脚の瘤は長年の過酷な労働、不衛生な労働環境が起因したことは想像に難くない。
20歳前後の頃、満足な靴を買うこともできず、真冬は零下20度の厳寒でさえも靴下らしきものもなく、
しもやけよりはかなり凍傷に近い状態が慢性化したような状態で、
鋭く尖った小石やガラスなどを踏んでは化膿させ、そのまま細菌に感染して膨れ上がるような状態を繰り返していたことは、前述のとおりである。
破傷風にならずとも、長年の脚の切り傷、大腸菌がうようよいる環境に常にさらされていることで、
瘤になったことは充分に考えられる。
脚の指を切断する、といわれ、時伝祥は目の前が真っ暗になった。
この時、彼はすでに労働模範になっており、
彼が人々から尊敬され、崇拝される唯一の理由は、屈強な肉体を駆使した人民への奉仕のためである。
脚の指を切断されたら、歩行に障害が出ることは否めないだろう。
たとえ日常生活は送れたとしても、100kgもある糞桶を背負って大地に立ち、踏んばることはもうできないに違いない。
糞桶を背負えない自分など、もはや自分ではない―――。
時伝祥は再三、党の上司にも訴え、医者にも訴えた。
あちこちの病院を訪ね歩き、ついに脚の指を切断しないでも瘤を除去できるという手術を承諾する医者を見つけたのである。
こうして時伝祥の脚の指は、切断されず、瘤も無事除去され、脚は完治した。
時伝祥が医者の主張をまったく信頼していないところが、面白い。
医者を盲信しない姿勢は、どちらかというと中国人のほうに一般的なような気がする。
時伝祥は文字も読めない文盲の農民出身だが、基本的には「自分ありき」なのである。
脚を残したいなら、それを実現してくれる医者を自分で探し出すのみ、と納得するまでとことん病院行脚を続ける。
医者がどんなに専門知識があろうと、自分より教養があろうと、
「自分」ありき、人を盲目的に信用することはない。
広大な国土の中、警察力が必ずしも機能しない時代・場所の方が多かったお国柄で発達した処世術といえる。
ある意味では、血縁者・地縁者しか信用しない傾向もその延長線にある。
これは昨今流行のネット恋愛に対する姿勢にも共通する。
「どこの馬の骨ともわからない」ことへの抵抗は、低い。
なぜなら現実世界でも「どこの馬の骨ともわからない」人が、がんがん騙しもすれば、道義の通らないこともする。
それは騙されるほうが悪いのであって、騙したとぎゃあぎゃあ騒いでも現実は何も変わらない。
自己防衛の腕を上げるほうがよほど現実的なのだ。
その現象がネットでも起きたからといって、それも今更ぎゃあぎゃあ騒ぐほど珍しい現象でもないのだ。
今どきの若者の出会いは、学校・職場にも適当な相手がおらず、友人の紹介でもだめなら、さっさとネットで見つける。
少し遡り、ちょうど北京が共産党軍に解放されたその日、
時伝祥は糞の汲み取りに行った公共トイレに捨てられた乳飲み子の女の子を見つけたことがあった。
時伝祥は、共産党が設立したばかりの福利院(孤児院)に赤子を送り届け、その父親的な存在として、何かとめんどうを見ていく。
「解放」の日に拾われたので、名前は「石解放」と名づけた。
「石」は「時」と同音である。
実はその生みの親は、当時裕福な家庭の娘だったが、恋人は北平陥落の直前、国民党軍とともに自分をおいて台湾に飛んでいってしまった。
このため途方にくれた家族が女中に公共トイレに捨てさせたのであった。
何年もたち、アメリカで裕福な暮らしを送るようになっていたその女性は、
弁護士を通じてその当時遺棄してしまった自分の娘を探し当てた。
それが時伝祥の義理の娘であったのだ。
自分の娘を拾い、奉仕の精神に富んだ大人に育て上げてくれたことに感謝し、彼女は巨額の資産を北京の環境・衛生の事業に寄付したという。
このほかにも時伝祥が隊長だった時、隊では住民のごはん時は時間をはずすこと、
糞桶を背負って入る前に、通るからよけてくれ、と事前に声をかけるとともに、
洗濯物などは取り入れ、糞回収が終わってから干すように声をかけた。
中庭いっぱいに洗濯物を干していたら、背中の糞桶が当たって、糞がついてしまっては台無しだからだ。
時伝祥の軌跡を追う経緯で、労働模範になって以後のエピソードも先に書く形になったが、
その仕事への姿勢、雰囲気をつかむためにそのほうが分かりやすいのではないか、と思い、敢えてそうした。
どのような行動が評価されて労働模範になったか、理解するには、具体的なエピソードの羅列がなければ、わからないからである。
以上、見てきたように、時伝祥の私利私欲を越えた奉仕精神、細かい気遣いが、
住民らから賞賛され、さらには数々の武勇伝の感謝状も多く清潔隊に届けられた。
それが糞取り作業員の中で最も高給取りの70元月給ともなって反映されたといってよい。
その働きは政治的にも反映されていく。
1955年「清潔工人先進生産者」の称号を贈られ、翌年には「崇文区人民代表」に選ばれる。
つまり区会議員のような立場である。
同年には共産党にも入党する。
現代でも人口の約3%しかいない党員だが、
建国当時はもっと少なく、狭き門だったことを踏まえなければならない。
1958年には、北京政治協会委員に選ばれる。
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写真: 時伝祥記念館。
道具の展示場所。
「時伝祥と同時代の環境衛生工員が使用していた帽子、長靴、靴。
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20歳前後の頃、満足な靴を買うこともできず、真冬は零下20度の厳寒でさえも靴下らしきものもなく、
しもやけよりはかなり凍傷に近い状態が慢性化したような状態で、
鋭く尖った小石やガラスなどを踏んでは化膿させ、そのまま細菌に感染して膨れ上がるような状態を繰り返していたことは、前述のとおりである。
破傷風にならずとも、長年の脚の切り傷、大腸菌がうようよいる環境に常にさらされていることで、
瘤になったことは充分に考えられる。
脚の指を切断する、といわれ、時伝祥は目の前が真っ暗になった。
この時、彼はすでに労働模範になっており、
彼が人々から尊敬され、崇拝される唯一の理由は、屈強な肉体を駆使した人民への奉仕のためである。
脚の指を切断されたら、歩行に障害が出ることは否めないだろう。
たとえ日常生活は送れたとしても、100kgもある糞桶を背負って大地に立ち、踏んばることはもうできないに違いない。
糞桶を背負えない自分など、もはや自分ではない―――。
時伝祥は再三、党の上司にも訴え、医者にも訴えた。
あちこちの病院を訪ね歩き、ついに脚の指を切断しないでも瘤を除去できるという手術を承諾する医者を見つけたのである。
こうして時伝祥の脚の指は、切断されず、瘤も無事除去され、脚は完治した。
時伝祥が医者の主張をまったく信頼していないところが、面白い。
医者を盲信しない姿勢は、どちらかというと中国人のほうに一般的なような気がする。
時伝祥は文字も読めない文盲の農民出身だが、基本的には「自分ありき」なのである。
脚を残したいなら、それを実現してくれる医者を自分で探し出すのみ、と納得するまでとことん病院行脚を続ける。
医者がどんなに専門知識があろうと、自分より教養があろうと、
「自分」ありき、人を盲目的に信用することはない。
広大な国土の中、警察力が必ずしも機能しない時代・場所の方が多かったお国柄で発達した処世術といえる。
ある意味では、血縁者・地縁者しか信用しない傾向もその延長線にある。
これは昨今流行のネット恋愛に対する姿勢にも共通する。
「どこの馬の骨ともわからない」ことへの抵抗は、低い。
なぜなら現実世界でも「どこの馬の骨ともわからない」人が、がんがん騙しもすれば、道義の通らないこともする。
それは騙されるほうが悪いのであって、騙したとぎゃあぎゃあ騒いでも現実は何も変わらない。
自己防衛の腕を上げるほうがよほど現実的なのだ。
その現象がネットでも起きたからといって、それも今更ぎゃあぎゃあ騒ぐほど珍しい現象でもないのだ。
今どきの若者の出会いは、学校・職場にも適当な相手がおらず、友人の紹介でもだめなら、さっさとネットで見つける。
少し遡り、ちょうど北京が共産党軍に解放されたその日、
時伝祥は糞の汲み取りに行った公共トイレに捨てられた乳飲み子の女の子を見つけたことがあった。
時伝祥は、共産党が設立したばかりの福利院(孤児院)に赤子を送り届け、その父親的な存在として、何かとめんどうを見ていく。
「解放」の日に拾われたので、名前は「石解放」と名づけた。
「石」は「時」と同音である。
実はその生みの親は、当時裕福な家庭の娘だったが、恋人は北平陥落の直前、国民党軍とともに自分をおいて台湾に飛んでいってしまった。
このため途方にくれた家族が女中に公共トイレに捨てさせたのであった。
何年もたち、アメリカで裕福な暮らしを送るようになっていたその女性は、
弁護士を通じてその当時遺棄してしまった自分の娘を探し当てた。
それが時伝祥の義理の娘であったのだ。
自分の娘を拾い、奉仕の精神に富んだ大人に育て上げてくれたことに感謝し、彼女は巨額の資産を北京の環境・衛生の事業に寄付したという。
このほかにも時伝祥が隊長だった時、隊では住民のごはん時は時間をはずすこと、
糞桶を背負って入る前に、通るからよけてくれ、と事前に声をかけるとともに、
洗濯物などは取り入れ、糞回収が終わってから干すように声をかけた。
中庭いっぱいに洗濯物を干していたら、背中の糞桶が当たって、糞がついてしまっては台無しだからだ。
時伝祥の軌跡を追う経緯で、労働模範になって以後のエピソードも先に書く形になったが、
その仕事への姿勢、雰囲気をつかむためにそのほうが分かりやすいのではないか、と思い、敢えてそうした。
どのような行動が評価されて労働模範になったか、理解するには、具体的なエピソードの羅列がなければ、わからないからである。
以上、見てきたように、時伝祥の私利私欲を越えた奉仕精神、細かい気遣いが、
住民らから賞賛され、さらには数々の武勇伝の感謝状も多く清潔隊に届けられた。
それが糞取り作業員の中で最も高給取りの70元月給ともなって反映されたといってよい。
その働きは政治的にも反映されていく。
1955年「清潔工人先進生産者」の称号を贈られ、翌年には「崇文区人民代表」に選ばれる。
つまり区会議員のような立場である。
同年には共産党にも入党する。
現代でも人口の約3%しかいない党員だが、
建国当時はもっと少なく、狭き門だったことを踏まえなければならない。
1958年には、北京政治協会委員に選ばれる。
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写真: 時伝祥記念館。
道具の展示場所。
「時伝祥と同時代の環境衛生工員が使用していた帽子、長靴、靴。
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