いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ワンガオの勢力

2018年05月26日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
歯切れが悪いなりに話を続けて行く。

ジェチャンアは明の将軍(都督同知)李成梁に辺境の動向を知らせ、ワンガオ討伐に全力で貢献する。
この行動がワンガオに大きな打撃を与えたことはいうまでもない。


ワンガオ(王杲)が東北で二十年以上に渡り、周辺を席巻できた理由として、二つ挙げることができる。

一つは建州女真部、モンゴルのトメト部、タイニン(泰寧)部、リャンヤン(梁顔)部と連合することができたこと。
もう一つは断崖絶壁、難攻不落の要塞グロ(古勒)城に拠ったからである。

つまり普段連合しない時、ワンガオ自身の兵力はわずか千人しかなく、連合しないと破壊的な兵力を発揮することができない。
その連合の中、ジェチャンア(覚昌安)は建州女真左衛の酋長の一人である。
馬市に四十五人の手下を率いての入場が許されることから判断して、中の下程度の地位だったと考えられることは、前述のとおりである。

ジェチャンア一族の強みは兄弟が多いことだ。
厳寒の気候、かつ生存条件の酷なる満州の大地において、人口を増やすことは、困難に困難を極める「技術」だ。
成人男子を一族の中に何人抱えるかで一族の勢力に大きな差が出てくる。

だからこそ、手っ取り早く漢人や朝鮮人をさらってきてしまうのだが、
それだけ満州の自然環境の中で、人間を成人になるまで育て上げることが困難なのである。


その中で、ジェチャンアには長兄ドシク(徳世庫)、次兄リュチャン(劉禅)、三兄ソチャンア(索長阿)、
五弟ボランア(宝朗阿)、六弟ボオシ(宝実)の五人の兄弟がおり、六人合わせて「寧古塔貝勒(ニングータ・ベイレ)」と呼ばれていた。
兄弟六人がそれぞれに要塞を構え、一時期は周囲二百里半径の人々が、すべて兄弟に服したぐらいであったという。

ジェチャンアの投降は、六兄弟すべての投降をも意味し、建州女真の他のに与える影響は計り知れない。
さらに地元の人間として、道案内をされてはワンガオ側はひとたまりもない。
本来ならあるはずの「地の利」がすべて失われることになる。

明の万暦二年(一五七四)十月、明軍の総兵(将軍格)李成梁は、数万の兵を遼東の各地に駐屯させた。
一方、ワンガオ(王杲)は騎兵三千人を率い、五昧子に攻め入った。

しかし明軍が逆にこれを八方から包囲、驚いたワンガオは衆を率い、自身の要塞であるグロ城に戻った。

古勒城は険しい山の地形を生かし、断崖絶壁の山の上に作られている。
さらに深い外堀があり、防護の樹の柵も幾重にも設けられていた。

李成梁はグロ城前にあったワンガオの樹の柵を火器(大砲が主体と思われる)で吹き飛ばし、高所にある城を攻めて行った。
グロ城からは雨よあられよと矢と石が降り注ぎ、壁に取り付くのは困難を極めたが、ついには城に登り上がり、火をつけた。

火の勢いは、天にまで届かんばかり、これで建州の各部が総崩れとなり、
討ち取りたる首級は千百四十級余り、ワンガオは残存勢力を率いて逃亡した。


万暦三年(一五七五)二月、ワンガオは再び残党を率いて、明の領土に略奪に侵入するが、明軍に撃退される。
ワンガオは、そのまま海西女真(建州よりさらに北の奥地に入った女真地区)ハダ部の酋長ワンタイ(王台)の元に逃げ込んだ。

しかし明からはすでに、
「匿うなら、匿った側も容赦しない」
との厳しいお達しが回っていたため、ハダ部は、ワンガオを明側に引き渡した。

明の万暦三年(一五七五)八月、ワンガオは北京にて磔(はりつけ)の刑となり、処刑される。

この時の明の朝廷の喜びようは大変なものだったと伝えられる。
当時十三歳だった神宗(万暦帝)が、太廟で祝いの祭祀を行ったほか、荘厳なる捕虜献上の式典が執り行われた。

ワンガオがその筆頭として、文武百官の前を曳きまわされたのは、いうまでもない。
文武百官が参列し、二十年に渡る辺境の災いの元の解決を祝った。

しかしこれに深く恨みを抱いたワンガオの子アタイ(阿台)とアハイ(阿海)は、その後も幾度も明の領域に進入しては、略奪を繰り返した。
明の万暦十一年(一五八三)二月の当時、李成梁は遼東総兵の官職と同時に寧遠伯にも封じられ、晋左都督でもあった。
李成梁はアタイ討伐のため、大軍を率い、撫順を出て国境を超え、百里の奥まで進軍する。

アタイは、難攻不落のグロ(古勒)城を受け継いでいた。
元々三面を断崖絶壁に囲まれていたが、さらに外堀も深く掘られる。

明軍はグロ(古勒)を猛攻撃し、アタイをはじめ二千二百人の首級をとる。
ワンガオの子孫は、この時でほとんど絶滅したといわれる。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている


    


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、祖父ジェチャンア

2018年05月13日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
建州左衛というのは、元々大した規模ではなく、
その中で数代前に有名な酋長がいたとしたら、ヌルハチの家系も遠い親戚の仲であることは間違いないだろう。

後世の我々にとって重要なのは、どういう環境から清朝という王朝が生まれたか、という背景であり、
大方近い血縁関係にあり、似たような歴史的環境の記録であれば、充分に思考に役に立つと思うべきである。


ところでヌルハチの祖父「ジェチャンア」の漢字の当て字が、面白い。
清代の記録には、漢字の見た目が美しい「覚昌安」の字を当てている。
何しろ偉大なる王朝創始者さまの祖父である。

気合いが入っている。

しかし明代の記録では、そんなことは細かく気にするわけないので、
「叫場」「教場」などのそっけない当て字になっているところが、大変興味深い笑。


さて。
ヌルハチの祖父ジェチャンアが記録に出てくる最も信憑性のある報告は、明の遼東官僚の報告である。

「信憑性のある」というのは、ヌルハチが後に重要人物になってしまったがために
その祖父の記録が大げさに書かれている疑い濃厚なものが、ほかにあるためである。
そのような怪しいエピソードについては、ここでは省く。


明の万暦六年(一五七八)四月、撫順馬市を訪れた官僚の報告がある。
撫順馬市は、明の朝廷が開設した建州満州と漢人のための交易の場である。
満州側の入場者は、許可制になっており、誰でもが参加できるというわけではない。

明の万暦六年(一五七八)四月から八十日間に渡って開かれた撫順馬市の記録では、
合計二十五人の酋長が入場の許可を得て、合計43回の入場を果たしている。

入場する際に率いてきた人数や回数により、女真族のの規模、勢力の強さがわかる。

一番はジュチャンツオ(朱長草)が3回、一回目二百五十人、二回目百人、三回目八十人である。
これに対してジェチャンアは十六番目につけており、合計三回、一回目は四十五人、二回目は二十三人、三回目は二十一人となっている。

つまりジェチャンアは建州女真の一の酋長ではあるが、
規模は大きくなく、大体十五-十六番目くらいの位置にいたことがわかる。
それでも交易では、かなりの利益を上げ、次第に力をつけていく。


情勢の変わるきっかけは、
建州満州の有力な酋長ワンガオ(王杲、満州語名:アトゥハン、阿突罕)と姻戚関係になったことである。
孫息子と孫娘をそれぞれワンガオの孫の世代と結婚させたのである。

ワンガオは建州右衛の都督指揮使という有力な地位にあり、剽悍で戦争好きな性格であった。

ジェチャンア一家は姻戚となったために
ワンガオが組織する略奪にも参加する関係になり、次第に明との戦いに巻き込まれていく。

ワンガオ(王杲)の明への挑発は、月日を追うごとに過熱していった。
明の嘉靖年間にはモンゴル・タタール部のアルタンハーンの勢力が強大になり、明の朝廷がその対応に追われていた頃でもある。
北京ではアルタンハーンの北京襲撃の恐怖に駆られて、南城を建て増した。

このあたりの詳しい事情については、
本ブログの「楡林古城 明とモンゴルの攻防戦」シリーズをご参考に。

とにかくこういった事情からも、小さな小競り合い程度なら遼東に大軍を送る余裕はなかった。
ワンガオは、明の対応が甘いことをいいことに襲撃の規模をどんどんエスカレートさせていった。

明の嘉靖三十六年(一五五七)、ワンガオは撫順(つまりは明側の城)を襲撃し、
守備の彭文洙を殺害したほか、会安・東州・一堵墙などの要塞も襲った。

嘉靖四十一年(一五六二)には、明の領域内に侵入、副総兵の黒春に負かされる。
しかし相手が追撃してきたところを襲撃、
黒春を捉えて殺した後、深く遼陽まで攻め入り、孤山・撫順などを攻め、多くの明の高官を殺した。

ここに至り、明もさすがに堪忍袋の緒が切れ、大軍を派遣すると警告してきた。
ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)は、
それまでワンガオの姻戚として、襲撃活動に一族の壮丁どもを率いて参加してきたが、ここで、はたと考える。

わずか千人の勢力で明の大軍に対峙し、一族皆殺しに遭うか――、それとも敵に降伏するか――。

ジェチャンアは、降伏するほうを選んだ。
明の遼東総兵官の都督同知・李成梁の元に降ったのである。

投降した者というのは、誰よりも熱心に、かつ率先してかつての仲間の情報を提供したり、道先案内になったりして
新しい主人に忠誠を示さなければならないという原則については、古今東西に変わりはない。

この当たりから史料の歯切れは、極めて悪くなってくる。

「道先案内人」と「裏切り者」は、紙一重。
清朝の創始者ヌルハチの祖先としては、あまり聞こえのよい話ではないのである。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている




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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、ドンシャン征伐される

2018年05月03日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
では実際の事実の経緯を追うことにする。

明側から勧告の勅令が出されたのは成化三年(一四六七)の正月である。
ドンシャンらが入朝し、大暴れしたのが四月、
彼らが帰った後、朝廷ではこの事態を重く見て討伐軍を派遣する方向で決まった。

明の成化三年(一四六七)五月、趙輔が将軍の印を授かり、総兵官に命じられ、遼東へ向かった。
七月にはドンシャン(董山)ら百十五人を広寧師府まで連行し、勅令を読み上げ、奪った捕虜を解放するように叱責する。
ドンシャンらは怒り、袖から小刀を出し、通事を刺した。

これを見たハタハ(哈塔哈)ら百十五人もそれぞれに刀を持ち、師府の警備兵らを刺しまくった。
趙輔は全員を逮捕するように命じ、その場で二十六人を刺し殺し、残りはすべて牢に入れた。

朝廷では、趙輔からの奏文を受け取り、直ちに遼東の兵二万九千人を派遣することを決定した。
朝鮮にも援軍の派遣を命じ、朝鮮からは一万五千人が送られ、五つのルートから分かれて建州に進軍した。

十月には建州右衛と左衛を責め、九百人を生け捕り、九百三十八人を殺し、明からの捕虜千百六十五人を奪回した。
建州衛も攻められ、李満住とその子・李古納哈を始めとして三百八十六人が殺され、李親子の妻ら二十三人を生け捕りとした。


このときの討伐で建州三衛のトップはほとんど殺されつくした。
死者や捕虜の数を見ればわかるとおり、彼らの人口規模は決して大きくない。

三衛合わせても戦死者は2千人にも満たない。
恐らく荘丁の数もその倍もいかないであろう。

明は、これに四万人以上の規模の軍隊を差し向けたのである。

ドンシャン(董山)、李満住などの建州満州のリーダーらが大方殺しつくされてから、
その後を担ったのは、次の世代である。


ドンシャンには息子が三人いた。
長子トロ(脱羅)、次子トイーモウ(脱一莫)、三子シボチ(石宝奇)である。

シボチが、ヌルハチから遡って四代目の祖先となる。
どうやらさすがに子孫まで連座させて殺すようなことはしなかったらしい。

引き続き、誰かが満州を率いていかなければならない、という現実の問題もある。


明の成化五年(一四六九)七月、つまりは明朝による制裁がなされてから一年半後、
ドンシャンの長男トロが「悔いて来朝」、と明側の資料にある。

リグナハ(李古那哈)の甥ワンジャトゥも「悔いて来朝」、
子供の世代が心を入れ替えて臨むということで、再び明との朝貢関係が戻った。

明としても、何も民族全体を消滅させようというのではなく、騒ぎを起こさないでくれたら、それでいいのだ。
そして満州側は、朝貢という形の見入りのいい「交易」がなくなるのは、生命線を断ち切られるようなものである。

どうしても再開させねばならなかった。
トロは父ドンシャンが好き放題やらかして身を滅ぼしたことを反面教師に、祖父モンケ・テムールを見習った。
明との取り決めを守り、辺境に侵入せず、朝貢貿易に精を出し、自ら北京に行くこと十二回に及んだ。


明の弘治十五年(一五〇五)にはトロが病没するが、
子のトエンボー(脱原保)が後を継ぎ、建州左衛を統治、明との朝貢を続けた。

明の嘉靖二年(一五二三)以後、明の実録にはトエンボーの記録がなくなり、死後誰が継いだかも書かれていない。
どうやらこの父子の家系は、建州左衛の酋長の座から脱落したらしいのである。


次に記録がつながるのは、ヌルハチの祖父に当たるジェチャンアの軌跡である。
明の交易場に商売に来た記録がある。

ヌルハチの祖父がジェチャンアであることは間違いないらしい。
しかしモンケ・テムールから董山にいたるまでの家系が、果たしてヌルハチにつながるかどうかは、何やら曖昧である。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている




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