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いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語50、名門ムクン

2017年01月30日 01時02分31秒 | 和珅少年物語
「ムクンだってニウフル氏といえば、今上の皇太后陛下と同じ一族」

李峰の説明は続く。

ムクンは満州語で姓をいう。
どちらかといえば、満州の中の「部族」というニュアンスに近い。


始祖ヌルハチにより満州が統一されていく際、満州族は部族ごとに征服されたり、投降した。

従って早くからアイシンギョロ家(皇帝の一族)の同盟者になった部族は建国後も地位が高く、
最後まで抵抗した部族や遅い時期に降伏した部族は冷遇されるという格付けがある。

和珅の姓(ムクン)はニウフル氏、乾隆帝の生母と同じ一族である。
つまりは優遇されている部族の部類に入る。

……このように漢語で話していても、満州語の単語が入り交ざるのは、包衣社会の独自の言語と言っていいだろう。


「詳しいのお」
英廉が皮肉を込めて、ぽそりとつぶやいた。

「え。……そういうわけでは」
李峰も英廉が言わんとしていることに思い当たり、ぎくりとした表情だ。

本家の満州族に対する劣等感は、包衣出身者が認めたくない部分だが、どうしても存在するものである。
漢族には威張るが、逆立ちしても満州族にはなれない。

相手が子供でも、爵位や家柄についつい関心が行くのだ。
「まあ、いくらもいない学生たちのことですから、それぞれの子達の背景は、ある程度が知ってますよ」
と言い訳がましくいう。

「いえね。出身校だって、何しろ世襲幼学でしょう。」
李峰が「世襲幼学」という言葉を口にした時、声は裏返るわ、つばは飛んでくるわ、で英廉は眉をしかめた。

確かに代々の爵位を持っているなら、一般の八旗官学にはいかなかったのだろう。
それはただでさえ少ない八旗官学の枠を、爵位のある家が伝手を通じて割り込むのを解決するためである。

しかしそれがネズミ男には、高貴な世界への憧れに感じられるらしい。
「あそこから送り込まれてくる子供はもう、出で立ちからして違うものなんですよ。お肌もつるつるだし」

--世も末じゃ。
英廉は顔をしかめた。

質実剛健を誇る八旗子弟が「お肌もつるつる」だと?

「ついて来る家奴さえも、つるつる、ぴかぴか。
 ところが善保はですね。えらくみすぼらしい格好で来るので、びっくりしましたよ。

 それにあの劉全だって、大したもん着てませんでしたでしょう」

劉全がかの殺気の香ばしい好漢のことらしい。
そういわれて見れば、従者らの出で立ちには差があった。

そのへんの労働者のように汚らしい恰好の者もいれば、こぎれいな出で立ちの者もいた。
--そして劉全とやらは、確かに「水滸伝」から抜け出してきたような豪傑の気配があった。

その印象ももしや、妙に「江湖(やくざ)」的な服装のせいだったかもしれぬ。
よれよれの木綿の服から汗の匂いを立ち上らせるような精悍さをかもし出していたが、
ただ単に長く洗濯していない不潔さと言われれば、そうかもしれなかった。




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和[王申]少年物語49、和[王申]の家庭事情

2017年01月28日 00時47分08秒 | 和珅少年物語
話しているうちに李峰は、さらに興奮してくる。
声がどんどん大きくなるこの部下をたしなめる間合いもないので、
せめて少年たちに聞こえないように、と英廉は自分から足早に教室の前を離れた。

李峰は仕方なしにその後を慌てて追って離れる。
「あまりに周りと揉め事ばかり起こすんで、これは家長にいうべき問題だろう、と父兄に連絡を取ろうとしたんですが」
「ほお。それで、どうだった」

そこまでいうと、李峰はそのネズミ顔の貧相な骨相をさらに俗にきらりと光らせた。

さっきの絶叫声はどこへやら、ひどく大げさに英廉の耳に口元を寄せて、
小声で気味の悪い生ぬるい息を英廉の耳に吹きかけて言った。

「それがですね。ここだけの話ですが、ひどく複雑な家庭だったんで、びっくりしましたよ」
その声音には、かすかに復讐を果たしたかの如き爽快感の響きがあった。

「道理でね。おかしいと思ったんですよ。
 仮にも爵位付きの家柄の嫡男ですよ。

 三等軽車尉は極上の爵位というわけではないですが、
 仮にも建国以来の『世襲罔替』でしょう。」


「罔替」は、世代が下がっても爵位が格下げにならない特権である。

一つの王朝が創設され、次第に年数を経ると際限なく皇族が増え続ける。
これに手当てを出し続けたために首が回らなくなるというのは、それまでの歴史で証明済みである。

そこで清朝は、爵位を次世代に譲るときに一つずつ格を下げて行き、
数代立てば爵位が消えてしまうような制度を作った。

皇帝の皇子は通常、親王に封じられるが、親王が亡くなれば、その後を継ぐ息子は群王に、
その息子は貝勒(ベイレ)に、その息子は貝子(ベイゼ)に、と格下げになり、
そのたびに国家から支給される俸禄も減っていく仕組みである。

そんな制度の中で「世襲罔替」は、世代が下がっても格下げにならず、永遠に同じ格のまま世襲できる特権である。

つまり、和珅の先祖は建国時に「三等軽車尉」の爵位を授かってから、
すでに百年以上立っている今も、同じ爵位を維持し続けているということである。 

――家柄や爵位に弱い輩の哀しさよ。
まくし立てたら止まらなくなっているこの貧相な五官の配置を、英廉は自嘲と憐れみを持って眺めた。

李峰も英廉と同じ内務府の包衣(「ボーイ」)出身である。
漢族でありながら、支配階級である満州族に極めて近い特権階級であるがために、
極端な優越感と劣等感の交差が激しい連中が多い。

純粋な漢族であれば、満州族とはどう逆立ちしても出自も違うため、
己と比べてひがんだり、羨ましがったりしても仕方がない。

逆に長城の外にいた野蛮人が自分たちの文化に染まってゆくわ、と一種の優越感もある。

ところが包衣は、数百年も満州族の主人と同じ釜の飯を食ってきて、
代々満州語と中国語の両方を操り、普通の漢族よりも特権的な階級に位置づけられているだけに、
満州人の家柄や爵位などに対して憧れや関心が異常に強い連中が多い。


それを同じ出身の英廉は、哀しく実感しているのであった。





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和[王申]少年物語48、和[王申]との初体面

2017年01月26日 18時38分58秒 | 和珅少年物語
英廉は案内の李峰がちらりと目配せする方を見た。
一目でどの少年かわかった。

大きな目に屈折した光をたたえた少年だった。
北方のツングース種らしく肌は抜けるように白かったが、
二重の大きな目がやや異民族との混血を思わせ、きりりと太い印象的な眉毛がその上に居座る。

ツングース種の満州族は体毛が薄く、ひげや眉毛もあるかなきかの如き薄さ、
胸毛もすね毛もつるつるなのが一般的だということは、前にも述べた。

二重の大きな瞳といい、太いげじげじ眉毛といい、旗人の中では珍しい特徴と言っていい。

--モンゴル種でも入っておるかな。あるいは南方か。
英廉は人種的な由来に思いをはせた。

モンゴル人も同じシベリア系の人種ながら、
チンギス・ハーン以来の西方遠征のためか、時に西アジアや欧州らしき人種の特徴が見られることがあった。
子供の頃に髪の毛が茶色かったり、顔の彫りが深い、目の色が薄い、体毛が濃いなどの特徴が現れる。

満州族はこれに比べ、伝統的に満州の地から激しい移動はなかったため、
めったにそのような混血的特長が出ることはない。

唯一あるとすれば、清初から同盟を組んできたモンゴル人との混血である。
 
和珅が二重まぶたの美男子だったのは、どうやら本当のようである。
現在よく見かける和珅の肖像画は、端正な整ったどんぐり目とすっと通った鼻筋が印象的である。

「あれが、先ほどの太いいびきをかいておった輩の主人でございます。
 正紅旗のニウフル氏、善保(シャンボー)と言うんですが、
 父親の常保は三等軽車尉の爵位を継いで福建副都統まで勤めておりましたが、数年前に他界しています。
 当校には弟も一緒です。」

和珅の少年時代の名前は、どうやら善保というらしい。

いつ名前を和珅に改名したかは定かではないが、どうもこの後、急激な出世を遂げる前後のようだ。
 
ちらちらと自分を見ながらひそひそと話し込む大人二人の視線に少年はどうやら気づいたようだ。
しばらくは、教師の後を他の少年らと復唱しつつ、無表情に眺めていたが、
どうも自分のよからぬ噂をしていると感じたらしい。

かすかに口元がつりあがり、あごを心持ち斜めに上げて挑むような視線を投げてよこした。
殺気のにおいは、かのいびきの男と同じ種類だ。

「ほらほら。こっちを睨んでますよ。」
子供をまともに相手するとは、教育者のくせに困った奴だ、と英廉は苦笑した。

「これが喧嘩っ早いんで、手を焼いております。体は大してでかくもないんですが、
 すばしっこいのと、ひどく執念深く食い下がるんで、もうあちこちで学生を怪我させるんです。

 私のいうことなんか、いつも鼻でせせら笑って聞きやしない。とにかくかわいくない!」

ねずみ男は言っているうちに興奮してきた。
声がもはやひそひそ話の次元ではない。

幸い、少年らの元気な復唱の声が割れるように響く中、誰も聞き取りはしなかったようだ。



  

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和[王申]少年物語47、いびきと主人

2017年01月24日 15時30分24秒 | 和珅少年物語
劉全の豪胆ないびきが部屋に響き渡り、皆が息を呑んだ。
ねずみ男の血の気がすーっと絵画的に引けていくのが、振り返って見ずとも英廉には気配で感じられた。

――ほほお。大した腹の座り具合だ。
内務符大臣が視察に来たという場面に出くわし、
そのときにうそだか本当だか知らないが豪快ないびきをかけるというのも、
やろうと思っても並みの肝っ玉の人間にできるものではない。
 
そういう相手の「呑み方」というのは、
年齢も目上目下も、社会的地位も、正一品の大臣も、垢にまみれた車夫も関係なく、人間の本性である。

正面切って相手と気配を合わせた瞬間、
――負けた
と思えば、そいつは自分よりも命が惜しくないやつだということになる。

こういう命知らずのやけっぱち野郎ほど怖いものはなく、
その前には富もこちらの社会的地位も何もかも通用しない。

そういう相手にまともに張り合うと、最後はこちらがのっぴきならない恥ずかしい立場に追い込まれることは、
生き馬の目を抜く官界で長く泳ぎ渡ってきた英廉には、わかるのであった。

白髪の混じったひげの口元にかすかに笑みを漂わせると、
「よいわ。皆の者、ご苦労」
ときびすを返した。

「え? 英大人、しかし……」
英廉は手を振り、不服そうなねずみ男を連れて部屋を後にした。
呼吸がわからないねずみ男は、身の程知らずにも、まだ正面から相手にしようとしている。
「申し訳ありません。大人。あやつはいつもあんな調子でございまして、
 もう主従共々、ふてぶてしくてかわいらしくないことそっくりで困っておるんです」
と後ろから恐縮して言った。

「ほおお」
英廉は供の者の控えの間を出てそのまま、回廊をぶらぶらと歩き続けた。
ここの最初の院からは学生らの姿は見えなかったが、遠くから聞こえる咆哮のような本読みの声は、一層割れるような大きさであった。

「今年の新入生はどうかね。見込みありそうな子はいるか」
春節明けに新しく十人ほど入学してきたはずである。
もう学校にも慣れた頃だろう。

「さすがに各校あまりにも出来の悪い子は送り込んできませんね。恥ずかしいですからね。」
とねずみ男は答えた。

咸安宮官学は、宗学、覚羅学、八旗官学、世職幼学、景山官学などからの選抜学校であることを言っている。
 
二人はいつの間にか、最初の中庭を抜け、二つ目の院に入っていった。
少年たちの本読みの声は一層大きくなる。

中庭を囲んで配置された平屋には、それぞれ少年たちが授業を受けており、
回廊を歩きながら、外から教室の中がよく見えた。

「そういえば、英大人」
ある教室の前まで来たとき、ねずみ男が小声で英廉に耳打ちした。
「先ほどの太い車夫ですが、その主人に当たるのが、あそこの少年です。これまた食えない奴でして」
とそっと目である少年を指した。


  


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和[王申]少年物語46、供の控室にて

2017年01月22日 18時07分40秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学は三つの四合院を重ねた「三進院」作りであった。

正門から入った「一進院」は、正面の南向き三間には孔子さまが鎮座まします祭祀堂である。
中国の伝統では、学問を身に着けるとは、儒教的な礼節を身に着けることであり、
学生たちは勉強に入る前に孔子像に跪いた後、授業に入った。  

東西の部屋は、それぞれ先生らの控え室であったり、供の者の控え室であった。
学生は十歳から入学するため、城内各地から馬に乗って通学するには単独ではいけないため、
お供の者をつけることが許されているのだ。


英廉はぶらぶらと手を後ろに組みながら、最初の中庭の中を歩き回る。
正門から入ってすぐの部分が簡単な応接間になっていたが、
英廉はすぐにそこに入らず、中庭と四方の家屋をつないでいる屋根つきの渡り廊下をゆったりと歩いていった。

ふと伴の者の控え室の前に差し掛かる。
英廉は何気なく中に入った。

むっと汗と垢、土ぼこりのにおいが襲い掛かる。
新陳代謝の塊のような青壮年の男たちの放つ強烈なにおいだ。

少年たちのお供をするとなれば、
坊ちゃまを馬に乗せて自分は歩いてそれを引いたり、あるいは驢馬車を御するにしても、
共に乗馬で伴うにしても、体を使った肉体労働である。

用心棒の役割も果たせなければならないから、壮健で腕力に自信ある連中ばかりだろう。
そんなむつくけき男どもが狭い部屋に集められれば、自然とそれを代表する異臭となるわけである。

そもそもこの時代の中国北方の習慣では、めったに風呂に入ることもなかったし、
ましてや冬の衣服を頻繁に着替える習慣もない。

ころころもふもふに膨らんだ綿入れの防寒着の袖のすそは、垢と鼻水とわけのわからない生活汚れで黒光りしているのが普通。
そんな綿入れから発せられる何ヶ月もの体臭と汗腺を通ってきたにんにくの強烈な匂い……。
推して測るべしである。

入ってきた人品卑しからぬ初老のご老人を見て、数人が気がついた。

ねずみ男が紹介するまでもなく、
「英大人」(インターレン)
とさっと立ち上がり、呼びかけた。

それを受けてほかの者たちも相手を悟り、次々と名前を呼んで立ち上がった。
 

ところが一人だけ笠を目深にかぶったまま片ひざを抱えて斜めに座り込み、ふてぶてしく無視するやつがいる。
立ち上がっていないのではっきりとはわからないが、骨格だけを見ても相当な大男だ。

そして体中から放つ殺気と存在感がすさまじい。
 
部屋中の者が一通り立ち上がって英廉の名前を呼び終わると、
一瞬の沈黙が流れ、皆の視線が自然とそのふてぶてしい物体に注がれた。

緊張した空気が流れ、場が凍った。
「お、おい。劉全! またおまえか・・・・。内務府大臣の英廉大人がお越しだ。ご挨拶は」
ねずみ男が怒鳴り声を上げた。

その声が響き終わると、再び静寂が訪れ、皆が固唾を呑んでその物体の反応を待った。
 
ところが、次の瞬間に聞こえてきたのは、ぐおおおお、と見事な吸い込み頭のいびきであったのだ。
 
英廉も呑まれた。
 
皆も呑まれた。


  

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和[王申]少年物語45、学校での回想

2017年01月20日 17時53分36秒 | 和珅少年物語
英廉は、動揺する孫娘を見やりながら、昼間の咸安宮官学での出来事を思い出していた。

「英大人」
「英大人」
英廉が学校の正門をくぐろうとすると、侍衛らが次々と声をかける。

中庭に入ったところで、門の並びの部屋から人が飛び出してきた。
「英大人、これはまた突然のお越しで……」

振り返ると、李峰がねずみのように細く釣りあがった目に愛想笑いをこめて立ってる。
学校には内務府から事務官が四人派遣されており、彼はその責任者だった。

ちょんちょん、と数本しかないひげがねずみのそっくりなので、英廉はひそかに
――ねずみ男
と呼んでいた。

内務府は、成立当時より包衣を中心に構成されている。
この男も包衣出身であるからには、先祖は漢人のはずだが、ツングース系の血が濃いのか、ひげが薄い。

長城の北から来た人々は体毛が薄く、すねも脇の下もつるつる、
ひげもぴょこっぴょこっと左右に数本ずつしかはえない者も多い。

いずれにしても、包衣は数代にもわたり長城の北で暮らしており、複雑な歴史的背景で混血を繰り返してきた。
満人に強姦されて混血したものもいれば、
高麗人参の貿易を通して満人が富をなして都市に住み着いて漢語でしゃべり、
漢服を着るようになり、しかるのちに「漢人」として再び征服された例もあるという。

……となれば、もう民族的な違いは自我の差であったり、社会的な認証の差でしかなくなっている。

「子供らの意気のいい叫び声を聞いていると、力が湧いてきて、ふらふらと寄ってしまうわい」
「……それはそれは」
心なしか膝をやや曲げて姿勢を低くしつつかしこまっていた李峰は、やや訝しげに首をかしげた。

--本当にそれだけの用事ですかい
とでも言いたげだ。
 
目的もなしにふらりとやってきたのかといえば、確かに完全にそうとも言い切れなかった。
心密かに孫娘の縁談相手を物色する下心があったのだから。

英廉はうなずきながら、李峰に案内され客庁(応接間)に入り、腰掛けた。

学校は「三進院」になっていた。
「三合院」を縦に三組重ねた形、つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。

本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、
北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、倉庫程度しか使い道がない。

このためにいっそのこと反対側に窓を開け、前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。
つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、
これが「一院」九部屋、「三院」で合計二十七間の作りである。
 





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和[王申]少年物語44、外八旗に嫁に行く

2017年01月18日 01時21分27秒 | 和珅少年物語
侍女の麗梅(リーメイ)は、厨房で仕入れた使用人たちの噂話をひっきりなしにまくし立てていた。
しかし月瑶は上の空でそれを受け流し、まだ酸味が強くない中途半端な刺激の酸菜湯(スアンツアイタン=白菜の漬物スープ)を
機械的に杓子(シャオズ=スプーン)で口に運んでいた。
 
脳裏を往来していたのは、数日前に祖父の英廉が言い出したことだ。
朝、請安(チンアン=ご機嫌伺い)に祖父を訪ね、そのまま堂でお茶をいただいていたときだった。

「月月(ユエユエ)」
英廉は孫娘の幼名を呼んだ。
大きく息をして湯のみのふたを閉じ、横の卓上に置く。

月謡が相槌を打つ代わりに口元にわずかに匂う寸前の好意を漂わせて少し首をかしげた。
「どこに出しても恥ずかしくない娘になったのお……」

英廉は孫娘の横顔を両手で真綿を包み込むような暖かさで見つめた。
目尻のしわに流れ込むのは、薄氷を踏むが如き長い官僚人生で築き上げてきた容易ならぬ日々への感慨であったかもしれない。

「この春節でいくつになる」
この時代の年の数え方では、誕生日の遅い早いに関わらず、春節(新年)に一斉に一歳年をとる。
個別に誕生日を祝うこともあるが、春節を区切りとするのが基本である。

「十五になります……」
月謡は小声で答えると、うつむいた。
年頃の娘にとって家長から年齢を問われることが何を意味するか、予感のようなものは感じられる。

「月月。外八旗(ワイパーチー)に嫁に行くのは嫌か」
祖父の唐突な質問に、月謡ははっと顔を上げた。見る見るうちに眉根を寄せ、眼が潤む。

「爺爺(イエイエ)。もしや、月月にもうお婿様を決めてしまったのですか」
若い娘にとっては生涯がかかっている。

――まさか……何の前触れもなしに……。

自分の意志で相手が選べるとは思っていないが、
これまでこんなに自分を愛しんできた祖父ではないか。

両親との死別以来、肩を寄せ合うようにして暮らして来たのに、
結婚のこととなれば世間一般の親のように娘に意志に関係なく勝手に決めてしまったのだろうか。

「そうではない。
 ただ内務三旗ではなく外八旗にもし家柄のいい前途も有望な良い青年がおれば、ぴったりと思ったまでじゃ」

孫娘は黙って首を垂れている。
うなじに垂直になったまとめ髪の燕尾(イエンウェイ)がかすかに震える。
 
英廉がいうのは、本来は包衣家系という奴隷階級の出身である家系は、
同じ家柄の包衣同士で通婚するのが慣わしであったが、
そうではなくて、いわば格上に当たる普通の八旗の家柄に嫁に行くのはいやか、と聞いたのである。

「うちは今、微妙な立場にある。
 爺爺は、内務府三旗の中では高位まで登りつめた。
 
 そなたの相手に門当戸対(メンダンフートイ、家柄が釣り合う)な相手を探すと言っても、
 三旗には釣り合う家柄が少ない。
 
 のう。そうではないか。」

月謡にとっても、それは日頃から考えていることでもあった。


  


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和[王申]少年物語43、冬の風物詩、酸菜白肉

2017年01月16日 17時18分20秒 | 和珅少年物語
嫁入り前の馮月瑶の日々は、侍女の麗梅との日々で過ぎていった。
家庭教師から授業を受けるほか、普段は二人で部屋で刺繍をしたり、おしゃべりをしながら過ごす。

季節はそろそろ冬になろうとしていた。
寒さが増し、炕(かん、オンドル)に火が入り、
食卓に初めての「酸菜(スアンツアイ、白菜の漬物)と白肉(バイロウ)、春雨の煮物が上がった。

「今年は師傅(シーフ)が変わったら、ひどく美味になったと皆が申しておりましたり」
先ほど厨房で少しいただきました、と麗梅が物珍しげに言った。

江南出身の麗梅も北国の風物を楽しんでいる。
--もう酸菜が出る季節になってしまった……。

月謡はここしばらく放心して過ごした自分の日々を振り返らずにはいられなかった。

 
馮家は内務府所属とはいえ、さすがに満州族ではないので、
家で「薩満跳神(サーマンティアオシェン)」を頼み、豚肉の水煮を備えることはしない。

「薩満」(サーマン)は、「シャーマン」の語源。
北アジアツングース系民族に共通する巫女である。

「跳神」(ティアオシェン)は、薩満(サーマン)が神がかりな恍惚状態となり精霊を乗り移らせる儀式だが、
跳んだりはねたりトランス状態となって時には痙攣して口から泡を吹かして失神したりもする。

儀式のお供え物は、豚肉だ。

満州族が広大な北方の森林地帯で生活していた頃、
満州の地では豚が家畜として主力をなしていたため、
供え物には大鍋のぐらぐらと煮えたぎる湯の中で豚肉の塊を煮る。

祭事が終わると、この「白肉」(バイロウ)は料理に利用され、
鍋物に入れたり、にんにくやごま油とあえ物にしたりする。

満州族の大家では儀式が頻繁にあり、白肉が大量に出るため、誰もが食べ飽きていた。
見るのもいやになり、外に売るくらいである。
 

馮家の食卓にも白肉が入った料理が出るが、これは祭事肉ではなく、
すでに北京の風土料理と化した「酸菜白肉」(スアンツアイ・バイロウ)の具として登場したのである。

「酸っぱさの中にも、こくがあると思いません? 作り方は同じなのに、不思議ですわね」
麗梅が土鍋から茶碗に取り分けた。

鼻をかすかに刺激する酸味がかった匂いが蒸気とともに漂ってきた。
冬の到来を実感する瞬間である。
 
酸菜は、外の水瓶に張る氷が、斧でもかち割れないほどしっかり凍る寒さになってから初めて漬ける。
低温でじっくり発酵させた方がうまみが増すからだ。

極寒の冬が数ヶ月も続く京師(北京)では、野菜と言えばひたすら白菜である。
馮家の厨房裏にも半地下に掘った野菜貯蔵庫がある。

白菜や大根、にんじん、じゃがいもなどの根菜類を冬口に大量に買い込み、
この地下室に保存し、入り口は扉に厳重に綿入りの門簾をかけ、外気を遮断する。

門簾というが、平たく言えばふとんである。
入り口にふとんをかけて保温しないと、中まで凍ってしまうのだ。

垂れた鼻水がそのままつららになるような極寒でも、地下室はじっとりと暖かい。
程よい湿気があるため、葱だって表面の皮をむく必要がないほどだ。

冬、野菜の種類はどうしても単調になりがちだが、それを紛らせてくれるのが酸菜でもあった。





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和[王申]少年物語42、纏足の威力

2017年01月14日 16時32分11秒 | 和珅少年物語
旗装は纏足女性には無理である。

清朝建国当時、満州族が漢族に対して、
男性には全員辮髪と旗装を強要したことは、有名な話だ。

しかし女性に対しては一切制約がなく、伝統的な漢族の風俗をそのまま続けることが許されたのである。


ところが時代が下るにつれ、いかんせん支配者階級の裕福な階層のやることは、下々の者にも伝染しやすい。

漢族女性の伝統的な服装はスカートだが、
満州族の多い首都の女性は次第にズボンをはくようになる。

また漢族文化の正統を受け継ぐと自負する江南でも、
いわゆるチャイナボタンやたて襟をデザインとして採用するようになり(和服のようにボタンなしで帯で固定する方法ではなく)
次第に両者の境界線が、まだらになってくる。


それでも纏足には、足元がゆったりとした服装が圧倒的によく似合う。

このため江南女性の服装には、首から肩元をなで肩が生えるようにすっきりと見せ、
纏足の足元は、地面に触れるくらいの長く、たっぷりとボリュームのあるスカートが最も喜ばれた。

旗装の場合は、形状としては現在いわゆる「チャイナドレス」と言われているワンピース型だが
もう少し腰周りをゆったりとさせ、あまりはっきり体のラインを見せないのが特徴だ。

その下にズボンをはいて、木で高くしたぽっくりのような靴をはき、ぽっくりぽっくり、ころんころんと歩く。


これに対して纏足は。

前述のとおり、纏足女性は歩き方で一目で判別がつく。
夜中に遠目に影が揺れたって、そうだとすぐにわかる。

足の指を内側に折り曲げた極限の不均衡状態にあるため、
必ず足を逆「ハ」の字に開きながら進まないと、均衡を崩して倒れる。

足先が真っ直ぐ前に向くことは有り得ず、常に斜め四十五度外に開ける。
歩幅も胸より先を越えると、これまた均衡を崩して倒れるため、自分の足幅程度にしかよちよちと進めない。

膝を曲げて後ろ足で地面を蹴れば、勢いで倒れるので、太ももの付け根から直接足を持ち上げ、いっそのこと、膝も曲げない。

すると、足を下ろした瞬間にお尻が上下する。
小刻みにお尻を左右に振りながら進む様子は、確かにあたかも踊りの振り付けのようでもある。


――これでは、殿方に襲ってください、って言ってるようなものだわ。

初めて麗梅の動作を見たとき、あまりのくねくねとした悩ましげな姿態に、
月謡は子供心につくづくと納得したものだった。

馮家に来たとき、麗梅の足はすでに見事な纏足に仕上がっていた。


--月謡が初めて見る纏足だった。
 
旗人は旗人同士の付き合いしかない。
男性は外の社会でさまざまな社交があるが、女性同士はどうしても親戚づきあいが中心となる。

馮家も婚姻関係はほとんど旗人同士、包衣同士だった。
例え妾分に漢人がいたとしても、その家族が堂々たる親戚として正門をくぐって尋ねて来て家族に紹介されることは決してなかった。

英廉自身にも漢人女性の妾もいない。

英廉の夫人ももう今は亡く、嫁も亡く、
女主人のいない馮家で、月謡はめったに女性同士の親戚づきあいもなく育ったのだった。





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和[王申]少年物語41、八旗の娘の日常

2017年01月12日 13時19分49秒 | 和珅少年物語
嫁入り前の娘の日常は、ほとんどを侍女と過ごす日々であった。

女親がいない月瑶(げつよう、ユエヤオ)にとっては、特にそうであった。

祖母も母も早くに亡くなっている。

祖母が亡くなった時、すでに老年に達していた祖父の英廉は、
女の機嫌を取ることも面倒がり、後添えや妾も取らなかった。

女中頭のような年増がいるが、小姐(シャオジエ=お嬢様)の月瑶には遠慮があって日常生活を管理するほどまでには至っていなかった。


この数年、月瑶付きになっている侍女の中でも、一番の仲良しは麗梅(リーメイ)だった。

麗梅は元来、江南の中流家庭の出だったが、
父親が一族の刑事事件に連座したために身売りしたのが、わずか二年ほど前のことである。

この時代、名のある名家が親族の各種災難に連座してあっという間に財産没収、一家離散、身売り
……という天変地異となることは、どこにでも普通に転がっていた話で、
彼女の身の上もそれほど珍しいものでもなかった。

しっかりとした教養も身につけている麗梅を、英廉が孫娘の陪読(ペイドゥー=勉強相手)として買い取って来たのである。
それ以来二人は主従関係ではあるが、姉妹のように寝食を共にしてきた。

二人は家庭教師からの授業も一緒に受け、午後のけだるい陽だまりの中を共に刺繍を刺して過ごした。


そんな生活の中でただ一つだけ、麗梅が嫌がることがあった。

それは旗人女性の風俗である「街歩き」である。

漢族の良家の女性は、中年を過ぎるまで公衆の面前に姿をさらすことはしないことは以前にも触れたとおりである。

嫁入り前の娘は、
――大門不出
家の門でさえ外に跨がないのが良家の証であったし、
その後も実家に帰ったり、親戚の家を訪ねるにも籠や驢馬車の奥深くに入り込み、公衆に姿をさらすことは決してない。

街で見かけるのは、華も艶も枯れ果てた中年も終わりの、しかも下層階級の女性たちばかりである。



この両者の間、行政区分的には「旗人」と「民人」(漢族)という区別があるとはいえ、
人種的にはっきりと違いがあるかといえば、そうでもない。

満州族はツングース系のため、頬骨が高く一重まぶたで額が突き出ている、と言った特徴はある。

そのため現代の北京でも、祖父母の代に数分の一満州族の血が混じっていると告白してくれた中国の人が、
確かに明らかにツングース的肉体特徴を備えていることはある。

しかし旗人の中には月瑶のように馮(フォン)という純粋な漢姓を維持したままの漢人(この場合は包衣という身分枠で)もいれば、
そのほかにも、多くの漢族の血も混じっている。

たとえば、最後の皇帝溥儀やその弟の溥傑の実の祖母は正妻ではなく、
漢族の妾だったことなど、そういう例は日常的にどこにでも転がっていた話であった。

正妻には満州族女性を娶るが、その妻に嫡子が生まれない場合は、漢族の妾が産んだハーフが当主となる。

数世代に渡り、そのような混血が繰り返されていくうちに、
もはや血統的な純粋が、「旗人」と「民人」(漢人)の区別の根拠とはなりにくくなっていた。


--それなら麗梅が、旗装(チージュワン=旗人の服装)で街に出れば別に誰もわかりはしないではないか、
と思うかもしれないが、そうはいかない。

麗梅は江南の良家の子女らしく、みごとな纏足に仕上がっていたため、歩き方で一目でばれてしまう。


  

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和[王申]少年物語40、嫁入り前の日々

2017年01月10日 06時51分10秒 | 和珅少年物語
祖父が自分の婿を探していることなど露知らず、馮月瑶(ふうげつよう)は天真爛漫な日々を送っていた。

年は和珅より一つ年下の十六歳。
当時は数え年が一般的だったので、十七歳。
--立派な適齢期である。

しかし母親が早くに亡くなり、結婚のことを日々口にしてはその覚悟を決めさせる大人がいなかった。
周りの少女たちにそろそろ縁談の話が来ていても、自分は蚊帳の外だと思っているところがあった。

祖父の英廉は、むやみやたらにあちこちの縁談話を月瑶に聞かせたりはしない。
これは、と思う人物を見極めるまでじっと何も口にしないだけなのだったが、
そんな祖父の胸の内を少女は知る由もなかった。

月瑶には、祖父しか肉親がいなかった。
使用人はおれども、家族と言える存在は祖父のみだ。

祖母の思い出もおぼろげにあったが、肉親としての情が湧く前に亡くなってしまった。
月謡が覚えている祖母は、毎朝のご機嫌伺いに部屋を訪れるとき、
厳つい肩を反らせて、黒光りした椅子に腰掛けている姿だった。

血は漢族とはいえ、何世代も関外(万里の長城の北)で暮らすうちに、
包衣も北方の異民族諸部族と同じように骨太のがっちりした体格になっていた。


包衣は包衣同士の結婚が一般的なため、祖母も包衣家庭の出身だった。
体は右側にある机に気持ち傾けられ、五彩の蓋と受け皿のついた湯飲みを両手で持ち上げていた。

両手の小指と薬指には長い爪を保護するための爪覆いをはめている。
祖母の指は、その太い骨組みと同様に節くれだち、女性的ではなかったが、
鼻にかかった息とも声ともつかない声音を思わせるような微妙な曲線と細さを描いた爪覆いが、
見事にその無骨な印象を隠していた。

その上、手に持つ五彩の湯のみに描かれた花草は細い線の黒い縁取りで囲まれた細さが白い地肌に浮き上がり、
さらに指の動きを繊細に見せた。

 
月謡は、角度が変わるたびに透き通った琺瑯質の青や緑の唐草模様が、
光を反射させて揺らめくのを目で追い、その威圧的で優雅な指の動きに見入っていた。

祖母は左手で受け皿を持ち、右手で蓋をわずかにずらせて、湯のみをそっと口につけた。
両手からは四本の細長いかすかに曲がった指が反りあがって宙に突き出、冬野にそよぐ枯れ枝のような影を形作っていた。
 

大人の女になるとは、こういうことなのか―――。

月謡は祖母がやんわりとした口調で問いかける勉学の進み具合に関する質問も、
ほとんど心に留めることなく、ただひたすらその青い光の揺らめきばかりを目で追ったものだった。

まだ十六歳の月瑶には、そんなけだるい退廃的な成熟した女性の放つ優雅さはなかった。

北国の良家の令嬢のまっすぐさと健全さが感じられる少女だ。




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和[王申]少年物語39、英廉の一目惚れ

2017年01月08日 09時21分22秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学の教官が、科挙受験科目の成績のいい学生ばかりを推薦するのを英廉は、うんざりしながら聞いていた。

―― 思考回路が完全に漢化しとるわ。

英廉は自分も元々は漢人だが、八旗の一員であることに誇りを持っていた。
それは旗人であることが特権であり、権力への切符でもあるからだ。


科挙はあくまでも権力に近づくための手段でしかなく、最初から権力に近い旗人にとっては決定的要素ではない。

―― さてさて。あの攻撃的な目線の意味を探らねばの。

孫娘を託す青年には、へなちょこの根性のない男はだめだというのが、英廉の強い希望であった。
しかし家柄のいい家庭出身の婿を選びたいと思えば、
ほとんどがなよなよとした甘えん坊の坊ちゃん育ちばかりで、どうにも情けない青年しかいなくて往生していた。

―― 八旗もこれじゃあ、先が思いやられるわ。お上が嘆かれるのもわかるわい。


乾隆帝は八旗が軟弱化したのを大いに嘆いていた。
そのためにも承徳での夏の巻き狩りはほとんど毎年欠かすことなく、
自らも馬にまたがり、弓を引いて猛々しく狩りを指揮しているのである。


英廉もいざ自分の婿を探すとなると、本当にまともな青年がいないことを改めて知った。
思いあぐねている目の前に現れた和珅の剽悍な鋭い視線は、英廉をどきりとさせた。

―― おお。おったわい。

はっきり言って一目惚れである。
おっさんが青年に一目惚れした。

もちろん性的な意味ではなく、孫の婿がねとしてである。
それでも一目惚れというのはある。
 
しかしその視線の意味を探らねばならない。
何か強く訴えかけるような目には、世の中への怒りがこもっている。

その怒りは何に対してなのか。

それは将来自分と接することによっていい方向に矯正していける種類のものなのか、
ただ単にどうしようもない危ない奴で箸にも棒にもひっかからないのか。
 
英廉は息子をなくした心の空虚もあったし、
二十代から三十代にかけての働き盛りの頃は、仕事にかけずりまわっていて子育ては家庭教師と妻にまかせっきりで、
半年に一度も会えないこともよくあった。

安定した地位まで登りつめ、人生も一段落した今、
初めて手塩にかけて誰かを育ててみたいと強く思うようになっていた。
 
これまでも孫娘の月搖は、そういう気持ちで育ててきた。
自ら四書五経の類も厳しく仕込んで、自分の子供よりもよほど多くの時間を共に過ごしてきた。

しかし何分、女である。

どれだけ優れた女性に仕上げようとも、所詮は国家の大事を背負うような活躍の場は与えられない。
やはり将来有望な男を育ててみたい。
 

英廉は、最初から肌に肌をぶつけて取っ組み合える濃厚な人間関係を持てる相手を選ぼうとやる気まんまんだった。

それには、選び出した青年の方が最初からあまりしがらみを抱えているようでは、かなわない。

青年の家や両親が強くその将来や生活に干渉してくるような家庭環境にあるなら、
自分の家族に愛情を注ぐのが精一杯で、こちらまで気持ちを注ぐ余裕はないだろう。

愛情も精神も満たされていれば、自分の愛情だって必要とはしない上、逆に煩わしく思われるのがおちである。




  

  









頤和園の展示物。

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和[王申]少年物語38、風変わりな特技

2017年01月06日 13時49分39秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学の中から、英廉は和珅を孫娘の婿候補として選んだ。

学校の教官陣は、和珅少年を変わったことに秀でている変人、と評価した。

チベット語、現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似が得意だというのだ。
聞いた英廉は苦笑いした。

どちらも科挙にはまったく役にたたない。

斜に構えて世の中を薄笑いを浮かべて見ているようなあの黒目勝ちな目を思い浮かべると、
――やりそうなこった
と、納得がいった。

 
しかし八旗に所属する満州族を中心とする旗人の出世は、科挙が中心ではなく、
家柄、爵位、先祖の功績、武芸などが、より重視される。

科挙は、一般人(民人)と旗人枠が別に設けられ、試験も採用基準も違う上、
旗人枠は通常の科挙のように三年に一度きっちり開かれるわけではない。

たまになくなったり、また再開されたりしてあまりまじめに執り行われない。
――文弱な漢文化のまねをして、若者が机にかじりついて勉強ばかりしていれば、国の屋台骨に関わる。
という満州人の危機感から来ているのだ。

 
それでも時代が進み、旗人社会が次第に漢人の価値観に染まっていくに従い、科挙の価値も上がっていった。
 
和珅の青年時代の乾隆末期には、すでに満州人社会でも科挙出身者であることが、重要な意味を持つようになってきていた。
 
ところが、和珅はその科挙の受験科目である四書五経にはどうも抜群の成績というほどでもないらしい。
――四書五経の成績も悪くはないですが、今度の科挙に確実合格となる優秀な学生が、ほかにいますよ。
教官はそういって身を乗り出した。

――なんだって、よりによってああいうひねくれたもんを気に入るかなあ。
と明らかにいぶかしんでいる風だった。

教官にとって、自分の教え子の中から科挙合格者や将来出世する人材を出すことは、教官の業績にもつながる。
教官の任期は三年。
その間にどれだけ優秀な学生を官界に送り出したかにより、次の転属先が決まるのだ。

――こやつは、わかっとらん。

生き馬の目を抜く官界を泳ぎきって、初老の年になった英廉の経験からすると、
科挙合格はそこまで重視しなくてもよいものだった。

漢人にとっての科挙は、中央に身を置くための資格の一つとして、これに合格しなければ始まらない。
数億人の人口の中から、まずは皇帝や中枢機構の政治家の目にとまるくらい近くまで来るためには、科挙に及第するしかないのだ。

そこから初めてそれ以外のスキルを発揮する資格を得る。
人間的な魅力、事務能力、責任感、モラル、勇気、忍耐力、
そういったすべてのスキルは、科挙に及第しなければまったく使うチャンスさえもできない。
 
だからこそ、漢人社会で科挙は重要だ。
 

ところが満州人社会では、そうではない。

首都生まれで曲がりなりにも三等軽車尉という爵位を持つ家系に生まれている和珅は、
すでにかなり権力の中枢に近い。

重要なのは、科挙に受かる能力ではなく、人間的魅力とそれ以外の能力だ。


  





  


頤和園の展示物。

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和[王申]少年物語37、英廉が和[王申]を婿に選んだわけ

2017年01月04日 10時21分28秒 | 和珅少年物語
英廉は、役得に乗じて孫娘の婿を咸安宮官学から選ぶことに決めていた。
そしてできるなら、満州八旗から選びたかった。
 
英廉は奴隷身分の「包位(ボウイ)」出身なので、本来なら満州族とは身分違いである。
現に建国当時は満州族との通婚は許されていなかった。

ところが、包衣も八旗の一員として、ごく少数の支配階級のはしくれに数えられるようになり、
皇帝のおそば近くにいるということで、絶大な権力を持って栄華を極める名門家系も出てきた。

『紅楼夢』の作者、曹雪芹の家柄はその典型的な例と言える。


こうして建国から百年以上たっていたこの時期、ぼつぼつと包衣と満州族の通婚は前例が出てきていた。
 

……が、例は多くない。
やはり包衣は包衣の家柄同士での通婚が圧倒的だった。

そんな中で、英廉は婿を
――どうしても、満州八旗から
とこだわったのである。

理由は、本人の地位の高さにあった。
英廉は、当世の包衣集団の中で一番の出世頭であったのだ。

内務府大臣といえば、これはもう堂々たる包衣集団のトップだ。
加えて戸部侍郎も兼任する。
今でいう大蔵省の二番手だ。

包衣集団からこの地位まで登り詰めた人間は、同時代にはいなかった。


――釣り合う家庭がないわい。
というのが理由である。


実は包衣出身者と満州八旗との通婚は、包衣側が高い地位を極めて初めて可能となる。

前述の『紅楼夢』曹雪芹の家庭は、曹寅が康熙帝の乳兄弟なり、
皇帝家のもっとも信頼厚い人材のみが任せられる「江寧織造」を三代に渡って務め上げた家庭である。
そのために曹寅の娘が皇族・平郡王の福晋(フジン=夫人)として嫁いだ。
 

英廉は、自分にも満洲八旗本体との通婚の資格があると判断した。

しかしあまりにも名門よりは、将来性は高いが、現時点であまり地位の高くない青年がいい。
鼻持ちならないところに嫁に行って、孫娘が苦労するのは、見るに忍びないからだ。
 

--和珅はその条件にぴったりだった。
 
学校で青年は目立っていた。
口を開ければ物が自然に口の中に運ばれ、手を伸ばせは服を着せてくれるような甘ったれたぼんぼん育ちが多い中で、
和珅の目つきは確実に野性味があった。

――お。いい眼をしとる。

一目見ただけでも、荒んだ心の孤独を感じさせる鋭い刃物のような内面が見て取れるような面構えだった。


そこでまずは身元調査にとりかかった。

手始めに学校の教官らに評判を聞いてみる。
教官は眉を顰めた。

あの触れただけで切れそうな視線から見て、
どうやら心服できない先生には、徹底的に反抗してるらしいことが感じ取れた。

優等生ではない。

――変わった輩でございます。役にも立たないことばかりに抜きん出ておりまして。
と、教官は苦笑いする。

ほお・・。
英廉は身を乗り出した。


――蔵語にかけては、かの者の右に出る者はおりません。
 それから、筆跡が今上に瓜二つでございまして。
 これは確かに見事でございます。

英廉はうなった。
蔵語はチベット語である。
確かに出世登用の試験にはない科目だ。

現皇帝である乾隆帝の筆跡の真似など、もちろん試験科目にあるわけはない。


――ううむ。なかなか変わっとるわ。








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和[王申]少年物語36、和[王申]を婿に

2017年01月02日 10時25分57秒 | 和珅少年物語
満州女性の風習に話がそれたが、話を本題の和珅に戻す。
 
満州族を中心とする八旗社会のエリート校、咸安宮官学で勉学に励む和珅、和琳兄弟であったが、
これをひそかに見守っている人物がいた。
 
内務府大臣の英廉(えいれん)である。
これまで見てきたように咸安宮官学は、後にこそ満州族子弟のためのエリート校として発展したが、
発足当初は内務府「包衣」子弟しか対象としなかった。

「包衣」、満州語の「ボーイアハ」、家の奴僕を指す。
多くは遠い昔、満州族が北京入りする前、満州の地で漢人の戦争捕虜や普通の農民を奴隷にした者たちである。

彼らはそのまま代々仕え、「内務府包衣」は、その中でも皇帝一家に仕える人々をいう。
英廉自身も包衣出身であり、先祖は漢人、その末裔に当たる。

皇帝一家の生活こもごも、暮らし向きに関するあらゆる雑用をこなす機関「内務府」は、
この代々の「内輪の人間」である包衣を中心に運営されていた。

内務府大臣は、必ず包衣出身者しかならないというわけでもない。
皇族、皇子(乾隆帝の息子も内務府大臣を務めている)、寵臣(のちに和珅も内務府大臣になる)などが務めることもあるが、
無難な人材がいないときには、とりあえず包衣の中から選ぶことが多く、英廉はそんな事情で内務府大臣を務めていた。

しかして咸安宮官学は、最初包衣子弟のための学校とした発足されたという経緯のために、
最初から内務府の管轄下に入っていた。

その後、満州族や八旗全体に開放されてもその管轄はそのまま内務府に属したままだったのである。

内務府大臣として、英廉は咸安宮官学によく顔を出した。
場所も近かったのである。

内務府の役所は、紫禁城の西華門の辺りに集中しており、咸安宮官学もその界隈にある。
公務の合間に、視察と銘打ってはちょくちょくとのぞきに行った。    

総責任者である大臣が、末端の一機関でしかない学校にわざわざ熱心に視察を重ねる必要はどこにもなかったのだが、
これには下心があった。

--適齢期にある孫娘、馮月謡(ふうげつよう)のために婿がねを物色することだった。

当時の適齢期は十五歳から十七歳前後を言い、
咸安宮官学の学生は十一歳から二十歳過ぎの青年らを中心としていたからちょうどおあつらえ向きだったのである。

野史(民間の伝説)によると、英廉は早くに息子夫婦をなくし、孫娘が唯一の落とし胤だったという。
つまりは、この孫娘に婿をもらい、家を盛り立てて行ってもらわないと、家系が途絶えるということである。

このためこの婿がね選びには、とりわけ気合いが入っていた。
咸安宮官学は八旗社会一番の名門校であり、人材としては申し分ない。

あまたいる学生の中でも、英廉が熱い視線を注いでいたのが、和珅だったらしい。





北京動物園の中にある清の農事試験場跡。


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