いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

「雑居四合院」の人びと4、四合院の公共化

2011年05月03日 11時05分02秒 | 北京雑居四合院の人々
その頃には、「好きに住み込める」と聞いて
あちこちから人が住み着き、部屋もだいぶ埋まってきた。


老王(ラオワン、王さん)も北京市政府の労働局が人材を募集していることを知って応募し、
数ヶ月の研修を経て人民機械工場に配属されていた。
正式な公務員として北京戸籍も得て、次第に生活も安定した。

 

今なら外地から出てきて北京戸籍を取得するのは至難の業だが、
このときは大量の人口が外に逃亡した後だったため、人手不足を補うために簡単に取れた。


十代で酒場の売り子をし、あっけなく首を切られたのがショックだった。
やはり技術がない者は弱いと痛感、工場での技能習得に勤しんだ。

 

当時、家主の甥が家賃を取らなかったわけではない。
この頃部屋代は「小米(アワ)」で払った。


一部屋につき1ヶ月15kg、庶民の主食である。
粥にしてすすったり、少し余裕があれば白米に混ぜて炊く。


しかし住み着いた4-5軒は皆「貧乏で払えない」とばかりにこれを無視していた。
このためこの甥も取立てをあきらめて放置していたものだ。

 

そのうち家賃も取れない家なぞいらん、と甥も所有権を放棄する。
これ以後ここは自動的に国の財産になり、房管局(家屋管理局)の管理下に置かれた。


ところが房管局は住み始めたときから遡って家賃を払え、
でなければ部屋の使用権の証明書を発行してやらないという。


しめしめ、ただだと思って住んでいたら、そうではなかった。
阿漕な、と思うが部屋の使用権証明書がもらえないのは困るからしぶしぶ払った。

 

うそをついても後からどうせばれると思い、払えない額でもなかったのでそこは正直に言う。
当時月給が20-30元の時代に1-2元なので、理不尽な値段ではなかった。

 

引っ越してきて数年後、房管局から部屋を借りて縫製工場が引っ越してきた。
南向きの一列全部と西向きの数部屋を借りて生産を始めた。




写真: 東南角に住むばあちゃまの部屋。
日本人がやってきたと聞きつけてわらわらと王さんの部屋に珍しいもの見たさでやってくる。
子供たちとはいっしょに住みたくないから一人で暮らしているという。
手前にはお約束の練炭ストーブ。




大根の切り端を水に浸して栽培したお花がみごとに開花していた。



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