いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

麗江・歴史6、熱帯の風土病怖さに

2013年08月15日 21時48分31秒 | 雲南・麗江の旅
このルートは、四川からインドに通じる道、という意味で「蜀毒(インド)道」、または「蜀身毒(インド。この場合、Yan1du2と発音する)道」と呼ばれた。

漢代、ローマ帝国の使者が幾度か漢の都・長安を訪れているが、
その際、ローマの使者が通った道は、西域ルートではなく、この蜀毒道だったといわれている。


ところでこのルートが西域ルートと比べ、広く世間に知られずに漢代にまで至ったのは、なぜだろうか。
民間ルートの開通がいつだったか、はっきりした年代はわからないが、研究では少なくとも西域ルートより200年ほど早いのではないか、といわれているという。


それなのに、中原ではまったくその情報が入ってこなかった・・・・・。


理由はおそらく、当時の熱帯地方の疫病の恐ろしさではないだろうか。
マラリヤを筆頭としたあらゆる風土病が猛威を振るう熱帯地方では、よそ者がやってくれば、たちまち命を奪われる。
「煙Zhang(火章)之地」と言われ、恐れられた。

つまり西域ルートのように、一つの隊商が長い距離を移動してずっと運んでくるというパターンが少ない。
熱帯のジャングル怖さにその手前の町で商品を売りさばき、自分たちはそこから引き返してしまう。
熱帯エリアの運搬は、比較的免疫のある現地の人間が請け負うしかない。

最初から一つの隊商が運んだ方が利鞘は大きいに決まっているが、命には替えられない。

商品だけが渡ってきて、人が渡ってこないがために情報が伝わらなかったのではなかろうか。


しかし輸送コストという面では、西域より安上がりだったかもしれない。
というのは、道中ほとんど無人地帯を通ってくる西域ルートは、大規模消費に乗っかるということができず、どうしても融通が利かないが、
西南ルートでは、一部のジャングルや山脈のほかは、人間がうじゃうじゃ暮らす地域をずっと抜けてくる。
ほかの日常品とともに運ばれていけば、その流通規模の大きさからコストが自然と下がるのもうなずけるだろう。


   

揺れるしだれ柳が風情あるわー。


熱帯の風土病の代表といえばマラリヤだが、西南ルートでは最近まで次のような風習があったという。
「馬幇(キャラバン隊)」の馬追い人がジャングルの中で疫病にかかり、動けなくなってしまうと、仲間としてはもはや連れていく方法はない。
馬の背中には、馬が一日歩くにぎりぎりの重い荷物が乗っかっており、人間を乗せる余裕などとてもない。

その場合、病人を籠に入れて木の上につり下げ、干し食糧とともにおいていくのだという。
木に吊るされることで獣や蛇に襲われることはない。
キャラバン隊が荷物を送り終え、戻ってきた時にまだ生きていれば、そのまま連れて帰り、治療するのだという。


マラリアといえば清代、乾隆帝の元で栄華を恣(ほしいまま)に極めた和しん(王申)の弟・和琳(ヘリエン)が、熱帯でそのために命を落としている。
苗族の反乱の平定に向かった貴州で、自分を可愛がってくれた上司・福康安(フカンガー)とともに、現地で没した。

福康安は、乾隆帝が最も愛したといわれる孝賢皇后の末弟・傅恒の息子である。
若くして死んだ父の傅恒とともに、乾隆帝にれろれろに寵愛され、愛された、覚えめでたく、世の栄華を極めた人物だ。

その福康安がまず現地の灼熱と多湿な気候、過労のためにマラリヤにかかって死去、
その後を継いで軍の総指揮を執った和琳もほぼ同じ死に方をした。
こちらも乾隆帝が最も専横を許したといわれる権勢家・和しんの実弟である。

そのような富貴な二人でさえ、命を落としたのだ。
彼らの陣中での生活条件は、普通の兵士よりも格段に優遇されていただろうことは、想像に難くない。
その彼らでさえ病死してしまったということは、一般の兵士への脅威や如何に、ということである。



そんな300年前の例を挙げるまでもなく、第二次大戦中、日本軍の泰緬鉄道建設の際、連合軍捕虜を大量死亡させた悪名高き事件も連想できるだろう。
タイとミャンマーの北部、まさに「煙Zhang之地」で行われた過酷な労働のために、作業員が次々にコレラ、マラリヤにかかり、多くの犠牲者を出した。


ウィキペディア『泰緬鉄道』の一部を引用すると、


「建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うち1万2619人が死亡)、募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、
 ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、
 インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。

 建設現場の環境は劣悪で、特に工事の後半は雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求され、
 食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上り、戦後に問題となった。

 犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分と言われる。」


そのあまりの死者の多さから欧米では、「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られるという。





ワンコーナーに一軒はありそうな、太鼓屋さん



西南ルートの説明のためにえらい話が横道にそれた。

漢代に西南ルートの確保のために回廊のように細長く西に延びた領土、という版図は、その後の王朝にも継承されて、
唐も同じように西南ルートを抑えていた。

その細長い回廊領土の少し北に隣接する部分に「六詔」と呼ばれる原住民の小規模政権が林立していた。
「詔(チャオ)」は、現地の言葉である原始タイ語で「王」を意味するといわれる。

つまり大理のEr(さんずい+耳)海地区にかけての一帯だ。
麗江よりもやや南の地域である。


さらに北に行くと、チベットの強硬な王国・吐蕃があり、「六詔」はちょうど唐にとっては、吐蕃との間の緩衝帯になってくれる。
唐は吐蕃へのけん制とするためにも、立場が曖昧な小規模政権がうじゃうじゃあるよりも唐に親密な統一政権を作った方が軍事的に安心できると判断、
「六詔」の中の一国であり、最南端---つまりは、唐の西南交易回廊に隣接する蒙舎詔を支援し、その「六詔」の統一を後押しした(738年)。
南の詔国という意味で「南詔」と呼ばれた。

これによりEr(さんずい+耳)海地区(現在の大理周辺)への進出をねらっていた吐蕃の野望を
唐はかろうじて食い止めることに成功したのである。
Er海地区のすぐ南は、かの西南交易回廊である。
吐蕃としても、利益の大きいこの回廊の占領を狙わないはずはなく、なんとしてでも死守したい唐との間の駆け引きに南詔がうまく乗っかった形となった。


南詔は、白族の政権であり、その次の段氏大理国にも続いていく。

麗江や金沙江を挟んで北に位置する塩源などの地域にナシ族が暮らしており、どうやらここは、完全に南詔の領土とはならず、
立場を曖昧にしつつも一応は、各小部族が独立を保っていたようである。





古ナシの人々は、遥か青海高原から南下、漢代に麗江を中心とした地域に定住し、
地元の原住民と混血しつつ、今のナシ族が形成された。

唐代、古ナシのには3つの大きな勢力が形成されていた。

 梅氏: 金沙江流域(麗江より西北。)
 尤氏: 麗江湾の中(金沙江に鉤型に曲がった湾の中の地域)
 禾氏: 雅Long(龍+石)江流域(麗江の金沙江の対岸、東北)

位置関係は、乱筆で失礼ながら、下記の地図を参考とされたし。


ちなみに麗江の二大姓である木姓と和姓は、
尤氏が後に朱元璋から姓を賜って「木」姓となり(後述)、
「禾(He)」と同音である「和」になったのが、和氏ということらしい。



その中で禾氏は、雅Long江の流域から豊かな土地を求めて、次第に南下を始めた。
南に進み、金沙江にぶつかると、羊の皮の浮き袋でできた筏に乗って対岸へ渡り、ついにはEr(さんずい+耳)海の東側に出た。
南に下がるほど気候も温暖となり、芳醇な収穫を得られることは当然である。
禾氏はここに落ち着き、次第に豊かに、強大となり、国名を「越析詔」と名付けた。

さて。
Er(さんずい+耳)海といえば、その西岸には、かの大理城がある。
南詔の都であり、雲南で最も大きな勢力だ。


その南詔が、都の対岸にいつの間にか、新たに強大になりつつある勢力ができることを快く思うはずはない。
越析詔が強大になるにつれ、次第に危機感を抱くようになる。


これ以上強大になれば、今後はつぶそうにもつぶせなくなる、と感じた南詔王の皮羅閣は、
そうなる前に、と越析詔を攻撃し、金沙江の対岸の故地へ戻るよう追い立てた。


実際に戦いになれば、圧倒的な国力を誇る南詔と勝負になるはずもなく、
越析詔のナシの人々は、たちまち北に追い立てられていった。

皮羅閣は、自ら指揮を執り、禾氏らが金沙江を渡って行っても、攻撃の手を緩めなかった。
彼らが元住んでいた塩源の地まで追い込んでようやく追撃をやめたのである。
もう二度と、Er(さんずい+耳)海地区に戻ってこないように。










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