いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  10、日本軍はさじを投げる

2011年03月10日 11時11分19秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
糞便事務所の改革の三大原則は:

 1. 糞業界が自発的に改革を進め、設備インフラを改善する。行政はこれに必要なサポートを行う。
 2. 糞業設備の改善経費は、糞業界自身で捻出し、行政は援助しない。
 3. 糞業設備の改善は、市民の声を反映してのことであり、公営化を進める意図は一切ない。


この「糞具の改革」を切り口として、まずは「資金集め」の名目を作ろうという作戦である。

つまりは少なくとも市民の不満の声の一つである「くささ、汚さを何とかしろ」の解決から図り、
一歩でも前進しなければ、市民が納得しないことを全面に押し出そうとしている。

ぼたぼたと糞を落としながら走る隙間だらけの茨編みのかご車、
一輪車のためにすっ転びやすい、ふたがないので悪臭天を衝く等の現象を解決するためには、
改良を経た糞具を全員に行き渡らせる必要がある、そのためには資金も必要、と。



そこで糞道の登記費と改善費という二つの名目で料金を徴収することとなった。

徴収料金の基準を決めるため、まずは糞道と公共トイレの登記が義務付けられた。
汲み取り箇所数、おまる洗い数、糞量などの5つの評価基準で点数をつけ、糞道を4等級、公共トイレを13等級に分け、値段が評価された。


徴収料金は
 登記費: 1年に1回徴収。糞道価値の6%を基準とする。
 改善費: 月に1回徴収。糞道価値の0.6%を基準とする。

登記を行い、価値が決まり、料金を納めると、市政府から無料で新式の糞具が配布される、という流れである。


1936年8月から約2ヶ月に渡り、受け付けられた糞道の登記が行われたが、
これまでの経緯からして、何の騒ぎもなくスムースに行われるわけはない。

内六区では、市から配布された糞具を破壊するという事件が起きたほか、登記と改革に反対する嘆願デモも行われた。
あるいは、登記の通知をまったく無視し、期限がきても登記に出頭しない糞道の持ち主も多かった。

これに対して衛生局では、訓戒、説得、逮捕等の硬軟を両刃で使い分けつつ、なんとか推し進めていったのである。


それでも糞道の持ち主がなかなか捕まらないケースも出てくる。

登記に出頭したくない、と持ち主が逃げ回れば、衛生局でこれを捕まえるのは、容易ではない。

そこで衛生局側でも「嫌がらせ」をする。
旧式粪具をまだ使っている者は、朝10時前、午後5時以後しか糞車を引いて通行してはいけない、と規定したのである。
登記しなければ新式糞具はもらえないので、明らかに登記しない者への嫌がらせだ。


これにはさすがに音を上げ、男どもがあぶり出された。
相手にせず、無視すればいい、と決め込んでいた連中の怒りに火がつき、
1936年10月14日朝7時、北郊外一帯の糞夫300人余りが阜成門外に集合する。

粗末な服に身を包んだ男どもは糞車、糞かご、糞桶、糞勺を道路脇に積み上げ、示威行動に出た。
悪臭は天を衝き、道行く人々が皆、鼻を覆う。


8時になるとさらに人数が増え、李建奎、尹燕慶等の糞業改革に反対する連中らが音頭を取り、
糞夫らを煽動して糞便事務所の主任、糞覇の于徳順の家に皆を先導する。

于徳順は不在だったが(裏口から慌てて逃げ出しでもしたか)、
西郊区署の署長・林雁賓が警察を率いて出動し、秩序維持のために立ちはだかった。

糞夫代表らは粪夫の通行時間の制限の撤廃を求めた。
これに対して林雁賓署長は、この事はまだ市政府の批准に通っていないから、まだ自由に通行してもよいと答えた。

林雁賓署長の説明を聞いて、糞夫らはやっと納得して解散したのである。


同じ時間、宣武門外にも200人余りの糞夫らが大集合。
男どもは糞便事務所の副主任・孫興貴の家を襲撃した。

孫興貴も留守だったが、激昂して沸き立った血の行き場所のなき壮健なる野郎どもは、もはや誰も止めることができない―――
あろうことが、孫興貴の老いた母親を引きずり出して殴打したのである。

もうこうなっては、よく中国人のいう「把良心給狗喫了(良心を犬に喰らわせた)」状態だ。
しばらくしてようやく警察がかけつけ、糞夫らもやっと解散する。



糞夫らが糞商の巨頭を襲撃したところが、あきらかに袁良市長の改革と違っていた。
糞業界の中が、二つに分断され、改革の賛成派と反対派に分かれ、内部分裂を起こしたのである。

行政側が「分断して統治す」ることに成功したのだといえよう。

デモの首謀者らは逮捕・処罰されたが、糞夫らの反抗はさらに続いた。
東郊外、北郊外一帯での抗議事件が後を立たず、行きつ戻りつの交渉が繰り返されるうちに
登記料金を甲等級については一律30%の値下げ、乙等級20%の値下げに同意した。


それでも1937年4月2日、北郊外一帯で糞夫200人余りがそれで大規模な嘆願デモとストライキを断行、
登記費の取り消しを主張した。

衛生局は主任・劉鳳祐を北郊外一帯に派遣し、糞夫らの説得に当たらせたが、
糞夫らは自らを反省しないばかりか、逆に他の糞夫らの仕事を妨害し、暴力行為に及ぶ始末である。

さらには自衛工作団を組織し、衛生局に認知するよう求める糞夫集団も出てくるに及んでは、
もはや本気なのか、シュールなギャグのつもりなのか、境目が朦朧としてくる。


予想はしていたものの、かくの如き期待にたがわぬ猛烈な抵抗を経て、
1937年4月6日にようやく西城、南城の糞夫らは徐々に仕事に戻り始めた。

ただ北城一帯の糞夫らのみが決死の抵抗を続けていた。


4月8日、衛生局の指揮下、警察局督察処、衛生局の夫役、糞便事務所の公役全員が、50台余りの糞車を引き、出動した。
ストライキを起こすなら、市が勝手に回収を始めるぞ、という意思表示である。


市政府はストライキを起こした地域の糞道はすべて没収すると宣告、これを聞いてやっと糞夫らは徐々に作業を復活させた。
また糞商らも初めて大人しく、登記窓口に登記に訪れるようになったのである。


かくの如く、「官督商弁」は糞業界側の猛烈な抵抗を経つつも何とか動き始めた。
それは今回の改革では糞商の既得権益を認め、糞夫らもこれまでと変わらず糞商の支配の下におかれ、
生活はほぼ変わらないままとしたからといえよう。

市民らのクレームを根本から解決することには至らなかったが、
少なくとも糞道と糞夫の登記により実態をつかむとともに、道具の改革の予算も捻出することができ、少しだけ前進したことになる。




このように民国時代の糞業改革は、内戦状態にある国情と相談しつつの改革であった。
この後、周知のごとく日本軍が北京を占領するに及び、再び改革は中断する。

なぜなら日本軍は「はなからさじを投げた」のである。

当時、満州では日本の内地よりもインフラ整備は進んでおり、
冬のセントラルヒーティングはもちろん、上下水道も入浴施設も完備されていた。

先にも触れたが、李香蘭こと山口淑子『わが半生』によると、
この時代に北京の裕福な家に預けられて北京の高校に通った時、最も耐えられなかったのが「豪邸」の四合院暮らしでのインフラであったという。

同じ年頃の中国人のお嬢さん2人と三人部屋となった彼女の毎朝の洗顔は、召使いが運んでくるたらいに少し入った水だけだった。
それを棄てずに3人が同じ水で洗う。

後に洗いたくがないために早起きしたが、残りの二人はその思惑にもまったく気づかないようだったという。

つまり水道の流れる水でじゃばじゃば顔を洗うことができない。


そのレベルのインフラでは、自宅に風呂があるわけがなく、
風呂は2週間に一度、週末に家族全員で風呂屋さんに出かけにいった。

その代わり、風呂屋にはレストランも併設されており、入浴後には家族全員の豪奢な食事を楽しんだ。


北京を占領した日本軍はかかる現状を見て、
顔を洗えず、風呂も入れない北京城内に住み込むことをあきらめる。

その解決のために現代でも未だに北京政府が苦労しているほどなのだ。


人口の密集し、歴史的に大いなる価値が出てしまった胡同の四合院群の下を網の目のように掘り返し、
上下水道を張り巡らせるためには、莫大な費用がかかり、未だに実現できていない。


それこそが数年前の「成片拆(絨毯式の大規模な取り壊し)」の理由にもなり、オリンピック前に多くの胡同が消えて行った口実にもされた。

私が胡同を扱うなら、トイレ問題は触れずには通れないと感じ、
これでもかこれでもか、としつこく悪臭天を衝く話を続けている理由もそこにある。

トイレの不便な生活と町並み保存運動が両立できないとされているからだ。


さて。
日本軍がこのために北京の西郊外の何もないだだっ広いさら地、五棵松にゼロから都市機能を作り直したことはよく知られる。

「四合院の生活スタイルは、日本人に適しない」ために。
この経緯は、胡同にお住まいの多田麻美さんの翻訳された王軍『北京再造』(集広舎)に詳しい。

市の行政機能がそのまますべて郊外に新築され、
日本軍の去った後は国民党が接収し、行政機能もそのまま機能させ、解放に至る。

当地の人たちは今でも自分たちの街を「新北京」と呼ぶという。


北京城内の糞夫と市民の闘争は、そのまま保留となり、新中国成立を迎えるのである。

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陶然亭公園。2003年。

かなり南のほうにあるので、14年北京にいながら、2回ほどしか行ったことがありませんが、内容の濃いいい公園だなあ、と印象深いです。




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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
田舎のインフラ (毛沢山)
2011-07-12 13:30:46
出張で江蘇省の田舎へ良く出かけますが、農村部のインフラを良く観察してます。
①停電が多いので冷蔵庫は無意味。
②トイレはニイハオトイレで母屋とは離れた所にあるか、共同である。
③調理用にガスコンロは存在してない。
④風呂はなく、太陽熱の温水器がやっと普及してきている。(あってもシャワ-)

  
返信する
毛沢山さんへ (doragonpekin)
2011-07-12 13:39:59
ええー。江蘇って、とってもお金持ちで、進んでいるイメージがありました。未だに停電があるなんて、意外です。

ガスコンロがなくて、何で料理するのですか?
返信する
こんにちわ (Gangangansoku)
2011-07-13 02:59:38
こんにちわ
いつも楽しく拝見しています。
毎日お風呂に入れてトイレも水洗なのが
なんて恵まれていることなのかと思います。
返信する
gangangansokuさんへ (doragonpekin)
2011-07-13 12:15:40
楽しみに見てくださっているとは、うれしく、励みになります。ありがとうございます。

私はまさにインフラにこそ、国家の実力が出ると実感しています。一時的な景気ではなく。。
私事なのですが、私は父の仕事の関係で子供の頃、一時期オランダで過ごし、1982年に日本に帰ってきました。

その時、子供ながら「日本はトイレの汚い場所があるから気をつけないといけない国だ」と思いました。オランダよりもきれいではないトイレに行き当たることが多い国だったのです。

ところが2005年以後になると、イタリアやアメリカへ行かれている方のブログを見ていると、さすがにトイレの不潔は問題になりませんが、下水道の故障、対応の緩慢さなどが、かなり話題になっています。20年で日本の世界における位置が変わったということなのですねー。
返信する

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