『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』は、王岐山が部下らに強烈に薦めたことで中国でベスト・セラーになった。
王岐山といえば、この数年しゅうきんぺい政権のもとで
自ら先頭に立って汚職摘発に大ナタを振るう紀律委員会の書記である。
「トラからハエまで」――大物も小物もいっしょくたに汚職官僚を次々と逮捕している。
人に恨まれる役を敢えて買って出た結果、すでに幾度も暗殺の憂き目に遭っているという。
そのような状況の中で任務を遂行し続けている。
そんな自らの立場に重ね合わせ、「官たるもの、こうありたい」、
そして部下たちにも「おまえたちもこうあれ」という意味を込め、
自分と部下らを奮い立たせるための理想とした書、ということになる。
--とは、聞いていたが、具体的にどういうことなのか、
そのあたりの事情がわかるSohu(中国語のポータルサイト)の記事があった。
以下に本記事を中心に、数回にわたり中国メディアにおける王岐山と『紫禁城の月』との関係を探ってみたいと思う。
ネタバレになる部分や登場人物が錯綜する部分もあるので、私なりに順序も整理しつつまとめてみた。
本国における本書の意義、影響力を知るために少しでも助けになればと願う次第である。
王岐山の崇拝する汚職摘発の名臣:大清相国・陳廷敬(2014.12.19)
王岐山は元々、歴史専攻の出であり、若かりし日に西北大学歴史系(学科)で学んだ後、
陕西省歴史博物館の職員をしていたこともある。
歴史は興亡の鑑(かがみ)。
官僚としての評価と名声について、歴史を学んだ者ほどよくわかっている人間はいないだろう。
二〇〇七年末、王岐山が北京市市長から異動になった時、
別れの際に同僚たちに王躍文の歴史小説『大清相国』(日本語題名『紫禁城の月』)を薦めた。
小説のためフィクションはもちろんある。
しかし主人公であり、康熙年間の文淵閣大学士だった陳廷敬が、
権勢の絶頂にある大臣らを向こうに回し、幾人もの汚職官僚を摘発した
「廉政(清廉な政治)史」上、欠かすことのできない人物であることは確かなのである。
王岐山は数年前に陳廷敬の巡視の物語を人に薦め、
今回は張英の故居を訪れた(東紫苑記: 張英も本書の登場人物ですな。詳しくは後述)。
王岐山の注目する歴史上の名臣は、果敢に汚職を摘発するほか、
自身も勤勉かつ清廉な人物だったことがわかる。
この二つの側面が、まさに王岐山の汚職摘発の方針に沿うものだった。
北京市長から異動になる時、王岐山は同僚らに『大清相国』を推薦した。
本書では陳廷敬が地方行政を巡察するくだりに大きな部分が割かれている。
陳廷敬のキャリアを俯瞰すると、「吏治(官僚機構の管理)」に従事していた時間が極めて長いことがわかる。
吏部(人事、官僚の紀律管理を担う省庁)尚書(=大臣)を二回担い、
監察、弾劾、提案を職務とする都察院では、その長官である左都御史を二回も務めた。
中国最古の監察機構である「御史台」は、後漢の時代から始まりその長官は「御史大夫」と称されたが、
明清代になると「都察院制度」に改革された。
都察院では適当な御史を皇帝が欽点(指名)し、地方及び各部門の監察を行うことになる。
官僚の汚職・違法行為が発覚すれば、御史には直接皇帝に上奏して弾劾する権限がある。
全国の監察業務を統率し各省の主政務官僚を監督することが、陳廷敬の職務の重点であったのだ。
山西省陳廷敬研究会の副会長であり、晋城地方志弁公室に長年在籍していた研究員馬甫平氏は、こう言う。
「陳廷敬は明末に生まれ、清初に生きた人です。
当時、山西は『程朱理学』の影響が非常に強く、必然的に陳廷敬もその影響を受けました。
理学は数百年の発展を経て、理論上すでに完璧な体系を整えていました。
そこで理学思想の実践を強調する理学家が多く出現したのです。
陳廷敬も同様です。
理学では個人の道徳観念を強調します。
つまりは官界で清廉に振る舞うこと、汚職官僚に対して敢然と挑むことを強調しました。」
陳廷敬を語る上で「理学」との出会いは、重要である。
「理学」―― 別名:宋明理学、道学、宋学、程朱理学、性理学、朱子学、陽明学。
宋代の程顥・程頤(二程子)、朱熹が発展させた思想である。
自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、
自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に至ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した。
陳廷敬は生涯、幾度か山西の実家に帰郷した。
中でも康熙元(一六六二)年、母親の病気を受けての帰郷・長期滞在では、
明代の理学大家、薛[王宣]の著作を手に入れ深くその思想に傾倒した。
京師(北京)に帰るのも忘れて長く山西に滞在しすぎた、ともいわれるほどである。
本書の中では、陳廷敬が地方に二度出向き、
現地の官僚との知恵比べの中で監察を遂行していく様子が描かれている。
--どの地方に、何を調べにいくかの詳細については本書に譲るとして、ここでは詳しくは述べない。
ただ史実として、陳廷敬が次のような奏文を提出した事実がある。
題名は《請厳督撫之責成疏》
--総督・巡撫職の責任の厳格化の要請
「総督」は数省の経済と軍事の最高責任者(正二品)、
「巡撫」は各省の民政の最高責任者(従二品)、
官位としては総督の方が上ながら、巡撫とは直接の主従関係にはなく、それぞれが直接皇帝の采配に従う。
つまり本奏文では地方高官の監督をきつくしろ、と言っている。
「吏治(官吏の管理)の要(かなめ)は、地方総督、巡撫等の高官の監督と責任追究の強化である。」
「上官が清廉であれば、官吏(現地で採用した下級役人)は自然と不正を働く勇気がなくなるというもの。
上官が清廉でなければ、官吏が清廉であろうとしても逆にそれもかなわぬ。」
当時の都察院では必要な場合、特に御史を他の政府部門に駐留させるか、
または地方各省を巡視し、汚職官僚の摘発を行っていた。
これは現在の中央巡視制度と類似する部分がある。
二〇〇二年十一月、「党の紀律検査体制の改革と整備、巡視制度の構築と整備」が党の十六大報告に書き込まれた。
二〇〇三年八月、中央紀律委員会と中央組織部巡視組が正式に発足された。
中央巡視組は通常五年以内--つまり政府からの任期一回以内に三十一の省区市の巡視を行う。
二〇一二年、王岐山は中央紀律委員会書記に就任後、巡視制度を大きく変革した。
巡視組では三つの「不固定」の試行を始めたのである。
一、巡視組長の「不固定」:
中央紀律委員会では独自の巡視組長の候補リストを作り、
組長はもはや「鉄帽子」(永遠に安泰・固定された職位)ではなくなり、
毎回そのたびごとに授権する制度に変えられた。
中国行政体制改革研究会の副会長・汪玉凱は、
これにより「人情の牌(パイ)」を打って物事を解決しようとする、
巡視を受ける側の機関にとっては、「根回しが極めて難しくなる」と評論した。
--つまり監察を受ける前にこっそりと責任者である巡視組長を接待したり、
賄賂を贈ったり、人情に訴えたり、弱みをつかんで脅したり(ハニートラップで証拠の動画を取るなど)して、
監察に手心を加えてもらうとか、見て見ぬ振りをしてもらうということができなくなる、という意味である。
監察に来る巡視組長は、候補者リストの中の誰かに指名されるが、
それが事前にわからないため、事前に手を打ちようがないのだ。
二、巡視の地区と機関の「不固定」:
巡視組が「一級沈む」(現任地における行状ではなく、前任地まで遡って調査する)。
つまり監察対象となる指導者が過去にトップを務めたことのある地方に出向き、過去の行状を調査するのである。
さらには銀行、住宅と都市と農村建設等の部門とも協力し合い、指導者の個人情報を抜き打ち検査し報告する。
三、巡視組と巡視対象の関係の「不固定」:
内部事情に詳しい関係者によると、
王岐山は巡視組に対し、巡視方式の革新を宣言、「明察」(公然とした調査)と同時に、
「暗訪」(覆面調査)もしなければならない、と叱咤激励したという。
以上の巡視制度の改革は、腐敗の粛清を強化した。
二年もたたぬうち、中央紀律委員会では省区市(省、自治区、直轄市の総称)三十一ケ所への常規巡視を終え、
雲南省委員会の元書記白恩培、湖北省の元副省長陳柏槐などの多くの省・部(中央省庁)レベルの幹部を逮捕した。
すべては巡視中に問題がみつかったことが逮捕のきっかけになった例である。
二〇一四年一月、王岐山は十八回中央紀律委員会三次全会で発表した作業報告の中で
「組織制度と方式方法の革新、専項(=特定項目)巡視の模索」を打ち出した。
「専項(=特定項目)巡視」の考えを提唱して二ヶ月以内に、
巡視組は科学技術部、復旦大学、中粮グループという三機関に対して専項(=特定項目)巡視を遂行した。
二〇一四年七月、一汽グループ(自動車製造の大型国営企業)に対する専項(=特定項目)巡視の中で、
一汽グループの元副総経理(社長)安徳武の汚職事件、
一汽大衆(フォルクスワーゲン社との合弁会社=国営企業)の副総経理(社長)李武の汚職事件等が発覚し、これを取り締まった。
二〇一四年十一月十八日、王岐山は中央巡視工作動員部署会で次のように指摘している。
即ち専項(=特定項目)巡視の要は、「専」にある。
ある特定の事、人、下属機関、プロジェクト、専門予算のついたプロジェクトに対して、
ターゲットを絞って巡視することにある、と。
--これを『大清相国』の描写に当てはめると、
陳廷敬が山東、雲南の軍政長官を取り締まったことは、
すべてある種の「専項(=特定項目)巡視」として捉えることができると本書の著者、王躍文氏はいう。
現在、中央巡視組は文化部(日本の文部省に当たる)、
中石化(=中国石油化工集団公司、大型国営企業)等の十三の機関に対して、
今年の第三ラウンド目の巡視を行っており、巡視方式はすべて専項(=特定項目)巡視の方式だという。
東紫苑記:
……とおわかりだろうが、
本記事は陳廷敬(後半は張英も)の足跡と王岐山の足跡を交互に比べる構成になっている。
それが個人を賞賛する記事か否かは、ここではおいておいて、
つまり中国の読者は、目の前で進む汚職摘発を四百年前の出来事との共通性を踏まえながら読み進めている。
歴史小説でありながら、まるで現代の現象を見るかのようにとらえつつ……。
王岐山の激しい汚職官僚の逮捕劇を受け、マスコミではよくこんな言葉が紙面に躍った。
「ついにこれは大トラだ」
「ただのハエばかりつかまえて、ごまかすな」
すっかり流行語になっているトラとハエだが、実は陳廷敬も「大トラ」狩りにも関わったことがある。
康熙年間、錚々たる名臣が内閣に名を連ねたが、大臣同士の派閥が乱立、派閥闘争は熾烈を極めた。
その中で保和殿大学士・索額図(ソンゴトゥ)と武英殿大学士・明珠(ミンジュ)の間の闘争が特に激烈を極め、
互いにそれぞれの利益網を形成し牽制し合い、狂ったように汚職に勤しんだ。
二人の権勢を前にしては、官界の上も下も誰も声を上げる勇気のある者はいなかった。
……どちらの「大トラ」をどうするのか、については、本書を読んでのお楽しみ。
ここでは詳しくは述べないことにする。
すでに本書を読んでから本ブログをご覧になっている方は、「ああ、この場面ね」とわかるだろう。
この当時、陳廷敬はまだ文渊閣大学士のポストには昇級しておらず、
官位は二人には及ばなかったが、孤高を守り抜きどちらの派閥にも属さなかった。
これについて、馬甫平氏は次のように言う。
「陳廷敬が大トラ打倒に加担したかどうかは、史料には記載されていません。
しかし本人の言動を通して、どういう立場を表明していたのか、推測することができます。
それを皇帝の前で行った、ある講義の中で示唆しています」
--作者王躍文は『大清相国』(日本名『紫禁城の月』)の中でこのくだりを極めて繊細な筆遣いで描写する。
このエピソードは、現代の「トラ狩り」にも大いに通じるものがある。
二〇一四年七月二十九日、深刻な紀律違反の疑いのため中央政治局の元常務委員、中央政法委員会の元書記周永康に対して、
中央紀律委員会の立件審査が決定したと新華社が発表した。
周永康は元々中央最高決定層の核心メンバーであり、
中国政界で絶大な影響力を誇り、中国全土に利益ネットワークを擁する人物である。
さらには長年守られてきた「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)、
「退休即安全」(引退すればそれ以上は追究しない)の慣習がある。
東紫苑記:
「刑不上常委」については、
つい最近、友人の福島香織嬢からご自身の最新著書をいただき、そこに説明があるので、引用したい。
「中国きょうさんとうは有史以来、常に党内権力闘争を続けている。
最大の権力闘争は文化大革命の背景でもあった毛沢東vs.劉少奇、林彪であり、
改革開放後は、鄧小平vs.胡耀邦、趙紫陽およびその周辺の複雑な権力闘争のおかげで
学生の民主化運動が激化し、あわやきょうさんとう体制が崩壊という事態にまでなった。
この苦い経験を反省して鄧小平は、二度と党内を完全に分断するような、
指導者同士が息の根を止め合うような激しい権力闘争が起きないように
集団指導体制という寡占独裁による合議システムを取り入れ、
『刑不上常委』(政治局常務委員は刑事上の罪に問われない)という暗黙のルールを作った。
『刑不上常委』とは、『刑不上大夫』という古典の言葉が元になっている。
大夫とは周から春秋時代の貴族・特権階級に相当する地位であり、
彼らは知識人として賢く礼を知っているので、たとえ罪を犯したとしても刑事罰に問われなかった。
同様に、きょうさんとう貴族の政治局常務委員も、
党員としての礼節と智慧を持っているので、罪に問われない、というわけだ。」
(『中国バブル崩壊の全内幕』宝島社、p185)
周永康事件への取り調べの困難は、想像を絶するものがあった。
メディアの報道によると、周永康事件の捜査の過程、王岐山は中央紀律委員会を率いて、
上から下に至るまで、海外から内地に至るまで「五大戦役」を戦い抜いたという。
1、李春城、郭永祥等の「四川軍」直系の摘発。
2、蒋潔敏、王永春を代表とする「石油派閥」の摘発。
3、李東生等の公安系統官僚の摘発。
4、冀文林、李華林を代表とする「秘書派閥」の摘発。
5、周永康事件に関わる多数の親族メンバーの摘発。
最終的に中央紀律委員会が撤収した後、周永康は立件審査され、
「刑不上常委」(懲罰は常務委員に及ばず)の慣習が、完全に打ち砕かれたのである。
中国の古い諺に「打鉄還需自身硬」(鉄を打つには、それ自身が堅くなければ、打つこともできない)
という言葉がある。
陳廷敬はその点を完璧に全うした、と王躍文氏は言う。
「汚職摘発と同時に、摘発する側も道徳的に潔癖なまでにクリーンで居続ける。
だからこそ、汚職摘発の面で果敢に相手を取り締まることができるのです」
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