明の朝廷は女真族の朝貢団を迎えると、まずは勅諭で叱責した。
これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は容赦しない、と。
幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。
入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、
少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。
六部の行政衙門(がもん)は、ほとんどが皇城に集中しているからである。
そこから出るには、もちろん東西南北に設けられた限られた城門から出るしかなく、錦衣衛などの精鋭で固めた皇帝の近衛兵が守っている。
たとえそこを突破できたとしても、外はまだ堅牢なる北京城の中。
モンゴルの大軍との戦いを想定して建てられた難攻不落の城だ。
如何に憤懣やる方なくとも、従わぬわけにはいかない。
しかし内心は自尊心を大いに傷つけられ、怒りが納まらない。
その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。
女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出して振り回し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。
近衛兵の見張りが睨みを利かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。
それだけではない。
ドンシャンらが服従の意を表して入朝している最中も、その部下らは遼陽から東の地域で大々的に略奪を繰り広げていたのである。
つまり、女真族らはこれまでのやり方を変える気は毛頭なく、
一応形だけ恭順の意を示せば何とかなるだろう、とたかをくくっていたらしい。
--まるでどこかで聞いたような話・・・・。
オバマ大統領が甘やかしているうちに、アメリカなんか目じゃないと勘違いし、
南シナ海で好き勝手やらかしているどこかの国と同じような。。。
閑話休題笑。
ここまでの狼藉を働かれては、
明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。
逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。
前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった「土木の変」である。
その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北京が落ちることはなく、モンゴル軍はむなしく引き揚げてゆく。
これが正統十四年(一四四九)のことだが、ドンシャン(董山)らに勧告の勅令が出たのは成化三年(一四六七)、その二十年後だ。
確かにそれまで朝廷は土木の変ショックから立ち直ることに必死だったため、
政権に危機を及ぼすような大事でない限り、放置していた嫌いがある。
まだ討伐の余裕がなかったのである。
女真族がいくら辺境で国民を誘拐しようとも、明の屋台骨が揺らぐほどの打撃となるわけではない。
もちろんそれを永遠に放っておけば、影響が次第に侵食し、ついには王朝滅亡にもつながりかねないだろうから、
体制を整えた暁には、遅かれ早かれ解決せねばならぬ問題ではあった。
その体制がやっと整ったと判断したからこそ、明は女真に対して行動を起こしたのである。
叱責が功を奏せず女真側の略奪が続いた場合、討伐軍を派遣し、充分に勝てるだけの勝算があると確信してから。
女真側には、そこまで読み取るほどの高度な政治的展望はなかった。
女真側は明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、
その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていた。
今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、
それは後世の人間だから見えることである。
もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系であり、その五代後には「巨大な明帝国」を倒したのは、事実である。
しかしその頃には、女真族は漠南モンゴルを傘下に入れてチンギス・ハーンの正式な後継者となり、膨大な漢人部隊も駆使していた。
相当に戦力規模が大きくなり、全東北、漠南モンゴルを背景にかまえ、山海関を越えてきたのである。
ドンシャン(董山)の時代とは、規模がちがう。
**************************************************************
清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は容赦しない、と。
幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。
入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、
少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。
六部の行政衙門(がもん)は、ほとんどが皇城に集中しているからである。
そこから出るには、もちろん東西南北に設けられた限られた城門から出るしかなく、錦衣衛などの精鋭で固めた皇帝の近衛兵が守っている。
たとえそこを突破できたとしても、外はまだ堅牢なる北京城の中。
モンゴルの大軍との戦いを想定して建てられた難攻不落の城だ。
如何に憤懣やる方なくとも、従わぬわけにはいかない。
しかし内心は自尊心を大いに傷つけられ、怒りが納まらない。
その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。
女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出して振り回し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。
近衛兵の見張りが睨みを利かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。
それだけではない。
ドンシャンらが服従の意を表して入朝している最中も、その部下らは遼陽から東の地域で大々的に略奪を繰り広げていたのである。
つまり、女真族らはこれまでのやり方を変える気は毛頭なく、
一応形だけ恭順の意を示せば何とかなるだろう、とたかをくくっていたらしい。
--まるでどこかで聞いたような話・・・・。
オバマ大統領が甘やかしているうちに、アメリカなんか目じゃないと勘違いし、
南シナ海で好き勝手やらかしているどこかの国と同じような。。。
閑話休題笑。
ここまでの狼藉を働かれては、
明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。
逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。
前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった「土木の変」である。
その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北京が落ちることはなく、モンゴル軍はむなしく引き揚げてゆく。
これが正統十四年(一四四九)のことだが、ドンシャン(董山)らに勧告の勅令が出たのは成化三年(一四六七)、その二十年後だ。
確かにそれまで朝廷は土木の変ショックから立ち直ることに必死だったため、
政権に危機を及ぼすような大事でない限り、放置していた嫌いがある。
まだ討伐の余裕がなかったのである。
女真族がいくら辺境で国民を誘拐しようとも、明の屋台骨が揺らぐほどの打撃となるわけではない。
もちろんそれを永遠に放っておけば、影響が次第に侵食し、ついには王朝滅亡にもつながりかねないだろうから、
体制を整えた暁には、遅かれ早かれ解決せねばならぬ問題ではあった。
その体制がやっと整ったと判断したからこそ、明は女真に対して行動を起こしたのである。
叱責が功を奏せず女真側の略奪が続いた場合、討伐軍を派遣し、充分に勝てるだけの勝算があると確信してから。
女真側には、そこまで読み取るほどの高度な政治的展望はなかった。
女真側は明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、
その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていた。
今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、
それは後世の人間だから見えることである。
もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系であり、その五代後には「巨大な明帝国」を倒したのは、事実である。
しかしその頃には、女真族は漠南モンゴルを傘下に入れてチンギス・ハーンの正式な後継者となり、膨大な漢人部隊も駆使していた。
相当に戦力規模が大きくなり、全東北、漠南モンゴルを背景にかまえ、山海関を越えてきたのである。
ドンシャン(董山)の時代とは、規模がちがう。
**************************************************************
清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮
ヌルハチの先祖が葬られている
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!