いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺

2016年11月16日 06時33分32秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

高士奇の学問が如何ほどのレベルだったかは定かではないが、博識だったことは間違いないだろう。
世紀の雑学家と言ってもいい。

康熙帝はさまざまなことに広く興味を持ち、知識欲の旺盛な人だった。
数十年も一日の如く読書を続け、その興味は世の中の森羅万象に渡り、
天文、地理、経学、詩文、歴史、数学、さらには西洋の近代自然科学に関する知識に至るまで、何もかも学びたがった。

それぞれの分野で相当の労力もかけた。

最終的には「貧多嚼不爛」(何もかもに手を出しすぎ、どれも中途半端)になったが、
学んでいく過程でともに話のできる相手がいなければ、寂しく、孤独にも感じたことだろう。


康熙帝が高士奇から離れられなかったのは、なぜか。
そこには他人では真似できない何かがあったにちがいない。

高士奇の南巡同行における逸話からいくらかその一端を感じることができるかもしれない。


康熙帝はその生涯に六度の南巡に出かけているが、高士奇はその中で四度に渡り同行しているのである。

ある年の南巡の道中、康熙帝は杭州の霊陰寺にやってきた。
寺の住持(住職)は皇帝がご機嫌麗しいのを見て諸僧らを率いて康熙帝の前で跪き、
霊陰寺のために扁額の文字を書いてほしいと所望した。

康熙帝も生来、筆を振るうのは嫌いではない性質(たち)だ。
僧たちのこのようなおねだりに応えることもやぶさかではない。


しかしこの日はやや興奮気味だったのか、
「靈」の字の上部の「雨」の字をあまりにも大きく書きすぎ、
真ん中の「口」三つと下の「巫」の字を書く場所がなくなってしまった。

このためどうにも次の一筆を降ろせずに往生していた。


高士奇はその様子を見て事情を悟ると、直ちに手の掌に「雲林」という二文字を書いた。
墨を擦りに行くような振りをして康熙帝のそばに寄り、わざと手の掌を広げて康熙帝に見せたのである。

この絶妙な機転に助けられ、康熙帝も気の動転が鎮まった。
字を書き間違えたのなら、いっそのこと開き直り「雲林」の二文字を書くことにしたのである。

--霊陰寺の別名「雲林寺」には、このような由来があるのだ。


杭州の民衆はこの寺名を認めたがらず、影では昔のまま「霊陰寺」と呼び続けたが、
康熙帝の題写した扁額は、未だに霊陰寺の大門の上にかかっている。

--民衆が康熙帝のつけた寺名を認めたがらなかったのは、
以前にも何度か書いたが、江南は最後まで満州族への心理的抵抗感が強かった地域のためかと思われる。


ここではそれが主題ではないので、これ以上は論じないこととする。





杭州の西渓山荘

自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。


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