いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

『紫禁城の月』と陳廷敬3、陳家興隆の歴史的背景

2016年09月03日 01時04分53秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

これまで見てきたように、陳家は明末の動乱で農民軍から甚大な被害を受けてきた経緯がある。
その農民軍の中から李自成軍が頭角を現して明の首都を陥落させた。

それに対し明の仇を取ることを大義名分にして勝ったのが、清軍である。
その結果、社会の秩序が取り戻され世の中が落ち着いて平和が再び訪れた。

このため沢州界隈の人々は平和を取り戻してくれた新しい政権を支持しようという積極的な心理があったかと思われる。


実は満洲族が紫禁城の主となってからも山西では政権転覆の反乱が起きたことがあった。

順治六(一六四九)年、大同総兵の姜[王襄]が清朝に対して反乱を起こしたのである。
山西南部の陽城県でも張斗光がこれに呼応して一揆軍を起こし、一時期沢州をも占領したことがあった。

張斗光は陳家にも帰順を勧める使者を派遣したが、
陳廷敬の父陳昌期は、その場で書状を破り捨てて使者の罵り断固とした拒絶の意を表明した。
農民の烏合の衆への不信感、さらには成立して間もない清政府への信頼が窺い知れる。


帰順を拒否された張斗光は案の定まもなく数千人の軍隊を率いて陳家に襲いかかった。
この時には河山楼、堅牢な周囲の城壁などの一連の防衛体制が完成して久しかったため、
陳昌期は自信を持って一族郎党を指揮し、敢然とこの攻撃を受けて立ったのである。

三日後、清軍が北からまもなく到着すると聞き、農民軍は包囲を解いて去っていった。


満州族が紫禁城に入ってまだ間もなかったこの頃、すべての人々が清朝を支持していたわけではなかった。

特に南方では服従を潔しとしない風潮が色濃く残った。
明を転覆させた農民軍は陕西省から興り四川を占領し、山西などを蹂躙して首都の北京へ向かっていった。

つまり農民軍が通過した土地は、その激しい略奪の対象となり甚大な被害を受けた。


--それを成敗してくれたのが清軍、という図式である。
このため「悪者から解放してくれたいい人たち」として、満州族の政権を歓迎する気分があったかと思われる。

しかし南方はもとから農民軍の被害を被っていない。
むしろ清軍がいきなり攻めてきて激しい市街戦の末に占領されたので、清軍に対する心象が著しく悪かった。







城壁の上に上がる階段










南方人の清朝への抵抗意識という背景も陳廷敬とそれに続く一族の後裔が多く科挙に及第し、
活躍する場を与えられたことに深く関係する。

というのは前述のような経緯のために、本来は教養高く科挙の合格者を多く輩出していた江南から、
皆出仕を見合わせていたことを考え合わせねばならないからだ。


長江デルタの流域に当たる江蘇、浙江などの地域は、
明代に全国で最も多く科挙の合格者を輩出してきた地域である。


中国全土でも最も手工業が発達しており、気候も温暖だ。
工業生産、農業生産ともに申し分のない高い生産性を誇る上、水運により東西南北すべての地域との交通の便もよい――。
まさに全国で最も豊かで経済的に豊かな土地である。


それは現代でも変わらない。
現在でも大学入試での平均点数が最も高く競争が激しいのが、この二省である。

またたとえば、こんなところにもその特異性が現れている。
日本政府が観光ビザを発行する限定地域だ。

観光ビザが出るのは北京戸籍、上海戸籍、広州戸籍、深せん戸籍の所有者などのいわゆる「第一線都市」と言われる大都会の本戸籍の持ち主のほか、
省全体を指定されているのが、江蘇省戸籍、浙江省戸籍である。
つまりそれは日本に来ても単純労働のために違法滞在をする可能性のないくらい経済的に豊かな人々、ということを意味する。

この二省の人々だけ都市戸籍でなくとも、たとえ農村の人でも関係なく観光ビザを発行する。

これが他の地域であれば、事情が異なる。

たとえば、北京を例にとると、
北京から少し郊外になる「河北省」と住所のつく本籍の人には、上記の観光ビザは発行されないのである。

そのへんの感覚は北京に住んでいれば一目瞭然である。
北京の中心部の摩天楼は、先進国と変わらないほどの大都会だが、
そこからほんの七、八十キロほど郊外に走ると、そこにはもう百年も前にタイムスリップしたかのような別世界が広がる。
確かに北京市内と河北を同じ扱いにすると、大変なことになると納得が行く。


以上のような例を見ても、この二省が全国の中で如何に特殊な扱いを受けているかがわかる。
都会だけでなく農村の隅々に至るまで豊かな、ごく稀な地域なのだ。



閑話休題。
とにかく本来なら、最も人材を多く抱え、政府に貢献するはずの江南以南地域なのだが、
この時期なおも清朝に対する抵抗心が根強く、
反乱を起こさないまでも積極的に仕官しようという風潮になかった。

このため敢えて科挙も受験しないことで静かな抵抗を示していたのである。


--そのような「ライバル不在」現象も幸いした。
本来は科挙合格者輩出地としてはあまり有名ではなかった山西から、
この清初という特殊な時期に多くの合格者を出した背景の一つだったかもしれない。




皇城相府


清初、政権を取ったばかりの清朝廷は、広大な国土を治めるための人材を欲していた。
明の滅亡により官僚の雇用制度が一旦はごわさんになったわけだから、
新たに官僚を雇い入れる必要が生じたのである。

清の順治二(一六四五)年、清の入関後、初めての科挙が実施される。

--「入関」は、満州族が東北の大地から山海関を超えて南下したこと。
つまり万里の長城を超えて中原に侵入し、中華世界の主になったことを示す。


明代、一度の進士合格者数は二、三百人だったが、
この年は人材の著しい不足により一気に四百人採用した。

さらに本来は四年に一度しか実施しない科挙試験を順治十五年と十六年には、二年連続で実施。
慢性的な人材不足を補おうとしたのである。


以上のように政権側は喉の渇きを癒すかのように人材を求めて止まなかったが、
肝心の人材の宝庫であった江南の士太夫らが腰を上げない。
科挙をボイコットすることにより無言の抵抗を続けていたのである。


そのような「鬼の居ぬ間に洗濯」ができた影響もあってか、清初の山西は進士・挙人の「大豊作」(爆)の潮流を迎える。

特に陽城では、順治三(一六四六)年の会試では同時に十人が進士に及第、
「十鳳斉鳴」と言われた。

さらに順治八(一六五一)年の郷試でも同時に十人が挙人に及第、
「十鳳重鳴」と言われた。


また陳廷敬が進士に及第した順治十四年(一六五七)の会試では、山西から一気に八人も及第し、世間を騒然とさせた。

『紫禁城の月--大清相国 清の宰相 陳廷敬』の中でも山西からの進士合格者が多すぎて、
主試験官だった衛向書が不正を疑われるという場面が出てくる。

(本文第十三章あたり)

それほど山西の科挙人材「大豊作」がしばらく続いたのである。




皇城相府



そもそも山西は昔から科挙合格者数の上位には入っていない。

まずは以下の各省の進士/状元の順位表を見てほしい。

明代、各省の進士の地理分布
 
  順位 省  進士数
  1  浙江  3697
  2  江西  3114
  3  江蘇  2977
  4  福建  2374
  5  山東  1763
  6  河南  1729
  7  河北  1621
  8  四川  1369
  9  山西  1194
  10 安徽  1169
  11 湖北  1009
  12 陕西   870
  13 広東   857
  14 湖南   481
  15 広西   207
  16 雲南   122
  17 甘粛   119
  18 貴州    32
  19 遼東    23


明代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省  状元数
 1  江西  20
 2  浙江  18
 3  江蘇  17
 4  福建  10
 5  安徽  6


清代の各省の進士の地理分布

  順位 省  進士数
  1  江蘇  2949
  2  浙江  2808
  3  河北  2674
  4  江西  2270
  5  山東  1919
  6  河南  1721
  7  山西  1420
  8  福建  1371
  9  湖北  1247
  10 安徽  1119
  11 陕西  1043
  12 広東  1011
  13 四川   753
  14 湖南   714
  15 雲南   694
  16 貴州   607
  17 広西   568
  18 甘粛   289
  19 遼東   186


清代の状元(首位)分布表(トップ五)

 順位 省  状元数
 1  江蘇  27
 2  浙江  20
 3  安徽  7
 4  山東  5
 5  河北/福建 3


明代の山西省の順位は十九省中九位。
清代は七位。

状元の数はもちろんトップ五には入っていない。


前述の「豊かな地域ほど、進士輩出数が多い」の法則で行けば、
どうもあべこべな結果でもある。


山西は安徽省の「徽商(安徽商人、新安商人)」と並んで、「晋商(山西商人)」輩出の地として、
昔から豪商を多く出すことで有名な地である。
(潮商と並び、「三大商幇」というそうな)



その豊かな経済力から言えば、もう少し科挙合格者を出していてもいいようなものである。


両者の業務形態の違いからその差が生じるといわれる。

「徽商(安徽商人、新安商人)」は、元々は安徽の南部徽州の山中を出身とするが、
商売の活躍の舞台はそこではなく、揚州が中心だった。

徽州は山が多く耕せる土地が少なくて生産性の低い土地柄だったため、
二男、三男坊が都会に丁稚奉公に出る、いわゆる「丁稚小僧大量供給地」だったのである。

故郷に帰っても居場所など残されていない彼らが必死になって働き、地位を築いていったのが、
揚州の「塩商(塩の専売特許業者)」の業界の中だった。


明清代、塩は政府の専売である。
塩には高い税金がかけられた。

日本のように海に囲まれているわけでもなく、岩塩が取れる場所も限られている……。
庶民がなかなか自力で塩を手に入れられないことに目をつけたといえる。

人体を保つためになくてはならない食品なだけに税金を徴収しやすかったのである。


徽商はその利権に食い込むことにより豪商として頭角を現すが、
政府の特権を使った商売だけに「政商」の側面が強く、権力闘争の影響も受けやすかった。

そこで自身の家からも政府高官を輩出し、内と外の両方で呼応しつつ商売を進めて行かなければ危機に対応できない。

このため一族の中から科挙合格者を出し、中央政府の中枢に食い込ませることが何よりも重要だったのである。
一族の中で最も優秀な子は、商売は継がせずに受験勉強に専念させた。


実は「晋商(山西商人)」の場合は、これと反対なのである。
一族の中で最も優秀な子には商売を覚えさせ、どうも商売の勘所が悪い子にだけ余興のつもりで科挙を受験させた。


晋商の商売は辺境貿易が中心である。
地理的にモンゴルやロシア、東北に近い山西は異民族相手の商売で財を成した。


辺境の地は、いわば無法地帯である。
いつ何時、不測の事態が起こるかわからない環境で臨機応変にその場その場で判断を下し、
危機を乗り越える必要がある。

それには、ぼんくら息子では到底対処することができない。
だからこそ最も優秀な人材を商いに投じたのである。

逆にいえば辺境貿易は政権中枢の権力争いの影響はあまり受けない。
したがって科挙に全精力を集中させてどうしても政府高官を輩出させなければならない必要性がないのである。


反対に徽商にとっては「利権の確保」こそ最も重要であり、
中央での政治活動によりその利権をいったん手に入れることさえできれば、
あとは大名商売。

商売の方は、少々のぼんくらが経営していても、大した才覚がない経営者でも順調に事が運んだのだろう。



……という背景もあり、
康熙年間以後になると江南からの進士合格者がぐっと増え、山西出身者は次第に減っていく。

陳廷敬と陽城周辺の士太夫の中から大量の科挙合格者が出たのは、
ある特殊な時代背景の一時的な現象だったともいえるのかもしれない。





皇城相府



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2 コメント

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初耳です (Hiroshi)
2016-08-23 05:31:35
日本政府の観光ビザ発行に、そうした限定があるとは初耳でした。
返信する
hiroshiさんへ (yichintang)
2016-08-23 09:17:02
こんにちわー。

私もうろ覚えなのですが、今は確か瀋陽、天津などの戸籍の人も追加されたとも聞きました。

もちろんそのほかにもデポジット、収入証明。
固定収入がなくても、持ち家証明、車の所有証明などでもよいそうです。
返信する

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