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いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清代の轎(かご)のお話  記事の一覧表

2015年12月27日 15時15分27秒 | 清代の轎(かご)のお話

清代の轎(かご)のお話  
『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』の翻訳中に、本書にたびたび登場する轎のことが気になり、調べてみたシリーズ。

記事の一覧表:


    1、正陽門前の大渋滞
    2、俸禄では養えない
    3、世襲の轎夫
    4、恭親王のやんちゃな轎夫らは。
    5、太平天国の楊秀清の轎は
    6、スピンオフ、明代・張居正


清代の轎(かご)のお話6、スピンオフ、明代・張居正

2015年12月26日 19時35分35秒 | 清代の轎(かご)のお話
スピンオフ。
清代ではなく、明代のお話を少し。


明の万暦年間の宰相・張居正のお痛の話。

万暦帝はまだ幼く、政務を自ら見れる年齢にはなく、
張居正が実質的に国の政策決定で最も大きな権力を発揮していた時期。

父親が亡くなった時、帰郷することになった張居正は、
故郷である現在の湖北省荆州まで帰るのに、32人かつぎの巨大な轎に乗って帰ったという。


  

どこの博物館かよくわからんが、これがその模型とされるもの。

轎の中は二部屋あり、寝室一部屋、書斎一部屋。
さらにキッチンとトイレもつき、中には侍童(じどう)が二人かしづき、身の回りの世話を行ったそうな。


北京から湖北省荊州までの距離といえば、当時なら数ヶ月はかかったであろう道中、
しんどい思いはいやじゃ、道中でも仕事ができないのはいやじゃ、
という気持ちはわからんでもない。


ましてや国のすべてを自分が決めているという驕り、
うなるほどの財力があれば、これくらいやらかしたくなる気持ちもわからいでもない。


このドでかい轎は、もちろん「僭越」(せんえつ)。
身分不相応の規格である。


その当時、そのことを訴えて弾劾する奏文を出した官僚がいたが、少年・万暦帝はそれを退け、逆に相手を罰した。

しかし少年皇帝は次第に成長し、
ある日、ついに年老いた張居正が、万暦帝に後を託して命尽きる時がきた。


皇帝は遺族の面倒を見ると約束して宰相を見送ったが、実際に彼がやったことといえば、
口実を見つけて、張居正の家を家宅捜査して財産を没収することだった。
その子孫は、ことごとく死刑にするか、辺境への流刑に処した。


皇帝が腹に据えかねていたのは、巨大かご一つの問題ではなかろうが、
すべてが一事が万事だったことの長年の蓄積だったことはまちがいない。


巨大かごは、うたかたの夢の跡かや・・・。


   

   前門・大柵欄。鋏の老舗ですな。


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清代の轎(かご)のお話5、太平天国の楊秀清の轎は

2015年12月19日 19時20分16秒 | 清代の轎(かご)のお話
太平天国の轎(かご)に関する逸話も伝わっている。

清末、南京を陥落させた太平天国軍は、そこを新たな首都と定め、天京と改名した。
南京を押さえただけで早速皇帝気取りで、あれこれと儀礼の決まりを作り始める。


その中には、轎(かご)に関する決まりもあり、
部下わずか25人の「両司馬」なる将校の轎(かご)を「4人担ぎの黒轎とする」と定めたことを皮切りに、
地位が上に行くほどどんどんと轎夫の人数を増やして行った。

部下25人の下っ端ですでに4人担ぎなら、上に行くほど、どんだけ増やさなあかんねん、と
気になるところである。


最高指導者の洪秀全は、「天王」と名乗り、その下に数人の「王」が名を連ねた。

その数人いる王の一人、東王・楊秀清には、「48人担ぎの黄色の大轎」である(爆)。
出かけるたびに48人が王を担いだ。

夏の暑い時期には、轎の踏み台の部分にガラスを敷き、その中に金魚を泳がせたその名も「水轎」を作らせたという。


毎回の外出には、48人担ぎの轎だけでなく、その前と後ろにもさまざまな小道具を持った家来の行列が数里も続き、
一年中、縁日が来たような様子。





いやああ。
いつの世も成り上がり者っちゅうんは、やってくれますねー。



  


これは、クレイジーな成り上がり将軍の轎ではなくて、普通の轎でしょうな。



一方、太平天国の天王・洪秀全は、ほとんど宮殿から出ることがなかった。
宮殿内では、並み居る美女らに金[上に夫二つ、下に車]を牽かせて移動したという。


宮殿から実際には、ほとんど出ることがないとはいえ、
最高規格の轎(かご)、「龍鳳黄輿」が随時、用意されていたことは、いうまでもない。


実質のNo.2か、影のNo.1と言われた東王・楊秀清が48人担ぎだったのだから、
No.1の洪秀全が何人担ぎだったかというと、なんと64人ー!


64人って、あーた、一人一人の力がちゃんと轎(かご)に反映されるんですかね、というくらい
必要ない大人数なんとちゃいますかー、と言いたくなる。


その64人一班が牽きまわせる距離はわずかなのか、何班も交替要員が用意された。
牽き要員「典天輿」の所属は、1000人。



その前後を馬に乗って誘導する「典天馬」の所属は、100人。
さらには「典天鑼」・・・・これは、銅鑼(どら)を鳴らす係りでしょうな。
それに「典天楽」、楽隊でしょうな。

そうやってあれこれと官僚を用意していくと、天京の文武百官の数は、31万人に達したという。


洪秀全は天京に11年間滞在し、この「典天輿」に所属する1000人余りの屈強な男たちは、
いつでも担げるように待機していたが、その出番はたったの一度しかなかったという。

それは病気になったという東王・楊秀清を見舞いに行った時のみ。



前述のとおり、天京の文武百官は31万人にも達したというが、太平天国軍は、さらに勢力を拡張すべく、北方に転戦中だった。
この時、転戦を指揮していた林鳳祥と李開芳の率いる北伐軍の兵力はわずか2万人。


おい!


どこもかしこも間違った勢力配置がどうなったかは、歴史が示すとおりとなったとさ、ってか。





前門・大柵欄。
「中国の映画館、発祥の地」だそうな。



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清代の轎(かご)のお話4、恭親王のやんちゃな轎夫らは。

2015年12月08日 16時51分03秒 | 清代の轎(かご)のお話

清末、八ヶ国連合軍が北京になだれ込んできた時に、
戦後処理を一身に受けて立った恭親王・奕訴(点なし)にも轎夫(かごふ)にまつわる逸話が伝わっている。

前述の世襲の話ではないが、優れた轎夫(かごふ)はなかなか代わりがいないという面から
少しくらいのわがままの通ったらしいことを思わせるエピソードである。



ある日、恭親王が轎に乗って外出すると、その前方にいるのが、兄の轎であることに気が付いた。

恭親王・奕訴は、道光帝の第六皇子。
その兄で成人したのは二人しかいない。


第四皇子でこの時は皇帝になった奕(言+ウ冠+丁)、咸豊帝。
西太后のだんなと言った方が、わかりやすいかも(爆)。


もう一人は第五皇子の奕誴(言宗)。
惇恪親王・綿恺(嘉慶帝の第三皇子、つまりは自分の叔父さん)に跡継ぎがなかったので、養子に出され、
「惇勤親王」の地位を継ぐ。


これがいつの話かはわからぬため、咸豊帝がすでになくなっている時なら、どの道、咸豊帝のはずはないし、
もし存命の頃でも、皇帝様が城中を軽装の轎でうろうろしているはずもないから、
どうやら第五皇子の惇勤親王のことかと思われる。


恭親王・奕訴(点なし)が先方に兄の轎(かご)発見した話である。


恭親王は轎夫(かごふ)らに、前方の轎は兄のものだから、追い越さないように、と声をかけた。

ところが屈強なる四人の男どもは、
「あなたの兄さんでも、我らの兄さんにあらず」
とうそぶき、どんどんと速度を上げ、さっさと追い越してしまったという・・・・。



家に帰ると、恭親王は轎夫らを叱りつけ、尻をいくらか板で打ちつけた。


翌日になると、今度は兄の惇恪親王が、おまえのうちの轎夫四人を貸してくれ、と連絡してきた。


惇恪親王は轎に銀の塊をパンパンに詰め込むと、
四人の轎夫が逃げ出せないように、周りを見張りで固めた上、無理やり、北京城中を練り歩かせた。

四人がもうしません、と降参して根を上げるまで許さなかったという。



惇恪親王は、言ったそうな。

昨日、弟がすでにおまえたちを板で叩いて罰したと聞いたから、もう板打ちはなしじゃ、もう帰りなさい、と。


・・・・恭親王のこのエピソードから感じ取れるのは、
轎夫(かごふ)らの主人への甘えというか、両者の信頼関係である。


恭親王と惇恪親王は、天子様の二人の弟。


その二人を相手に、追いつき追い越されるのチキンゲームをやらかし、
しかも主人の命令を振り切って、抗うなどということ、

本当に単なるドライな主従関係なら、銀塊を担いでの市中牽きまわしだけで済むはずがない。


つまりは三者ともに、少し「プレイ」の匂いがする。
「しゃあないな。おまえら、ちょっと悪ふざけしすぎじゃ。」
というくらいのお痛。


深い信頼関係で結ばれていたのではないか、と思わせる話ではないか。


恭親王の「俺様」な轎夫の話を見て、そんな風に想像したのであったが、
偶然にも江戸時代の本を読んでいたら、よく似たような話が出てきた。
それを見ると、どうやら需要と供給のバランスという問題もあるようだ。



「お江戸は日本最高のワンダーランド」増田悦佐 講談社


本書によると、江戸城に大名を送り届ける駕籠かき人足のことを陸尺(ろくしゃく)と呼び、
仲間同士で独自の社会を形成し、殿様のご意向などそっちのけで、
仲間とのスピード競争にかまけ、殿様を駕籠から放り出してしまうこともたびたびだったという。


宇都宮藩の家老・間瀬和三郎が、江戸城に登城する際、
何度も急ぐなと諌めたにもかかわらず、駕籠かきがスピードを出しすぎ、
蹴つまずいて陸尺は大けが、自分も駕籠ごと地面に放り出された。


しかしその処分は、罰するどころか、
「不埒ながら、けがをしたのかかわいそうだ」と
見舞金を出すだけで沙汰やみ。

・・・なんだか似たような話ではないか。



本書によると、大名や各藩の家老が集まる江戸では、常に駕籠かき人足が不足気味。

完全な売り手市場となっており、この人足を首にして、別の人間を雇ったからと言って、
次も無謀野郎しかやって来ない、ということらしい。


江戸時代の無謀な駕籠かき人足と恭親王の轎夫(かごふ)。
その社会的な背景は、まったく一緒だったのだろうか?


私は清末の中国の方が、労働力は過剰だったのではないか、と思える。
街に乞食がいたり、まだ奴隷制度が残っていたり。


お痛をしたら、板でぶったたいたりできるだけ、雇う側に権威があったような印象を受けるのだが、どうだろうか


お江戸日本は世界最高のワンダーランド (講談社+α新書)
増田 悦佐
講談社








前門・大柵欄。

正陽門前の大渋滞というのは、このあたりのことですな。

清代の轎(かご)のお話3、世襲の轎夫

2015年12月06日 14時55分49秒 | 清代の轎(かご)のお話
轎(かご)の種類を調べようと思い、人数が多いもの、と上を見ていくと、
皇帝さまの36人牽きの玉[上に夫二つ、下に車]にたどり着いた。



  


これは輿(こし)、肩に担ぐのではなくて、車輪がついていて牽くものみたいですな。
 

[上に夫二つ、下に車]というのは、所謂だんじりのような集団で引っ張る牽き車。


これは乾隆帝が天壇に祭事に行く時の様相。
[上に夫二つ、下に車]は36人で牽き、道中交替するための班が十数班もあるため、牽き夫は総勢数百人。



  



輿(こし)の最高規格が、礼輿。
皇帝が儀式などに乗り、こちらは16人かつぎ。


しかし毎日の日常にこんな大仰な体制では効率が悪いので、紫禁城の中で乗っていた歩輿がこれ。



 



紫禁城に行ったことのある人なら納得いくだろうが、城内は、けっこう狭い路地も多いのだ。
両側が赤壁で遮られ、でかい輿では出入りできないというわけである。



清代以前まで、官衙(かんが、役所)での轎夫の職は、世襲制が多かった。
それは最高の乗り心地を提供するための「担ぎ技術」、または行儀作法の習得には、長い時間がかかったからだという。


具体的な作法の例:

1、ぎゃあぎゃあと大きな声でしゃべらない。

2、すべての轎夫が、リーダーである轎頭の音頭に合わせ、担ぎのタイミングを合わせることができる。

3、坂道の上がり下がりには、「轎杠」をたたいて合図とする。拍子木のようなもんですかね。。。

4、轎をおいた後、主人が出て来られるように、前の轎夫がさっと横にどく。
  これは轎の入口が進行方向に向けて空いているタイプの轎の場合ですかね。

5、匂いの強いものを口にしない。にんにく、ねぎ、ニラなど。。。
  すだれ一枚で隔たれているだけ。夏なんかわんわん匂って来たら、最悪そうー。納得(爆)。

6、屁をこかない、かーーーっ、ぺっ!! と大きな音で痰を吐かない。

  ---ってー。当たり前やがな、と思ってはいけないところが、文化の違いですがな。

  しかしこういうことは、不愉快だからやらないように、という職場も存在したことはしたのねえええ、と思うと、
  そりゃそうだよなああ、と納得もする。


  生活レベルが上がっていけば、こういうものを聞いて、一日中気分が悪くなる人も出てくるだろう。



清代の宦官の話などを見ていると、元々は貧しい農民の子供だったのが、
10歳くらいから宮中で行儀見習いに入り、先輩宦官や師匠に叱られ、お尻を板でばんばん叩かれながら、
5年10年くらいかけて躾を完成させていく様子が伝わってくる。

宦官は、もう男でなくなってしまった以上、
どんなに嫌気がさしても、つらくても、もう世の中のどこにも行くところがないから、
歯をくいしばって耐え、だからこそ大成もしたのでしょうね。


さもなければ、現代でもこちらの経営者にとって頭の痛い離職率の高さではないですが、
せっかく苦労して躾けても、さっさとやめられて、結局は物にならない、というパターンではないでしょうか。



社会の一般として、こういう躾が浸透していないなら、10歳前後から住み込みでばしばし躾けていくか、
いっそのこと世襲制で、おとんが小さい頃から仕込んでいく・・・・・。
自然とそういう形におちついたわけですな。。。




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清代の轎(かご)のお話2、俸禄では養えない

2015年12月05日 13時38分11秒 | 清代の轎(かご)のお話
清代の随筆集《郎潜紀聞》(陳康祺)に轎(かご)に関わるこんなエピソードが紹介されている。
乾隆帝が軍機章京の呉熊光を気に入り、いきなり軍機大臣に大抜擢しようとした。



軍機処は雍正年間以後、政治の中心となった小さな部屋。
通常は6-7人いた軍機大臣が交替で当直して控え、全国の行政に関わる政策の草案を作り、皇帝に相談しつつ決めていた。

つまり国事は、6-7人の軍機大臣が政策を皇帝に提案し、皇帝がそれに同意する形ですべて決められており、
国の中枢、官僚として出世する最終ゴールと言ってもよく、
通常は六部の尚書などを歴任してきたり、今でも兼任している高官が就任した。


一方、軍機章京は、軍機処の事務処理をする実務部隊、体力仕事なので、通常は若い駆け出しの官僚が担っていた。


そんな駆け出しがいきなり抜擢されたのだから、
「ごぼう抜き人事」もいいところなのだが、乾隆帝はよくこういう人事をやっている(笑)。


これに反対したのが、当時の軍機大臣の領班(筆頭)だった和[王申](ヘシェン)。

元々は自分も「ごぼう抜き人事」で乾隆帝に大抜擢されたのだが、
呉は自分とライバル関係にあった阿桂(アグイ)に近いために、面白くなかったのである。


呉の軍機大臣への任命に反対する理由として和[王申]が挙げたのが、
「呉熊光は家が貧しく、轎を用意できないのではないか。」
ということだった。


軍事章京というのは専門職ではなく、あくまでも兼職であり、
すべての章京には正式なほかの官職があり、章京の任務はおまけ、という建前になっている。


呉熊光のその本職の方の官職は、通政司参議、官位は五品でしかない。
これは章京としては、ごくまともな地位であり、
それくらいの年齢と立ち位置の、馬力のある若手が下仕事に精を出したわけである。

当初、和[王申](ヘシェン)が呉熊光の軍機大臣への任命に反対した理由は、
呉熊光の官位は五品でしかないため、ほかの軍機大臣とつり合いが取れない、というものだった。



ご最もな理由である。
ほかの軍機大臣らは皆、大学士、尚書、侍郎などの一品か二品くらいはある高官が務めているのだから。


ごぼう抜き人事の代表格と言われていた自分でさえ、さすがにそこまで脈略ない人事ではなかった。


乾隆帝に見初められてから、まずは乾清門の御前侍衛から始め、副都統を兼任。
次に正藍旗副都統になり、それから戸部侍郎に任命され、その次がようやく軍機大臣である。

その期間が確かに短かったとはいえ、一応は段階を踏ませたわけである。
しかしそれから40年ほど月日が流れており、この呉熊光の抜擢は
乾隆帝の最晩年の話なので、80代のじいさま、かなり耄碌していたことも考慮に入れる必要がある。
実際、乾隆帝の最晩年の認知症の症状も記録されている。


それは本文とは関係ないので、どうでもいいことなのだが。。。




和[王申](ヘシェン)に呉熊光の官位が低すぎると言われた乾隆帝は、
即座に「三品まで上げろ」といい、官位を上げてしまった。


皇帝様のご執心に、次に和[王申](ヘシェン)が用意した言い訳が、
「呉熊光は家が貧しく、轎(かご)を用意できないのではないか。」
ということだったのである。





「轎(かご)が用意できないのではないか」という言葉から、
いくつかわかることがある。



1、京師(北京)勤務の高官は、出勤に轎(かご)に乗って行くのが慣例だったこと。

2、轎を用意し、維持し続ける経費が、ひどく高かったこと。

3、官三位に昇級しても、それが用意できないくらい高価だったこと。

4、それでもすべての京官が轎で出仕していたということは、
  どこかしらからそのお金を工面していたこと。

5、逆に言えば、官僚としての給料以外にどこかから工面して来ないと、
  体面さえ保てない仕組みになっていたこと。


ひとりの人間を担いで長距離を移動するわけだから、
最低でも前後に二人ずつ、四人の轎夫(かごふ)を雇わねばならず、
衙門(役所)への通勤の行き帰りのほか、外出して社交の場に顔を出す時も、
轎で出かけていくことが、身分の証になっただろうから、午後や夜も使うことがあったのだろう。


そうなると、パートタイムというわけにも行かず、最低でも4人、多いと8人の人間を一気に雇い入れ、
常に養い続ける必要がある。


それは確かに官僚ひとりの俸禄では、苦しかったに違いない。
しかしそれでもほかに収入があることを前提に、社交界が成り立っていたということになる。



ちなみにこの後、乾隆帝は「轎が」とごねる和[王申](ヘシェン)を黙らせるために
呉熊光に銀千両を褒美として出し、轎の支度金とさせたという。

再び白塔寺

 

 
 数年前の写真ですが、お化粧直しをしていました。
 
 




 

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清代の轎(かご)のお話1、正陽門前の大渋滞

2015年12月04日 10時30分11秒 | 清代の轎(かご)のお話
実は1年ほど前から、とろとろと清代を舞台にした歴史小説『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』の翻訳に関わっており、
出版されることになった暁には、このブログでもお知らせできたらいいなあ、などと思っています。

しかし今のところ、まだ引き続きとろとろと苦しみながら、訳を続けております。


さて。
訳の調べものをしている過程で、清代の轎(かご)について、興味が湧きました。
本書の中に、轎に乗るシーンが何度も出てくるからです。

清代も官僚は京官四品以上は全員「早朝」(朝政)への出席が義務付けられていました。
つまり皇帝を中心とした、朝の政務の質疑応答ですね。

清代、京城の内城に住めたのは、満人を中心とした八旗人だけですから、
科挙に合格して全国から集まってきた漢官は皆、正陽門より南の南城に住んでいたわけです。


朝政の開始時間は、大体朝六時ごろ。
朝政に間に合うため、朝三時、四時には起き出し(ひえええ)、
正陽門が開く朝五時前には、門前に長い轎の行列ができていた---。

清初、康熙年間の高官・王士禎の詩にこんな詩があるそうです・・・。
 
 「行到前門門未啓  前門まで来たが、門が開いていない。
  安坐轎中喫檳榔  安らかに轎の中に座り、ビンロウを喫す。」


ビンロウを喫すとは、現代でいえば、
ガムを噛んだり、タバコで一服するような感覚ですかねえ。

朝の通勤ラッシュ時間、正陽門前で轎が大渋滞を起こしていた--。
いつの時代もよく似たようなものなのですなあ。


 

 白塔寺



ところで、ビンロウの話が出てきたので、
少し轎(かご)から逸れて、ビンロウとは何ぞや、という気になる点をはっきりさせてから
次に進みたいと思う。


ウィキペディア「ビンロウ(檳榔)」より。

 「檳榔子(ビンロウし)を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ(コショウ科の植物)の葉にくるみ、
  少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。

  しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、
  唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。

  この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。
  ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。

  しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。
  そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す。

  檳榔子にはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、
  タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。

  石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える。」


  


ビンロウを喫する習慣は、一般に東南アジア、台湾、インドなどの熱帯/亜熱帯地域で見られ、
ビンロウの木自体が、気温がかなり暑くないと自生しないものらしい。


北京は農耕北限線を越えたユーラシアのステップ草原の南端にあり、
そんなものが生えているはずもなく、ビンロウを食す習慣は一般的とは言えない。



ポピュラーなのは、最北端で湖南/湖北あたりまでかなあ、という印象である。


それでも現代の北京でもタバコ屋さんや新聞スタンドなどに「檳榔」と書かれた張り紙を時々見かけるし、
北京でまったく手に入らないわけではない。


私の中国人男性の知り合い34歳、テレビ関係者、こてこての東北男は、ビンロウのヘビーイーターで
「ビンロウを食べ過ぎて、口の中が切れてんだ。辛い物はやめてくれ。」
などとしょっちゅう言っている。

そういう生まれと育ちにまったく関係なく食す人もいるらしい。



ちなみに前述の詩を書いた王士禎も出身は山東省。
ビンロウ喫しの盛んな地域とは言えない。

黄河以北の華北地域で、どれくらいビンロウ喫しが盛んだったのか、というテーマは、
別途、考察してみたい面白いテーマですなああ。



  

再び白塔寺







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