いーちんたん

北京ときどき歴史随筆  翻訳者・東 紫苑(あずま しおん)のブログ

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語15、ヌルハチの生い立ち

2018年10月17日 19時59分00秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
祖父と父を死なせたグロ城の戦い後のヌルハチの境遇を追う前に、
まずはヌルハチの生い立ちについて見ていこう。


祖父ジェチャンアと父タクシの死んだ時、ヌルハチは若干二十五歳であった。


父タクシの長男として、「シュロー・ベイレ(淑勒貝勒)」の称号を名乗ってはいたものの、
現実は孤軍奮闘の寒い身の上である。
 
というのは、ヌルハチ十歳の時、生母のシタラ(喜塔啦)氏が亡くなると、
家庭の決定権を握る継母に疎んじられ、その影響で父タクシからも疎んじられ始めたからである。

家庭を切り盛りする女に男が逆らえないのは、古今東西変わらない。


ヌルハチ十九歳の時、父タクシはほとんどの財産も持たせないまま、独立させた。

「独立」といえば、聞こえはいいが、要は身一つに近い形で家から放逐したということらしい。

後にヌルハチの才覚が日に日に際立ち始めると、再びこの息子を大切にし始めたが、
その頃には青年の心は冷え切っており、父の愛を素直に受け入れることはなかった。


「財産」を満州語の原文では「アハウルハ」と書く。
「アハ」は奴隷、「ウルハ」は家畜。

つまり当時の女真社会では、奴隷と家畜の数が富を計る基準だった。

後に息子を見直した父タクシはアハウルハを追加で分与しようとしたが、ヌルハチは受け取らなかったという。


親子のそんな確執も長くは続かない。

グロ城の戦いで祖父と父が殺され、
ヌルハチはあれよあれよという間に政治の渦中に巻き込まれていったからである。



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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語14、明側の戸惑い

2018年10月14日 15時08分44秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
祖父と父が殺された時、ヌルハチは二十五歳であった。
知らせを聞き、ヌルハチは撫順城まで事の顛末の追究に向かった。

明側は、祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)をどう捉えていたのか--。

二人は、本来はワンガオ側から寝返り、明側についてともに攻める側であったが、
それがなぜか、戦いの途中で敵側の城の中に入り、よくわからないうちに皆殺しの混乱の中で死んだ…。

敵側の城中にいたということは、どう考えてもアタイ側に寝返ったとしか
解釈のしようがないではないか、という結論である。


しかし明側としても、事情がよくわからないまま死なれたわけだから、
追究されても迷惑な話である。

ヌルハチがしつこく詰め寄るので、適当に追い払ったらしい。

それでもこれまでは、明の協力者としての功績もあったことを鑑み、
二人の遺体をヌルハチに返してやった。

さらには馬三十頭、勅書三十本を与え、
建州左衛都指揮使の官位を継ぐことを許したのである。

勅書とは、つまりは馬市で明と交易する許可証である。
三十回、交易に参加することを許す、ということである。


このようにかろうじて一族の位の継承を許されたものの、
これ以後、ヌルハチの一家は、冷遇されることとなる。

ジェチャンアの遺族は、本当なら第一の功労者として、褒美をもらい、昇進してしかるべきである。

海西女真のハダ部のワンタイは、ワンガオを引き渡した功で「龍虎将軍」に封じられた上、
その二人の息子はともに晋都督僉事に任命されている。

ヌルハチ兄弟らはそれ以上の待遇を受けてもおかしくない。


それでも少なくとも「罪人」の家族にされなかっただけ命拾いをしたことになる。

先祖のドンシャン(董山)が誅殺された際には、
一族の男子は斬首されるか、未成年は奴隷にされたことを思えば……。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語13、ヌルハチの祖父と父の死の謎

2018年10月11日 17時34分06秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
仕事が急に忙しくなり、いきなり4ヶ月も間が空いてしまいました汗。

時間が空きすぎて、これまでの流れを思い出せない、という方のために、
本シリーズの過去リンクを貼っておきますねー笑

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語2、モンケテムールと朝鮮
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語3、モンケテムール、明に帰順
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、モンケテムールの死と次男ドンシャン
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、女真族使節、紫禁城で大暴れ
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、非儒教集団に接する戸惑い
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、貿易不均衡
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、ドンシャン征伐される
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、祖父ジェチャンア
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ワンガオの勢力
マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語12、ワンガオ一家とジェチャンア一家の因縁


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ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)が死んだグロ(古勒)城の戦いには、
もう一人、鍵となる人物がいる。

史料に「ニカンワイラン」(尼堪外蘭)と出てくる人物である。


「ニカン」とは、満州語で「漢人、南人、南蛮」の意、
「ワイラン」は、漢語の「外郎」、秘書という意味だという。

つまりは「漢人の秘書」の意であり、名前というよりは、通称または官名のようでもある。

この人物は建州女真部の出身であり、明朝の開いた交易市場である撫順にほど近いところにトゥルン(図倫)城を建て、
そこの城主をしていた。


明の交易拠点ちかくに城をかまえることからもわかるように、
明との関係を重視、最優先にした人物のようである。


史書には、ニカンワイランが
明の遼東総兵・李成梁に自ら進んで贈り物をし、
最も多い時には、一回に馬五十頭、高麗人参数百斤、貂皮(ミンクの毛皮)数十枚、鹿の角という規模だった、とある。


どうやら酋長の家系でもない身分の低い庶民の出から、漢人に取り入ることにより、
急速に勢力を拡大させた「成り上がり者」であったらしい。


グロ(古勒)城の戦いの際、アタイとアハイ兄弟の征伐を決めた李成梁は、
まずは撫順城に向かい、ニカンワイランを呼び出した。

アタイ兄弟の動きを事前に察知し、明側に密告していたのはニカンワイランだと言われており、
それなら道案内をせよ、と命じたのである。

こうして明の官軍がグロ(古勒)城を幾重にも取り囲み、攻防戦が始まったのであるが、
難攻不落の城がなかなか落ちず、戦局が膠着状態となった時、
ニカンワイランが進み出て、城内に向かって、こう叫んだという。

「城主を殺した者を次の城主にしてやる」


この言葉が、戦いの流れを一気に変えることとなる。
城内の兵士らが動揺を始め、ある兵士が城主のアタイを殺し、城門を開け放ったのである。

しかし明軍は約束を守らないどころか、
城内にいた女子供老人の非戦闘員に至るまで、二千二百人全員を皆殺しにしたのである。


ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)は、
どうやらこのどさくさに紛れて、いっしょくたに殺されたということらしいのだ。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語12、ワンガオ一家とジェチャンア一家の因縁

2018年06月10日 07時59分03秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)は、
この戦いで戦死したという。


なぜ道先案内人として、
明側に協力していたはずのジェチャンア父子が、アタイ討伐で、いきなり「戦死」したのか。


この二家族の関係は、確かに哀しき縁(えにし)の絡まりの中にあった。

ジェチャンアの長男リトン(礼敦)の娘が、ワンガオの息子アタイに嫁ぎ、
アタイの娘がヌルハチの父タクシに嫁いでいた。


つまりグロ(古勒)攻めでは、要塞の中にジェチャンアの孫娘が、酋長夫人としてともに立てこもっており、
アタイの娘が両親・兄弟の攻撃されるのを要塞の外から見守る立場にあった。

古今東西珍しくないこととはいえ、凄惨な状況だ。


清の『実録』によると、ジェチャンアは、一人で敵側アタイの要塞にもぐりこみ、孫娘を救い出そうしたという。
しかし要塞では、夫のアタイがこれに同意しなかった。

すったもんだの押し問答をしているところへ、なかなか戻らぬ二人にしびれを切らせたタクシもやってきたが、
この直後に要塞は陥落し、明軍に無差別に殺されてしまった、
・・・・・というのである。


砲弾や矢、石が雨あられと激しく飛び交う中、
どうやってジェチャンア父子は自由自在に要塞に出入りしたというのか。

二人の死因はなんだったのか、今となっては突き止めることはできない。
わかっていることは、ジェチャンア父子は親戚、友人を捨てて明軍に降り、道先案内人となってアタイを攻め殺し、自分たちも死に、
それはどうやらあまり名誉なことではなかった、ということだけである。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている


    



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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ワンガオの勢力

2018年05月26日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
歯切れが悪いなりに話を続けて行く。

ジェチャンアは明の将軍(都督同知)李成梁に辺境の動向を知らせ、ワンガオ討伐に全力で貢献する。
この行動がワンガオに大きな打撃を与えたことはいうまでもない。


ワンガオ(王杲)が東北で二十年以上に渡り、周辺を席巻できた理由として、二つ挙げることができる。

一つは建州女真部、モンゴルのトメト部、タイニン(泰寧)部、リャンヤン(梁顔)部と連合することができたこと。
もう一つは断崖絶壁、難攻不落の要塞グロ(古勒)城に拠ったからである。

つまり普段連合しない時、ワンガオ自身の兵力はわずか千人しかなく、連合しないと破壊的な兵力を発揮することができない。
その連合の中、ジェチャンア(覚昌安)は建州女真左衛の部落酋長の一人である。
馬市に四十五人の手下を率いての入場が許されることから判断して、中の下程度の地位だったと考えられることは、前述のとおりである。

ジェチャンア一族の強みは兄弟が多いことだ。
厳寒の気候、かつ生存条件の酷なる満州の大地において、人口を増やすことは、困難に困難を極める「技術」だ。
成人男子を一族の中に何人抱えるかで一族の勢力に大きな差が出てくる。

だからこそ、手っ取り早く漢人や朝鮮人をさらってきてしまうのだが、
それだけ満州の自然環境の中で、人間を成人になるまで育て上げることが困難なのである。


その中で、ジェチャンアには長兄ドシク(徳世庫)、次兄リュチャン(劉禅)、三兄ソチャンア(索長阿)、
五弟ボランア(宝朗阿)、六弟ボオシ(宝実)の五人の兄弟がおり、六人合わせて「寧古塔貝勒(ニングータ・ベイレ)」と呼ばれていた。
兄弟六人がそれぞれに要塞を構え、一時期は周囲二百里半径の人々が、すべて兄弟に服したぐらいであったという。

ジェチャンアの投降は、六兄弟すべての投降をも意味し、建州女真の他の部落に与える影響は計り知れない。
さらに地元の人間として、道案内をされてはワンガオ側はひとたまりもない。
本来ならあるはずの「地の利」がすべて失われることになる。

明の万暦二年(一五七四)十月、明軍の総兵(将軍格)李成梁は、数万の兵を遼東の各地に駐屯させた。
一方、ワンガオ(王杲)は騎兵三千人を率い、五昧子に攻め入った。

しかし明軍が逆にこれを八方から包囲、驚いたワンガオは衆を率い、自身の要塞であるグロ城に戻った。

古勒城は険しい山の地形を生かし、断崖絶壁の山の上に作られている。
さらに深い外堀があり、防護の樹の柵も幾重にも設けられていた。

李成梁はグロ城前にあったワンガオの樹の柵を火器(大砲が主体と思われる)で吹き飛ばし、高所にある城を攻めて行った。
グロ城からは雨よあられよと矢と石が降り注ぎ、壁に取り付くのは困難を極めたが、ついには城に登り上がり、火をつけた。

火の勢いは、天にまで届かんばかり、これで建州の各部が総崩れとなり、
討ち取りたる首級は千百四十級余り、ワンガオは残存勢力を率いて逃亡した。


万暦三年(一五七五)二月、ワンガオは再び残党を率いて、明の領土に略奪に侵入するが、明軍に撃退される。
ワンガオは、そのまま海西女真(建州よりさらに北の奥地に入った女真地区)ハダ部の酋長ワンタイ(王台)の元に逃げ込んだ。

しかし明からはすでに、
「匿うなら、匿った側も容赦しない」
との厳しいお達しが回っていたため、ハダ部は、ワンガオを明側に引き渡した。

明の万暦三年(一五七五)八月、ワンガオは北京にて磔(はりつけ)の刑となり、処刑される。

この時の明の朝廷の喜びようは大変なものだったと伝えられる。
当時十三歳だった神宗(万暦帝)が、太廟で祝いの祭祀を行ったほか、荘厳なる捕虜献上の式典が執り行われた。

ワンガオがその筆頭として、文武百官の前を曳きまわされたのは、いうまでもない。
文武百官が参列し、二十年に渡る辺境の災いの元の解決を祝った。

しかしこれに深く恨みを抱いたワンガオの子アタイ(阿台)とアハイ(阿海)は、その後も幾度も明の領域に進入しては、略奪を繰り返した。
明の万暦十一年(一五八三)二月の当時、李成梁は遼東総兵の官職と同時に寧遠伯にも封じられ、晋左都督でもあった。
李成梁はアタイ討伐のため、大軍を率い、撫順を出て国境を超え、百里の奥まで進軍する。

アタイは、難攻不落のグロ(古勒)城を受け継いでいた。
元々三面を断崖絶壁に囲まれていたが、さらに外堀も深く掘られる。

明軍はグロ(古勒)を猛攻撃し、アタイをはじめ二千二百人の首級をとる。
ワンガオの子孫は、この時でほとんど絶滅したといわれる。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、祖父ジェチャンア

2018年05月13日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
建州左衛というのは、元々大した規模ではなく、
その中で数代前に有名な酋長がいたとしたら、ヌルハチの家系も遠い親戚の仲であることは間違いないだろう。

後世の我々にとって重要なのは、どういう環境から清朝という王朝が生まれたか、という背景であり、
大方近い血縁関係にあり、似たような歴史的環境の記録であれば、充分に思考に役に立つと思うべきである。


ところでヌルハチの祖父「ジェチャンア」の漢字の当て字が、面白い。
清代の記録には、漢字の見た目が美しい「覚昌安」の字を当てている。
何しろ偉大なる王朝創始者さまの祖父である。

気合いが入っている。

しかし明代の記録では、そんなことは細かく気にするわけないので、
「叫場」「教場」などのそっけない当て字になっているところが、大変興味深い笑。


さて。
ヌルハチの祖父ジェチャンアが記録に出てくる最も信憑性のある報告は、明の遼東官僚の報告である。

「信憑性のある」というのは、ヌルハチが後に重要人物になってしまったがために
その祖父の記録が大げさに書かれている疑い濃厚なものが、ほかにあるためである。
そのような怪しいエピソードについては、ここでは省く。


明の万暦六年(一五七八)四月、撫順馬市を訪れた官僚の報告がある。
撫順馬市は、明の朝廷が開設した建州満州と漢人のための交易の場である。
満州側の入場者は、許可制になっており、誰でもが参加できるというわけではない。

明の万暦六年(一五七八)四月から八十日間に渡って開かれた撫順馬市の記録では、
合計二十五人の酋長が入場の許可を得て、合計43回の入場を果たしている。

入場する際に率いてきた人数や回数により、女真族の部落の規模、勢力の強さがわかる。

一番はジュチャンツオ(朱長草)が3回、一回目二百五十人、二回目百人、三回目八十人である。
これに対してジェチャンアは十六番目につけており、合計三回、一回目は四十五人、二回目は二十三人、三回目は二十一人となっている。

つまりジェチャンアは建州女真の一部落の酋長ではあるが、
規模は大きくなく、大体十五-十六番目くらいの位置にいたことがわかる。
それでも交易では、かなりの利益を上げ、次第に力をつけていく。


情勢の変わるきっかけは、
建州満州の有力な酋長ワンガオ(王杲、満州語名:アトゥハン、阿突罕)と姻戚関係になったことである。
孫息子と孫娘をそれぞれワンガオの孫の世代と結婚させたのである。

ワンガオは建州右衛の都督指揮使という有力な地位にあり、剽悍で戦争好きな性格であった。

ジェチャンア一家は姻戚となったために
ワンガオが組織する略奪にも参加する関係になり、次第に明との戦いに巻き込まれていく。

ワンガオ(王杲)の明への挑発は、月日を追うごとに過熱していった。
明の嘉靖年間にはモンゴル・タタール部のアルタンハーンの勢力が強大になり、明の朝廷がその対応に追われていた頃でもある。
北京ではアルタンハーンの北京襲撃の恐怖に駆られて、南城を建て増した。

このあたりの詳しい事情については、
本ブログの「楡林古城 明とモンゴルの攻防戦」シリーズをご参考に。

とにかくこういった事情からも、小さな小競り合い程度なら遼東に大軍を送る余裕はなかった。
ワンガオは、明の対応が甘いことをいいことに襲撃の規模をどんどんエスカレートさせていった。

明の嘉靖三十六年(一五五七)、ワンガオは撫順(つまりは明側の城)を襲撃し、
守備の彭文洙を殺害したほか、会安・東州・一堵墙などの要塞も襲った。

嘉靖四十一年(一五六二)には、明の領域内に侵入、副総兵の黒春に負かされる。
しかし相手が追撃してきたところを襲撃、
黒春を捉えて殺した後、深く遼陽まで攻め入り、孤山・撫順などを攻め、多くの明の高官を殺した。

ここに至り、明もさすがに堪忍袋の緒が切れ、大軍を派遣すると警告してきた。
ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)は、
それまでワンガオの姻戚として、襲撃活動に一族の壮丁どもを率いて参加してきたが、ここで、はたと考える。

わずか千人の勢力で明の大軍に対峙し、一族皆殺しに遭うか――、それとも敵に降伏するか――。

ジェチャンアは、降伏するほうを選んだ。
明の遼東総兵官の都督同知・李成梁の元に降ったのである。

投降した者というのは、誰よりも熱心に、かつ率先してかつての仲間の情報を提供したり、道先案内になったりして
新しい主人に忠誠を示さなければならないという原則については、古今東西に変わりはない。

この当たりから史料の歯切れは、極めて悪くなってくる。

「道先案内人」と「裏切り者」は、紙一重。
清朝の創始者ヌルハチの祖先としては、あまり聞こえのよい話ではないのである。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、ドンシャン征伐される

2018年05月03日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
では実際の事実の経緯を追うことにする。

明側から勧告の勅令が出されたのは成化三年(一四六七)の正月である。
ドンシャンらが入朝し、大暴れしたのが四月、
彼らが帰った後、朝廷ではこの事態を重く見て討伐軍を派遣する方向で決まった。

明の成化三年(一四六七)五月、趙輔が将軍の印を授かり、総兵官に命じられ、遼東へ向かった。
七月にはドンシャン(董山)ら百十五人を広寧師府まで連行し、勅令を読み上げ、奪った捕虜を解放するように叱責する。
ドンシャンらは怒り、袖から小刀を出し、通事を刺した。

これを見たハタハ(哈塔哈)ら百十五人もそれぞれに刀を持ち、師府の警備兵らを刺しまくった。
趙輔は全員を逮捕するように命じ、その場で二十六人を刺し殺し、残りはすべて牢に入れた。

朝廷では、趙輔からの奏文を受け取り、直ちに遼東の兵二万九千人を派遣することを決定した。
朝鮮にも援軍の派遣を命じ、朝鮮からは一万五千人が送られ、五つのルートから分かれて建州に進軍した。

十月には建州右衛と左衛を責め、九百人を生け捕り、九百三十八人を殺し、明からの捕虜千百六十五人を奪回した。
建州衛も攻められ、李満住とその子・李古納哈を始めとして三百八十六人が殺され、李親子の妻ら二十三人を生け捕りとした。


このときの討伐で建州三衛のトップはほとんど殺されつくした。
死者や捕虜の数を見ればわかるとおり、彼らの人口規模は決して大きくない。

三衛合わせても戦死者は2千人にも満たない。
恐らく荘丁の数もその倍もいかないであろう。

明は、これに四万人以上の規模の軍隊を差し向けたのである。

ドンシャン(董山)、李満住などの建州満州のリーダーらが大方殺しつくされてから、
その後を担ったのは、次の世代である。


ドンシャンには息子が三人いた。
長子トロ(脱羅)、次子トイーモウ(脱一莫)、三子シボチ(石宝奇)である。

シボチが、ヌルハチから遡って四代目の祖先となる。
どうやらさすがに子孫まで連座させて殺すようなことはしなかったらしい。

引き続き、誰かが満州を率いていかなければならない、という現実の問題もある。


明の成化五年(一四六九)七月、つまりは明朝による制裁がなされてから一年半後、
ドンシャンの長男トロが「悔いて来朝」、と明側の資料にある。

リグナハ(李古那哈)の甥ワンジャトゥも「悔いて来朝」、
子供の世代が心を入れ替えて臨むということで、再び明との朝貢関係が戻った。

明としても、何も民族全体を消滅させようというのではなく、騒ぎを起こさないでくれたら、それでいいのだ。
そして満州側は、朝貢という形の見入りのいい「交易」がなくなるのは、生命線を断ち切られるようなものである。

どうしても再開させねばならなかった。
トロは父ドンシャンが好き放題やらかして身を滅ぼしたことを反面教師に、祖父モンケ・テムールを見習った。
明との取り決めを守り、辺境に侵入せず、朝貢貿易に精を出し、自ら北京に行くこと十二回に及んだ。


明の弘治十五年(一五〇五)にはトロが病没するが、
子のトエンボー(脱原保)が後を継ぎ、建州左衛を統治、明との朝貢を続けた。

明の嘉靖二年(一五二三)以後、明の実録にはトエンボーの記録がなくなり、死後誰が継いだかも書かれていない。
どうやらこの父子の家系は、建州左衛の酋長の座から脱落したらしいのである。


次に記録がつながるのは、ヌルハチの祖父に当たるジェチャンアの軌跡である。
明の交易場に商売に来た記録がある。

ヌルハチの祖父がジェチャンアであることは間違いないらしい。
しかしモンケ・テムールから董山にいたるまでの家系が、果たしてヌルハチにつながるかどうかは、何やら曖昧である。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、貿易不均衡

2018年04月20日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
明の朝廷が女真側を「叱責」した背景には、
そういう漢人知識人らが自分たちの「常識」で相手を図っているところがあり、
「さまざまな情報を総合すれば明の強大さがわかるだろうから、まさか恭順にしないわけはない」
という思いこみがある。

ところが女真側には「さまざまな情報を総合する」システムがなく、ノウハウがない。

だから
「土木の変で、モンゴルに皇帝を拉致された」、
「いくら略奪、誘拐をしてもうんともすんとも反撃がない」
という現象だけを捉えて情況を判断してしまうのである。
その異民族側の思考回路を明側もよく理解していなかったことになる。


もう一つ重要な点がある。
それは明と周辺騎馬民族の間には、「貿易不均衡」が常に存在したことであり、明との交易が断絶しては困るのは騎馬民族側、という根本的事実がある。

土木の変で皇帝をさらったエセン・ハーンは、オイラート・モンゴルのリーダーである。
オイラートの本拠地は当時、漠北(つまりはゴビ砂漠の北側)、モンゴル高原の中央部にあった。

彼らが急速に強大化したのは、シルクロードのハミを手中に入れ、東トルキスタンにも勢力を伸ばすことにより、
ロシアからヨーロッパ方面への「中継貿易」を独占でしたからである。
領土を広げつつあったこの時期、その領土を養うためにも中原の物資はいくらでも必要だった。

ところが実際は完全な「貿易不均衡」である。
つまりモンゴル側から提供する商品である馬、毛皮、羊などを中原側はそれほど欲しているわけではなく、その消費量はたかがしれていた。

実際には「朝貢」という、経済システムからは逸脱した儲け方に依存していたことになる。
つまり「中華」であるところの明が、周辺の「夷」なる者どもにその威厳を示すために多くの下賜品を出す。

実際には、「下賜」を名目に金品で平和を買う役割を果たしていたのだが、
にわかに強大になったオイラートにとって従来の量では足りなくなり、「土木の変」につながる。

エセン・ハーンにとっては、明からより多くの物資を引き出すことが最終目的であり、行き来が断絶して困るのは、モンゴル側だったのである。

同じ事情が女真族にもあった。
明との交易が途絶えては、生活していけなくなるのは、自分たち自身であった。

そのあたりの力関係の構造を懇々と説得し、痛い目に遭わないうちにその痛さを表現する参謀が、
ドンシャン(董山)の周りには、いなかったということだろう。


明側のやり方もへたくそである。
相手が自分たちと同じ常識を持っていないことを前提にしていない。
後に康熙帝がモンゴル王公らを完全に抱きこんだ時のようなうまいやり方はしていない。

康熙帝のモンゴル政策については、後に別途詳しく説明したい。


以上、董山らがなぜ討伐軍を出されるまで事態を窮迫させてしまったかについて、作者なりの分析を試みた。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、非儒教集団に接する戸惑い

2018年04月14日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ここに儒教を背景にした価値観を持つ集団とその価値観がまったく通じない非儒教集団の接する戸惑いがある。
儒教はよく統治者のための論理というが、ある意味の「抑止力」がある。

儒教が統治者側の理論として、生き残ることができたのは、ほかの諸子百家と比べ、独自の歴史観を持つからであろう。
過去の経験を未来への反省として生かし、「学習機能」を備えることを目指す。

中原世界では、たとえ文盲の教育を受けたことがなく、自分の村から一歩も出たことのないような田舎の大将が、
何かのきっかけで農民蜂起でも起こし、大規模な人数をその配下に抱えだすと、
どこからともなく儒教的教養を持った人材が現れ、参謀役として自分を売り込む。

大将の側もその過去の数々のデータの蓄積に関する知識の有効性を買い、召し抱える。
すると参謀は、その場面場面の情況に合った過去の例を引っ張ってきては、大将にアドバイスを与えるのである。

それが「抑止力」となる。

残念ながら、人間の生存条件の限界をいく極寒の満州の地において、
この時点でドンシャン(董山)らにその役割を果たす教養のある持ち主は、召し抱えられなかったらしい。

たとえ彼らが日々さらって来ている漢人や朝鮮人の中にそんな教養の持ち主がいたとしても、
女真族のリーダーたちは、大きな舞台に出たこともなければ、その必要性も感じず、
そのまま牛馬のごとき労働力として、かれらを飼い殺してしまうまでだろう。


「参謀」例は、数々の文学作品の中に見られ、例を挙げたらきりがないだろうが、
作者がたまたま最近身近に触れることのあった「三国志」の場面を挙げよう。

董卓と呂布の主従二人が貂蝉という一人の女性を取り合う場面がある。
呂布と貂蝉の関係を疑った董卓が、怒りを爆発させたとき、参謀の李儒が「絶纓の会」の故事を引き合いに出し、深慮を促す。

つまり、楚の荘王が宴会を開いた時、蝋燭が消え、蒋雄なる者が寵姫の衣服に触れた。
女性はすぐに蒋雄の纓(冠のヒモ)を引きちぎり、荘王に
「無礼を働いた者の纓を引きちぎったので、蝋燭を灯せば誰かわかる」
と訴えた。

すると荘王は明かりがつかぬ間に、全員に纓を引きちぎるように命じ、一同がそうした。
おかげで蒋雄は罪を問われずに済み、心から荘王に感謝した。

その後、楚が秦に苦しめられたとき、蒋雄は大功を立てた。
荘王が何ゆえそこまで奮起してくれたのかと問うと、蒋雄は自分が絶纓の会の時に皇后の衣服に触れた者だと告白したという。
寛容で女に迷わない立派な君主を表現する故事である。


李儒はその「絶纓の会」の例を出し、董卓を説得する。
呂布の武力が今は不可欠なこと、天下を取るためなら、女の一人くらい何でもない、
いっそのこと貂蝉を呂布に与えておやりなさい、きっと蒋雄の如く命がけで殿のために働いてくれるでしょう、
と説得し、董卓も納得するのである。


ぶたれてから「痛い」と初めて知るのではなく、何をしたらぶたれるか、ぶたれたら痛いだろうなあ、
ではぶたれないようにしたほうがいい、そのためにはどうしたらいいのか、
と思考できるのが、権謀術数の渦巻く中原文化の教養である。

李儒がこの故事を出したというのは、史実ではない。
なぜなら周知のとおり、三国志の中で唯一貂蝉だけが架空の人物であり、歴史上存在しないからだ。

その貂蝉を奪い合う主従二人のために説得した言葉など、はなから存在するわけはなく、完全なるフィクションである。
しかし三国志の作者はこの故事を引用してこの場面を創作し、読者もその故事引用をごく自然なものとして受け止めた。

歴史の経験からの「学習機能」を引き出し、同じ過ちを繰り返さないようにできる、それが教養であり、「抑止力」である。

異民族に「参謀」としてつき、「抑止力」の行使に尽力した人物としては、チンギス・ハーンの元にいた耶律楚材が思い出される。
中原から漢人をすべて追い出して草原にして羊を飼う、と言い出すようなレベルのモンゴル人に、
農民から租税を取ることがどんなにわりのいい儲けになるか懇々と説得する、といったことに至るまで「抑止力」の行使に努めた。

ある意味では、彼が純粋な漢人ではなく、漢文化の教養も備えた契丹人だったからこそ、両方への接し方がうまかったともいえる。

現代でも九十年代までは、中国と商売をする場合、間に台湾人か香港人を通すと、スムーズにいくといわれていたのも同じ現象だろう。
鎖国して数十年がたっていた大陸の中国は、外国人にとっては極めてわかりにくい存在となっており、
西洋的ビジネスマナーと中国人としてのアイデンティティの両方を備え持つ香港台湾の人にしかわからない事情があったのである。



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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、女真族使節、紫禁城で大暴れ

2018年03月30日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
明の朝廷は女真族の朝貢団を迎えると、まずは勅諭で叱責した。
これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は容赦しない、と。

幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。
入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、
少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。

六部の行政衙門(がもん)は、ほとんどが皇城に集中しているからである。
そこから出るには、もちろん東西南北に設けられた限られた城門から出るしかなく、錦衣衛などの精鋭で固めた皇帝の近衛兵が守っている。

たとえそこを突破できたとしても、外はまだ堅牢なる北京城の中。
モンゴルの大軍との戦いを想定して建てられた難攻不落の城だ。
如何に憤懣やる方なくとも、従わぬわけにはいかない。


しかし内心は自尊心を大いに傷つけられ、怒りが納まらない。
その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。
女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出して振り回し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。
近衛兵の見張りが睨みを利かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。
 
それだけではない。
ドンシャンらが服従の意を表して入朝している最中も、その部下らは遼陽から東の地域で大々的に略奪を繰り広げていたのである。
 
つまり、女真族らはこれまでのやり方を変える気は毛頭なく、
一応形だけ恭順の意を示せば何とかなるだろう、とたかをくくっていたらしい。
 

--まるでどこかで聞いたような話・・・・。
オバマ大統領が甘やかしているうちに、アメリカなんか目じゃないと勘違いし、
南シナ海で好き勝手やらかしているどこかの国と同じような。。。

閑話休題笑。

ここまでの狼藉を働かれては、
明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。
逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。

前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった「土木の変」である。
その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北京が落ちることはなく、モンゴル軍はむなしく引き揚げてゆく。

これが正統十四年(一四四九)のことだが、ドンシャン(董山)らに勧告の勅令が出たのは成化三年(一四六七)、その二十年後だ。

確かにそれまで朝廷は土木の変ショックから立ち直ることに必死だったため、
政権に危機を及ぼすような大事でない限り、放置していた嫌いがある。
まだ討伐の余裕がなかったのである。

女真族がいくら辺境で国民を誘拐しようとも、明の屋台骨が揺らぐほどの打撃となるわけではない。

もちろんそれを永遠に放っておけば、影響が次第に侵食し、ついには王朝滅亡にもつながりかねないだろうから、
体制を整えた暁には、遅かれ早かれ解決せねばならぬ問題ではあった。
その体制がやっと整ったと判断したからこそ、明は女真に対して行動を起こしたのである。

叱責が功を奏せず女真側の略奪が続いた場合、討伐軍を派遣し、充分に勝てるだけの勝算があると確信してから。

女真側には、そこまで読み取るほどの高度な政治的展望はなかった。
女真側は明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、
その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていた。


今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、
それは後世の人間だから見えることである。

もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系であり、その五代後には「巨大な明帝国」を倒したのは、事実である。
しかしその頃には、女真族は漠南モンゴルを傘下に入れてチンギス・ハーンの正式な後継者となり、膨大な漢人部隊も駆使していた。
相当に戦力規模が大きくなり、全東北、漠南モンゴルを背景にかまえ、山海関を越えてきたのである。

ドンシャン(董山)の時代とは、規模がちがう。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち

2018年03月17日 15時13分59秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
女真族による人間の拉致例をいくつか挙げてみよう。
朝鮮の「李氏実録」には、次のとおり記録する。

「建州衛の李満住の子リジナハ(李吉納哈)の奴僕・朴右は、建州地区から逃げ出し、朝鮮に逃げてきた。

 曰く、自分は遼寧(つまり明の領土の漢人)の人間だが、
 李満住の部下の李雄に捕虜にされた後、リジナハに転売され、奴隷として使役されていた、
 少しでも失敗するとひどい折檻を受けたので、耐えられず、逃げたという」


また別の例として、同じく「李氏実録」にこうある。

「朝鮮王から都万戸を授けられた李満住の子リトウリ(李豆里)は、その漢人の奴僕・汪仲武に襲われて殺され、
 汪と妻の三姐(同じく奴隷の漢人)は朝鮮に逃げ込んだ」

こうして朝鮮は、女真から逃亡してきた漢人を大量に受け容れることとなり、彼らを明の領域である遼寧までたびたび護送した。
その数は、明初の洪武二十五年から景泰三年(一三九二から一四五二)までの六十年で八百三十人にものぼる。

もちろん朝鮮領地まで逃げおおせた人たちは、たまたま幸運だっただけであり、
その背後には、逃げられずにそのまま使役されていた人たちの方が、膨大な数にのぼったことだろう。

女真人が朝鮮から一度に千人の奴隷を捕まえて帰っていったという記録もある。


一方、明側の侵略被害は、さらに大規模である。
明国の方が人口が多く、国境線を接する距離も長いことを考えれば、当然である。

明の記録によると、

「一年の侵略回数九十七回、死者・捕虜の数、十数万人」、
「開原から遼陽までの六百万里、数万人が襲われる」

という激しさだ。


明の朝廷が、いつまでもこの状態を座視しているわけはない。

土木の変に伴う一連の混乱が落ち着いた成化三年(一六四七)正月、明は、錦衣衛帯俸署の都指揮使・武宗賢を通して、
ドンシャン(董山)らに警告を出す。

これまでの不法行為は、今後改めるなら許す、と。
明の朝廷が、ようやく動いたのである。

明の朝廷は土木の変後、しばらくは大混乱に陥っており、
辺境の少数民族が少々悪さをしようが、とてもそれにかまっている余裕はなかった時期が長く続いた。

なにしろ皇帝がモンゴルに拉致されるわ、
その後は息つく暇もなく、モンゴルのエセンハーンが首都の北京を攻めてくるわ、で
明の朝廷は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

やっとの思いで首都防衛戦を戦い抜き、エセンハーンを遠く草原に追い返すと、
今度はエセンハーンが、頼みもしないのに、拉致した皇帝を送り返してきた。

明側では、すでにその弟を景泰帝として即位させており、今さら前の皇帝を送り返されてもその処置に困った。
最終的には、弟が廃位させられて兄が復活するが、
その間、政情の混乱がおさまることはなく、北辺で暴れまわる女真族も放置されていた、というのが実情である。

ドンシャンらは、その隙に乗じて、好き放題しでかしていたというわけである。

明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、
対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。

明から使者が来て意見をされたことで、さすがにまずいとドンシャン(董山)も思ったらしい。
明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。

明の軍隊は、兵数の桁が違う。
土木の変で動員した兵力数は、五十万人。
世界的に見ても他の地域と比べたら、確実にゼロ一つは違うような、すさまじい人口規模の中原世界である。

かたや女真族は、漢族や朝鮮族を千人拉致して来るにもひいひい言っている次元なのだ。
明を本気で怒らせることだけはまずいことは、ドンシャンにもわかったことだろう。

ドンシャンは、恭順を示すために北京に入朝することとなった。
自身の一族から十数人、建州右衛都督同知のナランハ(納朗哈)らを筆頭とする三衛の頭目ら百人とともに入朝し、馬、豹の毛皮などを献上した。


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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、モンケテムールの死と次男ドンシャン

2018年03月05日 13時23分20秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
モンケ・テムールの死は、明の宣徳八年(一四三三)であった。
日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。

女真の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、その復讐で殺された。
この時にモンケ・テムール、その長男のアグ(阿谷)が戦死し、次男のドンシャン(董山)とアグの妻は、敵側の捕虜となった。
 
戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。


まもなくモンケ・テムールの次男ドンシャンと長男アグの妻は、捕虜の身から指揮のハルテゥに買い戻してもらう。
--こういうことは、遊牧世界では普通にあったらしい。

モンゴルのチンギスハーンの伝記を読んでいても、妻のボルテが敵対勢力にさらわれて敵対側男性の妻にされており、
しばらくしてようやく取り戻すことができた、というくだりがある。
その前後で生まれた長男のジョチは、父親がチンギスハーンかどうか、甚だ怪しいらしい。

中国の儒教的な考えでは、貞操を犯されたら女性はさっさと自殺せんかい、ということになるのだろうが、
人口のまばらな地帯であり、かつこういうめちゃくちゃなことがしょっちゅう起こっていた社会では、
いちいち自殺させたり、女性を殺していたのでは、生産性が悪すぎて共同体が立ち行かなくなるのか、そういうことはしない。
きわめて合理的である。

 
閑話休題。

その後、ドンシャンが叔父ファンチャ(モンケ・テムールの弟)と最初は協力し、
後にライバル関係になり、ついには対等な立場となった経緯については、省略する。


明の正統六年(一四四一)の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。

最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。
アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。

そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、「李思誠」の漢人名を賜う。
これ以後、この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、「建州衛李姓」として、存続し続ける。
したがってその息子も女真族でありながら、一人だけ名前は漢人風の「李満住」である。

モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰属する際、永楽帝が彼を「皇后の親戚」と称したのも、
直接の血縁関係はないとはいえ、自分に女真族の妃がいたからなのである。

明皇帝の親戚が末裔の管理する衛となれば、最も実力あったことも当然の道理といえる。
 

さらに右衛をモンケ・テムールの弟ファンチャ(凡察)が支配し、左衛を次男のドンシャン(董山)が支配した。
しかし女真族のことを明の史書より詳しく記録している朝鮮の「李氏実録」にも、
明の景泰年間以前の記録には、ドンシャンの支配する左衛のことはほとんど登場しない。

ほかの二衛はたびたび登場するのに、である。
つまりは記録するにも値しない弱小勢力でしかなかったということである。

ヌルハチの家系は、このドンシャンから出ているので、引き続き追っていくことにする。


ドンシャン(董山)は明朝に何度も入朝し、朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。

ドンシャンは李満住、ファンチャ(凡察)と比べ、一世代若い。
そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。

社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。


これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、
皇帝が老いていようが、政治を顧みないあほたれえな皇帝が即位しようが、
基本的には筆頭大臣を先頭とする、科挙により選ばれ経験を積んできた官僚群が、しっかりと政治を運用するのでびくともしない。

動脈硬化現象はもちろんあるが、サイクルの長さが違うのである。

 
こうして明の景泰年間前後、老いた李満住、ファンチャを抑え、
ドンシャンは建州女真の中心的人物として、内外ともに認識される存在となっていく。
そしてこれまでにも増して激しく、外部への略奪を行うようになる。
李満住、ファンチャ(凡察)らとともに、朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。

壮丁(成人男子)が多く、武力の強い酋長は他部族を略奪するようになるのが、女真人の社会の普遍的概念であった。
明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、明の正統年間の「土木の変」以後だった。
 
「土木の変」は、女真族が圧倒的な存在としてあがめていた明の皇帝が、
あろうことかモンゴルの一派オイラトのエセン・ハーンの捕虜になるという事件である。

目に見えやすいパワーがすべての判断基準である原始的段階にある彼らにとって、
これほどわかりやすい権威の失墜もなかった。

「明、恐るるに足らず」と、すっかりこれまでの価値観を改めたドンシャンらは、日増しに大胆になっていったのである。

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語3、モンケテムール、明に帰順

2018年02月18日 09時17分04秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語

明朝に帰順を勧められる一方で、朝鮮には強く引き止められ、モンケ・テムールは決断を迫られた。

朝鮮に渡ってからすでに二十年以上の時間が流れており、それなりに安逸な生活を過ごせた。
しかしこのままでは、永遠に故郷である満州の地に戻ることはできない。

また明朝は大国であるだけに外敵が来たときの保護、天災で食糧難となった時の援助なども大規模なものが期待できる。

しかし明が成立し、皇帝が二代も替わっているのに、
挨拶の使者を送りもせず、朝鮮に二十年もいた自分を明の皇帝が信用してくれるかどうか。
さらに大国の政局は複雑なため、立ち回りを間違えて皇帝や重要人物の機嫌でも損ねた日には、命が飛ぶ危険性もある。

朝鮮側の妨害も壮絶であった。
この勢いでは、明から正式に冊封される前に兵を向けられ、殺される可能性さえある。

明ははるか遠くにある一方、朝鮮の首都から慶源までは、三日で大軍が到着する。

朝鮮が先に自分を殺し、既成事実を作ってしまえば、あとからどうにでも明に申し開きをすることできる。


進退極まり、迷っているところに、それを察したかのように再び明側から使者の王教化がやってきた。
曰く、明の朝廷から官職を授けるから迎えにきたという。

つまりは明朝の護衛団に守られて北京に入り、
そのまま正式な中央官僚としての身分が与えられるということである。

明の正式な軍隊に守られているモンケ・テムールを道中で襲うほどの荒唐無稽なことを朝鮮側がするわけはなく、
そうやって去っていったモンケ・テムールの部落を襲うのは、憚られる。

朝廷の正式な官僚となれば、これを害することは
明の朝廷そのものに刃向かうこととなり、朝鮮も手を出せなくなる。

--ここまでの安全保障を目の前に用意した明朝に対して、
モンケ・テムールは初めて明の臣下となり、故郷に帰ることを決心したのである。


一方、朝鮮側には使者を出し、明には従わぬことにした、と偽りの報告をする。
朝鮮王はこの言葉を信じ、国境の警備を緩めた。

明の永楽帝からも援護射撃が入る。
朝鮮王がモンケ・テムールを入朝させないように妨害していると知り、
永楽帝は怒り、朝鮮からの使者を叱責する。

曰く、モンケ・テムールは皇后の親戚であり、
北京に呼ぶのは皇后の望んだこと、骨肉の間柄で会いたいと思うのは、人の倫なり、と。
この皇后の件については、後述する。

朝鮮王は、永楽帝直々の叱責を伝える使者の言葉を聞くと震え上がり、
モンケ・テムールを北京まで送り届けるための護衛団を派遣した。

ところが護衛団が慶源に到着すると、
モンケ・テムールと明の使節団の一行は、すでに国境を越えて北京に向かったあとだったのである。

朝鮮王はその報告を聞き、青ざめるが、後の祭りである。
 

こうしてモンケ・テムールは、明の正式な官職を授かった。
永楽帝より建州衛指揮使を任命され、正式な印信(公印)を賜ったのである。

その後は明に忠実な臣下として、幾度にもわたり、朝貢で首都北京を訪れた。
永楽十一年から宣徳八年(一四一三から一四三三まで)の二十一年間の間に自ら入京すること七回に及んだ。

明朝側も周辺国の朝貢に対する礼節どおりに毎回宴席を以て迎え、各種の下賜品を授けた。
女真族側は特産品を上納するほか、戦役があった際には兵士を出し、明の軍事に貢献したのである。


明側が女真族を傘下に入れたい大きな理由もここにあった。

永楽二十年(一四二二)三月、永楽帝は大軍を率い、モンゴル北元の和寧王アルタイ(阿魯台)を撃つ。
このときモンケ・テムールは、一族の荘丁を率いて従軍した。

一連の活躍を評価し、永楽帝は次々とモンケ・テムールの位を上げていく。
最終的に宣徳八年(一四三三)には、右都督まで昇進した。


モンケ・テムールは、同時に朝鮮との関係も維持する。
前述のとおり、朝鮮から出兵された場合、数日のうちに到着するほどの近距離に存在する大きな政権なのだ。
敵に回すわけにはいかない。

幾度も使者を派遣し、貢ぎ物を献上することで、機嫌を損ねて侵略されることがないようにした。
 

それでも隣接する二つの勢力が完全に平和を維持することは、難しかった。 

永楽八年(一四一0)、朝鮮王は吉州察理使の趙涓に命じ、
大興安嶺のいくつかの女真部族(ウチウハ、ウリャンハ、ウデゥリ)を討つように命じた。
その命を受けて、趙涓は女真族の部族民の数百人を殺した。

数百人といえば、大興安嶺ではかなりの人数である。
生産性が低く、極寒の土地でなかなか人口が増えない厳しい環境である。


詳しくは後述するが、ヌルハチが軍を起こした時もわずか三十人だったといわれる。

女真人自身の人口がなかなか増えないために、漢人や朝鮮人を奴隷として誘拐することが、日常的に行われてきた。
その上、厳しい生活環境の中、ひどい処遇でこき使うため、
持続的な戦力とならないままに数年で使い殺してしまうことがほとんどであったろう。

朝鮮王が女真族を襲撃させたのも、どうやらそれが理由だったらしい。
自国民の誘拐が続くので、業を煮やしたのである。
 

というわけで朝鮮側に数百人の民を殺され、住居を焼かれるのは、大きな痛手であった。
モンケ・テムールの傘下に属する指揮(官職名)も二人殺された。

モンケ・テムールは怒り、弟のシュリ(虚里)とほかの若衆に命じ、朝鮮の慶源府を襲わせた。
つまりは、かつて自分たちが与えられていた居住地である。

どうやら朝鮮にとって、鴨緑江を挟んで東北とにらみ合っていた慶源(現在の北朝鮮・会寧)の地は、
女真族を始めとしたツングース系少数民族対策の最前線だったらしい。
 
この時の襲撃では、人畜を奪い、大きな打撃を与えたため、朝鮮の朝廷から慶源府に援軍がかけつけるほどの騒ぎになった。

一方モンケ・テムールは、明のモンゴル討伐軍に参加したために
モンゴルからの復讐を受けることも心配しなければならなかった。

それまでの居住地はモンゴル人の馬路(騎馬での通り道)に近く、危険だと称し、
永楽二十一年(一四二三)、明の朝廷に申し出、慶源への移住を許可されている。

つまり再び朝鮮時代の居住地に戻ったのである。

この際、朝鮮側とどういう話し合いになったかは定かではないが、
宗主国である明朝が許可したのだから、朝鮮としては従うしかなかったのだろう。



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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語2、モンケテムールと朝鮮

2018年02月06日 10時31分40秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
モンケ・テムールが登場するのは、元代の末期である。

東北地方も元朝の五つの「万戸府」を行政単位として、支配下に置かれていた。

ところが元朝が崩壊し、順帝が大都(北京)を放り出して「北帰」すると、
東北地方を治める勢力がなくなり、地域全体が空白の無政府状態と化した。

曲がりなりにもあったパワーのヒエラルヒーによる抑止力のたがが外れ、
互いに戦争を仕掛け、人間、家畜を奪い合う大混乱状態となった。
 

故郷のかかる惨状に悲鳴を上げ、
モンケ・テムールは、一族郎党を引き連れて朝鮮の領域内に移住した。

現在の北朝鮮の会寧にあたるところ、鴨緑江を超えたすぐ対岸である。

当時は高麗の支配下に置かれており、中央政権の行政がまだ機能していたため、
東北ほどの無政府状態ではなかったということだろう。

少なくとも夜寝ているうちに何者かに急襲され、起きたら妻はなぶりものにされて連れ去られ、
子供たちは奴隷に売られ、家畜すべてがなくなっていた、
というような悪夢は起こらなくて済む程度の秩序は保証されていたのである。


わずかの距離だが、今でも国境となるくらい広い川幅を持つ鴨緑江が天然の要塞となり、
勢力圏を区切っていた。



モンケ・テムールは、先に入植していた女真族らに倣い、
高麗王に朝貢し、臣下の礼を取ることでその身の安全を保証された。

その後、現地の都指揮使・李成桂の行政管理下に入った。


ところがこの李成桂がのちに高麗から独立し、李氏朝鮮を打ち立てることとなる。

モンケ・テムールは李成桂の独立戦争に参戦し、一族の壮丁を率いて従軍したという。


このように李氏朝鮮の創立にも直接関わり、モンケ・テムールは朝鮮との関係を深める。
自らも何度も入朝して朝鮮国王に朝貢の礼を取った。

例えば、李朝の甲申二年(明の永楽二年、一四〇四)、
モンケ・テムールは、弟、養子、妻の弟を筆頭に十数人を率いて朝鮮に朝貢し、
そのまま弟、養子、妻の弟は王都の侍衛として残してきた。

侍衛は王の近辺を守るエリート集団であるとともに、
重要な辺境勢力の子弟を人質に取るという意味もある。

また政権の中枢で国の一員としてのアイデンティティを強烈に植えつけて返す
といういくつかの目的を同時に担った方法でもあったのだろう。




明初の永楽年間に入ると、情勢がやや変化してくる。

永楽帝は首都を北京におくことにより、
それまで南方に置かれていた帝国の重心を大きく北に傾けることになる。
 
自らも幾度にも渡り、モンゴルに遠征した永楽帝は、北方の防衛を何よりも重視しており、
東北地方もできるならモンゴル族以外の、
モンゴルの勢力下にない部族らに住んでほしいという思惑があった。
 

そこで戦乱で東北から離れてしまった女真族を呼び戻す動きが始まる。
 
永楽三年(一四〇四)、明は使者の王可仁を朝鮮領域内の女真族居地区に派遣し、
勅令を読み上げさせて帰順を勧めた。

朝鮮は明朝に臣下の礼を取っているから、もちろんこれを阻止するわけにはいかない。
 
使者の持ってきた勅令は、
天下が平和になり、明が中原を治めるようになったことを知らせる、
という内容だった。
 

しかし東北が「緩衝地帯」であるのは、朝鮮に取っても同じである。
朝鮮王としては当然、女真族を自分たちの支配下に置きたいと思う。

思えば歴史上、朝鮮半島の王朝は何度にもわたり、中国の王朝から攻撃を受けてきた。
モンゴルによる支配も受けた。

災いの多くは、北からやってきたのである。

その際、通り道となる東北の原住民が、
敵側について道先案内役となり、率先して協力し一緒に朝鮮を攻めるのか、
朝鮮の表玄関となって防御の役割を果たしてくれるのかでは、
天と地とも差があるのだ。

しかし朝鮮側としては、明を宗主国として仰いでいる以上、
女真族らを呼び戻す明の使者に真っ向うから抗議するわけに行かない。

そこでまずはモンケ・テムール側に対し、懐柔作戦に出た。

この時期にモンケテムールに慶源などの地の軍万戸を管理する印信を授与し、
清心丸、蘇元丸、木綿布、白寧布を下賜している。
 
清心丸、蘇元丸はともに漢方薬、今でも北朝鮮の特産品である。

清心丸は朝鮮人参を主成分としており、解熱に効く。
生産性の低い時代には、高価なものだったのだろう。

これで交易することにより、さまざまな物と交換できたのだろうと思われる
価値の高い経済商品である。
 

一方、朝鮮国王の李芳遠は、明朝の朝廷にも使者を出し、
「モンケ・テムールは戦乱を避け、一家を挙げて朝鮮の慶源に住み着くこと二十年、
 朝鮮の朝廷に仕え、倭寇の撃退にも功がありました。
 万戸に封じられ、久しい」
ため、

これまでどおりにしてほしいと請うた。



朝鮮に引き止められ、明朝に帰順を誘われ、
モンケ・テムールは決断を迫られた。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている

  
  
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東アジアの兵器革命―十六世紀中国に渡った日本の鉄砲
クリエーター情報なし
吉川弘文館


目次を見て、ちょっと鳥肌たっています。

日本の戦国時代の戦法と鉄砲技術が、
朝鮮出兵を機に朝鮮・明朝に伝わっていき、
大陸の兵器革命を引き起こした、という内容。

日本の鉄砲隊の戦法が、第一次大戦くらいまでは、
世界の戦場でも充分に通じるくらい先進的だったという話は、
どこかで読んだことがあったが。。。

時間をみつけて、本格的にかぶりついて読みたい。
コメント (2)

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説

2018年01月17日 16時01分11秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
今日から新しいシリーズを始めたいと思います。

清朝の創始者ヌルハチの満州の原野にいた頃の話です。


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どの民族にも、民族誕生伝説というものがある。
アイデンティティーの拠り所として起源・誕生伝説が必要となるのだろう。

--ヌルハチから興った清朝にも、それがある。

しかしその誕生伝説は王朝としての体制が整ってきてから、慌てて作ったことを思わせるような、
いかにも後から取ってつけたようなものだ。

恐らく大規模な統治集団になってから、
起源伝説もないようでは体裁が悪いというので、短時間の間に急に作り上げた物語なのだろう。


いわく、三人の仙女が長白山の天池に水浴みに来たところ、
カササギが赤い実をくわえてやってきた。

三人姉妹のうちの末っ子の仙女が、その赤い実を食べてしまった。

するとおなかがどすんと重くなり、妊娠したことがわかった。


・・・・このあたり、いかにも慌ててつくった疎漏さが窺える笑。
どすんと重くなっただけで、なぜ年端も行かぬ少女が妊娠とわかるねん、とつっこみたくなる笑。

恐らくこれを聞いた清代の人も誰もあまり重視せず、
軽く受け流してしまうくらい重きを置かれなかったために、
さらに詳しく掘り下げて表現する必要がなかったのだろう。

作った方も聞く方もみえみえのフィクションをしたり顔に納得した振りをするための舞台装置だったのだろうか・・・・。


体が重くて飛べない、と末っ子がいうと姉二人は、
あなたを待っておられないから身二つになったら、飛んできなさい、
と言い残し飛び去っていった。

のちに三仙女は子供を産み落とし、
その子は生まれた瞬間から言葉を話すことができ、すぐに大人になった。

・・・・さらに手抜き感たっぷり。
ディテールすべてすっとばしですねー。


・・・・・と、甚だあやしい民族誕生伝説である。



清朝の始祖ヌルハチの先祖の逸話が現実味を帯びてくるのは、
ヌルハチの六代前の始祖と位置づけられるモンケ・テムールからである。

かささぎが運んできた赤い実と仙女の間に生まれたとされる
始祖プクリ・ヨンシュン(布庫里雍順)からは何代のちのことなのか、
はっきりということができぬらしい。

このあたりもかなりいい加減な起源伝説とわかってしまう笑。

 

ところでこのモンケ・テムール。

名前を聞いただけでも如何にもモンゴル風である。
時代は元代である。

「モンケ」といえば、
モンゴル帝国の第四代ハーン、チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男と同名。

「テムール」は、
中央アジアを席巻した自称モンゴル帝国の末裔の「ティムール」と同名という、
贅沢な組み合わせである。


ちなみに元朝最後の皇帝、北京を捨てて北に回帰した「順帝」の名前も「トゴン・テムール」。
「テムール」はモンゴル的には極めてポピュラーな名前である。


モンゴル人が一番の先進民族だった時代なだけに、
それにあやかる響きの名前をつけたということらしい。

現代でも先進民族であるキリスト教諸国風なリサ、マリア、
といった名前がはやるのと同じことといえるだろうか。




ヌルハチ以前、モンゴルと満州がどういう関係にあったかといえば、
当時の満州族の重要な特徴として、文書はすべてモンゴル語で書かれていたということがある。

十二世紀に女真族によって創設された金王朝は、
漢字と契丹文字を参考にして女真文字を作ったが、
これはどうやらあまり合理的な文字ではなかったようである。

使いにくいことに加えて金の滅亡後、女真族は東北の原野のみで暮らす原始的な民族に逆戻りし、
それぞれの部落で自給自足を基本とした生活を送り出したため、
文字も大して必要はなくなってしまった。

元来、文字とは社会が複雑化してきたときに初めて必要となるものである。
私有財産・土地・不動産の複雑な取引きが始まれば、
これを証明する契約書が必要となり、そのために文字にあらわす必要性が出てくる。

広大な領土を統一された法律で治めるためには、
その命令を伝達するために行政文書を書く必要性が生まれ、
過去の過ちを繰り返さないための反省材料としては、歴史を記すことも重要となってくる。


ところが、大興安嶺の原野に戻り、
限られた狭い地域の中で部族同士が大規模に連帯することもなく暮らすようになった女真族には、
単純な社会構造のために契約書も必要なく、
活動範囲が狭いために行政文書の流通も必要なくなり、文字が廃れてしまったのである。

それでも何か文字に残さなければならないものが発生すると、モンゴル語を使うようになった。
日本で正式な文書が多く漢語で書かれたこと、朝鮮でも漢語で書かれていたことと似た現象だろうか。


それはモンゴル語の文字体系が、少なくともかつての女真文字よりは、洗練されていたことがあるのだろう。
かつては広大なユーラシア大陸を治めた民族である。

最も、当初モンゴル人がつくらせたパスパ文字は、合理性に欠け、使いにくかったために結局廃れてしまい、
普及したのはかつてウィグル人が使っていたまったく別の文字体系なのだが。
とにかくもそのような自然淘汰の試練を受けてすでに確立された文字体系である。

さらには行政に関することを中心として、
モンゴル語ではすでに豊富な語彙と表現方法が確立されており、満州語にはそれがなかったこと、
満州語の表記方法が確立されておらず、そのまま表記するには不都合だったことがあったのだろう。


つまりモンゴルは、満州族にとって先進文化を持つ民族だったのである。




興味深いのは、天下を取った後の清朝が、自らの先祖を記すときの扱いである。

中原の主人となったからには、
あらゆる書物を少なくとも漢語に翻訳して公開する必要があるわけだが、
その時の固有名詞の漢字の使い方に微妙な民族意識、自尊心が表れていて興味深い。
 
例えば「モンケ・テムール」の「モンケ」の漢語表記である。
モンゴル帝国のハーン、モンケ・ハーンの場合は「蒙哥」であるし、
朝鮮の書物に記録された女真族「モンケ・テムール」の場合は、「猛哥」である。

「テムール」も一般的には「貼木爾」の字が当てられるのがポピュラーだった。
ところが、「蒙哥貼木爾」の漢字を使うと、ビジュアル的にあまりにモンゴル的なためなのか、
清朝の史書には「孟特穆(モントムー)」と書かれている。


まったくなじみのない漢字の組み合わせを使うことにより、
そのモンゴル色を消そうという苦しい試みが伺われて、いじましい。

統治者としてのプライドを表現しようとする微笑ましい現象だ。



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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている






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