疑問に思うのは、なぜいわゆる「後宮」、
---女性たちが群がり住む男子立ち入り禁止の場所のすぐそばに学校を作るか、ということである。
当時は女子の学校があるわけはないので、当然学生は全員男児である。
もちろん後宮とは隔絶する構造にはしてはいただろうが、
わざわざこんな場所に学校を作らなくても、と常識から考えると不思議になる。
雍正六年(一七二八)に学校開校を命じる上諭では、
「景山官学の学生で、十三歳以上、二十三歳以下の幼童、俊秀なる者九十名を選び、
咸安宮内で教室を三所改修するように。
各所三十名に分け、勉強させよ。
教習は翰林院の官僚の中から人格の厚い落ち着いた者を九人推薦し、
各所三人ずつ派遣して誠実に教えるべし。」
と命じている。
九十名を三所に分け、三十名に三人の先生をつけるということは、
恐らく一クラスの人数は十人、九部屋の教室があれば足りることになる。
四合院一つあれば十分な規模だ。
--雍正帝は、
「咸安宮内の部屋が、現在空いているため」
とすっとぼけたことをいう。
紫禁城といわず皇城の中でも四合院一つ程度は、どこなりと空いた部屋がいくらでも見つけることができただろうに・・・。
わざわざこの場所を選んだことには、深い意図を感じる。
つまり雍正帝の兄弟、親戚がほとんど敵、という異常な状態にあったことを考慮せねばならぬ。
即位を争った兄弟らはまだあちこちで政権を転覆しようと陰謀を張り巡らせていたことを・・・。
雍正帝の政治は秘密主義に覆われている。
それだけ政策の撹乱を狙う敵が多かったからに他ならない。
その後、清朝の政治の中枢となる軍機処も機密保持のために作られた。
親衛隊「粘竿処(チャンガンチュ)」も、雍正帝のために情報を集めるスパイ集団である。
咸安宮官学は雍正帝の手中で思い通りに育成できる人材として、
わざわざ世襲奴隷の「内務府包衣」子弟を集めて作られた---。
目的は人材育成のほかにも洗脳教育もあっただろう。
皇帝への絶対的な忠誠を徹底的に叩き込んだことは想像に難くない。
そういう人材が雍正帝の手中に決定的に不足していた。
即位した雍正帝には、自分に絶対的な忠誠を誓う有能な部下が余りにも不足していたのである。
これまでの混沌とした皇子らの派閥精力地図を思えば、既存の人材は誰かの息がかかっている可能性があり、
むやみに重用するのは危険である。
だれの手垢もついていない真っ白な人材を手塩にかけて育てるのが、最も安全な方法。
---という結論に至ったらしい。
後宮奥深くに学校を作ったのは、教育内容をライバルらに知られたくなかったのではないだろうか。
咸安宮の位置は、自分が住む養心殿から目と鼻の先にある。
完全に自分の目の届くところに置きたかった・・・・。
この距離なら、暇を見つけては自ら視察に行くことも可能だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e3/0fab1c9bd71acb01e5e448cba1717812.jpg)
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
次に教師陣である。
雍正帝は、咸安宮官学では翰林に教えよと言っている。
翰林は、漢人なら「進士にあらずんば、翰林にあらず」といわれる国家のブレーン集団である。
他の学校では、ここまで高い地位の教師はいない。
翰林は翰林院の所属員、諭旨の草稿を作成、国史の編纂をする。
国家政策や考えを文字にする機関だけに、最高の頭脳が集められる。
「進士にあらずんば、翰林にあらず」は、基本中の基本である。
進士に及第してもそのまま翰林院には入れない。
進士らは、最終試験である殿試の結果により、三等に等級付けされる。
一等の「一甲」は、定員が固定されており、トップ三人である。
即ち状元、榜眼、探花、この三人は文句なくそのまま翰林院に配属となる。
二等「二甲」は、人数はその時々によりまちまちだが、平均約五十人、「庶吉士」なる身分になる。
言わば「翰林見習い」の書生である。
次の科挙で次の庶吉士が入ってくるまで三年間、みっちりと教養を勉強しなおす。
三年後に再び試験を受け、成績上位者のみが翰林院入りする。
残りは六部所属か、地方官として知県などに任命される。
三等「三甲」は同じく六部か知県となる。
つまり翰林官とは、科挙のトップ中のまたトップ、国の頭脳の真髄が集まった集団である。
国事をこなす中枢部、内閣の構成員は、ほぼ翰林出身である。
肝心な部分は軍機処が握るので、国の決定機関の最高機関とは言えないが、
日常の煩雑な庶務の決定は、ほぼ内閣が行う。
翰林は国事を決定する内閣の候補生といえる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/81/6635c99932710c1a733578708787b31a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/05/57855c89d808a3d71bd82914d7b8bbb2.jpg)
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
このように、翰林官は一甲の三人は別としてほとんどの庶吉士の出身となるが、
試験の成績以外にもいくつかの採点基準がある。
それは容貌、年の若さ(あまりにも年をとっていたら、育成する意味がない)、字の美しさである。
即ち、庶吉士は若くて男前で字が美しく、教養があるのだ(爆)。
・・・・教師の選別にはどうでもいい話題で失礼(笑)。
---何はともあれ、翰林官は士大夫読書人の目指す人生の最終目標、世の中のあこがれだ。
翰林院の下級官である編修や検討は、官品では七品官でしかないが、
一品官の総督や巡撫とも対等に渡り合うことができる。
これに対して、同じ七品官でも知県なら自らを「芝麻官(胡麻塩官)」と卑下し、
一品官の前にはひれ伏さなくてはならない。
翰林官が教師を勤めるのは、「阿哥(アーゴ、皇子)」らの塾--上書房とこの咸安宮官学のみである。
ほかの学校の教習(教師)群はどういう人材が担ったかというと、
まず八旗官学では、順治初年は「監生」から選抜していた。
「監生」は一応、国子監の学生ということになっているが、
監生には恩生、蔭生なども多く含まれる。
つまりは、親の七光りで無試験入学できるのである。
・・・・そうなると、その教養たるや、推して知るべし・・・。
順治四年(1647)に批准された題本(定期報告)がある。
「恩、抜、歳生を教習に補充することを停止せよ。
蔭生として監生となった者で教師試験を受けていない者は、試験してから採用するように。」
玉石混合の監生の中から、
その教養を見ることなく教習に採用していたいい加減な管理が見えてくる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/91/ecbc47a5397045fa4c890cbb744bafca.jpg)
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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---女性たちが群がり住む男子立ち入り禁止の場所のすぐそばに学校を作るか、ということである。
当時は女子の学校があるわけはないので、当然学生は全員男児である。
もちろん後宮とは隔絶する構造にはしてはいただろうが、
わざわざこんな場所に学校を作らなくても、と常識から考えると不思議になる。
雍正六年(一七二八)に学校開校を命じる上諭では、
「景山官学の学生で、十三歳以上、二十三歳以下の幼童、俊秀なる者九十名を選び、
咸安宮内で教室を三所改修するように。
各所三十名に分け、勉強させよ。
教習は翰林院の官僚の中から人格の厚い落ち着いた者を九人推薦し、
各所三人ずつ派遣して誠実に教えるべし。」
と命じている。
九十名を三所に分け、三十名に三人の先生をつけるということは、
恐らく一クラスの人数は十人、九部屋の教室があれば足りることになる。
四合院一つあれば十分な規模だ。
--雍正帝は、
「咸安宮内の部屋が、現在空いているため」
とすっとぼけたことをいう。
紫禁城といわず皇城の中でも四合院一つ程度は、どこなりと空いた部屋がいくらでも見つけることができただろうに・・・。
わざわざこの場所を選んだことには、深い意図を感じる。
つまり雍正帝の兄弟、親戚がほとんど敵、という異常な状態にあったことを考慮せねばならぬ。
即位を争った兄弟らはまだあちこちで政権を転覆しようと陰謀を張り巡らせていたことを・・・。
雍正帝の政治は秘密主義に覆われている。
それだけ政策の撹乱を狙う敵が多かったからに他ならない。
その後、清朝の政治の中枢となる軍機処も機密保持のために作られた。
親衛隊「粘竿処(チャンガンチュ)」も、雍正帝のために情報を集めるスパイ集団である。
咸安宮官学は雍正帝の手中で思い通りに育成できる人材として、
わざわざ世襲奴隷の「内務府包衣」子弟を集めて作られた---。
目的は人材育成のほかにも洗脳教育もあっただろう。
皇帝への絶対的な忠誠を徹底的に叩き込んだことは想像に難くない。
そういう人材が雍正帝の手中に決定的に不足していた。
即位した雍正帝には、自分に絶対的な忠誠を誓う有能な部下が余りにも不足していたのである。
これまでの混沌とした皇子らの派閥精力地図を思えば、既存の人材は誰かの息がかかっている可能性があり、
むやみに重用するのは危険である。
だれの手垢もついていない真っ白な人材を手塩にかけて育てるのが、最も安全な方法。
---という結論に至ったらしい。
後宮奥深くに学校を作ったのは、教育内容をライバルらに知られたくなかったのではないだろうか。
咸安宮の位置は、自分が住む養心殿から目と鼻の先にある。
完全に自分の目の届くところに置きたかった・・・・。
この距離なら、暇を見つけては自ら視察に行くことも可能だ。
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次に教師陣である。
雍正帝は、咸安宮官学では翰林に教えよと言っている。
翰林は、漢人なら「進士にあらずんば、翰林にあらず」といわれる国家のブレーン集団である。
他の学校では、ここまで高い地位の教師はいない。
翰林は翰林院の所属員、諭旨の草稿を作成、国史の編纂をする。
国家政策や考えを文字にする機関だけに、最高の頭脳が集められる。
「進士にあらずんば、翰林にあらず」は、基本中の基本である。
進士に及第してもそのまま翰林院には入れない。
進士らは、最終試験である殿試の結果により、三等に等級付けされる。
一等の「一甲」は、定員が固定されており、トップ三人である。
即ち状元、榜眼、探花、この三人は文句なくそのまま翰林院に配属となる。
二等「二甲」は、人数はその時々によりまちまちだが、平均約五十人、「庶吉士」なる身分になる。
言わば「翰林見習い」の書生である。
次の科挙で次の庶吉士が入ってくるまで三年間、みっちりと教養を勉強しなおす。
三年後に再び試験を受け、成績上位者のみが翰林院入りする。
残りは六部所属か、地方官として知県などに任命される。
三等「三甲」は同じく六部か知県となる。
つまり翰林官とは、科挙のトップ中のまたトップ、国の頭脳の真髄が集まった集団である。
国事をこなす中枢部、内閣の構成員は、ほぼ翰林出身である。
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このように、翰林官は一甲の三人は別としてほとんどの庶吉士の出身となるが、
試験の成績以外にもいくつかの採点基準がある。
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即ち、庶吉士は若くて男前で字が美しく、教養があるのだ(爆)。
・・・・教師の選別にはどうでもいい話題で失礼(笑)。
---何はともあれ、翰林官は士大夫読書人の目指す人生の最終目標、世の中のあこがれだ。
翰林院の下級官である編修や検討は、官品では七品官でしかないが、
一品官の総督や巡撫とも対等に渡り合うことができる。
これに対して、同じ七品官でも知県なら自らを「芝麻官(胡麻塩官)」と卑下し、
一品官の前にはひれ伏さなくてはならない。
翰林官が教師を勤めるのは、「阿哥(アーゴ、皇子)」らの塾--上書房とこの咸安宮官学のみである。
ほかの学校の教習(教師)群はどういう人材が担ったかというと、
まず八旗官学では、順治初年は「監生」から選抜していた。
「監生」は一応、国子監の学生ということになっているが、
監生には恩生、蔭生なども多く含まれる。
つまりは、親の七光りで無試験入学できるのである。
・・・・そうなると、その教養たるや、推して知るべし・・・。
順治四年(1647)に批准された題本(定期報告)がある。
「恩、抜、歳生を教習に補充することを停止せよ。
蔭生として監生となった者で教師試験を受けていない者は、試験してから採用するように。」
玉石混合の監生の中から、
その教養を見ることなく教習に採用していたいい加減な管理が見えてくる。
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大学改革の一環として、日本の国立大学でもAOとか、推薦が一部行われましたが、その結果は期待外れで多くの国立大学では廃止され、私立では青田刈りになってしまいました。
受験戦争にはいろいろ問題があったとはいえ、やはり入試は「1点を争う」入試がないとダメだと個人的には思っています。
帰国などがあり、バタバタしており、おちついてパソコンに向かう時間が取れませんでした。
>樺太の隣の島の島民さんへ
そうなのでしょうね。
そういう意味で日本に宦官が必要なかったのは、
逃げ場のない島国で管理しやすかったからなのか、と思いました。
>Hiroshiさんへ
確かにそうですね。
人材大本命の進士は、もちろん厳しい試験で選抜されてきた人たちばかりなので、
実務的には、やはりこの人たちを中心に進めていったようですね。