いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

陕西省西安・佳県などへの旅 記事の一覧表

2012年09月16日 16時06分29秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

陕西省西安・佳県などへの旅

   陕西省の旅を写真中心に、気軽に。

記事の一覧表:

 西安のイスラム・ストリートのB級グルメリポート:
    西安回民街1、緑豆の涼粉炒め、河魚の丸揚げ
    西安回民街2、餅の蒸し菓子「鏡Gao」、グルテン串、糸切りモチ
    西安回民街3、牛筋のコラーゲンゼリー固め、揚げ餅とナン、吹き飴
    西安回民街4、おみやげアイテム「影絵」、「兵馬俑グッズ」とチェ・ゲバラ財布
    西安回民街5、羊の頭の丸ゆで、西羊市の賑わい
    西安回民街6、北院門どおり

 佳県で黄河の絶壁に浮かぶ天空の寺:
    佳県1・黄河にはりついた町
    佳県2・香炉寺
    佳県3・ドラマ『血色浪漫』に思いをはせる

 文革時代に黄土高原の農村に下放されたちしき青年が、里帰りする旅。時のいせいしゃ、かの人もこの付近に下放されていたとか:
    里帰り1、30年変わらぬ風景
    里帰り2、村にプレート贈呈
    里帰り3、余興を披露


里帰り3、余興を披露

2012年09月03日 15時35分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
さて。皆が集まったところで、まもなく演目が始まる。

   





ここで始まったのが、もう一人のちしき青年出身の李さんの余興。
なんと彼の今の職業は、マジシャンなのだ。


   


村に帰った記念に、村人に手品を披露ー。
プロということは、余興とはいえませんな。












この後、白眉だったのが、孫氏の元同僚のM氏の歌声。
M氏は前述のとおり、えんあんの要職を務められるが、見事な「信天遊」を歌われる。

「信天遊」は、民謡と韓国のパンソリを足して二で割ったような歌い方といったらいいだろうか。
陝西の伝統芸能である。

民謡ほどあっけらかんとした高音ではなく、もう少し湿っぽいが、パンソリよりはメロディアスだ。


M氏は、地元・陝北の綏徳の出身。
陝北では、「米脂の婆息、綏徳の漢」といい、米脂は美人の産地、綏徳は好漢の産地という。
綏徳の男は、男の中の男というわけだ。

そんな陝北の本場仕込みの歌は見事であった。

「信天遊」は、パンソリと同じように、年輪を重ねるほど人生の味わいが加わって心に響く。
若造のあっけらかんとした深みのない歌声は、まったく評価されない。
その意味でも60を過ぎたM氏の芸は、すばらしかった。

ちなみにM氏は、書道家としても評価が上がりつつあり、
数年後に迫った定年後は、書道三昧の日々を楽しみにしているという。


実はこの後、私も歌を歌わされましたー(がは)
日本人が来たなら日本の歌を歌え、M氏に凄まれ、ご自身も歌われる以上、
とてもお断りできないような雰囲気だったので、
やむなく童謡の「ふるさと」をうたいまいた。




村人総出。







農家の庭に鈴なりの人々ー。

   


農閑期ののんびりした村の暇つぶしには、楽しんでもらえたような感じでした。


   










   

  
   


私は北京から女性たちにネックレスやイヤリングなどのアクセサリーを持参。
バンバン配りまくりましたー。喜んでもらえたよう。



こちらはM氏の奥様。


   


   





みごとに「非戦闘員」構成が多い農村。

   

何しろ男女とも45歳くらいになると、働き口も限られてくる。
稼げる年数は限られてくるから、都会に出稼ぎに行かないわけにはいかんのだ。


   


   





   


   

    

わんころ。






   



会場は、そのままだらだらと、井戸端会議に移行。
日向ぼっこはどこでしても同じー。


 







こういうイベントには、横断幕は必須。
ちゃんと用意してきましたよー。










ちなみにこの村は、みごとに皆「窯洞(ヤオトン)」という黄土に横穴を繰り抜いた伝統住宅に住んでいる。
アーチ型の門構えがその特徴。
もうたくとうが、えんあんの革命基地で住んでいたのもそういうヤオトンだ。
今回は、すでに何度もえんあんに来たことのある人たちといっしょに来たがために、
あまりにもオーソドックスな観光地には、連れていってもらえず、あえなく断念。











手品で出したお花をもって。

左端の別嬪さんは、M氏の姪御さんだそうな。
陕西はエキゾチックな美人が多いと思う・・・・・・・。

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里帰り2、村にプレート贈呈

2012年09月02日 15時35分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
孫氏、村人と話に花が咲く。












みごとに。若者は、まったくいませんな。
春節休みが、終わったところのこの時期、若者らは、すでにえんあんの町に働きに戻っているのだという。








    







さて。
孫氏とちしき青年の仲間たちはこの度、金のプレートを記念に作ってきたのだ。
それを村人らにプレゼントし、この村に自分たちの足跡も残した。

おもむろにそのプレートを持ち出す。





まずは皆で記念撮影。





書かれいている内容は。
「懐念何家村父老郷親(何家村のご老人と親しき人々を想う)」
1969年1月、6名の北京ちしき青年がここで労働にいそしんだことを記し、最後に6人の名前が記されている。




孫氏のほか、もう一人、今回の旅では、6人中2人が再訪。
残りの4人もプレートの制作費用は出したという。確か合計500元だったといっていた。

これない4人も村人への気持ちを託したというわけである。

なかなか粋な計らいではないか。


当時は、一つの村に大体4-6人程度の配属が一般的だったという。
写真を見てわかるだろうが、村人の人口規模などを見ても
(おそらくこの日は、歩ける村人は、全員出てきて、見物にきてまっす!)

外来人口で受け入れられるのが、せいぜいその程度の数だったことは、想像できる。
それ以上受け入れても、食べさせる能力に限界があるということだ。


ちしき青年らは、村の空き家を与えられて寝泊まりし、食事は各家庭の食卓に混ぜてもらい、
農民らとともに農作業に参加したという。



村の入り口でひとしきりおしゃべりやプレートのご披露が済んだところで、
今度は、少し高台にある村の書記の事務所兼自宅に行く。





村の書記は、村人ではなく、役人の系統から配属されてきて、数年ごとに変わる。
つまりここからさらに出世していく官僚さんだ。




一番左の人。まだ若い人ですな。


高台の書記のお宅もほかの農家と同様、家の前に大きな庭がある。
農作業などをする場所でもあり、村の集会所にもなっている。



女性たちと情報交換。








若いお母さんと子ども。

 
  

きびしい冬に風邪をひいては大変だから、もおおおもこもこに着込んでおりまっす。

   



帽子も必須。耳から風邪ひきますからな。

   

はいている靴もどうも手編みっぽい。母の愛。





左の人が、もう一人のちしき青年出身。
この村で2年を過ごした後は、西安の文工団に就職先を求め、西安で過ごしたそうだ。
そこで若者どうしの紹介で同じ北京出身の今のおくさんと知り合って結婚。

この時期のちしき青年らは、北京に戻るために、絶対に現地の人とは恋愛しないよう、心に誓っていた人が多い。
それは自分が北京に戻りたい時、相手が完全に外地の人であれば、北京戸籍の取得がかなり絶望的だからだ。

北京からのちしき青年であれば、戸籍が戻してもらえる可能性はまだ高い。

こうして北京出身のちしき青年同士が結婚し、とりあえずは西安で暮らし、北京に戻れるチャンスをうかがっていた。
先に戻ったのは、夫のほうである。

彼は道路掃除の枠が空いていたので、それに応募し、北京に戻ることができた。
本来ならあまり人がやりたがらない仕事だが、とにかく戸籍を取得し、戻ることが先決だ、と考えたのである。

そこから奥さんと子供を西安から呼びもどすには、何年もかかったという。
毎月の給与から少しでも多く西安の家族に会いに行くための旅費をねん出しつつ、
おくさんの北京の受け入れ先の職場を見つけるためにあちこちに運動する資金もいる。

数年後にようやく家族が北京でいっしょに暮らせるようになったのだという。




右の方は、孫氏がのちにえんあん文工団に職を得た際の元同僚のM氏。
今では、えんあん市の要職につかれている。
今回は、孫氏の里帰りのためにいろいろと手配してくれたという。








村人らが、どんどん集まってくる。







   


   





   


   


   







   


   


   





   

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里帰り1、30年変わらぬ風景

2012年09月01日 13時22分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

さて。

次はどこのデータをアップしていこうか、と物色していたら、
ある記事を読んで、おおお!と、思い出したことがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20121105/239069/

私が友人らの一団にくっついてこの旅に参加したのは、2011年の春節明けなのだが、
その時に話されていた内容を思い出したのである。

先日、「燕翼堂義塾」の記事にも書いたとおり、この旅は、
一団のメンバーの一人、画家の孫大立氏の下方先の里帰りに同行したものである。


北京出身の孫氏は、まさに文革の下方世代。
十代の後半にえんあん郊外、今では車で30-40分行ったところの何家村に下方された。

そこで2-3年を過ごした後、今度はえんあん文工団に美術係として職を求めて数年。

そのあたりですでに文革は終わり、知識青年らは、それぞれに伝手を求めたり、
運動をしたりして、何とか北京に職を求め、北京戸籍を取り戻して帰って行ったが、彼はそれでも帰れなかった。

今度は邯鄲(河北省、北京の南)に配属され、ついに最後まで北京戸籍をもらえず、外地戸籍のまま帰還。
90年代も後半になり、ようやく北京戸籍を取得した、というかくめい的な経歴の人である。


その孫氏が、30年以上ぶりに下方先に「里帰り」する、というのが、
今回の旅の大きな目的であった。
我々は、それに野次馬的に同行したということである。

その際、皆の会話の中に、今回のたいかいで新たにリーダーとなったしゅう氏も当時の北京ちしき青年の仲間であり、
彼が下方されていた村は、数kmしか離れていないところだった、という内容があり、皆で沸き立った記憶があった。


上記の記事には、これからのリーダーは、せんせい閥--つまり、内陸部に下方された経験をもつ世代がけん引する、というようなことが書かれており、
「おお。まさにあの村のような環境で青春時代を送った都会の青年ら」
と印象深かったのである。

そのせんせい閥が、青春をどういう場所で過ごしたのか。
村は違えど、おそらくよく似たようなものだろう。
この一群の写真が、その想像に少しでも役立つのではないか、と私は信じる。




北京からちしき青年らが帰ってくるということで、村人らが村の入り口に集まる。




孫氏。まずは記憶の確認。
あなたは、どこどこのばあさまの誰で、と自分が当時、知っていた人とつながりがあるかどうかを確認していく。











   


村人たちが、わさわさと集まってきます。





何家村は、かくめいの聖地えんあんからどうやっていくかというと、
まずはえんあん市内を出て、国道を一路北に進んでいく。
車で15-20分ほど走った後、国道からごく小さな道を西側に入っていく。

ここからがすごい。
山の谷間沿いの道は舗装なく、がたがたぼこぼこの壮絶な路面だ。
これを延々と谷間を縫うこと20分近く。
谷沿いにいくつかの村が現れるが、何家村は、そのいくつか目の村だった。


    


    

2月。河はまだ凍っている。










ちしき青年らが、この土地を離れ、30年以上がたった。
北京といわずとも、わずか20-30kmほど離れただけのえんあんは、ビルの建設ラッシュ真っ盛りだ。

石油・石炭などの地下資源景気で、陝西では大量の成金がマンションを買いあさり、高級ジープを乗り回す。

そんな下界の喧騒から、この村は完全に無縁だ。
唯一、変わったことといえば、若者らが都会に出ていき、村には婦女子・老人・子供・障碍者しか残っていないことだけだ。

村の風景は、おそらく孫氏らがここにいた時と何らかわらないだろう。














鶏たちに人間が飼料をやることはない。
鶏らはその辺を自分でかけまわり、勝手にわらや虫を食べて自力で生活する。
















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佳県3・ドラマ『血色浪漫』に思いをはせる

2011年10月03日 19時15分39秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
つくづく段差の大きい街である。

   


   


いわゆる黄土高原に特徴的な「竈洞(ヤオトン)」の家々。

   


   

実は最近みた中国ドラマのDVD『血色浪漫』の農村下放のシーンも佳県で撮影されたと知り、おおいに感慨を覚えた。

「時伝祥」の絡みから、もう少し解放初期や文革時代の雰囲気をつかみたいと思い、手にしたDVDだが、
偶然にも佳県とも縁が深かった。

あいやー。
しかし見出すと、恐ろしい。

何しろ32集あるのだ。
単純に休みなしで見続けたら、32時間!


面白くて、スケールの大きさにも圧倒されてハマッてしまい、朝5時までを連続二日!!
浮遊する鬼のようなぼろぼろの面相になったっちゅうの。。


それはさておき。
ドラマは北京市内での中学生らのけんかに明け暮れる生活から始まる。
主人公・鐘躍民は、政府高官であり長征を勝ち抜いてきた「老紅軍」を父に持つが、おりからの文革で幹部という幹部が皆、嫌疑をかけられる中、
躍民の父親も取り調べのために監禁されたままである。

その雰囲気は、90年代の映画、姜文・監督の『陽光燦爛的日子』とほぼ同じ線上にあり、政府高官、軍人の子供たちの退廃的な日々を描く。

文革で大人たち、特に父親たちはほとんど監禁されていて家におらず、
学校は授業がないので、子供たちは毎日ぷらぷらしたり、自分の父親が批判される集会を見に行ったりする。

誰も管理する大人たちのいない中、武闘、けんかに明け暮れる。
それぞれ空軍、海軍、陸軍などの施設内「大院(ターユエン)」で育ち、徒党を組み、数百人単位の大乱闘を繰り広げたりもする。

軍人は他の庶民とは待遇も違えば、社会的地位も違い、社会とは違う警察組織を持ち、
その師弟らも将来を約束されている。


彼らのステータスは、唯一の西洋料理レストランである「莫斯科餐庁(モスクワ・レストラン)」、通称「老莫」に出かけることだった。

食糧配給制の時代にありながら、ここでは現金で支払うことができた。
但し、値段はべらぼうに高い。

5-6人で食べれば、10元くらいかかったというが、
当時の平均的な工場労働者の平均給料が20元ほどだった時代だから、とても庶民のいける場所ではない。

当時、軍人の給料は100元近くあるほか、各種生活用品の支給も多く、ほとんど現金を使う機会もなかった。
しかも父親たちは、監禁されてほとんど家にいないのだから、現金は子供たちが好き勝手に使っているという混乱の極みである。


中学校・高校を卒業すると、多くの学生らが農村に下放されたが、下放よりずっと待遇がよかったのが、
軍隊に行くことだ。下放されると、戸籍まで農村に移され、都会に戻ってくることは難しい。

軍に行けば、その問題はなかった。

生活用品が支給され、給料も少ないながら出る上、食事もよかった。
下放されれば、給料が一銭も出ないだけでなく、炊事も自分でし、飢え死に寸前の食糧しか与えられない。
農作業の労働がきついことは、いうまでもない。

ドラマの中では、躍民の恋人・周暁白は、父親が批判されていない現役の軍人高官のため、
その師弟ということで、何の障害もなく、当然のように軍隊に入隊する。

鐘躍民の父親は建国前からの軍人幹部なのだが、何しろ監禁されたまま、取調べが終わらない。
同じ敷地内の悪ガキたち数人の父親も同じ理由で監禁中だが、ある日その一人の父親は、
晴れて嫌疑が晴れ、名誉回復となってひょっこりと家に戻ってきた。

このタイミングで卒業時期を向かえ、それぞれの学生の運命が分かれる。
父親が現役か、名誉回復となった家の子供は、晴れて軍隊に入隊でき、嫌疑が晴れない父親の子供は、農村に下放された。

こうして主人公・鐘躍民は、陝北の黄土高原にやってくるのだ。

登場人物らの名前も思いっきり時代を反映していて、面白い。
「鐘躍民」の「躍」は、もろに「大躍進」を反映しているし、「黎援朝」なんちゅう名前も出てくる。
朝鮮戦争の参戦当時の熱を伝える。





食事をしようとしたら、ちょうどレストランで結婚式を挙げるところ。
招待客が次々に二階に吸い込まれていく。







楽隊が呼ばれていた。





機材もなかなか本格的である。




レストランの前でまずは演奏。町の人たちにひとしきり楽しんでもらう。




    








    




佳県では旅仲間の中国人の友人が、知り合いを訪ねた。
もう何年も前に佳県を訪れた時に知り合った人であり、長年連絡が途絶えてしまったため、電話番号さえもわからない。

わかるのは、確かあの通りからあの横丁を入っていって、左側にある家・・・というような、おぼろげな記憶だけだ。

そのように連絡もなしに唐突に訪ねたもので、残念ながらご本人は留守だった。
ご家族が顔を覚えていてくださり、暖かく迎えてくれた。

韓海燕氏は、佳県でボランティア塾「燕翼堂義塾」を開く。
2001年から自宅の一部を開放し、町の子供たちに古典を教える。

教材は所謂、儒学の教養に必須の『大学』、『論語』、『中庸』、『孟子』、『老子』などであり、
教え方は、日本でいえばいわゆる昔ながらの「寺子屋」スタイル。

先生がまず「子のたまわくー」と読み、それを子供たちが後から大きな声で続けて朗読する。
意味を教え、あとはひたすら朗読、暗誦である。




自宅の一角を開放。




庭にある孔子像は、韓海燕氏の精神に賛同した有志の士からの寄付である。


    

教室の入り口ののれん。陝北らしい雰囲気を出す。




教室。週末の2日間、夏休み、冬休みに開講する。


中国では五四運動以来、儒教的な素養が否定され、文革ではさらに徹底的に否定されてきたために、学校の教科書で本格的に教えることはない。
別に禁書となっているわけでもないが、基礎教育として重視していない。


韓海燕氏は、佳県で代々、知識人を輩出する所謂「書香門弟」の家庭に生まれた。
清代は数々の書道家を出し、韓氏も定年退職するまでは、県の文化館に勤め、機関紙などへの執筆も担当してきた。

佳県という地方都市の中では、有名な町の名士、知識分子といえる。
そんな韓氏が自身の素養に疑問を持ち始めたのは、80年代であったという。

1981年、陝西省作家協会が旅行を組織し、皆で四川を旅した。
そこで楽山の大仏を見ても、傍らにある石碑の文章の意味がわからず、杜甫草堂へ行っても対聯の意味がわからない自分に気づき、愕然とする。

所謂「国学」つまり、儒教的な素養を学んでいない自分は、
祖先の軌跡さえ理解することができないことを改めて認識したのである。

さらにそれから何年もたち、今度は老年期に入ってからである。
ある時、孫娘を学校に送りにいき、再び暗澹となった。

先生たちが子供たちに読み上げているのを聞くと、「小花、小草、小猫」と言っている。

韓氏は自身の小さい頃の記憶をたどり、自分も小さい頃は、
「大羊大、小羊小、羊喫草、牛喫草(大羊は大きい、小羊は小さい、羊が草を食べる、牛が草を食べる)」といった、
ごく低レベルの文章しか学んでこなかったことを思い出した。


だから大人になってから自分は苦労した、と。

高度な思考を表現しようと思っても、それにふさわしい次元の言葉を持っていないがために。
人生の困難に突き当たった時に方向を示してくれる軸の思想を持たないがために。


自分の世代は無駄に過ごしてしまったが、若い世代までこれ以上無駄に過ごさせるわけにはいかない、と韓氏は一念発起。
2001年から自宅を開放して「国学」を教える小学生向けの教室を始めた。



当初は「何を始めたのだ」と周囲から奇異な目で見られていたが、
この教室から巣立っていった子供たちは、なぜか成績がよくなる。

おそらくは、暗誦による頭脳の活性化、高度な哲学という子供には消化不良なほど難解な条理を理解しようとすることにより、
理解力が高まるからではないか、と考えられる。

また物怖じをせず、人前で堂々と発言できる子供が多い。
暗誦という成果の発表の場で、人に見られることに慣れているからだろう。


2006年、「楡林市文化芸術節之白雲山論道」の文化イベントでは、義塾の子供たちが
「童子誦道」で古典の暗誦を披露し、全国各地から集まった来賓から絶賛された。


北京から出席したある老教授は「我々が長年軽視してきた中国古代文化の真髄がこんな辺鄙な場所で
継承・普及させているとは、なんというすばらしい功績だろう」と感慨深げに語ったという。


このような評判が広がるにつれ、韓氏とその一家の活動は次第に社会の注目を集め、多くのメディアの取材を受けてきた。

ボランティア教師には、一家が総出で参加する。
息子、息子の嫁、娘が教師を勤め、定期的に国学に関する学術的雑誌も刊行する。


2008年の夏休み、韓氏は楡林でも教室を開こうとした。

楡林市はこの地域の中心都市でもあり、佳県のほかにも義塾の活動を広めたいという試みであった。
しかし残念なことに教室の場所を確保することができなかった。

そこでやむなく市の中心にある市民の憩いの場・世紀広場で野外教室を始めた。

子供たちの朗読の声は、広く市民らの注目を惹きつけ、日を追うごとに参加する子供たちも増えていった。
父兄もいっしょに朗読に参加したり、朝の体操もそっちのけで参加する大人たちも多かったという。

小さい頃に学んでいないので、こうしてあらためて学ぶと、教えられることが多い、と大人たちもいう。


中国を立ち遅らせた功罪は儒教にある、その復活は後退だ、と批判する意見もある。

その中で韓氏は、こう考える。
今の子供たちは受験勉強ばかりに追われ、人としてどうあるべきかという指針を教えられない。
だから青少年の非行、自殺、殺人がおきる。

必死に受験戦争を経て大人になっても、人としてどう生きていけばいいのか、わからない、と。


天安門に孔子像を立てられたかと思うと、先日それが撤去されたり、国全体が孔子に象徴される儒教的素養を
どう位置づけるか、評価に揺れている最中でもある。
その中で陝北の一角から、韓氏の活動が、静かに波紋を投げかけている。

友人と韓海燕氏の出会いは、道端である。
北京から訪れた友人が、佳県の街中を歩いているところを、韓氏から声をかけられた。

もしそちらの方、非凡なるたたずまいでおられるが、お知り合いにはなれますまいか、と。
もうこうなると、武侠小説を地で行く世界であり、聞いていてくらくらする。


沿海部の大都市から来た人は、あきらかに雰囲気、服装も垢抜けており、一目でそれとわかる。
さらにアート系の仕事をしていれば、あきらかに違いがわかるのが、中国のアーティストだ。

日本ではアーティストだからといって、あそこまで一般人との違いはわからないぞ、と思うが。。
不思議だ。。



・・・と、いうことで、ご自宅まで案内され、親交を持ったという次第である。

しかし何年もたった後の今回の訪問は、予告なしの突然なものだったため、
生憎韓氏は楡林に数日の出張に出ており、電話でお話することしかできなかった。


代わりにご夫人、息子夫婦が応対に出てくださり、香炉寺・白雲観(後述)にも案内していただいた次第である。


注: 以上の韓氏に関する紹介は、直接ご本人からお話を聞いたわけではなく、
主に『歓楽大侠のブログ』の出典である。
私の中国語の理解不足により、正しく解釈していない部分があるかもしれない。




さまざまな紹介パネルが教室に並ぶ。


今回の陝西への旅は友人であり、最近中国画で名が売れつつある画家の孫大立氏の
下放先への里帰りに同行する旅でもあった。
5-6人から成るメンバーに私も混ぜてもらった形である。

知識青年として延安郊外の農村に下放されていた孫大立氏の延安里帰りは、いずれまた紹介したい。
孫氏、儒者の韓海燕氏のご家庭と塾の雰囲気に感化され、絵を贈呈したい、とのたまう。

韓氏のご子息も書道家であることもあり、ご自宅には墨、絵の具の類は揃っており、
早速、書斎を拝借して創作に取り掛かる。








真剣そのもの。



即興で絵、書を残してゆく中国的な伝統を目の当たりにし、素直に文化の奥深さを感じてちょっと感動。
中国画は、書道と同じで普段からの鍛錬で一気に自分らしいライン、タッチを描いていく。

ものの数分で仕上げてしまうので、簡単そうに見えるが、生涯をかけた人生経験の深みがその背景にはある。
そして高度な集中力。やや血圧も高気味の孫氏、精神を集中させるとかああっと心拍数が上がり、
何度も心臓を押えて深呼吸をしつつ、気を整える。

周りに我々野次馬も控えて見守っているから、余計緊張する。我ら、悪気はないのだが。。。


このほかにも合計3作品。孫氏らしい瀟洒なる味わい深い作品だ。



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佳県2・香炉寺

2011年10月02日 18時00分24秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
城の東外に香炉寺があるというので、連れて行ってもらった。眼下には、黄河が広がる。







    

崖に張り付いた民家の間を走る小道を降りていく。




まさにつづら折り。




崖の途中にも民家が。




わわわー。霧の中に黄河にかかった橋を発見! かなり興奮。。。







佳県の旧城には、合わせて8ヶ所の城門が開いていたという。

東側には、「前炭門」と「後炭門」。

西から来るには、厚く覆い重なった山脈の遥かかなたにあり、東には黄河が道をふさぐ佳県。
炊事と暖房に欠かせない石炭を運び入れるのに、どちらのほうがましだったかといえば、
黄河側から引き上げるほうが労力が少なくて済んだ。

このため石炭は陸地からではなく、河からやってくる。
それを運び入れる城門がこの二つの門である。

逆に水は、「黄河」の名のとおり黄土で濁った黄河の水よりは、支流の佳芦河の水のほうがまし。
そこで城の西側に「前水門」と「後水門」を設けた。

香炉寺の参拝のためには「香炉寺門」。
このほかにも伝統的な風水のルールに則った正門である東、西、北の三門を合わせ、合計8門。


その中で最も保存状態がよいのが、これから向かう「香炉寺門」だそうな。


これ。道といえるんしょうか。すんごい勾配なんすけど。。滑り落ちそう。。

   




再び、民家丸見え。





   

先を歩く知り合いの二人。


   

降りて来た階段を振り返る。


   

貼りつき民家。段差が激しいので、階段が頻繁に。

   
ふえー。どこをもぐっていくの。


   

あいや。これが香炉寺門でしたか。

 
   

石畳は風情がある。。。


香炉寺の創建は、明の万暦11年(1583)。

最大の特徴は、細く高い岩を陸地と橋でつなげた絶壁の上のお堂である。
その岩が脚の高い香炉のようなので、「香炉寺」という。

ネタばれになってしまうが、まずはその形状を見ないとわかりにくいので、
ネットからよく撮れている写真を転載。

以下のとおり。



黄河をバックにした幻想的なこの風景が「佳県八景」の一つ、「香炉晩照」。
「八景」のそのほかの7つは、
「白雲Chen(日の下に辰)鐘」、「雁塔凌去」、「飛来踏雪」、「南河春柳」、「横嶺秋月」、「鹿洞尋幽」、「滴水観魚」。


ううーん。「白雲」は、後述する大規模な道観の白雲観、「塔」は城内にある凌雲鼎なる明代の古塔。

確かに香炉寺と合わせ、この3つは佳県にしかない名跡だが、残りの5つはすべて自然の風景。
言ってみれば、どこの田舎に行っても転がっているようなもの。

こじつけに過ぎないか。。。
とも思うが、そもそもなんちゃら八景というのは、日本でもそうだが、
名勝地か、人の往来の激しいところであることが多い。

わが故郷・滋賀県の「近江八景」などは、あきらかに
東海道の宿場町だったために商業戦略的に売り出されたもの。

佳県も黄河の渡し口の宿場町という顔もあったことが、この「八景」により裏付けられる。




城門を出ると、香炉寺の手前に広がるのは、大きな広場。野外舞台が立つ。
縁日などで地元の伝統劇でも上演するのだろう。

コンクリートの新しさから見て、最近整備されたっぽい。




後ろを振り返ると、さっき通ってきた城壁の「香炉寺門」と城壁の勇壮なる姿が見える。

うおー。やっぱ、かっちょえええー。

カーブを帯びたムードがどちらかというと、ヨーロッパの城砦に近い。
中国の城は、普通は伝統的な風水のルールに則り、曲線なしの直線と直角のフォルムが中心。
戦略的に山の地形をそのまま利用するのが、最も敵を寄せ付けない山城ならではの風情。



灰色のレンガと土色のレンガがまだらになっているのは、灰色レンガがあとからの修復なのだろう。
城壁のレンガは、今では城付近の庶民の家であちこちで活躍する。家を新築する際に北側の壁となり、

トイレ、ブタ小屋、トリ小屋、犬小屋、とどこでも活用されている。
修復した部分を灰色レンガにしたのは、元のレンガに似せたものを使うには予算が高すぎたのだろうか。
でも私は、この古今の違いがコントラストとして認識できる、こういう形は嫌いではない。







向こうの方は、ほとんど灰色レンガだから、新たに建てた部分。後で連れて行ってもらうことになるが、
香炉寺の全貌を見れる展望台になっている。冒頭の幻想的なる写真もそこで撮ったものだろう。

つまりは観光整備としては、マストなアイテム。思い入れのある要素なのだ。


ふおー!! 黄河が近い!! 大興奮!




下を見ると、すんごい断崖絶壁。勾配が半端じゃない。









抗日戦争の際、対岸である山西省まで来ていた日本軍が、ここから黄河を渡り、陝西に入ろうとした。
佳県の城砦を落とすため、断崖の下から砲弾を浴びせかけたが、城壁に浅い穴をぽこりと開けただけで、ぴくりともしなかった。

城壁は硬い岩壁と一体化しているため、少々の砲弾を浴びせてもまったく微動だにしない。

黄河側からの攻撃をあきらめた日本軍は、西側から攻撃しようとしたが、西側は複雑な山脈で守られており、
近づくこともできない。

そこで峰を一つ越えた向こう側から砲弾を飛ばして攻撃したが、見えない場所に照準を合わせることが
できるはずはなく、城砦に決定的な打撃を与えることができず、あきらめたという。

・・・・こうして日本軍の陝西進出の野望が砕かれた。


まさに「鉄Jia州」の呼び名にふさわしい。







新しく修繕した城壁の上に展望台のあずま屋が見える。







はるか向こうには、佳臨黄河大橋が見える。対岸は山西省臨県。その先に省都・太原がある。


香炉寺の入り口



ここにもあざやかな文字飾りが。やはり白雲観の道士に書いてもらったものだろうか。

「寺」といえば、仏教ではないか、道教の道士に書いてもらったものなどいいのか、と思うが、
儒教、仏教、道教の融合化、一体化は宋代から進んでおり、あまり厳密に分けて用語も使っていないらしい。

日本も明治の仏教と神道の分離までは、かなり曖昧だったのだから、同じようなものだろう。




みごとな絞り染めー。こういう原色は、どこまで見渡しても土色一色の大地、特に冬には、はっと目を引きますなー。
風土によく合っていると思う。

    

竜王廟。



竜は水との関わりが深い。黄河のほとりに立つ祠(ほこら)としては、治水の神様・竜王の廟があるのも納得。



資料を調べていると、かの中国映画の第五世代監督のグループを有名にした映画『黄色い大地』の撮影は、
この辺りの黄土高原で行われ、彼らが揃ってここでおみくじを引いたという。


文革終了後、初めて復活した大学入試で入学した北京電影学院・監督科の卒業生から逸材が
ぞろぞろと生まれたことはよく知られる。


『黄色い大地』は、監督・陳凱歌、カメラマン・張芸某、美術担当・何群、音楽・趙季平の4人が参加して撮った。

香炉寺で引いたおみくじの結果は、4人ともが「大吉」。
(・・・・・おみくじのほとんどが「大吉」だった疑いもあるけど。。。。。)

その霊験からか、1984年の「金鶏賞」は4人が総なめにしたという。
中国国内の映画賞で最も権威のある賞である。

今ではそれぞれに中国映画界の押しも押されぬ大御所になっている4人。
無名の頃のそんなエピソードは、感慨深い。




向かいは影壁でバランスを整える。




その隣の院はどうやら事務所か。人影なし。


佳県の城壁が如何に難攻不落かをあらわすエピソードは、前述の日本軍による攻略失敗のほかにもある。

ごく数十年前の文革のことである。革命派の一派が県城を占領し、別の革命派がこれを攻め落とそうとした。

攻める側は、楡林地区(佳県も楡林地区の県の一つ)の13の革命派の連合体を作り、攻め落とそうとしたが、
所謂「銃、弾薬」などの近代的な武器を駆使してもまったく歯が立たなかったという。

文革ではまさか大砲までぶっ放すことはしなかっただろうから、大砲さえかすり傷しか負わせられないものを
落とせなかったことも充分に納得がいく。




真ん中の事務所らしい空間。


  

門構えに風情ありー。


  

どうやら娘娘廟の場所、そして絶壁の観音廟へ続く院へ


  

院の中央には、石の牌坊あり。



どうやらこちらが娘娘廟ですな。

「娘娘」は母のこと、子作り祈願、疱瘡治癒祈願などの成人女性に深くかかわりのあることを祈る。
現地の女性たちの信仰の対象といったところ。
仏教というよりは、道教の神様である。ここは「寺」と名前はついているが、
やはり民間信仰の濃厚な道教寄りの存在だ。


西側の建物は、「寄Ao亭」。



絶壁へと続く門構え。




毛沢東、周恩来らの共産党指導者がかつて、ここ佳県に3ヶ月ほど滞在している。
滞在場所は城内ではなく、佳県下の各農村である。

1947年、国民党は共産党の拠点であった延安を本格的に攻撃し、共産党はすべての部隊を延安から撤退した。

軍隊だけでなく、学校、病院、劇団などのあらゆる施設を抱えた延安陣営が一緒に移動したわけではなく、
いくつもの集団に分かれ、ルートを分けて移動したのだが、毛沢東、周恩来らの首脳集団は、佳県で105日を過ごした。


この間に国民党の胡宗南の部隊との重要な戦役・沙家店の戦いに勝利し、佳県の滞在期間中には、
『中国人民解放軍宣言』、『中国土地法大綱』等の数々の重要な文書を発表している。

佳県での滞在期間中に香炉寺も訪れた。

眼下の黄河の雄姿を目の当たりにした毛沢東は、「昔から黄河は百害あって一利なしといわれてきたが、
この言い方は変えねばならない。抗日戦争中、黄河は日本の帝国主義を我々の代わりに阻止してくれたではないか。

この点だけでもその罪を贖うに値する。
「将来、全国を解放したら、黄河に橋をかけ、交通を発達させ、
黄河の水で畑に水をやり、発電を起こし、人民に幸せを作り出さねばならない。」
と、建国の事業に思いをはせたという。




1mほどの幅の橋で結ばれる。


    


その前にもう一度、前方の院を撮影。




石の牌坊の正面。




東側の建物も祠(ほこら)になっている。




    


黄河にわたる橋をバックに。




    
   

足すくむ祠(ほこら)をあとにし、境内に戻る。




おお。城門は、やはり外から見たほうが迫力がある。一見、中世ヨーロッパの城かと錯覚する。
修復・整備した時にもそれを意識してか、街頭がちょっと中国らしくない。。




   


   

   



さて。やってきたのは、向かい側にある展望台。ここから香炉寺の姿が最もよい姿で一望できる。

こうしてみると、あらためてその奇景を認識。




   


この類を見ない奇景が映画・ドラマに利用されないはずはなく、数々の作品のロケ地に使われている。
チャンツイー主演『臥虎蔵龍(グリーン・デスティニー)』のラスト・シーン。

若い恋人同士が武当山の絶壁から飛ぶシーンがあるが、実はあれはここで撮ったという。
設定にある武当山は、今回の高速鉄道事故で有名になった浙江省・温州に近い沿海部だが、実は陝北のような奥地で撮られたのですな。


   

展望台へと続く道。きれいに整備されている。








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佳県1・黄河にはりついた町

2011年10月01日 14時43分06秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

陝西省・佳県。
山西省との境界線を成す黄河の南北の真ん中辺りにある。支流の佳芦河が
黄河に注ぎ込む角の高台の上に作られた古い要塞の町である。




西から黄河に注ぎ込む佳芦河が上流からじゃんじゃんと黄土を削り取って黄河に注ぎ込むからか、
ここは黄河の中でも川幅が短く、底が浅く、さらに土砂を堆積したために手前でぐいと河が曲がっており、
流れも緩やかになる。このために古来より有名な渡し場・桃花渡口がある。

佳県は北宋時代に建てられた城塞。今でも佳県は陝西と内モンゴル・オルドス地方の境界線のすぐ下にある。
つまり古来から農耕地帯と遊牧地帯の交差する場所、農耕地帯の最北端である。

これ以上北にいくと、農業ができなくなるというぎりぎりの気候環境。
北宋時代も西夏との前線に近く、北方の騎馬民族が黄河を渡って
山西省に侵入する際は、必ず渡り口になっているここから渡河しようとする。

そのため黄河と佳芦河の交差する高台を要塞化することにより、騎馬民族の渡河を阻止しようというのが、佳県の起こりである。




つづら折りの坂道をぐるぐると回りながら、高台にある佳県の中心部に到着する。
まさに天空に浮いたかと錯覚するような「天空の城」。


黄河とその絶壁の上に立つ佳県の地形がよくわかる写真。ネットより。




南側から写した写真をもう一発。ネットより。




街の中心部の広場は、ごく普通の地方都市の雰囲気。特に北方のムードが出ている。








メインストリートから少し中に入ると、黄土高原のレンガ造りの家が並びます。北京ではもう消えてしまった胡同を彷彿とさせる。

   




春節明けなので、家々には赤ちょうちんを飾り、祝日の華やかさが。。。


   

北京ではまず見ることのできない手書きの春聯。

人件費が高いのと、なんといっても春聯は四合院の門構えに一番よく似合う。
アパートの味気ないドアに貼ってもあまり見栄えもしないので、都会ではほとんどが印刷物で済ませてしまうが、
田舎ではまだまだ市場などで手書きの春聯を書いてくれる露店があったりする。

やはりこの方が温もりがあり、自分の気分にあった言葉も選ぶことができるので、
1年の始まりとしては贅沢な習慣ですな。


後から聞いて知ったが、この門構えの上にかかっている絞り染めのような文字。

ほかの地方では見たことのないものですが、郊外にある白雲山(後述)の道士さんに
書いてもらうものだそうな。どこの家にもたくさん貼っているのを見かけるので、値段も手ごろ、
魂のよりどころとして機能しているのですな。





   






「中国農業銀行 佳県支行」。
星マークがついているので、新中国成立以後に今の状態になったのか。
今は使われておらず、廃屋となっていた。



2月の寒い時期だったので、どこに行ってもストーブが活躍する。
自分も一戸建てで暖房に苦労したことがあるので、ついついストーブの構造に目がいく。。

北京では贅沢で見かけることのない石炭の原石をそのまま焼くタイプのストーブ。
北京では石炭原石は値段が高いので、練炭を重ねる式のストーブしか売っていない。

それもオリンピック以後は、郊外のみの話だが。。




結婚式に出くわした。やっぱりめでたい行事に出会うのは、気分も華やぐというもの。




前方を行く車がビデオ撮影用にルーフが開くタイプなのも必須なんですな。







佳県の旧名は「瑕(くさかんむりに変える、以下Jia県と略称)」県、1960年代に改名されたというから、ごく新しい。
音は同じ、漢字だけを変えた。

清代の古い地図によると、Jia県の城は南北に4km、東西にはわずか1kmにも満たない細長い形をしていたという。

平地の城と違い、形はでこぼこ、元の地形をそのまま利用した形。
今は城壁のほとんどの部分が壊され、残るのはわずか3400mだけ。あまりにも険しく、

壊しても意味のないところ、すでに民家が立て込んでいる場所で角に当たり、
壊したところでほかに住宅が建てられるわけではないところのみが残っている。





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西安回民街 記事の一覧表

2011年09月10日 06時17分57秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

西安のイスラム・ストリートのB級グルメリポート:


    西安回民街1、緑豆の涼粉炒め、河魚の丸揚げ
    西安回民街2、餅の蒸し菓子「鏡Gao」、グルテン串、糸切りモチ
    西安回民街3、牛筋のコラーゲンゼリー固め、揚げ餅とナン、吹き飴
    西安回民街4、おみやげアイテム「影絵」、「兵馬俑グッズ」とチェ・ゲバラ財布
    西安回民街5、羊の頭の丸ゆで、西羊市の賑わい
    西安回民街6、北院門どおり


西安回民街6、北院門どおり

2011年09月06日 23時27分35秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
前方には牌楼が見えてきた。
本来はあちらが西羊市の入り口。私は反対側から来たことになる。

      


ここまでで西羊市は終わり。
南北に延びるのは、北院門どおり。地図参照

   


観光用に伝統建築が整備された雰囲気あり。

   


黄色があざやか。
ゼリー状に固まったケーキのよう。味見できず。

   


うずらの卵の串焼き屋さん。

    


うずらの卵をひたすら割る。

      


うずらの卵は、むくのがめんどうなので、割って食べても胃に入れば同じということか。
なんかやっぱり味気ない気がするけどー。
でもけっこう売れてた。

   






中国では、各都市で銅像が大流行。市民にも記念撮影に大人気。
並んで立ったり、肩に手をかけたり、上に子どもを乗せたり、どんなに手荒に扱っても傷もつかなければ、
倒れもしない頑丈さがいいんだと思う。


北院門の広場にもあった、あった。

   


そして。やっぱりこういう真似系ポーズは必須でしょう。
50才以下なら、皆、平均的にやります。

     


こちらは、子ども強制系。
大人たちが寄ってたかっておだて上げる。

     


おっしゃ! 決まった! 

          


角度を変えて、もう一枚撮りましょうね。

     


もおお、疲れたー。
これ以上はいやだい。

     



さて。
今度は南の鼓楼方向に進んで行きましょう。

何百本もある羊の足。
人間とは不思議なもので、見慣れないものはグロテスクに思えてしまう。

かくいう私も鶏の足にはもう慣れた。
中国と長く関わるうち、今では好んで注文しさえする。

でも羊の足は、まだだめかもー。

     


再び緑豆の涼粉の炒め物。
色が食欲をそそる。

   

 

  



ザクロの生搾りジュースを発見。

   


ザクロとサトウキビの生搾りをミックスした飲み物、一杯5元。
こんな贅沢なもの、北京での値段は5ー10倍はくだらないでしょう。
濃厚な味。

   


残骸の山。

      


やっと鼓楼が見えてきました。
これで大興奮の回民街も終了です。
集中力全開でどっと疲れた。。


   


   




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西安回民街5、羊の頭の丸ゆで、西羊市の賑わい

2011年09月05日 21時12分52秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
さて。
おみやげ談義は、これくらいにして、また食べ物中心に戻りましょう。


巨大な桶が登場。

   


ブリキ加工のお店。
こんなでかい桶、何に使うのでしょう。店先で作業中。
 
     


羊の頭の丸ゆでー。
ひえー。

やっぱりグロテスク・・・

   


かなり辛い系。右のとうがらし炒めピーナッツは、
私も北京ではまっており、食べ出したらとまらない。

   


こちらはあまり見かけない。北京でもどっかで見たことはある気はするが。。
小麦粉系の生地をからめて揚げてあるのね。
さらに辛そう。

   




壺に貼り付けて焼いているのは、インドのサモサ風のものだろうか。

      
 

   

むこうに見える首だけない羊一頭の肉も強烈。


各種シシカバブが待機中。

   


ナンを装飾風に。

   


ピラフを制作中。

   


活気あふれる通り。西羊市。

   


イスラム色一色の通りながら、奥に続く路地は、伝統的な中国の横町を思わせる。

   


興味津々。
一歩中に入ってみる。

      



      


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西安回民街4、おみやげアイテム「影絵」、「兵馬俑グッズ」とチェ・ゲバラ財布

2011年09月04日 20時17分05秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
今回の西安旅行で気になったのは、おみやげアイテムの向上度。
何か目新しいアイテムは出てきているでしょうか。一昔前までは、
全国どこでも似たようなものしかおみやげになく、つまらなかったもの。


   


奥の方に見える数珠状の腕輪は、全国どこでも見かけるごくポピュラーなもの。
若い人なら男女ともに毎日腕につけ続けている人をよく見かけますな。

しかしわざわざ西安で買うことの意義がわからないー。

まあ。
恋人同士で一緒に買うと、旅の思い出になるし、
毎日身につけるものだから、意義があるんでしょうけどねええ。


手前のがまがえるは、どうやら木魚のよう。
西安は仏教盛んなりし唐代の都だから、ということでしょうか。
こういうのをおみやげとしてプレゼントされるのは、結構困ると思う。。


今回、なかなかいいじゃないの、と思ったのは、影絵の壁飾り。
かわいい上にお値段もかなりリーズナブル。

牛の皮で作られているそうですが、きっと抜き型があって、機械でばしばしと抜いて大量生産するんでしょうね。
色付けは流れ作業でできそうだし。

お値段はフレームだけでもその値段なら安い、というほどでした。
お世話になった方々へのおみやげとして、買わせていただきました。


   


あちこちのおみやげ屋さんで大々的に。

   


   


   


北京でお友達からいただいた脱力系グッズ。
ここにもありんした。

頭をふんわりなでる感触がこそばゆくて、思わず悲鳴が出るのよん。

   


   

ディスプレイもアーティスティック。




西安の伝統的おみやげアイテムといえば、これ。

   

兵馬俑のミニチュア。
12年ほど前に西安に来た時、兵馬俑の入場券は90元、
その入り口の前で売られているこのミニチュアの小ぶりなものは、わずか0.5元。

兵馬俑見学一人分の値段で180個買えてしまうという。。。
これはきらいじゃないです。
部屋に飾るのは、なかなか悪くないと思うが、一つ買えば十分だしねえ


そして2011年。
時代は進化し、兵馬俑もバージョンアップ。

      

今は兵馬俑シャーペン。
渋すぎ。買わなかったけど。。


   

その横の赤いのは、状元キャラでしょうかねええ。
状元ーーつまりは科挙のトップ合格者という意味を込めているのかしらん。

受験生には縁起がいい。
奥は坊さんキャラ。

仏教と西安はセットで連想なのね。


そのほかのキャラは、若者文化についていけず、分析不能。

   


番外編。
屋台の横になぜかかごに入った鶏が。
脈略のなさがええわ。

   


西安オリジナルではないが、毎回気になるのは、チェ・ゲバラグッズ。
私は中国に来て初めてチェ・ゲバラを知った。

日本ではお財布に印刷されてあちこちで見かけるほどポピュラーではないからねええ。

中国人はチェ・ゲバラが好きだ。
確かにあの外見とか、生き方とか、とってもカリスマ性はあるけど。。
こういう財布を使っている中国男子はありだと思う。
あはは。独断と偏見。
 

  



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西安回民街3、牛筋のコラーゲンゼリー固め、揚げ餅とナン、吹き飴

2011年09月03日 20時03分34秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
牛筋のコラーゲンゼリー固め。
ううー。お肌によさそー。

   


   


       

あらゆる角度からしつこく撮りまくって、失礼。
家で食べるとしたら、短冊に大きく切って平たく並べ、
にんにくのみじんぎりを散らし、ごま油、黒酢、しょうゆをまわしかけて酒のあて、というところかしらねええ。


向かいのお店では、長い行列ができていた。独自のたれで煮込んだ牛肉、羊肉の塊らしい。

   


このお兄ちゃんのオリジナルなのだろうか。
オレンジ色の、ドロドロにやわらかそうな生地を油で揚げた餅。

油っこそうなので、手を出す勇気はなし。お腹が一杯というのもあるんだけどねええ。
 
  

 
  

 
  







看板の構図が大胆。
丸の中の文字の発音は「Nan」、つまりはインド料理のナンと同じ。

小麦粉で作るかたいパンのようなもの。
これまた西方の文化ながら、漢字の美しい造形を活用した渋い演出。しびれるーー。

       




縁日のごとく、お祭り気分を盛り上げてくれる、パフォーマンス系屋台。飴屋さん。

      


形状は十二支が中心のよう。  

    


こういうお茶目な演出もあり。
十二支の順番を決める時、十二の動物がかけっこ競争をし、牛がトップを走っていたが、その上にネズミが乗り、
ゴール直前でネズミがゴールに飛び込んだためにネズミ年が十二支のトップになったというエピソードを表現しているのねん。

おっちゃん、ええわあ。

   


私がきゃあきゃあ言いながら、根が生えたように動かないでいると、おっちゃんが早速実演を始めてくれた。

   


あめを入念に練り始める。

   


後は。。。名人芸ー。

   


   


   


   


   

こうまでサービスしてもらったら、さすがに私は買いましたわよー。
1つ五元。

たかが飴一つに五元は高いと思うか、この名人芸の見物料に五元は安いと思うかどうか。
ばりばりと食べて、ものの五分くらいで平らげましたが。。



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西安回民街2、餅の蒸し菓子「鏡Gao」、グルテン串、糸切りモチ

2011年09月02日 23時10分26秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
見たことない形式の屋台発見。

   

看板の上から「清真」。
イスラム法に則った調理法をしているから回教の人でも安心して食べてください、という合図。

新彊に行った時、ウィグル族の女の子は、私がインスタントラーメンを薦めた時など「それは清真か」と必ず聞いた。
「なんだそれは。私にはよくわからない」
と答えると、ラーメンのパッケージを表、裏と何度もひっくり返して
「だめだ。清真マークがついていない」といい、食べなかった。

新彊で売られている食品は、ムスリム対応になっており、イスラム教徒でも食べられるものは、ちゃんと表示がされている。
インスタントラーメンで最もポピュラーな「康師Fu」の商品もムスリムの権威機関の監修つき、「清真」マークがついている。

というわけで、この2文字があることは、回教徒とそうでない人が雑居する地域では重要らしい。


「央視品牌」=中央テレビブランド、つまりは中央テレビの取材を受けた名ブランドですよ、というほどの意味。
「坊上名貴小喫」=「坊上」の名貴なる軽食。


「坊上」の言葉は、私も初めて聞くのでネットで調べた。
「坊」は、唐代の城内の行政区画単位。都・長安も正方形に区切られた「坊」で区切られていたが、
この概念はイスラム世界から伝わったため、唐代にイスラム教が中国に入り、清真寺(モスク)が建てられると、
モスクでは信者を「坊」ごとの単位で管理したという。

だからイスラム教徒は今でも自らを「坊上の人(坊上人)」と呼び、
「坊上」も「イスラム教徒の」、「回教徒の」と言った意味に使われるようだ。

回教系レストランには、「西安坊上人清真飯庄」といった名前も見られる。


カラフルなトッピング素材が目を引く屋台。

   


   

「鏡Gao」は、西安特有の回民「小喫(軽食、おやつ)」だそうな。
木の筒にうるち粉を押し込み、蒸し上がったところに砂糖、黒砂糖、きなこなどをトッピングして竹串に刺し
、食べ歩きする若者や子ども用の屋台のおやつだという。

アジア原産の「モチ粉」と使ったお菓子がイスラム教徒独自の伝統食品だというのは、
意外な取り合わせのように感じるが、「元宵(モチ粉だんごの芯にさまざまな餡を入れてゆでたもの)」も「清真」ブランドの老舗がある。
不思議だ。


「老馬家Meigui鏡Gao」=馬家のバラ鏡モチ

キーワード検索すると、出てきましたぞ。
「八宝Meigui鏡Gao」は、馬家の開発した独自ブランドとして有名なのだという。

おっちゃんの操るこの小さな屋台にそんな名声があるとは、意外。
 
従来の鏡Gaoの製法を改良し、筒の中に粉を詰めるスピードを大幅に短縮するとともに、
大きさを自在に変えられるようにし、筒からモチがはみ出しにくいようにしたという。

またいっぺんに数十個の筒に蒸し、わずか1分で蒸し上げることができる。
蒸し上がりには汽笛が高らかに鳴り響き、呼び込みの声を上げる必要もなくなった。

このカラフルなトッピングもどうやらここが元祖らしい。


お腹いっぱいで食べれないので、注文を断念。
完成形態はもう数百メートル進んだところでやっと判明。

別の屋台で少女がお母さんに買ってもらっていたところを発見。

   


   


   


透けるように白い肌ときめの細かさは、ややコーカサス系の血を感じさせる。
混血の歴史を思わせる。

   


北広済街と西羊市の交差点にやってくる。
熱気に飲み込まれるような生命力がビンビンと伝わってきて、こちらも血が頭にさかのぼる。

   


謎の物体を焼いている屋台。

   


小麦粉のグルテンとのこと。味付けは普通のシシカバブと同じとうがらし、クミンをベースとしたもの。

   


   


焼き手のお姉様、エキゾチックな雰囲気。

   




食べ物の話題がまだまだ続きます。

手元に何かをもってすいすいと餅を切っている人を発見。

   


   


   

どうやら二種類の商品があるよう。
一つは味のついていないプレーンなお持ちにあんこなどのたれをかけて絡めて食べるものと、
もう一つはあんこときなこでケーキのように加工し、そのまま食べるタイプ。

 
    





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西安回民街1、緑豆の涼粉炒め、河魚の丸揚げ

2011年09月01日 12時32分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

2月末にアメブロが中国で見れなくなって2ヶ月余り。
仕事が急に忙しくなったこともあり、ずっと放置していました。
今回、日本に帰省し、時間的に余裕ができたところで、
やっとこうして整理しております。

本日より2月に行った西安ときょう西省の旅シリーズです。
(漢字が文字化けしてしまう。きょう西の「きょう」は、こざとへん+夾み)

アメブロですでに発表していた胡同物語のトイレ編については、
やや思考が乱れ気味でまだまとまっていないという気がしているため、
もう少し時間をかけて整理します。

その間に写真中心の旅日記です。

************************************

西安の回民街に行った。


回民街は通りの固有名詞ではなく、鼓楼の西北一帯の界隈を指すのだという。
具体的な通りの名前でいけば、北院門、化覚巷、西羊市、大皮院の4通りの周辺。

  


この界隈は隋・唐時代は皇城エリアになり、庶民の住める場所ではなかったが、
北宋時代に入ってから次第に回教徒のコミュニティーが形成されるようになったという。

現在、この界隈で暮らす回教徒は6万人。狭いエリアに10個もの清真寺(モスク)がひしめき合う。

車行き交う西大街からまずは北広済街に入った。まず目に飛び込んできたのは、清真寺。

   


   

まさに中国とイスラムの折衷。典型的な中国風の[石+専(Zhuan)]刻の壁にアラビア文字が書かれている。
ほかの清真寺では、あまり見かけないスタイル。


   

賑やかな繁華街の中にあって、入り口らしきものがわかりにくい。
かろうじて、ここだろうか、と思える門。

あとで調べると、これは回民街でも規模の大きい化覚巷清真大寺。
化覚巷はやや北に行ったところにある狭い路地なので、北側に入り口があったのだろう。

ここから先に続く食べ物屋さんのオンパレードに夢中になり、入り口を見つけ損ねて通り過ぎてしまった。
残念・・・。

次に西安を訪れた時の楽しみに取っておくと考えて自らを慰めるよりほかなし。


   

その清真寺の前に陣取るお菓子屋さん。


   

ドライフルーツの量り売り。
ナツメ、アンズ、緑のは最近出回るようになったキウウィのドライフルーツ。

キウウィはニュージーランドなどの自国より物価の高い国からの輸入品となるため、中国では高級フルーツ。
それをドライフルーツにしたものもナツメやアンズよりはかなり高い。

でもあざやかな緑は、テーブルの並べたときにアクセントとなっていいところが受けている気がする。
漢族の家でもムスリムの家でも家に招待されると、
まずはこのドライフルーツ、味付け種のオードブルが色とりどりに出され、もてなしを受ける。

自宅で客を迎えるには欠かせないアイテム。


   

西安とその周辺の名物の緑豆のお菓子。
ぽそぽそとした食感が私は思いっきり苦手ですが、よくお土産にもらいます。





   

緑豆のでんぷんで固めた「涼粉」の炒め物。


   

お椀をひっくり返した盛りつけが個性的。


   

巨大な釜が目を引く軒先。
足元に無造作に転がる石炭。

北京ではオリンピックに向けて2007年ごろから市内で石炭の使用は禁止されたため、
市街地で石炭を見かけることはめったにない。そ

ういう意味では同じ国とはいえ、すでに外国に来たがごとき、風俗の差がある。


   

結局、上がってくる蒸気がすさまじく、中身を撮影することに失敗。
中で煮ていたのは麺。

 
  

スカーフをかぶり、労働にいそしむ回族の女性たち


   

「安家の蒸碗の店」の看板。
ムスリムの姓は馬、安、丁、康など聞けばすぐにわかるものが多い。

「安」姓といえば、唐代の「安禄山の乱」の安禄山も「胡人」。
ムスリムとは伝わらないが、一説には「アレキサンドル」の中国語音訳ではないかという説もあると、
うろ覚えながら宮崎市定の本に載っていた。

何はともあれ、西から来た人の姓なのだろう。

「蒸碗」は、すでに出来上がった料理をせいろの中に入れて保温状態にしておくことらしい。
炒め物が中心の中国で、この方法が使われるのは、
冠婚葬祭、春節・祭日などで一度に大量の来客をさばかなければならない時、
事前に料理を作っておき、いっぺんに暖かく出したい時くらいだ。

どうやらこの「蒸碗」は、西安「小喫(軽食)」の名物らしいのだが、
正月や冠婚葬祭の手法がどうして西安だけで日常的に屋台料理になっているのか、ネットで調べたが、よくわからなかった。



回民街の通りは、正面から見ると一見、何気ない普通の通り。

   


しかしよく見ると、道行く人は白い帽子をかぶった回民の人が目立つ。

   


左に見えてきたのは、河魚の丸揚げを売るお店。
そういえば、新彊ではバーベキュー風の大きな魚を食べたのを思い出した。
あんかけを主流とする中華料理とは、あきらかに違う系統。

   


   


   


   


さらに進むと、西安では返って少数派になるウィグル族スタイルの食堂。
「カシュガル美食レストラン」の看板。

   


シシカバブのグリル台。
北京ではみかけたことがないようなデザイン性の高いおしゃれな、イスラム色の強いものだ。

 


私は手抓飯(ショウジュワーファンshouzhuafan)には眼がない。
にんじんと羊肉を一緒に煮込んだピラフ。

どうやら作り方が難しいらしく、北京ではかなり本格的な新彊レストランにいかないと、
名前は手抓飯とはいっても実は羊とにんじんのチャーハンでしかないことが多い。
大鍋で煮込んだものは、やはり味が違う。

   


上に羊肉の塊を乗せるのが、ポイント。
でも肉なしというチョイスもある。

値段が格段に安くなる。

ウィグル族の間では、祝い事には必ず砂漠の地面に穴を掘り、釜を作り、巨大な鍋を据えて作り、客人に振る舞う。
客人の重要度で上に乗る肉の数が変わる。

地元の役所のおえらいさんが来れば2-3個大きな塊が乗せられるし、
ただの近所さんであれば、1つも乗らないただのピラフだけとなる。

   


食べたいのは山々だったが、すでに100mも歩かないうちにあれこれと味見しつつ、
買い食いしつつのろのろ進んできたので、さすがに入らない。泣く泣くあきらめた。

   





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