いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の西陵 記事の一覧表

2016年01月18日 15時40分17秒 | 北京郊外・清の西陵

清の西陵
 雍正帝の即位にまつわる康熙帝の皇子ら、ガチンコの皇位継承争い、西陵の軍事的な意味、モンゴルやチベットとの関係を探る。

記事の一覧表:


    1、騎馬民族の行動範囲
    2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路
    3、父親に顔向けできないからこそ、そして紫荊関の地の利
    4、ゆっくりとモンゴル諸部を制圧(西陵の地図つき)
    5、ガルダン・ハーン、ウランブトンの戦いで首都に肉薄
    6、雍正年間にチベット直接支配
    7、ばつの悪さと国防と
    8、「西陵人」としての誇り


清の西陵8、「西陵人」としての誇り

2016年01月17日 17時56分44秒 | 北京郊外・清の西陵
興味深いことに西陵に駐屯していた満州族は、
清朝が滅んだ後も他地にてんでばらばらになることなく、そのまま西陵鎮に多く残っている。
そして比較的古い時代の習慣や住まいを維持したまま、現代に至っているのだという。

現在の村は、以前の西陵の役所の関係者が暮らし、そのまま残ったものである。


各陵墓ごとに役所があったのは、東陵で見てきたのと同様である。

東陵の旗人は、実は皆、包衣 (清の東陵7・あんてぃーく倶楽部)

たとえば、
泰陵の礼部は、現在の後部村。
泰陵の内務府は、現在の五道河村。
泰陵の八旗営は、現在の太和庄と東半村。

・・・と言った具合になっている。

清朝が滅亡するまでは、村名ではなく、衙門(がもん、役所)名で呼び合っていた。
現在の村名がつけられたのは、民国時代になってからだという。

西陵出身の満州族は、自らを「西陵人」と誇らし気に名乗る。
彼らは清朝が滅びるまで畑を耕したことがなく、年に数回行われる祭事などの行事のほかは、
皇帝様からの俸禄を食み、無為徒食の優雅な暮らしを185年も続けたことも東陵と同様である。

・・・・ということは、西陵に関する資料からは見つからなかったが、
西陵の満州族も、元々は「包衣」であり、正規の満州族ではなかった、と考えるのが自然である。

「包衣」に関しては、


清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

の中の「十五子)胤[ネ寓]の場合」と「十七子・胤礼の場合」を参照にされたし。
(めっさ長い記事です。康熙帝の20人以上いる皇子らの軌跡を延々と書き連ねているので、
 途中はとばして、後ろの方にある記述にたどりついてください。)



その「包衣」の人たちの東陵での様相は、以下のとおり。

清の東陵3、東陵の旗人は、実は皆、包衣 

しかしどうやら東陵とのちがいは、
西陵の旗人らは、清代も後半になると、俸禄を半額ほどに削られてしまっていることである。

東陵に関する記述には、減俸の話は載っていなかった。

・・・おそらくは東陵は、後期になってもどんどんと皇帝が埋葬され、
現役で機能していた陵墓だったからと思われる。


・・・そんな意味でも西陵は「地味」(涙)。
スター皇帝もおらず、経費も削られ、東陵のきらびやかさんに比べ、地味地味な印象だ(笑)。


ともあれ、周辺の水飲み百姓の漢族の農民と比べると、無為徒食にはちがいはなく、
生きて行くこと以外にもたくさん考える時間はあった。

その間に礼儀作法は、限界まで美しく高められ、居住まい、立ち振る舞いに至るまで、外界の人間とは一線を画す。
――「西陵人」は、そういう自負を持つ。


また陵墓の宮殿の修繕などを担当する部署(工部)もあったため、
中国伝統建築独自の彩画の技術が継承された。

現在でも故宮や北海公園などの伝統建築の修繕の多くに西陵出身者が携わってきたという。
その活躍の範囲は全国に及び、呼ばれれば中国全土どこにでも飛ぶ。


・・・・という部分も東陵との違いが浮き彫りになる。
東陵にも工部はあったが、その後裔らは、宮大工にはあまりなっていない(笑)。

東陵には観光資源がたっぷりあり、家の軒先でもなにがしかの商売をして、
現金収入を得られるため、きつい肉体労働のガテン系のお仕事を集団でやる必要はなかったのか・・・。

そういう意味でも、西陵人の方が地に足がついているのかもしれない・・・(独断と偏見)。


 

 泰陵。

 陵墓の上から見渡す周囲の山々。
 さすが風水理論を尽くして選び抜かれた土地だけあって、
 周囲の地形を見ているだけで、プラスオーラがどんどん体の中に入ってくるようなすがすがしさを感じる。
 

********************************************************************************

・・・・以上、清の西陵にからめた話をとろとろと続けてきましたが、
一旦ここで終了としたいと思いますー。

西陵に行くことは、今後もあると思われ、
その時に続きをまたぼちぼち書いて行きたいと思いますー。




 

 西陵の中の市街地

 

 木の切り株のようなものを売っているお店があったので、気になって入ってみる。


 


 

 中国では最近、家や会社の接待室などに、客を中国茶道でもてなすセットを備えることが多くなっている。
 大きな木の台にお湯をそのまま注ぎこぼしてもよいようなシステムにし、排水パイプでお湯が排水できるようにする。

 そんな茶道テーブルの足にしたり、お茶セットと並べたりするのに、ちょうどいい感じなのだと思う。


 


 

 お店の横の作業場で地元の若夫婦が、そのまま作業していた。
 ご主人の女物の帽子がお茶目(笑)。

 






 
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清の西陵7、ばつの悪さと国防と

2016年01月16日 17時56分44秒 | 北京郊外・清の西陵
前述のとおり、北京の北の関所である居庸関、独石口、喜峰口、古北口などは、
周囲をすべて八旗軍の駐屯所で固め、鉄の守りになっている。

これに対して西の関所・紫荊関の西側は山西省。
漢人の民間人が住む地帯が続き、八旗軍の駐屯地はないことは言うまでもない。

また北京の西南方向には、北側ほどの緻密な八旗軍の駐屯がない。
北に比べると、紫荊関を破られた時は、丸裸の状態なのが、雍正帝としては気になり始めたのではないだろうか。


雍正帝の治世13年は、康熙末年、すでに破たんに近かった財政の立て直しのために費やされた。
各省の財政はほとんど赤字に陥り、中央からの補填が必要な状態となっていたのである。

康熙帝は、その治世の間中、一年の半分くらい、北京以外のあちこちに動き回って過ごすという生活を続けて死んで行った。
北方のモンゴル各部を廻り、清朝の最新鋭武器と圧倒的兵力で軍事演習をして見せ、
モンゴル王公らの腰を抜かさせたり。
ガルダン討伐のために自ら出征して大軍を指揮して、ゴビ砂漠を横断したり。
江南にまで出かけては、漢族の士大夫らと交流を持ったり。

そのような「外交」、「軍事」の成果は、目覚ましいものがあったが、
その統治の晩年には、どうしても内政の方のほころびが目立つようになっていた。

雍正帝がしなければならなかったのが、その財政の立て直しであり、
汚職官僚をばしばしと摘発したり、地方の官僚らと濃厚な奏文のやり取りをし、口汚く罵って叱咤したり、
汚職を未然に防ぐための制度を作ったり、ということに忙殺された。

そういう「経済感覚の鬼」のような雍正帝だからこそ、陵墓建設と軍事的効果の一石二鳥を狙ったのではないか、と思うと、
なるほど、と納得できる。


 

 泰陵

 土饅頭を取り囲む回廊にて。

 下から生えてきた松が、壁の側面から通路に侵入している。
 すごい生命力。


具体的に陵墓ができたことにより、どれくらいの変化があったか、見て行きたい。

まず泰陵の立地が決まると、泰陵の敷地をすっぽりと覆う形で「風水壁」が建てられた。
その全長42里。

さらにその外側に赤い杭を一里に三ヶ所、合計580本打ち、全長193里。
さらにその40歩外側に白い杭でぐるりと囲み、
さらにその10里外側に青い杭を打った。

すべての杭は、同じ色の杭を黄色い絹の紐で結び、杭に禁牌をぶら下げた。

さらに青い杭の外、10里には境界石を立てて官山とし、「禁地官山界石」と刻んだ。

それが今の西陵の全面積となる。

西陵の設立当時、この敷地内には、漢人の農村19村があったが、立ち退きが命じられる。
それ以後も民間人の立ち入りは禁止され、その内と外では、完全に分離された二つの世界を形成したのである。


但し、さすがにもう清初にやったような、馬で走って縄で囲んだ部分をすべて私有化して元の住民を裸で放り出すなどと言っためちゃくちゃなやり方はしていない。

雍正帝は立ち退きに当たっては、充分すぎるくらいの補償を出すこと、
次に移る場所が決まるまで、立ち退きをあまり急かせてはならないことなどを言い含めたという。


 

 泰陵

 土饅頭を取り囲む回廊にて。

 下から生えてきた松が、壁の側面から通路に侵入している。
 すごい生命力。



この広大な敷地の中に北京や東北の八旗軍の中から、
陵墓が増えるごとに旗人が配属され、最終的に一万人規模の陣容となった。

紫荊関のすぐ麓に一万人規模の八旗営がある――。
少しは国防の布石に役立つのではないか・・・。

雍正帝は、そのような腹積もりもあったのかと思われる。


――もちろん、兄弟争いの件で父親に顔向けできないというのも、
人の情として、わからないでもない。

私は少なからずそういう要素はあったかと想像する。
しかしまったく新しく陵墓を作って国の予算を無駄遣いするのは、申し訳ないから、
国防にも役立てる配置にしてみた・・・・。

そんなところではないだろうか・・・。


 

 乗り入れてきたたくましい松の木


ところで臣下らが、この場所を探して来た時、
雍正帝は一応、難色を示す「振り」をした。

「よき場所ではあるが、『子随父葬』の伝統的制度に反する」と。

しかし内心は、別に陵墓を作りたい気持ちで一杯だということを臣下らはよおおく汲み取り、
陛下のために言い訳が立つような先例を史書をひっくり返して探し出すことにした。

いわく
「夏の禹(う)は、浙江の会稽に埋葬されているが、その子の啓(けい)以降は山西の夏県に葬られている。
さらに少康(夏の7代目の王)は河南の太康に葬られており、その間の距離は千里では済まない・・。
また漢王朝の歴代皇帝の陵墓は、咸陽、長安、高陵、興平などに分かれている。」
と・・・。


こうして雍正帝はようやく「朕心始安」と表明。
体面を保ったのである。


どうやらこれが伝統的な皇帝の手続きらしい・・・・。






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清の西陵6、雍正年間にチベット直接支配

2016年01月15日 22時16分52秒 | 北京郊外・清の西陵
次に雍正帝が即位直後のごたごたでてんやわんやになっている時、
今度は青海が不穏になり出した。

これまでチベットを支配していたホシュート部は、
元々の根拠地は青海の草原である。


青海は崑崙山脈の南、チベットの北側にある。


現代でも青海省からチベットを目指すとわかるが、
青海というのは、もう見事なくらいになああーんにもないところである。

人もまばら。
見渡す限りの石ころの不毛の大地か、草原か。

標高が3000m以上あるため寒冷地で、さらに雨もあまり降らず、なかなか自然の厳しい土地だ。
この環境下で農業は厳しく、遊牧にしても北のジュンガルよりもさらに厳しい。
緯度は低いが、標高が高いために気温が低いからだ。

同じ遊牧をするにしても、家畜も人間も厳しいのだろうと、現地では実感できる。


ところがそんな青海省の省都の西寧からチベット高原へ南下して行き、
高山病に苦しみながら高い山を登り切って、さらに南の方に下がって行くと、
急に畑らしい農作地帯が見えて来て、ラサの喧噪が現れる。

つまり青海と比べて、チベットは豊かなのだ。
農業もできるから食糧の生産性も高く、人口も多い。

労働をしないラマ僧という有閑階級を食わせて学問を発展させたり、
食べ物を生産しない職人という階級を養って、美しい工芸品や生活雑貨を作らせられる余裕がある。
さらにはヒマラヤを超えてインドというさらなる一大文明圏とも交易が持てる・・・。

厳しい土地で日々を生き抜く青海の剽悍なる遊牧民が、
財宝とこれからも未来永劫に無尽蔵に取り立てられる豊かな税収を目の前にして、
命がけで征服しに行くことは、ごく自然な流れだろうし、
四方を断崖絶壁に囲まれて敵の襲来が少ないチベットの民が、征服されてしまう方が多いだろうことも容易に想像がつく。


 

 泰陵の土饅頭の周囲の城壁。
 下から勢いよく松が伸びてきています。



このように北からの敵の攻撃に対しては、康熙帝がかなり強固に仕上げたと言っていいだろう。

ところが雍正帝の時代になると、戦線は主に西に移る。


雍正帝の即位前後、ジュンガルがチベットに侵攻、
ジュンガル軍8000人に対し、清朝は全土から30万人もの大軍を動員して、これを阻止した。

北路はジュンガルを、中路はウルムチを、南路はチベット高原を目指した。


その際に件(くだん)の雍正帝の最大のライバルだった14皇子・胤[ネ題]が、
撫遠将軍として西寧駐留となったのである。


30万人という途方もない規模が目前に迫り、ジュンガルのツェワン・アラプタンは、
戦わずして、軍隊をさっさと引き揚げさせた。

ジュンガルが侵攻する前、チベットはモンゴルのホシュート部の支配を70年近く受けていたが、
これ以後、チベットは初めて清朝の直接支配を受けることとなる。
康熙帝が崩御した年、康熙61年(1722)のことである--。


ところでホシュート部も「4オイラト」の部族の一つとして、ジュンガルとは同じオイラト部の一部族である。
ジュンガルとも互いに複雑に婚姻関係がある。

ジュンガルのガルダン・ハーンの母は、ホシュート部の長グシ・ハーンの娘、
次のハーンとなったガルダン・ハーンの異母弟のツェワン・アラプタンは、ホシュート部のラサン・ハーンの姉を妻とし、
自分の娘ボロトゥクをラサン・ハーンの長男ガルダン・ダンサンに嫁がせた――、
と言った調子である。

時には敵、時には親戚のずぶずぶの関係である(笑)。






 泰陵の土饅頭の上。
 荘厳な松の木が生い茂っている。


青海のホシュート部にとって、チベットというのは、
永遠にじゃんじゃん財宝が出て来る、打ち出の小槌のような存在であったかと思われる。

だからこそ、それをジュンガルが奪いに来た時には、
なりふり構わず、清朝の皇帝に泣きついて、ジュンガルの侵略の非を訴えた--。

一方、清朝にとって、遥か遠くの地の果てにあるチベットを手中に納めようと納めなかろうと、
税収という点からいえば、あまりこだわりはない。

豊かさで言えば、それこそ目も眩まんばかりの富を生み出す
中原や江南の世界有数の生産基地を手中に納めているわけだから、チベットなどにはあまり興味はない。


困るのは、チベットの持つ仏教の精神リーダーとしての影響力である。

ジュンガル部はただでさえ、軍事的に強大な力を持っているのに、
さらにダライ・ラマやパンチェン・ラマと言った、全モンゴル人が崇拝してやまないカリスマをその手中に把握され、
影響を及ぼされた日には、清朝の屋台骨さえ崩れかねない。


事実、康熙帝を悩ませたガルダン・ハーンは、チベットの高僧ウェンサ・トルクの転生として、
チベットでパンチェン・ラマとダライ・ラマ5世に師事したという経歴をもつがため、
生涯に渡ってチベット宗教界高層の支持と擁護を受け続けた。

そのために康熙帝も、ガルダン・ハーンの扱いには神経を尖らせずにおられなかった。


それが清朝廷のチベット出兵の動機であり、
ジュンガルを追い出した後は、その主権をホシュート部に返さず、
自らが直接管理するという形にした理由もそこにある。


しかしホシュート部のロブサン・ダンジンは次第に不満を深めて行った。




 木の根本を見ると、遥か下に見える!
 よくぞここまで伸びてきたもの!



雍正帝が即位の正当性を巡って、喧々諤々の激しい兄弟喧嘩で取り込んでいるところに、青海で問題が発生した。

雍正元年(1723)、青海ホシュート部のロブサン・ダンジンが、
ホシュート部の他のタイジ(副格的リーダーの称号の一つ)との紛争をめぐって、
ジュンガルに援軍を求めたという知らせが入った。


前述のとおり、清朝廷が最も警戒するのが、
ジュンガル部が青海、ひいてはチベットに関わってくることである。

これを機に雍正帝は再び大軍を派遣。
青海を制圧すると、青海も清朝の直接統治とし、旗に編成、兵士の末端に至るまで八旗軍の佐領に組み入れた。

これによりチベットと青海まで清朝の直接軍政下に入ったのである。


雍正帝の陵墓の建設の前後の西北戦線は、
シルクロードの入り口、トルファンやハミとなっていた。

そこで侵入してきたジュンガル軍と一進一退の攻防を繰り広げていたのである。

康熙年間のウランブトンの戦いは、
当時、ジュンガルがモンゴル高原を占領していたために、
真北からそのまま真っ直ぐ南下してきたから、敵はウランブトン――つまり北京の真北からやってきた。

しかし今、前線は西にある。
そこでふと不安になったのが、北京の西側の防衛だったのではないか、ということになる。


 

 泰陵



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清の西陵5、ガルダン・ハーン、ウランブトンの戦いで首都に肉薄

2016年01月14日 13時28分14秒 | 北京郊外・清の西陵
これに加えて康熙帝は、モンゴル王公らとの親交をさらに深めるため、
康熙20年(1681)には、北京の東北、北京とゴビ砂漠との間の森林地帯に「木蘭囲場」という狩り場を作った。

春先から晩秋に至るまでの実に半年もの間、ここでモンゴル王公らと
日がな狩りやら、キャンプやら、宴会やら、ラマ教の法会やらに明け暮れるのである。
その中には、康熙帝の娘(皇女)を嫁がせた相手の「婿」王公もいたりして、
その皇女が生んだ息子が、将来はこの祭典に参加するような手はずになっていた--。

虎、鹿を中心とした動物が捕れたという。


そんな中、康熙27年(1688)に西北モンゴル、オイラートのジュンガル部のガルダン・ハーンが東に移動して
漠北(ゴビ砂漠の北側。現在の外モンゴル)のハルハ部を襲撃するという事件が起きた。

泡を食ったハルハ部の人々数十万人が、死の恐れも伴うゴビ砂漠の縦断をものともせずに大挙して南下、
康熙帝に保護を求めるという所謂「ハルハ部の大南下」があった。


元々、漠南と漠北のモンゴル諸部は、親戚関係のようなもの。
漠南にたどりついたハルハ部の人々は、康熙帝に助けを求めた。

康熙帝はハルハの人々を受け入れ、避難物資と牧草地を与えた上、
ガルダン・ハーンにモンゴル高原を明け渡し、元いた天山北路に戻るように求めた。




 

 泰陵。


 祠の後ろにつながる土饅頭のまわりは、丸くレンガの壁で囲まれており、
 その壁の上をぐるりと一周することができる。



ガルダン・ハーンが撤退を承知しないため、両者の関係が次第に悪化。
ついに康熙帝自らが、出陣してガルダン・ハーンとの戦いに臨むという事態に発展した。

康熙29年(1690)、ガルダン率いるジュンガル軍が、モンゴル高原から不毛の地・ゴビ砂漠を縦断し、
木蘭囲場の少し北、北京から直線距離でわずか700里しか離れていないウランブトンに現れた。


そこで清軍と激突するのだが、
ガルダンはなんと、帝政ロシアあたりから買い入れたのか、西洋の最新鋭の大砲を引きずって砂漠を超えて来ており、
そのすさまじいばかりの威力に康熙帝の叔父、生母の弟である「国舅」の[にんべん+冬]国鋼が、
一瞬で大砲に吹っ飛ばされて壮絶な最期を遂げたという。


清側の犠牲は大きく、ガルダンはそのまま一気に北京まで攻め入ると息巻いた。
実際、ウランブトンから北京までは目と鼻の先、
間一髪と言うところまで肉薄したのである。


これを迎え撃つ清側の覚悟も悲壮、
各牛禄(ニル)から鉄砲手を8人駆り出したと言われる。

ニルは八旗の最低単位、一組10人と言うから、その中から8人も出すと言うのは、
「ほとんど傾国」・・・・と記録にも言う。

北京城の城門は固く閉ざされ、城内の米価が三両も上がる騒ぎとなった。


幸いにも、清軍のこのような悲壮な防衛力の厚さに
さすがにガルダンも無理だと観念したのか、和議を申し入れに来て、
そのどさくさにさっさとゴビ砂漠の北へ引き揚げて行った。


 
 
 泰陵。

 土饅頭を取り囲む城壁と土饅頭。
 この下に雍正帝が眠る。

清朝の統治層が本気で肝を冷やす事件だったと言っていい。
そんな経緯も受けて、木蘭囲場での活動、その周辺への八旗兵の入植には、さらに一層力が入るようになったのである。

毎年、春の訪れとともに、北京から
王公大臣ら、八旗軍、皇帝一家、後宮の妃ら、皇子皇孫、宦官宮女に至るまで
数万人が木蘭囲場に向けて移動した。

移動中、身分が下の人たちは蒙古包(ゲル、天幕)を立てて野営するが、
皇帝とその家族らのためには、北京から木蘭囲場までの間の450㎞の間に21ヶ所の行宮が建設された。

そうした行宮の周辺には、八旗兵が常駐する村が配置されるようになる。


21ヶ所の行宮の一ヶ所であった承徳では、
康熙42年(1703)、行宮をさらに発展させ、広大な敷地に築山や池、川の中に宮殿が点在する「避暑山荘」の建設が始まった。

その周囲には、皇族、大臣らもこぞって屋敷を建設。
さらに毎年やってくるモンゴル王公らのために、ラマ教の寺院も建てられ、チベットやモンゴルからラマ僧らが呼び寄せられ、常駐するようになる。
承徳はちょっとした街に発展、周囲にはさらに八旗の駐屯軍が配備された。


このように北京から木蘭囲場までの間は、
大げさにいえば、もう足の踏み場もないほどに八旗兵で埋め尽くされたことになる。

北京の北部の各重要関所である居庸関、古北口、喜峰口、独石口もその地帯の中にすっぽりを入っていることは、いうまでもない。

居庸関の場合も、内も外も八旗兵の駐屯地で埋め尽くされ、
しかも居庸関まで、とてもではないが、道中の絨毯爆撃のような幾重にも張り巡らされた防衛線を突破できるものではない。


今でも北京から承徳までの道中を地図で見ると、
「なんとか満族村」、「なんとか旗郷」と言った名前で埋め尽くされている。




北京の東北郊外から承徳にかけての地図。
満族の地名で埋め尽くされている。


 

 泰陵。

 土饅頭を取り囲む城壁と土饅頭。
 この下に雍正帝が眠る。





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清の西陵4、ゆっくりとモンゴル諸部を制圧(西陵の地図つき)

2016年01月13日 00時03分24秒 | 北京郊外・清の西陵
さて。
清代になると、紫荊関は「内地」となる。


満州族は、モンゴル族を味方につけることができたからこそ、
中原の主となることができたわけだが、最初から最後まで北方勢力を完全に掌握していたわけではない。

建国当初、同盟関係にあったのは、「漠南」(ゴビ砂漠の南側)と呼ばれる現在の内モンゴルのモンゴル諸部族(ホルチン部など)のみ。


次に康熙帝の時代になり、ジュンガル(オイラート・モンゴル)のガルダン・ハーンに攻められて
「漠北」(ゴビ砂漠の北、現在のモンゴル共和国、モンゴル高原、外モンゴル)のハルハ部が難民となって、漠南になだれ込み、
康熙帝がこれを保護、ハルハ部も清朝の傘下に入った。

シルクロードエリアにあたる天山山脈の南北にいたオイラート・モンゴルまで掌握するのは、
乾隆年間もようやく終わりかけた頃。


実に統治の半分くらいの時間をかけて、ゆっくりゆっくりと少しずつ傘下に収めている。


つまり雍正年間のこの頃、清朝はまだオイラト・モンゴルとの戦争の真っただ中にあり、
紫荊関の戦略的な重要性は、まったく下がっていなかったのである。




またまたお恥ずかしながら、手書きの地図。
 西陵のすぐ西側に紫荊関がある。

清の統治時代になると、
紫荊関には、兵営が置かれる。

康熙帝は、モンゴル諸部族との連携を強めるため、
その生涯に何度も草原へ足を運んでいる。

・・・というか、一年のうちかなりの時間を北京の外で過ごしていると言っても過言ではなく、
まさに「遊牧民の正統なハーンの継承者を自称するマンジ(満州)の皇帝」にふさわしい生活パターンであった。
ほとんど毎年、草原のモンゴル諸部を訪ねるか、承徳まで諸部のリーダーたちを呼ぶ寄せるか。

ガルダンとの戦いでは、自ら軍隊の指揮を執りもした。



康熙42年(1703)の西巡の旅では、紫荊関を通って西側へ行くルートを取った。

皇帝一行が紫荊関に到着した時には、すでに夜も暮れており、
紫荊関の城門は閉じられていた。

城門を何度叩いても、中にいる兵士は門を開けず、
一行はやむなく外で野宿したという。

翌日、康熙帝は「よき心がけ」と兵士をほめ、
「天子閲武」
の四字を残したという。

今では石碑に刻され、山の中腹に置かれているとか。


・・・・今回は残念ながら、紫荊関まで足を延ばせなかったが、
次回はぜひとも訪ねたいものである。


  

  泰陵

  近すぎて、文字の判別不能。。。(汗)


北京の最も重要な関所は、前述のとおり、
「居庸関(きょようかん)」と「紫荊関(しけいかん)」なのだが、
居庸関の方に関しては、康熙帝がかなり周囲を固めまくっている。

清初期の最重要課題は、漠南のモンゴル諸部との親交を深めることだったかと思われる。


それまで中原王朝の歴史の中でずっと中原王朝を悩ませて来たモンゴル族を筆頭とする騎馬民族との間に
満州族という第三勢力である自分たちが入り、
中原の人々が再びその襲撃に怯えて暮らさなくてもよくすることが、
満州族の最大の存在意義だということには、深い自覚があったかと思われる。


漠南とは、文字通り、ゴビ砂漠の南、現在の内モンゴルのあたりを示すが、
つまりは北京の北に広がる草原地帯である。


漠南のモンゴル諸部と北京との行き来には、
北京の北側の各関所をじゃんじゃん往来しながら、盛んに往来した。


明代に作られた万里の長城の要所である各重要関所の居庸関、古北口、喜峰口、独石口も
八旗の関係者が盛んに行き来した。



  



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清の西陵3、父親に顔向けできないからこそ、そして紫荊関の地の利

2016年01月12日 21時03分24秒 | 北京郊外・清の西陵
雍正帝の兄弟らの行く末を確認しておこうと思ったら、
あまりにも人数が多く、えらい長丁場になってしまいました。。。。

最後は、康熙帝の江南女趣味ばかりを追いかける羽目にも・・・・。


それはともかくとして、
もう一度、まとめてみると、
康熙帝の皇子35人中、成人したのは20人。

その中で雍正帝の在位期間中、五人が幽閉されたまま。
さらに二人は獄中死した--。

しかも常にスパイを放ち、あちこちの動きをつかもうと
注意を怠らなかった・・・。


墓の中の康熙帝が、自分の子供たちのこのような状況を知ったら、どう思うだろうか・・・・。
とても顔向けできたものではない。

雍正帝自身もその状況を決して楽しんではおらず、
最も哀しんでいたのは、本人なのではないか、とさえ感じる。



--だから100里も離れた遥か彼方の地に自分の墓を作ると言い出したのだ、という説がある。




当初、候補に挙がっていた東陵の土地について、大臣らが
「九鳳朝陽山は、風水の条件に不備がある上、土壌に砂が多く、陵墓に適していない」
と上奏したのは、最初から皇帝の胸の内を察した臣下らが、気持ちを代弁するが如く上奏したのか。

そして雍正帝も「わが意を得たり」とばかりに採用したのか--。


それともほかに何か考えがあったのだろうか・・・。

陵墓を離れた場所に二つ設けることは、維持費の面で見ても、余計な経費がかかる。
それぞれに一つずつ陵墓の管理のための専門の行政機関をおき、常駐組織を置かねばならないのだから・・・。


国のすべてのことについて、無駄や矛盾をなくし、効率化を進めようとした雍正帝らしくないやり方ともいえる。



  

  泰陵


雍正帝の命を受け、怡親王・允祥と大臣らが、その意向に沿って北京の西南方向で調査を進めた。

--怡親王・允祥といえば、第十三皇子。
 雍正帝に最もかわいがられた弟。
 雍正朝の勲功第一として、世襲親王である鉄帽子王に加えられ、
 清朝九番目の鉄帽子王家となった人。

そんな風に弟の一人が、場所選定事業に関わっていたのですな。


しかし北京の周辺をめくら滅法に探し回れというのではなく、
「西南方向」と一応、方角は決められていたよう。


そうして最終的に決まった今の西陵のある易県には、
もう一つ、重要な要素がある。

--古来より重要な関所の一つだった紫荊関(しけいかん)の麓だということだ。


雍正帝の西陵の場所選びには、戦略上の大きな狙いがあったのではないか、と
いう説も最近は出ているという。


  

  泰陵
  
  排水システム


西陵は紫荊関の麓、山中から出てきてすぐの平野部に広がる。


北京は、北に燕山山脈が東西に横たわり、
西には、太行山脈が南北に連なって、山西との境となっている。

北から北京に抜けるため、燕山山脈の山中の最も重要な関所が「居庸関(八達嶺)」。
西側から北京に抜けようと思うと、太行山脈の山中の最も重要な関所が「紫荊関」である。
さらにその少し南側にあるのが、同じく太行山脈の山中の「倒馬関」。

この三関が、北京の「内三関」と呼ばれる。


このように紫荊関は古来より戦略の要所となっており、
ここが破られると、もう北京までは丸裸。
だだっ広い平野が続くので、北京まで馬で一気に駆け抜け、落とされてしまう。


紫荊関が破られれば、もう北京を破られるのも時間の問題となる。



北京界隈が燕と呼ばれた遥か昔より、戦いの勝敗を決める重要拠点となってきた。

「山西」、「山東」の「山」とは、太行山脈を指すが、
その山中には、古来より「古太行八径」と呼ばれる山中を抜ける八本の道があった。
紫荊関は、その七本目「蒲陰径」上にある。


紫荊関の重要性は、

「居庸関が破られても、北京が破られた例は十中三しかないが、
 紫荊関が破られて、そのまま北京城まで破られた例は十中七。」

と言われるほどだという。


明末清初の著名な思想家・顧炎武は、『天下郡国利病書』の中で、
「居庸関は吾が背なり、紫荊関は吾が喉なり」
と言った。

 

 下手な手書きの地図で恐縮。
 自分なりに相関図をまとめてみた(笑)。


・・・・今、過去記事を見返していたら、

カテゴリー『河北・蔚県と暖泉』シリーズにも、相関地図があることを発見。

暖泉1・「蔚県800城」の一つ


そのほかにも、紫荊関を超えた西側にある宿場町・城塞都市として発展した
『河北・蔚県と暖泉』シリーズも合わせて読んでみてくださいー。


シリーズ第一話・蔚県1・宦官王振の故郷
この記事からずっと上に順番に遡って見てくださいー。


紫荊関は元々、春秋戦国時代の燕の時代から万里の頂上の一環として作られた関所である。


燕の下都の西北の守りの壁となった。


秦・漢代の名は「上谷関」、後漢では「五阮関」、
宋・金代は「金坡関」と呼ばれた。

元代以後は「紫荊関」の名で通る。


現存する紫荊関とその周辺の万里の長城は、
明代を通じて何度も補強・増強を繰り返された末の偉容である。

周辺の頂上の見張り台は330台、
紫荊関は「九門九関」、2000人近い兵士が城中していた。



  

  泰陵


北京という都市は、もともと草原地帯と農耕地帯の境界線にあり、
農耕民族が騎馬民族から生活を守るための最前線の城塞として築かれ、発展してきた。


そのため戦火が絶えることはなく、古来より記録に残るだけでも
紫荊関で起こった戦役は140回ほどもある。


その中の代表的なものをいくつか挙げよう。



後漢の洪武帝時代・建武21年(西暦45年)、烏桓(うがん)と匈奴、鮮卑族の連合軍が侵入。
 
 今では匈奴はモンゴル族の祖先、鮮卑もトルコ系といわれるが、
 どうもこの頃は、モンゴル系もトルコ系も皆、顔はツングース、言語もアルタイ語で
 あまり分化していなかったようなので、とりあえずは北方のアルタイ系の諸民族、っていうくくりでいい感じですな。



 代郡(現在の山西省代県)から東の地域では、特に烏桓の被害がひどく、
 「民がことごとく逃亡し、国境は人っ子一人みかけることもなし」
 という悲惨な状況になったという。


 名将・馬援(ばえん)が指揮を執り、紫荊関で烏桓の撃退に成功した。



  

  泰陵
 
  満州語、モンゴル語、漢字での表記が見える。
  「世宗憲皇帝之陵」。


またもう少し後の時代には、次のような例もある。

金朝の大安元年(1209、南宋の嘉慶2年)、モンゴルのチンギス・ハーンは、居庸関を北から攻めたが、
金朝がこれを固く守り、破ることができなかった。


そこでモンゴル軍は、一部の兵力を割き、
西側から回り込んで、紫荊関を攻撃、金軍を破って
易州、啄(さんずい)州(たくしゅう、易州の東、三国志の桃園の契りで有名な地)の二州を占領、
そこから中都(今の北京)を攻め落とし、ついでに居庸関も挟み撃ちにして攻め落とした。

さらに返す刃で大軍を率いて紫荊関を西に出ると、山西の太原、代州も攻め落とした・・・・。

これで北京周辺を完全制圧したのである。



もう一つ、明代の有名な土木の戦役がある。

明の正統14年(1449)、オイラト・モンゴルのエセン・ハーンが
土木で明王朝の皇帝(英宗、正統帝)を捕虜にするという前代未聞の事件(土木の変)が起きた。

エセン・ハーンは勢いに乗り、そのまま人質の皇帝を連れて大軍を率いて南下、
万里の長城のすぐそばまで迫った。

しかし居庸関を攻めてみたものの、守りが固くてなかなか攻め落とせない。

そこで同じようにまた西側に回り込んで紫荊関を攻め、明側が敗れた。
オイラトの大軍は、そのまま駆けに駆けてあっという間に
良郷(北京の郊外・房山。今では地下鉄も伸びている。つまりは北京城のすぐ目の前)
まで迫った。

明の兵部尚書・于謙は、紫荊関まで自らも軍を指揮して出征、
エセンの弟ボーロを殺し、ようやくオイラト軍を撃退させて、辛くも北京を守り抜いた。



  

  泰陵





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清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

2016年01月11日 23時25分29秒 | 北京郊外・清の西陵
父・康熙帝や祖父・順治帝の眠る東陵一帯の候補地を
「不適切」と言い出した大臣らの異議を雍正帝は、どのように受け止めたのだろうか。。。。


結果的に祖父と父の眠る場所から紫禁城を挟んで、
真反対の数百里も離れた場所に自分の陵墓を作ることになったのは、
どういう事情なのか。



雍正帝といえば、思い浮かべずにおられないのは、
「簒奪だったのではないか」と言われるその即位の正当性の怪しさと、
即位後の凄惨な「兄弟争い」である。


子だくさんな康熙帝は、実に記録に残っているだけでも35男20女、合計55人の子供を残している。



皇子だけを見ると、
まず長皇子、次皇子、三皇子、四皇子、六皇子、八皇子、九王子、十二皇子、
十九皇子、二十四皇子、三十三皇子は乳飲み子で夭折。


それ以外は、「序歯」(順番打ち)をされ、24番目まで「序歯」がつけられた。



しかしその中でも十四皇子(5歳)、二十皇子(11歳)、二十八皇子(七歳)、二十九皇子(二歳)は
成人前にやはり夭折。



35人中20人が成人している。


十五皇子以降は、若かったので、後継者争いには参加しておらず、
九人の皇子のガチンコの争いになった、
いわゆる「九子奪嫡」に発展するわけである。


   

   泰陵。雍正帝の気持ちは今、如何に。。。。



雍正帝の兄弟たちが、雍正帝の即位にからみ、どのような人生をたどって行ったのか、
一人一人、見て行きたいと思う。

それによって、雍正帝がわざわざまったく新しいところ、
しかも100里以上も離れたところに陵墓を作り直した、背景を納得できるのではないかと思うからである。




康熙帝の成人した皇子の中、雍正帝が即位した後の末路(?)と雍正帝との関係は、次のとおり。




五皇子(序歯・長子)胤[ネ是]。

  皇子らの中で最も年上ながら、母親の地位が低かったために、皇太子に選ばれない。
  康熙帝が崩御した時点では、太子に対する呪詛をラマ僧に依頼した咎で自宅軟禁されたまま。
  雍正帝は、自分が即位してからもその軟禁を解くことなく、雍正12(1734)年没。



  ---軟禁を解いてあげなかったとはいえ、雍正帝が敢えて手を下したわけではないので、
    間接的な被害に留まる、ってとこでしょうか?




六皇子(序歯:次子、皇太子)胤[ネ乃]。

  孝誠仁皇后が生母。生母が康熙帝の寵愛を受けていたため、2歳で皇太子に立てられる。
  康熙帝が崩御した時点では、廃されて幽閉されていた。

  雍正帝は、自分が即位してからも同じくその軟禁を解くことなく雍正2(1724)年没。


  しかしその死後、雍正帝は理親王に追封し、爵位はその第二子・弘に継承させた。


  ---子孫が爵位を継ぐことができただけでもましだった、ともいえるのかしら??


  

  泰陵。
  
十皇子(序歯:三子)胤[ネ止]、。

  母は栄妃・マギャ(馬佳)氏。生母の地位はあまり高くない。
  学問に優れていたほか、皇太子と仲が良かったために、雍正帝の即位後は疎んじられる。
 
  雍正帝に父・康熙帝の墓守りに陵墓での駐屯を命じられ、北京から都落ち。


  雍正帝はその後もあまり安心はできなかったようで、
  雍正6(1728)年、収賄容疑で自宅に拘禁され、郡王に降格。

  二年後には親王位に復位するが、しばらくするとまた軟禁。
  雍正10(1732)年に病没。

  七子の弘暻が位を継承するが、貝子(ベイセ)爵位に降格。


  ---結局、雍正帝が即位してからは、都落ちさせられているか、軟禁されているか、
     ロクでもなかったことがわかりますな。


     それでも子孫に爵位が継承され、お家が残っただけでもマシですか。。。。




四男が雍正帝になります。




十三皇子(序歯:五子)胤[ネ其]


  生母は宜妃・ゴロロ(郭絡羅)氏。同じく生母の地位は高くないが、
  幼少から祖母・孝惠章皇后に養育された。

  温厚な人柄で皇位継承争いに参加せず、超然としている。

  康煕48(1709)年に和碩恒親王、鑲白旗の旗王に封じられ、
  雍正年間になっても、失脚することなく、そのままお勤めをこなす。
  
  雍正10(1732)年に病没。
  第二子・弘晊が王位を継承。


  ---この人は、最初から後継争いに参加しなかったことで、
     淡々と寿命を全うできたようですな。

     子孫も爵位を継がせてもらっています。



   

    泰陵

十五皇子(序歯:七子)胤祐

   母は成妃・ダイギャ(戴佳)氏
   体に障害があったと伝わる。

   雍正元(1723)年、和碩淳親王に封じられる。
   雍正8(1730)年没。

   王位は六子・弘暻が継ぐ。


   ---この人も無事に生涯を終えることができたよう。
     体に障害があったと伝わるが、具体的にどれくらいの程度だったのかは不明。

     しかし清朝初期の満州族は尚武の気風が盛んだったと思われることから、
     肉体的な優位性も含めたカリスマ性で惹きつけないと、
     部下を取りまとめることができないだろう、と周囲からも見なされていただろう。
     本人も周囲も皇位継承争いのレースに入れるとは思っていなかったのかもしれない。



十六皇子(序歯:八子)胤[ネ異]

   母は良妃・衞氏。
   生母は身分が低く、長子の生母・恵妃・ナラ氏に養育された。

   優れた資質で幼い時より父・康熙帝にかわいがられ、
   後継者争いレースにガチンコで参戦。
  
   しかし簒奪を恐れた康熙帝のために、
   父親の晩年には、完全に候補者からははずされてしまう。


   雍正帝が即位すると、和碩廉親王、正藍旗の旗王、総理事務王大臣に任命され、
   要職につくが、次第に雍正帝と対立するようになる。

   雍正4(1726)年、王位を剥奪されて、宗人府に拘禁。

   雍正帝はその名をアキナ(犬)と改名し、皇籍を剥奪。
   その年のうちに獄中死。 

  
   ---後世に雍正帝の評判をひときわ悪くしている「改名事件」の一つ。
     獄中死したというのは、もうほとんど殺されたも同然でしょうから、
     ろくな死に方をさせなかった兄弟の代表といえるだろうか。


     卑しい名前に改名するという子供じみたやり方も
     かなりイタイ感じだにゃあ。



  
  
  泰陵

十七皇子(序歯:九子)胤[ネ唐]

   母は宜妃・ゴロロ(郭絡羅)氏。五子の同母弟。
   母の実家は裕福だったという。
     
   応援団として、これまたガチンコで皇位継承争いに参与。
   自分が皇位につける可能性は薄いために
   有望な候補者だった八子・胤[ネ異]、十四子・胤[ネ題]を全面的にバックアップする。
   いわゆる「八爺党」の重鎮。

   継承争いに必要な資金の調達、という孔子にとっての子貢のような役割(笑)を担っていたらしい。
   具体的にどこからそんなお金が来たのかは、さらりと調べた程度では、
   出て来なかったので、またいずれ機会があれば、深く掘り下げたい問題。



   雍正帝が即位した時の失望は、あまりにも大きく、
   納得が行っていなかったために、その後の末路が待っている。


   雍正帝が即位すると、遥か西の果てである西寧に赴任するように命じられ、
   大いに不満を述べ、ぐずぐずと従わない。


   翌年には八子・胤[ネ異]、十子・胤[ネ我]、十四子・胤[ネ題]と三人で
   クーデターの相談をしていた手紙を差し押さえられる。

   雍正4(1726)年、八子とともに皇籍を剥奪され、サスヘ(豚)と改名させられる。
   直隸総督・李紱の監督下で保定の牢獄にいれられる。
   劣悪な環境に幽閉され、その年の内に病没。
   

   嫡福晋(フジン)董鄂氏と長子・弘[日政]が拘禁された。
   特に弘[日政]は、拘禁されること50年以上に及び、あどけない少年だったのが、
   古稀の老翁になった乾隆四十三年(1778年)にようやく釈放された。


   --出たああ。もう一人の改名。「サスヘ(豚)」でっせ。
     しかもかなり悲惨な死に方。家族も連座。


     雍正帝は李紱が故意に胤[ネ唐]を殺したのではないかと疑っていた、と伝わる。
     ということは、本来は長子や元皇太子などと同じように、幽閉くらいに留めておき
     殺すつもりはなかったのだろう。

     八子や十四子とちがい、大本命のライバルではなく、その周りの取り巻きの、
     言ってみれば雑魚というか、金魚のフン(←失礼、笑)でしかないのだから、
     血を分けた兄弟を敢えて殺すほどでもない、と思っていたのではないか。


     しかし結果的には、悲惨な死に方をさせてしまうのだから、
     あまり寝覚めのいい結果ではなかったはず。


  

  泰陵

十八皇子(序歯:十子)胤[ネ我]

  母は清重臣・エビルンの娘、温僖貴妃・ニオフル(鈕祜禄)氏。
  皇太子以外で最も母親の実家の地位が高い。

いわゆる「八爺党」の一員。
  「八爺党」は当初、八子・胤[ネ異]をバックアップしていたが、
  その可能性がなくなると、今度は皆で十四子・胤[ネ題]を支援するようになる集団。


  そんな中で雍正帝が即位したので、大いに納得いかず、
  じたばたと抵抗した兄弟の一人でもある。

  雍正2(1724)年、康煕帝の崩御をハルハ・モンゴルに知らせる使者の役目を命じられるが、
  モンゴルへの途上で病と称して張家口に居座り、そこから動かない。


  雍正新君を呪う祈祷を密かに行ったことが発覚したので、
  雍正帝の代行者である八子・胤[ネ異]に王位を剥奪され拘禁される。
 

  乾隆2(1737)年、乾隆帝に許され、輔国公に封じられる。
  乾隆6(1741)年、病没。


  ---つまりは雍正年間は幽閉はされつつも、なんとか殺されずに済み、
    雍正帝が死んでから、釈放してもらったということですな。
    
    九子・胤[ネ唐]の場合は、地方官僚に任せておいたら、
    なぶり殺しにされてしまったわけだから、
    この人の場合は、なんとか生きながらえることができて、まだましですか。。。



  

  泰陵


二十一皇子(序歯:十二子)胤[ネ萄]

  母は定妃・万琉哈氏。
  幼少時は孝莊文皇后の侍女であるスマラグ(蘇麻喇姑)に養育された。
 
  雍正帝が即位すると、郡王に封じられ、
  1年後に職務怠慢や公文書の棄損を理由に「公」に降格させられるが、
  6年後にまた郡王に復位。

  乾隆28(1763)年、病没。
  康煕帝の皇子の中では最も長命。


  ---なんというか、特にエピソードらしきものも出て来ない。
    皇位継承争いにも参加せず、かといって「人柄がおだやか」とか
    「芸術に没頭して、権力に関心を示さず」とかいう話も出てこず、
    ただ「皇子らの中で最も長寿」という事実のほか、目立ったいうべきこともないらしい。。。

    世の中には生まれつき、あまり野心も強くなく、
    存在感も薄く、淡々と生きている人というのはいるものだが、
    まあ。そういう人だったのかしらね。。。

    巨大な権力への誘惑を目の前にして、それはそれであっぱれなもの。
    できそうでなかなかできるものではない・・・。

 

二十二皇子(序歯:十三子)胤祥

  母は敬敏皇貴妃・ジャンギャ(章佳)氏。
  幼年期にに母を亡くし、雍正帝の生母・徳妃・ウヤ(烏雅)氏の元で養育される。

  いっしょに育ったせいもあるだろうが、雍正帝が最も仲良かった皇子。

  即位直後、雍正帝は反対勢力の中で四面楚歌の危ない状態にあり、
  誰も信じられない疑心悪鬼の精神状態となる。

  スパイを跋扈させて、あちこちの王府を探りまわったという
  根暗なイメージが雍正帝にはあるが、
  その中でもこの胤祥だけは、かわいがっていたよう。

  康煕61(1722)年、雍正帝が即位すると親王、総理事務王大臣に任命。
  
  雍正朝の勲功第一として、世襲親王である鉄帽子王に加えられ、
  清朝九番目の鉄帽子王家となる。


  雍正8(1730)年に没する。


  ---明代、王朝の最後には皇族が数万人の規模に膨れ上がり、
    その俸給を支払うだけで、首が回らなくなったという。
   
    このことを清朝では教訓として、
    皇族は一世代ごとに格を下げ、次第に俸給を下げて、
    国庫への負担があまりふくらまないようにした。

    鉄帽子王の家柄だけが、世代を超えても同じ待遇をもらえる家。
    乱発すると、国家の財政を逼迫させるので、めったにはなれない中、
    胤祥の家系を鉄帽子王に指定したというのは、
    どれだけ破格の待遇だったかということがわかる。


  

  泰陵


雍正帝の兄弟の中でも最大のライバル、十四子の登場です。


二十三皇子(序歯:十四子)胤[ネ題]

   
   生母は徳妃・ウヤ(烏雅)氏=孝恭仁皇后。
   雍正帝の同母弟。

   幼い頃からその聡明さは群を抜いており、
   父・康熙帝にもひときわかわいがられた。

   八子・胤[ネ異]が皇位継承レースから転落すると、
   周囲の期待は、十四子に一身に注がれるようになる。
   八子・胤[ネ異]も自分に希望がなくなると、
   十四子の応援に回る。

   康熙帝には、その軍事的な才能も大いに見込まれ、
   康熙帝の崩御の直前にジュンガル戦のために遥か遠くのチベットの入口、
   西寧に派遣された。
   
   一説には、康熙帝は後継者を十四子に決めていたのに、
   雍正帝が簒奪したのではないか、という説もあり、
   周囲も本人も十四子こそが大本命と信じ込んでいた節がある。


   そのため、この大事な時期に北京から遥か遠くに派遣されてしまった十四子は
   気が気ではなく、仲間の九子・胤[ネ唐]などに、
   父の危篤に際しては、必ずや直ちに知らせるよう、
   西寧から飛んで帰ってくるから、としつこいくらいに言い含めていた模様。

十四子憂慮していた通り、
   康熙帝の危篤の際に、そのそばにおられなかったことが、
   結局すべての命運を定めてしまったと言っていい。

   康熙帝の崩御の知らせを受け、北京にかけつけた頃には、
   雍正帝がもうとっくに即位していた。


   
   雍正元年(1723年)四月,康熙の景陵への埋葬の伴を命じられ、そのまま景陵附近の湯泉に軟禁。
   その後も景山の寿皇殿に幽閉され、雍正帝が死ぬまでそのまま。


   乾隆帝が即位し、ようやく釈放され、
   少しずつ爵位も復活してもらい、最終的には群王まで。
   乾隆二十年(1756)没。


   ---雍正帝が即位してからも、どうやら十四子の持ち物を危ぶんでいたらしい。
     十四子をひときわかわいがっていた康熙帝。
     康熙帝自らが、十四子を後継者として約束する手紙、諭旨などを
     隠し持っているのではないか、と雍正帝は恐れていたらしい。

     西寧から帰る道中、雍正帝は使者を先回りさせ、甘粛のあたりですべての持ち物を差し押さえてしまったとか。


     二人の生母である徳妃の様子もなにやらおかしい。
     「陛下の欽命で吾が子が皇位を継承するよう命じられたこと、
      誠に吾が夢にも思わぬ内容だった」と言ったとか。

     そして康熙帝に殉じて死にたいと騒ぎ、雍正帝が必死に阻止。
     次には皇太后の称号を拒否、皇太后が歴代住んできた慈寧宮に入ることを拒否したかと思うと、
     数ヶ月後には病気で急死。

     ・・・なにか雍正帝に対する強い抗議のようなものを感じる。
     その死もあまりにも怪しい。
     抗議のために憤死したとも思えるが、
     二人の生母である彼女が騒ぎ続け、本当は十四子が即位するべきだったといい騒ぎ立てれば、
     さすがの雍正帝もなすすべがない、と危ぶんだのではないか。。。。


     そんなことも連想してしまうのである。


経緯をいろいろ読んでいくと、やはり康熙帝の大本命は十四子で、
雍正帝は簒奪だったにまちがいない、と私は感じている。

しかし清朝のためには、結果的に雍正帝でよかったのではないか、とも感じる。

十四子は有能ながら、派手なことを好み、
どちらかというと、康熙帝や乾隆帝のような、イケイケドンドンのタイプ。

康熙帝の晩年は、官僚機構ももういろいろなところで緩みが出てきており、
雍正帝がしゃきっ、とカツを入れたことにより、
その後の清朝の寿命が100年は伸びたのではないか、とも言われている。

それを思うと、恐らく十四子は雍正帝のようなストイックなひきしめや制度改革は行えなかったのではないか、と思える。



  


  泰陵

   
   
   
   泰陵


二十五皇子(序歯:十五子)胤[ネ寓]

   生母は康熙帝から深く寵愛を受けた順懿密妃。
   正真正銘のこてこての漢人だったよう。


   康熙帝の祖母である孝庄皇太后が、
   爛熟した文化を背景に男をたぶらかす術に長けた妖艶な漢人女は
   (・・・に見えたんですな。針葉樹林の中から出てきたばかりの未開の民だった満州族には)
   一切、後宮に入れることまかりならぬ、と決まりを作ったことは、有名な話。


   同じ漢人でも、清朝成立前から奴隷として満州族に仕える漢軍八旗の漢人や
   家奴隷であった「包衣」の漢人などは、もう数世代も満人とともに生活するうちに、
   「満化」しているから、かまわない。


   孝庄皇太后あたりが最も恐れたのは、
   天下の富が集中する江南の地、蘇州や杭州あたりで育った退廃的なムードを身に着けた漢人女たち。
   当然、満州族には厳しく禁止されている纏足された足でちょこちょこと、
   お尻を左右にうねうねとくねらせながら、悩ましげに歩く。


たとえば、日本でも「東男に京女」という。
   勃興勢力は、未開の剽悍な地から興るもの。
   その男たちが憧れるのは、
   濃厚な文化と歴史を背景にした都の女たち。。。。


   京都の女が全員美人かといえば、もちろんそんなことはない。
   しかし美人に見える「立ち振る舞い」がある。
   伝統と文化の蓄積に裏付けされているから。

 

   満州の男たちにとっては、それが江南の女たち、
   ----蘇州や杭州など、盛んな経済活動で富を蓄え込んだ地域の女たちというわけである。

   科挙の合格者数も、江南地域が全国で一番高い。



   ・・・・禁止されればされるほど、満人男たちのあこがれは否が応にも高まる・・・・。
      
   康熙帝は、自身の地位や満州族の統治が揺るぎなきものとなった老年に入ったあたりから、
   婆さまに決められたこの禁忌を静かに、秘かに破り始めたらしい。
   


生母の順懿密妃・王氏は、
   知県・王国正の娘、蘇州出身。

   父親が知県(県長)となったのが、娘の出世のおかげなのか、
   それとも娘が後宮に入る時なのかは、よくわからない。

   以下に説明する相関関係を考えると、始めから知県だったのかもしれない。



   王氏は、康熙帝の南巡の際、
   大体、一回目の南巡(康熙二十三年)か、二回目(二十八年)あたりに「献上」されたと伝えられる。

   蘇州織造の職にあった李煦が、康熙帝に贈り、
   王氏は、李。


   康熙帝にとって、王氏がどれだけ「身元の知れた女性」だったか・・・・。


   まずは、李煦は、康熙帝の乳母の息子、
   康熙帝の乳兄弟だった、という関係がある。

   清朝では、皇帝一家に皇子、皇女が生まれると、
   内務府包衣の既婚女性の中から乳母を選ぶことが慣習になっていた。


   内務府は、皇帝の一家の生活全般を見る部署。
   そこに所属する「包衣」(満州語:ボオイ)は、皇帝一家に代々仕える「家奴」。
   ほとんどは東北にいた頃、何らかの形で奴隷となった漢族、
   代々、世襲制である。


   奴隷というと聞こえは悪いが、
   その関係は、まさに家族。
   最も信頼がおける相手として、出世を遂げた人も多い。

   そんな兄弟同然の李煦のいとこ、それが王氏である。
   やましい状況で漢人女性を後宮に入れる康熙帝としては、
   少し安心できる存在だったにちがいない。
   
 
 
  

  泰陵


   

   泰陵

生母の順懿密妃・王氏は
   包衣の李煦のいとこだったという話。

   包衣は何世代にも渡って、奴隷として仕えてきた身分であるはずで、
   その李煦のいとこが、なぜ蘇州育ちの、纏足をばっちり仕上げた漢人女性であり得るのか?

   ちなみに包衣の女性も当然のことながら、纏足はしない。



   ---実は李家というのは、包衣になってまだ2代目なのである。


   李煦の父親・李士[木貞]は、山東省出身の漢人。
   元の姓は姜氏。姜家は代々、明朝の御医や高官を輩出してきた名家だった。

   明末の動乱で23歳で清軍の捕虜となり、その後、正白旗佐領・李西泉の義子となり、李姓に改姓した。
   正白旗は当時、ドルゴンの管轄する旗だったので、
   この時点で、叡親王ドルゴンの王府づけの包衣になったことになる。

   その後、ドルゴンの死後、順治帝がその爵位を剥奪し、正白旗は皇帝直属に組み入れられたので、
   正白旗の包衣付きだった李士[木貞]は、そのまま内務府付きの包衣となったのである。

   李士[木貞]はそれから、浙江布政使、江西巡撫などの要職を歴任、
   その妻・孫氏は、康熙帝の乳母となる。

   
   李家のこのような経歴を見ると、
   父親の代にようやく包衣になっており、
   李士[木貞]以外、一族郎党、皆、漢人ということになる。

   王氏の一族も、出世した李士[木貞]にあやかり、親戚もいろいろ恩恵に預かり、
   大なり小なりの官僚になったり、蘇州あたりの盛り場に出てきて商売で儲けて裕福になったりしていたのかもしれない。


   ・・・・そう考えると、李煦に王氏というこてこての漢族のいとこがいたとしても
   そんなに不自然な話ではないことになる。



  
   
  泰陵



生母の順懿密妃・王氏は包衣の李煦のいとこ。  

   『紅楼夢』の作者・曹雪芹の祖父・曹寅は、
   李煦の盟友、ズブズブの姻戚関係だったと言われる。


   曹寅も李煦と同様、元は正白旗付きの包衣だったのが、のちに内務府付きの包衣となり、
   母親が康熙帝の乳母になり、同じように康熙帝の乳兄弟として育つ。

   康熙帝は、江南の郷紳層がまだ清朝に心底は信服していなかった当時の情勢から、
   最も信頼のおけるこの二人を蘇州と杭州に駐留させ、
   現地の情勢などを絶えず報告させていたという。

   その後、曹寅の妹が李煦に嫁ぎ、李煦の妹が曹寅に嫁ぎ、
   両家はズブズブの姻戚関係になる。

   『紅楼夢』の中に出てくる主人公・賈宝玉の祖母、賈家のゴッドマザーの史太君こそが、
   李煦の妹のことだと言われる。


   つまり十五子・胤[ネ寓]の生母は、曹雪芹の祖母のいとこ、ということになる
   (えらいややこしいが。。。。笑)。



   

   泰陵

ちなみに康熙帝の乳兄弟だった
   李煦と曹寅は、別の伏線でこの皇位継承争いに巻き込まれている。


   李曹の両家は、全財産を傾けて八子・胤[ネ異]を支持したというのである。
   

   ----なぜ八皇子なのか、・・・・・という問題については、
   『紅楼夢』に出てくる賈宝玉の姉の一人、賈元春のモデルになった女性がいたのではないか、と言われる。


   物語の中で、賈元春は後宮に入り、皇帝さまの覚えめでたい妃さまになられた、という設定になっている。
   つまりは曹寅の娘の一人が、八皇子・胤[ネ異]の福晋(フジン、夫人)になっていたのではないか、
   という説がある。

   その八皇子・胤[ネ異]を本当に皇帝にするために、両家が関わった・・・という謎解きではないか、と・・・。


   曹家が壮絶な没落を遂げるのは、雍正帝が即位してから、徹底的に弾劾され、
   家宅捜査が入り、すべての家財を没収されたためだと言われる。

   曹雪芹が生まれた時、曹家はすでに悲惨な没落を遂げた後だったのである。


   康熙帝のお気に入りとして、繁栄の限りを尽くした李曹両家が、
   その持ち得る限りの家財を傾けて、八皇子・胤[ネ異]を支援したのだから、
   雍正帝が即位した後、その両家が無事でおられるはずなどなかったという構図である。
   



   

   泰陵。皇帝さまが行幸される時には、両側の階段を轎夫がかつぎ、
   真ん中のレリーフの部分を、空中で轎が上を通り過ぎて行くような構造になっている。
  

以上、話が少し脱線したというか、周辺環境の解説が長くなってしまったというか。。。。


   王氏に見るように、ここから後も臆面もなく、何人もの纏足の漢人女性を後宮に入れ、
   わさわさと子供を産ませる康熙帝ではあるが、
   そこは同族である満州族の手前、どうしても破らなかった点がある。

   
   ---それは、どんなに漢人女を愛しても、その地位を低いままに留め置き、
     生んだ皇子にも、ほとんど爵位を与えず、
     決してその実家の地位を引き上げなかったことである。

   例えば、この王氏を見てもわかる。
   十五子・胤[ネ寓]の後も王氏はさらに2人の皇子を生み落しており、
   康熙帝の寵愛ぶりがうかがえる。

   それなのに、父親の地位は知県どまりとは、あんまりな冷遇である。

   一説には、官位こそは上げられないものの、
   相当豊かな現金を実家に与えていた、とも言われる。

   社会的な栄誉を与えられない代わり、そのような形で償っていたと考えられる。


   また王氏は当時、何の称号も与えられていなかったため、手元に子供を置かせてもらえなかった。
   清朝の規定では、嬪位以上の者しか、自分で子供を育てることが許されない。
   そこで胤[ネ寓]は生まれてすぐに、雍正帝の生母・徳妃の元で育てられたのである。
 

   その意味では、雍正帝にとっては、比較的親しみのもてる存在だったのかもしれない。

   ある意味では、それも康熙帝の配慮か。
   漢人女の妖艶な魅力には抗いがたいが、
   そこから生まれたわが子を漢人のように育てたいという思いは一切、ない、と。
   漢人の母の元で育てて、漢人のようになってしまっては困るのだ。



   漢人女の腹である自分が、皇位継承争いに加われないことは、
   胤[ネ寓]本人も周囲も納得しており、返って雍正帝との間に特にわだかまりはなかったような様子である。


   胤[ネ寓]は、康熙年間は無爵位のまま過ごし、   
   雍正八年には郡王になったが、九年に死去。享年三十九歳。

      
   

   泰陵


順懿密妃と『紅楼夢』の関連性に大コーフンして、
ついつい十五阿哥(アーゴ、満州語「皇子」)については、長くなってしまったが、
どんどん次にいきまひょー。



二十六皇子(序歯:十六子)胤禄

   生母は、あの漢人、順懿密妃・王氏。
   十五子の同母弟。
 
   数学と音楽に精通し、父・康熙帝の教えを受けたという。

   康熙帝は科学や数学などの合理的な学問に非常に興味を持っていたといわれ、
   そういう意味では、それなりに父帝にかわいがられていたのではないだろうか。


   兄の十五子・胤[ネ寓]とは1年半しか年が違わず、
   生母は一人目を生み落し、ようやく床上げしたと思ったら、
   あっという間にまた身ごもったかのようなタイミング。

   兄の十五子・胤[ネ寓]が、雍正帝の生母・徳妃に養育されていることを思うと、
   十六子・胤禄も徳妃が養育したのか。
   (調べたが、今のところ、まだはっきりしない)


   そのせいなのか、十六子は、雍正帝に最もかわいがられた弟のうちの一人となっている。

   雍正年間は、さまざまな場で活躍した皇子。


   乾隆32(1767)年、病没。


次もどんどんいきまひょ。


二十七皇子(序歯:十七子)胤礼


   生母は純裕勤妃・陳氏。
   母は、二等侍衛・陳希[門亥]の娘。元は宮女。

  十七子・胤礼は、十六子とともに、最も雍正帝の寵愛を受けて活躍する。



  十七子・胤礼の足跡を見ていると、
  どうやら雍正帝がひいきにした兄弟らの中では、
  お飾りでなく、本当に実務能力があったらしい。

  他の兄弟らは、爵位をもらったことは書かれているが、
  実際の実務で実績を挙げている人は、少ない。

  
  雍正元(1723)年、理藩院(現代の外務省か)を管理。
  
  雍正七(1730)年、工部(現在の建設省か)を担当。

  そのほかにも戸部(現在の大蔵省か)を見たり、
  ダライ・ラマをチベットまで送り届けたり、
  道中で各地の緑営兵(漢人の傭兵)を視察、
  北京に戻ると、南部の貴州の苗族の反乱を処理。

  乾隆3(1738)年病没。享年41歳。
  即位したばかりの乾隆帝(20代前半)がその死を大いに嘆いたという。

  ベテランの叔父をきっと頼りにしていたに違いない。


  私に言わせれば、働きすぎの雍正帝に同じノリでこき使われ、
  過労死したのではないか、と思う・・・(汗)。


とにかく雍正帝と折り合いもよく、能力もあった人だったようだ。


  
  

  泰陵


十七子・胤礼の生母・純裕勤妃・陳氏は、
父親が二等侍衛で自分は宮女出身ということは、
民間の漢人ではなく、内務府包衣の出身だということがわかる。     


清代の後宮の女性には、二つの系統があった。

 1、秀女から選ばれる。

    八旗に所属する家庭の14歳以上の女性全員が検査に参加せねばならない。
    この中から各皇族、皇子の妃らが選ばれる。

 2、宮女として選ばれる。

    後宮での労働を担う女性たち。
    いくら3Kの過酷な労働でも、一般庶民からは選ばないのが、清朝流。

    しかし貴族と化している仲間の満州族を中心とした普通の八旗から選んでやらせるわけにはいかないので、
    そこは、内務府所属の包衣(満州語:ボオイ)の家庭から選ぶ。

    包衣は広い意味では、旗人には間違いないが、
    あくまでも奴隷身分。

    内務府は皇帝一家の生活を管轄する部署なので、
    内務府所属の包衣は、つまりは皇帝一家の私有奴隷。

    彼らは、普通の八旗ではないので、皇后や妃候補となる秀女選びには、
    参加できない。
    

    しかし労働の担い手として、入宮しつつも、皇帝さまのお手がつくこともあるというわけである。



   
  

  泰陵

二十七皇子(序歯:十七子)胤礼


   生母は純裕勤妃・陳氏。
   母は、二等侍衛・陳希[門亥]の娘。元は宮女。

  十七子・胤礼は、十六子とともに、最も雍正帝の寵愛を受けて活躍する。



  十七子・胤礼の足跡を見ていると、
  どうやら雍正帝がひいきにした兄弟らの中では、
  お飾りでなく、本当に実務能力があったらしい。

  他の兄弟らは、爵位をもらったことは書かれているが、
  実際の実務で実績を挙げている人は、少ない。

  
  雍正元(1723)年、理藩院(現代の外務省か)を管理。
  
  雍正七(1730)年、工部(現在の建設省か)を担当。

  そのほかにも戸部(現在の大蔵省か)を見たり、
  ダライ・ラマをチベットまで送り届けたり、
  道中で各地の緑営兵(漢人の傭兵)を視察、
  北京に戻ると、南部の貴州の苗族の反乱を処理。

  乾隆3(1738)年病没。享年41歳。
  即位したばかりの乾隆帝(20代前半)がその死を大いに嘆いたという。

  ベテランの叔父をきっと頼りにしていたに違いない。


  私に言わせれば、働きすぎの雍正帝に同じノリでこき使われ、
  過労死したのではないか、と思う・・・(汗)。


とにかく雍正帝と折り合いもよく、能力もあった人だったようだ。



  

  泰陵

ところで、包衣の娘にやらせていたこう言った宮中の労働、雑用は、
明代なら、宦官らという男どもがやってきた仕事が多いかと思われる。
    

誰でも信用できるわけではない、信用できない人間を宮中に入れるわけにいかないのは、明代も同じなのだが、
宦官なら、子孫も増やせないから、ご主人さましか頼れる人間がいないという「背水の陣」。
「普通の人間」より信頼できるというわけである。


その証拠に、明代の宮中の宦官は、少なくとも2万人。

宦官全体は10万人いたと言われる。

・・・と言っても、皇帝様一家が美女たちに好きなだけ子孫を生ませることができたとしても、
いくらなんでも、そのお世話に10万人も必要になるわけではない。

行政のほかの部署でも事務、雑事、警備、守備にも宦官を登用していたのである。


・・・・後宮の女性たちの世話をするわけでもないのに、
なぜわざわざ去勢する必要があるのか?


・・・そこは、「子孫が残せない」という絶望感が、
信頼につながるという妙な信仰なんでしょうかねええ。

もうここまでくると、ビョーキっぽいですが。。。。



そんな明代の行き過ぎた思い込みを、勃興したばかりの健全なる民族が
一蹴したってことでしょうか。


清代に入ってからの宦官数は、清初で1000人、乾隆期でも3000人。
明代の1/10である。


それを可能にしたのが、「包衣」という階層の存在。  
最初から奴隷身分なので、どこにも逃げられることはない。
男にも女にも安心して生活を預けられるわけである。

  


胤礼の生母は、父親が二等侍衛だったという。
侍衛は皇帝の身辺を守るので、身元がしっかりした旗人しか採用しない。
「包衣」だからこそ、侍衛になれたと言っていい。


  
つまり同じ漢人でも十五皇子、十六皇子の生母・王氏は、「外の漢人」。
この陳氏は包衣という「内の漢人」の出身だったことになる。


生母が、宮女という低い身分からお手がついたことがわかる。


  

  泰陵


三十皇子(序歯:二十子)胤[ネ韋]

 生母は襄嬪・高氏。

 生母の父親は、著名な書道家・文化人の浙江省余姚出身の高廷秀。
 つまりは、こてこての江南の漢人士大夫階級の娘ですな。

 またまた禁忌の漢人女性(笑)の登場ー。
 十五子・胤[ネ寓]の生母・王氏は、まだ乳母の親戚というつながりがあったが、
 どうやらこの文化人・高廷秀とは、そういうつながりもなさそうである。


 しかし元々、清朝は満州族と江南の士大夫階級の連合政権、と言われている。
 江南の知識階級が支持したからこそ、満州族の政権は成立し得たとも言える。
 そういう意味では、象徴的な組み合わせか--。


 高氏は、えらく寵愛されたようで、
 康熙四十一年に十九子・胤禝(3歳で夭折)、康熙四十二年に皇十九女、康熙四十五年に胤[ネ韋]と三人立て続けに生み落している。
 しかし後ろめたい思いがあるのか、あまり記録が詳しく残っていない(笑)。



 それにしても、二十子に関してあまり記述が見当たらない。

 雍正帝が即位した時は17歳。
 雍正年間は20代でまだ仕事で活躍するほどの成熟はなかったよう。

 雍正十二年、陵墓の祭事への派遣を命じられたのに、
  二回も病気を理由に先延ばしとし、雍正帝に降格されている。

 翌年、雍正帝がなくなると、乾隆帝に泰陵の墓守りを命じられ、
 泰陵の領侍衛内大臣に任命される。

 乾隆20年没。


 ・・・・という軌跡を見ると、
 あまり能力のある人ではなかったようながら、
 それなりに平和な一生を終えた人のよう。


  

  泰陵

三十一皇子 (序歯:二十一子)胤[ネ喜] 

 生母はまた漢人・陳氏。
 父親の陳玉卿は、まったく無冠・無名なので、
 よほど美しかったのか。

 ほかの漢人女性らと同様、娘が寵を得たからと言って、
 その父親になにがしかの官位を与えて箔をつけさせるといったことはせず、
 無位無冠のままでうっちゃってますな(笑)。
 まあ。そういう方針だったのでしょう。


 
 もうこのあたりになると、康熙帝さん、漢人女しか興味がないくらい(笑)。
 完全に頭のネジ一本飛んじゃってますな。


 記録によると、陳氏は美しいだけでなく、
 四書五経にも通じていたとか。

 そんな母親に似たのか、
 胤[ネ喜]は、書画に長け、試作にも定評あり。

 《花間堂詩抄》8卷、《紫琼岩詩抄》3卷等の詩文の著作を残しているほか、
 その山水画の見事さは、「本朝宗藩第一」と世間で評判を取ったという。

 雍正帝が即位した年、胤[ネ喜]はまだわずか12歳。
 雍正年間はほぼまだ十代、若すぎてなにがしかの貢献をするほどの年齢にもなっていない。

 それでもやや成長すると、実務能力も高かったのか、
 雍正十一年には、镶黄旗満洲都統に、翌年には、宗人府左宗正などに任命されている。

 乾隆帝とも年が近く、乾隆年間になってからも、
 乾隆五年に正白旗満洲都統に任命。

 乾隆二十三年、没。享年四十八歳。

 
 
 能力があっただけに、政治で頭角を現すことの危険を悟り、
 書画、教養の世界に没頭した人のよう。

 それでも欲を抑えきれず、内にストレスを溜めて早死にですかな。。。

  
 

 泰陵


三十二皇子 (序歯:二十二子)胤[ネ古] 

 生母は、珍しく漢族以外の女性ですぞ。
 ソホトゥ(色赫図)氏、員外郎ドルジの娘。

 お父さんのドルジさん、史料に素姓が載っていない。
 ドルジという名前からして、満州族ではなく、モンゴル族っぽい。

 ドルジとか、ロブソンとか、ラワンとか、そういう系の名前は、
 チベット系に多く、モンゴル族もラマ教を信奉してから、同じようにそういう名前が多い。

 員外郎も下級役人なので、下級旗人の娘というところか。
 ソホトゥ(色赫図)氏という氏族を調べてみても、
 ほとんど何も出て来ないので、出身氏族もあまり有力なところではなかったよう。


 
 雍正年間はまだ十代。
 乾隆8年に32歳で没する。

 特に何も軌跡は伝わっていない・・・。


 

  泰陵


三十三皇子(序歯:二十三子)胤祁


 生母は、漢人・石懐玉の娘。
 これまた父親は、完全に無名・無冠。
 康熙帝の存命中は、何の封号もなく、
 雍正帝が即位してようやく「皇考貴人」に封じられた。
 
 やはり康熙帝が受けた江南からの「貢ぎ物」ではないだろうか。


 晩年の康熙帝は、ほとんど漢人の若い娘たちに取り囲まれて過ごしていたことがわかる。

 出典はどこかわすれてしまったが、イエズス会の西洋人宣教師の手紙にこんな記述があるという。

 
 --ある時、康熙帝につき従い、承徳の避暑山荘にお伴をする機会があった。
   皇帝とその妃たちが、外を遊覧している間、宿舎の窓を閉め、
   外に出てはならない、外を見てはならない、という命令を受けた。

   しかしそこは、後宮のように完全に立ち入り禁止なのではなく、
   見渡す限りの広い庭園に、草原あり、離れの宮殿あり、池あり、太鼓橋あり、
   という環境。

   部外者には、「見るな」と命じることしかできない・・・。

   しかし宣教師は、こっそりと障子に穴をあけ、そこから外を覗いた。

   康熙帝が数人の若い女性たちにかけっこを命じた。

   その中に数人、足の悪い、足を引きずる女性たちが混じっており、
   かけっこでビリになったので、皆が彼女たちを見て、笑いさざめいていた・・・・。

   つまりは、纏足でかけっこなどできるわけがないので、
   そのできないのを見て笑っていた、という、現代なら差別で大問題になりそうな悪趣味な遊び・・・・。


 まあ。
 康熙帝のそんな悪趣味は、どうでもいいのだが、
 要は、漢人の若い娘たちに取り囲まれ、彼女たちにめろめろに骨の髄まで溶かされながら過ごしていた様子が伝わってくる。
   
 
 ・・・そして、また子供が生まれる。


 雍正帝の即位時、二十三子・胤祁はわずか9歳。
 乾隆の即位時でも22歳。
 乾隆帝と一歳しか変わらない。


 乾隆九年、三陵の事務の担当とし、内務府掌関防郎中を兼任。
 
 その後も大した官位の任命はないながら、細々と内務府関係の仕事をしていたよう。

 乾隆五十年、病没。享年七十三歳。


 長生きですな。
 あまり能力はないながら、淡々と欲を出しすぎないことが、
 非嫡出の皇子の生き様として、正しいのかもしれない。



  

  泰陵

さあ。ついに康熙帝、最後の皇子でございます。

三十四皇子(序歯:二十四子)胤[ネ必]


 生母は、陳岐山の娘。
 やはり蘇州出身、父親は無名・無冠。

 豊かな学識あり、と伝わる。

 もうここまでくると、その他の漢人女性らと同じパターンなので、後略ですな。


 実際には、胤[ネ必]を生んだ二年後にももう一人皇子を生み落しているが、
 残念ながら夭折してしまった。 


 胤[ネ必]は、雍正帝の即位時はわずか4歳、
 雍正帝の崩御の時でもまだ17歳。

 乾隆38年、没。享年58歳。

 《熙朝雅颂集》に詩が伝わるほか、特に何も記録なし。

 特にあなり有能な人でもなかったのでしょうかね。
 淡々と生きた人のよう。


  

  泰陵

  ここが陵墓の正面の宮殿の後ろ側。
  両側にうしろの土饅頭の上へ登れるような階段がシンメトリーに配されている。




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清の西陵1、騎馬民族の行動範囲

2016年01月10日 17時56分46秒 | 北京郊外・清の西陵
去年の12月の始めに友人が車を出してくれ、
郊外へのドライブとして、清の西陵に出かけてきました。


場所は、北京から西南に120㎞ほど行った河北省の易県。



  

写真: 近郊の村には、そこかしこに八旗の旗が翻っています。
    一気にテンション、マックス!(笑)




清代の歴代皇帝の陵墓は、
北京入りする以前の皇帝のものは、東北地方に、
それ以後は、北京の近郊に東西に一ヶ所ずつに分けて埋葬されています。


近郊と言っても、明の歴代皇帝の陵墓である「明の十三陵」が、北京から50㎞しか離れていないのに比べ、
清の東陵も西陵も、ともに100㎞以上離れており、
さすが騎馬民族の皇帝は、距離感覚が違いすぎるわー、と感心します。


史実によると、清の東陵は順治帝が狩りをしている時に気に入った場所、
そしてこの清の西陵は、雍正帝が十三弟の充(ふたをとる)祥に風水師をつけて探させたところという。


場所を探しに行くにしても
行くスケールが広すぎ、っというやつです(笑)。



さて。

この清の西陵に埋葬されている皇帝たちをざっと見て行きましょう。
ついでに東陵の方も。



  

 写真: 雍正帝の陵墓・泰陵。
  


  清の西陵

    泰陵  雍正帝
    昌陵  嘉慶帝
    慕陵  道光帝
    崇陵  光緒帝

    おまけ: ラストエンペラー溥儀の墓もあり。


  清の東陵
   
    孝陵  順治帝
    建陵  康熙帝
    裕陵  乾隆帝
    定陵  咸豊帝
    惠陵  同治帝


    おまけ・・・でもないけど、目玉の一つ、西太后の菩陀峪定東陵



こうして見てくると、西陵は東陵と違って、「華がない」、「スターがいない」のである。


派手で目立つイベントをしまくったイケイケドンドンの康熙帝や乾隆帝、それに西太后は皆、東。
クレイジーでやぶれかぶれな人生、人格だった分だけ、ドラマチックなエピソード満載のトンデもない皇帝たち、
--順治帝、咸豊帝、同治帝も皆、東。




--それに対して、西の皇帝は、
雍正帝は他人に厳しく、自分にはもっと厳しく、
修行僧のように昼夜を問わず働き続け、あっという間に過労死してしまったり、


嘉慶帝や道光帝は、60年以上にわたって、贅沢の限りを尽くした乾隆帝の尻拭いとでも言おうか、
倹約財政であまり派手なこともようせず、慎ましく、おとなしく、
ご先祖さまの遺産をなるべく食いつぶさぬことだけを心掛けて[事なかれ主義」を貫いたような地味地味な皇帝。



光緒帝は、西太后に脊髄の神経まで抜き取られてたんとちゃうんか、というくらい
生涯、かごの中の鳥のように過ごして、影がうすうすの皇帝。




---そんな西と東の大きな差のために、
どうやら観光客は、圧倒的に東陵に行きたがるらしい。


それに比べて、西陵は比較的、観光客も多くなく、
特に私たちが訪れたのは、極寒の12月だったため、
ますますひゅうひゅうと北風ばかりが頬を殴りつけるような、
情緒あふれる環境でした。



そんな比較的「手垢の跡が薄い」、
世の無常をよろしく感じることのできる西陵は、
独特の雰囲気がありました。



清の西陵を最初に開いたのは、雍正帝である。




順治帝が東陵に愛新覚羅家の陵墓を決めてから、
清朝の末代まで、東陵に歴代の皇帝が埋葬されるはずだった。


伝統的な中国王朝の決まりに則れば、そうなる。
だから「明の十三陵」は、一ヶ所に皆、固まっている。
(永楽帝以後)



  

  写真: 雍正帝の泰陵へ続く遊歩道。


遥か昔の古い中国の書≪周礼≫に則り、「昭穆之制」に従うはずだった。



つまりは始祖の廟墓を中央にして、親子代々、「昭」の字と「穆」の字を継承し、
「昭」は左に、「穆」は右に、と順番に陵墓を配置していく、というものである。


雍正帝も当初は、祖父・順治帝と父・康熙帝の陵墓のある東陵の近くで候補地を探していた。
その結果、雍正7年、二人の眠る孝陵と景陵からも遠くない九鳳朝陽山に「よき地」を選び出した。



しかしその後、大臣らが
「九鳳朝陽山は、風水の条件に不備がある上、土壌に砂が多く、陵墓に適していない」
と言い出し、新たな候補地探しが始まった、とされる。




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