いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語50、チュイン失脚

2019年02月28日 18時49分31秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
原始的な社会におけるリーダーというのは、ごく単純な判断基準が権力の維持基盤となる。

つまりは争いを仲裁する際、公平な判断をするとか、
戦利品を分ける際、功の大きかった人から誰もが納得いく分配の仕方をするとか、
皆が怖気づいている時に勇気を奮い立たせるようなカリスマ性があるとか、
そういう能力である。

それが少しでも弱いと思われたら殺され、我こそはと思う相手に取って代わられる。

ヌルハチもその意味では、
チュインへの告げ口をやみくもに信じたのではなく、誰もが納得いく判断をしたことと思われる。


ヌルハチは、長子を殺せば年少の弟たちによくない先例を残すことになると思い、
殺さずに高壁の中に幽閉した。

ところが二年経ってもまったく反省の色が見えない。

このことからもチュインの意固地な性格というのは、他人に誹謗されたのではなく、本人に問題があったと思われる。
ヌルハチは、やむなくチュインを殺した。


前述のとおり、原始的な遊牧社会でのリーダーは長子相続ができない。
能力がなければ、たとえ跡継ぎでも周りが殺してしまうからである。

チュインは勃興期にある満洲を引っ張っていけるだけの器がないと見なされ、むなしく歴史の舞台から消えた。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城



前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語49、チュイン密告される

2019年02月25日 18時49分31秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
この一部始終をヌルハチに告げ口することによりチュインと一線を画した側近がいた。

恐らく側近らはチュインの元でその様子を伺っていたのだろうが、
この留守中のあまりに軽率かつ愚かな言動を観察し、こりゃだめだと見限ったものだろう。

こんな主人と運命を共にしては、ろくなことにならない、と。
それまでは堂々たる跡継ぎ太子だったからこそ、懸命に奉公したのだろうが。

人間、落ちぶれても泰然としているなら周りも不安にならない。
いずれヌルハチも彼のすばらしさに気づいてやがて名誉も回復するだろう、と思わせるのだが、
一旦、強烈な「くすぶり」臭気を放てば、
その悪い運気に周囲も中毒にかかり、何とかそこから逃れようとするものである。


ヌルハチはチュインのあまりの薄情な言葉に全身の血が引くかのごとき失望を感じたことだろう。
密告が脚色されている可能性があるとは頭の隅でわかりつつも。

しかしこれまでの言動を見ると、
チュインという人は都合の悪いことを問い詰められた場合、
必死になってうそをついたり、取り繕ったりするのではなく、轟然と開き直るタイプらしい。

今回もまた問い詰められて、釈明をしなかったようである。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城



前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語48、チュイン冷遇される

2019年02月21日 18時49分31秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
弁解はしない、というチュインにヌルハチは言う。

私は年老いて国事を采配できないからおまえに執政させたのではない、委ねただけだ。
私のそばで育った子供に執政させ、衆が従えば、皆が認めるだろうと思ったからだ。
それなのに父から生まれた四人の弟と父の信頼する五大臣をあのように追い詰めるとは、執政させている意味があろうか、と。


それ以後、(チュインの財産の中から)次男のタイシャンに部衆五千戸、牧群八百頭、銀一万両、
勅書(明との貿易割り当て書)八十本を与え、
それ以外のベイレにもそれぞれそれより少なく分け与えた。

外征に行く際もチュインを信用しなくなり、連れて行かずに留守をさせた。


すると、留守の城中でふて腐れたチュインは、四人の側近を集めては愚痴を言った。

自分の部衆を弟たちと均等に分けるなんて耐えられない、死んだほうがましだ、
生きている価値もない、おまえたち一緒に死んでくれるか。

―――と言ってみたかと思えば、
今回の汗父のウラ征伐は無謀もいいところだ、
あんな強大な相手に挑んで勝てるはずがない、死んでしまえばいいのだ、
と呪いの書を書き、側近らと呪いをかけて燃やす、という悪ふざけまでする始末である。

ウラに負ければいいのだ、もし負けて帰ってきたら、
汗父と弟たちを城に入れてやらないぞ、とまで暴言を吐いた。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城




前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語47、チュイン弾劾される

2019年02月17日 18時49分31秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ところが摂政してしばらく経つと、四人の弟と五大臣が揃ってヌルハチに
アルガ・トゥメンの迫害に耐えられないと訴えてきた。

曰く、
「汗父(ヌルハチ)がおまえたちに賜った錦、駿馬は、汗父の亡き後、没収する、
 吾(われ)が汗になりし暁には吾と仲悪い諸弟・大臣を殺す」
と脅されたという。

四弟(=ヌルハチの次男タイシャン(代善)、シュルハチの次男アミン(阿敏)、
ヌルハチの五男マンゲルタイ(莽古爾泰)、同八男ホンタイジ(皇太極))と五大臣は、
吾らがかかる迫害を受けているのを汗父はご存じない、もし訴えればアルガ・トゥメンが怖い、
がもし言わねば吾らの生きる意味がどこにあろうぞ、と思って訴えたという。


ヌルハチは聞くだけではすぐに忘れるから、各々が紙に書いて提出せよ、と命じた。
九人から提出されたものをチュインに見せ、皆のいうことに間違いがあるか見よ、と渡した。

チュインは目を通すと、弁解はしないと言った。


新たに皇帝についた者が兄弟の財産を没収したり、仲の悪い兄弟を殺すことはよくある。
それは諸弟らも大臣らもどんな政権でも想像できるから
現統治者の存命中から次期統治者と良好な関係を築こうと努力するものである。

彼らもチュインに気に入られようと、それなりに努力したはずだ。
それでも自分が即位する前から財産没収だの殺すだの相手に言い放ったということは、
気に入られていないからそういうのではないか、と相手を不安にさせる。

九人ともが不安に思ったなら、
全員がチュインとの関係を良好だとは思っていなかったということであり、
これははっきりいって「人望がない」というしかない。

単なる権力闘争のために中傷されたと片付けることはできない。
何しろヌルハチの側近が全員一致で弾劾したのである。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城




前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語46、長子チュインの活躍

2019年02月14日 18時49分31秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
ヌルハチのリーダーとしての素質を見込んだからこそ彼らは集まったのだが、
すべての戦いが彼らのつれてきた兵によって戦われ、軍功を挙げている状態は、極めて危ういと言わざるを得ない。

当時の関係は、対等な同盟関係に近いものであったのではないか。

その状態が次第に変わってきたのが、
チュインを始めとする息子ら、甥らである諸ベイレらの成長であった。

他人から提供された兵力からスタートしたが、
ベイレらが戦いを覚え、指揮官、統率者として成長することにより、
軍の統率権を完全にヌルハチ一家で固めることができるようになる。

チュインはその筆頭であり、極めて重要な存在であった。


ヌルハチはチュインの軍人としての才能を評価し、
「アルガ・トゥメン(阿爾哈図図門=arga tumen攻略優れたる人、史書には広略ベイレと訳す)」の称号を贈った。

さらに大福金(フジン)から生まれた長男という身分から見て、
跡継ぎの遜色ないと判断し、摂政として統治に当たらせたのである。


**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城



前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語45、国初四大事件とは

2019年02月11日 15時13分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
後金の勢力が大きくなっていく中、次第に権力争いも生まれる。

戦いはヌルハチ一人で戦うわけではなく、さまざまな構成員が参加し、それぞれに軍功を立てる。
時にはヌルハチ本人は出かけず、部下や息子・甥らを派遣する場合もある。

そうなると、軍功が積み重なるほどに「今の発展は俺がいて初めてできたものだ」と、
ヌルハチと自分の違いに納得できぬ輩が出てくる。

その代表的な例がシュルハチであり、「国初四大事件」の一つとされる。


残りの三事件も見ていこう。

シュルハチは、共に創業した兄と弟の争いだったが、次は父親と二人の太子の争いである。

チュイン(褚英)は、ヌルハチの一人目の大福金(フジン=夫人)佟佳氏の生まれ、
ヌルハチの長男、跡継ぎとして太子に立てられた。

多くの軍功を立て、勢力の発展に大きく貢献している。

ヌルハチの勢力は起兵当初、自分の兵隊が圧倒的に少数という致命的な問題を抱えていた。
何しろわずか十三人の仲間との起兵から始めたのである。

ごく初期の段階でヌルハチの勢力に参加し、その後国の重鎮になる「五大臣」のうち、
フェイントン(費英東)は、スワン(蘇完)部の酋長である父とともに五百戸の衆を率いてきた。

棟鄂部の酋長フフリ(何和礼)も相当の衆を率いてヌルハチの元にやってきている。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城


   
前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。


ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語44、アミンとサイサング

2019年02月07日 15時13分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
話をシュルハチの家族に戻す。

前述のとおり、シュルハチは長男・三男とともに最終的には殺されるが、
次男のアミンは父や兄らと一線を画していたために許され、
後には本人の努力により、八旗を率いる旗主ベイレの一人に列せられる。

アミンには、もう一人の弟サイサング(斎桑古)がいる。
サイサングもおそらくシュルハチ事件の当時は小さすぎたからか、殺害されずに生き残ったのである。

しかしアミンとサイサングの兄弟間は、どうもぎくしゃくした。
二人の境遇の違いを見ると、旗主ベイレが他のベイレとは、格が違うことがよくわかる。

旗主ベイレは六人しかおらず(残りの二旗はヌルハチが旗主を兼任しているため)、
それ以外のベイレはすべてその傘下に入らねばならない。

サイサングは同じシュルハチの息子、ヌルハチの甥でありながら、
旗主である兄アミンの下に隷属する身分にあった。


アミンは弟に二心があるのではないか、と常に猜疑心を取り払うことができず、
サイサングが自由に行動できないように経済的に締め付けて、縛った。

サイサングの生計は、すべて旗主に握られており、その額を旗主は自由に采配することができたのである。


サイサングはあまりの締め付けに悲鳴を上げ、大ベイレ(タイシャン)、四ベイレ(ホンタイジ)に助けを求める。
ヌルハチの次男と八男である。

タイシャンはヌルハチの執政を助ける右腕の如き立場にあり、ホンタイジは最も寵愛を受けている息子である。
二人ともサイサングにはいとこに当たる。

しかしタイシャンもホンタイジも、このサイサングの求めに応じていない。

サイサングは兄アミンの統率する[金+譲の右]藍旗の所属にあり、
他の旗主はよその旗の内部事情への干渉は控えたということである。

最終的には、ヌルハチの采配(後述)により、
「兄とともに過ごすのがいやなら、自分の好きなベイレの旗に変われ」
といわれ、サイサングが他の旗に移ることで兄弟の揉め事は解決したのである。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城

   

前述のとおり、ホトアラ城は、ヌルハチが先祖代々暮らしてきた土地に建てられた。
ここでは、その跡地にタクシの家を再現している。

つまりはヌルハチの生家である。



ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語43、旗主ベイレの続き

2019年02月03日 15時13分10秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
「旗主」ベイレとなった「四大ベイレ」の三人目は、
マンゲルタイ(奔古爾泰)、ヌルハチの第五子である。

四人目がホンタイジ(皇太極)、ヌルハチの第八子である。

最後に「旗主」ベイレになるのは、トゥド(杜度)、
チュインの息子である。

これも父親は誅されたが、息子は活躍した例だ。


満洲人の中には、こういう例をよく見ることができる。
兄弟、親子同士で対立し、死にまで追い込むが、その子供は手元においておくという例が。

例えば、康熙帝は太子の允礽を廃したり、再び太子に戻したりしてさんざんもめた後、
最終的には太子を幽閉してしまう。

しかし康熙帝が最もかわいがった孫は、この廃された太子の息子・弘晰なのである。

乾隆帝は後に自分と父・雍正帝の皇位継承の正統性を主張するため、
自分がどれだけ祖父の康熙帝にかわいがられたか、
あまたいる皇子の中でも父・雍正帝が後継者に選ばれたのは、孫の自分に皇位を継がせたかったからだ、
といわんばかりの言論操作を行う。

しかし実際に最も寵されていたのは、実質的な嫡孫にあたる弘晰である。

康熙帝は遺書にも弘晰を優遇するように、と特別に書き残しているくらいなのだ。

**************************************************************
遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ホトアラ城




ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ