1220年、75歳の高齢の丘処機は、弟子の[伊のにんべんなし]志平、宋徳方などの18人を率い、
2年の歳月をかけて、万里の道のりを進み、ヨーロッパに西進中のチンギス・ハーンの部隊に追いついた。
丘処機が見たのは、血で血を洗う腐爛臭に満ちた屠城の痕だった。
丘はチンギス・ハーンに民を殺さぬように説き、チンギス・ハーンはその言葉に耳を傾けた。
治国に関する多くの有益な提案をし、丘処機一行は、西域のハーンの天幕で熱烈な歓迎を受けた。
丘処機はチンギス・ハーンの元に1年とどまったが、高齢を理由に東帰を申し出、何度も却下された後、ようやく許されたのであった。
帰国後、丘処機は大都(現在の北京)の天長観での布教を許された。
それまでの全真教の道士らは、托鉢(・・・・は、仏教用語かいな? 道教の場合はどういうのでしょう)
により活きる糧を得ていたが、国家の擁護を受け、様相は一変した。
天長観は丘処機にちなみ、「長春宮」と改名された。
・・・・それが今日の北京・白雲観である。
このように仏教、儒教を抑え、元の朝廷から強力な支援を得た全真教だが、丘処機の死後まもなく、たがが緩み始める。
朝廷の後ろ盾をいいことに道士や信徒らが、社会で傍若無人な振る舞いを始めるのである。
夫子廟、仏像を破壊して歩き、48箇所を焼き討ちにした。
このでたらめな狂態のために、それまでの独占状態が一気に崩れた。
そもそもこの時点で全真教は、創始者の王重陽、その弟子の丘処機につづく孫弟子、曾孫弟子の代でしかない。
まだ新しい宗派が創設されてからまだ3-4世代しか経っていないことになり、その間に教義・戒律・組織を確立するには、至っていなかったと考えられる。
全真教は、仏教と儒教の教義も取り入れて「ごった煮」状態にしてしまっている。
その点、仏教と儒教との差別化、自派の優勢の主張が難しいことになる。
さらに王重陽や丘処機などの「アイドル」的な教祖のカリスマ性に依存しすぎ、
それに続く後続の優れた人材を育成するためのシステムが確立されていなかったのではないだろうか。
王重陽や丘処機のような一種の「天才」であれば、3教のさまざまな経典を読み、その中で自らの世界観を確立させていくことができる。
しかしそれに続く「凡庸」な弟子どもでも、教団の中のメンバーとして
どんな馬鹿でもそこそこのレベルに育て上げるには、システム化された教材、経典、カリキュラムが必要となってくる。
そういうものの確立を怠ってきたか、それどころではないくらいに歴史が浅すぎたのか。
その「システム」敗北の象徴的な出来事が、元の憲宗5年(1255)の宗教ディベートである。
皇帝が少林寺の高僧と全真教の道士・李志常に命じ、御前での宗教理論論争をさせたが、これに李志常が敗北した。
それまでの全真教の専横ぶりを罰するためか、それともモンゴル皇帝が単細胞なためにこの敗北に一気に頭に血が上ったのか、
仏教側の反撃が始まり、道経を焚書にし、民間からも道経狩りが命じられた。
これが全真教には、決定的な打撃になり、勢力は大きく削がれたが、それでも元一代、全真教は朝廷、皇室と深い関係を維持しつづけた。
今日でも佳県の白雲観にモンゴル人信徒が多いのは、脈々と続く元代からの伝統なのだろう。
元が滅亡するまで、全真教はモンゴル貴族らと深い関係を保ち続けた。
このため明の太祖・朱元璋は全真道士を危険視して、これを忌み嫌い、
また全真道士のほうも一部には、自らを「大元遺老」と自認して、新しい王朝を否定して憚らなかった。
明初、朱元璋の三教に対する政策は、儒教を中心に据え、「釈老(仏教と道教)兼用」である。
朱元璋はかつて「禅と全真は、修身養生を中心としており、すべて自己中心。
これに対して正一は、超脱を銘とし、特に孝子慈親(親孝行、家族愛)を掲げ、人倫に即している」と評価、道教の別の宗派である正一道を保護した。
正一道は封建倫理道徳を説く宗派であるところが、朱元璋のおめがねにかなったのだろう。
正一道と朱元璋の関係は、明の成立以前に遡る。
1361年、朱元璋がちょうど中原での覇権を争っている時、正一道の第42代天師・張正常が、朱元璋に使者を送り、支持を表明した。
朱元璋は「以手書賜答(手書きを以って返信を賜う)」ことで、正一道を擁護することを表明したのである。
「すべての龍虎山宮観の殿堂、道具類を何人たりとも壊してはならない。
した場合は、神明への冒涜とみなす。
これまでの山園田地家屋は、そのままとし、軍民は何人たりとも損じてはならない。」
と、乱世において、その財産を保証してやった。
1367年、朱元璋は、皇帝の名乗りを揚げたい意向を示し、張正常に天意の伺いを立てるよう請う。
張正常が、霊験もあらたかに、天意の支持を宣言したのは、いうまでもない。
1368年、朱元璋が南京の首都を構えると、張正常が入賀した。
朱元璋は、張に正二品に相当する「正一教主嗣漢四十二代天師護国闡祖誠崇道弘徳大真人」に封じた上、
さらにその一族と龍虎山大上清宮の各徭役を免じた。
その後も歴代の皇帝が明一代、正一天師(真人)に全国の道教を司る欽定を出し、多くの特権を認めたのである。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
ほらほら、これこれ。今回の陝西の旅でよく見かけた、由緒ある古刹なのに妙にアニメチックな狛犬。
一応「狛犬」でないといけないわけさ。でもこれじゃあ、ディズニーの「ライオンキング」そのまま。
しかも・・・・(汗)。子供を跨がして、写真撮影してるし・・・・(汗汗)。
あちゃああ。。。。
まあ。そのために新しく作って、消耗してもまた新しく作ればいいようになっているんでしょうけど。。。
これも宗教が民衆のニーズに応えるという例なんでしょうかねえ。。。
白雲観の最もメインとなる真武殿には、縁日のたびに伝統劇が催される劇台がある。
毛沢東が訪れた時にも観劇した、由緒ある舞台だ。
毛沢東は、縁日で人々でごった返す境内でいっしょに観劇し、周囲の人が用意した椅子には座らず、
近くにいた子供をその上に立たせてやったというエピソードが伝わる。
この日はあいにく修繕中で、やや情緒に欠けた・・・。残念。
メインの真武殿と向かい合って立っている劇台。本来ならこの下をくぐり、麓からこの境内に入ることになる。
凝った彫刻が美しい。潤沢な経済力を思わせる。
2年の歳月をかけて、万里の道のりを進み、ヨーロッパに西進中のチンギス・ハーンの部隊に追いついた。
丘処機が見たのは、血で血を洗う腐爛臭に満ちた屠城の痕だった。
丘はチンギス・ハーンに民を殺さぬように説き、チンギス・ハーンはその言葉に耳を傾けた。
治国に関する多くの有益な提案をし、丘処機一行は、西域のハーンの天幕で熱烈な歓迎を受けた。
丘処機はチンギス・ハーンの元に1年とどまったが、高齢を理由に東帰を申し出、何度も却下された後、ようやく許されたのであった。
帰国後、丘処機は大都(現在の北京)の天長観での布教を許された。
それまでの全真教の道士らは、托鉢(・・・・は、仏教用語かいな? 道教の場合はどういうのでしょう)
により活きる糧を得ていたが、国家の擁護を受け、様相は一変した。
天長観は丘処機にちなみ、「長春宮」と改名された。
・・・・それが今日の北京・白雲観である。
このように仏教、儒教を抑え、元の朝廷から強力な支援を得た全真教だが、丘処機の死後まもなく、たがが緩み始める。
朝廷の後ろ盾をいいことに道士や信徒らが、社会で傍若無人な振る舞いを始めるのである。
夫子廟、仏像を破壊して歩き、48箇所を焼き討ちにした。
このでたらめな狂態のために、それまでの独占状態が一気に崩れた。
そもそもこの時点で全真教は、創始者の王重陽、その弟子の丘処機につづく孫弟子、曾孫弟子の代でしかない。
まだ新しい宗派が創設されてからまだ3-4世代しか経っていないことになり、その間に教義・戒律・組織を確立するには、至っていなかったと考えられる。
全真教は、仏教と儒教の教義も取り入れて「ごった煮」状態にしてしまっている。
その点、仏教と儒教との差別化、自派の優勢の主張が難しいことになる。
さらに王重陽や丘処機などの「アイドル」的な教祖のカリスマ性に依存しすぎ、
それに続く後続の優れた人材を育成するためのシステムが確立されていなかったのではないだろうか。
王重陽や丘処機のような一種の「天才」であれば、3教のさまざまな経典を読み、その中で自らの世界観を確立させていくことができる。
しかしそれに続く「凡庸」な弟子どもでも、教団の中のメンバーとして
どんな馬鹿でもそこそこのレベルに育て上げるには、システム化された教材、経典、カリキュラムが必要となってくる。
そういうものの確立を怠ってきたか、それどころではないくらいに歴史が浅すぎたのか。
その「システム」敗北の象徴的な出来事が、元の憲宗5年(1255)の宗教ディベートである。
皇帝が少林寺の高僧と全真教の道士・李志常に命じ、御前での宗教理論論争をさせたが、これに李志常が敗北した。
それまでの全真教の専横ぶりを罰するためか、それともモンゴル皇帝が単細胞なためにこの敗北に一気に頭に血が上ったのか、
仏教側の反撃が始まり、道経を焚書にし、民間からも道経狩りが命じられた。
これが全真教には、決定的な打撃になり、勢力は大きく削がれたが、それでも元一代、全真教は朝廷、皇室と深い関係を維持しつづけた。
今日でも佳県の白雲観にモンゴル人信徒が多いのは、脈々と続く元代からの伝統なのだろう。
元が滅亡するまで、全真教はモンゴル貴族らと深い関係を保ち続けた。
このため明の太祖・朱元璋は全真道士を危険視して、これを忌み嫌い、
また全真道士のほうも一部には、自らを「大元遺老」と自認して、新しい王朝を否定して憚らなかった。
明初、朱元璋の三教に対する政策は、儒教を中心に据え、「釈老(仏教と道教)兼用」である。
朱元璋はかつて「禅と全真は、修身養生を中心としており、すべて自己中心。
これに対して正一は、超脱を銘とし、特に孝子慈親(親孝行、家族愛)を掲げ、人倫に即している」と評価、道教の別の宗派である正一道を保護した。
正一道は封建倫理道徳を説く宗派であるところが、朱元璋のおめがねにかなったのだろう。
正一道と朱元璋の関係は、明の成立以前に遡る。
1361年、朱元璋がちょうど中原での覇権を争っている時、正一道の第42代天師・張正常が、朱元璋に使者を送り、支持を表明した。
朱元璋は「以手書賜答(手書きを以って返信を賜う)」ことで、正一道を擁護することを表明したのである。
「すべての龍虎山宮観の殿堂、道具類を何人たりとも壊してはならない。
した場合は、神明への冒涜とみなす。
これまでの山園田地家屋は、そのままとし、軍民は何人たりとも損じてはならない。」
と、乱世において、その財産を保証してやった。
1367年、朱元璋は、皇帝の名乗りを揚げたい意向を示し、張正常に天意の伺いを立てるよう請う。
張正常が、霊験もあらたかに、天意の支持を宣言したのは、いうまでもない。
1368年、朱元璋が南京の首都を構えると、張正常が入賀した。
朱元璋は、張に正二品に相当する「正一教主嗣漢四十二代天師護国闡祖誠崇道弘徳大真人」に封じた上、
さらにその一族と龍虎山大上清宮の各徭役を免じた。
その後も歴代の皇帝が明一代、正一天師(真人)に全国の道教を司る欽定を出し、多くの特権を認めたのである。
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写真: 陝西佳県の白雲観。
ほらほら、これこれ。今回の陝西の旅でよく見かけた、由緒ある古刹なのに妙にアニメチックな狛犬。
一応「狛犬」でないといけないわけさ。でもこれじゃあ、ディズニーの「ライオンキング」そのまま。
しかも・・・・(汗)。子供を跨がして、写真撮影してるし・・・・(汗汗)。
あちゃああ。。。。
まあ。そのために新しく作って、消耗してもまた新しく作ればいいようになっているんでしょうけど。。。
これも宗教が民衆のニーズに応えるという例なんでしょうかねえ。。。
白雲観の最もメインとなる真武殿には、縁日のたびに伝統劇が催される劇台がある。
毛沢東が訪れた時にも観劇した、由緒ある舞台だ。
毛沢東は、縁日で人々でごった返す境内でいっしょに観劇し、周囲の人が用意した椅子には座らず、
近くにいた子供をその上に立たせてやったというエピソードが伝わる。
この日はあいにく修繕中で、やや情緒に欠けた・・・。残念。
メインの真武殿と向かい合って立っている劇台。本来ならこの下をくぐり、麓からこの境内に入ることになる。
凝った彫刻が美しい。潤沢な経済力を思わせる。