いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬21、高士奇の生い立ち

2016年11月12日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

えええー。
陳廷敬さん周辺の事情については、大方のことは書き終わりましたかねー。
また思いつき次第補充するとして、一旦は陳廷敬さんから離れようと思います。

次に『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』のほかの登場人物について、
興味の赴くままに書いていきますー。

一発目、今日からしばらくは高士奇に関してです。


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『紫禁城の月』に登場する人物の中でも、高士奇の存在はひときわ異彩を放つ。

陳廷敬のようなキャリア組とは違い、科挙に合格するという手順なしにひょんなことから満洲貴族経由で推薦を受け、
あれよあれよと言う間に出世の糸口をつかんだ人物である。

官位は高くなく、国政への影響力はないものの、終始天子からのご寵愛篤き存在。

――日本的に言えば、「茶坊主」。
外来語でいえば「コンパニオン」のプロ中のプロとでもいうべきか。


高士奇のどこがそんなに康熙帝にとって覚えめでたかったのか……。
 
本書の中でもさまざまなエピソードが紹介されているが、もう少し詳しく見ていきたいと思う。


まずは生い立ちから。

高士奇。字(あざな)は澹人、号は江村、原籍は浙江余姚。
順治二(1645)年に浙江余姚樟樹郷高家村(現在の慈溪匡堰鎮高家村)に生まれた。

--生まれ故郷の村は今でも「高家村」ですか。
まさに村中皆「高さん」という村。

これだけ一族が集まり住む村だと、祖先の軌跡も比較的はっきりと伝わっているらしい。
高家村の子孫は北宋『靖康の変』の時、汴京(河南開封)から浙江慈溪に南遷してきたと言われる。

『靖康の変』といえば、北宋の首都汴京に金の大軍が押し寄せて徽宗を拉致し、そのまま満洲へ連れ去ってしまった事件。
これ以後、宋は長江以南のみを領土とし、首都を臨安=杭州に移した。

この時に首都の人々が金の支配下に入ることを潔しとせず、大挙して長江を渡り、南方に移住した。
つまりは都で元々、支配階級に近い、よい暮らしをしていた一族ではないかと思われる。


地図で位置関係を確認しておこう。







高士奇の出自に関する記録を見ると、とにかく「出自が貧しい」ことが強調されている。

しかしそもそも科挙の受験などというものは、本物の水飲み百姓なら到底準備できるものではない。

私塾に通わせるだけでも費用は馬鹿にならないし、
生産活動もせずに働き盛りの大のオトコが何年も無駄飯を喰らうのを養うだけでも、労働者階級では到底無理な話だ。

高士奇の家が本当の「貧乏」ではなかったことを裏付けるこんな事実もある。
後に高士奇が豪華絢爛な別荘を建てたと言われる杭州郊外の「西渓山荘」のことである。
『紫禁城の月』クライマックスあたりにも登場する。

この「西渓山荘」、高士奇が都で大出世を遂げてから購入した土地なのかと思いきや、
実は高士奇が成人する以前からすでに高家が所有していたものなのだ。

--ささやかな別荘地を所有するくらいの小金は親の代からある家庭だったことがわかる。


しかし康熙三(一六六四)年、高士奇が十九歳の時に父親が亡くなったため、その後の生活が困難となった。
その頃の困窮ぶりのために「出自が貧しい」と言われるようになったらしいが、
成人するまでは、ぼちぼちの中産階級だったようなのだ。




高士奇と伝わる肖像画


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