どうやら龍門派の成立は、はっきりとその起源を遡ることができないらしい。
民間で深く地下に潜る間に形成されたが、あまりにも秘密主義を守ってきたために、
いつの間にか、由来もうやむやになり、誰も正確に伝えなかった、というのが、実情だろう。
清代になり、急に世の中に堂々と出ることができるようになった際、
急ごしらえで「箔付け」と行ったものらしい。
龍門派は又の名を「律宗」ともいう。自らを律する宗派という意味だろう。
律宗は、きわめて秘密裏の伝承され、時勢が不利なときは何十年も外の人に一切知られることなく伝承し続けることができるという。
一旦、時勢が熟すれば、センセーショナルに世の中に姿を現すことができる。
その活動は主に、気功を中心とする実践の鍛錬である。それを「丹法」というが、龍門派丹法には、2種類ある。
1、顕宗: 元の初め、全真教の[伊にんべんなし〕志平、李志常などが、
一般の道衆、信衆に対し、指導した修養方法。当時の社会で広く一般的だったやり方。
今でも巷で行われている、公園で老人らが励んでいる健康体操の延長のようなものですな。
2、隠宗: つまりは律宗。丘祖が晩年に得た金丹秘要を趙道堅の系統に伝えたもの。
これが龍門派である。
もうこの当たりになってくると、完全に武侠小説の世界になってくるが、
要するに、気功の鍛錬により超人的な力を身につけ、人の病気を治したり、敵を倒したりすることだろうか。
そうなると、宗派の「看板スター」の実力のカリスマ性が極めて重要となってくるのだろう。
それを代々、レベルを落とさずに伝えることが、「隠宗」が世に隠れて続けてきた活動なのだろう。
明が滅亡し、清が政権をとると、全真教はようやく宿敵・明の皇室の弾圧から解放された。
満州族は漢人の支持を得るため、清初の順治・康熙・雍正の三王朝の間、宗教緩和政策を取った。
この時、龍門派は、第7代律師・王常月の時代。
王常月は、昆陽子と称し、順治20年〔1655〕、陝西の華山から北京の白雲観に移った。
順治21年(1656)、聖旨を奉し、白雲観で主講となり、紫衣を賜うこと3回に及ぶ。
順治帝といえば、宗教への傾倒が激しかった皇帝である。
何度も出家しては、母親・孝庄皇太后に連れ戻され、さらに出家する、という「宗教狂い」ぶりを見せる人だ。
龍門派の王常月の説法もどうやら順治帝の心をつかむことができたらしい。
皇帝という後ろ盾を持ったこともあるのか、弟子千人に上り、道風を大いに振るわせた。
次の康熙年間、王常月は弟子を引き連れて南下。
南京の隠仙庵、湖州の金蓋山、湖北の武当山などを巡って戒を授け、信徒を収めた。
20年余りに受け入れた信徒は多く、久しく廃れていた全真教を中興させ、王常月は龍門派の「中興之臣」と呼ばれる。
これにより王常月以後、全真教と龍門派が「二合為一」となり、出家するという習慣も復活した。
王常月の語録をまとめた『龍門心法』は、20節で構成され、龍門復興の思想宗旨を示す。
王常月の後、龍門派は多くの分派に分かれた。
龍門西竺心宗の王清楚、白馬学(1615-1818)などは、優れた養生により100年を越す寿命を全うしたといわれる。
道教がともすれば、すぐに多くの分派に分かれる傾向にあるのは、
つまり丹法というのが、一人の優れた能力を持つ「スター教祖」の力によるところが大きいからだろう。
龍門戒法は、丘処機以来、代々すべて「単伝秘授、不能広行」。
400年にわたり、弾圧を受ければ地下に潜り、一旦時勢がくれば、一気に興隆させた。
康煕45年(1706)、康熙帝は、王常月に「抱一高士」の称号を賜った。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
お香をあげる人々。
舞台の下のトンネル。
本来は、山の下からえっちらおっちらと上ってきて、最もメインとなる真武殿に入るために
このトンネルの下をくぐり、豪華絢爛たる獅子や猿の白玉石の彫刻に迎えられて
じゃじゃーん! と入る演出になっている。
この順路を後ろから入ってくることを想像してほしい。
ううーん。山道を登らなくていいのはよいが、設計者当初のドラマチックな演出の意図が
まったく伝わらない見学であったことが、今になってようやくわかった。。。
実に残念。
民間で深く地下に潜る間に形成されたが、あまりにも秘密主義を守ってきたために、
いつの間にか、由来もうやむやになり、誰も正確に伝えなかった、というのが、実情だろう。
清代になり、急に世の中に堂々と出ることができるようになった際、
急ごしらえで「箔付け」と行ったものらしい。
龍門派は又の名を「律宗」ともいう。自らを律する宗派という意味だろう。
律宗は、きわめて秘密裏の伝承され、時勢が不利なときは何十年も外の人に一切知られることなく伝承し続けることができるという。
一旦、時勢が熟すれば、センセーショナルに世の中に姿を現すことができる。
その活動は主に、気功を中心とする実践の鍛錬である。それを「丹法」というが、龍門派丹法には、2種類ある。
1、顕宗: 元の初め、全真教の[伊にんべんなし〕志平、李志常などが、
一般の道衆、信衆に対し、指導した修養方法。当時の社会で広く一般的だったやり方。
今でも巷で行われている、公園で老人らが励んでいる健康体操の延長のようなものですな。
2、隠宗: つまりは律宗。丘祖が晩年に得た金丹秘要を趙道堅の系統に伝えたもの。
これが龍門派である。
もうこの当たりになってくると、完全に武侠小説の世界になってくるが、
要するに、気功の鍛錬により超人的な力を身につけ、人の病気を治したり、敵を倒したりすることだろうか。
そうなると、宗派の「看板スター」の実力のカリスマ性が極めて重要となってくるのだろう。
それを代々、レベルを落とさずに伝えることが、「隠宗」が世に隠れて続けてきた活動なのだろう。
明が滅亡し、清が政権をとると、全真教はようやく宿敵・明の皇室の弾圧から解放された。
満州族は漢人の支持を得るため、清初の順治・康熙・雍正の三王朝の間、宗教緩和政策を取った。
この時、龍門派は、第7代律師・王常月の時代。
王常月は、昆陽子と称し、順治20年〔1655〕、陝西の華山から北京の白雲観に移った。
順治21年(1656)、聖旨を奉し、白雲観で主講となり、紫衣を賜うこと3回に及ぶ。
順治帝といえば、宗教への傾倒が激しかった皇帝である。
何度も出家しては、母親・孝庄皇太后に連れ戻され、さらに出家する、という「宗教狂い」ぶりを見せる人だ。
龍門派の王常月の説法もどうやら順治帝の心をつかむことができたらしい。
皇帝という後ろ盾を持ったこともあるのか、弟子千人に上り、道風を大いに振るわせた。
次の康熙年間、王常月は弟子を引き連れて南下。
南京の隠仙庵、湖州の金蓋山、湖北の武当山などを巡って戒を授け、信徒を収めた。
20年余りに受け入れた信徒は多く、久しく廃れていた全真教を中興させ、王常月は龍門派の「中興之臣」と呼ばれる。
これにより王常月以後、全真教と龍門派が「二合為一」となり、出家するという習慣も復活した。
王常月の語録をまとめた『龍門心法』は、20節で構成され、龍門復興の思想宗旨を示す。
王常月の後、龍門派は多くの分派に分かれた。
龍門西竺心宗の王清楚、白馬学(1615-1818)などは、優れた養生により100年を越す寿命を全うしたといわれる。
道教がともすれば、すぐに多くの分派に分かれる傾向にあるのは、
つまり丹法というのが、一人の優れた能力を持つ「スター教祖」の力によるところが大きいからだろう。
龍門戒法は、丘処機以来、代々すべて「単伝秘授、不能広行」。
400年にわたり、弾圧を受ければ地下に潜り、一旦時勢がくれば、一気に興隆させた。
康煕45年(1706)、康熙帝は、王常月に「抱一高士」の称号を賜った。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
お香をあげる人々。
舞台の下のトンネル。
本来は、山の下からえっちらおっちらと上ってきて、最もメインとなる真武殿に入るために
このトンネルの下をくぐり、豪華絢爛たる獅子や猿の白玉石の彫刻に迎えられて
じゃじゃーん! と入る演出になっている。
この順路を後ろから入ってくることを想像してほしい。
ううーん。山道を登らなくていいのはよいが、設計者当初のドラマチックな演出の意図が
まったく伝わらない見学であったことが、今になってようやくわかった。。。
実に残念。
よく、映画などで、戦のシーンを
見るたびに、こんなにたくさんの馬は
いったいどこで飼育されて、殺されてしまった馬たちがかわいそうだと
思ってしまうのでした。
「転べる馬」というのがいるそうですよ。
つまり全速力で走り、攻撃を受けて人を乗せたまますってーん!と転んでもけがしない技術をもった馬がいるそうで、
戦闘シーンではそういう馬が使われるそうです。