北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い
壮大なる一大産業「糞業」。クサくも切ない男たちの奮闘の物語。
記事の一覧表:
1、世にも麗しき「飯櫃」
2、人口増加と「糞業」の発展
3、4億人口を支えたシステム
4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」
5、「糞道」制度の規範化
6、暴力集団化する糞夫ら
7、糞車改革の困難
8、北平市長、袁良登場
9、1500人の糞夫、役所前に整列
10、日本軍はさじを投げる
北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い
壮大なる一大産業「糞業」。クサくも切ない男たちの奮闘の物語。
記事の一覧表:
1、世にも麗しき「飯櫃」
2、人口増加と「糞業」の発展
3、4億人口を支えたシステム
4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」
5、「糞道」制度の規範化
6、暴力集団化する糞夫ら
7、糞車改革の困難
8、北平市長、袁良登場
9、1500人の糞夫、役所前に整列
10、日本軍はさじを投げる
清代の康熙年間から乾隆年間にかけて中国を訪れたイエズス会宣教師の書簡を読んでいると、
彼らは中国の大地で見る人々の貧しさに驚き、繰り返しそのことについて言及している。
その辺りはヨーロッパ史に詳しくないため、その究明は今後のテーマでもあるが、
中世の終わりに差し掛かり、大航海時代が幕開けたばかりのヨーロッパと比べ、
当時の中国の生産力が劣っていたとは思えない。
そこはやはり「人口密度」の問題であろう。
さらに中国の人口が多いのは、ヨーロッパ人の生殖能力が中国人より低いために人口が増えないわけではなく、
人口が増えぬ何かの要素が働いていたことになる。
乳児死亡率が高いとか、昔の日本のように生まれた子供を間引きするとか、
成人できてもペストなどの流行病、または戦争で大量に死ぬなどの調整機能があったと思われる。
ここではあくまでも主題は「糞業」のため、これ以上の詳しい論証は避ける。
中国では以上の要素がなまじ相対的に低かったために人口が増えすぎ、食べ物は少なく、
就業・雇用機会、生きるための道は少なしという事態となった。
その矛盾、努力が効果を上げぬ絶望感の中でアヘンが普及して行ったことは、よく知られる。
前文で触れたとおり日本では同じ時代(江戸時代)、
人口を増やさないために間引きなどを行い、産児制限していたが、
中国の民はその方向に発想を向けなかった。
儒教の伝統では子孫繁栄は、一族繁栄の象徴だからといわれるが、
要するに日本ほど切迫していなかったと見ることもできる。
四億の人口がその実力の何よりもの証明である。
それでも生きるための競争の熾烈な社会だったことには、ちがいない。
「糞業」なる強大な産業レーンが築き上げられたのは、眩暈を覚えるほど壮観な図であり、
「たかが糞のために何もそこまで」といいたくなるような命がけの戦いが繰り広げられたのも、
アヘンの普及と同じく、生存空間があまりに小さく厳しい、当時の社会の縮図といえるのではないか。
逆に4億の人口の胃袋を支えることができたのは、人糞回収システムだったとも見ることができる。
繰り返し作物を植えてもざくざくと収穫できる永遠に肥えた田畑がなければ、これだけの人口を養うことはできない。
人間食えなくなってくると、他国に奪いに行くようになり、小規模なら略奪、大規模なら戦争が起こる。
短絡的にわかりやすい例でいえば、ローマ帝国時代のゲルマン民族の南下であり、
中国史における騎馬民族の南下である。
モンゴル人が万里の長城を越えて攻め入ってくる時は、雪害や家畜の疫病の流行で食糧危機となった時が多い。
日本では飢饉が起きても簡単に海を渡れず、食べ物を求めて行く場所もなく、大量餓死するしかない。
そしてその反省として人口制限が行われた。
明治になり、鎖国が解かれると、飢饉で人が死ななくなったという。
中国の江南地方から米を緊急輸入したからだ。
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写真: 明瑞府の大雑居四合院のつづき。
入り口を入ると、自転車置き場が出現。
この自転車の多さを見ても、中にどれくらいたくさんの人々が住み込んでいるかが想像できる。
しかし私が見せてもらえたのは、東端の一本だけだった。
如何にもこの前立てたばかりのような簡易住宅が並ぶ。
想像するに、当初は庭園のような場所だったのではなかろうか。
そして空地を残しておく優雅さを維持できなくなり、長屋に改造した。。。。
入れなかったエリアの建物の屋根の部分から、かろうじて往年の格式が偲ばれる。
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北京城内の人間の「生理現象」の始末は、
中国の他地域同様、一連の汲み取りから肥料加工、販売にいたるまでの「糞業」に支えられていた。
北京では明代あたりから始まったと思われる。
金、元代の北京はまだ強固な城壁もなく、人口もまばらだった。
大通りの両脇には溝があり、朝晩におまるの中身を捨てても問題になるほどの人口もなかったのである。
その後、明の永楽帝が首都を北京に置いてから人口が急増し、道端に垂れ流しにするわけには行かなくなる。
加えて、古来より人糞を肥料とする習慣が定着する中国文化圏においては、
大量の糞の集まる都会を「宝の山」と見る農民がこれを放っておかなかったのも、自然の摂理である。
北京から近い山東の農民が、徐々に糞尿の回収・汲み取りを始めるようになり、「糞業」なる業種が成立した。
「糞」をめぐるトラブルが続出するのは、清代も半ばを過ぎた乾隆年間となってからだ。
遠因は人口の増加である。
周知のとおり清の康熙年間から乾隆年間にかけての100年(1662よりの100年)で中国全体の人口が大爆発する。
それまで二億だった人口が一気に四億に倍増、アヘンが蔓延していく根源にもなったと言われる。
そんな時代背景の中、北京の人口が急増したこともうなずける。
人口は増えたが、すべての人が豊かに暮らせるほど生産力は上がらず、
その需要を満たすことができるまでには、数百年の時間がかかる。
大航海時代の到来後、ゆっくりと時間をかけて新大陸から寒冷・乾燥に強い新種穀物(じゃがいも、とうもろこしなど)が普及し、
それまで狩猟か遊牧しかできなかった万里の長城の外、東北地方での農業が始まる。
これにより大量の人口を養い、大きく受け皿を広げたが、東北一つだけでは根本の解決にはならない。
抜本的な解決は第二次大戦以後、電気・石油で動く自動車・各種機械の普及によりあらゆる生産の効率が上がり、
情報の共有が実現、生産力が革命的に向上するようになるまで待たねばならない。
それまでの数百年の間、人々はひしめく群集の波の中、
壮絶な競争社会に耐え抜き、生きる道を探すしかなかったということだろう。
「糞」という世界の他地域では見向きもされない「資源」をめぐり(東アジアは別ながら、ここまで壮絶ではない)、
一つの独立した「業界」が成立したのもかかる厳しい競争のためでもあった。
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写真: 内務府胡同の「明瑞府」看板のかかった雑居四合院。
明瑞は乾隆時代の功臣、乾隆帝の愛妻・孝賢皇后の甥である。
乾隆時代のことを調べていると、よく登場する人だ。
四路四進院の合計16個もの四合院で構成される大豪邸だが、2003年に訪れた当時は典型的な大・大雑居四合院になっていた。
今はどういう状態になっているのか、いずれまた再訪したい場所である。
乾隆時代、清朝の発展に尽くした満州貴族らの重鎮の一人として、いずれは書いてみたい人物である。
入り口の保護文化財の看板。
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わ! びっくりした。。「北京情報」ランキングで10位に!
嬉しい。。。
本稿は2000-2008年前後、オリンピックに向けた再開発の嵐が吹き荒れる中、
北京で起きた「胡同・四合院・町並み保存運動」の熱が伝染し、
それに突き動かされるが如く構想したものである。
かの風潮の中でベストセラーとなった王軍『城記』(日本語訳・多田麻美『北京再造』)が町並み保存運動の参加者のバイブルとなり、
彼らはブルドーザーになぎ倒される四合院の命を救おうと東奔西走した。
独自の歴史観を持つ者の理論が、強力な説得力を持つことは、儒教の興隆でも証明できる。
諸子百家の中で老子でもなく荘子でもなく、孔子の思想が強い生命力を持ったのは、
儒家が相手を説得するために歴史の中からあらゆる先例を引っ張り出し、自らの理論証明の素材とする体系を確立したからであった。
その意味で王軍『城記』は、清朝滅亡後から今日に至るまでの北京城の『記』として、
その沿革と歴史を詳細に掘り下げ、町並み保存運動者らに理論的武器を与えた。
対する再開発側の主張は、基礎インフラの欠如による生活の不便さの改善である。
胡同と四合院には、上下水道のインフラ設備が完備されていないから、一度ぶっこわしてインフラを通しましょうね、という理論である。
確かに侵略者の日本人からして、さらには解放後の共産党政権にもその伝統はあった。
つまりなまじ数百年の歴史が重なり、緻密な都市計画で「完成」してしまっている「北京城」という歴史の産物の改造は、
膨大な予算がかかるためにあきらめ、さら地にインフラを敷き直し、そこに移り住むという伝統である。
北京を占領した日本軍が、北京城を放り出し、西郊外の五ke松の荒野に一から都市機能を作り直した例(後述)のほか、
共産主義になってからも国家機関の多くは北京城の外に建てられた。
世界的に見ると、例えばモロッコの歴史都市フェスには、
中世そのままの姿を残した旧市街とフランス人エリアが隣り合っているなど、世界のほかの地域でも見られる。
北京には「胡同串子(フートンチュアンズ)」という言葉がある。
直訳すると、「胡同の合間を縫い歩く輩」。
つまりはトイレもない、ぼろぼろの雑居四合院(スラムとまでは言わないが)の間を這いずり回る階層の人たち、
というようなニュアンスがある。
即ち以前の北京では、胡同とは中流の下から下層民が住む場所の代名詞だったのである。
社会的地位が高くなるとアパートを支給されて移り住み、
水洗トイレを享受し、シャワーを浴びることができる。
2000年以前までほとんどの人は職場でシャワーを浴びていたが、
それは雑居長屋に住んでいる場合など家に入浴施設がない人も多かったからだ。
大人の男女はそれぞれに職場で浴びるからいいとして、
では子供たちや仕事をしていない老人ら、事情があり無職の人はどうするかといえば、
街の風呂屋に出かけていくしかない。
その場合、毎日行く習慣はなく、数週間に一度という場合もあったようだ。
大陸性気候で乾燥している北京ではあまり気にならないが、「そろそろいいかげん臭いぞ」と感じるまで行かないという感覚に近い。
ということは胡同に住んで育てば入浴の習慣からして違うことになり、生活感覚がまるで違う。
それをアパート暮らしで育った階級は、軽蔑して「胡同串子」と呼んだ。
今ではそれが比ゆ的にも使われ、雑居四合院が消滅し、
実際には長屋育ちではなくても、庶民的なせこい計算高い人間を「胡同串子」と形容する。
開発側は「胡同串子」からアパート暮らしにしてあげるのだから、ありがたいでしょう、という理論である。
しかし町並みを保存しつつ、上下水道のインフラを通している例は、
京都やヨーロッパの街など枚挙に暇がなく、理由にはならない。
実際、最近は残った四合院にインフラを通し、目ん玉も飛び出るような値段で売り出し始めている。
本章ではこれでもかこれでもか、とひたすら胡同におけるトイレ、汲み取りの話を展開していくが、
それはこれまで胡同の生活が近代的インフラの欠如と同義語になっており、
切り離すに切り離せなかったからである。
雑居四合院と公共トイレの存在は、セットとして切り離すことができない。
石炭の煤(すす)で空気が灰色を帯びる厳寒の朝、
白い息を吐きながら赤い小さなポリバケツを吊り下げ、
公共トイレに向かう光景は、約束の風物詩といえるだろう。
帰りには、胡同のあちこちに陣取る朝ごはんの屋台から
油条(ヨウティアオ、揚げパン)、焼餅(シャオビン、丸い焼きパン)を買い、
片手にバケツ、もう片手に朝ごはんを持って部屋に戻る――。
夜の間、用に立ちたくなれば、外気温マイナス10度近くまで下がった野外に出た上、
数百メートルを往復するために分厚い毛糸のすててこを履き直し、
もこもこのダウンジャケットを着込んでトイレまで行くのは、あまりに酷だ。
夜の尿をバケツに済ませるのは、自然と浸透した習慣である。
新中国成立前、豪邸が立ち並ぶような高級住宅エリアに公共トイレなどなかったことは、いうまでもない。
この頃の金持ちは、路上の公共トイレで用を足してお尻を下々の者に見せるようなことは、もちろんしない。
それぞれの屋敷には、おまるとぼっとん便所があった。
かつて日本軍の兵隊が占領した中国人家庭で美しい漆塗りの模様のついたおまるを見て、
「飯櫃(めしびつ)」と勘違いした、という笑い話は中国の庶民の間に広く伝わる。
旧社会の金持ちの使ったおまるは、凝りに凝った美麗なる工芸品のごときであった。
これを部屋の隅、天蓋ベッドの下におき、使用人が定期的にぼっとん便所に捨てた。
四合院における便所の位置は、風水としては「西南角」が望ましいとされる。
一番日当たりの悪い北向きの部屋の通りに面した端部屋だ。
風水はただの迷信ではなく、成立当時の社会では「最新科学」の集大成であったはずだが、
その立場から見ても、トイレの位置は理にかなっている。
日当たりのよい南向きの位置に汲み取り式トイレがあれば、
直射日光を浴びて鼻のひん曲がるような異臭が母屋に充満したことは間違いなく、
第一、貴重な南向きの位置をトイレに占領させるのは、資源の無駄遣いが甚だしい。
人間が暮らすには不適な北向きの位置をあてがうのが、最も合理的なのだ。
トイレはご主人様たちにとっては、使用人がおまるの中身を棄てるだけの「ゴミ捨て場」であり、
使用人らはここで用を足したが、主人格の人間がめったに入る場所ではなかった。
従って如何に権勢を誇る豪邸であっても、ただの穴にレンガで両側に足場を作ってあるような粗末な構造だったらしい。
写真: ネットオークションの紹介より。
http://www.shede.com/g_956452_gd.htm
上海在住の出品者が、家の中から見つけてきた未使用と思われる新品のおまる。
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