いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

佳県・白雲観と全真教の物語 記事の一覧表

2011年10月14日 15時21分42秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語

佳県・白雲観と全真教の物語
 道教・全真教の龍門派の総本山を訪ねたことを機に竜門派の軌跡を追う。

記事の一覧表:

    
    1、明の神宗の扁額を賜る
    2、始祖・王重陽
    3、全真庵と北七真
    4、チンギス・ハーンと丘処機、そして朱元璋
    5、龍門派の誕生
    6、律宗と龍門派清初の中興
    7、龍門丹法
    8、各種縁日と参拝客の礼儀
    9、道士の活動、そしてかの人も占いに


佳県・白雲観と全真教の物語9、道士の活動、そしてかの人も占いに

2011年10月13日 10時53分11秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
さて。白雲山に参拝にやってくる香客のマナーを見てきたが、
今度は迎える道士の仕事の手順を見てみよう。

通常の縁日3日間の間の活動を見よう。

1日目: 閉斎薫壇 午後から穢れを払うために行う。

  閉斎: この日から白雲山すべての道士が、生臭を絶つ。
  薫壇: 法場を清めるため。高功法師(位の高い道士)が、呪文を唱えながら木炭に酢をかける。
     この意味は、前述と同様である。
     浄壇牒(牒とは、道士が法事を行う際、諸神に願いをかける札)を燃やす。
     諸神を法壇に呼び、ご加護を願うため。

2日目: 

1、走経: 開壇ともいう。早朝に行い、各会首が斎壇[木旁]に名前を書き入れ、[木旁]文を貼る。
     つまりはここでも各自治体のリーダーが出てくる。
     道観を経済的に支える集団でもあるのだろう。
     貼り紙には、今回の法壇の因果、時間、目的などを説明する。

2、出幌: 決められた順序どおりに並んだ数百人の儀[にんべん+丈]隊が経堂から出発。
     各種プラカードを持ち、衣装に身を包んだパレード隊である。
     このあたりからようやく庶民にとって、縁日の華やかさが実感できるようなイベントである。
     周囲の土地を楽器をにぎやかに鳴らしながら、派手に練り歩くことはいうまでもない。  

3、祝厨: お供え物を作る厨房を祭る。
     道士らがお経を唱えて祈り、供え物が清潔に、衛生的であるように祈る。
     現代でも食品を扱う人が最も恐れる食中毒を回避したいという願いだろう。
     科学的に原因が究明されていないものが多い時代だからこそ、祈った。

4、行香: 廟内でお香を上げ、今回の法事の目的を読み上げ、神霊のご加護を願う。

5、提灯: 夜、麻紙で作った灯芯に植物油を浸して灯篭を作り、道の両脇に置く。
     道衆(信徒)がお経を読みながら、その間を練り歩き、諸神を天壇に迎え入れ、
     四方に施しがあるよう、願いをこめる。
     また孤魂野鬼がこの光明に乗じて、苦界から脱離できるようにする。

このように縁日二日目は、昼間のパレード、夜の灯篭に合わせた信者の練り歩き、という大きなイベントで祭り感を盛り上げている。


最後の3日目の活動である。

1、上表: 表文を天庭に上奏する儀式。つまり人々からの願いを天に伝える。
    高功法師が読み上げた後、壇前で燃やす。

2、上供: お供え物をする。食べ物が中心。
    読経しつつ、十数種類のお供え物を順々に供えていく。

3、放赦: 道教の活動の中の人形劇の舞踊。縁日の中で最も盛り上がる場面。
    「赦」とは、赦書、免罪符。
    玉帝が人間の罪を許すため、年に一度、諸神を遣わし、人々を祝福するという内容。

    1mに満たない人形を山頂の境内から黄河の畔にある山の麓まで、ロープに沿い、
    滑り降ろさせる。
    縄を緩めたり、張り詰めたりすることにより、仙子らはゆらゆらと揺れ、止まったり、進んだりする。
    これを道士らが、にぎやかな音楽で迎える。
    人形が地上に到着すると、人形の背中から高功法師の赦書を取り出し、香客の前で読み上げ、放赦する。

4、楊幡: 高功法師の読経により、各路の魂を呼び寄せて祝福し、成仏させる。

5、転九曲: 3日目の晩に行われる。
  《封神演義》にちなみ、迷路のように形どった灯篭を道士が読経しながら、信徒を導いていく。
  信徒は道士の後をついて、迷路の中を歩き、練り歩く。

縁日は3日目のこの最後のイベントで最高潮となり、終了する。





白雲山が有名なのは、実はもう一つの理由がある。
それはもうさんが長せいの際にここに立ち寄り、占いをしたといわれるからだ。
以下、つまらないことでけんえつにひっかかって、アクセスできなくなってもいやなので
ひらがなで書く。
しかくはないものと見て、飛ばして読んでください。

1947年、長せいの部隊は、国民党・胡■宗南25万の圧倒的な大軍部隊に追撃され、自ら撤退した。
長せいの部隊を分け、ごくわずかな部隊のみを陝西に残し、あとは他地へ行かせたのである。
延安に拠点を置いていた主力部隊が、こうして陝西の根拠地を失った。
もうは、わずかな部隊のみとともに、黄河の畔のこの地まで追い詰められ、やってきた。
黄河に阻まれて先に進めぬところ、白雲観にやってきた。

当時の無極道長は、今後どうしたらいいか、と聞かれ、黄河の水が少ないから今のうちにわたれ、という。
もうは、水が少ないなら、追っ手もすぐに渡れるから意味がない、というが、それに従った。
すると、急に河が増水し、追っ手をその場に阻んでくれたという。
まるでモーゼの「十戒」のような話だが、
道長は長くこの地に暮らす身として、そういう黄河の増水の周期も知っていたのだろう。

もうは、その後、お礼参りにもう一度、お忍びで白雲観にやってきた。
くじを引けといわれたので引くと、「日出扶桑、8■341、99重陽」と出たという。
扶桑は東、東から太陽が昇るというのは、東に行くと成功するから、東にいけ、と。

その後ろの数字はどういう意味か、と聞くと、道長は笑って「天■機不可泄露」
(天のチャンスを漏らすことはできない)、と言ったという。

もうはこの占いの内容をずっと気にかけていたようで、その後、自分の警衛番号を83■41とした。

一説には、99重陽とは、彼が9月9日になくなったことを暗示していたという。

・・・と、まあ。そういう都市伝説がある。

私個人から言わせてもらえば、占いというのは、自分の考えの整理の呼び水としてはなかなかよい。
特に徳の高い人のオーラに触れることは、ドーパミンが出まくって、大変よい影響があるだろう。

その縁を大切に思い、その数字で縁起を担ぐのは、そのドーパミン大量放出の記憶を呼び覚ますという意味で、精神的によい方向に運んでくれるものでもある。

99程度の数字を一人の人間の長い一生の中で、後の人がこじつけて見つけだすこともそんなに難しいことではない。

ともかくもこの一件のおかげで、白雲観の名声は全国にとどろいた。
今でも社会的に成功した名士が、ひそかにお忍びで訪れる、と噂されるのは、
そのような縁もあるのだろう。

もうが訪れたその日、山ではちょうど縁日の日に当たり、上演されている劇を、
もうは一般客に混じって鑑賞したという。
椅子を持ってきてもうに座るように勧めた人がいたが、
自分は背が高く、前の方に座るとほかの人が見えなくなるから、と言い、遠慮したという。
180cmを超える長身であることは、よく知られている。

劇を見終わると「五州部」の名義で、郷劇団に「与時併進」(時代とともに進む)
の四文字を書いた錦旗を贈呈した。
この四文字は、今では扁額にされて、境内に飾られている。

もうは境内を回りつつ、歴史的建造物がすばらしいから、よく保護するように、と言ったという。





白雲山の道長の話が出たが、前述の燕翼堂義塾でも現任の道長の話がよく会話に出てきた。
土地の人からは尊敬を集めている様子が伺えた。

現任の白雲観の道長・張明貴氏は、1931年生まれ。

地元の佳県佳芦鎮の出身。5歳で病にかかり、身をゆだねて白雲山に預けられた。
11歳で正式に張元桐を師と仰ぎ、同郷の修行に専念。

1957年当時、白雲山では混元教を筆頭として反動会道門が勢力を形成しており、
人力、物力、財力で対抗できないくらい大きくなっていた。

26歳になっていた張明貴氏は神宗の聖旨(明の万暦年間に宦官により賜ってきたという前述のもの)を抱え、
北京の中国道教協会の会長・岳崇岳氏に会いに行き、窮状を訴えた。

その努力のおかげで白雲山の道教がようやく安定し、功績を高く評価されたという。

1980年より道長を勤める。



近頃では、人々の生活の中に徐々に宗教の信仰も復活してきつつあるが、
観光以外の目的で寺や道観が機能していることはまだまだ珍しい現象である。

この白雲観では、地元の自治体を巻き込み、地域に根ざした信仰の場となっており、
新鮮な印象を受けた。




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写真: 陝西佳県の白雲観。

あちこちでたくさん見かけたお札が貼ってありますね。
家に貼ったり、燃やして飲むというのは、どうやらこれなんでしょうか。


















眼下に広がる黄河。この日は見晴らしが悪かったが、晴れていたら、素晴らしいだろう。
道観の立地を決める際、この見晴らしは「最終兵器」として、重く見られたに違いない。












白雲山からの帰り、車から見える、眼下に広がる黄河。





陝西佳県の南側。芦jia河の対岸から佳県を望む。






佳県が、二つの川の合流する高台に建てられていることがよくわかる。





















岩肌は、こんな断崖絶壁。これでは難攻不落なはずである。









最後に食べ物の写真でも。

  

おっちゃんがドラム缶で焼いております。










こういう小麦粉で練り上げたごくシンプルな穀物が、甘みがあって飽きがこなくてうまい。






地元の娘さんたち。






地元のおっさんたち。
町の中心広場でどうやら「運び屋」として、待機しているようです。
このオート三輪トラックで荷物を運ぶ仕事を待っているのでしょう。










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佳県・白雲観と全真教の物語8、各種縁日と参拝客の礼儀

2011年10月12日 10時52分56秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
佳県・白雲山は、前述のとおり、全真教龍門派の道観だが、中国土着の伝統的な道教を継承すると同時に、
陝北の黄土文化、砂漠・草原文化を吸収し、独自の特徴があるとされる。

白雲山の音楽は、清代の道士・苗太稔が、四方を遊行し、優雅な江南スタイルを取り入れた。
さらにその後、後続の道士らにより晋劇(山西の伝統地方劇)、索納(いわゆるチャルメラ)、
陝北民謡などのメロディを取り入れ、独自のものに仕上げられたのだという。

その白雲山独自の音楽体系を聴けるのが、年に三回開かれる廟会(縁日)だという。
今回は、残念ながらその日取りに当たらなかったが、資料によると次のとおりである。

すべて旧暦(太陰暦)を基準としており、

・3月3日: 規模は小さく、真武大帝の生誕日を中心とした3月2日ー4日までの3日間開催。
  地元の人々が中心になって参加し、各自治会の会長が集まり、4月8日の廟会について打ち合わせを行う。

・4月8日: ご存知、お釈迦様の生誕日。三教一体の全真教ならでは。
  同時に真武大帝の聖像ご開光の日でもある。
  4月1日ー8日までの8日間に渡って開かれる。全国各地から香客が集まってくる。 

・9月9日: 九九重日は玉皇大帝の生誕の日。真武大帝の飛昇の日にも当たる。
  この日は観劇し、音楽をきき、一年の疲れを癒す。前後3日に渡り、行われる。
  旧9月といえば、新暦の10月。ちょうど農作業も終わり、収穫を終えて、ほっと一息つくころである。


このほかにも小さな廟会がある。

・朝山会: 旧正月1-15日の元宵節まで。地元の人のため。

・七月七廟会: 白雲山近くの村が主催する。各神霊(聖像)を真武大帝の院まで担ぎ出し、
  戯楼(野外舞台)で三日三晩、劇を上映する。

・羊道会: 旧7月12日。魁星信仰の延長で開催される。
  参加者の多くは文人、学士、社会の名士。
  魁星閣に集い、陝北羊道料理を味わう。 「羊道」料理については、「楡林3・載妃と羊道」の部分を参考に。
  白雲山の羊道のコースを堪能し、詩、賦を作り、互いに読み上げ、鑑賞する。
  旧時は「賽詩会」とも言った。



白雲山を訪れる敬虔なる参拝客には、それなりの参拝の礼儀ができている。
特に縁日に訪れる際には、神妙にその手順に従う。

1、叩等身頭: つまりはいわゆる「五体投地」である。
  モンゴル族の信士が真武大帝に示す最も崇高な礼とされる。

  跪いて頭をつき、地面に這い、もう一度頭を下げて地面に印をつけて起き上がり、
  その印の位置からまた始めること。

  チベット仏教の信徒がしているのが、一般的に知られているが、モンゴルもチベット仏教を信仰、
  全真教はさらに「三教一体」だから、矛盾はないことになる。

  モンゴル信士は朝山(=参詣)前、三日間禁欲し、
  家を出発する前、家の入り口から何里も叩等身頭してから旅立つ。
 
  白雲山の麓に到着すると、まずは黄河のほとりにやってきて、水温の如何に関わらず、
  手と顔を洗い、ここで身だしなみを整える。

  長い道のりを徒歩、もしくは騎馬でやってきた末である。
  全身が砂だらけ、汗と垢で汚れているだろうことは、想像に難くない。
  白雲山は何しろ山上にあるのだから、水の供給量には限界があるに決まっている。
 
  日本のお寺には、入り口に手を清めるための水があるが、
  中国の寺では、ほとんど見かけたことがない。
  いわんや砂漠地帯のすぐ南に位置する陝北地区の白雲山で、である。
  敬虔な気持ちで遥々数千里をかけてやってきた信士が、身をさっぱりさせてから参拝したい、という気持ちは、
  充分に理解することができる。

2、[くさかんむり+軍][月星](=なまぐさ)を忌む:
  これは仏教から取り入れた考えに他ならない。

  五[くさかんむり+軍]: 酒、ねぎ、にら、らっきょう、香菜 
    刺激が強く、壮陽の効果があり、生理的な欲望を刺激する。
    「清心寡欲」の道教の教理に反する。

  [月星]: 豚肉などの肉類。道教でも不殺生を掲げる。

前述の1「3日間禁欲」には、出発の3日前からこれを食べないことをいうのだろう。


3、酢壇を打つ: 
  現地の人は、朝山(=参拝)前に敬意を表するため、赤く燃えた木炭にお酢を注ぎ、
  その蒸発する匂いに身を浸して自らの穢れを清める。

  酢が蒸発すると---特に中国で最も一般的な黒酢を蒸発させると、
  くしゃみは出るわ、目はちかちかするわ、鼻水は止まらないわ、と強烈な刺激である。
  このために部屋の空気を洗浄したいときは、酢を沸かすのがいい、といわれている。
  2004年のSARSの際には、盛んに炊かれたものだ。

  聖なる場所に行く前に身を清めたいのは、人間の心情だろう。
  しかし一生に数えるほどしかお風呂に入れないことはいうまでもなく、
  服を洗うことさえ数年に一度、袖口も襟口も常に垢で底光り、
  というほど水資源が不足する土地に暮らす人々にとって、
  水で身を清めることは、生活スタイルに合わない、できない相談なのである。
  土地それぞれの事情があるものだ。

  近くの信士は、参拝前に[さんずい+甘]水(おわんを洗った水)を飲むという。 
  人心を畜生まで下げることにより、至らないことがあっても、神霊が大目に見てくれるように願いためという。

  
今でもそうだが、黄土高原の農民は、食器洗いの洗剤は使わない。
このブログにも登場する炭坑の谷で、炭坑長のお宅にホームステイした時もそうだった。

炭坑長は家をいくつも持っていたし、生活は豊かだったが、
家庭での家事は昔どおりだった。

お湯を沸かし、その中におわんを入れて、ふきんで油を洗い落としながら、お茶碗を洗う。

洗った水は、人間が食べた残りものであり、洗剤などの有毒のものはないから、
おそらくはその水を家畜に与えているのだろう。
それくらい水を一滴たりとも無駄にしない。
そしてその水を飲むのは、彼らの日常では、「畜生」の分際であり、人間ではない、ということだ。

それにしても。
庶民が強大な力に「目をつけられませんように」、「お目こぼししてもらえますように」
という発想が如何に多いことか。

例えば幼名に奇怪な名前が多いのも同じ発想である。
この場合は、乳幼児死亡率が高かった時代、どうか無事に育ちますように、という願いをこめて。

「狗狗(ゴウゴウ)」: 犬は中国では罵り言葉のトップランク。
     「犬にも及ばない」は、最低最悪の人間。その犬を幼名につけるのは、
     「それくらいくだらない奴でございます」という気持ちをこめている。

「饅頭(マントウ)」: 張芸謀監督の映画「活きる」で子供にこの名前をつけていた。
    「どこにでも転がっている、つまらない者でございます」の意味をこめて。

昔の小説を読むと、主人公が逆境に遭う場合、わけわからないうちに土地の権力者の機嫌を損ね、
一族郎党、六親等に至るまで、残らず災難が降りかかる、というようなストーリーが多い。

あまりにも多い現象だからこそ、日常生活の端々にそれに絡んだ行動が出てくるのだろう。 



これだけの参拝前の準備をしてから、山に上り、お参りをする。

4、敬香: お香を焚く。3本がよいとされる。

5、叩拝: 跪いて頭を地面につける。

6、お布施を出す。

7、おみくじを引く。神と人との交流。写真にもあったように、けっこう皆おみくじを引いている。
  そして難しすぎてわからない言葉の解説員まで待機しているのである。

8、符鎖を求める。
  「符」は、お札。家内に貼って家内安全を願うか、燃やして服用する。
  「鎖」は、子供の首にかける赤か五色の紐。子供の命を真武大帝とつなげるため。

9、祈神薬: 真武大帝を祭る香炉の中にあるお香の灰を黄色い紙で包み、家に持ち帰り、燃やして服用する。

  薬を服用している間は、なるべく生臭を食べないようにせよ、といわれている。
  医療の発達した現代であっても、縁日の期間中、長蛇の列ができる。

  「思い込み」による自然治癒力の力は、強大ですからな。
  日本でもえらいお坊さんの残り湯を信者が「万病に効く」と飲んだりしたというし、
  今でもガン患者に「画期的なガン治療の新薬ができた」とビタミン剤を飲ませ続けたら、
  本当にがん細胞が消えた、というケースもあるというではないか。

  ましてや、国民の医療保証がまだまだ不備な現状では、さもありなん、とも思う。

10、神飯を食べる: 当初は貧しい信士への施しだったが、今は皆が食べたがる。
  お布施を少し出せば、分けてもらえる。「消災免難」の効果があるという。

11、山門を欄ずる: 山門の敷居に横たわり、幾千万人の人々に体を跨いでもらう。
  お礼参りの表現の一つだという。


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写真: 陝西佳県の白雲観。


真武殿の東側のお堂の中。





お参りに訪れる人々。どうやら本当に道士さまからおみくじを買っているようである。
お参りをする部分にじゅうたんが敷いてあるのも、いかにも西北っぽい。
北京では丸いクッションのようなものを置くのが普通である。



真剣に叩頭して祈る参拝客。






何かの紙を見ながら、熱心に見ている二人。
何をしているのか、といえば、どうやら先ほど、お堂の中で買ったおみくじを解説してもらっているようです。
おみくじは、古語で難解に書かれているので、わかりにくい。
それを解説しましょう、という売り込みの人が、出口で待ち構えているわけですな。



つまりは精神カウンセリングみたいなものですな。
こういうおっちゃんらは、占い師の如く、場数と経験を積んでいるので、
相手の状況に合わせた内容で解説してくれる。

面構え、服装、オーラなどで相手の大体の背景を飲み込み、対話をしつつ解説を進めていく。
境内には解説おじさんが十人くらいいるので、その解説の声がわんわんと響き、ものすごい活気。

もちろん有料だけど、きっとたいした値段ではないと思う。
なにはともあれ、皆、元気をもらって帰ってねー。




奥への道を進む。







日付は2007年となっている。新しい石碑。



さらに先を進む。



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佳県・白雲観と全真教の物語7、龍門丹法

2011年10月11日 15時41分54秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
現代でも龍門丹法は、民間で広く流行しているという。

昔、知識人らが丹法について、著作で残すようになったか、詳しい方法を完全に解説してしまうと、秘密が外に漏れるため、
詩で書き、隠語を駆使して部外者を煙に巻いた。

龍門丹法は、煉功の際、座った形を主体とするため、「座功」という。
修行者は肉体を鍛えるために同時に拳術も多く兼ね習う。
座功は「内功」、拳術は「外功」と呼び分ける。


この当たり、全真教の始祖・王重陽が武挙の及第者であり、
文武ともに重視した人だったことに深く関係があるのだろう。

安定しない世情に生きる人々に、魂の救いのためには、武も不可欠としなければならなかった、
この大地のやむにやまれぬ事情を反映している。

まさに「犬を殴るための棒」。


この国を作ったもうさんは、核兵器を持つ理由について、
「誰にだって犬を殴るための棒は必要でしょう」と言ったといわれる。

つまりは、最低限の防衛。

誰に迷惑をかけるでもなく、鼻歌を歌いながら機嫌よく通りを歩いていても、
因果関係なしに突然、襲い掛かってくるのが、犬、という発想が中国人にはある。

それを防ぐためには、最低限でも棒切れの一本も持つことは、正当防衛だと。

・・・龍門派の丹法は、その精神を体現している。

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写真: 陝西佳県の白雲観。

屋根の上の飾り。

細かいディテールまで行き届く意匠のこだわりが、財源の豊かさを感じさせる。

中国の寺院は実際に修行する僧侶、道士がいないまま、ただ単に観光用に開放されている
建物という「外殻」だけのところが多いが、この道観には実際に修行に切磋琢磨する道士らがおり、
その道士らが社会の人々の尊敬を集め、下は庶民から上は街の名士に至るまでが訪れる。
従ってその財源は、他の寺院のように入場料だけではなく、それぞれの訪問客の胸先三寸で
ゼロの桁がいくつか違うくらいのお布施もありうることだろう。
最近の陝西の石油、石炭ラッシュと関係がある気がしないでもない。
石油、石炭がわっさわっさと採れる今、ぺんぺん草しか生えないようなお寒い谷間の村落に
いきなり高層ビル群が出没しているのを、道中いくつもみかけ、びっくらこいた。




この狛犬は、伝統的な由緒正しい佇まいですぞ。

   





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佳県・白雲観と全真教の物語6、律宗と龍門派清初の中興

2011年10月09日 23時42分48秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
どうやら龍門派の成立は、はっきりとその起源を遡ることができないらしい。
民間で深く地下に潜る間に形成されたが、あまりにも秘密主義を守ってきたために、
いつの間にか、由来もうやむやになり、誰も正確に伝えなかった、というのが、実情だろう。

清代になり、急に世の中に堂々と出ることができるようになった際、
急ごしらえで「箔付け」と行ったものらしい。

龍門派は又の名を「律宗」ともいう。自らを律する宗派という意味だろう。
律宗は、きわめて秘密裏の伝承され、時勢が不利なときは何十年も外の人に一切知られることなく伝承し続けることができるという。

一旦、時勢が熟すれば、センセーショナルに世の中に姿を現すことができる。

その活動は主に、気功を中心とする実践の鍛錬である。それを「丹法」というが、龍門派丹法には、2種類ある。


1、顕宗: 元の初め、全真教の[伊にんべんなし〕志平、李志常などが、
  一般の道衆、信衆に対し、指導した修養方法。当時の社会で広く一般的だったやり方。
  今でも巷で行われている、公園で老人らが励んでいる健康体操の延長のようなものですな。

2、隠宗: つまりは律宗。丘祖が晩年に得た金丹秘要を趙道堅の系統に伝えたもの。
  これが龍門派である。


もうこの当たりになってくると、完全に武侠小説の世界になってくるが、
要するに、気功の鍛錬により超人的な力を身につけ、人の病気を治したり、敵を倒したりすることだろうか。

そうなると、宗派の「看板スター」の実力のカリスマ性が極めて重要となってくるのだろう。
それを代々、レベルを落とさずに伝えることが、「隠宗」が世に隠れて続けてきた活動なのだろう。

明が滅亡し、清が政権をとると、全真教はようやく宿敵・明の皇室の弾圧から解放された。
満州族は漢人の支持を得るため、清初の順治・康熙・雍正の三王朝の間、宗教緩和政策を取った。

この時、龍門派は、第7代律師・王常月の時代。
王常月は、昆陽子と称し、順治20年〔1655〕、陝西の華山から北京の白雲観に移った。
順治21年(1656)、聖旨を奉し、白雲観で主講となり、紫衣を賜うこと3回に及ぶ。

順治帝といえば、宗教への傾倒が激しかった皇帝である。
何度も出家しては、母親・孝庄皇太后に連れ戻され、さらに出家する、という「宗教狂い」ぶりを見せる人だ。


龍門派の王常月の説法もどうやら順治帝の心をつかむことができたらしい。
皇帝という後ろ盾を持ったこともあるのか、弟子千人に上り、道風を大いに振るわせた。

次の康熙年間、王常月は弟子を引き連れて南下。
南京の隠仙庵、湖州の金蓋山、湖北の武当山などを巡って戒を授け、信徒を収めた。

20年余りに受け入れた信徒は多く、久しく廃れていた全真教を中興させ、王常月は龍門派の「中興之臣」と呼ばれる。
これにより王常月以後、全真教と龍門派が「二合為一」となり、出家するという習慣も復活した。


王常月の語録をまとめた『龍門心法』は、20節で構成され、龍門復興の思想宗旨を示す。
王常月の後、龍門派は多くの分派に分かれた。
龍門西竺心宗の王清楚、白馬学(1615-1818)などは、優れた養生により100年を越す寿命を全うしたといわれる。

道教がともすれば、すぐに多くの分派に分かれる傾向にあるのは、
つまり丹法というのが、一人の優れた能力を持つ「スター教祖」の力によるところが大きいからだろう。

龍門戒法は、丘処機以来、代々すべて「単伝秘授、不能広行」。
400年にわたり、弾圧を受ければ地下に潜り、一旦時勢がくれば、一気に興隆させた。

康煕45年(1706)、康熙帝は、王常月に「抱一高士」の称号を賜った。


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写真: 陝西佳県の白雲観。

お香をあげる人々。








舞台の下のトンネル。
本来は、山の下からえっちらおっちらと上ってきて、最もメインとなる真武殿に入るために
このトンネルの下をくぐり、豪華絢爛たる獅子や猿の白玉石の彫刻に迎えられて
じゃじゃーん! と入る演出になっている。



この順路を後ろから入ってくることを想像してほしい。





   

ううーん。山道を登らなくていいのはよいが、設計者当初のドラマチックな演出の意図が
まったく伝わらない見学であったことが、今になってようやくわかった。。。
実に残念。



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佳県・白雲観と全真教の物語5、龍門派の誕生

2011年10月08日 19時12分07秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
このように朱元璋は、自らの王朝のために「手垢のついていない」、自身の宗派を擁護し、盛り立てたわけだが、
では、全真教はどうなったのか。

当時の全真道の上層部は、武当山に集まっていた。
湖北武当山は、国のちょうど真ん中に位置することもあり、元代も中国全土からの参拝客で大いに賑わった。
このため武当道教には、各派が集まり、複雑な構図を形作っていた。


当時、全真道士の中で最も名声の高かったのは、張三豊。
張らは武当山に根拠地をおき、明の政権には協力しない態度を隠さなかった。
朱元璋は「薬を求める」という名目で何度も使者を派遣し、その様子を探っている。

全真道のなお持つ影響力が、反政府勢力・世論となることを恐れたのである。


2代目の皇帝となった永楽帝も武当山の全真派勢力への警戒を怠らなかった。
永楽帝は、武当山の張三豊の住まいである遇真宮を修繕し、権力側に取り込もうとしたが、張三豊は従わない。

そこで次の手として、永楽帝は武当山そのものを政府の管理下におくことにした。
永楽帝は工部侍郎(つまりは今でいう国土交通省のNo.2、副大臣か)・郭[王進]、
隆平侯(建国の功臣に封じる爵位の一種)・張信に命じ、30万人を動員して武当の宮・観の造営をさしめたのである。

ただの親切心で数百万両もかかるこんな大土木工事を行う馬鹿はいない。
それは武当山の山中に政府の手を深く差し入れ、当局の目の届かない「盲点」を徹底的につぶすためにほかならない。

「太岳太和山」の名を賜い、官庁を置き、印を授けてこれを守らせるとともに、
武当山のすべての道官、宮観の住持(住職)は、「欽選」させた。
つまりは政府が、各組織のトップを人選したのである。

その人選の指揮を命じられたのが、正一教の第44代正一天師・張宇清であったことはいうまでもない。
そして彼が選んだのが、ほぼ100%正一教傘下にある宗派の道士であったことも当然である。


正一派のほかにも、龍虎、茅山、土清、清徴などの宗派から選ばれたが、
これらの宗派は宋元以来、正一天師の管轄を受けてきた「分派」のようなものだ。

あまりにもあからさまに全真教が一人もいないのでは、世論の反感を買うと少し後ろめたかったのか、全真教の道士が一人だけ選ばれてもいた。

五龍山の提点(住職に当たる)李素希である。
それは、李素希のみが全真教の道士の中で明への忠誠を誓った「聴話(いうことを聞く)」な輩だったからだ。

永楽3年、李素希は庵前の古梅の木が花をつけたのは、瑞兆の印、と皇帝に献上するため、
弟子に送り届けさせること2回に及んだ。

このような「阿(おもね)り」により、認められた人物である。
当然、仲間の全真教の道士らからは、「変節漢」と軽蔑され、人望を集められなかったにちがいない。
だからこそ、おそるるに足らぬ人物として、取り立ててもらえたのである。


永楽帝のこの武当山「征服」で、全真教は壊滅的な打撃を受けた。

武当山の全真教の道士らは、永楽帝のこの介入によりほとんどが外に散らばって姿を消し、
武当山に残った道士も山中の辺鄙な小庵観でひっそりと暮らし、寂しい、清廉な修行の日々を過ごし、
世の中に影響力を及ぼすような活動はしなくなった。

こうして組織は完全に「地下」に潜り、明一代の200年余り、ほぼ表の世界に顔を出すことはなかったのである。

全真教の龍門派は、そんな明代の「地下活動」の中から生まれた、最もストイックかつ戒律の厳しい宗派である。
厳しい戒律を掲げたのは、権力から弾圧された状態の中で秘密裏に発展しなければならなかったからであり、
秘密宗教組織を維持するためには、絶対に必要であった。

全真教は本来、創始者の王重陽の「三教融合」の概念により、仏教の出家の制度を取り入れて
道士の出家を義務付けていたが、龍門派では、これを守らなくてもよく、在家のままでも修行はできるとされた。

それも秘密組織である以上、堂々と出家して目立つ存在になることができない、というやむにやまれぬ事情を反映した制度である。
この状態を自ら「群龍無首」(粒ぞろいの集団にリーダーなし)と呼んだ。


龍門派は明の中期から後期にかけ、秘密裏に伝授されていく過程で徐々に形成されてきた宗派である。
かつては権力の庇護を笠に来て、世の評判がすこぶる悪かったこと、腐敗したことへの反省として、
そんな元朝時代の全真教と一線を画すために、新たに分離した宗派だ。

龍門派が深く地下に潜ったまま、世に隠れて生きるのをやめ、
世に名乗りを挙げるのは、宿敵である明王朝の統制が緩んできた明末から清初にかけてである。

龍門派のリーダーは、戒律の厳しさを特徴とする自派の特徴を踏まえて「律師」と呼ばれる。
厳しく律する師、の意をこめたものであろう。

清初の龍門派の律師・閔一得は、龍門派の歴史をその著書『金蓋心灯』に現したが、その中で龍門派の初代律師を趙道堅とする。

趙道堅は丘処機の弟子であり、1280年、丘処機が北京の白雲観で趙道堅に師弟の伝心印を授けた、と前書には著されている。

しかし実際には趙道堅は、師匠の丘処機に付き従って西域に行った際、1221年、賽蘭城
(現在のカザフスタン、シムケント付近)で病死しており、また師匠の丘処機も1227年に80歳でなくなっている。
二人が1280年に白雲観で相見えたというのは、年代的に矛盾があり、
どうやら明末あたりになってから、箔をつけるために、作り上げられた物語らしい。

ただ今と違って、民間人が歴史資料を手に入れることが難しかったのか、
話を作るのに、確固たる年代の裏づけを取ることができなかったらしい。

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写真: 陝西佳県の白雲観。

ふと盧溝橋を彷彿とさせるさまざまな姿態の獅子たち。


    




サルのモチーフもあり。

 

    




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佳県・白雲観と全真教の物語4、チンギス・ハーンと丘処機、そして朱元璋

2011年10月07日 13時40分43秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
1220年、75歳の高齢の丘処機は、弟子の[伊のにんべんなし]志平、宋徳方などの18人を率い、
2年の歳月をかけて、万里の道のりを進み、ヨーロッパに西進中のチンギス・ハーンの部隊に追いついた。

丘処機が見たのは、血で血を洗う腐爛臭に満ちた屠城の痕だった。
丘はチンギス・ハーンに民を殺さぬように説き、チンギス・ハーンはその言葉に耳を傾けた。

治国に関する多くの有益な提案をし、丘処機一行は、西域のハーンの天幕で熱烈な歓迎を受けた。
丘処機はチンギス・ハーンの元に1年とどまったが、高齢を理由に東帰を申し出、何度も却下された後、ようやく許されたのであった。

帰国後、丘処機は大都(現在の北京)の天長観での布教を許された。
それまでの全真教の道士らは、托鉢(・・・・は、仏教用語かいな? 道教の場合はどういうのでしょう)
により活きる糧を得ていたが、国家の擁護を受け、様相は一変した。

天長観は丘処機にちなみ、「長春宮」と改名された。
・・・・それが今日の北京・白雲観である。


このように仏教、儒教を抑え、元の朝廷から強力な支援を得た全真教だが、丘処機の死後まもなく、たがが緩み始める。

朝廷の後ろ盾をいいことに道士や信徒らが、社会で傍若無人な振る舞いを始めるのである。
夫子廟、仏像を破壊して歩き、48箇所を焼き討ちにした。
このでたらめな狂態のために、それまでの独占状態が一気に崩れた。

そもそもこの時点で全真教は、創始者の王重陽、その弟子の丘処機につづく孫弟子、曾孫弟子の代でしかない。
まだ新しい宗派が創設されてからまだ3-4世代しか経っていないことになり、その間に教義・戒律・組織を確立するには、至っていなかったと考えられる。

全真教は、仏教と儒教の教義も取り入れて「ごった煮」状態にしてしまっている。

その点、仏教と儒教との差別化、自派の優勢の主張が難しいことになる。
さらに王重陽や丘処機などの「アイドル」的な教祖のカリスマ性に依存しすぎ、
それに続く後続の優れた人材を育成するためのシステムが確立されていなかったのではないだろうか。

王重陽や丘処機のような一種の「天才」であれば、3教のさまざまな経典を読み、その中で自らの世界観を確立させていくことができる。
しかしそれに続く「凡庸」な弟子どもでも、教団の中のメンバーとして
どんな馬鹿でもそこそこのレベルに育て上げるには、システム化された教材、経典、カリキュラムが必要となってくる。
そういうものの確立を怠ってきたか、それどころではないくらいに歴史が浅すぎたのか。

その「システム」敗北の象徴的な出来事が、元の憲宗5年(1255)の宗教ディベートである。
皇帝が少林寺の高僧と全真教の道士・李志常に命じ、御前での宗教理論論争をさせたが、これに李志常が敗北した。

それまでの全真教の専横ぶりを罰するためか、それともモンゴル皇帝が単細胞なためにこの敗北に一気に頭に血が上ったのか、
仏教側の反撃が始まり、道経を焚書にし、民間からも道経狩りが命じられた。

これが全真教には、決定的な打撃になり、勢力は大きく削がれたが、それでも元一代、全真教は朝廷、皇室と深い関係を維持しつづけた。
今日でも佳県の白雲観にモンゴル人信徒が多いのは、脈々と続く元代からの伝統なのだろう。



元が滅亡するまで、全真教はモンゴル貴族らと深い関係を保ち続けた。

このため明の太祖・朱元璋は全真道士を危険視して、これを忌み嫌い、
また全真道士のほうも一部には、自らを「大元遺老」と自認して、新しい王朝を否定して憚らなかった。

明初、朱元璋の三教に対する政策は、儒教を中心に据え、「釈老(仏教と道教)兼用」である。

朱元璋はかつて「禅と全真は、修身養生を中心としており、すべて自己中心。

これに対して正一は、超脱を銘とし、特に孝子慈親(親孝行、家族愛)を掲げ、人倫に即している」と評価、道教の別の宗派である正一道を保護した。
正一道は封建倫理道徳を説く宗派であるところが、朱元璋のおめがねにかなったのだろう。

正一道と朱元璋の関係は、明の成立以前に遡る。
1361年、朱元璋がちょうど中原での覇権を争っている時、正一道の第42代天師・張正常が、朱元璋に使者を送り、支持を表明した。

朱元璋は「以手書賜答(手書きを以って返信を賜う)」ことで、正一道を擁護することを表明したのである。

「すべての龍虎山宮観の殿堂、道具類を何人たりとも壊してはならない。
 した場合は、神明への冒涜とみなす。
 これまでの山園田地家屋は、そのままとし、軍民は何人たりとも損じてはならない。」
と、乱世において、その財産を保証してやった。

1367年、朱元璋は、皇帝の名乗りを揚げたい意向を示し、張正常に天意の伺いを立てるよう請う。
張正常が、霊験もあらたかに、天意の支持を宣言したのは、いうまでもない。

1368年、朱元璋が南京の首都を構えると、張正常が入賀した。

朱元璋は、張に正二品に相当する「正一教主嗣漢四十二代天師護国闡祖誠崇道弘徳大真人」に封じた上、
さらにその一族と龍虎山大上清宮の各徭役を免じた。
その後も歴代の皇帝が明一代、正一天師(真人)に全国の道教を司る欽定を出し、多くの特権を認めたのである。



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写真: 陝西佳県の白雲観。

ほらほら、これこれ。今回の陝西の旅でよく見かけた、由緒ある古刹なのに妙にアニメチックな狛犬。
一応「狛犬」でないといけないわけさ。でもこれじゃあ、ディズニーの「ライオンキング」そのまま。

    


しかも・・・・(汗)。子供を跨がして、写真撮影してるし・・・・(汗汗)。
あちゃああ。。。。




まあ。そのために新しく作って、消耗してもまた新しく作ればいいようになっているんでしょうけど。。。
これも宗教が民衆のニーズに応えるという例なんでしょうかねえ。。。




白雲観の最もメインとなる真武殿には、縁日のたびに伝統劇が催される劇台がある。
毛沢東が訪れた時にも観劇した、由緒ある舞台だ。

毛沢東は、縁日で人々でごった返す境内でいっしょに観劇し、周囲の人が用意した椅子には座らず、
近くにいた子供をその上に立たせてやったというエピソードが伝わる。


この日はあいにく修繕中で、やや情緒に欠けた・・・。残念。


メインの真武殿と向かい合って立っている劇台。本来ならこの下をくぐり、麓からこの境内に入ることになる。

    


凝った彫刻が美しい。潤沢な経済力を思わせる。





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佳県・白雲観と全真教の物語3、全真庵と北七真

2011年10月06日 13時11分28秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語
故郷で全真教を開いた王重陽だが、陝西にいた時期、一人の信者も獲得できていない。

1167年、王重陽は山東に遊説した。
おそらくは地元で信者が得られない以上、自ら外にも遊説に行かねば、現状を打開できぬ、という覚悟の上だろう。

山東の寧海の富戸・馬[金玉]を説得、庵の建設への出資を引き出すことに成功した。
名を「全真庵」と名づけた。
ここを拠点とすることにより、初めて徐々に影響力を持ち始めることができるようになった。

これ以後、広く弟子をとり、宣教し、「北七真」を形成していった。
つまりは全真教の幹部だが、その7人は、以下のとおりである。

丹陽真人・馬[金玉]
長真真人・譚処端
長生真人・劉処玄
長春真人・丘処機
王陽真人・王処一
広寧真人・[赤 こざと]大通
清静真人・孫不二(馬[金玉]の妻)

王重陽の死後、この7人の中で最も活躍したのが、丘処機である。

丘処機は、山東登州・棲霞県の人。幼い頃から道教に憧れ、周囲に隠れて修行を重ねた。
王重陽が山東で布教している際、その名を慕って弟子入りしたのである。

金の大定9年(1169)、王重陽に付き従い、弟子の馬丹陽、譚長真、劉長生とともにべん梁(現在の開封)に遊説した。
翌年,重陽が羽化(死去)したため、四人は終南に葬儀を出しにいき、,守墓を守ること三年に及んだ。

大定十四年(1174年)、邱長春は一人で[石番]溪(現在の陝西省宝鶏地区)にやってきて厳しい修行に打ち込むこと六年に及んだ。
毎日の食事は1回、蓑と笠のみを身につけ、寒暑ともに同様だったので、人々は「蓑衣先生」と呼んだ。

大定二十年、龍門(現在の宝鶏隴県の龍門洞)に移り住み、修行をすること七年、
しだいにその名を慕って集まる衆が増え、よく詩を詠んでは訪れる人に贈り、さらに天下遠くまで名声が響き渡った。

大定二十六年、京師の統軍・峡谷公が朝廷に上奏し、終南の劉蒋村に帰還するよう請うたため、
邱長春は下山し、王重陽故居を整備すること二年、大きな規模と成して「祖庵宮」と名づけた。

大定二十八年二月、金の世宗の招きに応じ、大都(現在の北京)に向かい、天長観(現在の北京白雲観)に入った。
金の世宗は丘処機にさまざまな質問をし、その提案を一つ一つ採用した。
八月には、終南に帰ることを許され、銭十万を賜ったが、これを辞して受け取らなかった。
明昌元年(1190年)、山東に帰り、翌年に故郷の栖霞に戻り、「太虚宫」を建てた。
三年十月には、「芝陽醮」を建てた。

全真道が興隆していた当時の山東は、宋、金、モンゴルの三国の勢力が交差する場所である。
そのために民衆への影響力の強い全真道をそれぞれの勢力が、自分たちの側に取り込もうとするが、
丘処機は、それを巧妙にかわしつつ、中立の立場で傍観する位置に立ち続けた。

しかし1217年、ついにチンギス・ハーンが、治国之道と不老長寿の道を求め、使者を派遣してきた。
柔硬織り交ぜながら、結局は剣先で脅すようにして丘処機を追い立てていった。

丘処機も今後の利害を考え、全真道の将来の発展、民を守ることもすべて考慮し、
モンゴルに行くことは、不利にはならないと見なし、モンゴル側の要請に従ったのである。

当時、チンギス・ハーンが全真道を取り込もうとしたのは、山東が3つの勢力のどちらに転んでもおかしくない「激戦区」だったからだ。
その山東で大きな影響力をもつ全真道を取り込むことにより、グレーゾーンである山東の民の心をつかみたいという思惑があった。

全真道のほうでも、モンゴルに征服されてから受身的にのこのこ頭を下げて阿(おもね)るよりは
求められているうちに協力することにより、庇護を得たい、と考えた。

その両者の思惑が一致したのである。

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写真: 陝西佳県の白雲観。
おお。これは「鐘鼓楼」のうちの太鼓のある「鼓楼」ですな。反対側にちらりと見えるのが、「鐘楼」。
「佳州八景」の一つ、「白雲Chen鐘」。つまり真武殿で毎朝つく鐘の音。
黄河の対岸の山西省まで響き、聞こえるといわれたそうな。
    

順路としては、いきなり最もメインの真武殿に入るようになっている。


お堂の前の香炉で燃え盛るお線香。



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佳県・白雲観と全真教の物語2、始祖・王重陽

2011年10月05日 13時08分39秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語

陝西佳県の白雲観。泥色のレンガが特徴的。北京では、レンガは灰色だ。
黄土高原的な情感が漂う。



後ろを振り返る。


石畳の坂道。
    

そもそも道教の全真教とは、どういう宗教なのか。
チンギス・ハーンに擁護されたことで有名だが、その起こりも宋代の動乱期であった。

道教の特徴は、雑多で宗派が多いことといわれる。権威ある経典なし、始祖なし。
教派が多く、数え切れないほどあり、全真教だけでも清末までに86の分派が確認されている。

全真教は当時、金の領土となっていた山東で王重陽が創設した宗派である。

王重陽は、本名・中孚、字は允卿、陝西・咸陽の裕福な家庭に生まれた。
少年時代は、ほかのどの小金持ちの家庭の少年とも同じように、科挙を目指し、儒教の経典を学んで過ごした。

しかし当時の陝西は、宋の領土だったが、金との国境に近く、戦いが耐えない。
世の中が安定せず、平和が訪れないのに、科挙で功名を成すことは難しい、とやがて王重陽は、悟るにいたる。

そこで武術を習い、筆墨を槍・棍棒に持ち替え、斉の武挙に及第した。
斉は、金が建てた傀儡政権だったが、金が中原に入ると、まもなくこれを取り潰した。
金では漢人は重用されず、王重陽は小さな村の酒税を徴収する小官吏に成り下がった。
幾ばくもなく、王重陽は憤懣やる方なく、官吏を辞して故郷に帰る。

仏門にも入ろうとしたが、王重陽が最終的に選んだのは道教だった。
金の世宗・大定元年(1161)、王重陽は故郷の友人、近所の人々に家財を分け与え、
一人、終南山県の南時村に隠居する。

4mの穴を掘り、「活死人墓」(活きる死人の墓)と称して穴の中で座禅を組み、
新教派の創設を構想した。

王重陽はその日々の中、僧侶---特に禅僧と親交を重ねた上、儒教、仏教、道教のすべてを詳しく研究した。

その結果、道教の「清静無為」、仏教の「禅定」、儒教の「真実無妄」には多くの共通点があり、
三者はつまるところ、同じ真理を説いている、という「儒道釈同源論」を提唱、独自の全真道を創始したのである。


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佳県・白雲観と全真教の物語1、明の神宗の扁額を賜る

2011年10月04日 19時21分52秒 | 佳県・白雲観と全真教の物語

中国西北部で最大の道観といわれる白雲観。
香炉寺に続き、韓先生のご子息、若手の書道家・韓暁峰氏が案内してくださった。





あかん。ミーハーは私は、駐車場わきのみやげもの店でいきなり沈没。
伽藍を見て回るより、まずこちらに目が行ってしまう。

かんぴょうのようにウリ系の野菜をくるくると細長く切ったものでしょうかねええ。
それに切り干し大根ぽいものが。

   
さまざまなキノコの乾物も豊富。白雲観の起こりは山で薬草を採った道士の李玉鳳を
記念して建てられたくらいだから、山中にはさまざまな山の恵みがあるのだろう。



さまざまな種類のナツメが並ぶ。
乾燥の度合い、蜜で煮詰めたものなどのバリエーション。

佳県は昔からナツメの産地で有名だそうな。
ナツメはどこにでも木があるが、佳県のナツメは、皮薄く、肉厚く、大きく、種が小さく、栄養価が高い、といわれているらしい。

北京の老舗の漢方薬局・同仁堂志には、
「Jia県油棗入薬医百病(Jia県の油棗を薬に入れれば、百病を治療できる)」と書かれておるそうな。

わからないではない。

農耕地帯の北限である。
あとちょっと上にいけば、完全な砂漠地帯。

それくらい雨が降らない。

乾燥地帯産の果物というのは、砂糖でも注射しているのだろうか、と思うくらい甘い。

以前に蘭州でメロンを食べた時にあごがはずれそうになるくらい、甘くておいしかった。
ほとんど雨が降らない上、昼夜の温度差が大きいからだ。


ぎりぎりの生命線の均衡線を綱渡りしつつ農業をしているこの地方は、少しでも気候がぶれると、
大飢饉となり、都会に乞食に出ないといけなくなったという。


前述のドラマ『血色浪漫』でも、陝北に下放された主人公・鐘躍民らが、支給された食糧が切れ、集団でこじきに出るシーンが出てくる。
同じ村からいっしょに物乞いに出てきたばあさまは、「じきに慣れるさ。ここはそういう伝統だから」といい、
それを聞いた知識青年らは、愕然とする。

ばあさま曰く、数年に一度ある豊作の年になんとか1年分の作物を確保できるが、ほとんどの年は、
数ヶ月で食糧が切れてしまい、乞食に出ないと生きていけないという。

「最初に嫁に来たときは、つらくてねえ。(乞食に)出たくない、というと、亭主にこっぴどく殴られたもんだよ。
それでも行きたくない、とがんばると、立てなくなるまで殴られた。
今では(乞食に出るのも)もう慣れたもんさ」

雨で薄められることなく、大地の旨味をぐっと凝縮し、耐えるように育ったナツメが、
「油」を塗ったようにぎらぎら底光りすることもうなずける。


うろ覚えながら、司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズに、
「昔は日本の農家には、どこでもナツメの木を植えて飢饉に備えたものである」というような記述があったと思う。

ナツメは乾燥させると糖分が高く、エネルギー源として、ある程度は炭水化物の代わりに
お腹を膨らせることができる。
ナツメではないが、アラビアのナツメヤシは、現地の人にとって立派な主食となっている。
『アラビアンナイト』では、旅人が椰子の木の下で休み、ナツメヤシを食べて種を放り投げたら、
それが当たった、と魔物が怒って出てきた、というシーンもある。

つまりナツメがお弁当代わりとなっている。

乾燥させれば1-2年くらいは持つ。こうして飢饉に備えたのだという。
今では、逆にそのカロリーの高さのために日本では敬遠されているのだろうか。
そのまま食べてもあまりうまいものでもないし。。。

現在、佳県でのナツメの作付け面積は45万ムー、年間収穫量約8000万斤(1斤=500g、つまり4万トン)。
すごい規模。。。



すごいっすよ! ネットで検索しても出てこない品名じゃ!
「澤檬」ですって。

いわくは、陝北の崖に自生する植物。食べ方は花をお椀にいれ、塩をふり、少し暖めた油を注ぎ込む。
この地方の主食である麺の具として食べるらしい。。




白雲観は、道教の中の一派、全真教の龍門派の道観である。
明の万暦33年(1605)、道士の李玉鳳の創始によると伝わる。

ところで、農業と遊牧業の境界線にある華北、陝北、甘粛、内モンゴルの南部などの地域では、明の万暦年間に建立された寺院が多い。

前述の佳県・香炉寺も万暦年間の建立であったことを思い出してほしい。
実はこれはただの偶然はなく、この時期に久しぶりの国交回復ともいえる平和が訪れ、民力が蓄積されてきたことと関係がある。

いわゆる「隆慶の和議」、その後の「三娘子」に負う所の大きい平和の時代である。
詳細はカテゴリー「楡林古城・明とモンゴルの攻防戦」シリーズを参考にされたし。
(文章も写真も多いので、「カテゴリー別 記事の早アクセス表」から入った方がわかりやすいかも)

つまり「隆慶の和議」以前、この地はモンゴルとの戦争の最前線であったが、
両国の国交が成立し、自由貿易ができるようになると、たちまち黄河の渡り口の宿場町として重要な交通要所になる。

佳城は、防衛のために壮絶な断崖絶壁の上に建てられた要塞であり、
平和な時代に黄河をわたるためだけにここを訪れた旅人、商人たちにとっては、
わざわざ這い登りたい場所ではなくなってしまった。

そこで渡り口の近くの山に建てられた大伽藍が白雲観だったのである。
中原と草原の中継貿易に従事する商人たちが、商売繁盛を願い、通るたびにお布施を落としていくには、恰好のロケーションとなったのである。



本来なら白雲観は、黄河を見下ろせる絶壁の崖の上に建てられ、急勾配を700段以上ある階段で登りきった後、
ぜえぜえと息を切らし、呼吸の絶え絶えに振り返って雲の間から隠れ見える黄河を一望し、ひと仕切り感動してから本堂に入る演出になっている。

ネット上のほかの方のブログから拝借すると、こんな感じらしいです。

http://blog.sina.com.cn/s/blog_4cf2fb5d01000awe.html



下のほうに遥かに山のふもとが見えるのが、わかるだろうか。

しかーし、現代はそんなしんどい思いをしたくないというわがままな人たちばかりである。
今はいきなりぐるりと山を回る立派な舗装道路が敷かれ、本堂の横に巨大駐車場を作り、大型バスでじゃんじゃん横付けできるようになっている。

私もいきなり大型駐車場に横付けされたので、700段の階段の存在も雲間に隠れる黄河も一切知らずに行って返ってきてしまった。

まるで学生時代に習った徒然草で馬鹿にされていた、石清水八幡宮を入り口だけで帰ってしまった人の逆バージョンか??


何はともあれ、駐車場と雲をつっきる階段の関係は、以下の地図に示すとおり。




駐車場を出たところにある広場。









入り口の狛犬。さすがに由緒ある道観の正門を鎮守するだけあって、
最近増えた(後述)おちゃらけ系ではない。

正統派だっす。

   

 





白雲観は大小の伽藍400余り、壁画1590枚、石碑100本という壮大な規模を誇る。

創建は明の万暦33年。道士の李玉鳳が来たことを機に大規模な建設が始まったといわれる。
当時、Jia州を鎮守していた明軍の総兵・張臣が、山主の牛登第とともに出資し、白雲観の最初の伽藍群が建てられた。

このように行政側と民間の寄付により、白雲観が形作られていった。
黄河の渡し口として、Jia州に豊かな財が落とされていたことを物語っている。

万暦46年(1618)、[馬又]馬太監の葉忠が本観にやってきた。
つまりは宦官である。

明代、皇帝らは官僚や武将を信用せず、その監視役のために自分の信頼おける宦官を派遣して、監査役とした。
そのうちに監査役がそのまま軍事を指揮することも出てきて、才能ある宦官は、けっこうな戦功を挙げ、大きな発言力を持つまでになる。

葉忠もそんな天子の覚えめでたい宦官だったのだろう。
ここでは、その経歴には深入りしないことにする。いずれの機会にまた。

葉忠は神宗(万暦帝)に奏請し、『白雲勝景』の天子直筆の扁額を頂戴してきた。
天子さまの扁額を賜ったことで、白雲観の名声は、黄土高原の内外に轟きわたり、
善男善女が、あちこちからつめかけて我も我もと寄付を投げ出し、さらなる大土木工事で伽藍が拡張されることとなった。

この時、李玉鳳が来てから13年がすぎていたが、伽藍の拡張は、その後も続けられた。

観内では、玉皇廟(道教における主となるお堂)と仏殿が隣り合わせに建てられている。
これはこの観の宗派である全真教の創始者・王重陽の提唱した儒教・道教・仏教の「三教同源論」を反映させたものという。





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