八旗官学の教習(教師)は、国子監の学生「監生」から採用するが、
親の七光りで無試験で入った連中には、ひどいレベルが多かったようだ。
これに対する不満の奏文が再び出される。順治六年(1649)、
「教習の冒濫(無秩序な採用)について、選抜方法を厳格にすることを請いたし。
以後教習の採用には、経史に精通し、文義に従う者を採用されたし。
文理に通じぬ者をむやみに採用したなら、調べ出して名指しで放逐するべし。」
相当多くの「経史に精通」しない、「文理に通じ」ない者が教えていたらしいことが知れる。
その後、時代が下るにつれて、八旗官学でも一部、挙人も採用されたが、
大部分は、相変わらず「監生」レベルに留まった。
科挙ヒエラルヒーから見ると、監生は生員と同じで郷試を受ける資格がある。
郷試に受かると挙人となり、その上が進士、進士の上位者が翰林だ。
つまり八旗官学と咸安宮官学の教師は、三ランクの違いがあることになる。
次に宗学はどうかと言えば、こちらは皇族の学校なので、さすがに進士を教師としている。
やや遠い親戚である覚羅のための覚羅学は、よりぞんざいな扱いである。
満州語の教師は現任の筆帖式(ビジャンシ)、つまりは平の書記官から選び、
漢語の教師もただ「礼部が選抜するように」としか規定されていない。
---咸安宮官学の教師に翰林官を採用することがいかに破格の対応かがわかる。
翰林官には、学校の中に住居を用意し、住み込めという。
これは学長が名目だけになり、
たまに学校を視察に訪れるだけになることを最初から見越して、予防線を張っているらしい。
住み込みにして、張り付かせておけば、少しは熱心に学生の面倒を見るだろう、という考えだ。
翰林院があるのは、東長安門の南(現在の天安門広場の東側、公安部の敷地内)、
一方咸安宮官学の場所は、紫禁城の西華門をやや東に入ったところだ。
仮に翰林官がほかの仕事も兼任しており、翰林院と咸安宮官学を往復するとなれば、
皇城の壁沿いに西南の四分の一をぐるりと回らなければならないことになり、かなりの距離になる。
ついつい億劫になられては困るから、どうせなら住み込め、という命令であると思われる。
細かい性格の雍正帝ならではの、将来のなあなあ状態を見越した策、
さすがやわああ、と感心(笑)。
雍正帝の咸安宮官学への意気込みは続く。
「烏拉(ウラ)人を数人招聘し、学生らの勉強の合間に満州語と弓馬を教えさせよ。」
と命じている。
ウラ人とは、どうやら吉林城(現在の吉林市)を烏拉と呼んだので、ここに暮らす満州族を指しているらしい。
近代になるが、1920年台に書かれた『吉林外紀』に吉林各地の土地柄について書かれている。
それによると、吉林烏拉の人は「農業に従事し、国語(満州語)騎射を能くする」とし、
寧古塔(ニングーター、現在の寧安市、吉林の東北部)の人は「耕作の余暇に狩りを好」むという。
ほかの土地にも満州人が暮らすのに、烏拉の部分にだけ特に「国語騎射を能くする」と強調するからには、
どうやら烏拉の地は、満州族の言葉と習慣を最も濃厚に残す場所と考えられていたことがわかる。
雍正帝が「ウラ」をどう考えていたかについて、ある資料が残る。
雍正二年(一七二四)、吉林城(即ち、ウラの地)に文廟(孔子廟)を建て、学校を作ってはどうか、
という奏文を出した者があった。
孔子廟を建てるというのは、まさに漢文化輸出の象徴である。
満州の発祥の地にこれを立てて「文明化」しようという提案に対して、
雍正帝は「いらぬこと」と却下する。
「清朝はただ烏拉、寧古塔(ニングーター)などの兵らが満州の習慣を変えないことを拠り所としている。
文芸を奨励し、子弟らが勉強だけするようになれば、武芸に励まなくなる」
と危惧している。
烏拉の地は、満州の風俗をそのまま残し、
首都で漢化しつつある満州人にとっての心のふるさとだった。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
親の七光りで無試験で入った連中には、ひどいレベルが多かったようだ。
これに対する不満の奏文が再び出される。順治六年(1649)、
「教習の冒濫(無秩序な採用)について、選抜方法を厳格にすることを請いたし。
以後教習の採用には、経史に精通し、文義に従う者を採用されたし。
文理に通じぬ者をむやみに採用したなら、調べ出して名指しで放逐するべし。」
相当多くの「経史に精通」しない、「文理に通じ」ない者が教えていたらしいことが知れる。
その後、時代が下るにつれて、八旗官学でも一部、挙人も採用されたが、
大部分は、相変わらず「監生」レベルに留まった。
科挙ヒエラルヒーから見ると、監生は生員と同じで郷試を受ける資格がある。
郷試に受かると挙人となり、その上が進士、進士の上位者が翰林だ。
つまり八旗官学と咸安宮官学の教師は、三ランクの違いがあることになる。
次に宗学はどうかと言えば、こちらは皇族の学校なので、さすがに進士を教師としている。
やや遠い親戚である覚羅のための覚羅学は、よりぞんざいな扱いである。
満州語の教師は現任の筆帖式(ビジャンシ)、つまりは平の書記官から選び、
漢語の教師もただ「礼部が選抜するように」としか規定されていない。
---咸安宮官学の教師に翰林官を採用することがいかに破格の対応かがわかる。
翰林官には、学校の中に住居を用意し、住み込めという。
これは学長が名目だけになり、
たまに学校を視察に訪れるだけになることを最初から見越して、予防線を張っているらしい。
住み込みにして、張り付かせておけば、少しは熱心に学生の面倒を見るだろう、という考えだ。
翰林院があるのは、東長安門の南(現在の天安門広場の東側、公安部の敷地内)、
一方咸安宮官学の場所は、紫禁城の西華門をやや東に入ったところだ。
仮に翰林官がほかの仕事も兼任しており、翰林院と咸安宮官学を往復するとなれば、
皇城の壁沿いに西南の四分の一をぐるりと回らなければならないことになり、かなりの距離になる。
ついつい億劫になられては困るから、どうせなら住み込め、という命令であると思われる。
細かい性格の雍正帝ならではの、将来のなあなあ状態を見越した策、
さすがやわああ、と感心(笑)。
雍正帝の咸安宮官学への意気込みは続く。
「烏拉(ウラ)人を数人招聘し、学生らの勉強の合間に満州語と弓馬を教えさせよ。」
と命じている。
ウラ人とは、どうやら吉林城(現在の吉林市)を烏拉と呼んだので、ここに暮らす満州族を指しているらしい。
近代になるが、1920年台に書かれた『吉林外紀』に吉林各地の土地柄について書かれている。
それによると、吉林烏拉の人は「農業に従事し、国語(満州語)騎射を能くする」とし、
寧古塔(ニングーター、現在の寧安市、吉林の東北部)の人は「耕作の余暇に狩りを好」むという。
ほかの土地にも満州人が暮らすのに、烏拉の部分にだけ特に「国語騎射を能くする」と強調するからには、
どうやら烏拉の地は、満州族の言葉と習慣を最も濃厚に残す場所と考えられていたことがわかる。
雍正帝が「ウラ」をどう考えていたかについて、ある資料が残る。
雍正二年(一七二四)、吉林城(即ち、ウラの地)に文廟(孔子廟)を建て、学校を作ってはどうか、
という奏文を出した者があった。
孔子廟を建てるというのは、まさに漢文化輸出の象徴である。
満州の発祥の地にこれを立てて「文明化」しようという提案に対して、
雍正帝は「いらぬこと」と却下する。
「清朝はただ烏拉、寧古塔(ニングーター)などの兵らが満州の習慣を変えないことを拠り所としている。
文芸を奨励し、子弟らが勉強だけするようになれば、武芸に励まなくなる」
と危惧している。
烏拉の地は、満州の風俗をそのまま残し、
首都で漢化しつつある満州人にとっての心のふるさとだった。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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満語のチーリンウラに当て字して吉林烏拉
>満語のチーリンウラに当て字して吉林烏拉
へええー!
そうだったんですね。
知りませんでした!