故郷で全真教を開いた王重陽だが、陝西にいた時期、一人の信者も獲得できていない。
1167年、王重陽は山東に遊説した。
おそらくは地元で信者が得られない以上、自ら外にも遊説に行かねば、現状を打開できぬ、という覚悟の上だろう。
山東の寧海の富戸・馬[金玉]を説得、庵の建設への出資を引き出すことに成功した。
名を「全真庵」と名づけた。
ここを拠点とすることにより、初めて徐々に影響力を持ち始めることができるようになった。
これ以後、広く弟子をとり、宣教し、「北七真」を形成していった。
つまりは全真教の幹部だが、その7人は、以下のとおりである。
丹陽真人・馬[金玉]
長真真人・譚処端
長生真人・劉処玄
長春真人・丘処機
王陽真人・王処一
広寧真人・[赤 こざと]大通
清静真人・孫不二(馬[金玉]の妻)
王重陽の死後、この7人の中で最も活躍したのが、丘処機である。
丘処機は、山東登州・棲霞県の人。幼い頃から道教に憧れ、周囲に隠れて修行を重ねた。
王重陽が山東で布教している際、その名を慕って弟子入りしたのである。
金の大定9年(1169)、王重陽に付き従い、弟子の馬丹陽、譚長真、劉長生とともにべん梁(現在の開封)に遊説した。
翌年,重陽が羽化(死去)したため、四人は終南に葬儀を出しにいき、,守墓を守ること三年に及んだ。
大定十四年(1174年)、邱長春は一人で[石番]溪(現在の陝西省宝鶏地区)にやってきて厳しい修行に打ち込むこと六年に及んだ。
毎日の食事は1回、蓑と笠のみを身につけ、寒暑ともに同様だったので、人々は「蓑衣先生」と呼んだ。
大定二十年、龍門(現在の宝鶏隴県の龍門洞)に移り住み、修行をすること七年、
しだいにその名を慕って集まる衆が増え、よく詩を詠んでは訪れる人に贈り、さらに天下遠くまで名声が響き渡った。
大定二十六年、京師の統軍・峡谷公が朝廷に上奏し、終南の劉蒋村に帰還するよう請うたため、
邱長春は下山し、王重陽故居を整備すること二年、大きな規模と成して「祖庵宮」と名づけた。
大定二十八年二月、金の世宗の招きに応じ、大都(現在の北京)に向かい、天長観(現在の北京白雲観)に入った。
金の世宗は丘処機にさまざまな質問をし、その提案を一つ一つ採用した。
八月には、終南に帰ることを許され、銭十万を賜ったが、これを辞して受け取らなかった。
明昌元年(1190年)、山東に帰り、翌年に故郷の栖霞に戻り、「太虚宫」を建てた。
三年十月には、「芝陽醮」を建てた。
全真道が興隆していた当時の山東は、宋、金、モンゴルの三国の勢力が交差する場所である。
そのために民衆への影響力の強い全真道をそれぞれの勢力が、自分たちの側に取り込もうとするが、
丘処機は、それを巧妙にかわしつつ、中立の立場で傍観する位置に立ち続けた。
しかし1217年、ついにチンギス・ハーンが、治国之道と不老長寿の道を求め、使者を派遣してきた。
柔硬織り交ぜながら、結局は剣先で脅すようにして丘処機を追い立てていった。
丘処機も今後の利害を考え、全真道の将来の発展、民を守ることもすべて考慮し、
モンゴルに行くことは、不利にはならないと見なし、モンゴル側の要請に従ったのである。
当時、チンギス・ハーンが全真道を取り込もうとしたのは、山東が3つの勢力のどちらに転んでもおかしくない「激戦区」だったからだ。
その山東で大きな影響力をもつ全真道を取り込むことにより、グレーゾーンである山東の民の心をつかみたいという思惑があった。
全真道のほうでも、モンゴルに征服されてから受身的にのこのこ頭を下げて阿(おもね)るよりは
求められているうちに協力することにより、庇護を得たい、と考えた。
その両者の思惑が一致したのである。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
おお。これは「鐘鼓楼」のうちの太鼓のある「鼓楼」ですな。反対側にちらりと見えるのが、「鐘楼」。
「佳州八景」の一つ、「白雲Chen鐘」。つまり真武殿で毎朝つく鐘の音。
黄河の対岸の山西省まで響き、聞こえるといわれたそうな。
順路としては、いきなり最もメインの真武殿に入るようになっている。
お堂の前の香炉で燃え盛るお線香。
1167年、王重陽は山東に遊説した。
おそらくは地元で信者が得られない以上、自ら外にも遊説に行かねば、現状を打開できぬ、という覚悟の上だろう。
山東の寧海の富戸・馬[金玉]を説得、庵の建設への出資を引き出すことに成功した。
名を「全真庵」と名づけた。
ここを拠点とすることにより、初めて徐々に影響力を持ち始めることができるようになった。
これ以後、広く弟子をとり、宣教し、「北七真」を形成していった。
つまりは全真教の幹部だが、その7人は、以下のとおりである。
丹陽真人・馬[金玉]
長真真人・譚処端
長生真人・劉処玄
長春真人・丘処機
王陽真人・王処一
広寧真人・[赤 こざと]大通
清静真人・孫不二(馬[金玉]の妻)
王重陽の死後、この7人の中で最も活躍したのが、丘処機である。
丘処機は、山東登州・棲霞県の人。幼い頃から道教に憧れ、周囲に隠れて修行を重ねた。
王重陽が山東で布教している際、その名を慕って弟子入りしたのである。
金の大定9年(1169)、王重陽に付き従い、弟子の馬丹陽、譚長真、劉長生とともにべん梁(現在の開封)に遊説した。
翌年,重陽が羽化(死去)したため、四人は終南に葬儀を出しにいき、,守墓を守ること三年に及んだ。
大定十四年(1174年)、邱長春は一人で[石番]溪(現在の陝西省宝鶏地区)にやってきて厳しい修行に打ち込むこと六年に及んだ。
毎日の食事は1回、蓑と笠のみを身につけ、寒暑ともに同様だったので、人々は「蓑衣先生」と呼んだ。
大定二十年、龍門(現在の宝鶏隴県の龍門洞)に移り住み、修行をすること七年、
しだいにその名を慕って集まる衆が増え、よく詩を詠んでは訪れる人に贈り、さらに天下遠くまで名声が響き渡った。
大定二十六年、京師の統軍・峡谷公が朝廷に上奏し、終南の劉蒋村に帰還するよう請うたため、
邱長春は下山し、王重陽故居を整備すること二年、大きな規模と成して「祖庵宮」と名づけた。
大定二十八年二月、金の世宗の招きに応じ、大都(現在の北京)に向かい、天長観(現在の北京白雲観)に入った。
金の世宗は丘処機にさまざまな質問をし、その提案を一つ一つ採用した。
八月には、終南に帰ることを許され、銭十万を賜ったが、これを辞して受け取らなかった。
明昌元年(1190年)、山東に帰り、翌年に故郷の栖霞に戻り、「太虚宫」を建てた。
三年十月には、「芝陽醮」を建てた。
全真道が興隆していた当時の山東は、宋、金、モンゴルの三国の勢力が交差する場所である。
そのために民衆への影響力の強い全真道をそれぞれの勢力が、自分たちの側に取り込もうとするが、
丘処機は、それを巧妙にかわしつつ、中立の立場で傍観する位置に立ち続けた。
しかし1217年、ついにチンギス・ハーンが、治国之道と不老長寿の道を求め、使者を派遣してきた。
柔硬織り交ぜながら、結局は剣先で脅すようにして丘処機を追い立てていった。
丘処機も今後の利害を考え、全真道の将来の発展、民を守ることもすべて考慮し、
モンゴルに行くことは、不利にはならないと見なし、モンゴル側の要請に従ったのである。
当時、チンギス・ハーンが全真道を取り込もうとしたのは、山東が3つの勢力のどちらに転んでもおかしくない「激戦区」だったからだ。
その山東で大きな影響力をもつ全真道を取り込むことにより、グレーゾーンである山東の民の心をつかみたいという思惑があった。
全真道のほうでも、モンゴルに征服されてから受身的にのこのこ頭を下げて阿(おもね)るよりは
求められているうちに協力することにより、庇護を得たい、と考えた。
その両者の思惑が一致したのである。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
おお。これは「鐘鼓楼」のうちの太鼓のある「鼓楼」ですな。反対側にちらりと見えるのが、「鐘楼」。
「佳州八景」の一つ、「白雲Chen鐘」。つまり真武殿で毎朝つく鐘の音。
黄河の対岸の山西省まで響き、聞こえるといわれたそうな。
順路としては、いきなり最もメインの真武殿に入るようになっている。
お堂の前の香炉で燃え盛るお線香。
うちの運転手、黒龍江省出身なんですが12月でも半袖なんです。
北の人は寒いの平気みたいです。
見てるこっちが寒くなる。(笑)
着ているので、あれであったかいみたいです。
都会の人はもうあまりこういうかっこうはしなくなりましたよね。