「内閣」という枠では、皇帝自身があまり気に入らない勢力を排除できなかった。
南書房は「皇帝に書画を献上し、詩句のやり取りをする」という名目で発足されたものの、
それはあくまでも借りの姿。
実質は国政の中枢に仕立てられていく。
そして日頃から皇帝と密に接することにより、南書房に出入りするメンバーらの権勢が日益しに強くなったのである。
この時、かの有名な軍機処はまだなかった。
軍機処は康熙帝の子である雍正帝が設立し、その後も清末まで継承されたために名前がよく知られているが、
実際には軍機処と同様の役割を持った機関がすでに父親の康熙帝時代からあったということになる。
南書房も軍機処も名前が違うだけで実質的な目的は同じと言える。
康熙と南書房の官僚の関係は、極めて親しいものだった。
政務について緊密な議論を交わすほかにも、
康熙帝はよく「諸文士らと花を愛でて魚を釣り、同堂の師友と何ら変わりがなかった」(『嘯亭続録』巻一)
と言われる。
ある時、五台山から宮中に「天花」という名のキノコを献上された。
康熙帝は「香りの高いこと、世にも珍しく佳味と称すべし」と賞賛した。
そこで南書房にもわざわざ「名山の風土也」と知らせて一部を下賜したという(『池北偶談』巻二)。
南書房の官僚らに御用瓜果(皇帝用のお茶受けに供される味付け種、茶菓子、果物)、茶酒やその他の物品を下賜することは、
すでに日常的な習慣となっていた。
高士奇は康熙十六(一六七七)年、三十二歳の時に南書房に入った。
この年、大内「苑西」(暢春園)の中にも住まいを賜っている。
康熙帝が紫禁城ではなく暢春園で過ごす時間が長かったため、近くに住まいを賜ったということだろう。
また録事(記録係)として康熙帝の南巡にも同行、冬には内閣中書にも抜擢された。
高士奇は前後して二回、南書房の任務についた。
一回目は康熙十六年から二十七年まで、二回目は康熙三十三年から三十六年まで、
二回合わせると実に十四、五年の長きにも渡る。
この間は高士奇が最も忙しかった、激務をこなした時期だったと言える。
同時に最も充実した最も栄光に溢れた時期でもあった。
各種の文献資料を見ると、高士奇は南書房での当直で毎日朝早く家を出て夜遅くまで仕事をしていたようである。
勤務時間を過ぎても康熙帝に残るように言われれば、何かの相談を受けたり議論を交わしたりした後、
深夜になってようやく帰宅することもしばしばだった。
退勤があまりにも遅くなり城門が閉まっていたため、康熙帝が警護の者をつけて家まで送ったこともある。
康熙十九(一六八〇)年、三十五歳の時に「翰林院侍講」に就任。
これは「翰林」官とは別であり、「翰林」でなくてもなることができた。
「翰林」には進士出身者でなければ、なる資格さえなかった。
しかも進士の中でも最も成績のよい「第一甲(上位三名)」か、「第二甲(四位以下の若干名)」でなければ、確率は低かった。
「第三甲(その他大勢)」で順位が低ければ、翰林には選ばれなかったのである。
通常、一度の進士合格者は二百人から四百人と言われたが、
その中でもエリート中のエリート、国家中枢のブレインともいうべき存在だ。
--進士どころか、挙人の資格さえ持っていない高士奇には、もちろん「翰林」になる資格はなかった。
これに対して「翰林院侍講」は奏文の管理、公文書の照合などの事務仕事、いわば裏方を担当する。
名前はまぎらわしいが、まったく別の資格である。
杭州の西渓山荘
自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。
高小莉-逸野的博客
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
南書房は「皇帝に書画を献上し、詩句のやり取りをする」という名目で発足されたものの、
それはあくまでも借りの姿。
実質は国政の中枢に仕立てられていく。
そして日頃から皇帝と密に接することにより、南書房に出入りするメンバーらの権勢が日益しに強くなったのである。
この時、かの有名な軍機処はまだなかった。
軍機処は康熙帝の子である雍正帝が設立し、その後も清末まで継承されたために名前がよく知られているが、
実際には軍機処と同様の役割を持った機関がすでに父親の康熙帝時代からあったということになる。
南書房も軍機処も名前が違うだけで実質的な目的は同じと言える。
康熙と南書房の官僚の関係は、極めて親しいものだった。
政務について緊密な議論を交わすほかにも、
康熙帝はよく「諸文士らと花を愛でて魚を釣り、同堂の師友と何ら変わりがなかった」(『嘯亭続録』巻一)
と言われる。
ある時、五台山から宮中に「天花」という名のキノコを献上された。
康熙帝は「香りの高いこと、世にも珍しく佳味と称すべし」と賞賛した。
そこで南書房にもわざわざ「名山の風土也」と知らせて一部を下賜したという(『池北偶談』巻二)。
南書房の官僚らに御用瓜果(皇帝用のお茶受けに供される味付け種、茶菓子、果物)、茶酒やその他の物品を下賜することは、
すでに日常的な習慣となっていた。
高士奇は康熙十六(一六七七)年、三十二歳の時に南書房に入った。
この年、大内「苑西」(暢春園)の中にも住まいを賜っている。
康熙帝が紫禁城ではなく暢春園で過ごす時間が長かったため、近くに住まいを賜ったということだろう。
また録事(記録係)として康熙帝の南巡にも同行、冬には内閣中書にも抜擢された。
高士奇は前後して二回、南書房の任務についた。
一回目は康熙十六年から二十七年まで、二回目は康熙三十三年から三十六年まで、
二回合わせると実に十四、五年の長きにも渡る。
この間は高士奇が最も忙しかった、激務をこなした時期だったと言える。
同時に最も充実した最も栄光に溢れた時期でもあった。
各種の文献資料を見ると、高士奇は南書房での当直で毎日朝早く家を出て夜遅くまで仕事をしていたようである。
勤務時間を過ぎても康熙帝に残るように言われれば、何かの相談を受けたり議論を交わしたりした後、
深夜になってようやく帰宅することもしばしばだった。
退勤があまりにも遅くなり城門が閉まっていたため、康熙帝が警護の者をつけて家まで送ったこともある。
康熙十九(一六八〇)年、三十五歳の時に「翰林院侍講」に就任。
これは「翰林」官とは別であり、「翰林」でなくてもなることができた。
「翰林」には進士出身者でなければ、なる資格さえなかった。
しかも進士の中でも最も成績のよい「第一甲(上位三名)」か、「第二甲(四位以下の若干名)」でなければ、確率は低かった。
「第三甲(その他大勢)」で順位が低ければ、翰林には選ばれなかったのである。
通常、一度の進士合格者は二百人から四百人と言われたが、
その中でもエリート中のエリート、国家中枢のブレインともいうべき存在だ。
--進士どころか、挙人の資格さえ持っていない高士奇には、もちろん「翰林」になる資格はなかった。
これに対して「翰林院侍講」は奏文の管理、公文書の照合などの事務仕事、いわば裏方を担当する。
名前はまぎらわしいが、まったく別の資格である。
杭州の西渓山荘
自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。
高小莉-逸野的博客
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
なんと西溪国家湿地公園の目の前ですか!
公園の中には、西溪山荘のほかにも、別のテーマの庭園もあるようで、
皆、趣味がよくてなかなかすてきだなあ、と思ってみています。
私も行ったことないので、いつか行ってみたいです。