いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬10、陳廷敬以後の『皇城相府』

2016年09月13日 15時33分44秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
最後に皇城相府のその後の物語を紹介したいと思う。


そもそも『皇城』とは、清代でいえば紫禁城のもう一つ外をぐるりと囲む城壁のこと、
その中は紫禁城と同様に一般人が立ち入ることのできない『禁地』である。

地方の田舎町にその名がついているとは、どういうことなのか。
いくら陳廷敬が帝師だったからと言って、あまりにも僭越なのではないかと考えるのが自然である。




次のような俗説もある。

即ち、陳廷敬が母を北京に呼び寄せたいと願ったが、
年を取っての移住を億劫に思う母が同意してくれなかったため、故郷に『小北京』を作って孝行した--。

しかしこの俗説は、年代的にも無理がある。

陳廷敬の建てたのは、皇城相府の『外城』だが、その創建時期は康熙四十二(一七0三)年。
これに対して母の張氏が亡くなったのは康熙十七(一六七八)年、と遥か前である。
母親のなくなった当時、陳廷敬はまだ翰林院掌院学士兼礼部侍郎という二品官でしかなかった。

僭越なことをやらかすことができるような高官でもなかったのである。



--真相は次のようなものだ。

陳廷敬の死後、『小北京』として屋敷を自慢に思う気持ちから、村人たちは雅称として『皇城』と名付けたかった……。

しかしそれではお上の逆鱗に触れること間違いないため、仕方なく『黄城』と呼んでいた。
中国語で『黄城』と『皇城』は同音。
--ともに「huang2 cheng2 」(ホワンチョン)と読むから、せめて音だけでもあやかりたいと思ったのである。

その後清末になり、清政権の弱体化のどさくさに紛れて次第に『皇城』と名乗るようになった--ということらしい。



陳家は乾隆年間に挙人を二人輩出した後は、衰退してゆく。

前述のとおり、山西は元々科挙の合格者を多く輩出する地域というわけではない。
時代が下り政権が安定するにつれて、官界は南方勢が中心となっていく。


清末民初には、皇城相府全体が老朽化して修繕もままならない状態となる。

さらに新中国成立後は、ご多聞に漏れず政治運動の荒波にもみくちゃにされる。
壮大な資本主義の遺産として打倒の対象となり、陳氏の後裔の人々も身を縮めて生きることになった。

特に文化大革命では破壊の嵐が吹き荒れた。

康熙帝の真筆『点翰堂』の扁額は引きずりおろされてかち割られ、
陳廷敬の肖像画は跡形もなくどこかへ消えてしまい、陳廷敬の墓も暴かれた。



八十年代になってもまだ農家の石炭置き場やブタ小屋の横に置かれているものがあった。
--今、皇城相府の門楼に立つ石碑『午亭山村』の左右に置かれている康熙帝真筆の対聯である。

  春帰喬木濃蔭茂  
  秋到黄花晩節香

    春風が吹き、喬木が高く濃く茂る。
    秋霜が降り、菊の花が咲いて、その晩節が香る。


康熙帝が陳廷敬の死の一年前、康熙五十(一七一一)年に贈ったと言われる。



かつて栄光に包まれた文化の薫陶高き屋敷は、石炭を積み豚を飼うための農村の一家屋となり果てた。
--中国全土で見られた光景である。


九十年代初めでも皇城相府の『点翰堂』の建物は、まだ牛舎。
中庭を鶏がコッコと駆け回っていた。


















そんな廃屋同然だった皇城相府を現在の姿にした立役者がいる。
八十年代から三十年に渡り村のために奮闘してきた村の党委員会書記、張家勝氏だ。

張氏の家系は元々村の出身ではなかった。
祖父が河南から息子と孫を連れて移り住んできたという家の出身だ。

地元で高校を卒業する頃、ちょうど八十年代『改革開放』の黎明期が訪れた。

張氏は建設業に従事して塗装の技術を習得すると、その後は独立。
近隣の村々の家を一軒一軒営業して回り、塗装の仕事を取ってきた。
--村で最初の「万元戸」の誕生である。


その後、その人望と実力を買われてまずは村の民兵連長に選ばれた。
一九八四年、さらに村の委員会主任に選ばれて皇城村数百戸を率いる立場となった。


当時の皇城村は人口七百人余り、平均年収は一人わずか六百元(日本円で約一万円)ほどしかなかった。
どうしたら村を豊かにできるかと考えた結果、
張氏はすでに山西省のあちこちで採掘が始まっていた石炭に目をつけたのだった。

自分たちも炭鉱を開坑しようではないかと思い立ち、許認可の取得、地質調査、坑道の掘削に奔走した。
その結果、数年後には年間生産量三十万トンの炭鉱が安定稼働するようになる。
もちろん雇用などの面で村人を最優先に考慮した。
こうして村人の平均年収は一気に四千元(日本円で約六万円)を超えるようになった。



これは皇城村だけに限らず、山西省全体で起きていた現象である。

中国で「煤老板」(メイラオバン、炭鉱経営者)といえば、山西人のこと。
田舎の成り上がり者の代名詞である。

それだけ石炭は山西に富をもたらした。

ただ皇城村の違うところは、経営に積極的に乗り出したのが「村」という行政単位であり、
村の官僚が村人の権益を代表して経営に当たったことである。

こうして皇城村は、晋城界隈でトップ収入の村「首富村」として名を馳せることとなった。



一九九五年、張氏は村の共産党支部書記に就任。

この時には、村の炭鉱の年間採掘量は百三十五万トンにまで拡大、順調そのものだった。

しかし張氏の頭にあったのは、その先のことだった。
「掘り尽くしてしまったら、その後はどうすればいい?」

村の美しい田園風景は、失われてしまった。
炭鉱により村の景観が一変したのである。



そこで注目したのが、村が出した清代の高官、陳廷敬とその屋敷であった。

張氏はこの遺産をプロデュースすることに力を入れ始める。
一九九七年十二月、陽城県委員会と県政府の主催で全国の有名学者を皇城村に招待。
それまでほとんど存在が注目されていなかった陳廷敬に関するシンポジウム『清代名相・陳廷敬学術研討会』の開催にこぎつけた。



その後一九九八年から二〇〇三年までの間、村は石炭の採掘で蓄積したなけなしの資金を皇城相府の修繕に投入した。
かけた経費は合計一億元余り。

観光地として対外的に開放しつつ、徐々に進めていった。



中でもドラマ『康熙王朝』の撮影誘致が大きく貢献した。

一九九九年冬、張氏は知り合いから五十集のドラマ『康熙王朝』制作の話を耳にすると、
早速プロデューサーへの接触を試み、皇城相府を撮影ロケ地として売り込んだ。

制作側の条件は、受け入れ側も撮影のための資金を提供するというものだった。
その額二百八十万元(日本円で約四千六百万円)余り。

当時村の蓄積をすべてひっくり返しても、用意できないほどの大金だった。

当然、村の幹部以下、反対意見が多かった。
張氏はそれを一人一人説得して回り、ついに村民代表大会で資金供出の件を可決させる。

最終的には自己資金だけでは足りず、銀行から借金をしてまで用意した。


--調べてみると、『康熙王朝』の第十六集に登場するというので、動画で確認してみた。

なるほど、康熙帝を出迎える大仰な行列や調度品のセットなど、確かにかなり大がかりである。
その一部を負担したり、室内の装飾を整えたりする費用に充てられたということだろうか。



二百八十万元の大博打はどうなったか。
--壮絶、大当たりしたのである。

二〇〇一年に『康熙王朝』の放映が始まると、中国全土から観光客が皇城相府にどっと押し寄せた。

この年の観光収入は千五百万元。
一九九九年の五十倍にも当たる額だ。
もちろん二百八十万元の投資が、一年で回収できた計算になる。

二〇〇八年の入場者数は六十万人、観光収入は一億元にも迫った。


その後村ではさらなる多角経営に乗り出し、今では製薬のほか電気自動車分野にまで進出、
総資産十二億元、従業員数四千人を超えるグループ企業を作り上げた。

二〇〇八年、村人の平均年収は三万一千元(日本円で約五十一万円)に達し、村単位では山西省首位となった。
村民の八十パーセントの家庭にインターネット、自家用車があり、九十八パーセントが洋風の一戸建ての自宅に住み、
医療保険・年金の適用率百パーセントという中国の農村部では驚異的な生活レベルを実現した。


そんな「村おこし」と呼ぶには、あまりにもスケールのでかい……興しに興したり、という張家勝氏だが、
残念なことに二〇一五年十二月、交通事故で亡くなった。享年五十九歳。








この光景は、大うけ(爆)。

この二人は、銅像のコスプレ。

中国の観光地を回ったことがある人はわかるだろうが、
中国では、この手の銅像があちこちにおいてある。


昔の手作業を模したもの、昔の装束を着た人、人力車……。
皆、いっしょに並んだり、上にまたがったり、ぶら下がったり、
……かなり荒っぽいことをして、記念写真をする。

荒っぽいことをされるのは、最初から想定内だから、……だから銅製なのである!!
少々のことをされても、びくともしないくらい頑丈なもの!


それくらいの耐久性がないと、中国人の観光客相手にはご奉仕できないというものである。
……そしてこの二人はそれをパロディった、生きた人間の銅像コスプレ。

いやああ。シュールすぎて渋いわああ。
訝しげに覗き込んでいる兄ちゃんの表情も秀逸でっす(爆)。







噂の『康熙王朝』の撮影シーン。




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