本稿は2000-2008年前後、オリンピックに向けた再開発の嵐が吹き荒れる中、
北京で起きた「胡同・四合院・町並み保存運動」の熱が伝染し、
それに突き動かされるが如く構想したものである。
かの風潮の中でベストセラーとなった王軍『城記』(日本語訳・多田麻美『北京再造』)が町並み保存運動の参加者のバイブルとなり、
彼らはブルドーザーになぎ倒される四合院の命を救おうと東奔西走した。
独自の歴史観を持つ者の理論が、強力な説得力を持つことは、儒教の興隆でも証明できる。
諸子百家の中で老子でもなく荘子でもなく、孔子の思想が強い生命力を持ったのは、
儒家が相手を説得するために歴史の中からあらゆる先例を引っ張り出し、自らの理論証明の素材とする体系を確立したからであった。
その意味で王軍『城記』は、清朝滅亡後から今日に至るまでの北京城の『記』として、
その沿革と歴史を詳細に掘り下げ、町並み保存運動者らに理論的武器を与えた。
対する再開発側の主張は、基礎インフラの欠如による生活の不便さの改善である。
胡同と四合院には、上下水道のインフラ設備が完備されていないから、一度ぶっこわしてインフラを通しましょうね、という理論である。
確かに侵略者の日本人からして、さらには解放後の共産党政権にもその伝統はあった。
つまりなまじ数百年の歴史が重なり、緻密な都市計画で「完成」してしまっている「北京城」という歴史の産物の改造は、
膨大な予算がかかるためにあきらめ、さら地にインフラを敷き直し、そこに移り住むという伝統である。
北京を占領した日本軍が、北京城を放り出し、西郊外の五ke松の荒野に一から都市機能を作り直した例(後述)のほか、
共産主義になってからも国家機関の多くは北京城の外に建てられた。
世界的に見ると、例えばモロッコの歴史都市フェスには、
中世そのままの姿を残した旧市街とフランス人エリアが隣り合っているなど、世界のほかの地域でも見られる。
北京には「胡同串子(フートンチュアンズ)」という言葉がある。
直訳すると、「胡同の合間を縫い歩く輩」。
つまりはトイレもない、ぼろぼろの雑居四合院(スラムとまでは言わないが)の間を這いずり回る階層の人たち、
というようなニュアンスがある。
即ち以前の北京では、胡同とは中流の下から下層民が住む場所の代名詞だったのである。
社会的地位が高くなるとアパートを支給されて移り住み、
水洗トイレを享受し、シャワーを浴びることができる。
2000年以前までほとんどの人は職場でシャワーを浴びていたが、
それは雑居長屋に住んでいる場合など家に入浴施設がない人も多かったからだ。
大人の男女はそれぞれに職場で浴びるからいいとして、
では子供たちや仕事をしていない老人ら、事情があり無職の人はどうするかといえば、
街の風呂屋に出かけていくしかない。
その場合、毎日行く習慣はなく、数週間に一度という場合もあったようだ。
大陸性気候で乾燥している北京ではあまり気にならないが、「そろそろいいかげん臭いぞ」と感じるまで行かないという感覚に近い。
ということは胡同に住んで育てば入浴の習慣からして違うことになり、生活感覚がまるで違う。
それをアパート暮らしで育った階級は、軽蔑して「胡同串子」と呼んだ。
今ではそれが比ゆ的にも使われ、雑居四合院が消滅し、
実際には長屋育ちではなくても、庶民的なせこい計算高い人間を「胡同串子」と形容する。
開発側は「胡同串子」からアパート暮らしにしてあげるのだから、ありがたいでしょう、という理論である。
しかし町並みを保存しつつ、上下水道のインフラを通している例は、
京都やヨーロッパの街など枚挙に暇がなく、理由にはならない。
実際、最近は残った四合院にインフラを通し、目ん玉も飛び出るような値段で売り出し始めている。
本章ではこれでもかこれでもか、とひたすら胡同におけるトイレ、汲み取りの話を展開していくが、
それはこれまで胡同の生活が近代的インフラの欠如と同義語になっており、
切り離すに切り離せなかったからである。
雑居四合院と公共トイレの存在は、セットとして切り離すことができない。
石炭の煤(すす)で空気が灰色を帯びる厳寒の朝、
白い息を吐きながら赤い小さなポリバケツを吊り下げ、
公共トイレに向かう光景は、約束の風物詩といえるだろう。
帰りには、胡同のあちこちに陣取る朝ごはんの屋台から
油条(ヨウティアオ、揚げパン)、焼餅(シャオビン、丸い焼きパン)を買い、
片手にバケツ、もう片手に朝ごはんを持って部屋に戻る――。
夜の間、用に立ちたくなれば、外気温マイナス10度近くまで下がった野外に出た上、
数百メートルを往復するために分厚い毛糸のすててこを履き直し、
もこもこのダウンジャケットを着込んでトイレまで行くのは、あまりに酷だ。
夜の尿をバケツに済ませるのは、自然と浸透した習慣である。
新中国成立前、豪邸が立ち並ぶような高級住宅エリアに公共トイレなどなかったことは、いうまでもない。
この頃の金持ちは、路上の公共トイレで用を足してお尻を下々の者に見せるようなことは、もちろんしない。
それぞれの屋敷には、おまるとぼっとん便所があった。
かつて日本軍の兵隊が占領した中国人家庭で美しい漆塗りの模様のついたおまるを見て、
「飯櫃(めしびつ)」と勘違いした、という笑い話は中国の庶民の間に広く伝わる。
旧社会の金持ちの使ったおまるは、凝りに凝った美麗なる工芸品のごときであった。
これを部屋の隅、天蓋ベッドの下におき、使用人が定期的にぼっとん便所に捨てた。
四合院における便所の位置は、風水としては「西南角」が望ましいとされる。
一番日当たりの悪い北向きの部屋の通りに面した端部屋だ。
風水はただの迷信ではなく、成立当時の社会では「最新科学」の集大成であったはずだが、
その立場から見ても、トイレの位置は理にかなっている。
日当たりのよい南向きの位置に汲み取り式トイレがあれば、
直射日光を浴びて鼻のひん曲がるような異臭が母屋に充満したことは間違いなく、
第一、貴重な南向きの位置をトイレに占領させるのは、資源の無駄遣いが甚だしい。
人間が暮らすには不適な北向きの位置をあてがうのが、最も合理的なのだ。
トイレはご主人様たちにとっては、使用人がおまるの中身を棄てるだけの「ゴミ捨て場」であり、
使用人らはここで用を足したが、主人格の人間がめったに入る場所ではなかった。
従って如何に権勢を誇る豪邸であっても、ただの穴にレンガで両側に足場を作ってあるような粗末な構造だったらしい。
写真: ネットオークションの紹介より。
http://www.shede.com/g_956452_gd.htm
上海在住の出品者が、家の中から見つけてきた未使用と思われる新品のおまる。
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内容 濃そうだなぁぁっぁl
楽しみで~~~す。