いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻

2016年09月04日 07時30分08秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

陳家では、明の中期から徐々に政府高官を輩出し、
陳廷敬に至るまでに百年単位の伝統を築き上げていた。

皇城相府の入口を入ってすぐの牌楼、--大牌楼と小牌楼(奥)にその功績が連ねられている。


 大牌楼: 陳廷敬世代以後の功績
 小牌楼: 陳廷敬までの功績



  

  皇城相府のゲートを入ってすぐにまず飛び込んでくる大牌楼。








  一番下に「陳廷敬」の文字が確認できる。




 


裏側から見た様子。文字の内容は、表が最高官職名。裏が科挙の合格記録(功名)。






遠くの方に見えるのが、小牌楼。
  


まずは奥の小牌楼に書かれて名前を見て行こう。


合計六人。

 陕西漢中府西郷県尉・陳秀     :陳廷敬から六代前の祖先。明の正統年間(一四三九-一四四九)あたりのことかと思われる。
 直隷大名府滑県県尉・陳[王玉]   :陳秀の息子。明の弘治・正徳年間(一四八八-一五二一)あたりか。
 嘉靖甲辰科進士・陳天裕      :陳[王玉]の息子。陕西按察副使等を歴任。
 万暦乙酉科挙人・陳所知      :陳天裕の孫。虞城知県等を歴任。
 儒林郎浙江同監察御史・陳昌言   :陳廷敬の叔父(父の兄)。明の崇禎七(一六三四)年の進士。
 順治丁酉科挙人・陳廷敬

ええー。上記の内容は、書かれた文字のとおりではないので、あしからず。
本来は表に生涯での最高官職。裏に功名(科挙の合格記録。進士なのか、挙人なのか、貢生なのかと言ったこと)が書かれている。
しかし写真が遠すぎて文字が判別できないので、とりあえず手に入った情報内で概要だけ……。

とにかく陳廷敬の六代前始祖の陳秀が下っ端役人になってから丸々二百年かけて、
ようやく宰相となるような人材を一族から輩出したことがわかる。


この小牌楼が作られたのは、清の順治十四(一六五七)年。
つまりは陳廷敬が地元の郷試で挙人に及第した時に作られたものである。

この直後に陳廷敬は引き続き都に上って会試を受け、若干十九歳で見事に進士にも及第し、出世街道をまっしぐらに進む。
ところが地元では挙人に合格しただけで、家では牌楼をおっ立てるこのフィーバーぶりだったことが伺える(笑)。



ご先祖様の軌跡は次回に詳しく見て行くこととして、
次に入口の大牌楼の方の内容を先に見ておこう。

これは康熙三十八(一六九九)年、皇帝の詔を受けて陳廷敬が建てたものだ。
真ん中の列の一番上には、「冢宰総憲」の四文字。


冢宰: 宰相の別称。百官の長。
総憲: 都察院左都御史の別称。官僚の不正有無を監督する都察院の長官が左都御史。
    陳廷敬が任命された官職の一つ。
    正義の人だったことを示す。


その下には、陳廷敬の曽祖父・陳三楽、祖父・陳経済、父・陳昌期に対し、
陳廷敬の功績を受けて朝廷から死後に追封された名誉職の名前がずらりと並ぶ。



牌楼の左右各列は陳廷敬が吏部尚書(人事部門の大臣)に昇級した時点での
兄弟、子供、甥たちの功名が羅列されている。


左: 

 己亥科賜進士翰林院庶吉士・陳元         : 陳廷敬のいとこ。父の兄(陳昌言)の子。
 壬子抜貢国子監正候候補行人司司副・陳廷継    : 陳廷敬の二弟。
 候選知県改補府同知」陳廷愫           : 陳廷敬の四弟。
 征仕郎広東廉州府欽州州判候補知県・陳廷[戸衣]  : 陳廷敬の五弟。
 奉直大夫警部湖広清吏司郎中
  改兵部武庫清吏司郎中加一級・陳廷統      : 陳廷敬の六弟。


右:

 湖広岳州府臨湘県知県・陳廷弼          : 陳廷敬の七弟。
 甲子科挙人揀選知県」陳廷翰           : 陳廷敬の八弟。
 江南淮安府邳睢霊壁河務同知加一級:陳謙吉    : 陳廷敬の長男。
 甲戌科会魁賜二甲第十二名進士
        翰林院庶吉士・陳豫朋       : 陳廷敬の次男。
 丁丑会魁賜二甲第八名進士
        翰林院庶吉士・陳壮履       : 陳廷敬の三男。
    


陳廷敬の兄弟、子供たちのほとんどが官僚となり、各地で活躍していたことがわかる。


一族の男たちは、現役中は政府に命じられるまま都や赴任先の地方を転々とするが、
どこかに根を下ろそうという気持ちはさらさらない。


余剰資産は赴任先からせっせせっせと故郷に運び、引退すれば故郷で余生を過ごした。

そのような数百年、連綿と続けられた「送金」によりこの荘厳な都市の如き大屋敷が出来上がったのである。

 

 

 

さて。
ようやく陳廷敬本人の生い立ちの話ができるところまでたどり着いた(笑)。

陳廷敬は明の崇禎十一(一六三八)年生まれ、父陳昌期の八男四女の中の長子である。
父陳昌期は生涯に二妻三妾を娶った。
 

父の一人目の妻李氏は、陽城県白巷里の人。
現地の素封家の娘だったが、子も産まぬままに早逝した。
 
二人目の妻張氏が、陳廷敬の生母である。
陳廷敬を筆頭に六男三女を生む。
陳昌期の子供の四分の三3は張氏の出による。

九人も子供が生まれていれば、いくらほかに妾がいても
もう「私ももうお産は勘弁してほしいから、替わりにお勤めしてちょうだい」という域というものである(笑)。

絆の深い夫婦だったと想像することができる。
 

張氏は沁水県(やや西に位置する附近の県)の出身。
明の万暦年間の進士張之屏の孫娘、挙人で直隷威県の知県張洪翼の娘だ。

また母方では、明の万暦年間の高官だった王国光の孫娘にも当たる。
(陽城の城壁を建てた人物としてこのブログでも紹介したとおり)
陽城界隈の有力家系の流れを存分に汲み、自身も高い教養を身につけた女性である。

 

このように同じレベルの家柄同士で通婚がなされていたこと、
女性も高い教養をもち、子弟の教育に貢献していたことが窺える。

また完全なお見合い結婚というか、ほとんど本人の好き嫌いのわがままは通らぬほどの政略結婚でもあったろうが、
九人も子供を成すのだから、それなりに心の通い合った結婚だったのではないだろうか。



皇城相府



次に陳廷敬の兄弟の軌跡である。


 長男: 陳廷敬

 次男: 陳廷継
   以下を見たらわかるとおり、残りの兄弟は全員、中国全土に出払っており、数年に一度も帰って来れないような状況である。
   誰か一人くらいは両親のもとに残らねばならぬと覚悟を決めたらしい。
   このため敢えて官僚にはならず、実家で親に仕え家業を守った。

 三男: 陳廷[草かんむり+尽]
   妾程氏の腹。州の稟生。稟生は生員の中の優秀者。十九歳で夭折。

 四男: 陳廷[りっしんべん+素]
   貢生。武安知県。「陳青天」と呼ばれ、民に慕われた。
   「青天」は、北宋の包青天。大岡越前のような存在。正義の味方、よき役人の見本のような人物をいう。

 五男: 陳廷[戸の下に衣]
   妾程氏の腹。貢生。太原・平陽訓導、広東欽州僉判、湖広鄖陽通判、羅定知州などを歴任。

 六男: 陳廷統
   貢生。湖広民沅靖道、福建延建邵道を歴任

 七男: 陳廷弼
  貢生。臨江知県。[さんずい+豊]知州、粤東糧駅道を歴任。

 八男: 陳廷翰
  挙人。知県に任命されるも、赴任しないうちに三十三歳で死去。


こうして見ると、八男の陳廷翰が自力で挙人に及第しているほかは皆、貢生である。

つまりは科挙のごく初期段階の称号である「秀才」の中から選抜された者、という名目。

時代によっては、その程度の資格では下っ端役人にもありつけるものではないのだが、
どうやらいくらかお金を積み、さらに陳廷敬が政府高官だという「兄の七光り」を受けて官職についたらしい。


前述のとおり、この時代、南方の優秀な人材が大量に出仕ボイコットをしている中で、人材が不足していたという事情もあっただろう。
さらに陳廷敬という「保証人」がいることは、ある程度の抑止力になる。

不正を働けば、兄である陳廷敬にも害が及ぶからだ。

『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相』の中に登場する弟は一人だけだが、実はこんなにたくさんの兄弟がいたとは……!

 

あまりにも大量の兄弟をわらわらと登場させると物語の主旨があらぬ方向にぶれてしまうので、おそらく作者王老師はある程度デフォルメされたものと思われる。 

 

そのあたりの手法もさすがー! 

 

 

 

さて。

 

小説の中で、このあまたの兄弟の中、登場するのは、誰でしょうか??

 

……それは、読んでのお楽しみー!

 

 

 



皇城相府



陳廷敬は生涯に二人の妻を娶った。

一人は山西の本家で両親と一族を守る本妻。
もう一人が、北京の宮仕え先で娶った妾である。

妾とはいえ、生涯のほとんどを北京で過ごした陳廷敬である。
数年に一度しか会うことができず、ともに過ごせたのが生涯のうち数年しかなかった本妻と比べると、
所謂「現地妻」であり、名目上は「妾」ながらどちらがいいかと言われると微妙なところである。
(そんなことは誰も聞いていないって?? ついつい女性目線で考えてしまうわけですよ)

それは陳廷敬の人生の成り行き上、そうなってしまったことであり、
若かった二人は、それを選ぶことも変えることも難しかったにちがいない。

何はともあれ内閣大学士にまで登りつめたような政府高官が、
生涯にわずか二人しか女性を娶らぬというのは、当時の中国社会ではごく珍しい事象だったに違いない。


本妻王氏は、陳廷敬より二つ年下、
この界隈で最も出世した有名人、明代の礼部尚書だった王国光の玄孫である。

陳廷敬の母親張氏は、母方の家系では王国光の孫に当たるので、王氏は陳廷敬の母の姪
……つまりは陳廷敬の「はとこ」に当たるということになろうか。

王氏は名家の令嬢だけあり、幼い頃より高い教育を受け才色兼備と近隣では評判の少女だった。


一方の陳廷敬の方はといえば、
陳家は家柄こそは一国の大臣(尚書)まで務めた王家ほどではないにせよ、
当主の陳昌言は今や江南学政を務めるまでの高官となり、
さらに王家の血を引く張氏もすでに嫁いでいる。

また陳廷敬本人は九歳で詠んだ『牡丹詩』、
十三歳で科挙試験に合格し秀才になったことなどですでに近隣に「神童」として名が知れ渡っていた。


二人は互いに会ったことはなくても、互いの名と噂はすでに何年も前から耳にしていたのである。


ある時、王氏は大人たちに連れられて陳家に遊びにきた。

通常、漢族の女性たちはめったに外出もせず、自分の親族の男性以外と同席して顔をさらすことはなかったが、
女性同士の親戚づきあい、集まりには出かけて行くことがあった。

叔母が陳家に嫁いでいることもあり、母親たちに連れられて、
女性たちだけの集まりに伴をして参加することもあったのだろう。



  
  
  皇城相府 



王氏は大人たちに陳家に連れて来られた折、
大人たちがおしゃべりに夢中になっている間、一人で屋敷の探索に出かけたのか。

そこで自作の詩を吟じていた陳廷敬に行き会う。
思わず引き込まれて
「素敵な詩だわ」
と声をかけた。

「あなたが陳敬(元の名)ね」

陳廷敬は驚いて振り返った。
「どうして僕の名前を知っている」
「陳家の『童子第一』(童子の中で一番)を知らない人はいないわ」
「そういう君は王家の人だね」
「どうしてわかるの」
「僕の拙い詩作を聞いて意味を理解できるのは、才色兼備の噂高い王家のご令嬢以外に考えられないからね」


……とは言っても、陳廷敬はこの日、
母方の張家、ひいては母方母系の王家の女たちが訪ねてくることは知っていたはずである。

男子はその場に同席はできないが、王氏が来ているかもしれない、
とは大方の見当がついていたものかと思われる。



二人は意気投合した。
陳廷敬は大胆にもこう吟じた。

 
 久聞王家出佳人
 王門佳人進陳門
 才貌双全人人愛
 喜鼓闘胆問春風

   王家に佳人ありと聞いて久しい。
   王門の佳人が陳門をくぐった。
   才色兼備な女性を嫌いな人などいるはずがない。
   嬉しさのあまり、大胆にもその気持ちを聞きたいものだ。

 
王氏は聞くと、恥らいながらも自分も返礼した。

 陳家少的上有詩才
 詩句琅琅入画来
 耳聆目睹心翻浪
 仔細作媒春花開

   陳家の御曹司は詩才に優れている。
   詩の句が滔々と流れ出てまるで絵を描くようだ。
   耳をそばだて、目で見て心がかき乱される。
   詩才が仲を持って、春の花が咲こうとしているわ。
 
二人のこの様子を知った両家の大人たちは、願ったり叶ったりの縁ではないかと喜び、
二人のためにこの縁談を嬉々として進めてくれたのであった。

……という話なのだが、私としては、上記の詩句にやや違和感を覚える。

何かというと、外国人の私にもわかるほどのごく単純明快な詩句が並んでいるからだ。
仮にも父親を抑えて先に秀才に合格し、数年後には全国の精鋭の中に名を連ねようとしている天才の作った詩にしては、
あまりにも子供だましすぎはしないか、という疑いである。

もしかしたら後世の人たちが想像して作ったものなのかもしれない。
ただ二人が詩作を通じて会話ができるほど互いに教養高く、
思考レベルの高い精神的側面でつながれた夫婦だったことは確かなようである。

……だとすれば、上記のエピソードもあながち事実から乖離してもいない楽しい想像の範囲内といえるのかもしれない。



  
皇城相府 




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