いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  5、「糞道」制度の規範化

2011年03月05日 16時49分43秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
出典は忘れたが、紫禁城の中にもごみが堆積していたために賊を逃してしまったという記述があった。

雍正初年、簒奪で皇位についた雍正帝には他の兄弟らの多くが敵だった。
いつ暗殺されるかもわからないという一触即発の状況下、紫禁城の中といえどもまったく油断できない。

そんな中、雍正帝の身辺に夜中、賊が侵入し、発見されると、壁を乗り越えて逃げた。
その際、賊は壁のてっぺん近くまで堆積していたごみの山を踏み越えて難なく壁の上に乗ることができ、
向かい側に飛び降りて逃走したのである。

これを知った雍正帝は激怒し、直ちに紫禁城内のすべてのごみを徹底的に片付けるように命じたという。


つまりは天子の住む紫禁城でさえ、ごみの堆積が賊の逃走を助けるほどまでうず高く放置されていたということだ。
そしてそのごみの大部分はおそらく石炭の燃えカスだったと想像できる。

前述のようにほかのごみは現金化するか、風化する。不揃いな形状のものであれば、
一気に壁の上まで駆け上がることは困難だろう。

燃えカスであれば、土だから踏み据えることができる。


やんごとなき高貴なる人々の住む紫禁城であれば、冬の暖房はがんがんと贅沢に焚いていたことだろう。
そのために日々出る燃えカス量の膨大さは想像するだに大変だ。

ご主人様らの場所は少なくともきれいにしていたとしても、
宦官や使用人らの寝起きするような主人筋らの目に留まらない場所であれば、
裏口に積み上げたまま始末をサボっていたとしても不思議ではない。


紫禁城でさえこの有様である。

庶民の行き交う北京城内はさらにひどい状態だったことが想像できる。
それくらい石炭の燃えカスはどこにでもある「やっかいもの」だった。

糞干の中に入れる混ぜ物の中でも燃えカスがかなりの量を占めていたとしてもうなずける。




こうして北京城では明から始まった「糞業」は、
いくらかの山東の農民が各家庭から排泄物を汲み取り、
近隣の農家に売るだけで大して特筆すべきトラブルも起こらなかった。


ところが清代の乾隆年間になってくると、
前述のごとき人口大爆発が起き、その余波で「糞業」の新規参入者も激増したのか、
汲み取りの縄張りをめぐる刀傷沙汰が頻繁に起こってくる。


社会全体の急激な人口増加のために農村の余剰人口が生存空間を失い、
生きるすべを求めて都会に集まり始めたためと思われる。

都会に出てきたはいいものの、産業革命以前の前近代的な生産構造の元では、働き口がそうそうあるはずはなく、
地元の人間が最もいやがる3K仕事であり、特殊な技術も必要ない糞尿処理に吹き溜まるように男たちが群がり集まった。

われもわれも、と糞尿を求めて新参者が入ってくると、それまでその場所を縄張りとしていた回収者と殴りあいになるのは、当然である。

・・・・かかる事件があまりにも頻繁に起こったため、当局の指導の元に縄張りが明確にされ、所有権を示す証明書が発行された。



糞夫らはすべて「某街某巷の便、某人の拾取に帰す。他人勝手に取るべからず」の証明書を所有し、
これは他の私有財産と同様に売買、譲渡、相続、賃貸できる権利となった。

・・・・もっともこの権利は、あくまでも非公式のものである。
北京城内の不動産でさえ所有権を認めなかった清朝という政権が、いわんや便所の「汲み取り権」を、だ。



清朝は北京城内の居住を満州族を中心とした「旗人」のみに制限し、「旗人」らにも城内の不動産の売却を禁止していた。
この点、現代の共産党政権とも共通する政策といえるだろう。

しかし時代が下るにつれて旗人らが生活に困窮し、家を手放す旗人が続出、
さすがに漢人に売ることはタブーだったが、旗人同士で売買関係が生まれた。

・・・・売り買いは合法ではない。
そうなると、一番最初の持ち主の「痕跡」が残っていないことには、現在の状況が証明できない。

すると、非合法の譲渡証には「AからBに売却す」、「BからCに売却す」、「CからDに売却す」というすべての履歴が揃っていなければならない。
しかし法律的にはもしAが土地の権利を主張すれば、Dに所有の権限が認められないことになるのだから、トラブルにならないわけがない。

こうして複雑な売り買いの経緯を繰り返した所有権について、
告訴が頻発してどうにもこうにも処理できなくなり、清朝当局も最終的には認めざるを得なくなる。


これも現在、同じ状況が起きている。
例えば今、北京郊外に普通の一戸建てを買おうとする。

すると、不動産ディベロッパーがアホみたいに高い値段で売っている「別荘」は別として、
普通の土地と建築の持ち主に売買権はないのである。

そうなるとまさに「私的」な契約書が上述のごとく交わされ、同じようにトラブルが絶えないのが、現状である。



清代の言葉でいえば、非公式な契約は「白契(バイチー)」と呼ばれ、
これに対して正式な権利書は「紅契(ホンチー)」といい、区別された。

便所の「汲み取り権」が「白契」でしかなかったことはいうまでもない。



汲み取り権は、1「糞道」の単位で呼び習わし、その持ち主は「糞道主(フェンダオジュー)」と言った。
当初は皆数戸、から数十戸の規模であった。

「糞道」の所有権の細分化・市場化が進むのは、清朝が滅び、群雄割拠の民国時代も後期に入ってからである。


各「糞道」の構成は、まったく脈略がなかった。
どこかの胡同一本の十数軒の家庭の汲み取り権が1糞道になっていることもあったが、
甲胡同に3軒、乙胡同に6軒などとまったく脈略なく離れた数軒分の汲み取り権利が「1糞道」になっている場合もあった。


これは例えば、明・清代に最初にやってきた汲み取り夫が、ある家庭と「汲み取り」の取り交わしをし、その隣ともする。
ところが、さらにもう一軒隣にも交渉してみると、すでにほかの汲み取り夫が出入りしており、そこは交渉失敗。
やむなくほかの胡同に行って同じように交渉し・・・、と自分なりの縄張りを押さえて行く。

そのうちに「糞道」の権利証が発行されるようになり、そのいびつな地理構成のまま、代々売買されてきた、というような経緯だろう。


前述のとおり、清朝が政権をとっていた間、北京内城には旗人しか居住が許されず、
商業施設の開設も基本的には禁止されていた。

閑静な住宅地と言って良く、こういう状況では、人口密度が極端に高くなることはなかった。
ところが清朝が滅びると、その制限がなくなり、
誰でも不動産を買い取るか、家賃を払いさえすれば、住めるようになったことはもちろんのこと、
店舗を開いて商売することもできるようになった。

人が集まれば、糞尿処理はさらに大きな利益になる。

こうして「糞道」制度が、市場の原理により規範化されていく。


自分の家であるにもかかわらず、「トイレの掃除権」は家の持ち主になく、糞道主にしかない。

勝手に他人にトイレを掃除させてもいけないだけでなく、
家の主人が自宅に敷地内にあるトイレを自分で掃除しても「権利侵害」だ、と無頼の徒が押しかけてくる。

生成りのチョッキを筋骨隆々の裸の上半身も露わにひょいといなせに羽織り、
勇猛果敢なる無頼人生を誇るがごとき肉体の斬傷を見せびらかしつつ、
棍棒やら三日月刀を片手に振り回し、土煙を上げて殴り込まれる憂き目に遭う。


或いは「汲み取りストライキ」を起こされ、数日のうちにたちまちトイレが糞であふれ、
生活に支障が出るほどの悪臭の中でわが身を呪う羽目となる。

或いは代わりに汲み取り作業を担当した使用人か買い取り業者が、これまた襲撃を受け、半殺しの目に遭う。




「糞道」には、三種類あった。

1、「旱道」: その地域内の便所の汲み取り権を決めた範囲。
2、「水道」: その地域内のおまるを洗い、毎月報酬をもらう権限のある範囲。その価値は低く、旱道の市場価格の半額しかしない。
3、「跟挑道」: 「水道」糞夫に付き従い、おまるを洗った洗い汁を桶に受ける権限のある範囲。
  おまるを洗った汁の中に含まれる糞は、水のように薄く、その権利の値段は100元ほどしかしない。


つまりわかりやすくいうと、ある家庭のトイレを「旱道」権を持つ糞夫がまず汲み取りにくる。
次にこれとはまったく別の概念として、
「水道」権を持つおまる洗いの糞夫とその後ろに天秤棒の桶を持って付き従う「跟挑道」権を持つ二人がやってきて、
洗う労働報酬を稼ぎ、その洗い汁を受け取る。



・・・・恐らく当初は汲み取り夫がおまるを洗うことなどなく、ただ単に糞だけ回収して行ったことだろう。
ところがそのうちにさらに都会に農村人口が押し出されてきて、
食うに困る人々が幽鬼のごとく胡同の中を徘徊するようになる。

当初は各家庭の主婦や使用人が各自でおまるを洗っていたのだろうが、
汚い仕事だから誰だってやりたくてやっているわけではない。

そこに「おまるを洗わせてください」と頼み込む人間が現れ、
値段もそれほど高くなければ、「じゃあお願いするわね」ということになる。

それでもまだ職にあぶれて食えない人間が、さらにその洗い流した水さえもらっていくようになる・・・・。
そしてそれが「業種」として規範化され、「既得権利」に値段までついていくようになる・・・。


おまるの洗い汁の最後の一滴にまで生活を賭ける人間が存在するという壮絶さに絶句せずにはおられない。
資源の最後の一滴まで拾い集めなければ生きていけない過酷な現実がそこにある。



すべての「糞道」がここまで細分化されているわけではない。

場所によっては、汲み取り「糞道」の中に「水道」の権利も同時に含まれており、
一人の人間が同時におまる洗いの報酬を受け取ることができる場合もある。

あるいはおまるを使わない便所の多い地域もある。
その場合は、汲み取りがめんどうとなる。

おまるを傾けるだけというわけにいかず、勺でほじくりださなければならない。
厳寒の冬なら、外にある便所では糞も凍ってしまい、
突きもりのような尖った長い柄のついた道具でがっがっと糞を突き壊して回収する壮絶な労働が待っている。

しかもおまる洗い代を別途徴収することもできない。
このためにおまるのあるなしも「道」の価値に影響した。


      


「道」の値段は、時代によって違うが、前述の人口密度の事情のため、
清代(旗人しか住まぬ、商店なし)は安く、民国時代には高騰した。

光緒年間には1糞道あたりわずか銀5-6両でしかしなかったものが、1920年代には5-600元に値上がりしたのも、そういう事情あってのことだ。
・・・産出量の単位が違うのである。


「道」の価値を決める要素は4つ。
即ち地域の繁華度、戸数の多さ、産出量、おまるの有無である。

これにより三等級に値段ランクが分けられた。

1等級:内城の一等地にあり、商業繁華街で店舗が多く、人の出入りが激しい上、人口密度も高く、多くの住民がおまるを使用している。
   価格は5-600元前後。
2等級:あまり繁華な場所ではなく、おまる洗いの権利が「水道」として、分けられているため、収入が少ない。
   価値は洋銀300元程度。
3等級:城のやや辺鄙な地域にあり、貧民居住区。産出量、品質ともに劣る。
   価値は200元程度。


貧しいと、糞便の量まで少なく、さらに質まで悪いとは初めて認識したが、市場価格に影響する重要要素とは驚きである。


            

             写真: 解放後の汲み取り夫。時伝祥(後述)




糞夫の商売道具は手に4尺(約1.2m)余りの「糞勺」を持ち、背中に細長い桶を背負う。
桶は長さ3尺(約1m、図参照)、直径1尺(約30cm)あり、中にはおおよそ80斤(約40kg)入れることができた。

左肩に桶を背負い、右手に長い勺を持つのが、標準スタイルだ――。


             
           


しかしこのスタイルは、桶の口が首と同じ高さになり、
悪臭の直撃を受けるわ、少しでも足元がすべると、頭からもろに桶の中身をかぶるわ、
という惨事が起きることになるため、ふさわしくないのでは、という議論がなされたことがあった。


天秤棒の両側に小さめの桶をかついではどうか、という提案が世論から出されたが、
改革されることなく、最後までこのスタイルで終わった。


天秤棒の案が受け入れられなかった理由のひとつには、
天秤棒は南方人の筋肉構造に適した道具であり、専門に発達した筋肉が必要だということがあるのではないか。

アジアのどこかで、旅行中にでも天秤棒の両端に水を満タンにしたバケツを2つぶら下げ、運ぼうとした経験のある人ならわかるだろうが、
素人が簡単に持ち上げれるものではない。
腰におもりがぶら下がったが如く血液の鈍い充足感で骨盤あたりが熱湯で満たされる感覚を覚えるが、
さらに力んでもおいそれとは持ち上がらない。


これと同様に北方人は天秤棒をうまく操作するスキルを持っていなかったことが考えられる。

南方は船で移動することが多く、子供のころから下半身の筋肉が鍛えられ、安定感が強い。
まさに「南船北馬」の俗語どおりだが、
だからこそ天秤棒で桶の中身もこぼさず運ぶことができるのである。

大人になってから初めて北方人が天秤棒を担いでも、そのための筋肉が発達していないために、
そう簡単に安定感を出せるものではない。

激しく揺らして、さらにあちこちに糞尿を撒き散らさずにはおられないだろう。


加えて狭い路地を行き来するには、背負いスタイルの方がバランスがとりやすいのだと考えられる。


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2003年、恭親王府近くの護国寺街の道端に老人が座っていたので、許しを得て、中を見せてもらった。
長い通路の奥に入っていくと、立派な門構えに突き当たった


 

護国寺の向かい当たりにある平屋。雨漏りするのか、ビニールシートをレンガでとめただけの簡単な処置で手当てしている。

これもおそらく今は、ぴかぴかのテーマパークのような四合院に変わっているエリアかと思われる。
恭親王府の近くにあり、観光地再開発に組み込まれているはずだ。









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写真: 2003年。西単の宏廟胡同。四合院風の二階建て。一見、閑静な官公庁街ながら。。。



裏手の方は一面、瓦礫の山




    




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写真: 引き続き、2003年。西単の取り壊し現場。


 








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2 コメント

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天秤棒 (毛沢山)
2011-06-15 09:32:21
うちの近所の中国人のおじさんやおばさんは、ペットボトルの沢山入った袋を天秤で下げながらゴミ箱巡りしてます。
軽いから大丈夫のようです。
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さすが南方 (doragonpekin)
2011-06-15 12:08:09
>毛沢山さんへ

さすが南方ですね。
北方でも老人たちはペットボトル拾いしますが、やはり麻袋を1つ手に持つだけで、
天秤棒スタイルは見たことないです。
未だ天秤棒は健在なんですねー。
返信する

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