いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い 記事の一覧表

2011年03月13日 20時00分16秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い 

壮大なる一大産業「糞業」。クサくも切ない男たちの奮闘の物語。

記事の一覧表:

    1、世にも麗しき「飯櫃」  
    2、人口増加と「糞業」の発展
    3、4億人口を支えたシステム
    4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」
    5、「糞道」制度の規範化
    6、暴力集団化する糞夫ら
    7、糞車改革の困難
    8、北平市長、袁良登場
    9、1500人の糞夫、役所前に整列
    10、日本軍はさじを投げる


胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  10、日本軍はさじを投げる

2011年03月10日 11時11分19秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
糞便事務所の改革の三大原則は:

 1. 糞業界が自発的に改革を進め、設備インフラを改善する。行政はこれに必要なサポートを行う。
 2. 糞業設備の改善経費は、糞業界自身で捻出し、行政は援助しない。
 3. 糞業設備の改善は、市民の声を反映してのことであり、公営化を進める意図は一切ない。


この「糞具の改革」を切り口として、まずは「資金集め」の名目を作ろうという作戦である。

つまりは少なくとも市民の不満の声の一つである「くささ、汚さを何とかしろ」の解決から図り、
一歩でも前進しなければ、市民が納得しないことを全面に押し出そうとしている。

ぼたぼたと糞を落としながら走る隙間だらけの茨編みのかご車、
一輪車のためにすっ転びやすい、ふたがないので悪臭天を衝く等の現象を解決するためには、
改良を経た糞具を全員に行き渡らせる必要がある、そのためには資金も必要、と。



そこで糞道の登記費と改善費という二つの名目で料金を徴収することとなった。

徴収料金の基準を決めるため、まずは糞道と公共トイレの登記が義務付けられた。
汲み取り箇所数、おまる洗い数、糞量などの5つの評価基準で点数をつけ、糞道を4等級、公共トイレを13等級に分け、値段が評価された。


徴収料金は
 登記費: 1年に1回徴収。糞道価値の6%を基準とする。
 改善費: 月に1回徴収。糞道価値の0.6%を基準とする。

登記を行い、価値が決まり、料金を納めると、市政府から無料で新式の糞具が配布される、という流れである。


1936年8月から約2ヶ月に渡り、受け付けられた糞道の登記が行われたが、
これまでの経緯からして、何の騒ぎもなくスムースに行われるわけはない。

内六区では、市から配布された糞具を破壊するという事件が起きたほか、登記と改革に反対する嘆願デモも行われた。
あるいは、登記の通知をまったく無視し、期限がきても登記に出頭しない糞道の持ち主も多かった。

これに対して衛生局では、訓戒、説得、逮捕等の硬軟を両刃で使い分けつつ、なんとか推し進めていったのである。


それでも糞道の持ち主がなかなか捕まらないケースも出てくる。

登記に出頭したくない、と持ち主が逃げ回れば、衛生局でこれを捕まえるのは、容易ではない。

そこで衛生局側でも「嫌がらせ」をする。
旧式粪具をまだ使っている者は、朝10時前、午後5時以後しか糞車を引いて通行してはいけない、と規定したのである。
登記しなければ新式糞具はもらえないので、明らかに登記しない者への嫌がらせだ。


これにはさすがに音を上げ、男どもがあぶり出された。
相手にせず、無視すればいい、と決め込んでいた連中の怒りに火がつき、
1936年10月14日朝7時、北郊外一帯の糞夫300人余りが阜成門外に集合する。

粗末な服に身を包んだ男どもは糞車、糞かご、糞桶、糞勺を道路脇に積み上げ、示威行動に出た。
悪臭は天を衝き、道行く人々が皆、鼻を覆う。


8時になるとさらに人数が増え、李建奎、尹燕慶等の糞業改革に反対する連中らが音頭を取り、
糞夫らを煽動して糞便事務所の主任、糞覇の于徳順の家に皆を先導する。

于徳順は不在だったが(裏口から慌てて逃げ出しでもしたか)、
西郊区署の署長・林雁賓が警察を率いて出動し、秩序維持のために立ちはだかった。

糞夫代表らは粪夫の通行時間の制限の撤廃を求めた。
これに対して林雁賓署長は、この事はまだ市政府の批准に通っていないから、まだ自由に通行してもよいと答えた。

林雁賓署長の説明を聞いて、糞夫らはやっと納得して解散したのである。


同じ時間、宣武門外にも200人余りの糞夫らが大集合。
男どもは糞便事務所の副主任・孫興貴の家を襲撃した。

孫興貴も留守だったが、激昂して沸き立った血の行き場所のなき壮健なる野郎どもは、もはや誰も止めることができない―――
あろうことが、孫興貴の老いた母親を引きずり出して殴打したのである。

もうこうなっては、よく中国人のいう「把良心給狗喫了(良心を犬に喰らわせた)」状態だ。
しばらくしてようやく警察がかけつけ、糞夫らもやっと解散する。



糞夫らが糞商の巨頭を襲撃したところが、あきらかに袁良市長の改革と違っていた。
糞業界の中が、二つに分断され、改革の賛成派と反対派に分かれ、内部分裂を起こしたのである。

行政側が「分断して統治す」ることに成功したのだといえよう。

デモの首謀者らは逮捕・処罰されたが、糞夫らの反抗はさらに続いた。
東郊外、北郊外一帯での抗議事件が後を立たず、行きつ戻りつの交渉が繰り返されるうちに
登記料金を甲等級については一律30%の値下げ、乙等級20%の値下げに同意した。


それでも1937年4月2日、北郊外一帯で糞夫200人余りがそれで大規模な嘆願デモとストライキを断行、
登記費の取り消しを主張した。

衛生局は主任・劉鳳祐を北郊外一帯に派遣し、糞夫らの説得に当たらせたが、
糞夫らは自らを反省しないばかりか、逆に他の糞夫らの仕事を妨害し、暴力行為に及ぶ始末である。

さらには自衛工作団を組織し、衛生局に認知するよう求める糞夫集団も出てくるに及んでは、
もはや本気なのか、シュールなギャグのつもりなのか、境目が朦朧としてくる。


予想はしていたものの、かくの如き期待にたがわぬ猛烈な抵抗を経て、
1937年4月6日にようやく西城、南城の糞夫らは徐々に仕事に戻り始めた。

ただ北城一帯の糞夫らのみが決死の抵抗を続けていた。


4月8日、衛生局の指揮下、警察局督察処、衛生局の夫役、糞便事務所の公役全員が、50台余りの糞車を引き、出動した。
ストライキを起こすなら、市が勝手に回収を始めるぞ、という意思表示である。


市政府はストライキを起こした地域の糞道はすべて没収すると宣告、これを聞いてやっと糞夫らは徐々に作業を復活させた。
また糞商らも初めて大人しく、登記窓口に登記に訪れるようになったのである。


かくの如く、「官督商弁」は糞業界側の猛烈な抵抗を経つつも何とか動き始めた。
それは今回の改革では糞商の既得権益を認め、糞夫らもこれまでと変わらず糞商の支配の下におかれ、
生活はほぼ変わらないままとしたからといえよう。

市民らのクレームを根本から解決することには至らなかったが、
少なくとも糞道と糞夫の登記により実態をつかむとともに、道具の改革の予算も捻出することができ、少しだけ前進したことになる。




このように民国時代の糞業改革は、内戦状態にある国情と相談しつつの改革であった。
この後、周知のごとく日本軍が北京を占領するに及び、再び改革は中断する。

なぜなら日本軍は「はなからさじを投げた」のである。

当時、満州では日本の内地よりもインフラ整備は進んでおり、
冬のセントラルヒーティングはもちろん、上下水道も入浴施設も完備されていた。

先にも触れたが、李香蘭こと山口淑子『わが半生』によると、
この時代に北京の裕福な家に預けられて北京の高校に通った時、最も耐えられなかったのが「豪邸」の四合院暮らしでのインフラであったという。

同じ年頃の中国人のお嬢さん2人と三人部屋となった彼女の毎朝の洗顔は、召使いが運んでくるたらいに少し入った水だけだった。
それを棄てずに3人が同じ水で洗う。

後に洗いたくがないために早起きしたが、残りの二人はその思惑にもまったく気づかないようだったという。

つまり水道の流れる水でじゃばじゃば顔を洗うことができない。


そのレベルのインフラでは、自宅に風呂があるわけがなく、
風呂は2週間に一度、週末に家族全員で風呂屋さんに出かけにいった。

その代わり、風呂屋にはレストランも併設されており、入浴後には家族全員の豪奢な食事を楽しんだ。


北京を占領した日本軍はかかる現状を見て、
顔を洗えず、風呂も入れない北京城内に住み込むことをあきらめる。

その解決のために現代でも未だに北京政府が苦労しているほどなのだ。


人口の密集し、歴史的に大いなる価値が出てしまった胡同の四合院群の下を網の目のように掘り返し、
上下水道を張り巡らせるためには、莫大な費用がかかり、未だに実現できていない。


それこそが数年前の「成片拆(絨毯式の大規模な取り壊し)」の理由にもなり、オリンピック前に多くの胡同が消えて行った口実にもされた。

私が胡同を扱うなら、トイレ問題は触れずには通れないと感じ、
これでもかこれでもか、としつこく悪臭天を衝く話を続けている理由もそこにある。

トイレの不便な生活と町並み保存運動が両立できないとされているからだ。


さて。
日本軍がこのために北京の西郊外の何もないだだっ広いさら地、五棵松にゼロから都市機能を作り直したことはよく知られる。

「四合院の生活スタイルは、日本人に適しない」ために。
この経緯は、胡同にお住まいの多田麻美さんの翻訳された王軍『北京再造』(集広舎)に詳しい。

市の行政機能がそのまますべて郊外に新築され、
日本軍の去った後は国民党が接収し、行政機能もそのまま機能させ、解放に至る。

当地の人たちは今でも自分たちの街を「新北京」と呼ぶという。


北京城内の糞夫と市民の闘争は、そのまま保留となり、新中国成立を迎えるのである。

*******************************************************************************

陶然亭公園。2003年。

かなり南のほうにあるので、14年北京にいながら、2回ほどしか行ったことがありませんが、内容の濃いいい公園だなあ、と印象深いです。




人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン 

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  9、1500人の糞夫、役所前に整列

2011年03月09日 18時26分49秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
莫大な利益に鼻息も荒くなった袁良市長が、まず取り掛かったのが、糞夫、糞道の登記である。
実態が把握できなければ、何事も始まらないからだ。

糞道の価値は売買の便利さにより決まる。
糞夫登記、糞道登記、公共トイレ登記の3つにおいて、
名前、出身地、年齢、住所、活動地域、活動道具、作業員、実際の糞道の所有者、賃貸状況などを登記させ、
実態を把握しないことには、次の段階に進めないのだが、
これが簡単な仕事ではない。


糞夫らのほとんどは文盲であり、そのために登記には言い知れぬ不安を覚え、登記したがらない。
登記を始めたからといって、皆が列に並んで待つなどはありえない。

登記を遂行するには、啓蒙活動、実地調査などを並行して進める必要があるが、
その経費が出せないのが行政の現実であったのだ。

鶏が先か、卵が先か・・・・。
うまく軌道に乗れば、放っておいても勝手に稼動し、
お金を生み出すものもシステムに乗せるスタート資金がないために実現できないのは、政治も商売も同じだ。


余談ながら、半年ほど前に中国では国勢調査が行われたが、
北京の東城区などでは、国勢調査に協力すると、粗品がもらえたそうである。

つまりは、それくらい現代でも「言い知れぬ不安のために調査を受けたがら」ず、
調査員が尋ねてきても逃げ回る人が多かったという事実を反映している。

親の代からずっとそこに暮らす地元民ならいざ知らず、外地から出稼ぎにきている人は、「いいしれぬ不安」がある。

つい最近までもマカオ返還、香港返還、オリンピック、全人代開催などのイベントがあるたびに、
正式な職場に所属しない外地の人は、北京の外に送り出された。

見つかったら終わりなので、約束しない時間に部屋をノックされてもドアを開けない、声も出さない、という人は未だに多い。

特に携帯電話の発達した今、知り合いなら、携帯に電話をかけてくるはずであり、
それさえないなら、ろくでもないことしか起こらない、とばかりに息を殺して居留守を決め込む。

滔々と歴史は流れ、百年単位程度ではぴくりとも変わらぬ現象、健在なり――。



閑話休題。
ともかくも人力、金、時間すべてが足りない現状を受け止めた結果、
一気に糞業を公営化することはあきらめ、段階的な政策を進めた。

 1、通行時間の制限
 2、糞具の改良の説得
 3、糞夫の活動範囲の登記


これにより高まる市民の糞業改革への声に応え、少なくとも何もやっていないのではないですよ、というところを示したのである。
世論では公営化への声は強くなるばかりだったが、
市ははっきりとした見解を示すことを避けつつ、水面下で着々と公営化への準備を進めていた。


何しろ、市の年間予算の40%を稼ぎ出す巨大産業の公営化である。
利益集団の捨て身の抵抗が予想され、事前に情報が漏れると、ただでは済まされないことを十分に認識していたのである。


袁良市長は「市建設三年計画」を発表してから、丸々二年たった1935年10月23日、突然新たな糞業改革方案を発表した。

 1、糞道とトイレの登記の義務付け。かつその政府による回収。
 2、公務員としての糞夫の雇用には、できるだけこれまで糞業に携わっていた人を雇い入れ、失業対策とする。
 3、新式の糞具と糞車の採用。
 4、各郊外に糞廠を作り、肥料を生産する。
 5、市民から汲み取り代とおまる洗い代を徴収する。100人の徴収員を募集し、研修を受けさせた後、職務につかせる。


2年間の準備を経た渾身の方案であった。

その内容は後に詳しく見ていくが、糞業関係者には、寝耳に水の話である。

糞商は「多くの糞夫にとっては先祖代々から続く家業であり、ただでさえ利益は微々たるものでしかない。
それを取り上げられたら、一族が路頭に迷う。

納得いく対応がない限り、断固として戦う」と、戦闘意欲満々で当日の《京報》のインタビューに答えている。

約一週間たった11月1日、平津衛戍司令部の門前に朝8時ごろから、三々五々と糞桶を背負った糞夫らが終結し始め、
午前10時ごろには、1500人を超えた。

だらだらとただ立っているのではなく、全員が右手に糞勺を持ち、左肩に糞桶を背負い、背筋をピンと伸ばし、厳かに誇り高く整列。
「糞夫の全身武装」のその姿からは、並々ならぬ強い覚悟が漲り、周辺の空気を張り詰める。

労働で日々鍛え上げた鋼の肉体から鋭く放たれる濃厚な体臭と糞夫独特の動物臭を熱気に乗せて発散させ、通り行く人たちを圧倒していた。


ついには、警察と軍隊が交通整理に乗り出す騒ぎとなり、糞夫らを解散させようとしたが、
前述のごとく、糞業界自体が暴力集団化しつつあり、命知らずの荒くれ集団を怒らせると、流血沙汰は避けられず、当局側も及び腰だ。

糞夫らは、糞業の公営化への反対を主張し、どうしても司令の宋哲元と直に話ができるまでは、引き下がらない、といって聞かない。

このためついには于安傑など12人の糞夫の代表者らが、司令部の内部に招き入れられ、
宋哲元の派遣した経理処の処長・張吉[方方土]などに直談判した。

張らは、糞夫らの主張を宋司令に伝えるように約束するとともに、
糞道の接収はまだ始まってもいないのだから安心しろ、と彼らをなだめ、
糞夫らも気持ちを落ち着かせて納得し、一応解散したのである。



その二日後、11月3日に袁良市長が突然辞任を発表した。

後釜は司令の宋哲元が臨時で北平市長を勤めることになり、
宋哲元は糞夫らへの約束どおり、糞業の公営化取り止めを宣言し、糞夫らの拍手喝采を浴びたのである。

糞夫らは全員がカンパして3000元余りを集め、「往平津卫戍司令部致謝宋司令」の扁額を贈った。

日本ならこういう場合は賞状、
現代の中国なら「錦旗(赤いビロードの旗に感謝の言葉を印刷したもの、高倉健の出演したチャンイーモウ監督の《千里走単騎》にも出てきますね)」だが、
昔は扁額である。

名所旧跡に行くと、お寺の本堂などの軒下には、有名人の贈った扁額がずらりとかけてあるが、あれである。


それにしても糞夫からの扁額なんて、どこに飾るのだろうか。世にも珍しき扁額に違いない。

宋哲元は、気前よく糞業の公営化取り止めを宣言して、男を上げたが、本心はまったくその気はない。
糞業が巨額の利益を生み出す産業であることは、彼も馬鹿ではないからよくよく承知しているし、政策を進める資金がほしいことだって同じだ。



しかしともかくも袁良以下、糞業の公営化の推進派がすべて失脚したことで、公営化政策は一旦は頓挫する。


その原因を2つの面から見て行きたい。

一つは、袁良の公営化政策そのものが抱えていた問題点、もう一つは、袁良の失脚を招いた民国の勢力図の確認である。

1933年に「市建設三年計画」を発表してから、1935年10月23日に糞業の公営化を含めた改革方案を発表するまで、
丸々二年の準備が進められたことは、前述のとおりである。

この2年の間、公営化のことはおくびにも出さず、ひたすら秘密裏に水面下で準備を進めた。
その段階で関係部署として、公安局、財政局、社会局の三局連席会議をたびたび開き、意見を聞いた。

公安局を入れたことから見ても、糞業の公営化が社会の治安まで脅かすくらい重大な措置であることがわかる。


会議でまず挙げられたのが、当然のことながら予算の問題であり、先立つものは金、資金不足である。
前述のとおり2760本ほどあると見られる糞道をすべて買い取るとしたら、96万元必要になる。

これに対して市政府が準備していた予算はたったの20万元である。
これは糞道の価値が1本当たり200-500元の市場相場であることに対して、1本当たりたった50元しか出さないことになる。
これでは糞道の所有者が納得するはずはなく、暴動が起こりかねない、と。



低すぎる賠償金への市当局側の説明は、以下のとおりであった。

 1.糞道は公共通行区域にあり、個人財産権保護の対象にはならない。
  国と市政府が糞道の財産権の先例を認めたことはなく、市政府に糞道への賠償の義務はない。
 2.1928年公布の《汚物掃除条例》では、土地、家屋内の汚物は、市政が直接処理すると規定している。

 3.そうはいっても衛生局では、人道主義の観点により、糞道の価値の最低基準を元に補償金を支払う。
  支払いは、糞便処理の公営化が軌道に乗ってから、その収益より支払っていく。

 4.当局は本来は合法的権利のない糞道を原価で賠償を予定しているのだから、感謝してしかるべきである。
  糞夫2300人のすべては局の清潔班の職員となり、
  現在と同じ月給を受け取ることができるのだから、公営化に反対する理由はないはずだ。

 5.軍隊と警察も動員し、万全の備えをするので、糞夫らは反対できないはずである。

というものであった。


糞夫側からすれば、随分とふざけた内容である。

何がふざけているかといえば、
 1.すでに既成事実として、定着して100年以上たっている糞道をまったく認めていない。
 2.1928年の規定は、政権が安定しない中でうやむやに終わってしまっているのに、それを根拠にしようとは、笑止千万。

 3.人道主義から補償金を払うとは、わけわからん恩の着せ方だ。
  しかも「糞道の価値の最低基準」が、なぜ50元なのか、意味がわからない。
 
 4.再び意味のわからない恩きせがましいことを言っている。
 5.自分側に理があるなら、なぜ軍隊と警察を総動員する必要があるのか。


特に5の軍隊と警察の動員に関しては、特別に秘密通達が出され、
公営化の公布日には、各区署の馬隊の半分を待機させ、もう半分は区内を巡査させ、
衛生局から要請があれば、直ちに警察力の動員に協力するように指示が出されていた。

つまり平津卫戍司令部の前で糞夫のデモが発生した時、すでに軍と警察側の対応体制は万全に整えられており、
すわっとばかりに出動し即刻、交通整理に当たったというのである。



このやり取りから見ていると、まず言えるのは、行政側が「いくらなんでもケチすぎ」なことだ。

前述の概算のごとく、糞業を完全に公営化できれば、
市場価格ですべての糞道を買い取ったとしてもたった半年で元が取れることになるのだ。

ちと腹黒すぎるというものだ。


次に問題となったのが、市民側の負担である。
前述の汲み取り代とおまる洗い代だ。

衛生局が事前に調査した結果、現状で市民は汲み取り代に1戸当たり1-2元/月、最高でも5-6元、おまる洗い代に1戸当たり0.1-0.2元/月支払っているので、
公営化後は汲み取り代1戸0.5元/月、おまる洗い代1戸0.05元/月にする、という提案を出した。


ところが三局連席会議では反論が出され、誰が1-2元/月も払っているのだ、
普通は1戸0.1-0.2元/月しか払っていない、という。


どうやら内戦状態の続く国内事情から、袁良市長とその側近らもいつまでその地位にいられるのか、
あまり長いスタンスで政策を考えていなかったような嫌いがある。

前述の概算のとおり、もし本当に100%糞業を公営化できれば、
最初の1年以内に投資が回収できるほどの「ボロい」商売なのだ。

既得集団にそこまで苛酷に利益を締め上げなくても、と思うのだが、
恐らくは「短期決戦、かき集め」を狙っていたということだろう。


内戦が続いている現状では、権謀術数による「頭脳」闘争だけではなく、
自分の属する軍閥が戦争するための武器弾薬の購入資金から兵士の食い扶持まで稼がなければならない。



そうはいっても、なるべくトラブルは小さいままで公営化を断行したいことも事実であり、
三局連席会議との折衷案を受け入れ、
前述の1戸につき1元/3ヶ月、もしくは0.4元/月、おまる洗い代は1戸につき0.2元/3ヶ月、もしくは0.1元/月、貧困層は無料、
としたのである。


市民にしてみれば、これまで糞夫からそれ以外のチップを何かと要求される不愉快さと比べたら、大歓迎の政策なのであった。



**************************************************************************

写真: 恭親王府。2005年。続き。


蝠庁。

    

    

人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン 

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  8、北平市長、袁良登場

2011年03月08日 11時40分58秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
1930年の1年で初めてさまざまな糞業に関する行政規則が出されたことは、
前々回で述べたとおりだが、規則を公布したはいいものの、実施は遅々として進まない。

清朝が滅びたのが、1912年。
18年たったこの時点でも国内はほぼ内戦状態、
北京の主人も数年でころころ軍閥系統が変わるという具合であったから、
税徴収などの財政系統は混乱を極めており、市自体にお金がなかった。

作った規則を実行するだけの人、予算の配備ができない。


中途半端に局地的に規則を実施しているうちに
翌年、1931年にはついに最初の糞夫デモに発展する。

特に彼らを立ち上がらせたのは、通行時間の制限であり、市政府の役所前に3000人の糞夫が終結した。

これ以後も糞夫のデモ、ストは頻繁に起こるが、今回が最初の抗議行動だ。


糞車の通行時間の制限は、糞夫らの抵抗のために、
その声に耳を傾けざるを得なくなった市が数年おきにころころ変える。

糞業の習性を十分にリサーチせずに強引に実施するのか、
悪臭の塊である彼らに集団で目の前に立たれたら、思わず屈服してしまうのか・・・・。


1931年7月の時点では朝11時から午後3時まで通行してもよいことになっていた。
ところが1933年8月には公安局が「朝7時から8時の間に糞車は城を出入りしてもよく、それ以外は禁止」とする。

3ヵ月後の11月には、朝10時以前、午後3時以後、という。
1934年6月になると朝9時以前、午後6時以後と制定する、
・・・・といった支離滅裂具合である。

これも糞夫らとの途切れることのない闘争の結果である。


そうこうするうちに市民の改革の声が高くなる。

世論の最終的な要求は、糞業の「官弁」、つまりは国営化である。

糞夫が皆公務員になってしまえば、汲み取りをサボれば、当局に通報してクレームをつけて懲戒処分にしてもらうことができるし、
チップをせびられた場合でも同様にすることができる。


しかし国営化は実際、そう簡単に行えるものではない。

何しろ、すべての糞道を手中に収めない限り、国営化は実現しないわけであり、
それぞれの糞道に市場価格があり、莫大な予算が必要となる。

現代でいえば、土地の再開発と同じようなもので、買取りの予算の捻出が一番の問題である。


ここに、そんなにたくさん払いたくない政府と、
飯の種を奪われてはならじ、奪うならそれ相応のものを出してもらおうか、
と求める糞道の持ち主との間の壮絶なバトルが繰り広げられることになる。


この糞業国営化のバトルに本格的に取り組もうとしたのが1933年、新たに就任してきた北平市長の袁良である。

その年出された「市建設三年計画」には、衛生面の改革の筆頭に糞業改革を挙げる。
糞廠の公営化、糞具の改良、糞閥の専横の取り締まり、糞車の通行時間の制限などを掲げている。

袁良には、糞業を市の財政立て直しの有力な収入源にしようというもくろみがあった。

前述のとおり、民国時代は半ば内乱状態にあり、平和な時代とちがい、税の取立てが困難な状況だ。
このため何をするにも財政不足で身動きが取れない。

袁良は上海時代の経験を元に、財政改革により北平市の収入を二倍に増やすことができると胸を張った。
その重要な収入源が糞業の公営化だったのである。


1932年12月の調査によると、北平市の人口は27万6000戸。
糞道1本を平均100戸として計算すると、市全体で約2760本の糞道があることになる。

当時の市場価格で糞道1本の値段は200-500元、
間を取って1本平均350元で計算すると、市全体の糞道の価値は96万元となる。


このほかに糞廠が400箇所あり、それぞれのインフラ設備の価値を1箇所当たり100元で計算すると、合計4万元、
糞道を合わせ、糞業全体の固定資産は100万元前後の価値となる。

これは北平市政府の年間平均予算の1/5であり、年間平均衛生予算の4年分に当たった。


さて。
これだけの価値のある糞業を公共のものにしたとしたら、
どれだけの儲けを稼ぎだしてくれるのかといえば、次のような計算になる。

つまり、糞道1本から出る糞は、1日糞車1台分、これを糞廠で加工し、肥料として売ると、1車当たりの儲けは0.3-0.8元となる。
中間を取って約0.55元とすると、1日当たりの北平市の糞の価値は1500元、1ヶ月で4万5000元、年間54万元となる。

このほかにも市政府の管理する公共トイレが449箇所あるほか、
さらに自治区、各行政機関、学校、軍警駐屯所にも数百個のトイレがあり、
1日2000車ほどの収穫量となる。その価値は1日千数百元となり、年間40万元を超える。

つまり糞の売り上げは、1年で94万元ほどとなる。

糞道のすべてを買い取ったら100万元だから、
糞業を1年経営したら、買い取った元出が返ってくることになるが、
この儲けの中からは、まだ糞夫の人件費を引いていない。


糞夫の人件費は、どれくらいかかっていたのかといえば、
糞廠で雇われている糞夫の収入は、食事つきで10元、食事なしで15元が平均だったという。

その内訳は、糞廠からもらう月給が平均6.3元。
これも集めてきた糞の量の出来高制であり、少しでもサボればたちまち収入に響く。

宿泊は糞廠の集団寄宿舎でただなのでこの宿代を3元と見る。
所謂、『駱駝のシャンツー』が寝るような数十人が一つのカン(オンドル)に寝る、寝返りを打つ隙間もないほどのたこ部屋である。


さらに住民からのチップ、おまる洗い代、おやつ代などを合わせて1ヶ月10元、という計算である。


当時、市の衛生局の清道班の職員の月給が7元、統計調査員が10元、公安局の三等警察が10元であったことを考えると、
糞夫の収入は決して悪くないように聞こえるが、不安定要素が多かった。

住民からのチップが10元を超えると、糞廠はすかさず給料を2-3元に減らしたほか、月給も払われないことが多かった。


糞夫の出来高はどういう風に計算されていたかというと、
糞車を満杯にして糞廠に糞を送り届けると、竹牌を1枚渡される。

その竹牌の数を元に月末に決算するのだが、糞車1台分の糞は、市場価格で支払った。
これとて、糞覇らが相場を操作することはたやすい。これでは住民へのたかりがエスカレートするのも無理はない道理であった。


さて。
経費計算の話題に戻ると、市では、公営化の暁には3000人の糞夫を雇い入れる計画をしていた。
これは現有の糞夫の数より遥かに少ないため、後に問題となるが、このことは後述する。
1人の糞夫を雇うために市がかけるべき経費は、食事代も入れると15元ということになる。
3000人であれば、1ヶ月4万5000元、年間5万4000元となる。


さらに住民から徴収する費用も考慮する必要がある。

これは逆に市の収入になるが、価格の決定に至る経緯は後述するとして、
最終的には汲み取り代を1戸につき、3ヶ月で1元、もしくは1ヶ月0.4元、
おまる洗い代は3ヶ月で0.2元、もしくは1ヶ月0.1元、貧困者は免除とした。

全市27万6000戸全員が払った場合、1年の収益は132万4800元(!!!!)である。


全市の1年間の糞の価値が94万元しかないのに、市民からの徴収費用だけで132万元にもなるのだ。


総括すると、糞道の総価値は100万元。
これに対して、1年の糞の売り上げ94万元 + 市民からの徴収料金132万元 - 糞夫の人件費5万4000元 = 約220万元

糞道をすべて買い取ったとしても半年で減価償却でき、その後は年間200万元ほどの純利益が出るのだから、
ものすごい割のいい商売だ。

もちろん糞夫に配布する糞車、糞具、制服などの経費を差し引く必要があるが、
北平市の年間平均予算が500万元というのだから、糞業だけでその40%を稼ぎ出すことができる。

これでは、既得権利を奪う側も奪われる側も命がけで戦うのも納得いく。


**************************************************************************
写真: 恭親王府。2005年。続き。




邀月台へ続く回廊



邀月台から韵花[竹移]を見やる。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン 

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  7、糞車改革の困難

2011年03月07日 17時35分20秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
民国時代も後期に入った1930年代、糞業の改革への声が高くなってきたのは、
こうした競争激化により生存環境の悪化した糞夫や糞覇らが、暴力集団化してきたからである。

もはや座視できぬところまで市民の日常生活に影響を及ぼしつつあったのだ。


糞業界を戦闘集団に鍛え上げる大きな要因のなったのが、「跑海」の存在だ。
縄張り、雇用主を持たぬ腕一本の「盗っ人」である彼らは、己の機微と才覚一本で真剣勝負する命知らずの戦士である。


「跑海」も次第に増えつつあった。
これも鶏が先か卵が先かの関係にあり、根本的な原因は糞業への新規参入者の激増による悪循環だ。

新たに参入してきた、肉体のほか何ら資本のない男どもが「糞道」の権利を買い取れるはずはなかった。
また新規参入が多くなると、糞道の権利の値段も上がり、余計に手が出なくなる。

そうなると、糞道を持つ主人の下で雇われて働くしかないが、
後から後からどんどんと希望者がいくらでも入ってくる状況であれば、
雇う側としては次第に待遇を落としていくのも自然の摂理だ。

何しろ悪条件でも働かないと、いくらでも代わりはいるということになる。


働いても働いても暮らしがよくならぬ、まさに老舎の「駱駝のシャンツ」のようなワーキングプア状態だ。
そんな中、少しでも自分の腕っぷしと要領に自信があれば、
雇い主に搾取されるよりは自分の腕しだいで利益を挙げられる「跑海」をあえて選ばん、と考える輩も多かったことは、容易に想像できる。

もうこれ以上、下はない、というところまで追い詰められれば人間、怖い物もなくなる。


そんな「跑海」らの被害を蒙る一般糞夫らは、たまったものではない。
雇われ糞夫ならご主人様の糞が少々減ろうが、自分の腹は痛まないが、
自前の糞道を持つ「自作」糞夫なら、生活がかかっているからこちらも本気を出して迎え撃つ。


当時の新聞の糞夫インタビューを見ると、鼻息荒い。

「あいつら(跑海)は、隙を狙っては未回収の糞を盗みやがる。
 出くわした日には、ただじゃあおかねえ。
 腕力のすべてを賭け、持っているあらゆる道具を総動員して死闘を繰り広げる。
 口で罵り、拳骨をお見舞いし、糞勺で殴りつけ、相手を青あざだらけにし、顔を腫れ上がらせ、
 頭から血をどくどく流させるまで容赦はしない。

 最後に相手の糞桶と糞勺を差し押さえる。

 俺の糞道は命の源。

 誰にも侵させるわけにいかねえ」

(1936年6月18日、北平晨報)



糞夫らが暴力集団化した背景には、こうした「跑海」らを相手として日々繰り広げる戦闘があるらしい。
毎日の日常で青あざが絶えず、生傷が癒える暇もなければ、気性が荒くなり、命知らずになるのは、当然の起因だ。

日常的な戦闘態勢で研ぎ澄まされた反射神経と鋭い刃物を振り回すかの如き気性の荒々しさを誇示する集団と化した糞夫らは、
しだいに大きな社会問題となってくる。



糞業は、近代までは完全に民間の自然の摂理に任され、行政が介入することはなかった。
介入が起こったのは、民国も中期になってからである。

1928年、国民党政権が北平で「糞夫工会」を組織した。

「工会」は、日本でいう労働組合である。
労働組合とは名ばかり、糞夫らを雇う側の「糞覇」らも加入していたから、
労働者の立場と待遇を守るためにあるはずの労働組合の意味を成していない。


それでも組織化することにより、少しは前進もあった。
工会が正式な糞道の証明書を発行したのである。

それまでは「既成事実」としての糞道の権利があったが、
合法ではないため、トラブルが絶えず、糞夫らは互いに自らの権利を主張して暴力沙汰が頻繁に起こっていた。

この証明書発行により、「糞道」の存在と権利が、初めて合法的に認められたことになる。


2年後の1930年6月19日には、『北平市城区糞夫管理規則』なるものが公布される。その内容は:

 1、糞夫の許可証制度の導入。糞夫の通し番号を発行する。
 2、糞車の統一。糞夫として登録すると、ナンバープレートを配布するので、これを糞車の前にかける。今の時点では、プレート料金は徴収しない。
 3、住民にチップを求めてはならない。
 4、指定のルートで、指定の時間帯に城外に運び出し、城内に貯めてはならない。散在させたり、糞車に規定以上の重量を積んではならない。


さらに4ヵ月後の10月には、糞夫工会が『管理糞夫工友規則』を作る。
 
 1、毎日汲み取りを行い、雨、強風など、如何なる天候の時でも怠ってはならない。
 2、報酬を勝手に値上げしてはならないほか、住民をゆすってもならない。
 3、工友(=労働組合メンバー)は、住民に平和な態度で臨むべし。
 4、工友はおまるの洗う際、清潔にし、四方にこぼしてはならない。


つまりは、守られていなかったからこそ、規則を決めなければならなかった現状が浮かび上がってくる。
一般的な糞夫は、毎日汲み取りに行くとは限らず、雨が降った、風が吹いたといっては汲み取りに来ないカメハメハの子供たちの如き習性があり、
何かにつけて値上げや揺すりを住民にかけ、
まったく平和的でない態度で接し、おまるを洗う時も粗雑に洗っては、あちこちのこぼしまくっていたということである。


改革が強く叫ばれるようになったのには、もう一つの理由もある。

それは1900年以後、全国的に伝染病が頻繁に流行するようになったことがある。
1917年―1948年までの間に死者が1万人を超える疫病が、全国で12箇所も発生している。

中国でも西洋とも接点が多くなってきたこともあり、
西洋医学、細菌病理学、植民地の熱帯医学を踏まえてその原因を分析するようになり、
糞業が病原菌を運ぶ昆虫、ハエの温床になっているという見方が広がりつつあった。




規則の中に「糞車」のナンバープレート発行が盛り込まれていたが、糞車の改革をまず単独で追いたい。
糞夫らの抵抗の経緯の中に挟みこむと、前後の順序が追いにくいからだ。


北京の人口が増え出し、最も市民らを閉口させたのは、「あの糞車はどうにかならないか」ということである。

前述のとおり、糞夫らの標準スタイルは背負い桶に長い糞勺だが、こ
れは個々の狭い路地に入ったり、四合院の中に入る際、移動に便利なようにするためであり、
大通りには糞車を置き、桶の中身を入れて移動させていた。

ごくたまに車さえなく、背中に桶を背負ったまま城外の糞場まで運ぶ糞夫もいたが、
その数はごくわずか、糞夫の中でも最下層にある人々のみである。

糞車は清代から変わらない一輪車の両側にイバラの蔓(つる)で編んだカゴをつるしたスタイル。
蔓編みだから当然密封性はよろしくなく、蔓の間から糞尿がぽたぽたと落ちることになる。

伝統的にフタをつける習慣もなく、下からはぼたぼたこぼしまくり、
上からは臭気を撒き散らすという極めて愉しくない移動物であった。


さらに一輪車のため、安定性が悪く、
雨の日、厳寒の道が凍りつく冬の日、雪が降った日、少しでも足元がすべれば、かごの中身は道路に真っ逆さま。

大事な飯の種なので、拾い集めることはもちろんだとしても、
そうそうきれいにこそぎ取れるものでもなく、その残骸や液体のしみ込んだ地面は何日も通行人に悪臭を散じ続けた。

城内の人通りが増え、並行的に糞車の通行の頻度も上がってくると、当然「どうにかしろ」という声が高くなってきたのである。



辛亥革命の成立まもなく、京師警察庁が糞具の改革を呼びかけたことがあったが、
業界の激しい反対に逢い、未遂に終わった。

1918年、市政の公所が警察所とともに、イバラ蔓カゴにフタを命じる条例の可決を試みたが、
またもや業界からの強い圧力を受け、実施が難航しているところに時局が変化し、政権が代わって再びうやむやに終わった。


悪評高かったイバラ蔓のぼたぼたカゴを廃止できたのは、実に1936年。
当時の処理糞便事務所が、緑色の木の箱桶を製作した上、これを糞夫らに支給した時である。

一輪車もほとんど安定性のある二輪車に変えた。カゴ一つの改革になんと30年の月日がかかっている。


     
最終スタイル


ふたをつけましょう、というごく理にかなったことに思える提案に、なぜそこまで反対が強かったのか。

おそらく経費を糞夫側に負担させようとしたことと社会的に蔑視されている彼らの反発心もある。
普段は自分たちを「屎壳郎(シーコーラン、=フンコロガシ)」と陰口をたたいて忌み嫌っているくせに、
へえそうかい、わしらに頼みごとがあるんかい、というわけだ。


**************************************************************************


写真: 恭親王府。2005年。続き。


来賓休憩室の中です。
オリンピック前後になり、画期的に違うのは、こういった名所旧跡の室内調度品ですな。

外の建築は昔も今もあまり変わらないのですが、10年ほど前までは、部屋の中は空っぽか、もしくはお粗末な調度品しかありませんでした。
こういうところで国力の充実を感じますな。

     











人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン 

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  6、暴力集団化する糞夫ら

2011年03月06日 23時16分20秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
本題の前に。

(新)爺砲弾(時事放談)goo版の毛沢山さんが、
胡同トイレ物語にトイレの現物写真が少ないことを遺憾として、
豊富なトイレ写真のラインナップを挙げてくださいました。

トイレの世界にどっぷりと浸かるべく、ぜひご参照くださいませ。


***************************************

さて。
糞夫らはどういう生態の人々だったのか。

出身は、山東と河北の境界辺りの臨清、夏津、楽陵あたりの人が多かった。
飢饉で食べられなくなると、北京に比較的近いために、都会に出てきて何とか命をつなごうと生きる道を探しにくる。
が、結局わずかでも入り込める隙間のある職業といえば、糞業しかなかった。


逆にいえば、山東人であれば知り合いのつてでこの業界に入り込むことができたということでもある。
「糞業しか入れない」ともいえるが、「糞業なら確実に入り込める」という言い方もある。


インドのカースト制も実はこういうことだったのではないだろうか。
カーストによって職業が決まっていて、人材の流動性がないというのは差別という言い方もある。

しかし生産性に対して、かつかつにまで人口が飽和している社会で、逆にいえばその職業の一族による独占でもある。
せめてその業種の既得権利だけは子孫に残しておく、という・・・。



今でも北京のゴミ回収は河南人が独占しており、「釣魚台」のコックには山東人しか採用しない、などの例を挙げることができる。

・・・・また話題がそれた。糞夫に戻ろう。

糞夫にもピンからキリまでのランクがある。

1、何本も糞道を持ち、自前の糞場(加工場)もあり、下に糞夫を雇い、集団化する。
2、自前の糞道があるが、糞場はなく、糞場に売却するか、直接農民に売りに行く。
3、自前の糞道がなく、雇われて月給を受け取る。
4、雇われてもおらず、縄張りもなく、他人の縄張りの糞を盗み取るか、道端に落ちているロバ、馬の糞を拾う。「跑海(パオハイ、苦海を走り回るというほどのニュアンスか)」と呼ぶ。



民国時代になってから、居住制限がなくなり(旗人しか住めないという)、
北京城内はさらに空前の繁栄を経験する。

人口の急激な増加に伴い、糞業も急成長を遂げ、
糞夫を街かどで見かけることが多くなると、次第にその言動が人々の話題に上るようになる。


民国も初期の頃は、生活の糧を提供してくれる汲み取り先の家庭に感謝の念を忘れず、
季節の節目ごとに挨拶に茶葉を贈ったり、
山東に里帰りしたら、特産品のじゃがいもでんぷんの春雨を土産に渡したりしたものである。

この頃は「自営業」糞夫が中心、盗っ人の「[足包]海」(権限を持たない他人の縄張りから糞を盗む糞夫)もそんなに多くはなかった。


1930年代にはまだ1人あたりの糞道の所有数は、多くても3-4本、平均は1,55本程度だったというが、
しだいに吸収合併の傾向が進み、独占状態が起きる。

独占状態がさらに進むと、ついには「糞」業界を独占するほどの実力を持った糞道主が登場、
人々から「糞覇(フェンバー、糞の覇者!)」と呼ばれ、恐れられた。


糞道主らに雇われた従業員としての糞夫らは、食べ物と寝る場所だけは保証されたが、
給料を踏み倒されることはよくあったようだ。

給料で生活を満たすことができないため、彼らはしだいに汲み取り先の一般家庭から各種名目の金銭を求めるようになる。
春節の帰省前には「新年のご祝儀」、中秋の名月になれば「月見のご祝儀」、雨が降った、雪が降ったと体を温める「酒代」と何かにつけておねだりする。

それを気持ちよく渡さず、機嫌を損ねると、如何なる有力者、大家でも面倒を蒙った。

*******************************************************************************

写真: 恭親王府。2005年。







      




人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン

あごーー! 「北京情報」ランキング、4位になりました。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  5、「糞道」制度の規範化

2011年03月05日 16時49分43秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
出典は忘れたが、紫禁城の中にもごみが堆積していたために賊を逃してしまったという記述があった。

雍正初年、簒奪で皇位についた雍正帝には他の兄弟らの多くが敵だった。
いつ暗殺されるかもわからないという一触即発の状況下、紫禁城の中といえどもまったく油断できない。

そんな中、雍正帝の身辺に夜中、賊が侵入し、発見されると、壁を乗り越えて逃げた。
その際、賊は壁のてっぺん近くまで堆積していたごみの山を踏み越えて難なく壁の上に乗ることができ、
向かい側に飛び降りて逃走したのである。

これを知った雍正帝は激怒し、直ちに紫禁城内のすべてのごみを徹底的に片付けるように命じたという。


つまりは天子の住む紫禁城でさえ、ごみの堆積が賊の逃走を助けるほどまでうず高く放置されていたということだ。
そしてそのごみの大部分はおそらく石炭の燃えカスだったと想像できる。

前述のようにほかのごみは現金化するか、風化する。不揃いな形状のものであれば、
一気に壁の上まで駆け上がることは困難だろう。

燃えカスであれば、土だから踏み据えることができる。


やんごとなき高貴なる人々の住む紫禁城であれば、冬の暖房はがんがんと贅沢に焚いていたことだろう。
そのために日々出る燃えカス量の膨大さは想像するだに大変だ。

ご主人様らの場所は少なくともきれいにしていたとしても、
宦官や使用人らの寝起きするような主人筋らの目に留まらない場所であれば、
裏口に積み上げたまま始末をサボっていたとしても不思議ではない。


紫禁城でさえこの有様である。

庶民の行き交う北京城内はさらにひどい状態だったことが想像できる。
それくらい石炭の燃えカスはどこにでもある「やっかいもの」だった。

糞干の中に入れる混ぜ物の中でも燃えカスがかなりの量を占めていたとしてもうなずける。




こうして北京城では明から始まった「糞業」は、
いくらかの山東の農民が各家庭から排泄物を汲み取り、
近隣の農家に売るだけで大して特筆すべきトラブルも起こらなかった。


ところが清代の乾隆年間になってくると、
前述のごとき人口大爆発が起き、その余波で「糞業」の新規参入者も激増したのか、
汲み取りの縄張りをめぐる刀傷沙汰が頻繁に起こってくる。


社会全体の急激な人口増加のために農村の余剰人口が生存空間を失い、
生きるすべを求めて都会に集まり始めたためと思われる。

都会に出てきたはいいものの、産業革命以前の前近代的な生産構造の元では、働き口がそうそうあるはずはなく、
地元の人間が最もいやがる3K仕事であり、特殊な技術も必要ない糞尿処理に吹き溜まるように男たちが群がり集まった。

われもわれも、と糞尿を求めて新参者が入ってくると、それまでその場所を縄張りとしていた回収者と殴りあいになるのは、当然である。

・・・・かかる事件があまりにも頻繁に起こったため、当局の指導の元に縄張りが明確にされ、所有権を示す証明書が発行された。



糞夫らはすべて「某街某巷の便、某人の拾取に帰す。他人勝手に取るべからず」の証明書を所有し、
これは他の私有財産と同様に売買、譲渡、相続、賃貸できる権利となった。

・・・・もっともこの権利は、あくまでも非公式のものである。
北京城内の不動産でさえ所有権を認めなかった清朝という政権が、いわんや便所の「汲み取り権」を、だ。



清朝は北京城内の居住を満州族を中心とした「旗人」のみに制限し、「旗人」らにも城内の不動産の売却を禁止していた。
この点、現代の共産党政権とも共通する政策といえるだろう。

しかし時代が下るにつれて旗人らが生活に困窮し、家を手放す旗人が続出、
さすがに漢人に売ることはタブーだったが、旗人同士で売買関係が生まれた。

・・・・売り買いは合法ではない。
そうなると、一番最初の持ち主の「痕跡」が残っていないことには、現在の状況が証明できない。

すると、非合法の譲渡証には「AからBに売却す」、「BからCに売却す」、「CからDに売却す」というすべての履歴が揃っていなければならない。
しかし法律的にはもしAが土地の権利を主張すれば、Dに所有の権限が認められないことになるのだから、トラブルにならないわけがない。

こうして複雑な売り買いの経緯を繰り返した所有権について、
告訴が頻発してどうにもこうにも処理できなくなり、清朝当局も最終的には認めざるを得なくなる。


これも現在、同じ状況が起きている。
例えば今、北京郊外に普通の一戸建てを買おうとする。

すると、不動産ディベロッパーがアホみたいに高い値段で売っている「別荘」は別として、
普通の土地と建築の持ち主に売買権はないのである。

そうなるとまさに「私的」な契約書が上述のごとく交わされ、同じようにトラブルが絶えないのが、現状である。



清代の言葉でいえば、非公式な契約は「白契(バイチー)」と呼ばれ、
これに対して正式な権利書は「紅契(ホンチー)」といい、区別された。

便所の「汲み取り権」が「白契」でしかなかったことはいうまでもない。



汲み取り権は、1「糞道」の単位で呼び習わし、その持ち主は「糞道主(フェンダオジュー)」と言った。
当初は皆数戸、から数十戸の規模であった。

「糞道」の所有権の細分化・市場化が進むのは、清朝が滅び、群雄割拠の民国時代も後期に入ってからである。


各「糞道」の構成は、まったく脈略がなかった。
どこかの胡同一本の十数軒の家庭の汲み取り権が1糞道になっていることもあったが、
甲胡同に3軒、乙胡同に6軒などとまったく脈略なく離れた数軒分の汲み取り権利が「1糞道」になっている場合もあった。


これは例えば、明・清代に最初にやってきた汲み取り夫が、ある家庭と「汲み取り」の取り交わしをし、その隣ともする。
ところが、さらにもう一軒隣にも交渉してみると、すでにほかの汲み取り夫が出入りしており、そこは交渉失敗。
やむなくほかの胡同に行って同じように交渉し・・・、と自分なりの縄張りを押さえて行く。

そのうちに「糞道」の権利証が発行されるようになり、そのいびつな地理構成のまま、代々売買されてきた、というような経緯だろう。


前述のとおり、清朝が政権をとっていた間、北京内城には旗人しか居住が許されず、
商業施設の開設も基本的には禁止されていた。

閑静な住宅地と言って良く、こういう状況では、人口密度が極端に高くなることはなかった。
ところが清朝が滅びると、その制限がなくなり、
誰でも不動産を買い取るか、家賃を払いさえすれば、住めるようになったことはもちろんのこと、
店舗を開いて商売することもできるようになった。

人が集まれば、糞尿処理はさらに大きな利益になる。

こうして「糞道」制度が、市場の原理により規範化されていく。


自分の家であるにもかかわらず、「トイレの掃除権」は家の持ち主になく、糞道主にしかない。

勝手に他人にトイレを掃除させてもいけないだけでなく、
家の主人が自宅に敷地内にあるトイレを自分で掃除しても「権利侵害」だ、と無頼の徒が押しかけてくる。

生成りのチョッキを筋骨隆々の裸の上半身も露わにひょいといなせに羽織り、
勇猛果敢なる無頼人生を誇るがごとき肉体の斬傷を見せびらかしつつ、
棍棒やら三日月刀を片手に振り回し、土煙を上げて殴り込まれる憂き目に遭う。


或いは「汲み取りストライキ」を起こされ、数日のうちにたちまちトイレが糞であふれ、
生活に支障が出るほどの悪臭の中でわが身を呪う羽目となる。

或いは代わりに汲み取り作業を担当した使用人か買い取り業者が、これまた襲撃を受け、半殺しの目に遭う。




「糞道」には、三種類あった。

1、「旱道」: その地域内の便所の汲み取り権を決めた範囲。
2、「水道」: その地域内のおまるを洗い、毎月報酬をもらう権限のある範囲。その価値は低く、旱道の市場価格の半額しかしない。
3、「跟挑道」: 「水道」糞夫に付き従い、おまるを洗った洗い汁を桶に受ける権限のある範囲。
  おまるを洗った汁の中に含まれる糞は、水のように薄く、その権利の値段は100元ほどしかしない。


つまりわかりやすくいうと、ある家庭のトイレを「旱道」権を持つ糞夫がまず汲み取りにくる。
次にこれとはまったく別の概念として、
「水道」権を持つおまる洗いの糞夫とその後ろに天秤棒の桶を持って付き従う「跟挑道」権を持つ二人がやってきて、
洗う労働報酬を稼ぎ、その洗い汁を受け取る。



・・・・恐らく当初は汲み取り夫がおまるを洗うことなどなく、ただ単に糞だけ回収して行ったことだろう。
ところがそのうちにさらに都会に農村人口が押し出されてきて、
食うに困る人々が幽鬼のごとく胡同の中を徘徊するようになる。

当初は各家庭の主婦や使用人が各自でおまるを洗っていたのだろうが、
汚い仕事だから誰だってやりたくてやっているわけではない。

そこに「おまるを洗わせてください」と頼み込む人間が現れ、
値段もそれほど高くなければ、「じゃあお願いするわね」ということになる。

それでもまだ職にあぶれて食えない人間が、さらにその洗い流した水さえもらっていくようになる・・・・。
そしてそれが「業種」として規範化され、「既得権利」に値段までついていくようになる・・・。


おまるの洗い汁の最後の一滴にまで生活を賭ける人間が存在するという壮絶さに絶句せずにはおられない。
資源の最後の一滴まで拾い集めなければ生きていけない過酷な現実がそこにある。



すべての「糞道」がここまで細分化されているわけではない。

場所によっては、汲み取り「糞道」の中に「水道」の権利も同時に含まれており、
一人の人間が同時におまる洗いの報酬を受け取ることができる場合もある。

あるいはおまるを使わない便所の多い地域もある。
その場合は、汲み取りがめんどうとなる。

おまるを傾けるだけというわけにいかず、勺でほじくりださなければならない。
厳寒の冬なら、外にある便所では糞も凍ってしまい、
突きもりのような尖った長い柄のついた道具でがっがっと糞を突き壊して回収する壮絶な労働が待っている。

しかもおまる洗い代を別途徴収することもできない。
このためにおまるのあるなしも「道」の価値に影響した。


      


「道」の値段は、時代によって違うが、前述の人口密度の事情のため、
清代(旗人しか住まぬ、商店なし)は安く、民国時代には高騰した。

光緒年間には1糞道あたりわずか銀5-6両でしかしなかったものが、1920年代には5-600元に値上がりしたのも、そういう事情あってのことだ。
・・・産出量の単位が違うのである。


「道」の価値を決める要素は4つ。
即ち地域の繁華度、戸数の多さ、産出量、おまるの有無である。

これにより三等級に値段ランクが分けられた。

1等級:内城の一等地にあり、商業繁華街で店舗が多く、人の出入りが激しい上、人口密度も高く、多くの住民がおまるを使用している。
   価格は5-600元前後。
2等級:あまり繁華な場所ではなく、おまる洗いの権利が「水道」として、分けられているため、収入が少ない。
   価値は洋銀300元程度。
3等級:城のやや辺鄙な地域にあり、貧民居住区。産出量、品質ともに劣る。
   価値は200元程度。


貧しいと、糞便の量まで少なく、さらに質まで悪いとは初めて認識したが、市場価格に影響する重要要素とは驚きである。


            

             写真: 解放後の汲み取り夫。時伝祥(後述)




糞夫の商売道具は手に4尺(約1.2m)余りの「糞勺」を持ち、背中に細長い桶を背負う。
桶は長さ3尺(約1m、図参照)、直径1尺(約30cm)あり、中にはおおよそ80斤(約40kg)入れることができた。

左肩に桶を背負い、右手に長い勺を持つのが、標準スタイルだ――。


             
           


しかしこのスタイルは、桶の口が首と同じ高さになり、
悪臭の直撃を受けるわ、少しでも足元がすべると、頭からもろに桶の中身をかぶるわ、
という惨事が起きることになるため、ふさわしくないのでは、という議論がなされたことがあった。


天秤棒の両側に小さめの桶をかついではどうか、という提案が世論から出されたが、
改革されることなく、最後までこのスタイルで終わった。


天秤棒の案が受け入れられなかった理由のひとつには、
天秤棒は南方人の筋肉構造に適した道具であり、専門に発達した筋肉が必要だということがあるのではないか。

アジアのどこかで、旅行中にでも天秤棒の両端に水を満タンにしたバケツを2つぶら下げ、運ぼうとした経験のある人ならわかるだろうが、
素人が簡単に持ち上げれるものではない。
腰におもりがぶら下がったが如く血液の鈍い充足感で骨盤あたりが熱湯で満たされる感覚を覚えるが、
さらに力んでもおいそれとは持ち上がらない。


これと同様に北方人は天秤棒をうまく操作するスキルを持っていなかったことが考えられる。

南方は船で移動することが多く、子供のころから下半身の筋肉が鍛えられ、安定感が強い。
まさに「南船北馬」の俗語どおりだが、
だからこそ天秤棒で桶の中身もこぼさず運ぶことができるのである。

大人になってから初めて北方人が天秤棒を担いでも、そのための筋肉が発達していないために、
そう簡単に安定感を出せるものではない。

激しく揺らして、さらにあちこちに糞尿を撒き散らさずにはおられないだろう。


加えて狭い路地を行き来するには、背負いスタイルの方がバランスがとりやすいのだと考えられる。


***************************************

2003年、恭親王府近くの護国寺街の道端に老人が座っていたので、許しを得て、中を見せてもらった。
長い通路の奥に入っていくと、立派な門構えに突き当たった


 

護国寺の向かい当たりにある平屋。雨漏りするのか、ビニールシートをレンガでとめただけの簡単な処置で手当てしている。

これもおそらく今は、ぴかぴかのテーマパークのような四合院に変わっているエリアかと思われる。
恭親王府の近くにあり、観光地再開発に組み込まれているはずだ。









*********************************

写真: 2003年。西単の宏廟胡同。四合院風の二階建て。一見、閑静な官公庁街ながら。。。



裏手の方は一面、瓦礫の山




    




**************************************

写真: 引き続き、2003年。西単の取り壊し現場。


 








人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」

2011年03月04日 13時26分42秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
人糞を利用した農業施肥は、中国を発祥とする世界に誇る偉大なる文明システムだろう。
人糞は立派な財産であり、商品となる。

糞は各家庭、公共トイレから回収される。
・・・ここまでは日本や他のアジアの国でも行われていただろうが、ここからが違う。
「本格加工、「規格商品化」が待っている。


糞は「糞廠」に運ばれた上、そこで「糞干」(乾燥糞ブロック)に加工し、大きさ、形状、重さを統一する。
水分を抜くことにより運搬などの取り扱いもしやすくなり、規格品として農民に販売するのである。農民はこれを買い、肥料にした。


「糞干」作りには、回収された糞だけでなく、ストーブの燃えカス灰、枯れ葉、紙くず、動物/人間の毛、
川底のヘドロ、土、草、動物の糞などを大量に混ぜ込んだ。
この作業は「カサ増し」と同時に、「粘度」のまちまちな糞を一定の数値に統一する役割もある。


良心的な糞干で「四成」(人糞4割、混ぜ物6割)、
鬼のごとき悪徳業者になると「一成(人糞1割のみ!)」の血も涙もない「劣悪品」を生産したという。

農民はそんな糞干を買うしかなく、劣悪な肥料を長年使用し続けたがために土地が硬化して使い物にならなくなるケースもあったという。



混ぜ物が有機物である場合は完全な「粗悪品」とも言えない。
現代でも有機農業に使う「コンポスト」作りを見ると、窒素系物と炭素系物の量を比率に沿って混ぜており、
野菜の生ごみ、緑の草、枯れ草なども加えている。

ただ比率が適切でない場合は堆肥になった段階で完熟しておらず、
土にまかれた後で土中にアンモニアを発生させたり、土中の酸素を大量消費したり、作物の生長の障害になることが考えられる。



日本では人糞を熟成させないでそのまま撒くと、作物が枯れてしまうので、
1-3年の長い期間をかけて肥溜めで熟成させ、ようやく撒いていた。
しかも液体のままなので、運搬の利便性は圧倒的に悪い。


これに対して中国の「糞廠」では、1年も熟成させているという記述はなく、
どうやらそのまま混ぜ物をして、ブロック状に乾かしてしまうようである。


・・・となれば、糞の未熟成はすでに大前提となっており、農民側もそれを承知で早めに土に混ぜ込み、
しばらく寝かせるなどの使い方をしていたのではないだろうか。

有機物の未分解だけなら、そのために「土地が硬化」することはない。
未分解のものは、時間をかけてでも分解され、土の養分となり、作物の生長を助けるはずだからだ。



「土地硬化」の犯人は、石炭の燃えカスではないだろうか。

つい数年前のオリンピック前まで、北京市内でも各家庭で練炭を燃やしていたことは前述のとおりだが、
石炭そのものであっても豆炭であってもその燃えカスほど「かさばる」ごみはない。


蜂の巣のように穴が開いている練炭が登場したのは、民国も後半になってからであり、
これが日本で発明され、大陸でも普及規格となったことは
、「雑居長屋の人々」
の中で述べたとおりである。

それまでは石炭そのものを固まりで燃やすか、「豆炭(中国語:煤球meiqiu)」を使っていた。


今でもそうだが、石炭の原石は高い。

豆炭は石炭の運搬などの取り扱いの際にぼろぼろと崩れてしまった石炭の粉を黄土に混ぜ込み、
ぼた餅くらいの大きさに固めたものだ。

黄土を混ぜ込んである分だけ値段も安く、北京ではこちらの方が普及している。

「石炭どころ」である山西省などに行くと、一般家庭でも石炭の原石をがんがん燃やしているのを見て、
私などは、「贅沢でええなああ」と涎が出るほど羨ましい。


今でも北京の郊外にいけば、豆炭を自家製で作っているのをよく見かける。
特にこの数年は石炭価格の高騰が激しく、零下20度にまでなる北京の冬の猛威は、一気に寿命が縮むような殺傷力があり、
燃料の高騰は死活問題だ。

人々は値段が安くて手に入る石炭の粉末を買ってきて、そこらへんの土と混ぜて水でこねてペースト状にし、
スプーンですくってぼた餅型に地面に並べ、日干しにする。


しかし石炭も豆炭も形状が不均一なので、くべ方が下手だと空気の通路をふさいでしまってうまく燃えない。
その上、燃えた後はもろくなって崩れ、余計に空気の通り道をふさいでしまい、練炭と比べると熟練した経験が必要だ。



閑話休題。

とにかく石炭にしても豆炭にしても、燃え尽きた後でもその容積はあまり減らない。
木炭や薪なら灰の容積はもとの数十分の一になってしまうが、前者の場合、燃える前の形状そのままにどんと鎮座ましましている。


筆者も農村で暮らしていた時期、石炭や練炭の燃えカスの始末は頭の痛い問題だった。
練炭が燃え尽きた後に残った黄土は、立派に土の重さがあり、
数個入れただけでプラスチックのバケツの底がバコッと抜けるほど重かった。

ビニール袋にだって、数個入れただけで袋も破れてしまう。


ゴミ棄て場に運ぶだけでも重労働であり、燃えカスは一日に10個以上も出るのだ。
ごみ棄てだけでも腰が抜けそうになる。

石炭の燃えカスはこれよりやや軽いが、やはり似たり寄ったりである。


そこで庭に畑があると、燃えカスをそこに持っていき、足で踏み崩して土に返してしまうこともあるが、
毎日10個以上も出る燃えカスをすべて土に返すと、夏になると畑の作物が育たなくなる。

どういう科学成分の関係でそうなるかは、わからないが、
とにかく石炭の燃えカスがあまりに多い土は野菜が育たない。

「土地の硬化」とは、このことを言っているのではないだろうか。



北京城内のごみ掃除は、清代からかなり問題になっていたらしい。
当時は行政が予算を組んでゴミ回収したわけではなく、
城内からのごみの運び出しは、完全に市民の自由意志に任せられている。

そうなると皆、わざわざ遠く城外までごみを運び出さないため、城内のごみの堆積はかなり深刻な問題であった。

・・・最も当時のごみはほとんどが有機物であれば、生ごみなら少々の悪臭がしたとしても何年もそこに留まったままということはない。
再生可能なものは、すべて拾っていく人がいる。


実はその点は、今の中国でも変わらない。
ゴミ回収を生業にしている人は、
鉄などの金属物、ガラス瓶、ペットボトルや石油化学加工品類、ぼろ布、ダンボールなどの紙製品などを
すべてきれいに仕分けして拾っていき、品種ごとに重さを計り、回収業者に売り渡す。


清朝から民国時代にかけての北京城内でも基本は同じことであり、
ほとんどの生活ごみは勝手に拾っていく人がいた。

・・・・・その中で唯一、誰も見向きもしなかったごみが石炭の燃えカスだったことは、想像に難くない。



*************************************************************************

写真: 明瑞府のつづき。奥に進んでいくと、いきなり庭園のような広い場所に出た。





太湖石の上に家が建っている!
昔はかなりの規模の庭園だったのだろう。

           

市内の一等地にゆったりとした空間の残るところが唯一、往年の面影を残している。




写真: 2003年。東綿花胡同の石彫刻の美しい四合院。


   


 


 




写真: 2003年。前門の南、楊竹梅胡同。胡同、老人のひなたぼっこ、鳥かごのアイテムをしつこく三連発。









人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン

胡同トイレ物語1、糞道 ーー仁義なき戦い  3、  4億人口を支えたシステム

2011年03月03日 12時08分06秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

清代の康熙年間から乾隆年間にかけて中国を訪れたイエズス会宣教師の書簡を読んでいると、
彼らは中国の大地で見る人々の貧しさに驚き、繰り返しそのことについて言及している。


その辺りはヨーロッパ史に詳しくないため、その究明は今後のテーマでもあるが、
中世の終わりに差し掛かり、大航海時代が幕開けたばかりのヨーロッパと比べ、
当時の中国の生産力が劣っていたとは思えない。


そこはやはり「人口密度」の問題であろう。


さらに中国の人口が多いのは、ヨーロッパ人の生殖能力が中国人より低いために人口が増えないわけではなく、
人口が増えぬ何かの要素が働いていたことになる。

乳児死亡率が高いとか、昔の日本のように生まれた子供を間引きするとか、
成人できてもペストなどの流行病、または戦争で大量に死ぬなどの調整機能があったと思われる。

ここではあくまでも主題は「糞業」のため、これ以上の詳しい論証は避ける。



中国では以上の要素がなまじ相対的に低かったために人口が増えすぎ、食べ物は少なく、
就業・雇用機会、生きるための道は少なしという事態となった。
その矛盾、努力が効果を上げぬ絶望感の中でアヘンが普及して行ったことは、よく知られる。



前文で触れたとおり日本では同じ時代(江戸時代)、
人口を増やさないために間引きなどを行い、産児制限していたが、
中国の民はその方向に発想を向けなかった。



儒教の伝統では子孫繁栄は、一族繁栄の象徴だからといわれるが、
要するに日本ほど切迫していなかったと見ることもできる。
四億の人口がその実力の何よりもの証明である。

それでも生きるための競争の熾烈な社会だったことには、ちがいない。




「糞業」なる強大な産業レーンが築き上げられたのは、眩暈を覚えるほど壮観な図であり、
「たかが糞のために何もそこまで」といいたくなるような命がけの戦いが繰り広げられたのも、
アヘンの普及と同じく、生存空間があまりに小さく厳しい、当時の社会の縮図といえるのではないか。


逆に4億の人口の胃袋を支えることができたのは、人糞回収システムだったとも見ることができる。
繰り返し作物を植えてもざくざくと収穫できる永遠に肥えた田畑がなければ、これだけの人口を養うことはできない。



人間食えなくなってくると、他国に奪いに行くようになり、小規模なら略奪、大規模なら戦争が起こる。
短絡的にわかりやすい例でいえば、ローマ帝国時代のゲルマン民族の南下であり、
中国史における騎馬民族の南下である。


モンゴル人が万里の長城を越えて攻め入ってくる時は、雪害や家畜の疫病の流行で食糧危機となった時が多い。


日本では飢饉が起きても簡単に海を渡れず、食べ物を求めて行く場所もなく、大量餓死するしかない。
そしてその反省として人口制限が行われた。


明治になり、鎖国が解かれると、飢饉で人が死ななくなったという。
中国の江南地方から米を緊急輸入したからだ。

*****************************************************************************

写真: 明瑞府の大雑居四合院のつづき。



入り口を入ると、自転車置き場が出現。
この自転車の多さを見ても、中にどれくらいたくさんの人々が住み込んでいるかが想像できる。
しかし私が見せてもらえたのは、東端の一本だけだった。


       


       

如何にもこの前立てたばかりのような簡易住宅が並ぶ。
想像するに、当初は庭園のような場所だったのではなかろうか。
そして空地を残しておく優雅さを維持できなくなり、長屋に改造した。。。。







入れなかったエリアの建物の屋根の部分から、かろうじて往年の格式が偲ばれる。


人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家
blogram投票ボタン


胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  2、人口増加と「糞業」の発展

2011年03月02日 11時05分26秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

北京城内の人間の「生理現象」の始末は、
中国の他地域同様、一連の汲み取りから肥料加工、販売にいたるまでの「糞業」に支えられていた。

北京では明代あたりから始まったと思われる。
金、元代の北京はまだ強固な城壁もなく、人口もまばらだった。
大通りの両脇には溝があり、朝晩におまるの中身を捨てても問題になるほどの人口もなかったのである。


その後、明の永楽帝が首都を北京に置いてから人口が急増し、道端に垂れ流しにするわけには行かなくなる。
加えて、古来より人糞を肥料とする習慣が定着する中国文化圏においては、
大量の糞の集まる都会を「宝の山」と見る農民がこれを放っておかなかったのも、自然の摂理である。


北京から近い山東の農民が、徐々に糞尿の回収・汲み取りを始めるようになり、「糞業」なる業種が成立した。


「糞」をめぐるトラブルが続出するのは、清代も半ばを過ぎた乾隆年間となってからだ。

遠因は人口の増加である。


周知のとおり清の康熙年間から乾隆年間にかけての100年(1662よりの100年)で中国全体の人口が大爆発する。
それまで二億だった人口が一気に四億に倍増、アヘンが蔓延していく根源にもなったと言われる。
そんな時代背景の中、北京の人口が急増したこともうなずける。


人口は増えたが、すべての人が豊かに暮らせるほど生産力は上がらず、
その需要を満たすことができるまでには、数百年の時間がかかる。


大航海時代の到来後、ゆっくりと時間をかけて新大陸から寒冷・乾燥に強い新種穀物(じゃがいも、とうもろこしなど)が普及し、
それまで狩猟か遊牧しかできなかった万里の長城の外、東北地方での農業が始まる。
これにより大量の人口を養い、大きく受け皿を広げたが、東北一つだけでは根本の解決にはならない。


抜本的な解決は第二次大戦以後、電気・石油で動く自動車・各種機械の普及によりあらゆる生産の効率が上がり、
情報の共有が実現、生産力が革命的に向上するようになるまで待たねばならない。
それまでの数百年の間、人々はひしめく群集の波の中、
壮絶な競争社会に耐え抜き、生きる道を探すしかなかったということだろう。


「糞」という世界の他地域では見向きもされない「資源」をめぐり(東アジアは別ながら、ここまで壮絶ではない)、
一つの独立した「業界」が成立したのもかかる厳しい競争のためでもあった。


********************************************************************************
写真: 内務府胡同の「明瑞府」看板のかかった雑居四合院。
明瑞は乾隆時代の功臣、乾隆帝の愛妻・孝賢皇后の甥である。

乾隆時代のことを調べていると、よく登場する人だ。
四路四進院の合計16個もの四合院で構成される大豪邸だが、2003年に訪れた当時は典型的な大・大雑居四合院になっていた。

今はどういう状態になっているのか、いずれまた再訪したい場所である。
乾隆時代、清朝の発展に尽くした満州貴族らの重鎮の一人として、いずれは書いてみたい人物である。



入り口の保護文化財の看板。


      


人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家

わ! びっくりした。。「北京情報」ランキングで10位に!
嬉しい。。。


胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  1、世にも麗しき「飯櫃」

2011年03月01日 22時48分43秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

本稿は2000-2008年前後、オリンピックに向けた再開発の嵐が吹き荒れる中、
北京で起きた「胡同・四合院・町並み保存運動」の熱が伝染し、
それに突き動かされるが如く構想したものである。


かの風潮の中でベストセラーとなった王軍『城記』(日本語訳・多田麻美北京再造』)が町並み保存運動の参加者のバイブルとなり、
彼らはブルドーザーになぎ倒される四合院の命を救おうと東奔西走した。



独自の歴史観を持つ者の理論が、強力な説得力を持つことは、儒教の興隆でも証明できる。
諸子百家の中で老子でもなく荘子でもなく、孔子の思想が強い生命力を持ったのは、
儒家が相手を説得するために歴史の中からあらゆる先例を引っ張り出し、自らの理論証明の素材とする体系を確立したからであった。



その意味で王軍『城記』は、清朝滅亡後から今日に至るまでの北京城の『記』として、
その沿革と歴史を詳細に掘り下げ、町並み保存運動者らに理論的武器を与えた。




対する再開発側の主張は、基礎インフラの欠如による生活の不便さの改善である。
胡同と四合院には、上下水道のインフラ設備が完備されていないから、一度ぶっこわしてインフラを通しましょうね、という理論である。


確かに侵略者の日本人からして、さらには解放後の共産党政権にもその伝統はあった。
つまりなまじ数百年の歴史が重なり、緻密な都市計画で「完成」してしまっている「北京城」という歴史の産物の改造は、
膨大な予算がかかるためにあきらめ、さら地にインフラを敷き直し、そこに移り住むという伝統である。


北京を占領した日本軍が、北京城を放り出し、西郊外の五ke松の荒野に一から都市機能を作り直した例(後述)のほか、
共産主義になってからも国家機関の多くは北京城の外に建てられた。


世界的に見ると、例えばモロッコの歴史都市フェスには、
中世そのままの姿を残した旧市街とフランス人エリアが隣り合っているなど、世界のほかの地域でも見られる。


北京には「胡同串子(フートンチュアンズ)」という言葉がある。

直訳すると、「胡同の合間を縫い歩く輩」。
つまりはトイレもない、ぼろぼろの雑居四合院(スラムとまでは言わないが)の間を這いずり回る階層の人たち、
というようなニュアンスがある。

即ち以前の北京では、胡同とは中流の下から下層民が住む場所の代名詞だったのである。


社会的地位が高くなるとアパートを支給されて移り住み、
水洗トイレを享受し、シャワーを浴びることができる。

2000年以前までほとんどの人は職場でシャワーを浴びていたが、
それは雑居長屋に住んでいる場合など家に入浴施設がない人も多かったからだ。


大人の男女はそれぞれに職場で浴びるからいいとして、
では子供たちや仕事をしていない老人ら、事情があり無職の人はどうするかといえば、
街の風呂屋に出かけていくしかない。


その場合、毎日行く習慣はなく、数週間に一度という場合もあったようだ。
大陸性気候で乾燥している北京ではあまり気にならないが、「そろそろいいかげん臭いぞ」と感じるまで行かないという感覚に近い。


ということは胡同に住んで育てば入浴の習慣からして違うことになり、生活感覚がまるで違う。
それをアパート暮らしで育った階級は、軽蔑して「胡同串子」と呼んだ。


今ではそれが比ゆ的にも使われ、雑居四合院が消滅し、
実際には長屋育ちではなくても、庶民的なせこい計算高い人間を「胡同串子」と形容する。


開発側は「胡同串子」からアパート暮らしにしてあげるのだから、ありがたいでしょう、という理論である。
しかし町並みを保存しつつ、上下水道のインフラを通している例は、
京都やヨーロッパの街など枚挙に暇がなく、理由にはならない。
実際、最近は残った四合院にインフラを通し、目ん玉も飛び出るような値段で売り出し始めている。


本章ではこれでもかこれでもか、とひたすら胡同におけるトイレ、汲み取りの話を展開していくが、
それはこれまで胡同の生活が近代的インフラの欠如と同義語になっており、
切り離すに切り離せなかったからである。



雑居四合院と公共トイレの存在は、セットとして切り離すことができない。

石炭の煤(すす)で空気が灰色を帯びる厳寒の朝、
白い息を吐きながら赤い小さなポリバケツを吊り下げ、
公共トイレに向かう光景は、約束の風物詩といえるだろう。

帰りには、胡同のあちこちに陣取る朝ごはんの屋台から
油条(ヨウティアオ、揚げパン)、焼餅(シャオビン、丸い焼きパン)を買い、
片手にバケツ、もう片手に朝ごはんを持って部屋に戻る――。


夜の間、用に立ちたくなれば、外気温マイナス10度近くまで下がった野外に出た上、
数百メートルを往復するために分厚い毛糸のすててこを履き直し、
もこもこのダウンジャケットを着込んでトイレまで行くのは、あまりに酷だ。
夜の尿をバケツに済ませるのは、自然と浸透した習慣である。



新中国成立前、豪邸が立ち並ぶような高級住宅エリアに公共トイレなどなかったことは、いうまでもない。
この頃の金持ちは、路上の公共トイレで用を足してお尻を下々の者に見せるようなことは、もちろんしない。
それぞれの屋敷には、おまるとぼっとん便所があった。


かつて日本軍の兵隊が占領した中国人家庭で美しい漆塗りの模様のついたおまるを見て、
「飯櫃(めしびつ)」と勘違いした、という笑い話は中国の庶民の間に広く伝わる。


旧社会の金持ちの使ったおまるは、凝りに凝った美麗なる工芸品のごときであった。
これを部屋の隅、天蓋ベッドの下におき、使用人が定期的にぼっとん便所に捨てた。

四合院における便所の位置は、風水としては「西南角」が望ましいとされる。
一番日当たりの悪い北向きの部屋の通りに面した端部屋だ。


風水はただの迷信ではなく、成立当時の社会では「最新科学」の集大成であったはずだが、
その立場から見ても、トイレの位置は理にかなっている。


日当たりのよい南向きの位置に汲み取り式トイレがあれば、
直射日光を浴びて鼻のひん曲がるような異臭が母屋に充満したことは間違いなく、
第一、貴重な南向きの位置をトイレに占領させるのは、資源の無駄遣いが甚だしい。

人間が暮らすには不適な北向きの位置をあてがうのが、最も合理的なのだ。


トイレはご主人様たちにとっては、使用人がおまるの中身を棄てるだけの「ゴミ捨て場」であり、
使用人らはここで用を足したが、主人格の人間がめったに入る場所ではなかった。

従って如何に権勢を誇る豪邸であっても、ただの穴にレンガで両側に足場を作ってあるような粗末な構造だったらしい。



写真: ネットオークションの紹介より。
http://www.shede.com/g_956452_gd.htm

上海在住の出品者が、家の中から見つけてきた未使用と思われる新品のおまる。


人気ブログランキングへ にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へにほんブログ村 人気ブログランキング くる天 人気ブログランキング
ブログランキングのブログん家