1961年の春、南翔胡同の張ばあ様の家に糞回収に行った際、
時伝祥はトイレがメンテナンスの必要な状態にありながら、ご老体で作業もままならないことを見て取った。
そこで休みの日を利用し、トイレの穴を掘りなおし、
拾ってきた古レンガで穴の周りにレンガを積んで整備し、こぎれいに掃除した。
張ばあ様は感激し、何度も清潔隊に感謝状を書いて送った。
のちに時伝祥が入院した際、ばあ様はそれを聞きつけ、2度の見舞いに訪れている。
新中国成立後も人糞が大切な肥料である事情に変わりはなかった。
食糧増産の党の呼びかけに応えようと、時伝祥は隊の同志らとともに未開発の「肥源」を求めて探索に出かけた。
つまりは何かの偶然で糞回収の縄張りからはずれ、タンクが深かったためにその後もあふれることなく、大量の糞を溜め込んでいるようなケースである。
ある時、時伝祥と仲間たちはそんな長年の手付かずのタンクを見つけ、大喜びした。
貴重な肥えを一滴たりとも無駄にしないため、時伝祥は服を脱いで腰の深さまであるタンクの中に飛び込んだ。
ほかの同志らもそれに続き、喜び勇んで糞と格闘し、すべてきれいさっぱり回収したのであった。
糞まみれなど、たとえ慣れていたとしても決して気持ちのいいものではない。
しかしこれで食糧増産に貢献できると思うと、その誇らしさの方が大きかった。
新中国の成立後、民国時代より食糧問題が深刻化した事情があるらしい。その原因は次のとおり。
1、 政策として、工業化を加速させた。
つまりこれまで農業をしていた人々の一部を労働者として工場に入れたため、その分生産量が減る。
2、 都市人口の増加。1と相成す理論だが、これまでの食糧生産者が都会の消費者になるのだ。
生産しないだけではなく、ひたすら消費する側に回る。
3、 都市の食糧輸入の停止。
実は1949年以前、沿海都市の小麦製品の原料のかなりの部分を輸入に頼っていた。
統計によると、1922年から1930年までの小麦の輸入は、年間平2516956担(1担は50kg)、
上海の小麦製品工業の原料の28.78%を占めた。
つまり年間需要の3ヶ月分は輸入に頼っていたことになる。
これが1933年になると、年間需要の10ヶ月分を輸入に依存するようになっていた。
1954年9月、糧食部の部長、つまり食糧省の大臣・章乃器は、全人代の発言で誇らしげにこういった。
我々は50年来、米・小麦を輸入に頼ってきた現状を断ち切り、今では逆に海外に輸出するまでになった、と。
1953年10月2日、毛沢東は国民の食糧売買を禁止する。
すべての食糧は国家以外に売ってはならない、と。
10月19日に決議された『食糧計画買取と計画供給の実施に関する命令』では、
「すべての買取り量と供給量、買取り基準・価格と供給基準・価格は、必ず中央の統一規定に従うか、もしくは中央が許可したものでなければならない」
と規定する。
これにより食糧の自由市場は消滅し、政府がすべての食品を独占することになる。
ここでいう「買取り」とは、農民の余った食糧を買い取ることをいうが、
いくら農民の元に残せばそれ以上を「余った」というかの基準は、
相当低く設定されており、その量で農民はお腹いっぱいになることはできなかった。
政策として、強制的に工業化を推し進めるには、工場で働く労働者を増やさなければならない。
そうなると、食糧を生産しない都市人口が増えることになり、彼らの食糧も供給してもらう必要がある。
さらに工業発展のためには、海外から高価な機械を買わねばならないが、
そのためにも農作物を輸出し、外貨を得なければならなかった。
だから農民を腹いっぱい食べさせるだけの食糧を手元に残すわけには行かなかったのである。
1962年の発言ではあるが、劉少奇がその苦しさについて、率直に認めている。
「今、国の食糧需要と農民が売りたいと思う量の間には、差があり、しかもかなり大きな開きがあります。
もし農民の希望通り、本当に自分が満腹になった後に残った食糧だけを国に売りたいというなら、
本当に農民がすべてお腹いっぱいになった後のあまりだけを国が買ったとしたら、
我々の食糧はなくなってしまいます。
労働者、教員、科学者、その他の都市住民には、食べ物がなくなってしまいます。
工業化は進まなくなり、軍隊を縮小し、国防もままならなくなってしまいます。」
1953年のこの政策の開始以後、
中国の農民は、秋の収穫後のごく短期間の間だけ腹いっぱいに食べることができた以外、
その他の季節はいつも腹をすかしている状態だった。
統一買取り・販売を実施してから、税と強制買取りの2つを合わせた所謂「征購」の比率が10%も増えた。
1955年の征購比率は、全食糧の31%にまで増え、農村では飢餓状態が出現する。
そのためにその後の2年間は征購をやや減らさざるを得なくなる。
それでもなお毎年「余剰食糧」の買取りは続けられるが、実際にはまったく「余剰」ではなく、深刻な飢餓状態にあったため、
再び農村に「再販売」する食糧が、年間40%を超えた。
農村から強制的に買い取り、これを一旦都市の倉庫に入庫し、
そこからもう一度貴重なガソリンを使って農村に戻す無駄は、想像に余りあるが、
それでも一旦は国庫に食糧を収め、不測の事態に備えた。
その後、この「征購」がますます過酷になり、
1959年大躍進後の大飢饉にもつながるが、ここでは主題からそれるので、触れない。
ともあれ、根本にあったのは「自力更生」への悲願に尽きる。
アヘン戦争以来、100年近い半植民地状態を経験し、外国からいじめられないようにするには、
他国と同じくらい工業を発展させ、相手を上回る技術を工業、軍事のあらゆる面で持たない限り、
いつでもその危険性にさらされることになる、と。
以上のような時代的背景を見ても、時伝祥が肥溜めの中に飛び込み、格闘した苦労は、
確実にお国のために貢献しており、彼がそれを誇らしく思う気持ちは、まったく正しかったといえる。
それくらい建国、「自力更生」の生みの苦しみの中で、農産物増産が大きな役割を果たしていた。
その後、収穫高を実際より多く報告する傾向は全国的に広がり、「征購」はますますエスカレート、
ついに大躍進後の3年間の大飢饉を出すに至る。
これはすでに時伝祥が労働模範として、全国的な有名人になってからのことで、
話が前後するが、その「偉業」を紹介する経緯で、先に書く。
全国的に食糧は極度に不足したが、
党からは都会に留まっている者でも農村に帰れる人はなるべく帰るように呼びかけた。
農村も都会も同じように飢えたが、都会では農業生産もできず、手も足も出ない状態だが、
農村なら野の動植物を取って食べるなどして、何かしら生き残れる可能性がある、という判断である。
この呼びかけを受け、時伝祥は妻と子供たちを自主的に山東の農村に帰した。
またある年、小麦の収穫の時期、農村での刈り取りの人手が足りないということで、
都市の各職場からも助っ人を出して応援するよう指示が出た。
時伝祥の隊では十数人が出され、残りはたった7人となったが、日常のノルマが減るわけではない。
崇文門の住民は、同じように毎日何度もの用を足し、
トイレの穴は同じペースで満杯になり、汲み取りしてくれる人を待っているのだ。
時伝祥は部下を叱咤激励し、人手が減ったからといって住民の生活に不便をもたらしてはいけない、と日曜日を返上し、
自分は持病をおして踏ん張った。
これはすでに労働模範になった後でのことなので、
全国の有名人、人民の英雄の体を気遣い、上司・同僚らは休むように言ったが、
「人手が足りない時に一人寝ていることができますか?」
と、聞かぬ。
収穫が終わるまでの1ヶ月余りの間、普段は17人でこなしているノルマを7人でやり通した。
無理に無理を重ねたこともあり、時伝祥の病状は日に日に悪化していった。
ある日、布巷子胡同で作業している際、突然目の前がまっくらになり、
両足に力が入らなくなり、そのまま地面に座り込んだまま動けなくなってしまった。
党支部の上司がこれを聞きつけ、急いで無理やり病院に運び込んだ。
検査の結果、一つは高血圧を抱えていること、さらに足に大きな瘤(こぶ)があり、
医者は瘤のある足の指を切断するよう決定した。
高血圧は45過ぎの年齢であれば、今では普通に見られる症状である。
しかし当時はあまり聞かなかった、と50代以上の人はいう。
では、高血圧になる可能性があるとしたら、貧しかった時代なので、
やたらと塩辛いおかずを食べていたことは、充分に考えられるだろうし、肉体的にきつい労働をする夫に気を使い、
妻がけんめいにラードで精をつけさせていた可能性もある。
解放後に給料が50元の高給になっていたのだから、エンゲル係数を高くすればできないことではない。
私が初めて中国に来た90年代初めでもまだ一般庶民にとっては、
植物油もラードも「精のつく栄養たっぷりのもの」であり、
普通にレストランで頼んだ炒め物は、皿の底に少なくとも5mmから1cmの油がたまっていたし、
チャーハンの米粒は油の中を泳いでいるような状態だった。
豚の角煮を注文すれば、脂肪部分から溶け出した脂は、
すくい出すことなく、表面に1cmくらいの透明な膜を張っていた。
日本人の私から見ると、見ただけでメタボになりそうな高カロリーだが、地元の人は嬉々として食べていた。
計画経済の配給制だった時代、北京市民の一人当たりの肉の配給は、
豚肉が1ヶ月に2両から5両(1両は50g、つまり100g-250g)という厳しい内容だった。
知り合いの50代男性は、小さい頃に「糧票(配給切符)」を親から預かり、肉の支給を受けに行くお使いをする際、
母親から「なるべく白い脂肪の部分をもらって来なさい」と命じられたという。
赤身の肉では、あっという間に食べ終わってしまうからだ。
脂肪部分はカロリーが高く、「肉」としての栄養価が少しでも高く発揮できる。
各家庭では、この白い脂肪の固まりを少ない水と一緒にぐつぐつ煮て脂分を煮出し、真っ白なラードを作った。
そして野菜を炒める時に油代わりに使うか、油と一緒に少し入れ、
肉なし炒めでも「肉」入りにする工夫をしたのだという。
肉と同じように油も配給では、一人当たり1ヶ月に2両から6両(1両は50g、つまり100g-300g)しかないので、
炒め物にはとても足りない。
このため炒め物が食卓に上ることはめったになく、普段は漬け物をおかずとすることが多かったという。
90年代初めは少し豊かになり始めたばかりの時代である。
ここぞとばかりに大量の油、大量の脂肉が出てきたのも、それこそが庶民の考えるごちそうだったからだろう。
それが2008年のオリンピック前後になると、45歳以上で糖尿病が続出、高血圧・高血糖・高血値のオンパレードとなり、
ついに国民全員が成人病を気にする時代に突入した。
レストランのチャーハンの皿の底に油が残ることはなくなり、
炒める油もかなり抑えるようになった。
そうしないと、「あそこのレストランは油っぽい」とお客がこなくなるからだ。
それでも炒め物は油が多いというので、家庭では炒め物の登場回数が減り、
あえもの系のコールド・ディッシュにおかゆ、または野菜あんだけの餃子で済ませることが多くなる。
炒め物をするにも、高価なイタリア製オリーブオイルが普通のローカルスーパーに登場し、よく売れているようである。
どうせ油を使わないといけない時は、悪玉コレステロールだけを下げるなどの効能が知られているオリーブオイルにしようというわけである。
このように中国人の油・脂に対する認識が変わるのは、
やっと2000年以後のことの故、やたらと塩辛いか、やたらとラードを摂取していたかという可能性はある。
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香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『身辺の劉少奇』より
大躍進を支持するデモ行進。
「生産量、今年はイギリスを越えるぞ」
香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『大視野 身辺の劉少奇』より
当時の農村の人々。
映画『時伝祥』のシーンより。
病に倒れる時伝祥。
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時伝祥はトイレがメンテナンスの必要な状態にありながら、ご老体で作業もままならないことを見て取った。
そこで休みの日を利用し、トイレの穴を掘りなおし、
拾ってきた古レンガで穴の周りにレンガを積んで整備し、こぎれいに掃除した。
張ばあ様は感激し、何度も清潔隊に感謝状を書いて送った。
のちに時伝祥が入院した際、ばあ様はそれを聞きつけ、2度の見舞いに訪れている。
新中国成立後も人糞が大切な肥料である事情に変わりはなかった。
食糧増産の党の呼びかけに応えようと、時伝祥は隊の同志らとともに未開発の「肥源」を求めて探索に出かけた。
つまりは何かの偶然で糞回収の縄張りからはずれ、タンクが深かったためにその後もあふれることなく、大量の糞を溜め込んでいるようなケースである。
ある時、時伝祥と仲間たちはそんな長年の手付かずのタンクを見つけ、大喜びした。
貴重な肥えを一滴たりとも無駄にしないため、時伝祥は服を脱いで腰の深さまであるタンクの中に飛び込んだ。
ほかの同志らもそれに続き、喜び勇んで糞と格闘し、すべてきれいさっぱり回収したのであった。
糞まみれなど、たとえ慣れていたとしても決して気持ちのいいものではない。
しかしこれで食糧増産に貢献できると思うと、その誇らしさの方が大きかった。
新中国の成立後、民国時代より食糧問題が深刻化した事情があるらしい。その原因は次のとおり。
1、 政策として、工業化を加速させた。
つまりこれまで農業をしていた人々の一部を労働者として工場に入れたため、その分生産量が減る。
2、 都市人口の増加。1と相成す理論だが、これまでの食糧生産者が都会の消費者になるのだ。
生産しないだけではなく、ひたすら消費する側に回る。
3、 都市の食糧輸入の停止。
実は1949年以前、沿海都市の小麦製品の原料のかなりの部分を輸入に頼っていた。
統計によると、1922年から1930年までの小麦の輸入は、年間平2516956担(1担は50kg)、
上海の小麦製品工業の原料の28.78%を占めた。
つまり年間需要の3ヶ月分は輸入に頼っていたことになる。
これが1933年になると、年間需要の10ヶ月分を輸入に依存するようになっていた。
1954年9月、糧食部の部長、つまり食糧省の大臣・章乃器は、全人代の発言で誇らしげにこういった。
我々は50年来、米・小麦を輸入に頼ってきた現状を断ち切り、今では逆に海外に輸出するまでになった、と。
1953年10月2日、毛沢東は国民の食糧売買を禁止する。
すべての食糧は国家以外に売ってはならない、と。
10月19日に決議された『食糧計画買取と計画供給の実施に関する命令』では、
「すべての買取り量と供給量、買取り基準・価格と供給基準・価格は、必ず中央の統一規定に従うか、もしくは中央が許可したものでなければならない」
と規定する。
これにより食糧の自由市場は消滅し、政府がすべての食品を独占することになる。
ここでいう「買取り」とは、農民の余った食糧を買い取ることをいうが、
いくら農民の元に残せばそれ以上を「余った」というかの基準は、
相当低く設定されており、その量で農民はお腹いっぱいになることはできなかった。
政策として、強制的に工業化を推し進めるには、工場で働く労働者を増やさなければならない。
そうなると、食糧を生産しない都市人口が増えることになり、彼らの食糧も供給してもらう必要がある。
さらに工業発展のためには、海外から高価な機械を買わねばならないが、
そのためにも農作物を輸出し、外貨を得なければならなかった。
だから農民を腹いっぱい食べさせるだけの食糧を手元に残すわけには行かなかったのである。
1962年の発言ではあるが、劉少奇がその苦しさについて、率直に認めている。
「今、国の食糧需要と農民が売りたいと思う量の間には、差があり、しかもかなり大きな開きがあります。
もし農民の希望通り、本当に自分が満腹になった後に残った食糧だけを国に売りたいというなら、
本当に農民がすべてお腹いっぱいになった後のあまりだけを国が買ったとしたら、
我々の食糧はなくなってしまいます。
労働者、教員、科学者、その他の都市住民には、食べ物がなくなってしまいます。
工業化は進まなくなり、軍隊を縮小し、国防もままならなくなってしまいます。」
1953年のこの政策の開始以後、
中国の農民は、秋の収穫後のごく短期間の間だけ腹いっぱいに食べることができた以外、
その他の季節はいつも腹をすかしている状態だった。
統一買取り・販売を実施してから、税と強制買取りの2つを合わせた所謂「征購」の比率が10%も増えた。
1955年の征購比率は、全食糧の31%にまで増え、農村では飢餓状態が出現する。
そのためにその後の2年間は征購をやや減らさざるを得なくなる。
それでもなお毎年「余剰食糧」の買取りは続けられるが、実際にはまったく「余剰」ではなく、深刻な飢餓状態にあったため、
再び農村に「再販売」する食糧が、年間40%を超えた。
農村から強制的に買い取り、これを一旦都市の倉庫に入庫し、
そこからもう一度貴重なガソリンを使って農村に戻す無駄は、想像に余りあるが、
それでも一旦は国庫に食糧を収め、不測の事態に備えた。
その後、この「征購」がますます過酷になり、
1959年大躍進後の大飢饉にもつながるが、ここでは主題からそれるので、触れない。
ともあれ、根本にあったのは「自力更生」への悲願に尽きる。
アヘン戦争以来、100年近い半植民地状態を経験し、外国からいじめられないようにするには、
他国と同じくらい工業を発展させ、相手を上回る技術を工業、軍事のあらゆる面で持たない限り、
いつでもその危険性にさらされることになる、と。
以上のような時代的背景を見ても、時伝祥が肥溜めの中に飛び込み、格闘した苦労は、
確実にお国のために貢献しており、彼がそれを誇らしく思う気持ちは、まったく正しかったといえる。
それくらい建国、「自力更生」の生みの苦しみの中で、農産物増産が大きな役割を果たしていた。
その後、収穫高を実際より多く報告する傾向は全国的に広がり、「征購」はますますエスカレート、
ついに大躍進後の3年間の大飢饉を出すに至る。
これはすでに時伝祥が労働模範として、全国的な有名人になってからのことで、
話が前後するが、その「偉業」を紹介する経緯で、先に書く。
全国的に食糧は極度に不足したが、
党からは都会に留まっている者でも農村に帰れる人はなるべく帰るように呼びかけた。
農村も都会も同じように飢えたが、都会では農業生産もできず、手も足も出ない状態だが、
農村なら野の動植物を取って食べるなどして、何かしら生き残れる可能性がある、という判断である。
この呼びかけを受け、時伝祥は妻と子供たちを自主的に山東の農村に帰した。
またある年、小麦の収穫の時期、農村での刈り取りの人手が足りないということで、
都市の各職場からも助っ人を出して応援するよう指示が出た。
時伝祥の隊では十数人が出され、残りはたった7人となったが、日常のノルマが減るわけではない。
崇文門の住民は、同じように毎日何度もの用を足し、
トイレの穴は同じペースで満杯になり、汲み取りしてくれる人を待っているのだ。
時伝祥は部下を叱咤激励し、人手が減ったからといって住民の生活に不便をもたらしてはいけない、と日曜日を返上し、
自分は持病をおして踏ん張った。
これはすでに労働模範になった後でのことなので、
全国の有名人、人民の英雄の体を気遣い、上司・同僚らは休むように言ったが、
「人手が足りない時に一人寝ていることができますか?」
と、聞かぬ。
収穫が終わるまでの1ヶ月余りの間、普段は17人でこなしているノルマを7人でやり通した。
無理に無理を重ねたこともあり、時伝祥の病状は日に日に悪化していった。
ある日、布巷子胡同で作業している際、突然目の前がまっくらになり、
両足に力が入らなくなり、そのまま地面に座り込んだまま動けなくなってしまった。
党支部の上司がこれを聞きつけ、急いで無理やり病院に運び込んだ。
検査の結果、一つは高血圧を抱えていること、さらに足に大きな瘤(こぶ)があり、
医者は瘤のある足の指を切断するよう決定した。
高血圧は45過ぎの年齢であれば、今では普通に見られる症状である。
しかし当時はあまり聞かなかった、と50代以上の人はいう。
では、高血圧になる可能性があるとしたら、貧しかった時代なので、
やたらと塩辛いおかずを食べていたことは、充分に考えられるだろうし、肉体的にきつい労働をする夫に気を使い、
妻がけんめいにラードで精をつけさせていた可能性もある。
解放後に給料が50元の高給になっていたのだから、エンゲル係数を高くすればできないことではない。
私が初めて中国に来た90年代初めでもまだ一般庶民にとっては、
植物油もラードも「精のつく栄養たっぷりのもの」であり、
普通にレストランで頼んだ炒め物は、皿の底に少なくとも5mmから1cmの油がたまっていたし、
チャーハンの米粒は油の中を泳いでいるような状態だった。
豚の角煮を注文すれば、脂肪部分から溶け出した脂は、
すくい出すことなく、表面に1cmくらいの透明な膜を張っていた。
日本人の私から見ると、見ただけでメタボになりそうな高カロリーだが、地元の人は嬉々として食べていた。
計画経済の配給制だった時代、北京市民の一人当たりの肉の配給は、
豚肉が1ヶ月に2両から5両(1両は50g、つまり100g-250g)という厳しい内容だった。
知り合いの50代男性は、小さい頃に「糧票(配給切符)」を親から預かり、肉の支給を受けに行くお使いをする際、
母親から「なるべく白い脂肪の部分をもらって来なさい」と命じられたという。
赤身の肉では、あっという間に食べ終わってしまうからだ。
脂肪部分はカロリーが高く、「肉」としての栄養価が少しでも高く発揮できる。
各家庭では、この白い脂肪の固まりを少ない水と一緒にぐつぐつ煮て脂分を煮出し、真っ白なラードを作った。
そして野菜を炒める時に油代わりに使うか、油と一緒に少し入れ、
肉なし炒めでも「肉」入りにする工夫をしたのだという。
肉と同じように油も配給では、一人当たり1ヶ月に2両から6両(1両は50g、つまり100g-300g)しかないので、
炒め物にはとても足りない。
このため炒め物が食卓に上ることはめったになく、普段は漬け物をおかずとすることが多かったという。
90年代初めは少し豊かになり始めたばかりの時代である。
ここぞとばかりに大量の油、大量の脂肉が出てきたのも、それこそが庶民の考えるごちそうだったからだろう。
それが2008年のオリンピック前後になると、45歳以上で糖尿病が続出、高血圧・高血糖・高血値のオンパレードとなり、
ついに国民全員が成人病を気にする時代に突入した。
レストランのチャーハンの皿の底に油が残ることはなくなり、
炒める油もかなり抑えるようになった。
そうしないと、「あそこのレストランは油っぽい」とお客がこなくなるからだ。
それでも炒め物は油が多いというので、家庭では炒め物の登場回数が減り、
あえもの系のコールド・ディッシュにおかゆ、または野菜あんだけの餃子で済ませることが多くなる。
炒め物をするにも、高価なイタリア製オリーブオイルが普通のローカルスーパーに登場し、よく売れているようである。
どうせ油を使わないといけない時は、悪玉コレステロールだけを下げるなどの効能が知られているオリーブオイルにしようというわけである。
このように中国人の油・脂に対する認識が変わるのは、
やっと2000年以後のことの故、やたらと塩辛いか、やたらとラードを摂取していたかという可能性はある。
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香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『身辺の劉少奇』より
大躍進を支持するデモ行進。
「生産量、今年はイギリスを越えるぞ」
香港フェニックス・テレビのドキュメンタリー『大視野 身辺の劉少奇』より
当時の農村の人々。
映画『時伝祥』のシーンより。
病に倒れる時伝祥。
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私は昨日、ブログに豚バラ肉は脂身がおいしいなどという内容を書きましたが、中国では脂身のほうを重宝していたのですね。厳しい時代だったのですね。
そしたら、そこから5年たたないうちに皆ががんがん太り始めました。
デスクワークが多くなり、通勤距離が長くなったので、自転車で移動できる人がほとんどいなくなり、アパートがエレベーターつきのマンションに変わった、など多くの変化のためと思いますが。。