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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語8、咸安宮官学、旗人社会の随一の名門校に

2016年05月08日 00時04分39秒 | 和珅少年物語
咸安宮官学では、満州語と騎射の指導にもわざわざ満州の地から教官を呼び寄せた。
それは他校ではこれまでなかった破格の教師群である。
 
おそらく満人も数世代首都で暮らしているうちに、
満州語の教師と言えども、あまり感心できるレベルの満州語の教養がなかったのだろう。

筆者も自らの見聞きした範囲内でしか想像を働かせることができないが、
ふと思い出したのは、在日朝鮮人の友人の話である。

その友人は、大阪で小学校から朝鮮学校に通っていたが、学校で習う朝鮮語は同じ在日朝鮮人の先生が教えるという。
ところが先生も朝鮮で暮らしたことがないため、
ひどい日本語なまりで、修学旅行で北朝鮮に行っても、教わった朝鮮語では笑われた、と話していた。

現在の在日朝鮮人はほぼ三世か四世であることを考えると、当時の首都の満人は四世代どころではない。
同じような現象が首都に住む満人の間でも起きていたと思われる。

だからこそ、雍正帝は、翰林を教師にしてまで気合を入れて育てる人材には、
本場満州からわざわざ教師を招聘したのである。

一般の満人ではなく、内務府の包衣にこのようなエリート教育を施す理由は、
包衣子弟という人材が、雍正帝にとって一番掌握しやすい、他の派閥に染まっていない安心できる位置にあったためだろう。
また包衣という、本来は漢人だった集団が、如何に満人化していたかを実感できる話でもある。




エリート教育の成果は、数年後に雍正帝を大いに満足させる。
雍正十二年(一七三四)、翰林院侍読学士の保良は、

 「雍正七年の七月に開校して以来、これまで五年間で、新しく学生を補充した他、
  挙人に及第した者四人、生員に及第した者二十三人、満州語を勉強して初歩的な翻訳ができるようになった者十三、四人、
  その他成績は違えども皆大きく進歩した。弓の腕は壮観な出来となった。」

と、誇らしげに上奏している。

当初の学生数が六十人から百人だったことを考えると、
なかなかの比率ではないか。

こうして咸安宮官学は、旗人社会の中随一の名門校となっていく。



咸安宮官学が大きく業績を上げるにつれて、
他の八旗旗人全般にも開放しろ、という要望の声も次第に高まっていった。

当初、入学対象者は、内務府包衣子弟のみである。
包衣は奴隷籍のため、本来は一般八旗旗人よりも身分が低い。

その包衣子弟に翰林を教官につけるわ、紫禁城内に通わせるわ、
満州からわざわざ教師を招聘するわ、では、えこひいきも甚だしい。

一方、一般旗人の学校といえば、八旗官学しかなく、
これはこれまで見てきたように、縁故を優先して入れるため、
国子監からも笑われるようなひどい学生しか集まらない。

仮にその中に優秀な学生がいたとしても、
程度の低い同級生と共に過ごせば、励みになるどころか、一緒に堕落して足を引っ張るだけである。

そんな優秀な旗人子弟を選抜して、さらにレベルの高い学校に上げる制度はなかったのである。
一般旗人の間から、咸安宮官学の門戸を開け、という声が高まっただろうことは、容易に想像できる。
 
ひょっとすると、咸安宮官学設立当初のあからさまなえこひいきは、
雍正帝なりの、笑えない「ブラックユーモア」だったかもしれぬ。

即位当初、ろくな支持基盤もなかった雍正帝は、四面楚歌。
--- 一人で戦う孤独な戦士だった。

斜に構えて言うことを聞かぬ八旗旗人らに対して、
絶対に自分自身で人材を育ててみせる、という意地があったのではないだろうか。



一般旗人の子弟も入れるようになったのは、乾隆帝が即位してからである。

雍正帝は治世十三年の間、死に物狂いで働き、
睡眠時間を削って地方官の奏文に朱批(赤墨で指示を書き入れる)を書きまくっては叱咤激励を続けた。

その成果あって、政治は大いに引き締まり、反対する勢力も鳴りを潜めるに至ったといえる。
 
次に即位した乾隆帝は、そんな父親のぎすぎすした政治を緩和させる意図もあったと思われる。
咸安宮官学の旗人への開放もそんな意図の表れではないだろうか。

乾隆元年(1736)、

 「現在の内府三旗(つまりは包衣籍)九十名の学生のうち、その中の優秀なる者三十人を残すように。
  次に八旗都統などに命じ、優秀な子弟を各旗より十名選び、咸安宮へ送り、勉強させること。
  大臣子弟で希望者があれば、定員枠の中に入れて、入学させるように。」

と命じている。

内務府包衣子弟ga九十人のうち、いきなり六十人放逐されることになった。

---その代わりに八旗子弟を入れる。
各八旗都統が優秀な十名を選ぶという。

八旗官学の学生の選抜方法では、
各佐領から選ばれた学生を八旗都統が面接して検分する、という手順があった。

このような官学に対する都統のかかわり方を考えると、
各旗から選び出される十名の優秀者は、八旗官学から選ばれると思われる。

学校にも来ていない学生を「優秀」と判断する基準も他にないのだから、自然な選択だろう。
各旗の官学の定員は百名、その中の十名を選ぶとなると、倍率は十倍である。

またもし大臣の子弟であれば、優秀であるないに関わらず、所属する旗のこの十名の枠の中に割り込むことができるという。


 

 

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


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