和[王申](満州名ヘシェン)が、少年時代にお金に苦労したのは、父親の早逝のためであったが、
この頃、一家の財布を握る主婦には、実家の助けがなかったのだろうかという疑問が湧きあがる。
和[王申]の継母は、吏部尚書・伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
伍弥泰(ウミタイ)は満州人ではなく、モンゴル人だ。
「満蒙通婚」は清の建国以来の伝統である。
満州の原野にいたときから、満州族は帰順したモンゴル族の戦力に頼ってきた。
満州皇族の娘はモンゴル人に嫁ぎ、モンゴル人の娘は多くが満州族に嫁いだ。
この習慣は清末まで三百年近く続いた。
初期の頃、草原に嫁ぐ娘たちは大変な思いをしたようである。
康熙帝の時代、まだ北の草原が完全に平定されていなかったこともあり、
とりわけモンゴル族との関係強化が重要であった。
十八歳以上まで成長した公主九人中、実に七人がモンゴル王公に嫁いでいる。
康熙帝の第十五皇女が、阿拉善(アラシャン)旗に嫁いだが、
父である康熙帝に
「モンゴル人の羊くさい体臭が我慢できない」
「夜は人気のない草原でゲルに寝泊りするのが怖くてたまらない」
と書き送っている。
これに対して康熙帝は、
「羊肉を食べるのは民族の習慣だから我慢せよ」
「野外生活がいやな点については住まいを建てなさい」
と返事した。
こうして阿拉善旗の中心、定遠営(ていえんえい)に[馬付]馬(フーマー・皇帝の娘婿)府を建ててやったという。
和[王申]の幼年時代はこの時代より五十年ほど後のため、多くのモンゴル人は北京で生まれ育っており、
カルチャーショックはここまで大きくはなかったと思われる。
現に伍弥泰(ウミタイ)も青年時代から宮中の職についているところを見ると、
北京で育った気配が濃厚だ。
それでも、まったく北京の満州族に同化していたかというと、そうでもなかったようである。
このような家庭ではどういう現象があったのか、と考えるとき、清末のいくらかの記述を参考にすることができる。
例えば西太后時代の郡王・載[さんずい+猗] (道光帝の孫)「端王」は、後妻にモンゴル人女性をもらった。
阿拉善(アラシャン)旗の和碩阿拉善親王・貢桑朱爾默特(コンサン・チュルモト)の娘、羅王の妹である。
前述の康熙帝の娘が嫁いだモンゴル王は、彼らの先祖に当たる。
羅王は満州族に嫁いだ妹のために、嫁ぎ先に羊の丸焼きを作るための専用施設を作ってやったという。
羊を丸ごとつるして木炭であぶり焼きにする部屋である。
この羊の丸焼きを大きな板に乗せてふるまう。
客人らは持参のナイフで自ら羊の肉を切り取って食べ、これまた持参の木椀(銀で縁取りが施されている)に酒を入れて飲む。
この作法を「武喫」というなり。
端王府ではこうしてモンゴルの親戚をもてなしたという。
・・・・清末でこのとおりであるから、和[王申]の家に嫁いで来た継母もいくらか草原の香りを持ち込んだことだろう。
伍弥泰(ウミタイ)が吏部尚書まで上り詰めたのは、乾隆四十八年(1783)以降のことであり、
和[王申]が十歳前後でつらい少年時代を送っていた乾隆二十五年ごろは、専ら外地勤務であった。
チベット防衛の最前線、青海高原の西寧(せいねい)、江寧(南京)、
遥かシルクロードのイリ、ウルムチなど、首都にはろくに居ついた試しがない。
ポストは西寧、江寧では将軍職、収入も決して悪くない。
が、何分外地にいる時間が長い分だけ、
子供たちの行く先をこまごま世話してやることはできなかったのだろうと想像する。
正史には伝わらない和[王申](満州名ヘシェン)の幼年期に肉薄するため、
さまざまな方向から分析を試みている。
思春期に大きな影響を与えたと思われるのは、なさぬ仲の継母、伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
十歳前後で父親が他界しているため、この継母が家庭で絶対的な権力を握っていただろうと想像するからである。
彼女はモンゴル人である。
その影響の大きさのほどを続けて分析して行こうと思う。
再び和[王申]より百年後の清末西太后の時代の記述を見ていくことにしよう。
清末のモンゴル王公の一人に、ハルハ親王の那彦図(ナヤントゥー)(サイイン・ノヤン部出身)がいる。
ご先祖様の策凌(ツェリン)が康熙年間、オイラート部の平定で戦功を立てて以来、
清初からすでに京師(北京)に王府を構え、京師で暮らすこと二百年近くとなっていた。
ほとんど京師の習慣に染まってしまっているのではないか、といいたくなるが、
経済基盤(そこから上がる年貢)である土地がモンゴルにある以上、影響力はある。
清の朝廷はモンゴル王公に対して、
「最初の子供を必ずモンゴル現地に帰って産み落とし、教育せよ」
と言う規定を設けていた。
少なくとも十歳までは北京に連れてきてはならない、と。
この規定を見る限り、幼少期にモンゴル現地で育てられた殿様、格格(ゴーゴ・姫様)は案外多かったのかもしれない、
と想像することができる。
また家庭内の私塾では、モンゴル現地からモンゴル語の教師を呼び寄せ、モンゴル語の教育に当たらせたという。
満州族の王府と違い、モンゴル王府では宦官も使わなかった。
王らは代々清朝皇室の公主や満州族の娘を正妻や側室にもらってきた。
那彦図(ナヤントゥー)の正福晋(フジン・夫人)は慶親王の娘、
以下六人の側福晋(側室)のうち、少なくとも半分は満州族である。
皇室から嫁いでくる公主らは、時に自分が小さい頃から使っている宦官を連れてきたが、
モンゴル王府では彼らに仕事をさせなかったので、
じきに手持ち無沙汰でつまらなくなり、他家に転属を希望して出て行ってしまうという。
以上の記述を見る限り、清末のモンゴル的習慣が薄れる傾向にある時代でもこうだったのだから、
これより百年以上前の人である和[王申]の継母は、こてこてのモンゴル人だったと想像することができる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
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この頃、一家の財布を握る主婦には、実家の助けがなかったのだろうかという疑問が湧きあがる。
和[王申]の継母は、吏部尚書・伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
伍弥泰(ウミタイ)は満州人ではなく、モンゴル人だ。
「満蒙通婚」は清の建国以来の伝統である。
満州の原野にいたときから、満州族は帰順したモンゴル族の戦力に頼ってきた。
満州皇族の娘はモンゴル人に嫁ぎ、モンゴル人の娘は多くが満州族に嫁いだ。
この習慣は清末まで三百年近く続いた。
初期の頃、草原に嫁ぐ娘たちは大変な思いをしたようである。
康熙帝の時代、まだ北の草原が完全に平定されていなかったこともあり、
とりわけモンゴル族との関係強化が重要であった。
十八歳以上まで成長した公主九人中、実に七人がモンゴル王公に嫁いでいる。
康熙帝の第十五皇女が、阿拉善(アラシャン)旗に嫁いだが、
父である康熙帝に
「モンゴル人の羊くさい体臭が我慢できない」
「夜は人気のない草原でゲルに寝泊りするのが怖くてたまらない」
と書き送っている。
これに対して康熙帝は、
「羊肉を食べるのは民族の習慣だから我慢せよ」
「野外生活がいやな点については住まいを建てなさい」
と返事した。
こうして阿拉善旗の中心、定遠営(ていえんえい)に[馬付]馬(フーマー・皇帝の娘婿)府を建ててやったという。
和[王申]の幼年時代はこの時代より五十年ほど後のため、多くのモンゴル人は北京で生まれ育っており、
カルチャーショックはここまで大きくはなかったと思われる。
現に伍弥泰(ウミタイ)も青年時代から宮中の職についているところを見ると、
北京で育った気配が濃厚だ。
それでも、まったく北京の満州族に同化していたかというと、そうでもなかったようである。
このような家庭ではどういう現象があったのか、と考えるとき、清末のいくらかの記述を参考にすることができる。
例えば西太后時代の郡王・載[さんずい+猗] (道光帝の孫)「端王」は、後妻にモンゴル人女性をもらった。
阿拉善(アラシャン)旗の和碩阿拉善親王・貢桑朱爾默特(コンサン・チュルモト)の娘、羅王の妹である。
前述の康熙帝の娘が嫁いだモンゴル王は、彼らの先祖に当たる。
羅王は満州族に嫁いだ妹のために、嫁ぎ先に羊の丸焼きを作るための専用施設を作ってやったという。
羊を丸ごとつるして木炭であぶり焼きにする部屋である。
この羊の丸焼きを大きな板に乗せてふるまう。
客人らは持参のナイフで自ら羊の肉を切り取って食べ、これまた持参の木椀(銀で縁取りが施されている)に酒を入れて飲む。
この作法を「武喫」というなり。
端王府ではこうしてモンゴルの親戚をもてなしたという。
・・・・清末でこのとおりであるから、和[王申]の家に嫁いで来た継母もいくらか草原の香りを持ち込んだことだろう。
伍弥泰(ウミタイ)が吏部尚書まで上り詰めたのは、乾隆四十八年(1783)以降のことであり、
和[王申]が十歳前後でつらい少年時代を送っていた乾隆二十五年ごろは、専ら外地勤務であった。
チベット防衛の最前線、青海高原の西寧(せいねい)、江寧(南京)、
遥かシルクロードのイリ、ウルムチなど、首都にはろくに居ついた試しがない。
ポストは西寧、江寧では将軍職、収入も決して悪くない。
が、何分外地にいる時間が長い分だけ、
子供たちの行く先をこまごま世話してやることはできなかったのだろうと想像する。
正史には伝わらない和[王申](満州名ヘシェン)の幼年期に肉薄するため、
さまざまな方向から分析を試みている。
思春期に大きな影響を与えたと思われるのは、なさぬ仲の継母、伍弥泰(ウミタイ)の娘である。
十歳前後で父親が他界しているため、この継母が家庭で絶対的な権力を握っていただろうと想像するからである。
彼女はモンゴル人である。
その影響の大きさのほどを続けて分析して行こうと思う。
再び和[王申]より百年後の清末西太后の時代の記述を見ていくことにしよう。
清末のモンゴル王公の一人に、ハルハ親王の那彦図(ナヤントゥー)(サイイン・ノヤン部出身)がいる。
ご先祖様の策凌(ツェリン)が康熙年間、オイラート部の平定で戦功を立てて以来、
清初からすでに京師(北京)に王府を構え、京師で暮らすこと二百年近くとなっていた。
ほとんど京師の習慣に染まってしまっているのではないか、といいたくなるが、
経済基盤(そこから上がる年貢)である土地がモンゴルにある以上、影響力はある。
清の朝廷はモンゴル王公に対して、
「最初の子供を必ずモンゴル現地に帰って産み落とし、教育せよ」
と言う規定を設けていた。
少なくとも十歳までは北京に連れてきてはならない、と。
この規定を見る限り、幼少期にモンゴル現地で育てられた殿様、格格(ゴーゴ・姫様)は案外多かったのかもしれない、
と想像することができる。
また家庭内の私塾では、モンゴル現地からモンゴル語の教師を呼び寄せ、モンゴル語の教育に当たらせたという。
満州族の王府と違い、モンゴル王府では宦官も使わなかった。
王らは代々清朝皇室の公主や満州族の娘を正妻や側室にもらってきた。
那彦図(ナヤントゥー)の正福晋(フジン・夫人)は慶親王の娘、
以下六人の側福晋(側室)のうち、少なくとも半分は満州族である。
皇室から嫁いでくる公主らは、時に自分が小さい頃から使っている宦官を連れてきたが、
モンゴル王府では彼らに仕事をさせなかったので、
じきに手持ち無沙汰でつまらなくなり、他家に転属を希望して出て行ってしまうという。
以上の記述を見る限り、清末のモンゴル的習慣が薄れる傾向にある時代でもこうだったのだから、
これより百年以上前の人である和[王申]の継母は、こてこてのモンゴル人だったと想像することができる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
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