いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楠(タブノキ)物語2、永楽帝の神木群

2017年03月27日 17時04分08秒 | 楠(タブノキ)物語
楠木はその後の時代になると、四川、雲南、貴州、湖南、湖北、広東、広西などの奥深い山奥に分け入らなければ得られなくなってくる。
しかも時代を下るに従い、数はますます減っていき、伐採が難しくなるのである。
 
明代になった頃には、すでに「崖窮し、叡絶し、人跡罕(まれ)に至る地」
(絶壁のかなた、山の奥のさらに奥、人間がほとんど踏み入ったことのない場所)にしか残らない。
 
それにも関わらず、否、だからこそか、皇室以下、民間に至るまでの楠木嗜好が激しさを増す。
 
永楽年間にさら地から紫禁城を打ち立てる時、永楽帝は楠木の大木の調達のため、格別な配慮をした。
紫禁城の大部分の宮殿は、楠木をふんだんに使って建てられた。
その後の歴史の中で焼失してしまった建物、清代に建てられたものもあるが、現在でも文淵閣、楽寿堂、太和殿が楠木造りである。
 

永楽帝は周知のとおり、紫禁城の創建者である。
甥の建文帝から皇位を簒奪し、都を南京から北京に移した。

永楽帝の楠木調達には、「神木」群の話が伝わる。
 
永楽四年(一四〇六)、永楽帝は工部尚書(云わば建設省大臣)の宋礼に命じ、
紫禁城と陵墓の建設のために必要な建材の調達を命じた。
 
これまで見てきたとおり、最も困難を極めたのが、柱となる楠の巨木の調達であり、
宋礼は四川省の大涼山(現在の沐川県)の近くで、巨大な金糸楠木の群集を発見したという知らせを受け、大いに喜び、伐採の監督に自ら出向いた。

ところがいざ伐採しようとした前日、にわかに大雨とともに雷が轟き、巨木群は忽然と姿を消したという。
宋礼が絶望のどん底にいる中、なんと翌日巨木が川に浮かび、長江の主流に向かって首尾よく流れているという知らせが入った。

木の伐採から川までの運び出しには、大規模な人海作戦による困難な作業が伴う。
それが労苦なく完了したというのだから、「奇跡だ」とばかりに喜び、朝廷に上奏した。
 
永楽帝はこれを聞いてことのほか喜び、
「瑞兆なり。天が我れを助けた也」と賞賛した。

この金糸楠木の一群を「神木」と称し、
山は「神木山」と呼び、神祠を建てた上、毎年祭事を欠かさず、神に感謝したという。

金糸楠木の一群のために、その後引き続き川までの道路工事が行われ、川底を浚(さら)って木材の流し出しが可能なように整備された上、
支流から長江まで運び出し、沿海部で大運河に沿って北京まで運ばれた。


大木が忽然と消えて、次の日に川に浮かんでいた・・・・。
――そんなアホな、と思うが、その当たりは政治である。
 
昔から統治者に阿(おもね)りたい人が「瑞兆」と称して、荒唐無稽な「奇跡」を報告するのは、よく行われてきたことで、
要するに天下泰平だとほめそやすことが目的のおべっか、--「忖度」である。

永楽帝だって本気で信じちゃあいない。
 
本当かどうかなぞはどうでもよいのだが、この時期の永楽帝はあまりにも「瑞兆」を必要としていたのである。
それを察した追従者の助け舟といっていい。

皇帝はその当時、四面楚歌の苦しい立場にあった。
正統な皇位継承者である甥の建文帝を殺し、皇位を簒奪して皇帝になったため、小うるさい大臣ら、儒者らに責め立てられていた。
社会的な影響力を持った連中を殺してもさらに評判が落ちる、というアリ地獄の中で苦しんでいた時期である。
北京への遷都も南京では反対勢力の声が強すぎて、居られなかったという事情もある。

もちろん北京が元から自分の本拠地でもあり、
さらにはまだ強い勢力を誇るモンゴルに睨みを利かせる必要があるなどの諸々のほかの理由もあったとしても。
 
そんな中での「瑞兆」である。

自分が皇帝になったことを
「天が味方した」と天下に知らしめる絶好の機会ととらえ、プロパガンダに活用したとしても不思議はない。
 

この「神木」群は、北京まで運ばれ、紫禁城や陵墓の建設に当てられた。

皇帝一人を納める陵墓一つだけでも柱一万本が必要だったといわれる。
いわんや紫禁城を、である。

膨大な木材が北京に運ばれた。

大運河の終点は、北京の東郊外である通州、そこからさらに小型の運河・通恵河に沿って、北京城外まで運ばれる。
木材置き場には、この通恵河に沿った郊外の地が選ばれ、「皇木場」と名づけられた。
今でも同音の「黄木場」の地名で残る。

共産党政権になってから、人民の土地に「皇」の字はけしからんということで「黄」に変えられたのだという。
今では開発真っ盛りのCBD地区、国貿からやや東南に行った川沿いになる。

数年前に付属ビルが燃えさかり話題になった中央テレビの新ビル「大トランクス」も目と鼻の先、
今北京で値上がりが最も激しい一等地である。
 
その後、紫禁城や一連の首都建設が終わった時、
永楽帝は「皇木場」に神木群の中でも特別に立派な一本を残し、首都の「鎮城之宝」とした。

明代、北京に陰陽五行説に従った「鎮城之宝」をそれぞれ城の東西南北、中の五箇所に配し、城の守りとした。

楠木の「神木」は、その東の守りとなる。
 
東は五行の水、金、木、火、土の中の「木」に対応、北京城の東郊外「皇木場」の神木が北京城の東のお守り。
西は同じく「金」に対応、やはり城の西郊外の万寿寺に「華厳大鐘」を置いた。
今でも残る所謂、大鐘寺の「永楽大鐘」、重さ四十六トン、まさに城の「おもり」にふさわしい。

「永楽大鐘」は、製造当初は宮中にかけられていたが、
明の万暦年間に西郊外の万寿寺に置かれた後、清の雍正年間に東北郊外となる今の大鐘寺に移設された。
それ以来数百年変わらず、今も大鐘寺の鐘楼にかかっている。

次に南は「火」に対応、南郊外・良郷の呉天塔の赤土。
北は「水」に対応、昆明湖(今は颐和園)。
中は「土」に対応、紫禁城の後ろにある煤山(景山)となっている。

--この「鎮城之宝」という言い方は、清代になるといわれなくなる。

2つの王朝は、同じく北京に首都を置いていたのに、なぜだろうか。

作者が思うに「鎮城之宝」とは、明代の首都住民にとっては「精神安定のおもり」だったのではないだろうか。

北京城は、永楽帝の遷都当初、首都になったはいいが、人口も圧倒的に足りなかった。
そのため南京、蘇州から裕福な商人の家庭を大規模に強制移住させているほか、残りの庶民は山西などから強制移住させている。

爛熟文化の江南からいきなりモンゴルとの最前線に連れてこられたやんごとなき人々は、一体どういう気持ちだっただろうか。
長城からの黄砂も激しい空っ風の吹きつけるど田舎に連れてこられたことは、まだ仕方ないとしても、
いつモンゴルが攻めてくるかわからない地に住むことは、大いに不安だったにちがいない。

その思いは、兵役を務める兵士らも同じだっただろう。
「鎮城之宝」は、心理的なイメージによる精神の安定をねらったもののような気がしてならない。

四十六トンもある大鐘。
どっかーんとてこでも動かない安定感がある。

御神木も想像を絶する巨大さである。
そういう安定感のあるものが、四方と中心にどっしりとかまえてくれているというのは、人々の精神的な慰みになったのではないだろうか。
モンゴルという敵の最前線に住む自分を奮い立たせるため、いっしょに篭城するための道連れとして。

たとえ、自分の目で見たことはなくても、そういうものが東西南北と中央にあるとうわさに聞くだけでも、
とかくもふわふわと浮き立ち、逃げて飛んでいってしまいそうな気持ちを抑える「おもり」のような精神的イメージに、
人々は安堵感を覚えたのではないか。


「モンゴルへの恐怖心」克服が目的だったと考えると、清代になってその役割が必要なくなったことも納得できる。
何しろ首都の主である満州族は万里の長城の北から来たのだ。
北京は最前線でも何でもない。

「鎮城之宝」は、その歴史的役割を終えたことになる。
 
--神木はこうして「鎮城之宝」として、明朝一代の間、官兵が置かれ、守られた。
この御「神木」、どれくらいの巨木だったかというと、
木をはさみ、二人の人間が両方騎乗のままでも互いの姿を見ることができなかったという。

つまりは直径三メートル近くあったということだ。
樹齢は軽く数百年を越えただろう。
 



古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠

2017年03月17日 15時45分42秒 | 楠(タブノキ)物語
「承徳」は、遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって、「夏都」である。
夏と冬で統治者が都さえも移動させる遊牧国家の特徴を体現している。

北京から東北に150㎞。
「避暑山荘」は、紫禁城、円明園などの北郊外の別荘群に次ぐ重要な「陪都」に当たる。
しかし毎年使われるわけではなく、そして年中使われるわけでもない。

そんな中で乾隆帝は、歴代皇帝の中で最も足しげく通った皇帝である。
乾隆年間合計六十年、加えて太上皇となってからの三年を合わせ、即位以来六十三年のうち、五十四回訪れている。
一夏を過ごすためであり、大抵は旧暦の五月に入り、十月から十一月まで半年近く滞在する。
 
逆にいえば、一年の半分は使わない。

ここで行われるのは、清朝皇帝の草原の「ハーン」としての行事だ。
モンゴルや各遊牧民族の族長を一堂に集め、皆で「巻き狩り」を楽しむ。
「狩り」という遊牧民としての「本領」を確認し合いつつ、軍事演習も兼ねるのである。

夏の間、東はシベリアから、西は天山山脈の麓に至るまで、さまざまな遊牧民族が集まってきた。
清朝の皇帝が、農耕民族である漢族の長(おさ)としては決して見せない、別の顔をするための場所なのである。

承徳の「避暑山荘」では、春の皇帝の滞在前、
冬の間におざなりになっていた手入れの最終点検のために人々の動きは慌しかった。
 
留守部隊はもちろん置かれた。

熱河での巻き狩りの規模は、一万人といわれる。
大部分は、「避暑山荘」の周囲に営地を指定され、そこに天幕を張って滞在するが、「避暑山荘」の中も数百人は出入りするようになる。
 
準備作業のために事前に京師から先発部隊が送り込まれていた。
特に中原式の四合院様式建築の手入れ、掃除には、徒弟制度の中で鍛え上げられた宦官たちが必要になる。
 
これまでにも、清朝になってから、なぜ宦官の数を大幅に削減することができたか、という話題に触れてきた。
それは明代では宦官が引き受けていた皇帝一家の「お家事情」に関わる買い付け、
外部での交渉、表向きにしにくい所用なども「包衣(ボーイ)」と呼ばれる満洲時代からの家奴らが引き受けてきたからである。

が、部屋の掃除や雑用などの家事まではさすがに彼らにさせることはなく、明朝の伝統どおりに宦官を使ってきた。
いわば、家政業務のプロ集団である。
 

避暑山荘の「表の顔」は、「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」、
重大な式典を行う場所として、紫禁城の太和殿に当たるといわれるが、こじんまりとした雰囲気はどちらかというと、養心殿のムードだ。

紫禁城において、国家規模の大きな式典は壮大な「外朝」の「太和殿」で行われる。
数千人は入れるだろう果てしない石畳が続く広場は、紫禁城の象徴的なイメージともいえる。

その先に立つ太和殿には、さらにマンション四階分はあるかと感じる石段を延々と登り、
その果てには圧倒的規模で見る者を威圧する宮殿が目の前に開ける、という視覚効果と演出を狙った仕組みになっている。

数千年かけて練り上げられてきた中原文化の成熟した様式だ。
 
しかし清朝の皇帝らは、普段の大臣らの謁見にこの大仰な場所を使っていたわけではない。
国の一大事が決まる本当の「政治の中心」の場は、雍正帝以後は「養心殿」となる。
つまり皇帝の寝起きする「自宅」の応接間だ。

こちらはごくこじんまりした瀟洒で居心地いい建物である。
天井低く、床にはふかふかした絨毯が一面に敷き詰められ、壁という壁には、本棚やら飾り棚やら、隙間もないほど埋め尽くされている。
広さも謁見者が五人を越えるとやや手狭に感じる程度の大きさしかない。
 
広大な紫禁城の中で日常生活を送る皇帝は、実をいえばこのごく小さな空間の中ですべてを済ませていたのである。
朝起きて十数歩も歩けば行き着く応接間で政務も行い、
会う必要のある大臣らが謁見に訪れ、夜は指名した妃も招き入れられ、寝起きも済ませていた。
 

避暑山荘の「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」殿は、どちらかというと、規模や作りが養心殿系統である。

こじんまりと「我が家」風にまとまっている。
構造、造り、内装や飾りの雰囲気も養心殿そっくり。
「夏都」に移動しても、居心地がいいと感じるアイテム、空間の広さはほぼ同じものが揃っていたらしい。

では、太和殿で行うような荘厳な国家式典は、避暑山荘においてはどこで行うのか。
ここはあくまでも清朝皇帝が「ユーラシアのステップ草原の大ハーン」を演じる場所である。

そこはちゃんと演出が考えられており、避暑山荘の北部分には、広大な空き地が用意されている。
そこに巨大なハーンの天幕を張り、陣容を整えて式典が行われるのであった。
 
今でも避暑山荘を訪れると、事情を知らなければ無意味にしか思えないだだっ広い空き地が北部分に広がる。
実は往年、「空き地」は天幕と侍衛、馬にラクダに、と埋め尽くされていたのである。

さて。
澹泊敬誠殿である。

創建は康煕五十年(一七一一)だが、乾隆十九年(一七五四)に「総楠木造り」に改築された。
紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、
「楠木」はそれだけで富の象徴のため、一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。

日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。

楠(くすのき)は、木材の中でも最高素材とされる。

漢字の使い方にどうやら日中で違いがあるらしく、
中国語でいう楠木(ナンムー)は、日本語でいう楠(くすのき)ではなく、
日本では、正しくはクスノキ科のタブノキというらしい。

よって誤解があるといけないので、ここでは、タイトルも「タブノキ物語」にした。

ともかくも、「楠木」は、高級木材である。
木地に光沢があり、黄金のような輝きがあるものは特に「金糸楠木」と呼ばれ、珍重された。

澹泊敬誠殿ももちろん金糸楠木で出来ている。
木材の表面は桐油を塗りこまなくても渋く底光りし、使い込めば使い込むほど輝きを増す。

香りが強く、芳香のために防虫効果があるほか、冬は暖かく、夏はひんやりと冷たく、亀裂・変形なく、
硬すぎず柔らかすぎず加工しやすいなどの特徴は椅子、家具、棺おけとしてこれほどよろしきものはない。

後には西太后、袁世凱の棺おけも楠木製だったといわれる。
さらには大木となり、軸が真っ直ぐで節が少ない、水に強いために建材、造船材としても理想的である。

……というあまたある特徴のために、家具によし、仏像によし、棺おけによし、
衣装・書籍の保存入れによし、柱・梁によし、船によし、とすべての用途において万能である。

しかし建材、--特に大規模な建築物の屋台骨として巨大な建材の重さに耐え得る柱としての木材は、巨木でなければならない。

楠木は生長に時間がかかり、木材として使えるだけの太さになるには最低六十年はかかるといわれる。
ましてや宮殿の柱にしようという巨木は、樹齢百年以上、ひいては数百年のものでなければ、役に立たない。

ところが前述のとおり、家具、仏像といった小ぶりなものには、細い木でも充分に用が足りるため、
太さが足りないうちにさっさと伐採されてしまうのだった。

中原ではすでに漢代から楠木好みが始まる。
日本でも飛鳥時代までの仏像はすべて楠木造りだったといわれるが(平安時代以後は、ヒノキに移行)、
それは大陸の文化の影響を色濃く受けていたためだろう。

漢代、皇室の歴々方は浙江、安徽、江西、江蘇南部の山間部から楠木を伐採し尽し、ほとんど絶滅させてしまったといわれる。





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和[王申]少年物語65、公主らの短命

2017年03月01日 07時37分57秒 | 和珅少年物語
――これはいっそ、月月の反応も見た方がいいのではないか。
英廉は心を決めた。

年端も行かぬうら若い娘に自分で判断させるなどはろくなことにならないというのが、
この時代の多くの大人の見方であったろう。

それでも本人に幸せになってもらうには、自分で気に入ってもらうしかないと英廉は考えるのだった。
自らの決定の責任を取るという決心が本人になければ、二人の関係にも前向きに向き合えないだろう。

他人から押し付けられた結婚であれば、少しでもうまく行かないことがあれば、投げやりになってしまう。

――不謹慎ながら、今上の公主様らもご短命であられた。
英廉は乾隆帝の娘(公主)らのことを思い浮かべていた。

乾隆帝の娘たちの中で排行がついたのはこの時点では、九人である。
うち六人は乳幼児で夭折され、四人が成人されたが、二人が短命で命を落とされている。

一番年長の和敬公主は、モンゴル王公の色布騰巴爾珠爾(ゼプトンバージュル)に嫁がれ今もご健在だが、
皇四女の和碩和嘉公主は乾隆帝の愛妻、皇后フチャ氏の甥・福隆安(フロンガー)に嫁いだが、わずか七年で他界された。
十六歳で嫁ぎ、二十三歳までの儚い青春であった。

先日ももう一人他界されている。
七番目のお姫様・固倫和静公主様である。

ハルハモンゴル王公のラワンドルジに嫁がれたが、二十年の短いご生涯であった。

この時代の高貴な女性は皆短命かと言えば、そうともいえない。
前述のご年長の和敬公主は、この後も健在でありつづけ六十二歳で亡くなる。

一番のご長寿はなんと言っても乾隆帝のご生母、八十歳を越えても矍鑠とされている。


――やはり自ら望んで嫁がねば、本人にとって不幸だ。
英廉はそう考えるようになった。


高貴な女性たちが、望まぬ相手に嫁いでどうなるか。

自らも積極的に夫婦関係を円満にしようという努力もしないまま、
わずかな挫折でも急速に人生や生活への希望を失ってしまい勝ちなのである。

我が家はもちろん高貴なお上のご一家とは比ぶべくもないほどの平凡な家庭ながら、
少なくとも中流以上だ。
その階級の女性たちが世間にほとんど触れぬまま、あまりにも脆い価値観の中で育つことには変わりはない。

あどけなさが勝る我が孫娘を目の前に見るにつけても、英廉はそう感じるのだった。

「よし。爺爺(イエイエ)は決めた」
急に意を決したように叫んだ英廉を月瑶は一重まぶたのぽってりして目を見開いて見つめ返してくる。

「月月、婿によろしき相手を見つけたぞ」
月瑶は苦い薬でも突然口に流し込まれたような表情を浮かべた。

「そんな顔をするでない。
 心配せずとも爺爺は月月の嫌がる相手に無理やり嫁がせることはしない」







 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

 自家製の薬種

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