いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、女真族使節、紫禁城で大暴れ

2018年03月30日 16時13分50秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
明の朝廷は女真族の朝貢団を迎えると、まずは勅諭で叱責した。
これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は容赦しない、と。

幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。
入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、
少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。

六部の行政衙門(がもん)は、ほとんどが皇城に集中しているからである。
そこから出るには、もちろん東西南北に設けられた限られた城門から出るしかなく、錦衣衛などの精鋭で固めた皇帝の近衛兵が守っている。

たとえそこを突破できたとしても、外はまだ堅牢なる北京城の中。
モンゴルの大軍との戦いを想定して建てられた難攻不落の城だ。
如何に憤懣やる方なくとも、従わぬわけにはいかない。


しかし内心は自尊心を大いに傷つけられ、怒りが納まらない。
その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。
女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出して振り回し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。
近衛兵の見張りが睨みを利かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。
 
それだけではない。
ドンシャンらが服従の意を表して入朝している最中も、その部下らは遼陽から東の地域で大々的に略奪を繰り広げていたのである。
 
つまり、女真族らはこれまでのやり方を変える気は毛頭なく、
一応形だけ恭順の意を示せば何とかなるだろう、とたかをくくっていたらしい。
 

--まるでどこかで聞いたような話・・・・。
オバマ大統領が甘やかしているうちに、アメリカなんか目じゃないと勘違いし、
南シナ海で好き勝手やらかしているどこかの国と同じような。。。

閑話休題笑。

ここまでの狼藉を働かれては、
明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。
逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。

前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった「土木の変」である。
その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北京が落ちることはなく、モンゴル軍はむなしく引き揚げてゆく。

これが正統十四年(一四四九)のことだが、ドンシャン(董山)らに勧告の勅令が出たのは成化三年(一四六七)、その二十年後だ。

確かにそれまで朝廷は土木の変ショックから立ち直ることに必死だったため、
政権に危機を及ぼすような大事でない限り、放置していた嫌いがある。
まだ討伐の余裕がなかったのである。

女真族がいくら辺境で国民を誘拐しようとも、明の屋台骨が揺らぐほどの打撃となるわけではない。

もちろんそれを永遠に放っておけば、影響が次第に侵食し、ついには王朝滅亡にもつながりかねないだろうから、
体制を整えた暁には、遅かれ早かれ解決せねばならぬ問題ではあった。
その体制がやっと整ったと判断したからこそ、明は女真に対して行動を起こしたのである。

叱責が功を奏せず女真側の略奪が続いた場合、討伐軍を派遣し、充分に勝てるだけの勝算があると確信してから。

女真側には、そこまで読み取るほどの高度な政治的展望はなかった。
女真側は明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、
その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていた。


今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、
それは後世の人間だから見えることである。

もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系であり、その五代後には「巨大な明帝国」を倒したのは、事実である。
しかしその頃には、女真族は漠南モンゴルを傘下に入れてチンギス・ハーンの正式な後継者となり、膨大な漢人部隊も駆使していた。
相当に戦力規模が大きくなり、全東北、漠南モンゴルを背景にかまえ、山海関を越えてきたのである。

ドンシャン(董山)の時代とは、規模がちがう。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている




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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち

2018年03月17日 15時13分59秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
女真族による人間の拉致例をいくつか挙げてみよう。
朝鮮の「李氏実録」には、次のとおり記録する。

「建州衛の李満住の子リジナハ(李吉納哈)の奴僕・朴右は、建州地区から逃げ出し、朝鮮に逃げてきた。

 曰く、自分は遼寧(つまり明の領土の漢人)の人間だが、
 李満住の部下の李雄に捕虜にされた後、リジナハに転売され、奴隷として使役されていた、
 少しでも失敗するとひどい折檻を受けたので、耐えられず、逃げたという」


また別の例として、同じく「李氏実録」にこうある。

「朝鮮王から都万戸を授けられた李満住の子リトウリ(李豆里)は、その漢人の奴僕・汪仲武に襲われて殺され、
 汪と妻の三姐(同じく奴隷の漢人)は朝鮮に逃げ込んだ」

こうして朝鮮は、女真から逃亡してきた漢人を大量に受け容れることとなり、彼らを明の領域である遼寧までたびたび護送した。
その数は、明初の洪武二十五年から景泰三年(一三九二から一四五二)までの六十年で八百三十人にものぼる。

もちろん朝鮮領地まで逃げおおせた人たちは、たまたま幸運だっただけであり、
その背後には、逃げられずにそのまま使役されていた人たちの方が、膨大な数にのぼったことだろう。

女真人が朝鮮から一度に千人の奴隷を捕まえて帰っていったという記録もある。


一方、明側の侵略被害は、さらに大規模である。
明国の方が人口が多く、国境線を接する距離も長いことを考えれば、当然である。

明の記録によると、

「一年の侵略回数九十七回、死者・捕虜の数、十数万人」、
「開原から遼陽までの六百万里、数万人が襲われる」

という激しさだ。


明の朝廷が、いつまでもこの状態を座視しているわけはない。

土木の変に伴う一連の混乱が落ち着いた成化三年(一六四七)正月、明は、錦衣衛帯俸署の都指揮使・武宗賢を通して、
ドンシャン(董山)らに警告を出す。

これまでの不法行為は、今後改めるなら許す、と。
明の朝廷が、ようやく動いたのである。

明の朝廷は土木の変後、しばらくは大混乱に陥っており、
辺境の少数民族が少々悪さをしようが、とてもそれにかまっている余裕はなかった時期が長く続いた。

なにしろ皇帝がモンゴルに拉致されるわ、
その後は息つく暇もなく、モンゴルのエセンハーンが首都の北京を攻めてくるわ、で
明の朝廷は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

やっとの思いで首都防衛戦を戦い抜き、エセンハーンを遠く草原に追い返すと、
今度はエセンハーンが、頼みもしないのに、拉致した皇帝を送り返してきた。

明側では、すでにその弟を景泰帝として即位させており、今さら前の皇帝を送り返されてもその処置に困った。
最終的には、弟が廃位させられて兄が復活するが、
その間、政情の混乱がおさまることはなく、北辺で暴れまわる女真族も放置されていた、というのが実情である。

ドンシャンらは、その隙に乗じて、好き放題しでかしていたというわけである。

明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、
対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。

明から使者が来て意見をされたことで、さすがにまずいとドンシャン(董山)も思ったらしい。
明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。

明の軍隊は、兵数の桁が違う。
土木の変で動員した兵力数は、五十万人。
世界的に見ても他の地域と比べたら、確実にゼロ一つは違うような、すさまじい人口規模の中原世界である。

かたや女真族は、漢族や朝鮮族を千人拉致して来るにもひいひい言っている次元なのだ。
明を本気で怒らせることだけはまずいことは、ドンシャンにもわかったことだろう。

ドンシャンは、恭順を示すために北京に入朝することとなった。
自身の一族から十数人、建州右衛都督同知のナランハ(納朗哈)らを筆頭とする三衛の頭目ら百人とともに入朝し、馬、豹の毛皮などを献上した。


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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語4、モンケテムールの死と次男ドンシャン

2018年03月05日 13時23分20秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
モンケ・テムールの死は、明の宣徳八年(一四三三)であった。
日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。

女真の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、その復讐で殺された。
この時にモンケ・テムール、その長男のアグ(阿谷)が戦死し、次男のドンシャン(董山)とアグの妻は、敵側の捕虜となった。
 
戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。


まもなくモンケ・テムールの次男ドンシャンと長男アグの妻は、捕虜の身から指揮のハルテゥに買い戻してもらう。
--こういうことは、遊牧世界では普通にあったらしい。

モンゴルのチンギスハーンの伝記を読んでいても、妻のボルテが敵対勢力にさらわれて敵対側男性の妻にされており、
しばらくしてようやく取り戻すことができた、というくだりがある。
その前後で生まれた長男のジョチは、父親がチンギスハーンかどうか、甚だ怪しいらしい。

中国の儒教的な考えでは、貞操を犯されたら女性はさっさと自殺せんかい、ということになるのだろうが、
人口のまばらな地帯であり、かつこういうめちゃくちゃなことがしょっちゅう起こっていた社会では、
いちいち自殺させたり、女性を殺していたのでは、生産性が悪すぎて共同体が立ち行かなくなるのか、そういうことはしない。
きわめて合理的である。

 
閑話休題。

その後、ドンシャンが叔父ファンチャ(モンケ・テムールの弟)と最初は協力し、
後にライバル関係になり、ついには対等な立場となった経緯については、省略する。


明の正統六年(一四四一)の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。

最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。
アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。

そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、「李思誠」の漢人名を賜う。
これ以後、この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、「建州衛李姓」として、存続し続ける。
したがってその息子も女真族でありながら、一人だけ名前は漢人風の「李満住」である。

モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰属する際、永楽帝が彼を「皇后の親戚」と称したのも、
直接の血縁関係はないとはいえ、自分に女真族の妃がいたからなのである。

明皇帝の親戚が末裔の管理する衛となれば、最も実力あったことも当然の道理といえる。
 

さらに右衛をモンケ・テムールの弟ファンチャ(凡察)が支配し、左衛を次男のドンシャン(董山)が支配した。
しかし女真族のことを明の史書より詳しく記録している朝鮮の「李氏実録」にも、
明の景泰年間以前の記録には、ドンシャンの支配する左衛のことはほとんど登場しない。

ほかの二衛はたびたび登場するのに、である。
つまりは記録するにも値しない弱小勢力でしかなかったということである。

ヌルハチの家系は、このドンシャンから出ているので、引き続き追っていくことにする。


ドンシャン(董山)は明朝に何度も入朝し、朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。

ドンシャンは李満住、ファンチャ(凡察)と比べ、一世代若い。
そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。

社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。


これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、
皇帝が老いていようが、政治を顧みないあほたれえな皇帝が即位しようが、
基本的には筆頭大臣を先頭とする、科挙により選ばれ経験を積んできた官僚群が、しっかりと政治を運用するのでびくともしない。

動脈硬化現象はもちろんあるが、サイクルの長さが違うのである。

 
こうして明の景泰年間前後、老いた李満住、ファンチャを抑え、
ドンシャンは建州女真の中心的人物として、内外ともに認識される存在となっていく。
そしてこれまでにも増して激しく、外部への略奪を行うようになる。
李満住、ファンチャ(凡察)らとともに、朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。

壮丁(成人男子)が多く、武力の強い酋長は他部族を略奪するようになるのが、女真人の社会の普遍的概念であった。
明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、明の正統年間の「土木の変」以後だった。
 
「土木の変」は、女真族が圧倒的な存在としてあがめていた明の皇帝が、
あろうことかモンゴルの一派オイラトのエセン・ハーンの捕虜になるという事件である。

目に見えやすいパワーがすべての判断基準である原始的段階にある彼らにとって、
これほどわかりやすい権威の失墜もなかった。

「明、恐るるに足らず」と、すっかりこれまでの価値観を改めたドンシャンらは、日増しに大胆になっていったのである。

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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

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