いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の西陵6、雍正年間にチベット直接支配

2016年01月15日 22時16分52秒 | 北京郊外・清の西陵
次に雍正帝が即位直後のごたごたでてんやわんやになっている時、
今度は青海が不穏になり出した。

これまでチベットを支配していたホシュート部は、
元々の根拠地は青海の草原である。


青海は崑崙山脈の南、チベットの北側にある。


現代でも青海省からチベットを目指すとわかるが、
青海というのは、もう見事なくらいになああーんにもないところである。

人もまばら。
見渡す限りの石ころの不毛の大地か、草原か。

標高が3000m以上あるため寒冷地で、さらに雨もあまり降らず、なかなか自然の厳しい土地だ。
この環境下で農業は厳しく、遊牧にしても北のジュンガルよりもさらに厳しい。
緯度は低いが、標高が高いために気温が低いからだ。

同じ遊牧をするにしても、家畜も人間も厳しいのだろうと、現地では実感できる。


ところがそんな青海省の省都の西寧からチベット高原へ南下して行き、
高山病に苦しみながら高い山を登り切って、さらに南の方に下がって行くと、
急に畑らしい農作地帯が見えて来て、ラサの喧噪が現れる。

つまり青海と比べて、チベットは豊かなのだ。
農業もできるから食糧の生産性も高く、人口も多い。

労働をしないラマ僧という有閑階級を食わせて学問を発展させたり、
食べ物を生産しない職人という階級を養って、美しい工芸品や生活雑貨を作らせられる余裕がある。
さらにはヒマラヤを超えてインドというさらなる一大文明圏とも交易が持てる・・・。

厳しい土地で日々を生き抜く青海の剽悍なる遊牧民が、
財宝とこれからも未来永劫に無尽蔵に取り立てられる豊かな税収を目の前にして、
命がけで征服しに行くことは、ごく自然な流れだろうし、
四方を断崖絶壁に囲まれて敵の襲来が少ないチベットの民が、征服されてしまう方が多いだろうことも容易に想像がつく。


 

 泰陵の土饅頭の周囲の城壁。
 下から勢いよく松が伸びてきています。



このように北からの敵の攻撃に対しては、康熙帝がかなり強固に仕上げたと言っていいだろう。

ところが雍正帝の時代になると、戦線は主に西に移る。


雍正帝の即位前後、ジュンガルがチベットに侵攻、
ジュンガル軍8000人に対し、清朝は全土から30万人もの大軍を動員して、これを阻止した。

北路はジュンガルを、中路はウルムチを、南路はチベット高原を目指した。


その際に件(くだん)の雍正帝の最大のライバルだった14皇子・胤[ネ題]が、
撫遠将軍として西寧駐留となったのである。


30万人という途方もない規模が目前に迫り、ジュンガルのツェワン・アラプタンは、
戦わずして、軍隊をさっさと引き揚げさせた。

ジュンガルが侵攻する前、チベットはモンゴルのホシュート部の支配を70年近く受けていたが、
これ以後、チベットは初めて清朝の直接支配を受けることとなる。
康熙帝が崩御した年、康熙61年(1722)のことである--。


ところでホシュート部も「4オイラト」の部族の一つとして、ジュンガルとは同じオイラト部の一部族である。
ジュンガルとも互いに複雑に婚姻関係がある。

ジュンガルのガルダン・ハーンの母は、ホシュート部の長グシ・ハーンの娘、
次のハーンとなったガルダン・ハーンの異母弟のツェワン・アラプタンは、ホシュート部のラサン・ハーンの姉を妻とし、
自分の娘ボロトゥクをラサン・ハーンの長男ガルダン・ダンサンに嫁がせた――、
と言った調子である。

時には敵、時には親戚のずぶずぶの関係である(笑)。






 泰陵の土饅頭の上。
 荘厳な松の木が生い茂っている。


青海のホシュート部にとって、チベットというのは、
永遠にじゃんじゃん財宝が出て来る、打ち出の小槌のような存在であったかと思われる。

だからこそ、それをジュンガルが奪いに来た時には、
なりふり構わず、清朝の皇帝に泣きついて、ジュンガルの侵略の非を訴えた--。

一方、清朝にとって、遥か遠くの地の果てにあるチベットを手中に納めようと納めなかろうと、
税収という点からいえば、あまりこだわりはない。

豊かさで言えば、それこそ目も眩まんばかりの富を生み出す
中原や江南の世界有数の生産基地を手中に納めているわけだから、チベットなどにはあまり興味はない。


困るのは、チベットの持つ仏教の精神リーダーとしての影響力である。

ジュンガル部はただでさえ、軍事的に強大な力を持っているのに、
さらにダライ・ラマやパンチェン・ラマと言った、全モンゴル人が崇拝してやまないカリスマをその手中に把握され、
影響を及ぼされた日には、清朝の屋台骨さえ崩れかねない。


事実、康熙帝を悩ませたガルダン・ハーンは、チベットの高僧ウェンサ・トルクの転生として、
チベットでパンチェン・ラマとダライ・ラマ5世に師事したという経歴をもつがため、
生涯に渡ってチベット宗教界高層の支持と擁護を受け続けた。

そのために康熙帝も、ガルダン・ハーンの扱いには神経を尖らせずにおられなかった。


それが清朝廷のチベット出兵の動機であり、
ジュンガルを追い出した後は、その主権をホシュート部に返さず、
自らが直接管理するという形にした理由もそこにある。


しかしホシュート部のロブサン・ダンジンは次第に不満を深めて行った。




 木の根本を見ると、遥か下に見える!
 よくぞここまで伸びてきたもの!



雍正帝が即位の正当性を巡って、喧々諤々の激しい兄弟喧嘩で取り込んでいるところに、青海で問題が発生した。

雍正元年(1723)、青海ホシュート部のロブサン・ダンジンが、
ホシュート部の他のタイジ(副格的リーダーの称号の一つ)との紛争をめぐって、
ジュンガルに援軍を求めたという知らせが入った。


前述のとおり、清朝廷が最も警戒するのが、
ジュンガル部が青海、ひいてはチベットに関わってくることである。

これを機に雍正帝は再び大軍を派遣。
青海を制圧すると、青海も清朝の直接統治とし、旗に編成、兵士の末端に至るまで八旗軍の佐領に組み入れた。

これによりチベットと青海まで清朝の直接軍政下に入ったのである。


雍正帝の陵墓の建設の前後の西北戦線は、
シルクロードの入り口、トルファンやハミとなっていた。

そこで侵入してきたジュンガル軍と一進一退の攻防を繰り広げていたのである。

康熙年間のウランブトンの戦いは、
当時、ジュンガルがモンゴル高原を占領していたために、
真北からそのまま真っ直ぐ南下してきたから、敵はウランブトン――つまり北京の真北からやってきた。

しかし今、前線は西にある。
そこでふと不安になったのが、北京の西側の防衛だったのではないか、ということになる。


 

 泰陵



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2 コメント

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この辺も (~弥勒~)
2016-05-15 21:24:46
知りたかったのです。
半世紀ほど前に、もーさんが「ちょっと待て!!」って軍隊を出して内地にしてしまった。そこの奥深いことにつながるのでしょうから。
返信する
弥勒さんへ (いーちんたん)
2016-05-16 19:38:05
あ。そうそう。
そういうことですよねー。

現地の人たちは、同騎馬民族であり、同じ宗教を奉じ、
リスペクトしてくれる満州族の支配だから受け入れたのに、
話がちがうやんか、ということになっているわけですね。
返信する

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