし、今や本物のモンゴル人なる故、同行せり。

通貢が許さらば、必ずやこれに報いよう。
厳しく管理し、国境近くの民は塞(長城)の中で田を耕し、モンゴル人は塞の外で馬を放牧し、

永えに相犯すことなきよう、飲血して盟誓せん。
さもなくば、帳幕を北の辺境に移動させ、精鋭騎兵を駆使して南下し、略奪せん」

と、最初は下手に出て神妙に提案するが、最後には脅しのドスも効かせている。


陽和塞は、大同の東北の山中にある要塞である。
モンゴルから大同への通り道となる谷間を守っている。
つまりは、「長城の中」に入るための「ドア」である。

見張りの兵士から直ちに伝達されていったのは、大同城にいる巡撫・大同都御史の史道である。
前線に駐屯する身として、現地の空気を身近に感じており、アルタン・ハーンのさし迫った願いをよく理解した。

史道は朝廷に
「弘治から入貢しないことすでに四十年に及ぶも、わが国境は毎年、莫大な被害を受けたり。
今ここに誠意を以って帰順せんという。中国に大いなる利なり。
しかしながら敵の勢力は強く、(負けたのでもないのに臣属したいとは)その心、測りがたし。
臣、防御に努め、気を抜かず。早急にご検討願い候」
と、書き送っている。

朝廷の決議が出るまでの間、アルタン・ハーンとその衆は、塞外で待機していた。
その間の愛想よろしきこと、不気味なくらいである。

「土敦」(dun=城塞)を守る百戸の李宝をモンゴル側の軍営に招き入れて、飲めや歌えやの大騒ぎでもてなすわ、
部下のモンゴル騎兵が哨卒の衣服・食糧を強奪するという「いつもの習慣」を見せてしまうと、
これを厳しく罰し、衣料と食糧を哨卒に返還するというジェントルマンぶりを見せて、明側の兵士らを不気味がらせた。

まるで確かに平和が訪れたかのように見えた。

巡按御史の譚学はこれを見て、朝廷に催促の奏文を出す。
「モンゴル側の内心は信じ難けれども、今見る恭順の軌跡は、確かなり。
通貢を許せば、万一に備えるべし。許さぬば、即戦いなり」

と、言っても言わなくても同じようなことを書いた後、
軍糧の増援、兵事を熟知する大臣の派遣、前線での指揮を請うている。

兵部は奏文を受け取ると、事のしだいを重視し、
史道に再びモンゴル側の通貢願いの本当の意図を探るように命じた。

「小王子(=アルタン・ハーン)の本物の番文(モンゴル語直筆の書)を求め、
後から問題が起きぬようにすべし」
と命じる。

同時に譚学の意見を採用し、辺境軍事に詳しい大臣2名を宣大(宣府と大同。一つの軍事管轄区に属する)に派遣、
軍事と通貢事項に当たらせることを決定した。




鼓楼は、広場の真ん中にあり、周りはにぎやかな盛り場になっている。




これは北京にはありませんな。棺桶屋さん。

「皇家御用頂級孝品」、つまりは皇帝ご用達極上品の親孝行品。
すごいキャッチフレーズですな。



木材の価値により値段が違うのでしょう。
都会では土葬は許されませんが、ここではもうできるのかもしれないですね。
調査不足でわからないのですが。また機会があれば、聞いてみたいです。



鼓楼から東を見ると、坂道の上に牌楼が見えます。
楡林は東側が山になっていて、その山肌をそのまま利用して、城の防衛に活用しています。
よってここから東にいくと、ひたすら坂道です。




道沿いの民家は、昔風の四合院の雰囲気を残しています。
馬車がそのまま乗り入れることのできたスタイル。

    


冬に欠かせない風物詩、石炭売りです。



北京ではオリンピックを境に北京市内での石炭使用は禁止され、すべて天然ガスと電気に切り替わり、今では石炭を積んだトラックは見かけなくなりました。

天然ガスと電気にすれば、当然コストが大きく値上がりするのですが、そこは市民の不満を招かないよう、政府が補助し、市民側の負担はこれまでと同額になっています。
しかし如何せん、大きな負担なので、今度は室内温度がボイラーの温度がかなり下げられました。
日本の冬に慣れていれば、室内でズボンの下に薄いタイツが必要な程度ですから、もう充分に暖かいわけです。
しかしこれまでぎんぎんに暖められ、室内では半そで短パンで過ごせるくらいの暖かさに慣れきった北京市民からは、ブーイングが出まくりました。

エコ、外国への面子、コスト負担、市民のブーイングという四者の板ばさみとなった市政府は、最近やむなく各アパートに断熱材の補強を始めました。

計画経済時代に建てられたいわゆる古めかしい5階建てエレベータなしのアパートのレンガの外から、断熱材を貼り付け始めたのです。

市内の公共アパートすべてにこの改造をするのは、大変なコストでしょうが、それでもボイラーの温度を上げるよりは安上がり、と踏んでのことらしいです。





牌楼までの坂道を登り、鼓楼を振り返ります。




だいぶ高低差がありますな。

    





石炭の大きな塊があると、思わず激写。



皆さんには奇怪に思えるかもしれませんが、郊外に自分でレンガの家を建て、暖房システムを設計し、石炭を買って、燃やし続けた経験のある身としては、冬の快適さは、そのまま石炭の量に直結してきた経験があるわけです。

当時は生活費を切り詰め、1ヶ月300-500元で暮らしていたこともある中、
石炭代が1ヶ月に1000元を超えることもあり、大変な負担でした。

つまりこの黒い塊一杯の三輪車は、私にとっては「宝の山」に見え、思わず激写なんですな。

    


東側の城壁に近づいていくほどに傾斜が続きます。


    


茶色いレンガの町並みと石畳。それに北京にはない地形の変化というプラスアルファ。
なかなか風情のある町ですな。


    

人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦6、逃亡者の増加

2012年08月06日 06時27分09秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
このほかにも、自分から望んで長城の外に逃亡する人々も次第に増えてくる。

「南倭北虜」(明の滅びた理由。南の倭寇の害と北のモンゴル、女真などの侵入の害)というが、
その中でもとりわけ経済的に圧迫したのが、このモンゴルとの戦線における軍事費だろう。

明代の戦争で出動する兵力を聞くと、ゼロが2桁くらい間違っているのではないか、と思うくらい壮絶な規模である。

永楽帝がモンゴル征伐に率いた兵力は、50万人とか、
土木の変での戦死者が10数万人とか、聞いただけで数字がすさまじい。

明代の全国人口が約1億5000万人程度といわれる。

その中でも兵士になれる「壮丁(労働年齢の男子)」は6000万人程度しかいなかったことになる。
そのうちの50万人を連れて、モンゴルに遠征にいく、ってどうよ、永楽帝、というくらい、国民にとっての負担は、大きい。

直接には従軍せずとも、兵士らを養う費用が国民に重くのしかかることは、もちろんである。

延々と続く長城の建設だけでも気が遠くなる。

そのため明の国民の賦役の負担は大きく、あまりの苛烈さのために負担しきれず、
土地を手放して小作人に転落する者、役人、地主の取立ての厳しさに耐えられず、塞外に逃れる者が増えていった。


特に嘉靖年間に暴れまわるアルタン・ハーンは、思い切った漢人登用政策を掲げ、
功のあった漢人には、惜しげもなく財物を与え、モンゴル女を娶らせたといわれる。

アルタンの強さは、この「漢人登用の待遇」の上昇にあったのだろう。

「アルタン・ハーンのところにいけば、大金持ちになれるらしい」と、長城の中でも噂がたてば、
ますます優秀な漢人が集まり、明からは人材が流出し、敵の栄養になるという悪循環である。

それくらい明での人材登用が淀(よど)んでいたのだから、「負のスパイラル」はとまらない。

明の方でも次第に巧妙になってくるモンゴル側の作戦を見て、
その背後にいる漢人のブレイン集団の存在を問題視するようになる。

明初、モンゴルの軍事行動には、自ずと限界があった。その特徴は、

  1、国境からあまり深く入らず、国境付近の略奪に留める。
  2、侵入ルートが単一。出没する地域が、大体決まっている。


その原因は、明軍側の軍事配置、防衛の特徴、地形などを把握していないためといえる。
いわば、ごまんとさらってきて、わんさかいる漢人の捕虜を生かし切れていなかった。



正徳年間に入ると、モンゴルの戦術ががらりと変わる。
明側は、その変化を次のように総括している。

1、昔は甲冑の身につけていなかったのに、今は明製の鎧甲に身を固める。
  
  --鎧甲をつけると、怪我がどれだけ防げるか、という効能を啓蒙する漢人あり。
  またその密輸販売ルートを手引きする漢人あり。

2、昔は馬から下りることはほぼなかったのに、今は馬から降り、鋤(すき)・もっこなどの工具を使い、
  城壁の下を掘って城攻略を行う。
  後に白蓮教の亡命者・丘富(後述)は、城攻略のためのはしご、突撃用の竿(さお)の製作まで指導している。
  
  --騎馬民族は、城に立てこもられると、これを攻略するのが苦手なのは、昔から有名だったが、
  今や掘るわ、はしごを製作するわ、で中原の戦い方を完全にマスター。

3、昔は侵入しても長く留まることを恐れてさっさと引き揚げていったが、今はじっくりと腰をすえて戦う。

  --詳細な情報を集めるスパイ網と、科学的に分析すると軍師のチームが形成されている。

4、昔は大集団でどどっとやってきて風のように去っていったが、今は大挙してやってくるが、効率よく各地に分散して広範囲に略奪し、明側が対応する隙を与えない。

  --どこの警備が手薄か、どこに多くの略奪物があるか、事前の情報がある。

5、昔は兵士に紀律がなかったが、今は烏合の衆ではなく、整然とした軍記があり、
  軍旗も号令も存在し、秩序がある。

6、昔は家を焼かなかったが、今は焼く。

  --モンゴル人の略奪は、生活の糧を得るためだから、農民を絶望の淵まで追い込むよりは、
  再起可能なくらいにして生かしておいて、財産がたまった頃に、また略奪に来ることを目的とする。

  つまりは「飼い殺し」である。
  しかし漢人亡命者は、いつまでも塞外のお尋ね者に留まっている気はなく、

  あわよくば、明を滅亡させて自分が覇者となるというレベルの野望を持っている。
  だから敵は再起不能なまでに徹底的に叩いて、追い詰めていく。

7、昔は大河にぶち当たるとあきらめたが、今は船で渡ってくる。

  --草原には木材もないし、モンゴル人は手仕事を苦手とするから、職人もいない。
  木材を調達し、図面を引いて大量の船を作る指導は、高等教育を受けた漢人にしかできない。

モンゴルの被害が拡大したのは、漢人の協力による、と朝廷は考えた。



戦術の変化は、明の方にも関係がある。

これまでモンゴル側が漢人を活用しきれなかった理由は、さらってきた漢人のほとんどが
文盲なる、愚昧なる農民などであり、教養が低すぎて、役に立たなかったためでもある。


嘉靖年間あたりから、軍の腐敗にますます拍車がかかり、将領らによる兵士の給料ピンはね、軍糧の横流しがエスカレートする。
このために給料未払いで生命の存続の危機まで追い込まれた兵士らが爆発し、反乱が相次ぐ。

反乱を起こし、平定されれば、全員が死刑になるに決まっている。
そこで兵士らは、例外なくすべて長城を超えて草原のかなたに消えていった。

例えば、嘉靖3年(1524)、嘉靖12(1533)に大同で兵士らの反乱が起きているが、将を殺し、全員が長城の外に消えていった。

さらにひどいのは、嘉靖32年(1553)に起きた大同の兵士らの反乱である。

モンゴル軍を大同城内に迎え入れ、気勢を揚げて銅鑼を叩き鳴らして熱烈歓迎、
モンゴル側の将軍を宴会でもてなして、まもなく到着するであろう

自分たちに対する政府の平定軍との戦いにモンゴル側の援護射撃を頼もうとする始末である。


彼らがまもなくモンゴル軍とともに、アルタン・ハーンの元に去っていったのは、いうまでもない。


嘉靖年間全体と隆慶5年(1571)に隆慶の和議が成立するまでの間の50年間の間に起きた
兵士の反乱は、大規模なものだけでも実に50回以上もあり、小規模なものはもはやカウント不可能である。


これだけ大量の「戦争のプロ」、「軍事専門家」がモンゴルに終結すれば、
モンゴル側の戦術に革命的な変化が生まれるのもうなずけるというものである。


*************************************************************************

写真: 楡林

通りをさらに北に進んでいくと、

 

見えてきたのは、凱歌楼。



凱歌楼は、明の弘治5年(1492)年の建立。
まだ楡林城が小さかった頃は、この楼が城の南門の役割を果たしていたという。

また明の正徳13年(1518)、武宗が楡林に行幸した際、この楼に滞在し、太乙神宮と命名した。
その際に載妃を見初めて北京に連れ帰ったことは、すでに触れた。

モンゴル戦線の最前線にある楡林において、ここでは大きな戦争のあるたびに凱旋式、
捕虜献上式典、功労表彰式典などが行われた。
それが「凱歌楼」の由来である。

     





入り口には、「院内で内モンゴルのバターを売ります」と。
楡林の人々は、草原と縁の深い生活を送っているのですな。





およよ。この胡同は面白い。道が下にもぐり、上に部屋が一つありますな。
楡林は、東の山肌に張り付くように作られているので、東が高く、西に行くほど下り坂なんですな。

    

    


本、ゲームなどのお店。ところ狭しとちらしを張り出し。




メインストリートの最も北、鼓楼。

創建は明の成化年間後期。

  








人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦5、英宗、大同城下に連行される

2012年08月05日 06時27分09秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
エセン・ハーンは英宗をたてにして、大同の城門を開けさせようとしたが、
これも喜寧の入れ知恵だったといわれる。

つまり大同の城門の外までやってきたモンゴル軍が、英宗に命令させ、城門を開けさせようとしたのである。
開けたら最後、モンゴル軍がどっとなだれ込んできて、あっという間に城が落とされるに決まっているが、

開けなければ英宗を見殺しにすることになり、もし皇帝に返り咲いた場合、どんな罰を受けるかもわからない。

官軍は困り果てたが、やっとのことで妥協案として思いついたのが、かごに乗って兵士が
城門の上から外に降り立ち、皇帝にご挨拶をし、苦境を説明してどうしても門を開けられないことを納得してもらうことだった。


この時、奇妙なことを言い出した人がいるという。
今となっては出典がうろ覚えで、詳しくは思い出せないのだが、
ある軍官におまえがいけ、というと、いや。おれは誰々に殺されるから、いやだといったという。

理由はモンゴル側の誰々のところに娘を嫁をやる約束になっていたが、
今回の外交関係の悪化で、娘をやれなくなってしまった、今降り立ったら、娘の岳父になる予定だった
モンゴル側の軍官があそこにいるから、八つ裂きにされる、と。

つまり国交が断絶し、しょっちゅう殺し合いをしている戦争状態の軍人同士が、
実は秘密裏に婚戚を交わし、裏取引の関係が成立していたということである。

例えば、自分の所属する大同の城は攻めずに他の城を攻めにいってくれとか、
攻める場合は、事前に日取りと場所を知らせ、自分とかち合って戦死しなくてもいいようにするとか、そういうことだろう。


軍人がこのていたらくでは、庶民は殺されたり、略奪されたり、奴隷にされたり、いい面の皮である。
慢性化する戦争に、軍人のほうがもううんざり、死にたくないから、一計案じたというわけである。
軍規の乱れ、壮絶なり。


このような秘密の婚戚関係では、モンゴルに嫁にいった娘が里帰りなどできるはずはない。
父親が見張りの当直をしているときに、城下から矢文が射込まれ、手紙を開いてみると、
娘が無事に子供を生みましたよ、と書いてあった、などという話もある。

お上の気持ち、下々は知らず、である。


さて。

懸賞金までかけられた「漢奸」(・・・・と中国側はいうが、女真族なのだから、ちょっとちゃうやろー)
の喜寧は、どうなったか。


エセンに取り入り、得意満面の喜寧を見て、英宗はあきれ果て、怒りで眩暈がしたが、どうにもできない。

大同城が英宗をだしに脅しても門を開けず、聳え立つ難攻不落の城壁の守りは堅く、簡単に落ちないと見ると、
ルートを変えて北京に迫ることにした。
このルートの提案も中原の地理事情に詳しい喜寧がエセンに入れ知恵したといわれる。




地図で位置関係の確認。

少し印刷が薄いが、左端に大同、真ん中に土木、下の方に紫荊関があるのがわかるだろうか。


西から南下し、山西と華北平原の間に横たわる太行山の中で、谷に沿った、昔からの抜けルートがある。
そこに関所を作り、異民族の侵入を阻止したのが、紫荊関である。

エセンの軍隊は紫荊関を攻撃し、2日で陥落させた。
ここは大同ほど城壁が堅牢に作られておらず、守る兵も少ない。

つまり、これまで中原の地理にあまり詳しくないモンゴル側があまり攻めない場所だからこそ、
守備が薄く、落とされやすかったのである。
それを喜寧は知っていて、提案したルートである。

この戦役で守備都御史の孫祥は戦死した。

太行山から抜けると、悠々と華北平原に出た。
易県、良郷、盧溝橋、と北上し、北京城の南に出た。

最も、北京城を囲んだはいいものの、守る側の于謙は、22万人の軍を北京の九門の麓に配備し、
決死の覚悟で臨んでいる。

北側の長城の防衛線も固く守られており、まもなく全国各地の軍隊も支援に到着するだろう。
これ以上、長城内でぐずぐずしていたら、帰り道も確保できなくなることを危ぶんだエセンは、
北京城を4日包囲しただけで、再び元の道を帰り出した。

エセンを北京の城下に忽然と出現させるという離れ業は、喜寧の存在なしにありえない。
英宗の怒りや、如何ばかりかというところだが、どうすることもできない。

北京包囲に失敗して返ってきても、喜寧はエセンのおそば近くで得意満面である。
後に英宗は謀略を図り、袁彬、哈銘などと推し量り、喜寧を使者として北京に派遣するよう説得する。

この際に、土木の変で同時に捕虜となった明軍の兵士・高磐も同行させたのである。
英宗はこっそり高磐に言い含め、自ら書状を書き、高磐のズボンの中に縫いこんでおいた。

喜寧は得意満面にオイラトと英宗の両方の使者を従え、宣府に入り、明軍との談判の席についた。
明側の将軍は城門を開けるわけに行かないので、
城から出てきて、城下で喜寧とともに宴会を持ち、愉快に(少なくともそんな振りをして)飲んだ。

この時、高磐が突然大声を出し、喜寧にむしゃぶりついて行って放さず、大声で
「太上皇の旨ありー!!」と叫んだ。

北京では、すでに英宗の弟・代宗(景泰帝)が即位しているから、英宗は「太上皇」なわけである。
これを聞いた明の将軍らは、間髪いれずに「ははああー!!」と、全員がひれ伏した。

英宗が喜寧の非道の罪状を書き連ねた諭旨を読み上げ、その場ですべてのオイラトの使者を捕らえ、
喜寧を縛り上げて北京に送った。   

英宗の直筆で書かれた手紙を読み、高磐の訴えを聞くと、景泰帝と周りの大臣らは、怒りに打ち震えた。
宦官の喜寧はNao市(明代の刑場)に送られ、三千切れ余り、

肉を少しずつ削りとられるこの世の極刑「凌遅」の刑を受けて死んだ。

懸賞金をかけるまでもなく、捕らわれの身となりながらも思いを果たした英宗の見事なる意地であった。





喜寧はこうして捕らえられ、殺されたが、もはや取り返しはつかなかった。
つまりエセンは、初めてスパイ、そのもたらす情報のすばらしさに気づいてしまったのである。
事前に敵の事情を知ることは、こんなに違うものなのか、と。

その敵情を元に、謀略・作戦を立てられる漢人を参謀に持つことは、こんなに違うものなのか、と。

喜寧が殺されても、その代わりを探せばいいだけである。
今まではこんなに役に立つものと思っていなかったから、探さなかっただけである。

要するに圧倒的な機動力の騎兵隊で、略奪するだけして引き揚げればいいのに、
情報も謀略もへったくれもあるかい、と思っていたのである。

しかしこれまでは、今回のように長城を越えて奥深く、北京まで駆けることは、不可能だった。

荒らすだけ荒らして、人も土地も建物も、骨とあばらだけになり、
ほとんど旨味のなくなってしまった長城の付近に比べ、華北の平原はなんと豊かだったことか。

一度、その味をしめてしまえば、もう後戻りはできない。

景泰元年(1450)、大同総兵の郭登が、スパイを捕らえた。その中の一人は宦官・郭敬の家人、
もう一人は義州軍の王文という。

つまり郭敬は喜寧が捕まってから、その後釜にされた宦官だろう。
英宗とともに捕虜にされた宦官はたくさんいたに違いない。

北京に使者を送りこみ、家の使用人をスパイに利用しようとしたのだろう。
もう一人は、兵士である。同じようにモンゴルの捕虜となり、スパイ活動に従事するようになった。

同年、居庸関でスパイの劉玉が捕らえられた。彼は明の鎮守官・韓政の家人であった。
明の軍官までが、捕虜になった後は、使用人を巻き込んでまでスパイ活動に協力していたのである。

こうしてモンゴル側の攻め方も次第に巧妙に、狡猾になってくる。

土木の変が過ぎ、エセンハーンが死んだ後も漢人の活用はもはや伝統となってゆく。
その後の天順、成化年間(1457-1487)におけるモンゴルの侵入のほとんどは、漢人の道先案内人によるものだといわれる。

それでもまだ長期的なビジョンをもった軍事計画を立てるまでには至らない。
このため例えば、河套地区に侵入しても略奪はできるが、長期的に占領して領土とすることはできなかったのである。

河套地区はつまり、現在の内モンゴル・オルドス地区である。
黄河がぐるりと取り囲む、コップを逆さにしたような部分のうち、
北の一部がオルドス、楡林から南が陝西である。

そのすぐ南に我らが佳県がある。

この時代、オルドスはまだ明の領土だった。
黄河を北の境界としていたのである。


漢人の本格的かつ高度な活用が始まるのは、正徳年間(1506-1521)になってからである。
正徳年間、明の国境軍で「指揮」(官職名の一つ)を勤めていた

「獅児李」(「ライオンの李」くらいの意味か。本名ではなく、あだ名ですな)
が戦闘でモンゴル側の捕虜になり、重用されて軍事参謀になった。


モンゴル側のスパイ(つまりは漢人)を捕まえて自供させると、必ず皆がその名を口にした。
獅児李はモンゴルの諸部族から絶対的に信頼されており、彼の立てる作戦であれば、
皆がその命令に従うという。

元は自らが明軍の指揮を勤めていただけに、明軍の軍事配備、虚実もすべて知る身である。
明の盲点をずばりと衝いて攻撃してくるため、明側への打撃は大きかった。

その首にも懸賞金がかけられた。
「指揮使」職の子孫代々までの世襲、賞金は銀2千両である。

このように当初はモンゴル側の捕虜となるか、奴隷にさらわれるかして

本人の望まないままにモンゴルに連れてこられた漢人が多かったわけだが、
生きるため、少しでもましな生活を与えてもらうため、必要に迫られて漢人らはモンゴル側に協力してゆく。

さらわれた人々は、望郷の念、絶え難くもあるが、モンゴル側の監視は厳しく、簡単に逃亡できるものではない。
例えできたとしても、長城沿線の城門のドアをノックすれば、逆に明軍の兵士に殺されることが多い。

つまり「モンゴル人を成敗した」と、手柄にされてしまうのだ。
相次ぐモンゴルの略奪で、国境軍の兵士らは常に大きなプレッシャーに晒されている。

「今回の襲撃でもまた決定的な勝利はなしか」と、上から責められる。
そこで、逃亡した漢人がやっとのことで長城の門を叩き、
「入れてくれ」と訴えても、聞こえなかった振りをして「成敗」してしまうのである。
なんたる悲惨なる運命か。

モンゴル側がこれを脅し文句に、漢人らの逃亡の念を絶たせる始末である。
「おまえらは逃げ帰っても、国境警備軍に殺されて手柄にされるのが落ちだぞ」と。



******************************************

写真: 楡林

歴史的風貌を再現した町並みですが、入っているお店は、普通のもの。
それでもこういう書道の道具を売っているお店とか、仏具とか、骨董とか、
何かしら歴史的なにおいのするところが多い。
   



こちらはブライダルサロン。結婚式のお色直しの衣装のようです。



パソコン教室でしょうかね。
中国的な扁額にeの文字が斬新。

     


続けて北に歩いていくと、見えてくるのは、鐘楼。






元々あったものが焼失したため、
1921年、陝西23県の官僚、郷紳らの出資により新たに西洋風のものに建て替えた。

民国時代の建物は、ハイカラでなんともいえない味わいですなあ。


    

元々は鐘楼ではなく、乾隆年間に建てられた牌楼だったという。
乾隆年間、地元出身の軍人であった雲南総兵・段騰龍が、ミャンマーに出兵し、現地で戦死した。

地元の人々が、故郷の英雄を記念して建てた牌楼だったのだという。
これが1921年に焼失したため、その代わりに建てられたのが、この鐘楼なのである。

文革時代には赤く塗られ、「東方紅楼」と改名されていた。


    

    
 


奥に伸びる四合院。楡林は、「小北京」の異名を持つ。


 

その本家の北京では、すでに胡同がほとんどぶっこわされてビルになっているか、
人間らしい生活ができないほどに、人々がひしめき合って暮らしているか、
原型もとどめないほどに、庭に掘っ立て小屋を増築して、じめじめと不潔になっているか、

というほとんどスラム化したような四合院が多いです。

今となってはもう「小北京」の楡林のほうが、往年の北京城を彷彿とさせるかもしれません。



銅製品のお店。





人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦4、土達を最前線に

2012年08月04日 06時27分07秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
軍馬の供給は、このほかにも「土達(トゥーダー)」のからもあった。
元の滅亡に伴い、明側に降ったモンゴル人たちのである。

朝廷は彼らを寧夏、甘涼(甘粛の張腋、武威一帯)の国境に安置する。
モンゴルにいた時と同じように放牧を生業として暮らし、豊かな者は馬1000頭、少ない者でも700-800頭を飼育、
牛羊に至っては数万頭を所有し、朝廷に馬を献上していた。

朝廷からもこれに対して膨大な下賜品があったことはいうまでもない。


彼らは貴重な「国内」の供給元として、大いに貢献していたわけだが、
国境近くに安置したということは、モンゴルからの襲撃で一番に被害を蒙る「当て馬」的な存在でもあった。

このやり方は、古今東西を問わず変わらず、別に明独自に開発したやり方というわけでもない。


ローマ帝国とゲルマン人の攻防では、降伏してきたゲルマン人を国境付近に安置し、
侵入してくる昨日までの仲間である、別のゲルマン人らの盾とさせた。



そもそも明でもモンゴルとの国境近くに、自分から進んで住みたい者などいるはずもない。
モンゴルの略奪を受け放題の場所など、地獄でしかない。

金や物だけならまだしも、奴隷に引き立てられていくわ、殺されるわ、と
生活の向上のために努力しようという気さえも起こらない、絶望のみの人生だ。

このため、国境近くに安置された村落は主に罪人とその一族といわれる。

明代の刑は、軽重によっては「九族」まで及ぶ。

普段の生活ではほとんど関わりもないくらいの、幾等親かも不明なくらいの広範囲である。
その一族郎党を集めれば、軽く数百人くらいにはなるから、ごっそりと根こそぎ移住させれば、村が出来上がる。


前述の山西の葬式篇で登場した林さんの村は「林家口」。

村人のほとんどが林さんであり、洪武何年に福建から移住してきた、とはっきり家譜に記載されている。
この村では、未だに自分たちは福建からの移民だという自覚を持って暮らしており(600年前の話を!!)、
福建から来たといえば、村ではただで寝泊りしてもらい、歓迎するということだ。

数千里を超えた遥かかなたからの移住には、どうやら曰くがありそうだが、今となっては謎だ。


・・・話を土達に戻す。

当初は放牧で豊かになり、馬の献上で朝廷からも褒美をもらい、裕福に暮らしていたが、
モンゴル側の襲撃があると、真っ先に被害を受け、裸にひんむかれ、家畜を奪われるのは彼らである。

度重なる襲撃に土達らは、息も絶え絶えになる。


そこに現地の役人らも彼らを搾取した。
ほかの農民と比べると、珍しい産物を持っているから現金になりやすいのだろう。

成化四年(1468)には、土達らの一揆まで起きている。
毎年続くモンゴル側の襲撃にさらにこの年は旱魃も重なり、どうせ死ぬなら、と
やぶれかぶれになるところまで追い詰められての行動であった。



経済封鎖をしていたのは、明側だけではない。
モンゴル側でも牧民が、長城の南側に馬を売らないよう、厳しく管理した。

馬を売ることは、相手の戦力増長を助けるようなものだ。
牧民への普段の家畜調査により、売り先不明な馬がないよう管理されていた。
これによりどこまで厳しく馬の売却を制限できたかは不明だが、少なくとも大規模な取引が行えなかったのは、確かだろう。

明側から一番売ったら困るのは、職人らの作った武器である。
しかしこれも朝貢という形式の中でちゃっかり行われていたらしい。

例えば、「土木の変」(正統14年・1449)で皇帝が捕虜になるというみっともない大惨事が起きた後も
西モンゴルのオイラトは朝貢を続けたいがために、最後には英宗を無傷・無償で送り返してきた。

捕虜生活中は厚くもてなされ、エセン・ハーンと酒も飲み交わせば、その弟がぴったり世話役につき、
別れるときは双方が涙・涙の情を交わしたともいう。

こうしてオイラトからの朝貢使節団は、相も変わらず都にやってきたわけだが、
彼らの本拠地は天山山脈にもほど近い、遥か西にある。

甘粛から明の領土に入った後も寧夏、陝西、と延々と東に旅を続けて、やっと北京にたどりつく。


景泰3年(1452)の勅諭で「オイラトの使者らが(滞在する)館に甲冑、腰刀、弓、銃などを持ち込んでいる。
毎年少なくとも200-300人がそのような有様である。

「これは道中の民らが、わずかな利益をほしさに売ったものにちがいない」
と、注意を促している。

それを明の朝廷側が用意した宿泊施設に堂々と持ち込んでいるのだから、あきれた話である。
どうやらモンゴル側からの使節団には、参加コミッションを支払った商人が混じっていたらしく、
道中、商売に商売を重ねて都までやってくる。

朝貢使節団が規定以上の献上品を明側に「押し売り」し、より多くの下賜品を
せしめようとすることが、ついには数十万人もの戦死者を出す「土木の変」の惨事につながった。

その経緯があっても、オイラト側は相も変わらず「押し売り」戦法を変えず、
あふれるほどの献上品を持って都にやってくる。

そこで明の朝廷側も困り果て、ついには朝廷では受け取らず、
「帰り道、好きに売却しなさい」という許可を与えるのである。

オイラト側ではぼろ儲けする当てが外れたことは、残念だろうが、
道中の取引なら、朝廷では下賜されるはずもない武器・防具も堂々と買い入れて帰ったことだろう。


このような調子だから、ダヤン・ハーンの時代になってから完全に行き来が途絶えてしまったのも
致し方のないことかもしれない。



対立・国交断絶の中、明とモンゴルの国境では、漢人とモンゴル人の奇妙な交流、協力関係が成立する。

明の初期、モンゴル人の騎兵が中原に入侵すると、財産を奪うほか、人間も奴隷として連れて帰った。
奴隷になった漢人は、中央アジアからロシア方面の奴隷市場に売り飛ばされるか、女性なら妾兼労働力、
男性なら放牧を始めとする肉体単純労働に従事させられた。

それ以外に戦略的に漢人をブレインとして活用するということはなかったのである。

例えば、弘治18年(1505)に命からがら逃げ帰ってきた賈羊羹の供述によると、
自分は7-8歳のときにモンゴル軍に捕らえられ、13年間、羊の放牧をさせられていたという。

ところが明の中期になると、次第に漢人をスパイ、水先案内人として活用するようになってくる。

その代表的な存在が、土木の変(正統14年、1449)で英宗に従っていたためにいっしょに
オイラト部のエセン・ハーンの捕虜となった宦官の喜寧である。

喜寧はエセンの北京攻略の参謀となり、明の朝廷に大きな脅威を与える。


恐らく「土木の変」以前、モンゴル側が奴隷にかっさらって来たのは、国境付近で暮らすごく普通の水のみ百姓であり、
文字も読めなければ、教育も受けたことがないような愚昧なる輩ばかりだったのだろう。

そうなると、自分の境遇をよくするために相手が喜びそうなアイデア、良さげな企画を自分から
売り込むなどといった気の利いたことをするほど、頭脳が発達していない輩がほとんどだったに違いない。
それなら羊の放牧か、色気しか売りのない妾とする以外に使い道がないのもうなずける。


これに対して喜寧は宦官、朝廷で一通りの教育を受けた教養人である。
朝廷での生き馬の目を抜くような、権謀術数渦巻く世界で泳ぎ抜き、
かりにも天子様のお付きにまでなった人物である。

打てば響くような、有能かつ目端の効く男だったに違いない。


皇帝とともに、モンゴル側の捕虜となってしまってからには、覚悟を決めたに違いない。
皇帝も自分もいつなんどき殺されるかわからない。

生き延びたいのなら、明側のすべての人間が殺されたとしても、
自分だけは生き残れるような価値を敵に売り込まなければならない、と。

宦官に仁義もへったくれもない。
国を担っているという自負云々は、科挙の受験勉強に血祭りを揚げて
イデオロギーの気炎を吹かせる士大夫らのいうことだ。

しかも喜寧は、女真族だったという。

つまり宦官になった理由は、恐らく幼い頃に捕虜になり、去勢されたことだろう。
大航海で有名な鄭和も宦官だったが、彼も元朝時代に優遇された色目人の子孫として、
幼い頃に去勢されたイスラム教徒だったといわれる。

そのような理由で宦官をやっていたのなら、なおさら理想も思想もあるわけはない。
命あっての物だねだ。

正統十四年(1449)、土木の変の後、皇帝をとられて蜂の巣をつついたような上を下をと大騒ぎの中、
官軍が三人のモンゴルのスパイを捕まえる。

取調べの結果、そのうち二人が喜寧の家奴だったことが判明したのである。
おそらくは長城の外から喜寧が北京の自宅に使いを出し、彼らを手足として使うべく、長城の外に連れ出そうとするところだったのだろう。

家奴とご主人様の関係は、一蓮托生、絶対的な信頼関係で結ばれている場合が多い。

これにより明は初めて、英宗つきの宦官がエセンのブレインになってしまったことを知った。
明側の各要所の軍馬の数、兵士の数、新しい皇帝が立てられたかどうか、有能な軍人がいるか、どこにいるか、
と言った情報を探るためである。

これまでのモンゴルは、そんなことを下調べしてから、軍事作戦を組み、周到に動くような計画性はなかった。
無秩序にひたすら国境付近に侵入し、目の前に突き当たったものだけを片っ端から持って帰るだけである。

その歴然とした違いに明の朝廷はすぐに気づいた。これは大変なことになった、と。
その脅威の大きさを意識し、朝廷では喜寧の首に懸賞金をかけた。
黄金千両、白銀2万両、侯の爵位の冊封という大盤振る舞いである。



************************************************

写真: 楡林

さすが西北!! もおお赤い結婚グッズ爆発だあああ!

いくら中国人が赤が好きとはいえ、今どきの沿海地区ではもはやここまで真っ赤っ赤はもう見れなくなりました。






洗面器、魔法瓶、痰ツボにいたるまで真っ赤っ赤!

だいたい、今どきの都会では、この手の魔法瓶ももうあまりありません。
大型ミネラルウォーターの飲料水機が直接お湯を出してくれるタイプが多いです。

アパート暮らしには、洗面器も必要ないですから、大方の若者の家にはもうないでしょう。

痰つぼはもう死語でしょう。
若者にとっては、「骨董品」のうちに入るものですな。

しかーし。ここでは、まだ生活に生き生きと根付いておるわけです。

最近、都会の若者たちの間で、80年代までの古き懐かしき素朴な工業品を
「国貨」といってそのキッチュさを愛でる文化が浸透し始めています。
(参考:北京・イスラムの町・牛街: ヨーグルトとほうろう)

国貨好きがこの店を見たら、狂喜乱舞するでしょうな。




銀細工のお店がありました。





店内で職人さんが直接作っているというのも、いいですね。

私も数十元程度の小さなピアスを購入ー。
旅の思い出です。


メイン通りのあちこちに牌楼が再現されています。

    

横に伸びていく故同。

    

見えてきたのは、星明楼。明の嘉靖年間の建立、中には魏忠賢の銅像があるそうです。



    

    

この魏忠賢像、実はそうと判明したのは、なんと2002年のことだという。

    

出典はこちら

それまで地元の人々は、この像を仏像だと思って崇めてきたのだそうだ。

魏忠賢といえば、明末のお騒がせ宦官である。
明の最後から2人目の皇帝・天啓帝に寵愛された宦官として、独裁を振るい、
全国に魏忠賢祠を作らせ、自分の像をおいて、人々にお参りを強要した。

この星明楼の像もその名残りなのだろうが、天啓帝が崩御し、最後の皇帝・崇禎帝が即位すると、
魏忠賢はたちまち誅され、全国の祠は取り壊され、像も破壊された。
それが漏れて、残っている例は、きわめて珍しい。

おそらくは、その後すぐに王朝滅亡の戦乱が始まり、社会が大混乱に陥ってそれどころではなくなったこと、
戦乱が収まり、平和がきたときには、誰もその由来を知らず、そのまま仏像と勘違いされたことがあるのだろう。

銅像は、身に「四爪」の蟒服(龍は5本爪。皇帝にしか許されない。4本爪は蟒)。
眉心に一“白毫”(眉心珠)があり、ひげはない。
この特徴は、仏像でも道教の像でもないということから、専門家が判定したものだという。





人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ


楡林古城・明とモンゴルの攻防戦3・アルタン、ハーンの位を継ぐ

2012年08月03日 22時02分33秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
アルタン・ハーンは、ダヤン・ハーンの孫に当たる。

父親はダヤン・ハーンの三男バルス・ボラト・ジノン、その次男として生まれる。
前述のとおり、チンギス・ハーンの直系の子孫がすべて皆殺しにされた後、ダヤン・ハーンだけが正当な血筋を持つ人物となった。

ダヤン・ハーンは11人の息子たちをモンゴル各地の有力な部族の族長の元に婿入りさせた。
アルタン・ハーンの父親は、ダヤン・ハーンの三男、婿入りした先はトメト部、
領地の草原は、今でいう山西省の大同の北辺りからフフホトにかけての地域である。

モンゴルの中でも明朝の首都・北京に最も近い地域といえる。


アルタンは確かにダヤン・ハーンの孫ではあるが、ダヤンに11人もの息子がいたことを考えると、孫の数は100人近くいたに違いない。
その中でアルタンの優先順位はかなり低い。

アルタンは三男の子供であり、長男でさえなかった。
トメト部の部族長ファミリーの一員という程度の位置づけでしかない。

トメト部の部族長だった父親の位は「ジノン」、貴族的な地位をあらわす言葉の一つだ。
父親亡き後は兄グンビリク・モンゲンがジノンの位を継ぎ、アルタンは次男としてそれをサポートした。

しかししばらくして兄がなくなる。
それ以後、アルタンがトメト部を率いることになる。

かれは青台吉(チン・タイジ)、ハラハンなどの他のモンゴル勢力、
さらには塞外に割拠する漢人の高懐智、李天章などの勢力と連合し、数十万人の兵力を傘下に収めるようになる。

長城の外には、かなりの漢人「アウトロー」が法の届かない新天地を求めて入ってきていたらしい。
のちにアルタン・ハーンが建設するフフホトの町は、
そういった長城の中から入植してきた漢人の開墾した地区「板昇」の中心にある。

飢饉で食い詰めた農民のほかにも、国内で犯罪を犯し、逃亡してきた者、白蓮教一揆の指導者で
指名手配になっている者など雑多な漢人らが草原には多く存在したのである。

アルタンはそういったならず者の漢人集団も勢力に抱き込みつつ、実力を拡大し、
これを背景にダヤン・ハーンの嫡出後継者である「小王子」に圧力をかけた。

小王子は、最も継承順位の高いダヤン・ハーンの長男の長男の系統であり、
つまりはアルタンには、いとこに当たる。
小王子の勢力は、アルタンらに押され、ついには東のかなたに追いやられ、アルタンがハーンの位につくに至る。


アルタンがハーンになった時、明との貿易関係はとっくの昔に途切れていた。
明は国境に沿い、万里の長城を延々と建設している。

東は渤海湾に顔を突っ込むところまで長城を延長させた山海関から始まり、
西は甘粛の砂漠のかなたまで、行軍しやすい場所は、ほぼ長城で封鎖する。

このため長城の中と外にいる漢人と遊牧民の交易は、ごく小規模となる。

密貿易をこそこそとすることはできても、規模を大きくすることはできない。
どっさり荷を積んだ荷車を堂々と引いていけるような公道や谷間を通る関所を通ることができないからだ。
これでは、経済活動の質も量もごく限られた規模の中に制限されてしまう。


そもそも遊牧という形態は、自給自足ができないことはないが、やはりやや無理がある。

衣服からして麻、綿、絹を着ずに獣の皮だけでもいいではないか、ということも可能だが、
通気性、吸収性に悪い獣の皮より植物繊維の方が心地いいに決まっている。
一度着用してしまえば、それなしの生活に戻ることは、できるなら避けたいと思うようになるのが人情だろう。

穀物やお茶がなくても、乳製品と獣の肉だけで生きていけないこともないが、
炭水化物でエネルギー分を効率的に補い、お茶でビタミンを補給できれば、大きく健康状態を改善し、寿命も長くすることができる。

湯を沸かす鉄鍋を草原で自給できるわけもないし、漢人の持つ各種鉄器の武器に対抗するためには、
同レベルの鉄器は、最低限必要ともなる。

長期的に長城の外に閉め出されることは、今でいう経済封鎖であり、この状態が続けば、
命がけで南下してくるのは、生産構造からしてどうしても避けられない。

これをなんとか慰撫するため、朝貢という名の元に金品を与えることは、明初から行われてきた。
つまりは遊牧民側が属国であることを認め、臣下としての礼を尽くし、献上物を差し出す。
これに対して明が、数倍の返礼を下賜するという形で、経済的に懐柔しつつも、王朝としての面子を損なわないという構造である。


そのほかにも「互市」が開かれた。

しかし「互市」という名前にも関わらず、まったく「相互」関係ではなく、どちらかといえば、明の一方的な決まりに基づいていた。
開催期間、場所、入場人数、品目、売り値、取り引数のすべてが明側の一存で決められており、やはり「施し」のニュアンスが強く、対等ではない。

モンゴル側がもっとたくさん売りたい、高く売りたい、と思ってもできない。
馬だけと決められており、牛、羊を売りたいと思っても売れない、という形式である。

最も早い朝貢と「互市」は、永楽3年(1405)からウリャンハ三衛を相手に開かれた。
彼らだけが明に臣下の礼を取ることに甘んじ、服従の意を示したからである。
この当時モンゴルの他の部族は、ウリャンハを通してしか、中原との経済関係を得ることができなかった。

その後、徐々に他の部族も朝貢貿易に参加するようになるが、これにより利益を得たからといって
彼らが長城を超えて侵入・略奪をしないかといえば、そうでもなかった。

草原で優れたリーダーが出現し、統率力が高まれば武力に訴えて略奪を行い、
弱まれば、再びしばらくの間は朝貢だけに甘んじる、といったいたちごっこが繰り返された。

オイラトのエセン・ハーンの時代(正統年間=1440年代前後)には、遊牧民側の傍若無人ぶりが暴走して止まらない状態までいく。
朝貢貿易は行えば行うほど明側の出費が増えるので、明としては最低限の頻度と規模に抑えたい。


ところが、エセンはその規定を守らず、1年に一度と決められていたものを
「前の使節がまだ都を離れないうちに、次の使節が到着する」始末である。

そのほかにも使節の人数も大量に規定をオーバー、持ち込んだ産物は粗悪品であるなど
あまりにも目に余る行動をとる。

ついに我慢できなくなった明側が英宗の親征でモンゴル討伐に向かい、
逆に大敗して皇帝がモンゴル側の捕虜となってしまうのが、「土木の変」である。

数十万人の戦死者を出したといわれる大惨事が起きたにも関わらず、
その後も中原の物資がほしいエセンの譲歩により朝貢貿易は再開される。

ダヤン・ハーンの時代になっても一時は朝貢貿易が続けられたが、
再び朝貢の頻度、使節の人数など取り決めで明側ともめたため、完全に決裂、
それ以来、国交断絶のままアルタン・ハーンの時代に入った。


弘治年間(1488-1505)以来というから、アルタンが政権を把握した嘉靖初年(1521-)には
すでに30年以上の経済封鎖状態だったことになる。

その間の両者の交流といえば、密貿易と不定期にモンゴル側が組織する長城を超えた略奪活動のみである。


アルタン・ハーンも当初は略奪を行った。
嘉靖8年(1529)オルドスから楡林、寧夏に侵入し、周辺を荒らした。
佳県は楡林のすぐ南にあるので、まさにこの辺りである。

しかしダヤン・ハーン時代、政権が安定し、平和が長く続いた後、
モンゴル側も略奪というリスクの大きい方法ではなく、市場での取引という平和な形での
経済活動を望むようになってきていた。

モンゴル側も南下して漢人の村を襲い、略奪するが、自分たちも無傷ではいられない。
戦いで命を落とすかもしれないし、明側の報復もある。
ダヤン・ハーンのかの姉さん女房マンドフィ・ハトンもどうやらある時の明側の夜襲により命を落としたといわれる。


そこで嘉靖20年(1541)、アルタンは使者を出し、明側に正式な「互市」の開催を申し出た。

朝貢ではないことが重要だ。

朝貢はわざわざ都に出て行かなければならないだけでなく、使者団の人数、献上する物品の量、頻度まですべて制限されている。
市場原理を無視した、「施し」を目的をしているのだから、
取引が多いほど、明の朝廷にとっては迷惑な話なわけで、なるべく小さな規模に抑えたいと意図する。

もっと中原の物品を手に入れたいモンゴル側と押し問答になる、という昔からの伝統的な構図が続いていた。
「もっと取引させろ」、「いやだ」の押し問答である。

そうではなくて市場原理に則った、「施し」ではない、対等な取引がしたい、というのが、アルタンの主張だった。

朝廷はそんなに多くの毛皮も馬もいらないかもしれない。
モンゴル側から献上される物品は、市場に出回ることなく、
皇帝一家や朝廷の官僚たちの間で消費されるだけなので、その需要はたかがしれている。

しかし民間には、もっと多くの需要があるはずだ。
毛皮があれば、暖房がなくても暖かく過ごせるではないか。

北方だけではなく、広東以北は冬も寒い。

馬は交通手段だから、民間だってほしいではないか。
牛は耕作に必要だから、需要があるではないか。

明代、牛を食用に殺してはならない、という法律まである。
畑を耕してくれるありがたい牛さまを殺して食べるとは、もってのほか、というわけだ。

ちょうどこの時代、嘉靖年間の明代を背景としたテレビドラマ『大明王朝』でも
こんなせりふが出てくる。
「ちょうど某家の牛が、事故で崖から落ちて死んだそうだ」
牛肉が市場に出回るのは、事故死か自然死による以外は許されないというわけだ。

モンゴルの物産は、市場があるのに、自由に取引させてもらえない。
「貿易の自由化」を!
それがアルタン・ハーンの申し出であった。

経済封鎖している間、では明側の軍馬の調達はどうしていたのだろうか、という疑問がある。

当時の戦争に騎兵は欠かせない。
良質な軍馬を大量に確保することができなければ、モンゴルに勝つことはできない。

永楽7年(1409)、永楽帝は寧夏を鎮守する寧陽伯に
「官庫の絹・織物・現金を韃靼(=モンゴル)の馬と替えてよし」
と勅令を出している。

永楽帝はモンゴルへの大規模な戦争を幾度もしかけ、明の軍事的な立場を有利にした皇帝である。
戦争のために必要な大量の軍馬を確保するため、経済封鎖を一部解くこともやむを得ない、としたのだろう。

が、それも永楽年間に不定期(恐らくは戦争で急に多く必要となった時のみ)に開かれただけで
両国の経済に決定的な影響を及ぼすまでにはいかない規模で終わる。

やはり敵を倒すための軍馬を敵に依存するのは、あまりにも危険である。

明代前期の軍馬の供給は、主にチベットに頼っていた。

チベットは明の朝貢国となっており、敵対関係になかった。
そこでTao州(さんずいに兆。甘粛省臨夏。蘭州の西南。チベットとの境)、河州(同左)、西寧(青海省。チベットの北の入り口)で馬市を行い、
チベット族の馬を買い入れた。

明代、馬の調達と管理のために「馬政」なる行政系統が設けられ、その下に
行太僕寺、太僕寺、苑馬寺などの機関が設けられていた。

建国まもない洪武年間から、中央官庁の出先機関として、すでに陝西、甘涼(甘粛一帯)に行太僕寺を、
平涼(蘭州と西安の間)に苑馬寺を設け、軍馬の調達と管理を行っていた。

チベットから買い入れられた馬は、この傘下にある24の官営牧場で飼育され、
必要に応じて随時、甘粛、延sui(延安・楡林つまりは陝北の前線)、寧夏に送り込んだのである。

明初、このシステムで軍馬は充分に供給できていたらしい。
が、永楽年間以後、軍馬が足りない、と訴える奏文が次第に増えてくるようになる。

*****************************************************************************

メインストリートにある骨董屋さん。
陝西には、まだまださまざまな掘り出し物があり、北京の骨董商もこういうところへ来ては、
定期的に品物を仕入れているという。



横に並ぶ典型的な北方の四合院も風情がある。



万佛楼の門洞。




高さがあり、まさに「騎乗」のままですり抜けていける。





楼の中からも横に胡同が伸びていく。





骨董屋が公共スペースを占領しておりますぞ。
売り物の仏像を勝手に陳列。

どこかの古寺から買い取ってきたものでしょうか。



人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦2、明の万暦年間の建物が多いわけ

2012年08月02日 21時59分58秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
農業と遊牧業の境界線にある華北、陝北、甘粛、内モンゴルの南部などの地域では、
明の万暦年間に建立された寺院が多い。

前述の佳県・香炉寺も、楡林の南側にある塔も万暦年間の建立であったことを思い出してほしい。
実はこれはただの偶然はなく、この時期に久しぶりの国交回復ともいえる平和が訪れ、民力が蓄積されてきたことと関係がある。

--いわゆる「隆慶の和議」、その後の「三娘子」に負う所の大きい平和の時代である。


陝北がモンゴルとのフロンティアであったという歴史的な経緯のある以上、モンゴルの動向が
この地域的特性に大きく関わっており、その話を避けて通るわけにいかない。

しばらく話はモンゴルに飛躍するが、あしからず。


「三娘子」は、モンゴルのアルタン・ハーンの第三夫人だったモンゴル女性オヤンジュ・ジュンゲン・ハトンを
明側が親しみをこめていった呼び名だ。
学問があり、モンゴル文字に通じていた教養ある女性だったという。

明がモンゴル族の立てた元王朝を砂漠の北に追い出してできた王朝であることは、周知のとおりである。
まだ勢い衰えぬモンゴルに常に睨みを利かせつつ、最前線の北京に首都を移し、慢性的な臨戦態勢が続いた。

アルタン・ハーンは、「チンギス統原理」に則った、正当な血筋を持つハーンである。
所謂、チンギス・ハーンの男系直系「ボルジギン」の男子にしか、「ハーン」を名乗る資格がない、とするチンギス・ハーン以後のモンゴル系社会の不文律である。
これはそれなりに機能として役立っていたから、支持されたのだろう。
つまり内訌を少なくするという効果に。

遊牧社会では、肉体的な「痛み」を見せつけて証明できる腕力のある者でないと、
周囲が心服しない、納得しない、という極めて動物界に近い掟がある。

そのために少しでも「自分の方が強い」と思う者があれば、喰らいつき、挑戦し、腕力でその地位から引きずり落とし、自分が座ろうとする。

元王朝の後半、内訌が絶えず、内部で体力をすり減らしていったのも、
イスラム社会の初期のカリフが、すべて暗殺で交替したのも、
蛮族の侵入が日常化したローマ帝国後期に、くだらない理由で皇帝が何代も暗殺されたのも
すべてがこのセオリーに則った現象である。

せっかく手に入れた中原から追い出され、草原に帰ったモンゴル人の一つの反省が
「チンギス統原理」となって実を結んだといえるのではないだろうか。
---ボルジギンの生まれでない者は、いくら強くても認めないよ
と。

これにより少しでも政権を安定させ、集団の体力消耗を避けようという智慧だろう。




モンゴルで一時期、「チンギス統原理」が崩れた時期がある。
西モンゴルのオイラトの台頭により、そのリーダーのエセンが、資格がないのにハーンを名乗った時である(明の正統年間前後、1400年代)。

元朝の滅亡(1370)に引き続き、永楽帝の幾度にもわたるモンゴル遠征(1400-20年代)があった。

永楽帝は首都を最前線の北京に移し、モンゴルとの臨戦態勢のやる気まんまんの姿勢を示したばかりか、
鄭和の大航海によりがんがん商売で儲けさせて、その資金を惜しみもなく投入して遠征してきたのだからたまったものではない。

その時期にチンギス・ハーンの権威がやや弱まった。

国破れ、さらに永楽帝に叩かれ、といった時期を経ているからである。
そこに西のオイラトが力をつけつつあった。

ほとんどシルクロードの天山山脈や甘粛に近い場所を拠点とするため、永楽帝の遠征でもそこまでは届かず、被害や打撃も少ない。
また最も西に位置するので、ロシアやチュルク系の民族との貿易により利益を稼いで力をつけていた。

この力構造は、清代になっても変わらず、清朝の版図に最後まで入らず、敵対し続けたガルダン・ハーンなどは、すべてオイラトのリーダーである。
最後にオイラトが清に併合される乾隆帝時代(1700年代)まで実に300年以上にわたる強勢を誇ることになる。

そのような経緯があるからモンゴルの人々は、オイラトのエセンが「ハーン」を名乗った時も
無理やりではあるが、受け入れざるを得なかったのだろう。

但し、エセンは母方なら何重にもチンギス・ハーンの系統を受け継いでいる。
有力な部族として、オイラトは昔からチンギス・ハーン家と婚姻関係を結んできたからである。

つまりボルジギット家の多くの女性たちが、オイラトの首長の妃として嫁いできているのである。
しかしボルジギンの定義は、あくまでも「男系」でなければならないため、該当しない。


エセン・ハーンは、後に「土木の変」(1449)で明の英宗を生け捕りにし、身代金を要求したことで有名だが、
ここでは詳細は省く。

エセンの「ハーン」の称号について、それでもモンゴル諸部族から猛烈な反発があり、大変な圧力だったらしい。
そのプレッシャーに耐えかね、エセン・ハーンはボルジギンの男子を皆殺しにした。

ここでアルタン・ハーンの祖父に当たるダヤン・ハーンが登場する。
後のダヤン・ハーン、元の名前バト・モンケはボルジギンの生まれだったが、母親がエセン・ハーンの娘だったために
さすがに自分の孫まで殺すには忍びなかったのか、ごく赤ん坊だったこともあり、殺害を免れた。

つまりダヤン・ハーンは、チンギス・ハーン直系として唯一生き残った男子であり、
エセン・ハーンの孫でもあるのだ。


どういう系統かといえば----。

エセンは最初からハーンを名乗ったのではなく、当初は正統なボルジギンの血筋であるトクトア・ブハを傀儡のハーンに立て、
自分が実権を握るというやり方に甘んじていた。

そのうちに時機が熟したと見ると、このトクトア・ブハ・ハーンを殺し、自らが「ハーン」を名乗るようになる。
バト・モンケは、そのトクトア・ブハの次男の嫡男の息子の息子・・・・・だという。


バト・モンケの幼い頃、世の中はエセンの全盛期、ボルジギンであることの権威が失墜している中にあり、
まったく政治的に注目されることはなかった。

バト・モンケは幼い頃から里子に出されていたという。
エセンの皆殺しの際にボルジギンである父親は殺されており、母親は当然のことながら、父親であるエセンに
新しい再婚先を用意され、さっさと嫁がされていったことだろう。
その際にいわくつきのボルジギンの赤ん坊を連れて行くわけにいかなかったことは、想像に難くない。

命は助けたものの、里子に出された先でもその出自はなるべく人々に知られないようにしていたに違いない。

エセン・ハーンは、「土木の変」の後、これにより明との朝貢貿易に影が差し、財源が確保できなくなると、
次第に支持基盤を失っていく。

その後、エセンは部下に殺され、モンゴルは分裂状態になる。
しばらくはトクトア・ブハ・ハーンの息子や弟の幾人かが入れ替わり立ち替わり、ハーンの位については殺される。



トクトア・ブハ・ハーンの末弟マンドルーン・ハーンが殺されると、ハーンが空位になり、宙に浮いた。
ホルチン部のリーダー、ウネバラトは、ハーンの位を狙うに当たり、
すでにボルジギン男子は皆殺しにされているなら、自分にも資格があると考えた。

彼はチンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの血を引いており、まんざら遠くもないではないか、と。
が、それだけでは皆が納得するには理由が弱い、と思ったのか、
マンドルーン・ハーンの未亡人を自分が娶れば、その正統性にさらに説得力が増す、と思いついた。

マンドルーン・ハーンの未亡人は、オングト部出身のマンドフィ・ハトン(妃)。
ウネバラトからのプロポーズを受けると、妃はチンギス・ハーンの子孫の唯一の生き残りの男子である
バト・モンケが民間で暮らしていることを持ち出して断り、16歳になっていたバト・モンケを探し出してきて彼と結婚したのである。

つまりバト・モンケこと、のちのダヤン・ハーンは、わけわからないうちに民間からつれてこられ、
未亡人の夫になることで、ハーンの属民とすべての財産、権限を受け継いだのである。

夫の権威と統率権が未亡人に付随して残され、その再婚相手となる者がそれを継いだことになる。


中原系の王朝では、考えられない現象だ。

しかし現代でも例えば、英国のダイアナ妃もこれに準ずる例といえなくはないか。

英国の元・王妃だった彼女の再婚相手は、否応でも「元・英国王妃の夫」となるわけで、
だからこそアラブ系の恋人と結婚しそうになった彼女の選択が問題となった。

女性を媒介にして、イギリス人とアラブ人が「兄弟」になってしまうからだ。


・・・・話を15世紀のモンゴルに戻す。

この時、マンドフィ・ハトンはハーンの血統の正統性を考慮してウネバラトの求婚を断ったのだろうか。

私には半々のような気がする。
もし彼女が本気でウネバラトに惚れたなら、彼がハーンになっても混沌とした分裂状態にあった
当時のモンゴル社会では、それなりにまかり通ったのではないか、と思う。

恐らくは生理的に好きになれず、政治的野心も見え見えで可愛げがなかったのだろう。
野心見え見えでも、「かわいさ」があれば、許す場合もあるのだが。
実力を背景に高飛車に脅しをかけたのかもしれない。

さて。
この奇妙な夫婦は、妻が26歳年上。16歳の夫と42歳の妻だった。

形式上だけ夫婦になり、完全な仮面夫婦となっても少しも不思議ではないのだが、
この夫婦はなんと7人もの男子を設けている。ほかの妃とも4人の息子を設け、
合計11人の男子を成人させた。

42歳から男子だけでも7人となれば、ほとんど新婚当時から孕みっぱなしということになり、
これは仮面夫婦とは言い逃れのしようがないだろう。

濃厚に情愛が絡み合った夫婦となっていた可能性が高い。


42歳から7人とは、純粋に計算しても1年に1人でも49歳まで生み続けるのは無理ではないか、と
妃の年齢には疑問がもたれているらしいが。。。

いずれにしても、閉経ぎりぎりまで生み続けたことは間違いない。


16歳の少年にとって、彼女は「卵から孵化した時に最初に目に入った存在」に等しい。
完全に洗脳され、人生観に大きく影響したとしても不思議ではない。
ましてや彼は、物心もつかぬうちに母親に捨てられて、里子に出されているのだ。
マザコンの嫌いがあった可能性も高い。

ま。そんなことは、どうでもいいんですが(笑)。



1487年、バト・モンケは、「ダヤン・ハーン」と名乗る。
「ダヤン」は、「大元(ダーユエン)」の中国語音のなまったものといわれる。
元王朝の復活を目指すという意気込みである。

翌年には明の北辺も脅かして(モンゴルのハーンとしては、必須アイテムなのでしょう)、
名実ともにモンゴルのリーダーとして、認められるようになる。

ダヤン・ハーンの11人の息子らは、全モンゴルの各有力部族長の元に婿入りし、
諸部の従来の部族長の上に君臨する領主となる。

現代でも続くチンギス・ハーンの後裔は、すべてダヤン・ハーンの子孫たちである。



************************************************

北京郊外では、もはや見かけることのなくなったふとんのわた販売。




    

大体、暖房の効いたアパート暮らしでは、部屋の中でセーターさえいらないくらい暖かいのだから、
そのへんの安もんのポリエステル綿のふとんでもまったく差し支えない。
申し訳程度に体の上に「かぶってさえすればいい」。

しかーし! 厳しい寒さの中、自腹で暖房を焚く一戸建ての住居には、ふとんの機能性は大事でしょうー。

自分の希望する重さまで綿を買い、ふとん打ち屋さんに持っていき、ふとんに打ってもらう。
そういえば、90年代の北京にはまだふとん打ち屋さんがあった。前述のとおり、アパートでは本来、
安もんのポリエステルふとんでもかまわないのだ。

ましてや、90年代の方が北京のアパートの暖房は暖かかった。

オリンピック以来、市内で石炭を焚かなくなり、割高な天然ガスに変えたので、温度は以前より下がった。
あの頃は、Tシャツに短パンで過ごせたが。。今はさすがにズボンの下にタイツくらいは必要。

しかしあの頃は、まだ物質的にもあまり豊かではなく、上質のふとんが生活の重要な彩りだったのだろう。
大消費時代に入った今、そんなことより目の行くものがあまりにも増えすぎている。



この茶色い塊はなんだー?




らくだの毛だってさ。 ふとんの綿にするらしい。究極の機能ふとん。あったかそうー。



いかにも「西北大漢」っぽいドスのきいたおっちゃんがおったので、盗み撮り。
気づかれて、逃げられたー。アップで撮らせてくれない。けちー。






おっちゃんは、牛乳売りであったー。
新鮮な絞りたての牛乳をその場で注いでくれる。煮沸していないので、そのまま飲むことはできない。


   

どうしても飲みたい! とだだをこねていると、同行の友人が近くの朝ごはんやさんと交渉し、
あっためてくれた。濃厚でした。。

いっしょに飲んだ画家の孫大力氏、「これだけで膝が強くなった気がする」とすんごい単純・・・・。
都会の中国人は、いつでも「普段、どんなものを口に入れさせられているか、わかったもんじゃない」と
不安を抱えつつ生きているので、正真正銘の安全な食品を目の当たりにすると、もおお大興奮。
気持ちはわかるが。。。




楡林のメインストリートに次の現れたのは、万仏楼。
清の康熙27年(1688)の創建である。






上が劇台になっており、縁日には、出し物が催されるようになっている。



人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦1、オルドスの真下

2012年08月01日 17時22分02秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
楡林古城にやってきましたぞー。




佳県との位置関係は、こんな感じである。
やや西北に位置する。



ここから北はすぐに内モンゴルのオルドス地区。
明代からモンゴルとの攻防の最前線、東西にはずらりと長城が伸びている。

オルドスから川をたどり、数本の川の合流する地点に楡林がある。
モンゴルの騎兵隊は、谷--つまりは川底をたどってくるから、
要塞は、山から平原に出てきた出口に建てられることが多い。



楡林城は、今でも東側の城壁は、ほぼそのまま残っており、昔の姿を彷彿とさせる。
昔は、西側にある楡林河がそのまま西側のお堀のような役割になり、その東側が城壁となっていたが、
今は西側から河の向こう側にかけてまで、新市街地が広がっている。


    

威風堂々たる姿を見せる城門は、南側の城楼。



その南側の城外に見えるのは、凌霄塔。今回はいけずー。
遥か向こうから写真だけ。






楡林城が本格的に築かれたのは、明の成化年間といわれる。
モンゴルの南下が激しくなってきてからである。

2005年に旧城内のメインストリートである南大街と北大街が整備され、
明清時代の雰囲気をそのままに再現された。



南城門から入ると、北にまっすぐと道が伸びる。

    

この通りには、装飾的な楼閣が6個あり、その下はすべて騎乗したまま通ることができたので、
「六楼騎街」と呼ばれるという。

    

最初に見えるのは、「文昌閣」。創建は清の乾隆19年(1754)。
つまりはこの地がモンゴルとの戦争の最前線ではなくなり、平和が訪れて中原と草原の「中継地点」となり、
「茶馬」貿易で栄えた時代に建てられたもの。
軍事に関係がないので、装飾性の強い、平和なデザインである。



城門の下をくぐる。




楡林は、明代約300年を通じて軍事的最前線であり続けたが、
皇帝が巡視にやってきたのは、一度だけである。

正徳13年(1518)、明の武宗が軍事巡察のために3ヶ月、楡林に滞在した。
武宗は「戦争ごっこ」が大好きな困った皇帝だったようだが、その天真爛漫さを以って最前線に「視察」にやってきたのである。

楡林には、羊丸一頭と「羊雑砕」6頭分を使い、108皿の羊フルコース「羊道」という名物がある。

「羊雑砕」。つまりは羊の臓物だが、今でも華北以北では、これを使ったスープ屋さんがどこにでもある。
私はこれを飲むと、必ずおなかをこわすので、はっきり言って苦手である。

つまりは、「腸」には、「糞」が入っているわけで、それをきれいに洗い流さないといけないのだが、
完璧に洗浄するには、何度も水を変え、繊細な作業を必要とする。

その作業がおそらくは、あまり完璧に成されていないのだろうと思う。


大体「羊雑砕湯」を飲みに行きたがるのは、野郎どもが多いのだが、
旅先で同行の野郎どもにつられてのみに行くと、一人だけおなかをこわして帰ってくることになる。
おそらくは体力的な問題もあるのだろう。



それはともかく。閑話休題。

武宗をもてなしたのは、現地の武官のトップである楡林総兵の載欽であった。
「羊道」の食べた武宗は大いにこれを気に入り、ついでに楡林も気に入った。

上帝廟と凱歌楼(後述)に滞在すること3ヶ月、楡林に最も長く滞在した皇帝となったのである。

ところで武宗は、総兵・載欽の娘にお手をつけ、楡林を去る時に連れ去った。
おそらくは天子のもてなしに自分の娘に給仕でもさせたのだろう。
そのまま見初められて、ふとんの中に引きずり込まれてしまったというわけである。
あるいは、載欽も確信犯か。

楡林の人々がよく口にする「載妃」のことである。

載妃のおつきコックが、「羊道」を北京に持ち込み、首都の高官上流階級の間でえらく話題となったという。

その後、数百年がたち、清代に「満漢全席」が完成して、初めて「羊道」の覇者の地位に取って代わったという。


羊料理の一種。

*********************************************

通りには、取れたてのはちみつがあちこちに売られていた。



リヤカーに雑然と積まれた土地の特産品。


各種、小麦食品、粟など。

    

メインストリートから横にそれた横丁も石畳の風情がよろしい。

    

後ろを振り返ると、城楼が遥かに見える。


人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ