いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語65、公主らの短命

2017年03月01日 07時37分57秒 | 和珅少年物語
――これはいっそ、月月の反応も見た方がいいのではないか。
英廉は心を決めた。

年端も行かぬうら若い娘に自分で判断させるなどはろくなことにならないというのが、
この時代の多くの大人の見方であったろう。

それでも本人に幸せになってもらうには、自分で気に入ってもらうしかないと英廉は考えるのだった。
自らの決定の責任を取るという決心が本人になければ、二人の関係にも前向きに向き合えないだろう。

他人から押し付けられた結婚であれば、少しでもうまく行かないことがあれば、投げやりになってしまう。

――不謹慎ながら、今上の公主様らもご短命であられた。
英廉は乾隆帝の娘(公主)らのことを思い浮かべていた。

乾隆帝の娘たちの中で排行がついたのはこの時点では、九人である。
うち六人は乳幼児で夭折され、四人が成人されたが、二人が短命で命を落とされている。

一番年長の和敬公主は、モンゴル王公の色布騰巴爾珠爾(ゼプトンバージュル)に嫁がれ今もご健在だが、
皇四女の和碩和嘉公主は乾隆帝の愛妻、皇后フチャ氏の甥・福隆安(フロンガー)に嫁いだが、わずか七年で他界された。
十六歳で嫁ぎ、二十三歳までの儚い青春であった。

先日ももう一人他界されている。
七番目のお姫様・固倫和静公主様である。

ハルハモンゴル王公のラワンドルジに嫁がれたが、二十年の短いご生涯であった。

この時代の高貴な女性は皆短命かと言えば、そうともいえない。
前述のご年長の和敬公主は、この後も健在でありつづけ六十二歳で亡くなる。

一番のご長寿はなんと言っても乾隆帝のご生母、八十歳を越えても矍鑠とされている。


――やはり自ら望んで嫁がねば、本人にとって不幸だ。
英廉はそう考えるようになった。


高貴な女性たちが、望まぬ相手に嫁いでどうなるか。

自らも積極的に夫婦関係を円満にしようという努力もしないまま、
わずかな挫折でも急速に人生や生活への希望を失ってしまい勝ちなのである。

我が家はもちろん高貴なお上のご一家とは比ぶべくもないほどの平凡な家庭ながら、
少なくとも中流以上だ。
その階級の女性たちが世間にほとんど触れぬまま、あまりにも脆い価値観の中で育つことには変わりはない。

あどけなさが勝る我が孫娘を目の前に見るにつけても、英廉はそう感じるのだった。

「よし。爺爺(イエイエ)は決めた」
急に意を決したように叫んだ英廉を月瑶は一重まぶたのぽってりして目を見開いて見つめ返してくる。

「月月、婿によろしき相手を見つけたぞ」
月瑶は苦い薬でも突然口に流し込まれたような表情を浮かべた。

「そんな顔をするでない。
 心配せずとも爺爺は月月の嫌がる相手に無理やり嫁がせることはしない」







 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

 自家製の薬種

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和[王申]少年物語64、英廉の思案

2017年02月27日 15時51分47秒 | 和珅少年物語
英廉は孫娘の顔を見ながら、考えあぐねていた。
――はてさて。勝手に決めてしまっていいものか……。

この時代、上流階級の結婚に自由恋愛による結婚などあるはずはなく、お見合いさえもない。
結婚式当日に二人は初めて顔を合わせるのだ。

結婚式には花嫁が赤い布を顔からすっぽり覆い、花婿はそれを持ち上げる細い棒を渡される。

式が済んで新婚の部屋「洞房(トンファン)」に入って二人きりになった後、
その棒で布を持ち上げ、花婿が花嫁の顔を初めて見るのだから、婚前に顔を合わせることは有り得ない。

かかる野蛮な行いは、生きていくのが精一杯の社会最底辺の人々のみに限られるとされていた。

親同士が「門当戸対」(家柄の釣り合った)の家柄同士で縁談を進め、子供がこれに逆らうことは許されない。
年端も行かぬ若者同士が成熟した判断を出来るわけもなく、
当人同士で熱くなって一緒になっても、後々うまく行かぬ例は数え切れぬほどある、という理屈だ。

--やはりここは酸いも甘いも味わい尽くしてきた大人が有無を言わさず判断するのが、
 この子のためなのだろうか……。

英廉は知らず知らずに眉を顰めていた。

かと言って、周りの大人が良かれと思って心を尽くして選んでやった相手でも、
生理的に受け付けず、生涯不幸で終わる例もこれまた多いではないか。

「爺爺(イエイエ)、さっきから一人で赤くなったり、青くなったり、おかしいわ」
月瑶がくすくす笑っている。

老人は刃物のように鋭い殺気を吐き出す少年の姿を思い浮かべていた。
――月月(ユエユエ)は、気迫で負けてはしまわないだろうか。

あまりにもあどけなさが先にたつ少女の罪なき笑みを老人は眺めた。
――それでもあの鋭さは、冷血さとはまた違う。

老人は自らの判断を確かめるように己に言い聞かせた。
わが身を守るための攻撃的な鋭さは、幼き身に対するあまりに酷な冷たい仕打ちへの防御から出たことであり、
懐に入ってきた身内にはその冷酷さと同じだけの熱さの愛をかけることのできる男だと見た。

その証拠に弱き弟を身を挺して庇い、守るというではないか。
家奴にも命の忠誠を誓わせるだけの魅力を持つ。
情に深い男なのだろう。

自らの身を振り返っても、家には家奴もいれば、外には官庁で下に働く人間を大勢抱えている。

上に立つ身として、身を挺して主君や上司を守りたいと思わせるほど慕われることが如何に困難なことかは、
人の上に立った者なら誰とて知っている。

そこに老人も子供も何ら差はない。





 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

 氷室の中。

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和[王申]少年物語63、英廉の書斎にて

2017年02月25日 15時39分44秒 | 和珅少年物語
英廉のもとに、孫娘の月謡がご機嫌伺いにやってきた。
「爺爺(イエイエ)」

あどけなさの残る声に英廉は書き物の手をとめ、顔を上げた。
Y頭(ヤートウ、女中)がお盆にお茶を運んでくる。

お盆には湯のみ一つと宜興(イーシン)産のふっくらと丸みをおびた
紫砂壷(ズーシャーフー、素焼きのきゅうす)一つとが載せられていた。

湯飲みは下に受け皿がつき、本体は取っ手がなくふたがついている。
白地に石榴(ざくろ)が枝にたわわになっている図柄だ。

石榴は赤い実がぎっしり並ぶので、豊穣と多産の象徴である。

しかし息子に先立たれ、後継ぎ残しに四苦八苦している英廉屋敷のものとなると、笑えない。

この屋敷は管家的(グアンジアーダ、執事)以下、使用人の隅々に至るまで、
英廉のために「多産」を願わずにはいられない気持ちが染み込んでおり、
湯のみ一つ選ぶにもついついそんな柄を選んでしまうのだった。

月謡は石榴の粒一つ一つに至るまで、一身にそのプレッシャーを受けて育ったのだから、
萎縮した性格になってしまったのも無理はない。


二人に出されたお茶は今年摘みたての江南から取り寄せた緑茶系の碧螺春(ビールオチュン)だった。
英廉の机には長年使い込んだ愛用の急須がおかれ、心なしか黒光りさえしている。

宜興産の紫砂壷は使い込めば使い込むほどいい、と言われる。
素焼きのため焼き生地の粒子が粗く、お茶を入れるとその成分が胴体の地の中に入り込む。

それが次にお茶を入れたときにまたゆっくりと溶け出すため、
一つの急須には一種類のお茶のみしか淹れてはいけないと言われる。

茶の味が混ざるからだ。

使った回数が多ければ多いほど胴体の壁にお茶の成分が積み重なっていき、生のお茶では出せない独特の風味が出てくる。
数年使い込んだ急須なら、ただのお湯を入れてだけも普段呑んでいるお茶の味が染み出ると言われる。


英廉は左手の手のひらで下から丸く急須を包んでもち、左から口の脇にくっ、と差し込んですすった。
英廉は長年ウーロン茶系の鉄観音(てつかんのん)一筋、
しかもそれを濃厚に淹れ、口がひん曲がるような苦さを歯にまとわりつかせつつ、転がして飲むのが好きだ。

紫砂壷は湯飲みを使わず、急須の口から直接飲むのが正しい作法だ。
今でも紫砂壷は急須だけで、湯のみがあまりそろってないのは、その名残だ。

月謡も英廉がお茶を飲み始めたのを見て、湯飲みを左手で取り上げ、
右手でふたを少しずらして茶葉が口の中に入らないようにふたで抑えつつ飲んだ。




 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

 氷室に降りて行く入口。一部がワインセラーになっている。

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和[王申]少年物語62、外祖父に金の無心

2017年02月23日 15時15分32秒 | 和珅少年物語
嘉謨(ジヤーモー)は和珅の生母の父、外祖父に当たる。

最初の頃はさまざまな人に無心した和珅だが、そのうち誰も貸してくれなくなり、
最近は専らこの景気のいい外祖父におねだりしていた。

河道道員といえば、景気がいいと相場が決まっている。
当時、科挙に落第して意気消沈し路銀も使い果たした秀才や挙人らは、
知り合いの官僚に紹介状を書いてもらい、道員を訪ねて行ったものである。

すると、少なくとも数百両の「路銀」を包んでくれるのが相場だったのだ。
河道道員の方も将来有望な若者らだから、恩を着せておいて損はないという腹である。

まったく知り合いでなくてもそうなのだから、外孫の和珅兄弟は当然、おねだりをする資格がある。

嘉謨(ジヤーモー)は、普段は江蘇に駐在して北京にはいないが、
たまに北京に戻ったとなると、どこから聞きつけてくるのか必ずかの強面の下僕をよこした。
 

--それにしても限度がある。
こうたびたびでは、あきれる。

なぜ無心するのか。
学校の友人らに馬鹿にされては今後の出世に関わる。

自分が如何に懸命に勉強しているか。
将来は必ず出世して返す、というようなことを書状には、面白おかしく小気味よく書いてあった。

「こりゃ、すばらしい人材じゃないか。
 いい孫を持ちましたな。うらやましい。いくつになります。」
客人は見せてもらった手紙を見て、鷹揚に笑った。

「確か数えで十八です。
 いやいや。これがなかなか金遣いが荒くてね。
 その書状、見ましたか。なぜ見栄を張らないといけないか、という理由の御託がたくさん並べてあること。
 毎回毎回ではこちらも甘やかしていいものかと思いましてね」

嘉謨(ジヤーモー)がため息交じりに言った。
 

咸安宮官学の給金は決して少なくない。
学生には一日当たり「肉菜銀」五分が、月ごと内務府からまとめて支給された。

これとは別に月々銀二両の手当て、季節ごとの白米五石三斗の支給があり、一般の八旗兵よりよほど恵まれている。

通学に関しても、普段は朝から日暮れまで授業が続くが、
雨が降ったり極寒の冬場には学校で宿舎が用意されており、泊まることもできた。

それだけ優遇されてはいたが、給金だけで賄っている学生などはほとんどいないのだ。

咸安宮官学は満州族子弟のエリート校である。
これまで数々の権力者を生み出し、学生もそれら権力者の子弟が多く通っている。

校風は派手好みで子供たちは贅沢を張り合った。
そんな中であまりに惨めな身支度では、同級生らに馬鹿にされ肩身狭い思いをしなければならない。


和珅なりに苦心はしていたのだ。




  

 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

 ここは氷室に降りて行く入口。

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和[王申]少年物語61、外祖父は江南河道の河庫道員、嘉謨(ジヤーモー)

2017年02月21日 14時59分39秒 | 和珅少年物語
和珅の家奴である劉全が、使いに出ていた。
神妙な顔をして腰かけて待機している。
 
江南河道の河庫道員、嘉謨(ジヤーモー)の家では、使用人たちがひそひそと眉をひそめて、
さざなみのようにささやきが広がっていた。

そんな屋敷の雰囲気を敏感に感じつつ、劉全は余計に胸を反り返らせて座りなおした。

「何? 善保(シャンバオ)の使いがまた来たのか?」
「へえ。」
と書状を盆に載せて執事が差し出した。

嘉謨(ジヤーモー)がうめき声を上げながら、書状を広げて読み始めた。
しばらくすると、ぷぷっと吹き出し、やがて大笑いに笑い出した。
「何か、楽しいことかな」
向かいで茶をすする客人が好奇心たっぷりに聞いた。

「いやいや。お恥ずかしい話ながら。
 私には不肖の外孫がおりましてな。
 父親が死んでから何かと無心が絶えない」
と笑いながら書状を客人に見せた。
 

中国大陸の歴史は、治水の歴史ともいわれる。
図体がでかすぎて、決して扱いやすいとは言えないその広大な国土を、
ほぼ統一したまま歩んできたのも、ひとえに治水の便宜のため、とも言われるくらいである。


清代にも黄河と准河が数年ごとに堤防を決壊させて洪水を起こした。
治水のため、清朝朝廷は江蘇、山東、直隷(首都周辺)に三人の河道総督を設け、任務に当たらせた。

中でも江南河道総督は、通称「南河総督」といい、江蘇省北部の清江浦(現在の准陰市)の駐在した。
ここは黄河、准河、運河の三つが交わる場所であり、南の穀物を北に運ぶためには要となる大切な場所である。

黄河は咸豊五年(一八五五)の大氾濫で、いきなりとんでもない方向に暴走しだし、
元の位置から北に数百キロも移動して渤海に注ぎ込んだ。

それ以前の黄河は今からは想像もつかない南を走っていた。
 
元以降の政権は首都が極端に北に偏り、ほとんどの食糧を江南からの運搬に頼らなければならなかった。
その食糧を運ぶために不可欠な運河の整備は、清朝廷にとっても生命線であった。

また黄河、長江などの河川の整備も周辺の農業生産高に影響するため、同じように重視し、
国家予算に占める河川整備予算は、全体の二割にも上ったのである。

乾隆中期の年間総予算が白銀四千万両。
--実に八百万両が河川整備につぎ込まれる。

その少なくとも三分の一の予算が流れ込む南河総督の財布係が、河庫道員だ。
官位はたかが四品官と高くないが、莫大な予算がこの官職の手を通って行き来する。
 
脂が滴るほど、うまみの多い仕事だ。





 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

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和[王申]少年物語60、清代版「農村下放運動」

2017年02月19日 14時37分28秒 | 和珅少年物語
年季の入った北京っ子の
――砍大山(カンターシャン、大風呂敷を広げる)
を外地の人は軽蔑もすれば、崇拝もする。

上海人などは
「口ばっかりでいざ仕事させたら事務処理能力なし」
と言って一刀両断、馬鹿にする。

しかし首都として全国の物産、文化、情報が集まり、
親戚一族にも官僚や軍人が多く、全土を駆け回っているので情報量はずば抜けている。

さらに暇に任せて凝った芸術の知識を披露され「砍大山」(カンターシャン)されれば、呑まれてしまう田舎者は多い。
 

清代、北京城内には旗人しか住んではならないことになっている以上、
このような有閑八旗子弟が作り出す退廃的な雰囲気は、為政者には深刻な問題であった。

すでに北京入りして百年経たない康熙年間後半からこの風潮は為政者の頭痛の種となっていた。

尚武の気性を尊ぶことで政権を維持しようとする満州族にとり、
芝居にうつつを抜かし、自ら声を張り上げて歌いだしたり、こおろぎの尻ばかり追っかけて暮らす若者が増えるのは、亡国の危機である。

あるいは徒党組んでくだらない抗争を起こしたりする。
――この暇な若者らをなんとかしなければならない。

康熙帝は、これら有閑八旗子弟らを僻地に追い出す手立てを考え、移住奨励政策を打ち出した。
多くは満州族の故地、東北の各地へ送り出した。
まさに文革時代に行われた若者の農村への下放運動のように。

移住に際しては奨励金を出し、現地にいけば住まいを用意し、免税とするなど、さまざまな優遇政策を取ったので、
だまされて一度は現地に向かう若者もいた。

しかし温室育ちが荒野の生活に耐えられるわけはなく、数ヶ月もすると逃亡して北京へ舞い戻ってきてしまう。
そんな若者たちを、朝廷としては同じ満州族の身内のことでもあり、厳しく罰することはできなかった。

……というきわめて中途半端な下放政策を推進したのである。
この問題はこの後、清朝が滅亡するまでこの問題は為政者を悩ましつづけた。
 

そんなわけで、爵位のある家だからと言っても、一たび男手を失うと、脆いものである。


――とにかく、今日は収穫があったわい。
気がつくと、英廉は一人で目じりを下げて微笑んでいた。

――もう少し、家に帰っていろいろ調査してみるとするか。
少年の不敵な面構えを思い浮かべつつ、英廉は一人で出口に向かい歩き出した。

「大人……。どちらへ」
ネズミ男が後ろから慌てて追ってくる。

「いや。案内ご苦労であった。これで帰りますぞ」
老人らしからぬ軽やかな足取りと華やいだ後姿をネズミ男は怪訝そうに眺めて見送った。








 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

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和[王申]少年物語59、旗人の生計

2017年02月17日 14時13分48秒 | 和珅少年物語
――支配階級といっても、不安定なものよ。
少年の家庭の事情を聞くにつれ、英廉は一人ごちた。

八旗の構成員というのは、特権階級のようでありながら、実は制約も多い。
その点、江戸時代の武士階級にきわめてよく似ている。


清代、満州族を含めた旗人には、軍人になるか官僚となるかという二つの職業しか許されていなかった。
国を防衛するか、政治を動かす立場になるか、二つに一つである。

農業、商業などを含めて、他の職業には一切従事してはならない。

また移動の自由もない。
旗人が北京城を四十里以上離れるときは、所属する八旗都統処に届けを出さなければならなかったのである。


清朝初期には、それが何の矛盾もなく機能した。
旗人の各家庭には、東北の満州族の故地に広大な荘園があり、小作料が入ったからである。

また北京入りしてからも、朝廷が北京の周辺五百里の土地を囲み、八旗兵らに分け与えた。
清初の悪名高い「圏地」と言われる政策だが、
それを佃戸(小作人)に貸し与え、旗人らは小作代で生活することができた。

この他、清初は対外的な戦争も多く、戦功を上げると豊かな賞与があった。
清初、旗人の生活は支配者層らしく豊かだったのである。

ところが乾隆中期にもなってくると、北京在住の旗人の人口は倍以上に膨らんだ。
それにも関わらず、八旗兵の採用枠、官吏登用の枠は建国当時とほとんど変わらなかったため、
仕事にあぶれてぶらぶらする旗人の若者が増えたのである。

加えて戦争も新彊の砂漠地帯、貧しい雲南、広西の苗族地帯、チベットと四川の間の高山地帯、ヒマラヤなど、
どんどん辺鄙で貧しい場所に移行していく。

このため侵略したところで手に入るろくな戦利品もなく、
土地を占領したところでたいした収穫も期待できないような場所ばかり。
賞与も少なく、全体的な紛争数も少なくなった

そのために軍人も手柄を立てて一攫千金をねらうこともできなくなった。


和[王申]が生まれた乾隆中期というのは、旗人の「貧乏人」が社会問題になってすでに久しかったのである。

……それでも気位の高さだけは、人一倍だ。
まさに「武士はくわねど高楊枝」と同じ精神ですな。


今でも北京で「八旗子弟」と言えば、日がなぶらぶらして正業につかず、こおろぎ飼って戦わせ、虫取りなどに夢中になり、
腹の足しにもならないどうでもいいことの薀蓄(うんちく)だけは詳しい没落貴族気質を指す。

現代の北京で
「あの人は八旗子弟だから」
といえば、生産活動に従事せず怠けてだらだら暮らしてはいるが、
親や親戚からいつのまにか生活費のおこぼれをもらえるようなちょっとした薀蓄と人柄の魅力を持った人、
という非難と羨望を両方こめた意味に使う。


今の北京人も全般的にその気質が色濃く、とにかく薀蓄を語らせたら異様に弁が立つ。
何時間でもしゃべりつづけて相手を煙に巻く。

――砍大山(カンターシャン、大風呂敷を広げる)
である。


  

 紫禁城を少し北に歩いて行ったところにある「恭倹氷窯レストラン」。
 かつての氷室の上に建てられたレストラン。

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和[王申]少年物語58、天山北路での屯田

2017年02月15日 13時36分41秒 | 和珅少年物語
河西回廊は両方を山脈に挟まれているため、その雪解け水が谷に流れ込んで地下にたまり、
ちょうどいい具合にオアシス都市が点在する。

蘭州からこれを武威、張掖、酒泉、嘉峪関、安西、ハミ、トルファンと一つ一つ渡っていくと、
大軍が比較的楽に天山山脈の雪解け水で潤うウルムチにたどり着ける。

これがタリム盆地の入り口だ。
ここを押さえれば、天山山脈を越えた北にあるジュンガリアも
南のタリム盆地のウィグル族居住区も押さえることができる。

征服したはいいものの、
首都から千里も離れ、いくつもの砂漠を越えてたどり着く地の果ての地をどうやって維持していくのか。

当時、朝廷では消極論が飛び交った。

天山山脈の南北の地をロシアが虎視眈々とねらっており、
清朝の支配が少しでもゆるめば、我がものにしようと目論んでいることは、清朝廷も心得ていた。

--駐屯軍を養うための家畜を、砂漠を越えて運搬するのか……。
気も遠くなるような作業に誰もが新疆経営が崩れるのは時間の問題、と弱気になっていた。


そんな中でこれまでにない試みとして「屯田」政策が打ち出された。
イリ河の南は水も豊かで土地も肥えており、農業に適している。

しかし誰を農業に従事させるのか--。

昨日まで死闘を繰り広げていたジュンガルの人々は当然扱いにくい上、遊牧民は何よりも農業をいやがる。
彼らは馬に乗って広い草原を自由自在に駆け回り、瀟洒に生きることを最上とし、
農民は地に這いつくばって数里の距離から生涯離れたことのないかわいそうな奴ら、と軽蔑しているのだ。

それを農業をやれと強制しようものなら、決死の大反乱になることは目に見えていた。

そこで南の天山山脈を越えたタリム盆地に住むウィグル族に白羽の矢が立てられた。
ウィグル族のジュンガリアへの移住を奨励し、内地から派遣された兵士らと共に屯田しようという試みだ。


ウィグル族は唐代に現在の外モンゴルのオノン河周辺でウィグル汗国という国を営んでいたが、
外敵に攻め入られて崩壊すると、その地に留まって被征服民となることはせず、南に向かって大移動を始めた。

その一派がタリム盆地に入り、住み着いた。
タリム盆地にはオアシスが点在し、現在の農業と羊の遊牧の併用形式が定着した。

ジュンガルが最盛の頃からウィグル人はその支配下に入り、
ジュンガルの崩壊に伴い、なし崩し的に清朝の支配下に入った。

ジュンガルのように壮絶な死闘の末に降伏したのではなく、
ただ単に征服者がジュンガルから清朝に変わっただけと言う程度の意識しかなく、
占領統治はジュンガルより容易である。

統治しやすく、農業も営むウィグル人をジュンガル盆地に入植させることは統治側としてはきわめて都合が良かった。


ウミタイはそんな新疆経営に借り出されて数年も帰ってきていない。

……そんな事情も少年のみすぼらしい身なりの原因になっているはずであった。



   

紫禁城の回廊。


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和[王申]少年物語57、新たなる国土、新疆

2017年02月13日 10時04分30秒 | 和珅少年物語
確かにこの時期、和珅の一家にとってウミタイは大事な親族であった。
働き手を失った家庭では、その経済力に頼るところが大きかったであろう。

しかしウミタイはこの時期、首都には数年も戻っていない。
新しく清朝の領地になった新疆地区の経営に借り出されていたのである。

乾隆二十四年(一七五七)、
現在の新疆ウィグル自治区に当たる、いわゆるシルクロード地方がすっぽりと清朝の手に納まった。

この地域は、元々モンゴルの一派、オイラト系のジュンガルが所有していた土地だ。
清朝は二代前の康熙帝の頃からそのジュンガルと死闘を繰り返してきた。

三代に渡り、ジュンガルとの戦争は絶えることなく続き、
ついに数年前にジュンガル盆地とタリム盆地が平定された。

清朝の領土はモンゴル帝国以来、アジアで最大となった。

明朝には数百年かかっても実現できなかったことである。
明朝の軍事予算は常にモンゴルとの戦いに費やされ、皇帝が捕虜になる辱めまで受けたにもかかわらず、
万里の長城以北はモンゴルに属し、タリム盆地のウィグル族も明の支配下にはなかった。

当時はチャガタイ汗国の領土だった。
現代の中国の版図を作り上げたのは、まさにこの乾隆帝の時代である。

乾隆二十四年に天山山脈の南北が平定されてから、まだ十年たっていなかった。
--この新しい領土の経営のためにウミタイも派遣されたのである。


清の朝廷としては、新疆の運営をどうしても成功させねばならなかった。
新疆が乱れればジュンガルが乱れ、ジュンガルが乱れるとハルハモンゴルが乱れ、
この二つのモンゴルが乱れると同じラマ教を信奉するチベットも乱れる。
ひいては国解体にもつながりかねないからだ。


この頃の清朝廷は、新疆まで続くいわゆるシルクロード沿いのルートの経営に大きな力を注いでいた。
新疆までの道といえば河西回廊(かせいかいろう)、新疆へ続く唯一の通り道に当たる。
 
なぜ「回廊=廊下」かといえば、浣腸の差込み口のようにそこが新疆に通じる細い通り道だからだ。
細い道が甘粛、そのむこうに広がる丸い平野がタリム盆地、ウィグル族の居住区であり、その北にはジュンガルモンゴルがある。

広い大地に唯一の通り道という意味は、ここ以外は山だったり砂漠であるからだ。
大軍が短時間に移動するには障害が多すぎる。

河西回廊の南はチベット高原である。
中原から新疆に兵を進めるのに、この高原に食糧と軍隊をわざわざ引っ張りあげ、
また降りていくような馬鹿は誰もしたくない。

北にも山脈があり、その向こう側は砂漠だ。


  

紫禁城の回廊。
自転車で走るシーンは、映画『ラストエンペラー』を思い出しますな。

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和[王申]少年物語56、ウミタイはウルムチ勤務

2017年02月11日 12時47分29秒 | 和珅少年物語
「父親が死んでしまうと、後に残されたのが、なさぬ仲のこの伍弥泰(ウミタイ)大人のお嬢さんでございますよ」
ねずみ男の解説は続く。

「しかし大きな声ではいえませんが、嫡母としてこの方はどうも婦女道には反しまするな」
珍しく公正な意見を口にすると、ネズミ男がため息をついた。

――なるほど。そういうことか。
三等軽車尉の家柄でありながら、
周りの少年たちのいじめの理由になるような貧しい格好をさせているとは、
確かに誉められた話ではない。

第一、伍弥泰(ウミタイ)は国の中枢にいる大臣である。
娘の嫁ぎ先でそういうことが有り得るだろうか。

「今、伍弥泰(ウミタイ)大人といえば……」
「ウルムチですよ」

「そうだったね。もうかなり行っておられるね」
「ええ。かれこれ数年は外ですね」


善保(シャンボー)兄弟は、物心つかないうちに生母を亡くし、ウミタイの娘が継母となった。

父親はほとんど外地務めで、下手すると数年に一度しか戻れず、ついに数年前に亡くなった。
残されたのは、子供たちとこの継母だけなのだ。

男の働き手を失った家庭の収入は、未亡人手当てと爵位の俸禄、荘園の年貢しかない。
恐らく贅沢三昧に育ったウミタイの娘には到底足りず、うまく家庭のやりくりができていないのだろう。

懐がひもじければ、どうしても縁が薄い、なさぬ仲の連れ子にしわ寄せが行くことは容易に想像ができる。

「このウミタイ大人のお嬢さんには、自分が産んだ子供が数人いまして、
 そういうこともあるかと思います」
ネズミ男もしんみりと言った。

自分が生んだ子がかわいいのは、世の常だろう。
実子となさぬ仲の子供がけんかでもすればなおのこと、子供とはいえ憎き相手にしか見えなくなることもある。

「その異母兄弟らもわが校の学生かね」
「いえいえ。大人。
 わが校はそんなに猫も杓子も入れるような学校じゃございませんよ。
 大方、世子幼学ででもくすぶっているのではないでしょうか」

甘やかされるほどに出来が悪くなるものである。
三等軽車尉の家の子供なら全員、世子幼学には入学させてもらえるはずである。

--ウミタイ大人もその家柄を見込んで娘を嫁がせたのかもしれんのお。
英廉はふと考えた。

ウミタイは確か蒙古八旗の出である。
同じ八旗とはいえ、英廉が包衣として少し違う身分であるように、
旗人社会の中では、蒙古八旗も純粋な満州八旗の出身と比べるとやや地位が低いのだ。

孫を世子幼学に通わせることができるということも、一つの特権ではある。

「ウミタイ大人もずっと、辺境赴任が長くておられますから、
 お嬢様が嫁ぎ先で少し懐が寂しい思いをされていても、
 そうそうと細かく面倒を見ることができないのだと思いますよ。」

とネズミ男が分析した。




紫禁城、雨花閣。
紫禁城の中にあるチベット寺院。
一般公開はされていないが、工事中のところを通らせてもらう貴重な機会。




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和[王申]少年物語55、嫡男でありながら和[王申]は

2017年02月09日 12時37分40秒 | 和珅少年物語
「それが善保(シャンボー)は立派な嫡男、弟も同母弟で生母は正妻ですよ」
ネズミ男がもったいぶっていう。

英廉は意外そうに相槌を打った。
「ほお。それなのになぜ」

大方、どこの家にでもある愛憎図だろうと見当をつけつつ、また思いは自分の身の上に飛んだ。
 
中流以上の家庭では、どこでも見られる妻妾や異母兄弟同士のいがみ合い。
英廉と母は少なくとも家庭の中では敗者の立場に置かれ、そのみじめさをいやというほど味わってきた。

そんな地獄絵図を自分の家庭で繰り広げ、自分の子供たちにみじめな思いをさせたくはない、
その強い思いから英廉は本妻以外の女性を家庭に入れることなく、この老境までを全うしてきた。

女性は自分でいくらどう望んでもその環境を作り出せないが、男性にはその選択権がある。
それを英廉は気に入っていた。
 
が、その遺産で今、こうしていらぬ苦労をしているのも事実である。
本妻一人しか娶らなかったため、子供が少なく、息子で成人したのは一人だけ。
その息子も若くして他界してしまったため、こうして孫娘の婿がねを物色する羽目になっているのだ。

そんな自分の現状に思いを馳せ、英廉はふと自嘲的に笑った。
 
ネズミ男は相変わらず脳天気に一学生の噂話に血祭りを上げている。
「気の毒なことに、兄弟の母親は下の子を生むときに産後の肥立ちが悪くて他界しておりまして、
 その後に娶った後添えが、伍弥泰(ウミタイ)大人のお嬢さんでございますよ」

「伍弥泰(ウミタイ)大人というと、吏部尚書の?」
「そうですよ。」

「ほお。なかなか名門の閨閥だね。というと、善保の父親もそれに見合う出世頭だろうね」
「いえ。それほどでも。
 福建副都統まで勤めたそうですが、これが数年前にぽっくり他界してしまいまして」

――ははあ。見えてきたぞ。
英廉は、挑むような目つきの粗末な身なりの少年を再び脳裏に思い浮かべた。

吏部尚書の伍弥泰(ウミタイ)が娘を嫁に入れる先として、
初婚でもない福建副都統は、どうもやや格下のような気がしないでもない。

英廉は端正な顔の色白な少年を再び思い出し、
――男前だったのかもしれぬなあ。父親も。
と、検討を働かせた。

現に自分だってあの少年に男惚れしかかっているではないか。
完成した相手に娘を嫁がせたからと言って、必ずしも幸せになるとも限らないものである。

さっきの妻妾同居の話ではないが、権力がある方が女性関係は派手になるに決まっており、
女性として幸せな結婚生活を送るのも難しくなるというものだ。




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和[王申]少年物語54、嫡庶のちがい

2017年02月07日 12時01分30秒 | 和珅少年物語
雍正帝は皇位簒奪者ではないか、と言われているが、
それを可能にしたのも、息子の弘暦(後の乾隆帝)との共同作業であった嫌いがある。

祖父帝(康熙帝)の晩年、あまたいる皇子らの皇位継承争いは、熾烈だった。
優秀な皇孫を持つことは大きな点数稼ぎになるため、
雍正帝はこの息子の聡明さを全面的に押し出したのである。

元来、弘暦(乾隆帝)は嫡男でも長男でもない。
弘暦は雍正帝の五男、上三人の兄が相次いで夭折したので、実質的には次男、上には七歳年上の異母兄、弘時がいた。

弘時の生母は側福晋(夫人)李氏、雍正帝の即位後は斉妃に封じられている。
側福晋は正福晋(正妻)の下に二人しかいないので、弘時の生母は極めて地位が高かったことになる。

その兄を差し置いて生母の地位が低い、召使いに毛が生えた程度の地位しかない生母を持つ弘暦が父親に見出され、
最終的には祖父の康熙帝にも特別扱いされたのは、ひとえに弘暦が優秀だったからである。

雍正帝は、この五男の聡明さを見込み、父帝に全面的に強調した。
康熙帝も百人を超える孫の中でも、弘暦をとりわけ気に入り、
宮中に引き取り育てるたった二人の孫の中の一人という特別な地位を与えた。
 
いわば今上陛下の皇帝としての地位は、父子で力を合わせて勝ち取ったものだ。
それもつらい幼年時代の苦労がばねとなっているに違いない。

そこが英廉が今上を敬愛する部分でもあった。
自分だって長男ではないし、生母も父親の寵姫でもなかった。
それでもそうやってここまでがんばってきたのだ。

当時の社会のいいところは、そういった庶出と嫡出をまったく差別しなかったことである。
皆が同じ屋敷に住み、すべての子供たちが正妻の子供という建前になるのだ。

例えば、最後の皇帝溥儀やその弟溥傑などの自伝を見ると、
「私の父は」と紹介し、その次には「私の嫡母は」と紹介が来る。
そしてその後に「私の生母は」となるのである。
 
その一族の出身であれば、社会での扱いはまったく同じ。
後の世のように「妾腹」「父なし子」と陰口をたたかれることはない。
その後は才覚がものをいう。
 
悪くない家柄の子供でありながら、
周りの少年たちにいじめられるようなみすぼらしい出で立ちで出されてくる善保(シャンボー)という少年の家庭の事情は
大方想像がつくというものである。

英廉の想像が自らのみじめな少年時代や今上の生い立ちにまで及んでいるとは、露知らぬネズミ男に英廉がふと聞いた。
「善保は庶出かね」

ネズミ男は、ほい来た、とばかりに目の色を変えた。

「そこなんですよ。あの兄弟の気の毒さは。ひひ。」
ぜんぜん気の毒と思っていないことを隠そうともせず、ネズミ男は卑猥に笑った。




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和[王申]少年物語53、乾隆帝の生い立ち

2017年02月05日 10時17分35秒 | 和珅少年物語

今上(乾隆帝)のご生母様は「格格」(ゴーゴ)上がりという。
「格格」の満州語の元の意味は「お姐さん」、清末には皇族や貴族の「令嬢」という極上の尊称になった。

西太后が養女にしたしかるべき家柄の令嬢たちは皆「格格」と呼ばれた。
ところがその百年前の乾隆年間は、どうもそうではなかったらしい。

主人の子供を身ごもった、あまり大きな声では出自を言えない身分から昇格した女性を「格格」という曖昧な敬称で呼んだ。


言葉というのは、ある瞬間から瞬く間に違う意味を含むようになることがある。

個人的な体験だが、作者が九十年代前半に中国に来たとき、
「小姐」(シャオジエ)といえばまだ「お嬢さん」という極めて礼儀正しい尊称だった。

若い女性はそう呼ばれれば、満足してうなずいたものである。
時代劇などを見ても、お金持ちのお嬢様を女中は「「小姐」と呼んでいる。

ところが今では「小姐」は水商売の女性を指すようになってしまい、そう呼ばれると女性たちは怒り出す。
これにより若い女性に対する尊称がなくなってしまった。

今では作者もシシカバブを売るおばさんに「姐姐」(ジエジエ、姉さん)と呼ばれ、
わたしはあんたのお姉さんじゃないんだけど、と首をかしげる事態が起こっている。


閑話休題。
さて太后殿下(乾隆帝の生母)のご実家は、
今でこそお父上の凌柱様がニウフル氏、四品典儀、内大臣と称しておられるが、それさえも怪しい。

旗人でさえもないという噂である。
旗人であれば少なくとも「秀女」出身だといっても辻褄は通る。
……ところが、そんな話さえも聞かない。


八旗の女性は、年頃になると、全員が強制的に「秀女」選びに狩り出される。
いい女をすべて皇帝一族が差し押さえるためだ。

選ばれた女性たちは家柄、容色の優れた順から
皇后、以下皇帝の妃、皇子ら、親王、群王の「福晋(フジン、奥方)」、「側福晋」に割り振られていく。

先帝(雍正帝)の皇子時代にもそんな「秀女」出身の女性たちが何人も送り込まれ、それぞれ順番に妻の地位を占めた。
太后殿下も福晋でこそなかったが、「秀女」の末端には名を連ねていた、と言っても通るのである。

しかしそれもどうやら、先帝(雍正帝)が即位してから慌てて整えた体裁のような匂いがする。
親王府の女中たちは旗人が勤めるわけではない。

八旗はただでさえ人口が少ないから、ほぼ全員が特権階級である。
家で下働きをするのは、漢族の庶民階級である。

そんな女性に主人のお手がつけば「格格」という曖昧な呼ばれ方をする。
 
噂では太后殿下には先帝は一度しかお手をつかれなかったとか。
今上が生まれてからも母子は、女中に毛が生えた程度の地位でしかなく、
屋敷の中で肩身の狭い思いをして暮らしておられた。

ただ成長するにつれ、ますます聡明になるご子息に先帝(雍正帝)がお目をかけるようになった。
たまたまほかのご福晋方のご子息に英邁な坊ちゃんがなかったこともある。

そうしてこの父子は次第に一丸となり、皇位を勝ち取るために力を合わせて突き進むことになったのである。
 

   



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和[王申]少年物語52、ねずみ男の育ちのよさ

2017年02月03日 09時36分46秒 | 和珅少年物語

一通り善保(ジャンボー、のちの和珅、本名)の悪口をいうと、ネズミ男の口調がやや変わった。
にやりと口の端を吊り上げ、またもや大仰に英廉の耳元に小声でささやいた。
「それが聞いてみると、やはり家庭に問題があったのですよ」

さっきまでさんざん大声でがなり散らしておいて今更ひそひそ声になったところでどういう意味があるのか、
と英廉はまた一人苦笑した。

「実はですね。連中の騒ぎの起こしようがあまりにもひどいので、父兄に連絡したのですよ。
 いえ。

 元はといえば、あの二人が少年たちと問題を起こす原因だって、あまりにもみすぼらしい格好をするからですよ。
 仮にも爵位をもらった家柄の末裔なら、もう少し身なりに気を使ってほしい、とね。

 まあこれは余計なことですが、あの従者の劉全だって、控え室で浮いていますからね。
 皆さん天下の咸安宮官学にお坊ちゃんを通わせるには、
 家で一番敏捷で見栄えのする従僕をきらびやかに飾り立てて送り込むものでございますよ」

――ははあ、こいつは家庭の育ちがいいのだな。
ネズミ男の話を聞きながら、英廉は一人ごちた。

育ちがいいというのは、経済面ではない。
精神面、生い立ちの健全さを言っているのだ。

一般庶民の暮らしぶりでは、おっとおがいて、おっかあがいて、おっかあが子供をぼこぼこ生む。
おっとおが稼いでくる給料で一家があっぷあっぷ言ってやっと暮らせる程度しかないので、
おっとおは外で女を作ろうにもそんなお金はどこにもない。

ただで抱けるおっかあが一番経済的だとばかりに毎日帰ってきてはせっせとおっかあをかわいがる。
子供たちは両親の掛け合い漫才のような牧歌的なけんかを子守唄にして育つ。

そういう育ちのよさを言っている。
 

英廉は自分の幼い頃を思い出した。
人間、中流以上になってくるとそれが怪しくなる。

特に旗人でそれなりの収入が入れば当然のように第二夫人以下諸々の女性を娶る。
当時の習慣は妻妾同居だから、家庭の中で複雑怪奇な権力闘争の図ができ上がる。

肝心の一家の主人は公務が忙しく、めったに家に寄り付かない。
時には地方に十年近くも飛ばされることもある。

家に残されるのは、女たちとそれぞれが生んだ子供たちだ。
正妻腹から生まれた嫡男と庶出は家の中で平等ではないし、母親の寵愛の受け方でも暮らしぶりが変わってくる。

英廉自身も嫡出ではなく、女中だった母に旦那のお手がついて生まれた口である。
幼年時代の思い出は決して甘美なものではない。

――今上陛下だって、そういう苦労をなされている。
英邁の誉れ高いお上(乾隆帝)も、誰も口に出しては言わないが、決して順風満帆な生い立ちではない。

今の太后殿下は先帝の女中で容色も優れなかったため、お手がつくこともなかった。
ある日先帝が伝染病にかかり、誰も怖がって寄り付かないときに献身的に看病したから、
感激した先帝が一度だけお手をつけ、そのために身ごもり生れ落ちたのが今上である。


   

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和[王申]少年物語51、和[王申]たちの喧嘩

2017年02月01日 10時22分22秒 | 和珅少年物語
「ですから、最初からおかしいと思ったんですよ。」
さも大事なことをいうように大げさに声を落として、李峰が英廉の耳元につぶやいた。

「あの学校から来て、こんな子もいるんだ、と。
 あれじゃあ……うちの倅の方がよっぽどましな格好ですよ。
 けけけ」

ネズミ男は下卑た笑いを浮かべ、元から細いきつね目がさらに細くなって一本線となって眼球を隠した。

「まあそんな具合なんで、子供は残酷ですからね。自分と異質な相手を攻撃するでしょう。
 特にあやつは鼻っ柱も強いし、凄みもあるんで、皆も敬遠するんですが、弟が一緒に入ってきてまして、こいつが弱っちい。
 で、いじめられると、今度はまあ、兄貴やさきほどのあの劉全まで躍り出てきてけんか沙汰ですよ」

「え。従者まで、学生を殴るのか。」
これにはさすがに英廉も驚いた。
従者がよその満州青年をけがさせれば、ただで済むはずがない。
「それがですね。」

ネズミ男の声が急に勢いをなくした。
「これが子供のくせにあやつらは主従二人して、ずるがしこいの何の。
 うまいこと巧妙に罰する隙を与えないんですよ。

 まずは、善保が弟がいじめられているところに割って入る。
 善保は自分から相手に殴りかかることはせず、相手を言葉で挑発してひどく憎たらしいことをいう。

 すると、相手が逆上して殴りかかってきて、それでケンカ沙汰になるんですね。
 もちろん、そのときは多勢に無勢、少年らが集団で二人を滅多打ちにし出す。

 中庭の方で騒ぎが大きくなってくると、劉全がそれをぴくりと聞きつけ、止める暇もなく、校内に乱入していく。
 劉全は家奴の身でよそのお坊ちゃんを殴るわけに行きませんから、
 そこは主人二人をかばうだけで、自分からは手を出さないわけですね。

 で、劉全が壁になってたり、かばっている間に、善保が相手を殴りに行く」


英廉は、思わず身を乗り出した。

「そこからがまた憎たらしい。私らが止めに入り、両者を引き離すでしょう。
 それでわけを聴きだすと、この善保の野郎がですね。

 まあ、ああいえばこういう。
 自分に非がないことを理路整然とまくし立てるんですね。
 
 まず自分から手を出さず、相手から始めたこと、劉全は一切攻撃を加えていないこと、
 そして太祖様や先人の合戦でのあれやこれやの先例を自分になぞらえ、自分を正当化してしまうんですよ。
 結局いつの間にか、こちらが煙に巻かれてしまう」

いつも煙に巻かれるほうの立場らしく、ネズミ男が顔をこわばらせた。

「あんな口から先に生まれたような野郎は、将来ろくな死に様は待ってませんよ。ええ」

そんな見事な弁舌、聞いてみたいものだ、と英廉は興味を覚えた。




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