いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2011年5月の記事一覧表

2011年05月31日 17時36分09秒 | 月別 記事の一覧表

2011年5月の記事一覧表:

 

胡同物語「雑居四合院」の人びと
 2008年前後、オリンピック準備で沸き立つ北京。胡同に住む人々の人生と生活を描き出す。

記事の一覧表:

2011.5.1.    1、胡同の長屋暮らし
2011.5.2.    2、小堂胡同の暮らし
2011.5.3.    3、住みついた経緯
2011.5.4.    4、四合院の公共化
2011.5.5.    5、唐山地震とせり出し小屋
2011.5.6.    6、番外編「心」
2011.5.7.    7、今も胡同に暮らす人とは
2011.5.8.    8、「うちがつぶれたら、トイレに住んでやる」

2011.5.15.      上海出張。日本の歴史と文化の講義

 


上海出張。日本の歴史と文化の講義

2011年05月15日 22時44分46秒 | 北京雑感

* この文章は、2011年1月14日のものをアメブロから移植したものです。
  時系列は正確ではありません。 

***************************************

昨日、夜遅く上海出張から帰宅。
私の通訳、翻訳のほかのもう一つの生業、企業研修の講師を
勤めに行って来ました。

まったく日本語のスキルなし、日本への予備知識なし、という
日系企業の中国人新入社員に日本の歴史と文化のガイダンスをする、
という内容です。

日中の双方が、英語・中国語で交流するにしても、
文化背景がわからないと、仕事がスムースに行かない、ということから
ニーズが生まれたものです。

講義は8時間ぶっ続けで中国語でしゃべり続けるという、
かなりタフなカリキュラムですが、
こちらも受講者を退屈させないためにあの手この手で盛り上げることに
智慧をひねります。

PPT、お座敷マナーの実践のロールプレー、口頭テスト、
映像鑑賞などを交えて、無事8時間が終了。
そのまま会社から空港に向かい、日付が変わる前ぎりぎりに
北京に帰り着きました。


本日は疲労が取れず、へろへろなので、胡同の物語は1日お休みいたします。
お気楽な日記で失礼いたします。。。

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胡同物語「雑居四合院」の人びと  記事の一覧表

2011年05月08日 10時06分33秒 | 北京雑居四合院の人々

胡同物語「雑居四合院」の人びと
 2008年前後、オリンピック準備で沸き立つ北京。胡同に住む人々の人生と生活を描き出す。

記事の一覧表:

    1、胡同の長屋暮らし
    2、小堂胡同の暮らし
    3、住みついた経緯
    4、四合院の公共化
    5、唐山地震とせり出し小屋
    6、番外編「心」
    7、今も胡同に暮らす人とは
    8、「うちがつぶれたら、トイレに住んでやる」


「雑居四合院」の人びと8、「うちがつぶれたら、トイレに住んでやる」

2011年05月07日 11時25分13秒 | 北京雑居四合院の人々
王府井から歩いて5分の一等地にある内務部胡同、
北洋政府の内務部にちなんだ名だという。


別章(「胡同トイレ物語」)で触れる最後の手すくいぼっとん便所があった場所を取材しに訪れた時である。
かのぼっとん便所の場所を探してあちこちの人に聞いてまわる。

 
ちょうどそこに、どこの宮殿かと思うほどきれいな公共トイレを工事しており、工事の人に話しかけた。
この辺りは王府井に近いため、外国人の目にも触れやすいからか、トイレの美化に力を入れているらしい。
灰色の高級レンガで四合院風のトイレだ。


   

写真:ピカピカのトイレ 

著者注: 2011年の今となっては胡同のピカピカトイレもあちこちに建てられ、
 すっかり風景に溶け込んでいるが、
 2004年当時は、周りの風景から浮かび上がるほど異様な後光を放っていた。
 まぶしすぎる。



すると通りかかった中年女性が
「まったく庶民はぼろぼろの崩れかけた家に住んでるってのに、
 トイレだけこんなに豪華にしてどうするのよ。うちがつぶれたら、トイレに引っ越してやりたいわ。」
とぶつぶつ言っている。
トイレに住んでやる、のセリフに思わず吹き出す。



「ほんとよ。この前テレビの取材が来た時もうちに連れて行ってやったわ。
 雨漏りに隙間風にねずみのかじった跡、倒れても不思議じゃない民家ほっといてトイレばっかり立てて。
 しっかり写して庶民の苦しさを宣伝してって言ってやった。」

 

私は新聞記者ではないが、一眼レフを持ってあれこれ聞きまわっていると、
すっかり記者だと思うらしくむこうはそのつもりでまくし立てる。
(著者注: これも今となってはまったく珍しくなくなったが、
 2004年当時は、素人が一眼レフを抱えていることは、めったになかった。。。)


試しに家を見せてほしい、というと快諾してくれた。

 

ぴかぴかの公共トイレの脇から入る、
人一人すれ違うのがやっと、という細さの胡同に、おばちゃんはずんずんと入っていく。


途中民家の塀が倒れかけて壁と壁の間につっかえ棒がしてある。
その下をくぐっていく。

「ほらほら、見て頂戴。抗日戦争の日本鬼子(リーベングイズ)相手の地下レジスタンスみたいな体験ができるってわけよ。
 すごいでしょ。このつっかえ棒の下通らないとわが屋にはたどり着けませんよ。」
と節をつけて唸っている。


「日本鬼子」の言葉にひやりとしながらも、私はお愛想笑いをした。
つっかえ棒を超えて数歩も歩くと、住まいの入り口にたどり着いた。


かなり小さな中庭に数軒がひしめき合っている。
中庭は人が一人通れる程度で自転車を方向転換させることは出来ないくらいの狭さだ。

彼女は、どんどん狭い胡同を進んでいく。

   



   



   

曰くの「日本鬼子(リーベングイズ)相手の地下レジスタンス」体験ができる支え棒。倒壊防止。



中庭に入ったとたん、四合院のイメージらしからぬその狭さに驚く。
用途不明の不可思議なものがひしめき合って視野に入ってくる。
住民のテリトリーの境目の判別がつかず、しばし判断機能が麻痺した。

   
   




   
 


「娘を女一人で育て上げてきたからね、私一人の年金で学費出してるから、
家が倒れかけても修理するお金なんか一銭もないわよ。

このぼろぼろの屋根を見て。ここから空が見えるでしょ?
ここは房管局(家屋管理局)の人に言ったら、ダンボールを当ててくれたわ。」
と家の壊れたところを一つ一つ説明してくれる。



間髪いれず、機関銃の如くしゃべる続ける鬼気迫る彼女に母子家庭のわけを訪ねる勇気はなかった。


   

写真:ダンボールの当てられた屋根近くの部分。
「この状態をぜひ撮ってくれ」と、指示が出される。         



入り口には手作りでせり出したバラックのような部分があり、さらにおくに広い部屋が一つある。
前述の台所にされている典型的な「せり出し小屋」だ。
奥の部屋では、昼間でも蛍光灯をつける。


   

写真:手前に「せり出し小屋」の台所があり、奥に大きな部屋がある。


   

写真:「せり出し小屋」なしだった時の様子が、かろうじて残っている


娘は21歳、旅行学院に通う。
彼女一人の年金は1ヶ月800元、娘に渡す学費と生活費を引くと、残るのは200元ほど。

今時ちょっと日本料理を食べれば一人200元くらいすぐになくなるご時世だ。


「それじゃあ暮らしていけないから、こういうのも拾わないとやっていけない。」
指差したのは、床中に転がっているペットボトルである。
街中でよくゴミ箱を覗いて空き瓶を探す人がいるが、廃品回収らしい。


「この胡同に住む定年退職者はほとんどが拾ってる。やっていけないからね。」


   

生活空間の奥の部屋。


   

床に転がる廃品のペットボトル

 

中国では物価のわりにペットボトルの回収金額が高い。1本につき0.1元。
10本拾えば、1元。1元あれば季節の野菜が2食分くらい買えてしまう。




廃品のペットボトルを足で蹴飛ばしながら、ひたすらしゃべり続けるおばちゃんに、
私はやっとのことで口を挟み、聞いた。
立ち退きの話はないのか、と。



「取り壊すって話はあるけど。私としては望むところよ。
でもだからってどうしたらいいか。
この部屋で補償金っていったら、20万元(約300万円)行かないからね。
今時20万で何が買えるよ。」

 

確かに中途半端な額だ。

何しろ面積が少ない。


せいぜい15㎡しかない部屋だから、いくら土地がいいと言っても合計額は知れている。


今時都心で3DKくらいのアパートを買おうと思ったら最低60万元はする。
20万元買えるところならかなり辺鄙な遠方の郊外になる。


しかも新興のアパートはやたらと管理費や光熱費が高く、出費が多い。



「私にはアパートに住むようなお金はない。高くて住めない。
 長屋にしか住めない。

 立ち退きになるとしてももう少し広めの長屋と変えてくれるのが一番いい。」
としんみり言った。

 

著者注: 2011年の現在、不動産はうなぎ上りなのは周知のとおり。
都心の3DKなら200万元―300万元はないと買えない。

その代わり、立ち退き代もこれに合わせて上がっており、1㎡につき10万元程度の補償金が出る。
あれから6年。この女性はまだここに住んでいるだろうか。
がっぽりと補償金が降りて、土地成金になって左団扇で暮らしているのか。
一人娘のためにアパートを買ってあげでもしただろうか・・・。



「部屋を人に貸せばわけはないんだけどね。ここのお向かいの人も貸し出してる。
 一部屋350元、でもそれは個人名義の部屋だから。
 うちは職場からもらった社宅。だから国のものを人様に貸すことはしない。」

 

雑居四合院の賃貸料は、そのインフラの悪さのためにひどく安い。
旧北京城内という都心の立地にも関わらず、一部屋300-500元が相場だ。


社宅なら貸し出したらだめなのか、と聞くと
「貸してる人はいる。そういう人はそれで勝手に貸せばいい。
 でも私はしない。

 これはポリシーだからどんなに貧乏しても貸さない。
 国がくれたものであって私のものじゃないから。」

 

断固たる口調は、トイレに住んでやる、と啖呵を切った同一人物の中に同時に存在することが、
鮮やかな対象を成しており、一外国人の私には少しまぶしく感じられた。

 

機関銃のようにしゃべりつづけるおばちゃんの話は、
いつのまにか協和病院で問診を受ける整理番号を売るブローカーが如何にあくどいか、
という話に移り、延々と続いた。


体のあちこちにガタが来ているが、医療費が高くてとても診に行けない、とさらに話は続く。
適当なころあいを見計らい、やっと隙をねらって立ち上がり、話を聞きながら入り口に進んだ。


見送りながら、なおもしゃべりつづけるが、最後に出口でふと、

「ところでどこの新聞に載せるの?」
と聞かれた。

私はすこし口を濁し、日本のメディアに情報を提供している、と曖昧に答えた。

「え??  日本(リーベン)? そりゃまずいって。
 今言ったこと全部書かないでよ。
 日本鬼子(リーベングイズ)にこんなみっともないこと知られたくないよ。えー、やめてね。書かないでね。」

彼女は急に慌てだした。



「内輪ではいいの。私の窮状も大いに訴えて、見てほしい。
 でも外には見せたらだめよー。特に鬼子(グイズ)にこんな弱味知られるのは、冗談じゃない。」


あきらかにしまった、と思っているらしい。
複雑そうな顔で見送る彼女を後にして、礼を言って立ち去った。

 


偶然にも呼び寄せられたお宅だったが、胡同に住む人々の切実な現実を垣間見た。
周りに立つ高層ビル、道端に建つぴかぴかのトイレ。


ペットボトルを拾い、娘の学費を出す定年退職者。
中国人の「内」と「外」に対する強烈な意識のコントラスト。


ほんの数分のお宅拝見だったが、おばちゃんの強烈なキャラにたじたじとなりながら、
見てきたことを脳みそで消化するための急激な血の逆流に耐えつつ、ふらふらと「抗日ゲリラ」胡同を後にした。




   

写真: 「抗日ゲリラ」胡同




   

写真: おばちゃん家の胡同をはさんで向かい側の雑居四合院。
屋根は雨漏り防止のために、防水シートが貼られる。




おばちゃんの奇妙なる一徹な「哲学」は、私にとって北方の中国人の一典型でもある。
ペットボトルを拾うほどの貧乏をしても部屋は貸し出さない、
周りが部屋を貸し出そうが、自分には関係ない、自分の「哲学」に合わないことはしない――。



ぼろぼろの部屋を直してくれない当局への不満をぶちまけるため、マスコミを家に呼び入れるが、
日本人相手には、いきなり政府の味方に逆戻りする――。


内輪もめはするが、外に向かってはひとまずは味方になる――。


という誰の意見を基準としたのでもない独断と偏見の「奇怪なる魂」が存在する。

 


日本人から見ると、おばちゃんが風変わりな人であることは間違いないが、
流れに流されない独断の「わが道を突っ走る」傾向は、彼女だけのものではない。


印象深かったのは、ある日本留学の経験のある中国人との会話である。


日本の「いじめ」の話になり、中国にいじめはないのか、と私が聞いた。


彼は、中国にも一部のいじめっこがいるが、
必ず「自分のポリシーとして」いじめは許せない、とかばう奴が出てきて、
そんな深刻な事態にならない、という。

 

私は、日本ではいじめられる子には、体臭がするとか、協調性に欠けるとか、
何か「いじめられても仕方ない」という公認の理由が挙げられて「正当化」され、
皆が仕方ないこととして受け入れるか、いじめられる子をかばうと、自分まで村八分にされるから見てみぬ振りをすることが多い、と説明した。


そういうことは関係ない、と彼は断固として言い切った。


自分の信念として「いじめはよくない」と思えば、どんな理由があろうと、
「見ちゃいられない」と、その情況に介入するし、そのために自分が村八分になろうとも知ったことではない、と。


別にいじめられる子に同情するのではなく、「わが道を突っ走る」延長上に「阻止した」事実が出来るまでである。

 


まさにおばちゃんの「哲学(家は貸し出さない。国からいただいたものだから)」の延長の結果として、
「ペットボトル拾い(収入が足りず、食べていけない)」という事実が出来たが、
それは彼女にとっては「知ったこっちゃない」のだ。

 

北方人にこの傾向が強いのは、常に「フロンティア」が存在したからか。


内地にいられないような事情が起きると、人々は「万里の長城」を越えて北に逃げた。
中原で明代に当たる時代、長城の外に都市フフホトの基礎を築いたアルタン・ハーンの元には、
大勢の漢人亡命者が集まっていたという。
フフホト建設には、多くの亡命漢人らが参加していた。

 

その「逃げ道」への潜在的意識が、北方人のアイデンティティを形成する根底にある。

 

私とて大陸という「フロンティア」を目指して日本から出てきた現代版「大陸浪人」といえぬこともない。
同じ潜在意識の中で、おばちゃんのどぎつさに辟易しつつも、どこかで一目置いている部分を認めぬわけにいかない。


写真:2003年2月。西直門の前幅胡同。春節中。各家の門前に国旗がはためく。

    



    
    

写真:貼り替えたばかりの春聯の赤も色鮮やかに。


    

写真:門構えの石彫刻がひときわ豪華な一軒を発見


   


   


   






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「雑居四合院」の人びと7、今も胡同に暮らす人とは

2011年05月06日 21時59分44秒 | 北京雑居四合院の人々
今でも胡同の雑居四合院に暮らすのは、ほとんどが北京で最も低所得に属する人々である。
今日、雑居四合院に入ると空き部屋が少なくない。
そこに粗末な南京錠一つがかかかり、もう何年も人が住んでいないことが多い。




それはある程度お金に余裕が出来たり、職場からアパートが支給されると、
そこから引っ越していき、住まなくなった部屋である。


何しろ「大雑院(ターザーユエン)」生活は、

・ 狭い: ほとんどの家庭は一部屋でせいぜい一二部屋しかない。隣の部屋を買い取ることもできない
・ 暗い: 前述のとおり、ほとんどの部屋が「せり出し小屋」を立てているため、採光が悪く、24時間電気をつけなければならない。
・ 汚い: 水道が共同、雑多な人々が使う水周りを清潔に保つのは難しい。
・ トイレが遠い: 道端の公共トイレへ行かなければならない。時には数百mも離れていることもある。

の悪条件が揃っており、どうにも改善できない。


これでは条件のある人は出て行きたくなるのは自然だろう。


外国人が胡同の間を練り歩き、素敵だ、文化だ、と興奮できるのは、
人事だからであり、実際に住んだらひどく不便なのである。



***************************************************************************
写真: 番外編


西単の小堂胡同の王さんのお宅を後にし、
友人は実の祖母どののところに案内してくれた。


小堂胡同から歩いていくばくもない什坊胡同である。


おばばさま、やや耳も遠く、話の受け答えもおぼつかなく、
夢見心地なようだったので、写真を撮らせてもらうだけにとどめた。

  
    


  
   

ばばさまの住むのも、ごくこじんまりした「一進院」の雑居四合院だった。



   

中庭。ばばさまの住まいは、南向き正面の部屋である。



   

入り口には、豆炭を保管するための小屋を設ける。


   

「せり出し小屋」を造っていないため、南の太陽が冬でもさんさんと降り注ぐ。


   

部屋の中では、グリーンを育てる。琺瑯のコップは、使い込まれて年季が入っている。


   

暖房主力の豆炭ストーブ。
手洗い用の洗面器入れも必須の生活用品。

写真ではわかりにくいが、
上に重ねてある赤っぽい洗面器は、プラスチックではなく、なんと真鍮製。
めったにみかけないものだ。


せり出し小屋のない理由は、台所が共同になっているためである。
どうやら四合院の規模が小さいので、可能だったらしい。

   
   

台所の外観。
北向きの部屋をあてている。
誰も住みたがらない位置を利用。

入り口のテーブルの下に積まれたレンガや石に注目。
おそらく「スペアの建材」として、ストックしてあるのだろう。
ストーブの下に敷いて底上げしたり、ドアストッパーにしたり。あると何かと便利なのだろうか。

  



ばばさま、炊事中。

   



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「雑居四合院」の人びと6、番外編「心」

2011年05月05日 20時49分34秒 | 北京雑居四合院の人々
番外編

本文とはややはずれた話題になるが、
「王さんが息子のために違法建築を建て、当局は黙認したが、使用権証明書は出さなかった」
(子供たちの部屋--「雑居四合院」の人びと⑦ の最後の部分、参照)
という一つの現象について、

私はほかの中国体験にも共通する「ケースバイケース」、「でも証拠は残さない」という「心」を見た(笑)。

 

まったく別の話になるが、
例えば先日北京から飛行機に乗る際、預け荷物がオーバーになった時のことである。

ご存知のように20kgの制限であれば、23kgくらいまでなら大目に見てくれる場合が多いが、私の荷物は26kgほどあった。

 

20代前半と思しき係員の中国人の女の子は「6kgオーバーですが、どうしましょう」と私に聞く。
仕方ないので、私はその場でスーツケースの中から、棄てることのできるものを取り出し始めた。

それがすべて透明な袋にパッケージした雑穀の数々だった。あわ、黒米、ひえ・・・。
「母が好きなのよ」
と愛想笑いを浮かべると、彼女もふふ、と笑った。


―――どうやらこの「雑穀」というアイテムと私のコンビネーションが、彼女のツボにはまったらしい。


 
シチュエーションとしては、日本のパスポートを持っているが、
中国人にしか思えないこの女性は、帰化した「偽日本人」に違いない。


こういう外人に成りすまして、元の同胞を馬鹿にする連中は、
鼻持ちならないからいけ好かないに決まっているが、意外とかわいいことをするではないか。



なんらかの事情で日本に中国人の母親がおり、
田舎の農婦が好みそうな雑穀のお粥を作るためにせっせとこんな泥臭いものを運んでいる、愛いやつじゃ、
・・・・という「ふふ」の笑いだ、と私には聞き取れた。

 

実際は私の母がおみやげのリクエストを考えあぐねた末のアイテムでしかなかったのだが。


今どき、日本で何を買っても中国製品があふれかえっており、
中国からわざわざ持ち帰ってほしいものなど、思いつかないのである。


その中で雑穀なら唯一、スーパーの棚に豊富に並んでいるわけではないから珍しい、という程度の選択だった。



未練がましく私がぐずぐずと選別作業をしていると、
驚異的な臭覚で嗅ぎつけてきた掃除のおばちゃんがモップを片手に擦り寄ってきて、我々に
「これ、皆棄てるの?」
と、眼を爛々とさせて声を絡ませた。



すると、係りの女の子は、
「それは知らないわ」
と答えるではないか。

 

二人に激しく無視されること数分。
おばちゃんはあきらめてその場をひとまずは離れた。


が、数十メートル向こう側から、虎視眈々と我々の動向を伺っている。



中国では雑穀は、中年女性の大好物、と構図が決まっているのだ。
夕食には大抵、雑穀のおかゆを食べる人たちである。


一通り荷物を減らすと、係りの女の子は私にさりげなく聞く。
「では、この分は私が棄てますか。それともあそこのゴミ箱に自分で棄てに行きますか。」



およよー! この子は助けてくれようとしているー!
以心伝心でがっちり心がつながった瞬間、私も
「自分で棄てます」
と答えた。



その後、少し離れたところまで行き、手荷物の中にすべての雑穀を入れ、
まったく棄てなかったことはいうまでもない。


後ろを振り返ると、彼女はわざとほかの作業をして私の方を見ないようにしてくれていた。




遠巻きに観察していた掃除のおばちゃんが恨めしそうにこちらを睨んでいたが、同情の余地なしである。




これが日本であれば、オーバーチャージを大目に見てくれる場合もなきにしもあらずだが、上司に確認した上、
「お客様、オーバーしていますが、今回限りということで、
 次回から気をつけていただけましたら、今回はこのままにさせていただきます。」
ということはある。


つまり「筋をとおした」上で、「許す」のである。




中国では「証拠を残さない」点がもう少し徹底している気がする。


つまり女の子は、万が一私のオーバーチャージへの処置が問題になり、
責任を問われた場合でも
「棄てるようにちゃんといいましたよ。棄てなかったのは、相手の落ち度であり、私の落ち度ではありません」
といえるよう、予防線を張っている。

 

たかが20代前半のうら若き女性にそこまでの政治感覚があることに、私などは頭がくらくらするが、
おそらくこれは個人の能力ではなく、一民族が共有する歴史的な智慧の結晶なのだろう。


成長する過程で、周りの大人たちの言動を見て自然に備わる「習慣」だ。
中央集権の伝統の中で激しい権力闘争の繰り返し、培われたものである。(文革も含め)


また日本であれば、「個人的な好意」は、あまり関係ない。
たまたまその日は乗客が少なかった、預け荷物が少なかった、という理由で
やや基準を緩めているのであり、私が「雑穀」を棄てようとしたためではない。



しかしこの女の子は、一旦は「オーバーチャージとってやる」と決めた後で、
個人的な好意が湧いたことにより、采配を効かせている。



王さんのご子息の部屋建築にも共通する「心」がある。
成人した男性が結婚するのに、部屋が手配されないのは、気の毒だ。


しかし社会的事情として、どうしても手配してあげられない。
だから不法建築を黙認するが、「証拠」となる使用権証明書を発行することはできない―――。

 
  

写真: 「雑穀」とは無関係ながら。「胡同」関連ということで。
 2004年。崇文門のそごう東北側の胡同取り壊し現場。



   

登下校時間。取り壊しも日常の一部。




白壁は、工事の目隠し。美観(???)のため。







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「雑居四合院」の人びと5、唐山地震とせり出し小屋

2011年05月04日 11時12分36秒 | 北京雑居四合院の人々
このころは中庭もきれいさっぱり、広々していて美しかった。
桃の木もあったし、中庭でぐるぐる自転車を乗り回すこともできた。


ところが今は、中庭に勝手に部屋の増築をして、人一人すれ違えるくらいしかスペースがない。
もはや中庭とは呼ばず、ただの通路だ。
自転車の方向転換も出来ないくらい狭い。

これはどこの雑居長屋でも判で押したように同じ風景、同じ事情になっている。




写真:「せり出し小屋」が占拠し、「通路」しか残されていない中庭。王さんの部屋から出て東側を撮影




みごとにひと一人通れるスペースを残して、すべて占拠されている。

 
いつからこんなことになったかと言うと、決定的だったのは唐山地震の後である。

ちょうどこの頃、解放直後に北京に住み着いた20-30代の若者達が結婚して子供が生まれ、
20年が過ぎ、子供たちが大きくなってかさばる頃に当たった。

夫婦二人に小さな子供だけの頃は、一家一部屋だけでも大して不都合は感じなかったが、
子供たちが大人と同じくらい図体がでかい年齢になってくると、どうにも困る。

 

そこにちょうど唐山地震が起きた。
1976年夏に起こったこの大地震は、
唐山はもちろん、数百km離れた北京でも激しく揺れた。


大量に死者が出るような揺れ方ではないが、一年間くらい余震が続いた。
しょっちゅうぐらり、と来ては市民を戦々恐々とさせた。

 
この頃、北京の胡同にも多くの倒壊危険家屋があり、
当局はそういった家屋が地震に堪えられないのではないかと本気で心配したものである。

そこで住民が各自で「避難小屋」を建てるように指導した。

 
梁や高い壁のない、押しつぶされる心配のない低い壁に油紙や板を渡しただけの屋根の掘っ立て小屋を作り、
夜はそこで寝る。


地震がきても倒壊した建物の下敷きにならないですむというわけである。
建材として職場からレンガが配布されたりもした。
配布されない場合はその辺で手に入る廃材で人びとは適当に作った。

 

どこに立てるかというと、自分の家の入り口である。
さらには北京の通りという通りにバラック避難小屋が出現し、人びとが野宿をした。


冬になっても余震は続いた。
零下二十度になる北京の冬では冬支度をしっかりしないと凍死する。

 
そこで「避難小屋」は次々に補強された。
ほとんどアウトドア状態だったのをしっかりレンガで屋根まで立ててあらゆる隙間をふさいだ。


それぞれが自分の経済力と収集力の及ぶ限りの材料であれこれ継ぎ足した。
屋根に芦のムシロを葺き、レンガを黄土と水でこねた泥で固定し、さらにはレンガの壁にも塗りつけ、薪で窓枠を作った。

 

年を越し春が過ぎるとようやく次第に余震もなくなってきた。
揺れなくなるとさすがに道路にせり出した小屋は取り壊されたが、
四合院の中庭に建てた避難小屋は、一年近くもたって、すでに生活の一部と化してしまい、
今更取り壊されたら狭くて暮らせない状態となってしまったのである。

 
ちょうど人口密度の高さに皆が息苦しくなっていた時でもある。
それがそのまま既成事実になっていく。



雑居四合院の中庭は限界まで各家庭に占領された。
今、雑居四合院をたずねるとそのせり出し方は実に合理的にできていると感心する。
狭い路地を曲がる部分は角が丸くなっており、ちゃんと自転車がつっかえないようになっている。


これはお互いが譲り合って自然にこうなったわけではなく、
この「せり出し小屋」が成立する過程、揉め事は日常茶飯事だったという。

そちらが多く陣取った、あなたのせり出しで通路が通れない、と土地の奪い合いだ。
当時、ある派出所の民事争議の85%は中庭の土地奪い合いに関する言い争いだった、という統計もあるほどだ。



私が雑居四合院を訪ねたのは、2000年以後のため、
すでにすっかり科学的に落ち着くべきベクトルに収まっていたということか。

 
王さんの部屋にも「せり出し小屋」はあった。
このとき王さんの部屋は南向きの西端の部屋になっていた。

縫製工場が立ち退いてから南向きの部屋が空き、日当たりのいい部屋に変わったのである。
せり出し小屋は大抵台所となる。

中華料理は高温の油でいためるため、沸点を越した油が煙となってもうもうと立ち込め、
その後、部屋中に広がり冷めると、あちこち油でべたべたになる。


従って料理をするガスコンロは窓のそばにあるのが一番よい。
四合院は入り口にむかった一面しか窓がないため、自然とせり出し小屋が台所になってしまう。


すると台所の向こう側にある部屋本体は薄暗いことこの上ない。
大抵の部屋が昼間から電気をつけなければならない。

それでも仕方ないのだ。これが最良の方法、と考えに考えられた配置である。



この雑居長屋で王さん一家の日々が過ぎて行った。
結婚して子供もでき、息子一人に双子の娘二人に恵まれる。

息子は文革時代に下放され、八年も東北の大興安嶺の山中で農作業に従事した。

 

その後、息子は北京に帰還し、無事に就職先も決まる。

別章「最後の汲み取りトイレ」でも触れるが、
下放された場合、戸籍も北京から移転されてしまう。

北京に戻ってくるには、戸籍を再転入できなければ、働き先さえない。
すべての下放青年が北京に戻れたわけではなく、そのまま不本意ながら現地で暮らす人も多くいたのである。



息子が結婚することになった時、新居の目処さえ立たなかった。

計画経済の80年代当時、本来なら職場で新居を用意するのが筋である。
中には新居を分配されたいがためにわざわざ結婚する人さえいたくらいである。


しかし80年代は北京全体で最も住宅が不足していた時期でもあり、
職場ではぜんぜん社宅をくれる様子がない。
いくら言っても、コネを使って働きかけて見ても、どうしても出ない。

 
王さんの家だって、どこの雑居長屋とも同じく、
8-10㎡の部屋一部屋に家族4-5人がひしめき合って暮らしている状態だ。
「二世代同居」ができるレベルの問題ではない。

 
父親としてはたった一人の息子に心が痛む。
職場がだめなら、地元のお役人に言ってみるべし、
と房管局(家屋管理局)に訴えに行く。

結婚する成年男性に部屋を分配しないのはよろしくない、と。



時代は中国全土がようやく文革から抜け出した時期である。
社会全体の痛みがひどく、そんな簡単に復興できるものではなかった。

 

そこで王家では裏の空き地に自分で家を建てた。
ちょうど四合院と四合院の間にある隙間のような土地だ。



こういうところ、レンガ住宅の文化と言うのは便利だと思う。
大工が要らないのだ。



レンガは積み上げてセメントで間を固めれば立派な壁になる。

いや。セメントさえなくても、究極は別に大した問題にもならない。
そのへんの地面を掘り返して水を混ぜ、泥状にしてレンガの間に挟んでいけば
それでいいのだ。

ユーラシアのステップ草原地帯の最南端に位置する北京は、
基本的に乾燥地帯なので、夏にいくらか降るスコール程度の雨では、
レンガの間の泥が解けて、家が倒壊するというほどにはならない。


地震の多い日本での木造建築だとこうは行かない。
かなり熟練した大工技術がなければまともな家は建たない。

 
一部屋できるか出来ないかの空間しかなかったが、
へそくりを都合し、息子の新婚部屋が立った。


「政府当局は黙認ですか?」
と私が聞くと、
「部屋をくれないんだから、建てさせないわけにいかんでしょう。」
と王さん。


息子は嫁の職場からアパートが分配され、数年前に引っ越していった。


今は人に貸している。
しかしこの部分は使用権証明書はもらえなかった。




写真: 東北角のお宅。
入り口は台所。奥が生活空間。
生活空間には、ほとんど光が届かず、昼間から電気をつけないと生活できない状態。






写真: 東正面の部屋。窓は練炭置き場になり、入り口の外にはガスコンロ。
せり出し小屋を作るスペースがないために、調理は青空の下となっているらしい。
北京はめったに雨も降らないので、大して支障もないのだろう。






西南の入り口から入った北正面の部屋。
せり出し小屋が複雑に入り組み、原型をとどめない。



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「雑居四合院」の人びと4、四合院の公共化

2011年05月03日 11時05分02秒 | 北京雑居四合院の人々
その頃には、「好きに住み込める」と聞いて
あちこちから人が住み着き、部屋もだいぶ埋まってきた。


老王(ラオワン、王さん)も北京市政府の労働局が人材を募集していることを知って応募し、
数ヶ月の研修を経て人民機械工場に配属されていた。
正式な公務員として北京戸籍も得て、次第に生活も安定した。

 

今なら外地から出てきて北京戸籍を取得するのは至難の業だが、
このときは大量の人口が外に逃亡した後だったため、人手不足を補うために簡単に取れた。


十代で酒場の売り子をし、あっけなく首を切られたのがショックだった。
やはり技術がない者は弱いと痛感、工場での技能習得に勤しんだ。

 

当時、家主の甥が家賃を取らなかったわけではない。
この頃部屋代は「小米(アワ)」で払った。


一部屋につき1ヶ月15kg、庶民の主食である。
粥にしてすすったり、少し余裕があれば白米に混ぜて炊く。


しかし住み着いた4-5軒は皆「貧乏で払えない」とばかりにこれを無視していた。
このためこの甥も取立てをあきらめて放置していたものだ。

 

そのうち家賃も取れない家なぞいらん、と甥も所有権を放棄する。
これ以後ここは自動的に国の財産になり、房管局(家屋管理局)の管理下に置かれた。


ところが房管局は住み始めたときから遡って家賃を払え、
でなければ部屋の使用権の証明書を発行してやらないという。


しめしめ、ただだと思って住んでいたら、そうではなかった。
阿漕な、と思うが部屋の使用権証明書がもらえないのは困るからしぶしぶ払った。

 

うそをついても後からどうせばれると思い、払えない額でもなかったのでそこは正直に言う。
当時月給が20-30元の時代に1-2元なので、理不尽な値段ではなかった。

 

引っ越してきて数年後、房管局から部屋を借りて縫製工場が引っ越してきた。
南向きの一列全部と西向きの数部屋を借りて生産を始めた。




写真: 東南角に住むばあちゃまの部屋。
日本人がやってきたと聞きつけてわらわらと王さんの部屋に珍しいもの見たさでやってくる。
子供たちとはいっしょに住みたくないから一人で暮らしているという。
手前にはお約束の練炭ストーブ。




大根の切り端を水に浸して栽培したお花がみごとに開花していた。



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「雑居四合院」の人びと3、住みついた経緯

2011年05月02日 10時31分59秒 | 北京雑居四合院の人々
王少年は半年ほど実家でぶらぶらしていたが、そのうちに貯金もそこを尽き、
農村に働き口があるわけではなく、また北京に出る。

二回目の上京では、仕事の当てもなかったが、知り合った南方から来た夫婦が声をかけてくれた。

 

「うちに来たらいい。たくさん空き部屋がある。」


それがその後50年以上暮らすことになる現在の西単・小堂胡同(フートン)にある四合院だった。

政権交替を契機に家主はアメリカに逃げ、その甥が管理を任されていた。
知り合いの南方出身の夫婦は、どうやらこの甥の知り合いであり、
ただで住まわせてもらっていたようだ。


広い四合院に二組だけ。
どの部屋に住んでもいいという。
 
 
解放軍の入城直後の北京にこういう例は吐いて棄てるほどあったらしい。
共産党の入城をもっとも恐れたのは、ブルジョア階級の人々であったことはいうまでもない。

国民党の流す共産党に関する情報といえば、
「共産主義になったら、財産すべて没収だ」
はまだいい方で、

「共産共妻(財産を共有し、女房も共有する)」
もよく流布していた。

 
北京に住んでいた金持ちの多くは、ごくわずかな身の回りのものだけをまとめ、
ほとんど身一つで逃げて行った。

 

今年春(注:この文章を書いたのは、2004年)に北京で新型肺炎のSARSが流行し大騒ぎになったとき、
外地から来ていた出稼ぎ労働者が青い顔をして押すな押すなと列車に揺られて故郷へ帰っていった。

 
そのときの集団パニック状態を見た老人らは
「北京から国民党が逃げていく時、こんな感じだった。」
と言ったものである。


そのように多くの金持ちが慌しく逃げていったため、四合院の空家がたくさん出現した。
または逃げる前に大慌てで田舎の親戚を呼び出して管理させたりした。


空いた部屋に好きに入り込み、住み着いた人も多い。
さらに人口が激減したために労働力不足となっていた。

最初のうちは共産党が如何なる団体か得体が知れず、人びとは警戒していたが、
そのうち世の中が落ち着いてきてどうやら皆北京では普通に暮らしているらしい、と伝わると、
人々は少し安心した。


さらに人が足りないらしいと聞きつけた近隣の農村からわらわらと若者が出てきた。
北京でそのまま就職し、住み着いた人も多い。

王少年もそんなごく普通の庶民の一人だったのである。

 
21歳の王少年、当初はもちろん一番日当たりのいい部屋の中から、東一列の一番南端の部屋を選んだ。
「好きに住んでいい」
と家主でもない夫婦は言ったのだから。

どうせ管理者の甥というのもめったに見に来ることはないらしい。




写真: 外にある共同の水道。

 
ところがじきにこれはいかんと思うようになる。
冬がやってきてひどく暖房費がかかるのだ。


部屋が広すぎた。
燃料の練炭は、部屋が大きいほど高くつく。

独身男一人の王少年は、不必要にでかい部屋を占領してやたらと練炭をくうのには根を上げ、
くわばらくわばらとばかりにその隣の小さな部屋に移った。

 
部屋は風呂場だったという。
日本軍統治時代に日本人が住み着き、残していったものらしい。



当時の北京では、相当の金持ちの大屋敷でも家に風呂は持たないのだから、
土着の中国人の習慣にはない施設だった。


中国人にとっては、個人の邸宅で湯船を見るのは異様な感じがし、すぐに日本人の跡だと知れるわけである。

 

うろ覚えであるが、李香蘭の『わが半生』に高校時代、北京で有力者の藩家に預けられた場面が出てくる。
主人が何人も妾を囲っているような富裕な藩家にも風呂がなく、
二週間に一回、家族全員で銭湯に朝から出かけるのだという。

お風呂に入った後は理髪などもし、さらに銭湯に高級レストランがあり、
家族全員でにぎやかに食事して丸一日銭湯で楽しんだことが書かれていた。

 

「タイルで湯船だけ作ってあってシャワーの蛇口がなかった。妙なもんだと思ったよ。」
と王さんは言う。


恐らくここに住んでいた日本人はお湯を他のところで沸かして入れたのだろう。
蛇口をひねれば湯が出るようなインフラを整えることができなかったと思われる。

 

王少年は「ストーブの練炭代を負担できるだけの大きさ」という基準で物色したところ、
この日本人の残した風呂部屋がちょうどいい大きさにように思えた。

湯船があっては住めないとばかりに、ハンマーを持ってきてがんがらこれをぶっ壊し、きれいに整備して住み着いた。






写真: 西南角にある入り口から北側をみやった写真。奥に見えるのが、王さんの部屋。


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「雑居四合院」の人びと2、小堂胡同の暮らし

2011年05月01日 12時24分43秒 | 北京雑居四合院の人々
王さんのお宅は、こじんまりとした「一進院」。

つまりは四合院が1セットのみ。
さらに奥にもう1セットあれば「二進院」、
合計3セットあれば、「三進院」となる。



王さんの家は、その「北房(南向きの部屋)の「西厢房(西のそば部屋)」にあった。(下の図を参照)





見取り図:小堂胡同?号四合院の見取り図。
うろこ模様はオリジナルの四合院。
その他の部屋は、あとから建て増しされた部分。

トイレに行くには、入り口を出て少し北側にある公共トイレへ行く。

 


部屋の中に入ると、打ちっぱなしのコンクリートの床に家具や自転車が見える。
本来なら空き地であった部分もすべて屋根をつけて囲ってしまっているため、
採光はひどく悪く、昼間でも室内の照明が欠かせない。


入り口に入ったところに練炭ストーブがあり、道具がこぎれいにまとめてあった。





写真:王さんの部屋の練炭ストーブ


 

練炭は、日本の偉大なる発明だという(中国語:蜂窝煤fengwomei) 。
旧満州時代に大陸にも広まったそうだが、北京の冬は今でも練炭ストーブで暖を取るところが多い。
(注:オリンピック前に二環路内での石炭燃焼は禁止になり、現在はすべて天然ガスや深夜電力に変換されている)



「練炭」は石炭の粉を黄土と混ぜて水でこね、型に入れて固めたものである。
丸い筒型、まん中には統一規格でたくさんの穴があいている。
空気の通しをよくして燃え方を均一にするためだという。



私も北京郊外に住み、練炭の取り扱いに苦労した。


一番小さなストーブでもこれを上下に三つ重ねる。
黄土に混ぜてある石炭成分が燃え尽きると、真っ黒だった練炭が赤黄色に変わる。


少しも黒い部分がなくなればもうそれ以上燃えないただの黄土の塊になる。

 

三つ重ねた一番下から燃え尽きたら、
まずは三つすべてを取り出し、一番下の黄色くなった一つを取り出し、残りの二つを下に詰めていく。

次に一番上に新しい練炭を乗せ、三つの穴の位置がぴったり合うように位置をずらす--。
こうしないと下から空気が通らず均一に燃えない。

 

さらに穴に詰まったゴミを鉄棒でつっつ--っとつついて一番下に落としてしまい、だめ押しで通気をよくする。
その上からやかんか、ストーブのふたをきっちり乗せる。

排気は煙突から外に出されるが、うっかり外に漏れると、練炭中毒となり、窒息死する。


 

御年74歳という王さんは、解放前からここに住む。
この四合院の変遷についてお話を聞くうち、
ご本人の人生のさまざまな節目にも話にも及び、
解放前後から今に至るまでの庶民の暮らしの一端が垣間見えて興味深かった。

 

王さんが西単・小堂胡同のこの四合院に住み着いたのは21歳、1951年解放直後のことだった。
故郷は河北省の徐水(北京から西南へ120km)、
13歳の時、母親が亡くなり、肩を落として呆然とする父親とうじゃうじゃいる兄弟だけが残された。



貧乏で不景気な顔を互いに付き合わせるしかない生家に残るよりも、
北京にいる叔母なら面倒を見てくれるのではないかと思い、少年は姉と二人で上京した。



当時汽車が通ってなかったため、北京まであと半分くらいの距離にある高碑店までは少しお金を払い、
運送屋のロバ車の背に乗せて貰った。
そこからは汽車が通っていたので、北京への列車に乗り換えた。


叔母は夫婦で北京西南の広安門で酒蔵を営んでいた。
華北では良く見られる、店先を居酒屋にした「大酒缸(タージウガン=大きな酒甕)」だ。


店に入ると仕込み用の陶器の黒い酒樽の上に丸い木の板をのせてテーブル代わりとし、
自家製の酒とちょっとした酒の肴を出す。

 
肉体労働者が一日の労働の終わりに、
仲間とクダを巻いて一皿の揚げピーナツを肴に50度を越す白酒をぐびぐびと飲み干すような、庶民のための店だ。
恐ろしく長い間風呂にも入らず、服も洗濯したことがないような汗くさい男どもの体臭がギラギラと充満し、
凍った空気に白い息を吐き出す熱気が渦巻くような--。


大抵は大口をたたく血気盛んな野郎どもが、大見得を切って胸をたたきつつ、がなり声を上げているが、
壁には

「莫談国事(政治話はご法度)」

の張り紙。


--政治を語り始めると、熱くなりすぎて刃傷沙汰になるから、という酒屋の昔からの伝統である。

 

13歳の王少年は、最初の数ヶ月何もせずにぶらぶらしていたが、
そのうちやることもなく手持ち無沙汰となり、
何かやらせてくれと言って、表の酒屋の店番を始めた。

親戚の店でもあり、労働環境は悪くなく、20歳前まで機嫌よく勤めた。

 

ここで世の中が変わる。

人民解放軍が北京に入城し、叔母の店は「民族資本」の会社だからといって国営化されたのだ。
国営化とは聞こえもいいが、要するに没収である。

店の番頭以下すべて解散となり、王少年は田舎に帰ることになった。






王さんの家の水道。トイレバスはないが、かろうじて水道だけは通っている。




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「雑居四合院」の人びと1、胡同の長屋暮らし

2011年05月01日 11時06分50秒 | 北京雑居四合院の人々
以下の文章は、


2004年前後、オリンピックを目前に控えた北京で起こった町並み保存運動に関する一連の動きについて、
興味にかきたてられ、書いたものです。



あれから6年がたった今、取り壊されるべき建物は、
とうの昔にブルドーザーになぎ倒されて陰も形もなく、
ひたすらつわものどもが夢の跡の感ですが、
当時の熱気というものがあり、
いくらかそれが伝わってくるものがあれば、
それはそれなりに一つの記録なのではないか、と思っています。



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北京を成す風景といえば、言わずと知れた紫禁城と胡同(フートン=横丁)の存在だろう。

 


灰色一色の煉瓦作り。


黄砂が吹き溜まり、ぺんぺん草の恣(ほしいまま)に繁殖するすすけた屋根瓦。
年に一度、春節にだけ貼りかえられる、
当初は目の覚めるような深紅が攻撃的に視線を占拠としていた春聯(しゅんれん)が、
屋根つきの門構えの両脇で次第に日常生活の中、北国の殺傷力の強い太陽の光に色褪せ、
風雨に破かれ、はたはたと強風に凄涼たる音をなびかせる。

 


鈍く油光りした朽ちかけた頑丈な門が、住人が通るたびにがたりがたりと億劫な蝶番(ちょうつがい)の音を鳴らせる。

 

「胡同(フートン)」が今、急激に姿を消そうとしている。



2008年のオリンピック開催が決定してからは特に街の再開発のピッチに拍車がかかった。
ブルドーザーの轟音とともに胡同は消えつつある。

 
世界中からこれを惜しむ声が広がるが、大きなうねりをとめることはできそうにない。
胡同とともに、人口も大刷新が行われつつある。


長年苦楽を共にした隣近所がばらばらに立ち退き、
古い下町の住民は、市の中心部から数十kmも離れた郊外に追いやられ、
代わりに新たな「勝ち組」となった全国各地の富裕層が住みつきつき始めた。



「大雑院(ターザーユエン)」

 反語的に聞こえるようではあるが、清朝滅亡の前にもすでに貧乏な満州族がいた。

 

本来なら統治者階級として裕福であるべきだ満州族だが、
清朝末期ともなると、人口が増えすぎて兵役にもありつけず、
生活力のなさのため、屋敷や庄園を切り売りして生活する旗人(きじん、八旗に所属する人=満州族を中心とする特権階級)が多かった。

 

その後、清朝が滅亡すると、その没落には拍車がかかる。
数百年と政権の庇護を受けて生活力を失っていた旗人らは、
突然、熾烈な競争社会に放り出されて坂道を転がり落ちるように急迫して行き、
次々と屋敷を漢人に売り払った。

 

時には最初から売り払うのではなく、生活の足しになるように屋敷の間貸しを始めることもあった。
華北の典型的建築スタイルである四合院は、
日当たりが一番いい、気持ちのいい南向きの部屋に主人が住む。


北向きの部屋は、じめじめと湿気が多く、
冬は薄ら寒いため、使用人に住まわせたり、物置にする。
 

そこで貸し出すなら、まずは自分が絶対住みたくない北向きの部屋から貸し出す。
さらに貧窮してくると東向きと西向きも貸し出す。

 
こうして大屋と間借り者が雑居する状態となる。
それがさらに困窮すると屋敷ごと売っ払う。

 

買い取り手は自分が住まずにいっそのこと全部人に貸して家賃を取り、
「大雑院(ターザーユエン=雑居四合院)」となるわけである。

 

共産党政権になってからは、この傾向にさらに拍車がかかる。
全員平等を原則とするため、一人で多くの部屋を占拠することは許されない。
没収されて他の人に分配された。




王さんの場合




 


中国人の友人に、胡同に住む知り合いはいないかと聞き、
紹介してもらったお宅を訪ねる機会を得た。 



尋ねたのは小堂胡同に住む王さん。
西単の高層ビルと現代的なショッピングモールの横に唯一残る胡同集落だ。
北数百メートルの部分も派手に取り壊している最中だった。




写真: 「大雑院」の入り口



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