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いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京郊外・門頭溝のあれこれ、記事の一覧表

2016年03月26日 15時48分10秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京の西の郊外、永定河の渓谷流域の門頭溝地区。私の大好きな地区ですが、これまでに訪れた古跡のレポートです。

記事の一覧表:


    1、広慧寺、恭親王、安徳海ゆかりの寺
    2、川底下村その1、先祖は洪洞の大槐樹より移住
    3、川底下村その2、防衛のための入植 
    4、川底下村その3、民宿を拝見
    5、川底下村その4、文革のノスタルジアと一線天
    6、斉家庄村・霊厳寺
    7、双林寺と川底下村ふたたび
    8、斎堂鎮霊岳寺

門頭溝8・斎堂鎮霊岳寺

2016年03月24日 17時46分43秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

最後は、斎堂鎮の北5㎞にある霊岳寺。

国道109号線沿いの町・斎堂鎮から北へ進み、激しい勾配の坂道を進んでいきます。
エンジン機能の限度ぎりぎりまで踏ん張りながら、手に汗握る行程が延々と8㎞続きます。
(道の険しさのためではなく、坂道の勾配とエンジン耐久力の根競べのようなどきどきする時間・・・)


そして忽然と目の前に現れた山頂の平たい土地と見事な伽藍群!!

 

 

 入口の古木もみごと。

 
 

 


霊岳寺の創建は、唐の貞観年間。

門頭溝地区で最も古い伽藍群のひとつと言われる。

「先に霊岳寺あり。後に斎堂あり。」
--「斎」は、乃ち精進料理。

霊岳寺の門前町として、参拝客に精進料理を出す食堂や宿泊施設として発展したのが「斎堂鎮」だという。


唐滅亡後の五代十国時代の戦乱で霊岳寺は、仏像、古松、古刹もろともすべて焼け落ちたと言われる。

再建されたのは、ようやく遼代。
背後の山が白鉄山というため、「白鉄山院」と命名。
金代から現在の「霊岳寺」の名が使われる。

元代になると、さらに仏教が厚い保護を受けた。
霊岳寺は、数十年にわたり、伽藍の拡張工事が続けられたという。
「仏像八十四体、燦然金碧(さんぜんこんぺき)。」

寺は、門頭溝地区の他の地に寺所有の土地も多角経営。
馬欄村の入り口に水車動力の石臼小屋を一軒経営していたほか、西斎堂の宝峰寺は、霊岳寺の下院に当たる。


 


 


 

不思議なのは、寺の後ろに建てられている真新しい伝統建築風の家々。

どうやらどこぞのディベロッパーが、資金を投資し、ここを古刹とセットの「第二の川底下村」にしようとしたのではないか、と
思われる。

山の麓から延々と8㎞にわたって続いた道路がコンクリート敷きで真新しいことから、
まずは道路敷設から巨額を投資したのではないか、と思われる。

背景の新築家屋群は、「農家楽(民宿)」として、請負制でテナントを募集--。

文物認定の看板の日付けが2013年となっていることから、恐らく2013年あたりのプロジェクトだったのではないだろうか・・・。
そして資金枯渇で頓挫。
---現在に至る、みたいな。
 
 

 お寺の正門は鎖と南京錠で封鎖されていましたが、
 鎖のわずかな隙間を抜けて、皆がどんどん中に入って行きます。

 鎖の長さでぎりぎり私は通れないんじゃないか、とやきもきしましたが、
 木の戸の両側にじゃりじゃりと身をこすられながらも、何とか通過に成功しましたわよ。ええ。


 


 

 敷地の東南角に残るのは、鐘楼の跡。

 けばけばしく真新しい鐘楼を立て直さず、このようなわびさびの情緒あふれる残骸のままで寸止めする修繕のセンスはなかなか粋。

  









 後ろの伽藍・大雄宝殿(本殿)の中の梁の粉彩の色は、まだくっきりと残っている。




 お堂に転がっている石碑二つは、元代のものと、清の康熙年間のもの。

 



 


 

 

 軒下のこの曲がったくねくねとした柱については、由縁がはっきりしている。

 清の康熙二十二年(1683)、地元から高官となった劉懋恒が、寺に参拝にやってきた時、
 この大雄宝殿の軒先が深く取られているために、支え切れずに崩落する危険があることに気付いた。

 そこで有志の善意を募ったところ、充分な資金が集まったので、その資金で住職が奔走。
 支えの補助柱を立てめぐらし、現在に至っているという。

 前殿三間と鐘楼・鼓楼は、清の雍正十一年(1733)に新たに建てられたもの。

 

 

 こちらは前殿の梁の粉彩。


なかなか見事なプロジェクトだなああ、と感激した。

・・・と言っても、それは無人で荒涼としたこのわびしさが風情あったというだけで、
これだけの見事な完成度のまま、今は頓挫していたとしても、
この情緒が忘れられなくて、数年後に再訪したら、もうかしましい川底下村のような、テーマパークになってしまっている気がしてならない。


一期一会・・・・。
思い出に残る場所というのも、そういうものなのかもしれない・・・。




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門頭溝7・双林寺と川底下村ふたたび

2016年03月23日 17時46分43秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

次に向かったのは、双林寺。
清水鎮上清水村の西北の山中にある。

 
 
 バスは、こんな感じの山中で停車。あまりの勾配の急な坂道は無理、ということで、
 歩いて登ることになった。


 

 
 つきあたりに現れたのは、「老年なんとか基地」の看板。
 門は閉ざされていて、入れない。

 ガイドブックを見て来たと説明すると、特別に中を見せてくれることになった。


 

 敷地内はただ今、絶賛、猛犬飼育中。
 数十頭の獰猛なチベタン・マスチーフ(ザンアオ)が山も砕けんばかりの咆哮を続ける。

 入口のこの子も、でかさが写真であまりわからなくて残念。
 人間が横にたって、大きさを示そうにも、あまりの恐ろしさに誰も近づけない(汗)。

 
 この国でザンアオの需要はまだまだ大きい。
 一戸建ての建物のどろぼう除けには、絶対的な効果を発揮する。


 さて。

 ザンアオを見に来たわけではないので、かれらを刺激しないようにおそるおそる先を進んで行く。

 


 

 敷地の奥まで行くと、「双林寺」の文字の隠壁が見えてきた。

 プレートの説明によると、双林寺は元々、百花山の瑞雲寺の下院であり、
 創建はいつの頃かわからないが、少なくとも鐘は遼代に鋳造されたもの。
 
 きわめて貴重なため、現在は門頭溝博物館の収蔵となっているという。

 百花山というのは、永定河を挟んで、遥か西南方向にある山のようで、えらい距離も離れており、
 どういう関係にあるのかは、現時点では不明。

 山の麓にあった中継所のような位置にあったということだろうか。




 敷地内にあるのは、その鐘がおさまっていた建物という。

 

 
 

 この高台の上。

 

 松も立派。

 見えてきたのは、こんな小さな建物

 

 元代の木造構造が残っているのだという。


 えらい新しいやないか、と思っていると、以下のようなブログを発見。
  
中国語のブログ 天翔128古跡的博客 によると、

 訪問時には、こういう工事の最中だったという。日付は2012年。4年前だ。

 


 

あああーー。

 まあ。しかし珍しい元代の様式を継承しているといわれると、
 そういえば、屋根の汲み方、形がどことなく、いつも見ている伝統建築とはちがう気もする。


 


 


元代と明代では、屋根の様式もちがっていたんだー、と
実体験として体感できたのは、きっと貴重な体験になるのかしら、と勉強不足のまま考えた。。。


 

 帰り道


北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

三つ目のポイントは、川底下村。

このすでに有名な観光地の村は、以前にも何度か訪れ、このブログでもアップしているので、今回はあまり写真を撮っていない。


門頭溝・川底下村1、久しぶりの訪問
門頭溝・川底下村2、先祖は洪洞の大槐樹
門頭溝・川底下村3、防衛のための入植
門頭溝・川底下村4、田舎へきたらとうもろこしパン
門頭溝・川底下村5、村内を散策
門頭溝・川底下村6、民宿を拝見
門頭溝・川底下村7、村の上のほう
門頭溝・川底下村8、文革のノスタルジア
門頭溝・川底下村9、一線天


今回も昼食時は、目が血走りすぎていて、お料理の写真とる精神的余裕なし!(爆)


撮れたのは、食事の間中、壁の高みからにゃあにゃあと何やら威嚇の鳴き声を上げ続けた猫ちゃんたちのみ。
「残飯はわしらのもんや、あまりきれいに食うなよ」
とでも言いたかったのだろうか(笑)。

 
 


 


猫ちゃんらに見送られながら、ビールで足元をふらつかせながら、
今回は皆さんの後に続いて、初めて向かいの山に登った。


 


 

 ご一行様の最後から、ふらふらと一番後ろについて行きます。


 


 


 

 ちょっと登っては、後ろを振り返って写真を撮りつつ、撮りつつ。。。


 山の中腹にあるのは、娘娘廟。

 


 

  
   

 日頃の運動不足のために途端に息が上がり、ぜえぜえ言いながらよたよたと登り続け・・・・。

 


 




 ぎゃああああ。
 ここまで登ったどおお、やっぱり村の俯瞰図は迫力じゃああ。
 ・・・と、皆の半分も登らずに、ひとりで満足。

 


 山中の宿場町の全貌が納められて、ひどく嬉し。


 


 


 


 
 
 村の最も高台にある関帝廟





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門頭溝6・斉家庄村・霊厳寺

2016年03月22日 16時07分36秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
この週末、北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足に初めて参加させていただきました。

個人ではなかなかいけないようなディープなところを皆でバスで回ることができ、
大変有意義ですばらしい一日でした。

主催されている アンティーク倶楽部さん、素敵な活動に参加させていただいて、
ありがとうございましたー!


参加者は、北京在住の日本人23名、大所帯の賑やかな出発です。


日程(あんてぃーく倶楽部ブログより抜粋)


朝0730 建外SOHOA座ロビー集合
1000 霊厳寺大殿
1045 双林寺
1130 川底下村→昼食
1400 霊岳寺
1700 北京市内着 解散

・・・ということで、普段ぐうたらな生活をしていて、早起きの自信がない私は、結局一睡もできない状態で集合場所に到達(笑)。

目的地は、だいたいこんな感じの場所です。



北京の西側に暴れ川、永定河の激しい流れによって削られた門頭溝の谷間を進んでいきます。
永定河の流れとほぼ平行に作られた国道109号線に沿って、ずっと西に100㎞ほど遡っていくことになります。


今では穏やかな流れが、牧歌的風景を優雅に作り出している永定河ですが、
康熙帝が治水工事を終え、願いと自信を込めて「永定河」と改名するまでの名は「無定河」。

暴れ龍のようにのた打ち回って進んでいたんですねー。





まずは一番遠い西の端まで、一気にバスで行ってしまい、
そこから少しずつ、北京に戻りながら、4つのポイントを巡っていく、というコースでした。


最初に訪れたのは、門頭溝区斉家庄郷斉家庄村にある霊厳寺。

 


 

 
 


現存するのは本殿のみながら、その最大の見どころは、北京地区で現存する唯一の元代の木造建築だということ。
…木造と言っても、基本構造、というこです・・・。
壁はレンガで埋めて作られています。


事前の予習なしで参加したので、唯一の元代の建築と今知り、少し感動・・・・(爆)。

創建はなんと唐の武徳年間。
元の至正年間に再建されました。

明の永楽年間には、尼僧庵だったこともあるという。


抗日戦争期間中に日本軍によって焼失、現存するのは、大雄宝殿のみとなる。

不幸な歴史があったのですね・・・。


 

 こちらは、石碑の頭の部分。
 本殿の入口の前に転がり、皆の足の踏み台になっているのが、石碑の本体。

 これは文革中にこのような姿になったとのこと。

 帰りに村の爺様と雑談をしていたら、文革前までは本殿には木造の仏像のご本尊もあったという。
 

 

 軒下には、まだ粉彩の色の名残りが見える。


 

 東から見た遠景。
 もともとは、山門殿、鐘鼓楼、太子殿、伽藍祖師堂、大雄宝殿、その東西の配殿があったそうだが、
 今残るのは、大雄宝殿(本殿)のみ。

 東側には畑が広がっている。


 

 南側にある木が立派。。。

 


 


 




門頭溝区斉家庄郷斉家庄村の霊厳寺を見学した後、斉家庄村の中を散策します。


 

 通り沿いにもいくらか、古い門構えが残っています。


 

 薪取り帰りの爺様。


 


 

 好々爺姿が、きれっきれの爺様。
 絵になります・・・。


 

 
 


 


 
 28号院というのが、古い豪邸が残っているというので、
 横丁から入って行きます。

 

 

 
 


 
 
 このおたくのようですね。

 おお。確かに非凡なる佇まい・・・。

 


 

 入口に蝋燭用の穴もあります。

 夜、ここでほのかに蝋燭の火がはためく姿は、ぞくぞくするほど怪しげでしょうなああ。。。

 
 


 

 個人のお宅なので、中を見せてもらうわけにもいかず、
 なんとか外から屋根の写真だけでも撮ろうとします。。。。

 
 


  


 塀の上には、ぺんぺん草が。。。。

 

 


 


 


 

 


 


 バスのところまで帰ってきました。
 


 

 華北名物「晒太陽(ひなたぼっこ)」。


 
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門頭溝5・川底下村その4、文革のノスタルジアと一線天

2013年07月05日 12時13分35秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
この村の紹介でよく紹介されるのが、この文革時代のスローガンの写真。







「毛沢東思想で頭脳を武装させよ!」
・・・・・やっぱり熱病が冷めた後には、意味がぴんと来ない言葉でんな。

それがまたシュールだから若い人に受け、年配の人にはヒステリーの記憶を呼び覚ます。



   



   

こじゃれた感じの門構え。木の彫刻が美しい。
小金持ちの商人の家だったのだろうか。。

やっぱりこういう彫刻の一つでも飾った家がないことには、
古民家群として人々を魅了するほどの品質にはならないんだな。





だいぶ上まで来たからますます鳥瞰できるようになる。






   



   





こうしてみると、谷間の猫の額のような土地に建てられた要塞だということがよくわかる。






平地の降りてきた。
よく考えたら、古えの道路もこの位置、この程度の幅(もちろんやや狭かったのだろうが)で
大して代わり映えはないだろう。







河北やモンゴルから山中をかいくぐり、北京に抜けようとした時、
このようにのど仏のような狭い場所があり、そこに防衛のための村を作ったのは、よく理解ができる。
昔は道のどこかに関所を設けていたのだろう。




川底下村から少し谷を奥に進んだところに「一線天」というさらなる「のど仏」にふさわしい場所がある。





上を見上げると、一本の線のようにしか天が見えないという意味だろう。
この地形を見ていると、どうも人工的に掘ったような感じがする。










ここも映画ロケによく使われる。
私は見ていないが、映画《投名状》の中でアンディ・ラウが土匪らを率いて、
軍糧を強奪するシーンが取られた場所だという。

そう。

この地形は、明らかに下を通る方が不利で、上からそれを狙う連中が、狙い撃ちにできる場所だ。
守りやすく、通る方としてはいつ襲われるか、いつ投石されるのか、戦々恐々として通らなければならないようにできている。


モンゴルから侵入してくる敵を襲撃するために作られたのではないだろうか。



門頭溝4・川底下村その3、民宿を拝見

2013年07月04日 10時21分12秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ


山の中腹にある民宿。中庭に入ると、大きな「川」の文字が。
「川」と同音の、正式な文字はこれだそう。全画数30画。「川」は当て字。




庭から下を見ると、村が一望の元に。
景色はすばらしいが、食事などを提供するとしたら、食糧の搬入など、すごい重労働になるのだろうなああ。

泰山の頂上にあるレストランが、超高値だったが、人力でおっちゃんらがはあはああいいながら、
天秤棒で運んでいるのを見て納得したのを思い出した。




お部屋を見せてもらった。
これで一部屋120元だそうだ。ワンベッド30元の計算。

学生さんらの団体さんなどにはいいでしょうな。
ここには、写生のために美術学校の合宿も入ることが多いそうだ。


あるいはロケ班。
川底下村はよく時代劇のロケに使われる。

映画などを見ていると、あきらかにこれは川底下でしょうー、というシーンもよく見かけた。
最近はちょっと観光化が進みすぎて、逆に使いにくいのか、やや減ったが。
あとは他の地方の古鎮の整備が整ったこともあるだろう。


    
    お部屋の外の天空の廊下





欄がんには、リサイクル精神旺盛なプランターが。




中庭の共有スペース




民宿の冷やかしを終え、さらに山肌にへばりつくようにいく村の路地を進む。


   
 
  あちこちに下に続く通路が出現。


   
  
 石畳と石壁のインフラ。



   









   


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門頭溝3・川底下村その2、防衛のための入植

2013年07月03日 20時04分23秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京郊外にある川底下村もなぜ「洪洞の大槐樹」から振り分けられてきた人たちなのかというと。
それはモンゴルとの攻防戦に備えるため、明初、朝廷があらゆる山中の幹線路に移住集団を入植させ、
防衛システムを作り上げていったからだ。

本来は山深い谷の中にあり、日照時間さえろくに確保できないような山肌が人間の生存に向いているはずはない。
それなのにここに人間の住む集落が存在する理由は、ひとえに「無理やり」、「強制的に」手配されたからだ。

それはこの谷が、モンゴルから北京に侵入してくる通路に位置するからであり、
首都を敵の手から守るために人間が駐屯している必要があったためである。

しかし清代に入り、モンゴルとの敵対関係が解消してからは、逆に商品や民間人が行きかう「商道」となり、
この小さな山間の村にも、やせた土地での苦しみが多いだけの、実り少ない農業や牧畜に従事するよりも
遥かにましな恩恵をもたらしてくれるようになった。

川底下村の家屋が皆ただのあばら家なら、いくら古いからといって、
わざわざ市内から車を2時間近く飛ばして実に来る価値はない。
立派な構造で作られ、少しは小金を貯めた家には彫刻があしらわれているからこそ、美しいと思うのだ。

民国時代、村内には、瑞福堂、瑞慶堂、三義堂、保全興等の商家と
何軒かの「ロバ店」(つまりはキャラバン宿)があり、「八大家」と呼ばれていたという。


  




中庭に続く通路。




中庭は食堂に変身。


到着した時には、すでに1時を回っていたので、あまりほかの店を吟味もせず、決定。
外国人の多く訪れる有名な観光スポットだけあり、キンキンに冷えているビールも出てきて、一同大満足。
(食事より酒の話が一番になって、失礼。。。)



とうもろこし干しは、絵になるー。









中庭に陣取る大きな釜3つ。

中国北方で田舎飯の代表といえば、「とうもろこし焼きパン」である。
かの西太后も愛したというとうもろこしの粉を水でこねてなべ肌にべたり! と貼り付け、じっくり焼いた素朴なものだ。

私ははっきりいって、ぱさぱさ、もさもさ、味なし、であまり好きではない。
しかし雑穀として腹持ちがよく、食物繊維たっぷりで腸のお掃除にばっちり効果を発揮するだろうことは、容易に想像できる。


かくしてたまに車に乗っかって田舎めぐりをしにきた都会の北京っ子らは、このぱさぱさ、もさもさパンを、
私と同様に「大しておいしくもない」と認識しつつも、薬だと思って喜んでほおばるのである。
「青汁」を飲む日本人のような気分だろうか。(へんなたとえ??)


このストーブ、どうやら燃やしているものは、「適当にその辺にあるもの」のようだ。
割り箸、割り箸のビニールの袋、白酒の入っていた包装箱といった生活ゴミから、その辺の山肌で拾ってきた薪や木の切れ端まで何でも燃やしているらしい。
とにかくただで手に入り、現金の支出が派生しないことに主旨があるようだ。



食後、おなかも落ち着いたところで村内の散策に出かけた。



民家を出たメインストリートはこんな感じ。



お土産屋さん。今回は余裕がなかったので、立ち寄らず。
以前に立ち寄った際、中で売られているグッズは、なかなか洗練されていた。


   
   路地裏を入っていく。
   村は山肌にへばりつくように建っているので、奥から上に上がっていく。



  
   
   だんだんと急な石の階段を上るようになる。
   この上に住んでいる人は、大変だろうなああ、と思う。
   物資の運び込みに車を乗り付けることができないのだから、すべて人力で背負っての運び込みだ。


そんな不便な場所、生産性を求めるなら離れていってしまうのは当然。
現在の村民は29户、たったの93人である。ほとんどが中高年であることは想像に難くない。

ほぼ100%が、民宿かレストラン経営だろう。

まさにテーマパークにならなければ、打ち捨てて都会で発展を目指すのだろう。
この山奥の農村のほとんどがそういう運命であるように。



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門頭溝2・川底下村その1、先祖は洪洞の大槐樹より移住

2013年07月02日 07時46分53秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
桑谷村の見学を終えて車に戻り、次に「霊水」に行こうとしていたところ、
参加者の方が全員、「川底下村」に行ったことがないということが判明した。

同窓会の遠足では、過去に何度も行っているが、帰国される方などの入れ替わりもあり、
それならぜひいきましょう、と急遽予定を変更して、川底下村に向かった。


川底下村といえば、北京城内が取り壊しと再開発によりもはやほとんど原型をとどめない今となっては、
中国北方の四合院建築の町並みを楽しむことのできる貴重な近郊の村となっている。

やや観光化が進みすぎ、俗になっている部分はあるのだが、
それでもまだまだ素朴でこの程度なら許容範囲内、と私は思っている。



   

昼食に選んだお宅。
通りに面しているのは、門構えのみ。どんどん奥につながっている。



   


   

門Dunはあとから作ったものっぽいが、それはそれとして、やはりこういう様式に文化を感じる。









古民家群というのは、ただ単に古いだけでは価値がない。
がらくたと骨董は紙一重。

やはりある一定の経済的な基盤を元に、少なくとも小金持ち程度でなければ、
後世の人が見て美しいと感動するものは残らない。
古くてもがらくたはがらくたなのだ。


  

先ほどの古民家。
長い通路を入り、門から振り返ってみた図。




入り口の入った部分の壁画。



今、我々が利用している国道109号などの舗装された幹線道路ができる以前、
川底下村は、東西交通の大動脈上に位置し、宿場町として栄えた。

この村の成り立ちからして、
明代に山西の洪洞の大槐樹から移住させられてきたというから「軍事」、「交通」と関係が深いことを感じ取ることができる。




正面には、影壁。


「山西洪洞の大槐樹」といえば、世界中の華僑が祖先の地として、崇拝するシンボルである。

明代、モンゴルのとの戦いで、長城の内側---最前線である山西において、あまりにも敵側と密通する漢人らが多く、
その忠誠心のなさ、不甲斐なさに手を焼いた朝廷は、

「山西の連中はあかん。数世代にもわたり、うまく立ち回ることを覚えてしまっている」

と、彼らに見切りをつけ、まったく地の利のない海辺の福建人らと総入れ替えをするという暴挙に出た。


そこで山西から福建に送られる人たちも、福建から山西に移住させられてきた人たちもすべて
まずは「洪洞の大槐樹」と呼ばれている巨大な巨木の下に集められ、そこから各地への入植に振り分けられていった。

福建に飛ばされた長城のふもとの人たちは、そこから海外に飛び出して行き、世界中でチャイナタウンを作った。
子供たちに語り継ぐのはいつも「洪洞の大槐樹」であり、幾世代にもわたり、彼らの心の故郷の象徴となっていった。


10年ほど前、そんなことは露知らず、例によって何の予備知識もないまま洪洞を訪れ、後から知って驚いた。
いずれその写真もフィルムからスキャンしてアップしたいと思うが、
確かにその当時、洪洞の寺院の伽藍の場違いなほどの豪華さをいぶかしく思っていた。

2000年すぎといえば、中国の田舎はまだまだしょぼくさく、旧跡名所の整備もあまり進んでいない。

ましてや山西の片田舎の洪洞は、ただのしょぼけた田舎町だったが、
そこに突如として現れたお寺の豪華絢爛さたるや、少し別世界のようだった。

後から考えれば、あれは海外で成功した華僑たちが、自分たちの故郷のために寄付したお金であんなことになっていたのではないだろうか。

逆に、以前にアップした山西省と炭鉱4、黄土高原の葬式だが、実はここは福建からの移住者の集団により占められた村だ。

名前を「林家口村」といい、村人たちは全員「林さん」。
林という姓も如何にも南方の姓らしい。

彼らは口々に「我々の移住は洪武何年(細かい数字は忘れたが)に福建から移住してきた」といい、
未だに村では、福建から来たといえば、ただ飯、ただ泊まりで大歓迎するという。

リンクした記事の最初の写真の左側の男性は、いかにも暴れはっちゃくのお父ちゃん風の風貌。
縄文系の日本人にもいそうな「南方」の風貌である。

そんな顔が長城のふもとの谷間に存在する理由をなんと、明代初頭まで遡ることができるのだ。


高度成長期以来、もはや地域ごとの人種的な特徴など顕著でなくなってしまった、
出身地ごっちゃまぜの日本人から見ると、大変興味深いエピソードだ。
人々が700年前に作られた運命の手配の元になお生きているという事実は。



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門頭溝1・広慧寺、恭親王、安徳海ゆかりの寺

2013年07月01日 08時36分30秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
去る6月2日(日)、大学の同窓会の遠足があった。

行き先は、当初は北京の西郊外、門頭溝地区にある古民家村の「桑谷村」と「霊水村」を歩く予定だったのだが、
当日チャーターした車の運転手にナビに最初の「桑谷村」を入力してもらい、連れて行かれた場所はどうも腑に落ちない。

古民家郡にしてはあまりにも新しい家が多すぎるが、まったく古民家がないかといわれれば、そうでもないような。。。
しかしごく普通の郊外の村のような気もするし。。。

首をかしげたまま、なんとなく山の中腹にあるお寺までのゆるやかなハイキングとなった。


家に帰って後から調べたら、なんと「桑谷村」は二つあることが判明。
「どうも普通の村だなあああ」と思っていたのは、別の村だったのですねー。
しかしこれまた中途半端にお寺などもあったりするので、そこまで登り、それなりに満足。




この当たりは、「定都峰」といい、「不到定都峰、枉道北京城(定都峰に来らずんば、北京城に来た意味なし)」というらしい。


山の中腹に出現した広慧寺。



寺の入り口


  
 
 境内には、樹齢数百年の銀杏の古木が。圧倒的な存在感。




広慧寺の構造は、ごくシンプルな三合院。



中国語のサイトによると、「現地の人たちによると、広慧寺の歴史は潭柘寺よりも長いという」とある。

潭柘寺といえば、「先に潭柘寺ありき、後に北京ありき」といわれる由緒正しきお寺。

桑谷村は潭柘寺鎮にあり、両者は地理的にも遠くない。
そういえば、あまり関係ない話だが、私もまだ潭柘寺には行ったことがない。

あまりにも有名すぎ、あまりにもベタ過ぎると、とかく行く機会を逃してしまうものだ。
いずれまた行きたい。



閑話休題。
広慧寺は「明代の創建」と、あちこちのサイトに書かれている。

もし譚拓寺よりも古いのであれば、それでは矛盾することになるが、
おそらくすでに原型のようなものがあり、明代に隆盛したということだろうか。
当時は大勢の僧侶を抱えていたという。


中国語サイト『仏教ガイダンス』には、次のような解説がある。
「清代に入ると、宮廷の宦官らの避暑地となっていた時期もあるが、
清末、清朝の没落に伴い、恭親王・亦忻門下の大宦官・安徳海が、広慧寺を商人らに売り、人件費の支払いなどに当てた。
それ以来、広慧寺の「皇家寺廟」という肩書きがなくなり、人々から少しずつ忘れられていった。」


恭親王・亦忻といえば、列強連合軍が北京になだれ込み、
泡を食った咸豊帝(西太后の夫)が承徳に避難している間に西洋人らを相手に戦後処理を担当した咸豊帝の弟。

彼が皇帝になっていたら、西太后の出る幕など到底なかったし、中国の近代史も変わっていただろう、といわれる人物。
彼は一時期、譚拓寺に長期滞在しており、地理的に近いこの寺とは、そういう意味で縁もあるということだろうか。


また安徳海といえば、後に西太后にかわいがられ、専横をほしいままにした宦官。
そのせいで敵を作りすぎ、宦官のくせに外地に出た(清朝の宦官は北京近郊以外は外出してはならないという決まりあり)ことを摘発されて失脚した人だ。
彼が失脚しなければ、後の李連英の栄華もありえない。

そうやって歴史的有名人の名前がバンバン挙がってくると、
「ほおおほおお」と少しはありがたみも出てくるというもの。

見学している時点では、そこまでの知識もなく、ただ漠然と見、後から復習して写真を見返すことしかできないが。







同窓会の皆さん。お茶目です。




中のご本尊は、北京の他の古刹と同様、如何にも新しいもの。
何しろ、大躍進ですべて溶かしてブロックにしてしまったらしいですから。
北京周辺には古いものはほとんど残っていないとのこと。



門頭溝の家屋の特徴「石片瓦」。
石で作った瓦を使用している。




このあたりの岩は、横に圧力をかけると、紙のように薄くわれる特徴があり、それを瓦として利用しているもの。
光を受けると、七色に輝き、それは美しくて風情がある。
私が愛してやまない風物だが、実用性はあまりよろしくない。

昔、門頭溝近くの谷に家を建てて住んでいた頃、
今ではもうこういった古建築の再現にしかあまり使われなくなった石片瓦を求め、あちこちを探し回ったことがある。

なんとか見つけることはできたが、今度はその施工が難しく、できる職人さんがあまりいないという。
実用的ではないとは、そういうことであり、つまりは本来なら雨水を下へ流していき、
家の中に入れないようにするのが瓦の役目なわけだが、岩をめくって作られるこの瓦は表面が完全に平らではないし、形状も完全に一致させることは難しい。

端の方は少しのダメージでぼろぼろと崩れてしまうからだ。
密封性が悪く、規則的でもないため、雨漏りを起こしやすい。


その昔、流通が不便で外から物資を運んでくるよりは、その辺にあるものを利用して作ったほうが安上がりだった時代には、
それでも苦労してこの石瓦を使おうとして皆、施工の腕を磨いたりもしたのだろう。

ところが今では山の中だろうと、谷の中だろうと、舗装された道路をトラックで乗りつけることができる時代になり、
その必要性はなくなってきたというわけだ。


それでもこの石瓦の美しさにヤラれてしまっていた私は採用を強行。
案の定、激しく雨が降りしきるある季節に派手な雨漏りを引き起こして家の天井や壁をカビだらけにさせてしまった、
という苦くも甘美なる思い出がある。




境内の様子。


石瓦は今、100%用いるよりは、素焼き瓦と模様を作りつつ使うのが主流。
美観的にもそのほうが素敵だと私も思う。



ところで、安徳海に売り飛ばされた後の広慧寺は、どうなったのだろうか。

前述の中国語サイト『仏教ガイダンス』にも
「四十年代末期には次第にお参りに訪れる人も少なくなり、僧侶らもいずこかへ消えていった。
お堂は風雨にさらされ、荒廃していった。新中国の成立後、徐々に広慧寺は取り壊され、
その建材で桑峪小学校が建てられた。」

という風に、ほとんど瓦解され、「白骨化」どころか「ぺんぺん草」のみの状態だったらしいことがうかがえる。


そこに2008年まではほとんど廃墟だった写真を発見した。
以下に中国語サイト『複式猪圏(複式ブタ小屋)』というお茶目な名前のブログにアップされていた写真をそのまま拝借させてもらう。






























写真には確かに無残な姿が。。。
どうやらこの5年間で再建したようですな。。。




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