いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

雑談・現代中国人男の悲哀を背負ったキャラ・灰太郎

2014年02月16日 14時06分06秒 | 北京雑感
「大人」な要素がふんだんに散りばめられた『喜羊2と灰太郎』の中でも
秀逸のキャラが、悪者の灰太郎とそのツンデレおくさんである。


狼の灰太郎は、どうやら自分の実力には不相応な美人妻を娶ってしまったらしく、
いつもそのお高くとまったおくさんに罵られてばかりいる。

「お高くとまっている」ことを表現するために「老婆」(おくさん)と灰太郎がいつも呼ぶその妻は、
プリンセスのような冠を頭につけており、
灰太郎をぶったたくための鉄のフライパンを手にもち、灰太郎が獲物(羊たち)を得ることなく、手ぶらで帰ってくるたびに
そのフライパンで夫に一発見舞わせるのである。


灰太郎が羊を得ることができずに、
やむなくねずみやみみずなどの小動物や昆虫を取ってきて食べさせようとすると、
「わたくしにこんなものを食べさせようとするなんて、サイテー!!!」
とヒステリーを起こし、灰太郎をバンバンとフライパンでぶったたくわけである。


中国人にとっては、こういう風景は
「ああ。いるいる。こういう夫婦」
と共感をよぶ。


こちらでは、「優勢遺伝子最優先主義」というか、男性が自分よりも優秀な女性を娶るために自尊心の犠牲を払うことを厭わない部分があるように思う。
ちんちくりんなチビ・デブ・ハゲの成金が、自分よりも30cm以上も背の高いモデルや女優の女性を連れて歩いているのはよく見る。
妻が夫よりも地位も収入も高い、というパターンは、知り合いの周辺にもごろごろいる。
それだけ13億人がガチでぶつかり合うこの世界は競争が激しく、婚姻も含めたあらゆる要素を武器にしなければ、人よりもよい暮らしが望めないということもあるのだろうか。


そんな仁義なき競争の中で、
地位も財産もない灰太郎が、美人なおくさんを娶れた武器は、どうやらひたすら「舌先三寸」と「ご奉仕の心」らしい。
灰太郎の口先の甘いことといったらもう涙ぐましいくらいで

「おくさま、灰太郎目、参上いたしました。ご機嫌はいかが?」
「おくさま、そんなに怒らないでください」

と、妻を奴隷のようにうやうやしく立てる。



灰太郎の姿は、少し大げさではあるが、実際に男女比のバランスが恐ろしく崩れている中国では、
男性が涙ぐましい努力を重ねていることは事実であり、哀しいまでに世相を反映している。


そんな常に「できない」夫を罵り続け、フライパンを振り上げて追いかけまわし続ける灰太郎の「老婆」なのだが、
なんだかんだ言って、二人の間には、子供も生まれる。
劇場版では、「中年男の危機」を感じた灰太郎(ナレーションママ)が、
いつものように妻に罵られて、本気で肩を落として家から出ていこうとする。

夫が本気で家を去ろうとしていることに気付いた「老婆」は、なんと
「行かないで」と泣いて灰太郎の足元にすがりつくのである。


そういう構図も「いるいる、こういう夫婦」と
視聴者の共感を誘う。

し、しかし共感するのは、あくまでも「大人」でっせー。
子供は共感しようがなく、それを黙って吸収するだけでしょうなああ。


そういうキャラも制作者には、おそらく若い男性が多く、
普段の自分たちの悲哀を灰太郎キャラに投影させているのかしら、と思わずにいられない。


そんないじましい灰太郎は、どうやら子供たちの間でも共感を呼んでいるらしく、
最近は悪役なのに、妙に人気があるらしい。


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雑談・アニメ界の『紅楼夢』?

2014年02月12日 19時16分13秒 | 北京雑感
ところでそんなこれでもか、という政府の手厚いアニメ産業支援制作から生まれた『喜羊2と灰太郎』だが最近、放映が禁止になったという。
そのニュースを聞いて、実は私は「ああ。やっぱりね」と納得したものである。
政府の援助を大量にもらっておきながら、こんな作品、ええんやろか、と思っていたところだったので。


というのは、この作品、けっこう笑えないくらいシュールな大人のメッセージがあちこちに秘められていて、
私はひそかに「アニメ界の『紅楼夢』」と呼んでいる(笑)。


『紅楼夢』といえば、美女たちと貴公子の戯れというハーレムのようなチャラいテーマですよ、と見せかけつつ、実はその中に刃物のように鋭い
あまたの体制批判を盛り込んだ、言論とうせいに徹底的に対抗するがための「隠れ蓑」作品である。
当時の文人は「モンゴル高原にホーミーという歌い方があり、歌い手が同時に二つの旋律を奏でるらしいが、『紅楼夢』がまさにそれである」という風に評している。


このアニメ作品、基本ストーリーは、狼が羊を食べたいと狙い、羊たちが仲間と団結していつもその魔の手から逃れる、という
『トムのジェリー』のようなドタバタ漫画である。


ところで私情で恐縮だが、2年ほど前から私は、姪たちを夏休みに中国に呼び寄せ、中国に親しんでもらおうという試みを始めており、
アニメで中国語の勉強になるかしら、ということで、この作品を見せていた。

大人である私も傍らで鑑賞することになり、横目で見ているうちに「むむむ、この作品、シュールすぎて笑えない」と、次第に「宝さがし」にはまるようになっていった。
子供向けのドタバタ喜劇ですよ、と見せかけつつ、制作者の「遊び」がふんだんに盛り込まれている。


たとえば、劇場版作品のテーマは、「取り壊し」。
狼の灰太郎がおくさんと子供と寝ていたら、いきなり屋根がクレーンで釣り上げられてなくなり、ブルドーザーで周りがさら地にされてしまった、というシーンから始まる。
トラのやくざな集団の「地上げ屋」に理不尽に出ていけ、といわれ、普段は敵対している羊の喜洋洋らもこの時ばかりは協力して、ともにやくざな「地上げ屋」という悪と戦い、勝利する、というストーリー。

最後には、トラの「地上げ屋」の手下のトラたちに水を浴びせたら、ペンキが剥げ落ちてネコに戻ってしまい、
えらそうに凄んで見せていたのは、ただのネコという「張子の虎」でした、という強烈な皮肉つきである。


ニュースではほとんど報道されないが、今全土では立ち退き問題のために、各地で壮絶な摩擦が火花を散らしている。
日本の地上げ問題とちがい、こちらは「お上」が率先してこれにかかわっているから、「民間の一部の悪徳商人のやること」と片づけられる問題ではないのだ。
こちらの高等教育を受けた若者らにとって、日ごろの酒の肴はそういったたいせいの横暴への愚痴であり、
子供向けの娯楽作品の中にその世界観が、ふんだんに盛り込まれている。

子供たちは「わああい、わああい、トラがネコになったああああ」と倒された地上げ屋を見て、無邪気に手をたたくのだから、これはまずいでしょうーーー。


せいふのお金をさんざんつぎ込んでようやく育てた鳴り物入りの国産アニメで、お上のお金をさんざん食って、こんなもの作ったら、まずいっしょー。
当局としては、まさに「飼い犬に手をかまれた」状態になり、「おめええ、ふざけるな」だろう。

名目上の理由は、「狼が羊を食べるというテーマ自体が、子供には残酷でふさわしくない」といった、今更なにをいう、という取ってつけたような口上だが。。。

おそらくは、子供向けの作品だということで、これまで検閲漏れしていたのではないだろうか。
そういう目でチェックしないから、けっこう長い間野放しにされ、制作者側はけっこう長い間、遊んで楽しんでいた。。。。。
しかしようやく「やばいでしょ」という評判がたつようになり、検閲の目にもひっかかった。。。ということではないだろうか。

さんざんテコ入れしてきた作品なので、今さら放り出すにはあまりにも惜しい。
禁止される前は、テレビをつければほぼどこかしらの局で放映されており、
「いつでもどこでも」見られるくらい、洪水シャワーのようにさんさんさんさん、せっせせっせと中国の子供たちに降り注ぎ続けていたのだ。
今後も放映は再開されるかもしれないが、内容は、おとなしい無難なものに変わるのだろう。

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雑談・漫画アニメで優れた作品が生まれるということ

2014年02月08日 18時12分00秒 | 北京雑感
雲南の旅を少し休憩し、雑談風に少しつぶやきを。

先日投稿した『麗江・ログ湖9、広州の良識ある市民に感謝』に関する問答を振り返りつつ、思ったことがあった。
それは広州の子供たちが、学校で仕込まれているはんにち教育にも関わらず、良識ある行動をとってくれたことは、
日本のアニメや漫画の貢献が大きいのではないか、ということである。
昨今の海外への影響力を考えると、その点は、想像に難くない。

つまりは荒唐無稽こうにちドラマと日本産アニメ漫画の「ソフト・パワー」対決で、
日本に軍配が上がったということの象徴的な出来事なのではないか、と。

それは別に日本人の方が中国人よりも優れているとか、そういうことではなくて、歪んだせいじ体制の元では、
歪んだ動機の元で、歪んだ作品しか作られず、それが人の心を打たない、ということである。
子供の脳は正直だから、イデオロギーで物を考えず、素直によいものに心を委ねる。


ところでそんな日本のアニメ漫画のソフトパワーの威力を実感し、自らもあやかりたいと思ったのか、
こちらでは過去10年あたりで、せいふが成長戦略として大々的に国産アニメ漫画の制作を支援してきた。
莫大な資金を投入するわ、税制優遇政策を打ち出すわ。。。
その成果が、この数年ようやく国産ブランドとして、一定の影響力をもつようになってきた『喜羊2と灰太郎』などからも認められよう。


日本のアニメ漫画といえば、韓国や台湾は、80-90年代にはかつて、日本のアニメ作画の制作基地としても、日本のアニメにかかわってきた。
当初は安い労働力を背景に、下請けをしていたが、その人材の中から国産作品を描く人たちも出てきたということだが、
影響力のある作品が育ったという話があまり聞こえてこないのは、なぜだろうか。


そもそもアニメや漫画というのは、膨大な作業量が一瞬のうちに流れて行ってしまう、
まことに割に合わない作業の連続なわけである。
仕事量のわりに、見返りとなる経済効果が薄く、関係者全員にあふれるほどの経済的な恩恵が確実に約束されるというものではない。
つまりは、飯のタネになるには、あまりにも酔狂な産業なのだ。


私が小さいころ、周囲にアニメや漫画にかかわりたいという同級生はたくさんいたが、
とにかく皆が言い合っていたのは、「大変な世界らしい」ということだった。
有名になった作者ならともかく、最初は下積みで弟子として、死なない程度の薄給で、ほとんどただ働きで寝る暇の与えられず、何年もこき使われるらしい、と。

それでも好きで好きで、とにかく関わっていたい、という酔狂な人間が後を絶たず、
日本では人材には事欠かなかったからこそ、ここまで層の厚い産業に育ってきたわけである。
いきなり天才・宮崎駿監督が登場したのではなく、そこに至るまでの重厚な人材群と産業体制があり、
それにかかわる多くの人たちが、労働に見合わない経済的見返りでも喜んで働いてきた、という世にも珍しい世界だと思う。


その「好きだからこそ、飼い殺しでもいいから関わっていたい」を前提にしなければ、発展できないからこそ、
ほかの国がいくらマネしようと思ってもそうそう簡単にできないのではないだろうか。
もちろん今どきは、そんなことはないだろうが、それは昭和の時代の重厚な基礎があったからこそであり、そこまでたどりつく前に他国では産業として、成立するまでいかない。


東アジアの若者--、韓国にしても台湾にしても香港にしても中国にしても、
少しでも給料が高いと聞けば、少々のはったりをかましてでも、自分をバンバン売り込んでさっさと転職していってしまう。
そんな彼らが、薄給で「好きだからいいの」と、何年もアニメ漫画を描くなどということは、ほとんど想像もつかない。


それがかの地域、国々で国産アニメ漫画があまり育たない理由なのではないだろうか。
アメリカは、その労働力の問題を克服するために、CGに走り、なんとか採算を取る方向に走っているが、
日本アニメ漫画の手描きの味わいを維持することが、如何に容易ならざることか、ということである。

もちろんそこには、日本的な土壌である、社会主義的な保障体制、一億総中流の社会、という世界にも珍しい社会体制だからこそ成立するというところもあるのかもしれない。
こちらの人たちの世知辛さが日本の比ではないことを見ていても、つくづくそう感じることが多い。


だから中国せいふは、おんぶにだっこでお上がすべてをめんどう見る、という形で産業を興そうとしてきたわけである。
そうでもしなければ、民間の自然発生的な動きにより、市場原理だけでとても成立し得る産業ではないのだ。



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