いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

雲南・麗江の旅 記事の一覧表

2013年08月19日 15時10分55秒 | 雲南・麗江の旅

雲南・麗江の旅

記事の一覧表:

 お気楽な旅日記の部分:

    麗江・大研城1、なぜ突然雲南か
    麗江・大研城2、バー天国じゃ
    麗江・束河1、ユースホステルに移動
    麗江・束河2、麗江は今や「艶遭之都」
    麗江・白沙1、あらたなフロンティア
    麗江・ログ湖1、モソ族の村へ
    麗江・ログ湖2、リゴに到着
    麗江・ログ湖3、ログ湖の有名人・ジャシについて
    


 歴史的背景、ナシ族のこと、チベットとの関わりなどを考察した部分:

    麗江・歴史1、ナシ族は羌より出づる、タングート族の西夏も羌
    麗江・歴史2、ナシ族、南遷の始まり
    麗江・歴史3、ナシ族、民族絶滅を逃れた日
    麗江・歴史4、憎しみを数千年持ち続けるということ
    麗江・歴史5、西に独立王国が存在した理由
    麗江・歴史6、熱帯の風土病怖さに
    麗江・歴史7、南詔王のナシ妃を唐の太守が凌辱
    麗江・歴史8、尤酋長、Tuotuo肉でもてなす
    麗江・歴史9、禾氏、故地を懐かしんで昆明と名付ける


麗江・歴史9、禾氏、故地を懐かしんで昆明と名付ける

2013年08月18日 17時49分11秒 | 雲南・麗江の旅
南詔軍は、さらに北上し、金沙江の東側にある吐蕃の拠点5城を攻め落とし、
勝利をゆるぎないものとした。

そこまで先制してようやく安心した帰り、鉄橋城まで戻り、
さらに元来た道を戻って、金沙江にかかった鉄橋を渡り終えると、吐蕃兵が長しえに渡ってこれないよう、橋を切り落とした。
こうして南詔と吐蕃の同盟関係は、橋の下落とともに金沙江の流れの彼方に消えていったのである。


鉄橋城の近く、金沙江の畔には、周囲を断崖絶壁に守られ、難攻不落と謳われた梅氏ナシ族の城、梅醋斗半空和塞がある。
行きは、老君山の西側の道なき道を苦労して進んできたが、大勝利を収めて帰ってきた帰り道にもはや同じ道を行く必要はない。
堂々と金沙江沿いの正道を行きたい。
ところが、半空和塞はちょうどその道中をふさぐように建っており、梅氏酋長は部隊の通過を許さず、これを阻止した。

梅氏としては、関係が吐蕃に近かったこともあり、素直に南詔に汲みされることに抵抗があり、
しかも今、情勢がどういうことになっているのか、自分たちがどういう立ち位置にいるのか、よくわかっていなかった。

尤氏一行らは、再び部隊を老君山の裏側への抜け道を案内し、山の後ろから城を急襲、
数万のナシの人々を捕虜とし、梅醋斗半空和塞を陥落させた。


次に南詔は、かの禾氏ナシ族のことも気になった。

禾氏は半世紀ほど前、Er海の東側に入植、次第に強大になったため、危機感を感じた南詔が再び金沙江の北側の故地に追い返した。
禾氏が今、拠点とする昆明城(現在の塩源)一帯では、のちの名のとおり、塩がとれ、さらには鉄も産出し、
もはや牧畜だけに頼ることなく、二大産業で再び豊かになりつつあった。

その勢力を放置したままでは安心できぬ、と感じた南詔側は、
出兵ついでに今度は、Tuo良樹の渡り口から羊の皮の浮き袋に筏を渡して金沙江を渡り、一気に昆明城を攻め、
城内の官僚1000戸を捕虜にした。




麗江古城。とってもオサレな銀細工のお店。




こうして南詔は吐蕃を金沙江の向こう側に追い返し、
ナシ三大をそれぞれ手中に掌握した。

自ら懐に飛び込んできた尤氏を中心にナシの故地が運営されることになった。

これまで最も吐蕃に関係が近かった梅氏については、
いくら鉄橋を惜しげもなく切り落として、金沙江の藻屑と消したとはいえ、
いくら金沙江の流れが速く、波が荒く、危険だとはいえ、羊の皮の浮き袋で渡れないことはない。
梅氏をこのままかの地に住まわせておけば、いつ何時再び吐蕃側と内通するやもしれず、到底安心はできない。
そこで南詔は、梅氏6000戸をDian(さんずい+真)中地方、つまりは雲南の中央地区、つまりはEr海よりも南に強制移住させた。

次に禾氏らの経営していた昆明城(今の塩源)であるが、
戦略的産物である塩と鉄を握っているこの場所は、手に入れたからには、断固として南詔朝廷の直営にしたい。
禾氏ナシ族には、ここから出て行ってもらうよりほかはない。

ちょうど遥か東南の拓東城(まさにその名のとおり、東方の開拓)で二王子城の建設が始まっている。
禾氏の民には、その建設に加わってもらう、と決定した。
遥か遠くのフロンティア、当時の人々にとっては、地の果てとも思える地へ飛ばされたのである。
こうして禾氏5000戸は、拓東城に強制移住させられた。

禾氏の人々は、故郷を忘れることができず、自分たちの手で新たに建設した城も故郷と同じ「昆明城」という名で呼ぶようになった。
それが今日の雲南省の首都・昆明の由来だという。
昆明には、なんと遥か北から来たナシ族が深く関わっている。



ちなみに中国では、古来より強制移住が頻繁に行われたが、
強制移住させられた人たちが、故地と同じ名前を新地につけることも頻繁に行われ、歴史記載に大いなる混乱を来たしている。



このような下地作りを経てついに793年、南詔は唐に回帰する。
吐蕃もこの時期、ウィグルとの戦いに戦力を削がれ、南詔の離反懲罰に軍を派遣することができず、
南詔の唐回帰は、このまま定着した。

以後、南詔の貴族は、子弟らを成都に留学させることが、ステータス・シンボルとなったという。



・・・・・と、以上が西南交易ルートがきわめて高い価値を持っていた唐代までの攻防である。

この後、まもなく海運技術が向上し、交易の中心が海上に移ることにより、長距離の陸上交易の必要がなくなる。
西南ルートもただの地元や近距離を中心とした交易路となり、中央政権にとっては、それほど重要ではなくなってくる。



     

伝統的家屋の門構え。




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麗江・歴史8、尤酋長、Tuotuo肉でもてなす

2013年08月17日 00時10分47秒 | 雲南・麗江の旅
金沙江の上にかかる鉄橋を渡って南下すると、まもなくナシ族梅氏のがある。
梅氏は、吐蕃から金沙江を渡って最初のナシのであることもあり、古くから吐蕃と最も関係が深い。

吐蕃と南詔が対立していた時代には、梅氏が吐蕃の水先案内人を務め、南詔攻撃の先兵になったこともあれば、
吐蕃が、Er海エリア(南詔の本拠地)に軍隊を駐留させる際、その利益を山分けしたこともあった。

このように吐蕃から利益を得ることが多く、吐蕃との結束が固い梅氏は、
南詔の吐蕃離反に備えるように、という使者の命令に対し、力強い承諾を返したのであった。


次に吐蕃の使者は、さらに南下し、尤氏のも訪れた。
この時、尤氏の根拠地は、今の麗江・大研城ではなく、白沙---白沙岩脚院である。
麗江での在所の移り変わりは、また後述したい。



吐蕃の使者は、南詔の北上の備え、二千の兵を供出しろ、と命じた。
尤酋長は、吐蕃の使者を丁重にもてなし、母房の火のそばの最も尊貴なる位置に案内した。

大鍋一杯にTuotuo(陀の右が石x2)肉を煮る。
Tuotuo肉は、元々はイ族の料理というが、チベット族、ナシ族などの遊牧の習慣のある西の民族の間では、広く食べられているようだ。
最高級の肉は牛、その次に羊、ブタ、鶏、と客人のランクにより順番に下がる。

大鍋に水をたっぷりと張り、水から肉を煮ていく。
肉というのは、70度以上になると固くなり、その後、何時間も煮込むと再び柔らかくなる。
つまり火が通った瞬間か、何時間も煮込んだ後、のどちらか以外は、硬くなる。

そこでTuotuo肉は、火が通るか通らないか、のぎりぎりの瞬間を見極めて、肉を湯から引き揚げ、
手づかみでニンニクのみじん切りを溶かした水、塩、とうがらし粉などにつけて食べる、という素朴な料理だという。

火が通ったタイミングを見極めることが難しいため、Tuotuo肉は素人では作れないといわれる。



・・・・・こういった郷土料理を食べたよおお、と写真入りで紹介できればよいのですが、
何度もしつこく書いているように、財布事情が許さなくて、残念。
いずれ食べる機会があれば、ぜひリンクさせたいものでっす。





麗江古城。ワンころを激写するも、相手にしてもらえません。


吐蕃の使者を恭しく接待し、二千の兵の供出にも快く応じた尤酋長だが、
使者が帰ると、このことを南詔に知らせるべきか、考え始めた。


南詔が唐と袂を分かち、吐蕃に乗り換えたのは41年前。
元はといえば、尤氏から出した妃の仇を取るためである。
いわば、南詔は尤氏のために国の命運をかけて、仁義を切ってくれたともいえるわけで、
あれから半世紀近くたったとはいえ、尤氏一族が感情的に南詔に傾くのは自然の理である。

あれこれと考えた挙句、尤酋長はやはり南詔王・異牟尋に知らせることにした。
尤酋長は少数の伴の者とともに馬を三日三晩を駆け、Er海のほとりにやってきた。


南詔の宮廷に到着し、南詔王に吐蕃の使者に関する事実を話していると、
今度は吐蕃の使者が、南詔の宮廷に突然現れる。
王の異牟尋は、尤酋長が来ていることなどおくびにも出さず、吐蕃の使者を迎えた。

吐蕃側は南詔の離反の有無を探るため、その忠誠心を試しに来たのだ。
当時、吐蕃は北のウィグル(回糸乞)との戦いの最中であり、1万の兵を出せ、と使者は言った。

南詔王・異牟尋は、言葉の限りを尽くしてその無理を訴えた。
元から大して人口も壮丁もいない我が国に1万も兵を出せるわけがないことは、貴下もご存じのはず、
第一、唐が攻めてくるかもしれないのに、最前線にあるわが国の兵を空にするわけにはいかぬ、と。


右から左から、上から下から、とあらゆる角度から切々と理を説かれると、使者の方もそうかもしれないという気になってくる。
それでは、5000の兵で許そう、ということでようやく折り合いがつき、吐蕃の使者は帰って行った。
兵は、吐蕃の南に向けた最前線である鉄橋城に直ちに派遣することとなった。





どこをどう切り取っても絵になりますなああ。この町は。


吐蕃の使者が帰ると、異牟尋はすぐに命じた。
5000の兵を直ちに出発させると同時に、別部隊で3万の部隊を迂回させて鉄橋城を急襲する、と宣言した。
もうすでに吐蕃と袂を分かち、吐蕃勢力を金沙江の向こう側へ追い出す決心を固めたのである。

「尤酋長」
と、異牟尋は呼びかけた。
「鉄橋城まで、老君山の後ろから迂回する道を案内をしてくださらんか」


尤氏ナシ族はそのあたりの地理には詳しく、確かにうってつけの役であった。
こうして尤酋長の一行は、3万の部隊の進路を案内することになった。


老君山の山脈は、金沙江が鉤型に曲がったところから、少し北へ行った西側に、南北に向かって続く。
本来、道というのは川沿いに谷を行くのが最も歩きやすく、金沙江に沿って北上するのが、古来より綿々と人々に踏み固められてきた道だ。
南詔の3万部隊は、吐蕃や吐蕃の息のかかった梅氏ナシ族などに見つからないために、わざわざ山脈一つ西側に隔てたルートを行こうとしていた。
道中は険しい山道が続き、地理に詳しい者でなければ、自分がどこにいるのかもわからなくなる可能性がある。


その感覚は確かにこの旅でも実感できた。
麗江からログ湖へ行く道は、ひたすら山の中をぐるぐるとまわっていき、
どこで金沙江を超えたのだか、その必然性がどこにあるのか、どちらが東西南北なんだか、さっぱり見当もつかなくなる。
昔、馬や徒歩で旅した人々もさもありなん、である。


尤氏一行のおかげで、3万部隊は滞りなく、鉄橋から山を一つ隔てた密林の中までやってきた。
山の上から見ると、遥か下に金沙江の黄色く濁った荒波が流れ、その上に鉄橋がかかり、その向こうには鉄橋城が見えた。


「オフィシャル」に派遣された5000部隊の方は、すでに順調に行程を終え、
鉄橋城に到着、吐蕃側の駐屯部隊に迎え入れられ、鉄橋城内に宿泊していた。


3万部隊の一行は、老君山の西側の密林の中で夜になるのを待った。
草木も眠る丑三つ時、ようやく鉄橋城内の吐蕃兵が、死んだように眠りこけた頃を見計らい、
松明に火を煌煌と燃やし、鬨(とき)の声を挙げて、一気に鉄橋を渡り、鉄橋城に突撃していった。

城内で息を殺して、その瞬間を待っていた5000の南詔兵らは、その怒涛のような雄たけびを聞くと、
それ、とばかりに城門に殺到して、城門を開け、仲間らを招き入れてしまった。
あとはあっという間に吐蕃兵らを捕虜にし、鉄橋城の占領は完了した。






麗江古城。一見、ヨーロッパ中世の街並みのようにも見える。





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麗江・歴史7、南詔王のナシ妃を唐の太守が凌辱

2013年08月16日 13時15分23秒 | 雲南・麗江の旅
こうしてナシ族禾氏を再び雅Long(龍+石)江流域まで押し戻した南詔王の皮羅閣は、
その帰り、金沙江を渡り、尤氏のに立ち寄った。

弱小な小集団でしかない尤氏が、強大な武力をもつ南詔の大軍に恭順の意を示さないで済むわけはない。
尤氏は、を挙げて南詔軍を歓迎し、心尽くしの接待をした。
そこで南詔王である父の伴をして来ていた王子の閣羅鳳が、尤氏ナシ詔王の王女・蘭命と互いに一目惚れをする。

政治的にも隣接する二つの勢力が婚姻により友好関係を築くことはまったく悪い話ではなく、
王女・蘭命の南詔王家への輿入りが決まった。

蘭命はその後、南詔の王子・鳳伽異を生み、円満な家庭を育んだ。
ところが後にこのナシ族の王女・蘭命が、南詔国の運命の分岐点を決定する張本人となる。

その話をするために、まずは唐と南詔の関係について、おさらいしておこう。


唐が西南交易ルートを守るため、南詔を支援して周辺部族を統一させたことは前述のとおりである。
ところがまもなく、唐としては、思惑がはずれることになる。

南詔は唐の支援を受けておきながら、さらに現在の昆明地区など、雲南全域を征服すべく、軍事的に拡大していったのだ。
これにより唐が雲南で最も重視する西南交易ルートの細い回廊まで犯し始め、唐としては飼い犬に手をかまれたような形となった。


少し勢力が伸びたところで、南詔としては欲に目がくらみ、打ち出の小づちである西南ルートに手を出したくなるのは、人の情の常というものだろう。
こうして唐と南詔はしだいに対立するようになる。






このように唐と南詔の関係がただでさえ険悪となっていたところに、その事件は起きた。


当時すでに王となっていた南詔の閣羅鳳が、ナシ族から娶った妃の蘭命を伴い、成都に向かっていた。
唐との会盟に参加するためである。

その道中、四川(唐の領土)のよう(女兆)州都督に立ち寄ったのだが、
そこで一行を出迎えた太守の張虎陀は、妃・蘭命の美しさに目がくらんでしまった。

自分は一地方官でしかないながらも、相手は属国の王でしかない。
宗主国側の人間として、驕りが出たのだろう。

張は王夫妻の酒に睡眠薬を入れて昏睡させた後、妃を凌辱する。
意識を取り戻してからすべてを悟った妃は、屈辱のあまり、金沙江に身を投げて自殺した。


愛妃を失った怒りに気が動転した閣羅鳳は、もはや会盟どころではなく、そのまま成都には向かわないでまっすぐ来た道を帰り、国元に戻った。
まもなく10万の兵を揃えると、そのままよう州を襲撃、太守を血祭りに上げて、妃の死の仇を取ったのである。

そしてそれを知った唐の朝廷が、今度は20万人の軍隊を派遣して、南詔を討伐しに来ることとなった。


・・・・と、この事件だけを見れば、妃を寝取られても泣き寝入りしなければならない小国の哀しみよ、
ジャイアンのように横暴な大国が小国いじめをして、なんとも不条理、とも思えるのだが、実際の背景は、そんなに簡単ではない。
以前から唐側は、もうとっくに腹に据えかねており、喧嘩のきっかけを探していただけ、ということになる。


20万の大軍が攻めてくると聞いて、さすがに南詔王は慌てた。
いくら怒りのために頭に血が上っていたとはいえ、大国・唐が本気で攻めてくれば、小国の南詔がひとたまりもないことは、さすがにわかった。

南詔に残されている道は、もう一つしかなかった。
それは唐から寝返り、吐蕃と同盟を結ぶことである。


こうして752年、南詔王の閣羅鳳は、吐蕃から東帝の号を冊封され、吐蕃の同盟国となった。
南詔と吐蕃の連合軍は、唐の20万の大軍を迎え撃ち、これを撃退した。




南詔が唐から離反し、吐蕃と同盟を組んだのは752年、
その2年後にかの安史の乱が起きる。

自力で乱を収拾できなかった唐が吐蕃に援軍を求め、
その勢いで一時期、都・長安を占拠されてしまうのは有名な話だが、
この時の吐蕃軍には、実は南詔の部隊も参加しており、ともに長安占拠に加わっていたという。


しかし南詔の同盟を受け入れた吐蕃は、最初の頃こそ南詔を兄弟国として扱ったが、まもなく主従関係に落とされる。
最初からして対等な関係ではなかったのだから、当然である。

南詔は唐の20万の大軍派遣の知らせにびびりまくり、吐蕃に泣き付いてきて同盟したのである。
吐蕃としては、最初からまったく買う必要もない喧嘩をいっしょに戦ってやったのだから、対等であるはずもない。
また国力にも大きな差があったこともいうまでもない。


南詔にとって計算外だったのは、吐蕃の搾取が唐とは比べ物にならないくらい苛烈なものになったことだ。
元々、唐が南詔と同盟を組む理由は、吐蕃防衛の前線となってほしいということであり、
吐蕃に征服されず、独立状態を保ってもらう以外には、特に求めていなかった。

唐としては西南交易ルートの安全が維持できれば、それでよかったのである。


しかし吐蕃はちがう。

風土からして、南詔の地味は豊かであり、吐蕃の領土はほとんどが不毛の大地だ。
持たざる国が、持てる国を支配すれば、終わりのない搾取が待っているに決まっている。


吐蕃は、南詔国内の各関所に兵を派遣して駐屯させ、重い税金をかけ、人民を延々と徭役に駆り立て続けた。

この頃、南詔と吐蕃に挟まれたナシ族の各は、南詔さえ吐蕃の属国となったからにはもちろん吐蕃に隷属した。





一方、唐も南詔をもう一度、自分の側に取り込む道を模索していた。


前回はちょいと懲らしめるために、締め上げたら、あまりにびびらせすぎて、吐蕃側に奔らせてしまった。
気つけ薬程度のつもりだったのが、効きすぎたことは、失策だったとも考えていた。

西南交易ルートは取り戻したいし、南詔にも以前のように吐蕃の障壁になってほしい。


南詔側がどうやら吐蕃の搾取に苦しんで、吐蕃から離れたがっているという話が伝わるにつれ、
唐側も南詔と吐蕃を引き離す工作を進めた。


壁に耳あり、障子に目あり。
いくら秘密裏に進めているつもりでも、南詔のそわそわした気分は、吐蕃側にいつの間にか、伝わっていた。

吐蕃は使者を南下させ、まずは南詔と吐蕃の間に挟まれたナシ族のどもを回った。
現在は吐蕃に隷属してはいるものの、二つの大きな勢力の間に挟まれたナシ族は、これまで常に時には北に、時には南に味方をしてきた民族だ。
南詔の動きについて、まずは彼らから探るのがふさわしい。


金沙江の上に吐蕃がかけた「鉄橋」があり、そのふもとに鉄橋城がある。
(現在の麗江市塔城、麗江から金沙江を西北に少し行ったところ。『歴史23、ナシ族の三大部族』の地図を参考とされたし。)
吐蕃の防衛システムの最前線である。

金沙江の流れは速く、この上に橋をかけるというのは、大変なことである。
馬幇(馬キャラバン)のところでも(後述)触れたいが、未だに河にかかっている橋は少なく、人や物資だけでなく、家畜までロープでスライドさせて渡らねばならないのだ。


それを唐代にすでに金沙江の上に鉄の橋をかけていたということが、どれだけ大変なことだったか、想像がつくというものである。
鉄橋は、吐蕃が金沙江以南、以西を支配するため、迅速に軍隊、物資を移動させるためにかけた、吐蕃の南方経営の生命線である。




麗江の古城。横丁に入ったところにあるかわいいお粥屋さん。








お粥屋さんの前には、なぜかワンころ。かわいい。

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麗江・歴史6、熱帯の風土病怖さに

2013年08月15日 21時48分31秒 | 雲南・麗江の旅
このルートは、四川からインドに通じる道、という意味で「蜀毒(インド)道」、または「蜀身毒(インド。この場合、Yan1du2と発音する)道」と呼ばれた。

漢代、ローマ帝国の使者が幾度か漢の都・長安を訪れているが、
その際、ローマの使者が通った道は、西域ルートではなく、この蜀毒道だったといわれている。


ところでこのルートが西域ルートと比べ、広く世間に知られずに漢代にまで至ったのは、なぜだろうか。
民間ルートの開通がいつだったか、はっきりした年代はわからないが、研究では少なくとも西域ルートより200年ほど早いのではないか、といわれているという。


それなのに、中原ではまったくその情報が入ってこなかった・・・・・。


理由はおそらく、当時の熱帯地方の疫病の恐ろしさではないだろうか。
マラリヤを筆頭としたあらゆる風土病が猛威を振るう熱帯地方では、よそ者がやってくれば、たちまち命を奪われる。
「煙Zhang(火章)之地」と言われ、恐れられた。

つまり西域ルートのように、一つの隊商が長い距離を移動してずっと運んでくるというパターンが少ない。
熱帯のジャングル怖さにその手前の町で商品を売りさばき、自分たちはそこから引き返してしまう。
熱帯エリアの運搬は、比較的免疫のある現地の人間が請け負うしかない。

最初から一つの隊商が運んだ方が利鞘は大きいに決まっているが、命には替えられない。

商品だけが渡ってきて、人が渡ってこないがために情報が伝わらなかったのではなかろうか。


しかし輸送コストという面では、西域より安上がりだったかもしれない。
というのは、道中ほとんど無人地帯を通ってくる西域ルートは、大規模消費に乗っかるということができず、どうしても融通が利かないが、
西南ルートでは、一部のジャングルや山脈のほかは、人間がうじゃうじゃ暮らす地域をずっと抜けてくる。
ほかの日常品とともに運ばれていけば、その流通規模の大きさからコストが自然と下がるのもうなずけるだろう。


   

揺れるしだれ柳が風情あるわー。


熱帯の風土病の代表といえばマラリヤだが、西南ルートでは最近まで次のような風習があったという。
「馬幇(キャラバン隊)」の馬追い人がジャングルの中で疫病にかかり、動けなくなってしまうと、仲間としてはもはや連れていく方法はない。
馬の背中には、馬が一日歩くにぎりぎりの重い荷物が乗っかっており、人間を乗せる余裕などとてもない。

その場合、病人を籠に入れて木の上につり下げ、干し食糧とともにおいていくのだという。
木に吊るされることで獣や蛇に襲われることはない。
キャラバン隊が荷物を送り終え、戻ってきた時にまだ生きていれば、そのまま連れて帰り、治療するのだという。


マラリアといえば清代、乾隆帝の元で栄華を恣(ほしいまま)に極めた和しん(王申)の弟・和琳(ヘリエン)が、熱帯でそのために命を落としている。
苗族の反乱の平定に向かった貴州で、自分を可愛がってくれた上司・福康安(フカンガー)とともに、現地で没した。

福康安は、乾隆帝が最も愛したといわれる孝賢皇后の末弟・傅恒の息子である。
若くして死んだ父の傅恒とともに、乾隆帝にれろれろに寵愛され、愛された、覚えめでたく、世の栄華を極めた人物だ。

その福康安がまず現地の灼熱と多湿な気候、過労のためにマラリヤにかかって死去、
その後を継いで軍の総指揮を執った和琳もほぼ同じ死に方をした。
こちらも乾隆帝が最も専横を許したといわれる権勢家・和しんの実弟である。

そのような富貴な二人でさえ、命を落としたのだ。
彼らの陣中での生活条件は、普通の兵士よりも格段に優遇されていただろうことは、想像に難くない。
その彼らでさえ病死してしまったということは、一般の兵士への脅威や如何に、ということである。



そんな300年前の例を挙げるまでもなく、第二次大戦中、日本軍の泰緬鉄道建設の際、連合軍捕虜を大量死亡させた悪名高き事件も連想できるだろう。
タイとミャンマーの北部、まさに「煙Zhang之地」で行われた過酷な労働のために、作業員が次々にコレラ、マラリヤにかかり、多くの犠牲者を出した。


ウィキペディア『泰緬鉄道』の一部を引用すると、


「建設の作業員には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うち1万2619人が死亡)、募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、
 ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、
 インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。

 建設現場の環境は劣悪で、特に工事の後半は雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求され、
 食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上り、戦後に問題となった。

 犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出るが、総数の約半分と言われる。」


そのあまりの死者の多さから欧米では、「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られるという。





ワンコーナーに一軒はありそうな、太鼓屋さん



西南ルートの説明のためにえらい話が横道にそれた。

漢代に西南ルートの確保のために回廊のように細長く西に延びた領土、という版図は、その後の王朝にも継承されて、
唐も同じように西南ルートを抑えていた。

その細長い回廊領土の少し北に隣接する部分に「六詔」と呼ばれる原住民の小規模政権が林立していた。
「詔(チャオ)」は、現地の言葉である原始タイ語で「王」を意味するといわれる。

つまり大理のEr(さんずい+耳)海地区にかけての一帯だ。
麗江よりもやや南の地域である。


さらに北に行くと、チベットの強硬な王国・吐蕃があり、「六詔」はちょうど唐にとっては、吐蕃との間の緩衝帯になってくれる。
唐は吐蕃へのけん制とするためにも、立場が曖昧な小規模政権がうじゃうじゃあるよりも唐に親密な統一政権を作った方が軍事的に安心できると判断、
「六詔」の中の一国であり、最南端---つまりは、唐の西南交易回廊に隣接する蒙舎詔を支援し、その「六詔」の統一を後押しした(738年)。
南の詔国という意味で「南詔」と呼ばれた。

これによりEr(さんずい+耳)海地区(現在の大理周辺)への進出をねらっていた吐蕃の野望を
唐はかろうじて食い止めることに成功したのである。
Er海地区のすぐ南は、かの西南交易回廊である。
吐蕃としても、利益の大きいこの回廊の占領を狙わないはずはなく、なんとしてでも死守したい唐との間の駆け引きに南詔がうまく乗っかった形となった。


南詔は、白族の政権であり、その次の段氏大理国にも続いていく。

麗江や金沙江を挟んで北に位置する塩源などの地域にナシ族が暮らしており、どうやらここは、完全に南詔の領土とはならず、
立場を曖昧にしつつも一応は、各小部族が独立を保っていたようである。





古ナシの人々は、遥か青海高原から南下、漢代に麗江を中心とした地域に定住し、
地元の原住民と混血しつつ、今のナシ族が形成された。

唐代、古ナシのには3つの大きな勢力が形成されていた。

 梅氏: 金沙江流域(麗江より西北。)
 尤氏: 麗江湾の中(金沙江に鉤型に曲がった湾の中の地域)
 禾氏: 雅Long(龍+石)江流域(麗江の金沙江の対岸、東北)

位置関係は、乱筆で失礼ながら、下記の地図を参考とされたし。


ちなみに麗江の二大姓である木姓と和姓は、
尤氏が後に朱元璋から姓を賜って「木」姓となり(後述)、
「禾(He)」と同音である「和」になったのが、和氏ということらしい。



その中で禾氏は、雅Long江の流域から豊かな土地を求めて、次第に南下を始めた。
南に進み、金沙江にぶつかると、羊の皮の浮き袋でできた筏に乗って対岸へ渡り、ついにはEr(さんずい+耳)海の東側に出た。
南に下がるほど気候も温暖となり、芳醇な収穫を得られることは当然である。
禾氏はここに落ち着き、次第に豊かに、強大となり、国名を「越析詔」と名付けた。

さて。
Er(さんずい+耳)海といえば、その西岸には、かの大理城がある。
南詔の都であり、雲南で最も大きな勢力だ。


その南詔が、都の対岸にいつの間にか、新たに強大になりつつある勢力ができることを快く思うはずはない。
越析詔が強大になるにつれ、次第に危機感を抱くようになる。


これ以上強大になれば、今後はつぶそうにもつぶせなくなる、と感じた南詔王の皮羅閣は、
そうなる前に、と越析詔を攻撃し、金沙江の対岸の故地へ戻るよう追い立てた。


実際に戦いになれば、圧倒的な国力を誇る南詔と勝負になるはずもなく、
越析詔のナシの人々は、たちまち北に追い立てられていった。

皮羅閣は、自ら指揮を執り、禾氏らが金沙江を渡って行っても、攻撃の手を緩めなかった。
彼らが元住んでいた塩源の地まで追い込んでようやく追撃をやめたのである。
もう二度と、Er(さんずい+耳)海地区に戻ってこないように。










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麗江・歴史5、西に独立王国が存在した理由

2013年08月14日 23時38分25秒 | 雲南・麗江の旅
唐代のこの3ヶ国の攻防(唐、吐蕃、南詔国)を見ていく際に、一つ留意すべきことがあると思う。
それは例えばチベットを見ても、吐蕃ほどの強力な勢力が唐以後、この地域にあらわれていないことだ。
吐蕃は安史の乱の際には一時期、長安を占領するほどの強い力を見せた。
しかし吐蕃を最後にして以後、二度とそんな強力な政権を立てることができずに今に至る。

雲南にしても南詔、それが滅びた後は大理国と独立政権が現れたが、その後はもうない。
ただ単に中原国家の勢力に飲み込まれただけだ、という言い方もできるかもしれないが、それならなぜ雲南で止まり、
ミャンマーやベトナムまで中国にならなかったのか、という理論にもなる。
ベトナムは史上、中国の領土だった時期も長いのだ。
しかし何度征服されても、少しでも中央の力が弱くなるとたちまち独立し、今となっては独立国なのはなぜか、とも疑問を持つことができる。

その答えが、交易ルートを取り込むことによる経済力だったのではないか、と思うことがある。


唐代まで、世界の交易の中心は陸上貿易だった。

航海技術が未熟な古代は、船で物を運ぶことが危険なため、たとえ少ない量しか運べず、付き添いの人間も多くかかり、コストが高くても、
陸上輸送を中心とせざるを得なかった。

それが中国から雲南を通り、チベット、インドに抜けるルートであり、
シルクロードからトルキスタン、ロシア、黒海に抜けるルートだった。

そこでその途上にあるチベット、雲南は関所で通行税をとり、途中の町で商品の転売・仲買いをして利鞘を儲け、
人夫雇いで雇用の機会を増やし、宿と食事の提供で潤い、馬やロバに飼料をやることで、草という資源さえ富に変えることができた。
決してその時代の男たちが、突然変異のようにいきなり勇猛果敢、モーレツな鬼神のごとき剽悍なる無敵軍隊になったから強国になったわけではない。
経済力を背景とした豊かな武器、馬、補給線があってこその強さである。





デコラティブな果物。
農婦までがこういうちょっとスノッビーなセンスをしているのが、麗江らしい??



ところが宋代あたりになってくると、航海技術がしだいに発達し、船で大量の荷物を安全に、少人数で、低コストで輸送できるようになり、
世界の交易の中心はしだいに海運、「海のシルクロード」に移ってくる。

陶磁器産業が宋代になって一気に花開き、世界からの外貨獲得に結び付けることができたのは、そのためだったのではなかろうか。
重くかさばる陶磁器は、陸上輸送が主流だった時代には、コストが見合わなかったはずだ。
海上からの大量・低コスト輸送が実現したからこそ、成立したビジネス・モデルといえなくはないか。

その大きな経済的爆発力があったからこそ、中国は数百年も続いた中世を突き破り、宋代の近世成立への爆発力につなげることができた。

・・・・という宋代近世論は、内藤湖南から始まる京大東洋史学の主流だが、
最近、聞くところによると、中国の歴史学界でも内藤湖南学派なくして、中国史を語ることはできない、と評価が定着しつつあるらしい。
こちらの知識分子の皆さん、なかなか冷静な判断をされるではないか、と少し嬉しい。

閑話休題。
えらい遠くにそれてしもた。


宋代から少しずつ盛んになってきた海上貿易が、元代には一層顕著となる。

それを象徴するのかのように、マルコ・ポーロも子供のころ、中国にやってきた時は、てくてくとシルクロードの砂漠を徒歩でやってくるが、
中年になり、帰る頃には元のお姫さまを護衛がてら、アラビアまで船で帰っているではないか。






夜でも10時過ぎまで営業する麗江古城の商店街。



海上貿易が主流になれば、雲南もチベットももはや中継地ではなくなり、それまで行き来していた商品はほとんど姿を消し、
交易規模が大きく縮小したことだろう。

ベトナムやミャンマーが雲南とちがい、中国の領土にならなかった理由は、海に面しているため、海上貿易からの利益の分け前を受けることができたからではないのか。


また同じ内陸貿易でもモンゴルは、その後も長くに渡り、勢力を維持する。
西モンゴルのオイラト部は、ごく最近の清の乾隆年間でもまだ清軍をきりきり舞い翻弄させるだけの実力があった。
その理由は、モンゴルはまだロシア、中央アジアへの交易については、中継地となることができたからではないのだろうか。

ロシアには不凍港がなかったので、海運が主流となれない。
しかもシベリアの極東に船を乗り付けてもらっても、シベリアは遊牧民さえ住むことのできない、完全に不毛な、無人地帯に近い地である。
そこからの輸送は、ほぼ不可能といってもよい。


日露戦争の時代でさえ、日本軍のスパイが死ぬ思いでシベリアを探検したではないか。
したがって、モンゴルからステップ草原に沿ってトルキスタン、ロシアに運ぶものについては、なお大きなニーズがあったということである。


これがチベットとなると、チベットの北部も不毛地帯、無人地帯であり、いまだに旅行に行くにも、ガソリンさえジープに自前で積んでいかねば、
生きて帰れないくらい人煙のほとんど見られない地域だ。
そこを超えて中央アジアに運ぶというのは、ありえない。




麗江古城



唐と南詔と吐蕃が三つ巴の争いを繰り広げる根底には、
この西南交易ルートの権益をめぐる戦いがあったことを踏まえながら見ていきたい。

ちなみにこのルートは、のちに扱う茶馬古道とはまたやや違った扱いである。
茶馬古道は、世界の交易が海上貿易に移行した後、内陸であるチベット高原と中原の交易を中心にしたものであり、
海上貿易というチョイスのなかった頃の西南交易ルートのもたらす富のスケールの大きさと比べると、ずいぶん小規模なものでしかない。

閑話休題。


このルートが、国家の交易路として正式に使われるようになったのは、漢の武帝時代からだという。
漢代には、すでにシルクロードのオアシス国家を通じて、西側との交易が盛んに行われ、その貿易路を確保するため、
細長い板のように領土をタクラマカン砂漠の友好国に接するところまで伸ばしていたことは、よく知られる話だ。

ところがこの雲南の西南ルートは、まったく中原国家には伝わっておらず、誰もその存在を知らなかった。


その存在のヒントをもたらしたのは、西域への使者・張騫である。
武帝がその帰還と報告を大いに喜んだという話は有名だが、さまざまな報告をしていく中で、張騫は次のような情報をもたらした。

「大夏(現在のアフガニスタンの北部を指す)に参りました際、
 地元の市場で蜀布(四川で織られた細い麻糸の布)とqiong(竹かんむり+工+おおざと)竹で作られた杖(四川の特産)を見ました。
 どうやら西南から夷に通じる道があるようです。」
 
と、中国から遥か遠いアフガニスタンで中国の製品を発見した驚きを報告した。






麗江古城。


当時開かれていた西域への交易ルートは、ラクダの背中に乗せて不毛の砂漠を延々と行かねばならず、その輸送費は莫大なものになった。
そのためそれでも利益の出るような高級品---シルク、貴金属といったものしか中国からは運び出されない。
麻布や竹の杖などといった、それよりは数段ランクの下がる商品を見た時、明らかに西域ルートでは採算が取れないことがわかる。

「これはが違う輸送コスト体系になっている」

と直感的にピンと来たに違いない。
つまりは違うルートがなければ、飛びぬけて高級品とはいえない商品が並ぶはずはないのだ。


見かけた商品が両方とも四川の特産品だったことから、
まだ中原に知られていないそのルートは、四川からどこかに向かって伸びているのではないかと考えたのだろう。

当時、漢はシルクロードの交易路を確保するため、匈奴と頻繁に戦争をしており、
西域ルートの確保には、莫大な国家予算が投入されていた。


それとて少しでも油断をすれば、いつ匈奴が強大となって交易路を遮断するかもわからない状態にある。
もし西域ルートとは別にルートを確保できれば、大きくリスクを分散することができる。

そこで武帝は張騫の報告を元に、四川に人を派遣し、現地で四つの方面から西南への外国に通じる道を調査させた。
その結果、雲南の昆明、大理から西へ、保山、騰衝を抜け、ミャンマーへ抜ける道がインドに通じていることが判明した。


武帝はこのルートを確保するため、西域と同じように細長い板を敷くように、このルートに沿った土地を征服せんとした。
大軍を出し、この地域に土着する「哀牢夷」と呼ばれていた原住民を征服し、道中の領土を確保したのである。



 

交易ルートに沿った土地が自国でなければ、さまざまな付随施設や環境を整えることができないのはいうまでもない。
現地の土着民を服従させた後、雲南における中央政権初の「県」が設置された。
大理の西、現在の騰衝県の金鶏村というところに「不韋県」が設けられた。

これは呂不韋(漢初の権勢家)の後裔がここに住み着いたことでつけられた名前だという。

つまり県が設けられるとともに、「植民」もされたということだ。
いくら現地を征服しても、中原からの住民がいなければ、大軍が去った後、その地は再び原住民に奪回されてしまう可能性が高い。
交易ルートの安全を維持するために最も効果的な方法が植民だったのである。
一般庶民ももちろん移住させただろうが、こういう場合に貧乏人ばかりだと商業も産業も何も発展せず、
民力も弱いため、現地を発展させていくことができない。

そのため富豪や素封家も強制移住させられた。
これは中国史上ではよくある話で、たとえば明の永楽帝は自分が新たに造営した首都・北京が、
草原の中に作られたうら寂しい場所だったため、江南の蘇州から豪商の強制移住を命じている。

初めて設けられた県の名が「不韋県」だったということは、呂不韋の後裔らという素封家どももここに引っ張ってこられたことを物語っている。
そのほかにもおもに四川、一部中原から移住させたという。





植民のほかにも、道路の整備がある。
民間ルートでしかなかったこの道は、誰もお金を出して道を整備する人はいなかっただろうから、
道はでこぼこの泥道、不必要な迂回があったり、荷物を積んだ馬同士がすれ違うことのできないほどの狭い部分も多かったことだろう。

同時代のローマ帝国がやったように、
四頭仕立ての馬車が全速力で疾走できるような石畳、脇に排水溝までついたような舗装道路を全路敷く、というわけにはさすがに行かなかっただろうが、
それでもそれなりに整備は必要だったことだろう。

道中に決まった距離ごとの宿場駅も作られた。
隊商が宿泊し、中庭に家畜を収容し、食事することができるような施設も建てたことだろう。


雲南に古い民歌『通博南歌』が残る。
「博南大山を越え、朝暮に石をこんこんたたき、死を賭して蘭津を超え、lang(さんずい+門構え+束)cang(さんずい+倉)江の上を飛ぶ」

これは漢の兵士が、この道を整備した際に歌った歌だといわれており、
辛酸をなめつつ、道を作り上げていったことがわかる。

石をたたく、とは雨が降ってぬかるみに足を取られないように石畳を敷いたということであり、
上を飛ぶ、とは橋がない場所には、ロープからグラインダー式に対岸へ渡る危険な方法しかなかったことがわかる。




 

なんと麗江には、巻き寿司屋さんも登場。







かっぱ巻き5元、カリフォルニア巻きでも8元。
中華料理が軒並みアホみたいに高い麗江古城で、お寿司が逆にとってもリーズナブルという逆現象。



さすがに生魚はないようですが、なかなかきれい。





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麗江・歴史4、憎しみを数千年持ち続けるということ

2013年08月13日 14時57分14秒 | 雲南・麗江の旅

   

夜の麗江の路地


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それにしても。

カム族に死ぬような目に遭わされたのは、再確認するが、漢代、つまりは紀元前後の時代のことだから、今から2000年も前の話である。
2000年前の恨みを今でも維持できるというのは、えらいこっちゃ。

それをいえば、ユダヤ人だってローマ帝国に滅ぼされて離散(ディアスポラ)したのは、紀元70年。
それから2000年近くをかけて再びイスラエルを建国した例もあり。

韓国でチョルラド(忠羅道)の人が差別されているのは、百済の遺民だからという話だが、
それって、紀元660年のことだから、1500年前の敗戦のために未だに差別されているってことーー??? という例もあり。

イスラムのシーア派のある山中の村での出来事をどこかの本で読んだことがあった。
村の語り部がシーア派のルーツであるマホメットの孫(娘ファーティマの婿アリーの子)フサインが、殉死したシーンを語ると、
村人たちは激昂して泣きわめき、口々にスンナ派への復讐を叫んで終わるのだという。
それは紀元680年の出来事だから、これまた1400年にわたり、憎しみが毎晩毎晩、語り部により温めなおされ、
綿々と千年以上に渡り、引き継がれているのである。

近いところでは、たとえば徳川幕府は薩長を成立当時から警戒しており、
200年以上たった後に起こった明治維新が、薩長にとっては「関ケ原のリベンジ」だったこと、
土佐藩で長宗我部の旧臣だった郷士らが、山内家にリベンジを挑んだのが、土佐志士らの大いなる原動力だったこともそうなるのか。
200年以上前の恨みが、生活の中に生きているわけだから、十分に気の長い話である。


憎しみや対立というのは、口伝によりなんぼでも長く、長しえに温め続けることができるということだ。
昨今のどこかの国とどこかの国のことを言っているわけではないのだが。




ナシ族が九死に一生を経て、麗江地区にまでたどり着いたところまでを描いた。
年代としては、大体後漢時代をいわれているので、
遥か北の西寧あたりを出発して、直線距離にすると、わずか1000㎞ほどの道のりを300年ほどかけて移動してきたことになる。


麗江周辺には、先住民族である僕(+さんずい)人らが住んでいたが、ナシの人々は彼らを征服した。

「麗江・歴史4、遊牧民の戦いはところ天式」にも書いたとおり、生産力の高くない牧畜という形態では、
先住者と侵入者という2つの部族を両方養うほどの土地の生産力がない場合が多い。

ということは、両部族ともそこに留まっている場合は、
負けた方がところ天式に追い出されて、新天地を求めてさまよい、自分たちが安住できる土地が見つかるまで流浪を続けるしかない。
それがナシの祖先が、故郷の地を後にしてきた理由であり、その後、500年かけてでき少しずつ南下を続けなければならない理由でもあった。

どれ以上の南下をせず、麗江をついに住処としたことには、それなりの科学的な理由があるだろう。

麗江の周辺まで南下くると、気候はもう十分に温暖であり、
農業を営むにも、牧畜を営むにも大人口を養えるだけの生産力は十分にある場所だ。

そうなると、「ところ天」式の公式的には、「遊牧民vs遊牧民」ではなく、「遊牧民vs農耕民」の戦いという図になり、
征服された側の先住民が、征服側を養ってもなお自分たちも飢え死にしないでも済むくらいの生産力に余力が残されていたことになる。

ナシ族の祖先は、征服者として麗江周辺に君臨しつつ、先住民の僕人らと混血し、
現在のナシ族の原型が出来上がる。

その構図は、おそらく「騎馬民族征服説」に見られる日本の弥生人と縄文人の関係もそうだろうし、
シルクロードの先住民、オアシス諸国のイラン系先住民と征服者のウィグル族の関係もそうであっただろう。
例を挙げだしたら、きりがないが。。。。


以上、ここまでの部分は、トンパの経典などや断片的な地方史料を元に再現された歴史である。
いわば「正史」ではない、神話、オーラル・ヒストリーに属する部分だ。

日本でいえば、中国史書の断片的な卑弥呼などに関する記述、百済の滅亡に関する記述と
天照大神やスサノオの伝説、『古事記』や『日本書紀』を元に、再編していくのと同じ作業である。

次に「正史」の部分を見ていきたい。

夏、商、周代、中国を九州に分けたが、雲南は「梁州」と呼ばれた。
戦国時代(紀元前316年)、秦が蜀、巴を滅ぼし、巴、蜀、漢の三郡をおき、この際、蜀の統治範囲に四川の西半分から麗江のあたりまで入っている。

前漢の元封2年(紀元前109)、武帝が巴蜀地区に兵を出し、真(+さんずい)池地区(現・昆明のあたり)を征服した。
これにより麗江地区もその支配下に入り、正式に中央王朝の統治下に入る。


後漢の永平年間(1世紀中葉)、現在の塩源(金沙江をはさみ、麗江の東北となり)から麗江一帯のナシ族先民「自狼」が、
朝廷に歌三章を献上し、内地に移住したい由を告げてきた、という記録がある。


これがつまり、ナシの人々が遥か北から数百年をかけて遷徒し、安住の地として麗江一帯に住み着いた時期である。

三国時代、魏晋南北朝時代は蜀に属し、麗江は逐久県と呼ばれた。


その後、唐代は唐、チベットの吐蕃、大理周辺を統治する南詔の三ヶ国間で
あちこちに隷属し、めまぐるしく立ち位置を変える。

それは麗江が雲南の最北端に位置し、3つの地域(この当時は国)の交差点に位置する要所だからである。
そのすぐ上はチベット(カム地方は今は行政区としては四川だが、解放前までは行政的にもチベットに属しており、
気候的・文化的・生活様式的・民族的にもその要素が強いので、四川ではなくチベットと解釈)、
斜め東に少しいけば四川だ。


なぜそこで国、または行政区が分かれているかといえば、明らかにそこで人の流れや気候、民族、生活様式が分断されるからだ。

麗江までは熱帯・亜熱帯モンスーン気候、いわゆる稲の原産地となったような典型的な高温多湿の気候だが、
そのすぐ北には、標高がえらく高い山々がそびえ、その熱い、湿った空気を完全にそこでシャットアウトしている。
そこから北は、いわゆるシャングリラ地区、その先にはさらにチベットがある。
つまりは長らく幻のシャングリラといわれていたくらい外部からの人間が近づきにくい、
高地のために空気薄く、気温低く、雨少なく、草もろくに育たない不毛の地に突入する。

麗江に旅行に行き、そこから北に行こうと試みたらわかるだろう。
北へのルートは、途端に長距離バスもなくなってくる。
なぜ麗江にバックパックでくる若者たちが、自転車を運び込んでくるか。
それはそこから北に行こうと思えば、まったく路線バスがなくなってくるからだ。
徒歩か、自前の自転車か、ヒッチハイクしかない。
徒歩は、夜寝るまでに宿のある町にたどりつけるかわからない。
ヒッチハイクも運を天に任せるしかなく、当然女子には自殺行為だ。
それくらい人影もまばらなエリアに入っていき、つまりは大人数の人間を養おうにもその力のない地域に入っていくということだ。


そして麗江から少し東に曲がりながら北に行くと、高地からすとん、と高度が下がり、四川特有の雲に四六時中埋もれた、生ぬるい空気に包まれた大地に出る。

山脈、高地で分断されたそれぞれにまったく違う特徴を持った地域が交わる場所が麗江なのである。

だからこそ、昨日は唐に支配され、明日は南詔、さらに一晩寝てみたら吐蕃に、という具合に争奪戦の地になった。




    

麗江古城内の果物売りのおばさん。
お値段は決して安くないですが、ほかの食事と比べるとなお安いので、若い女性はこれで済ませることもあるでしょう。
  



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麗江・歴史3、ナシ族、民族絶滅を逃れた日

2013年08月12日 00時13分47秒 | 雲南・麗江の旅

  

露店のスナック。

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剽悍無比で知られるカム族の居住地区に差し掛かったナシの祖先の人々は、
接触の最初から、カムの苛烈な略奪に遭う。

厳しい自然環境に生きる部族は、通りがかりの旅人らの略奪も生業の一つにしている場合が多い。
荒仕事で常日頃、精神と肉体を研ぎ澄ませているからこそ、剽悍なのだとも言える。

ナシの人々は、元いた場所の環境が厳しくなったからこそ、南を目指しているのであって、
カム族の猛烈果敢なる攻撃に出くわしたからといって、南下を止めるわけには行かぬ。

苛烈なカムの攻撃をかわして、彼らの居住地を通過し、さらに南を目指したいが、無事に済まされそうにない。
戻っても進んでも絶体絶命、という民族絶滅の危機に追い込まれた。

その中でたった一縷の望みをかけて決行したのが、除夕(大晦日)の急襲であった。
ナシのある賢者が言った。
明日は除夕だ、酔いつぶれた彼らを襲うしか生き残る道はない、と。

カムには、1年の邪気を大晦日の酒で吹き飛ばすという風習があった。
除夕の晩に酔いつぶれるまで飲まなければ、次の年は1年間、不運が続き、何をやってもうまくいかない、と信じられていた。
その反対に酔いつぶれるほど飲めば、前の年の邪気をそれですべて振り払い、新年は新たな出発をし、1年間幸運が続くと。

除夕の深夜、カムのの人々が酔いつぶれて、死んだように眠りこけたところをナシの男たちが急襲し、
スイカをかち割っていくように酔いつぶれたカムのを皆殺し、ようやく九死に一生を得て南への道を進むことができたのである。


民族が危うく絶滅するところまで追いつめられた経験は、
ナシの人々の心に深い傷跡を残した。

その経験を永遠に忘れぬため、子孫代々伝え続けていくために、
ナシの人々には今でも多くのその記憶と習慣が残されているという。

まず誰と結婚してもよいが、カム族との通婚だけは断固として許されていないという。
「納巴不過一座橋、不走一条路」(カムを家に入れれば、同じ橋を超えない、同じ道を歩かない)」。
つまりは村八分にするという意味である。

「娶巴女為妻室、家道敗落七世(カムの女を妻に娶れば、家は七代に渡って廃れる)」
という激しい口調だ。


ナシの人々の年越しには、かの急襲の夜の記憶も風習として残っている。
カムのを皆殺しにして、返り血で全身血だらけになって帰ってきたナシの男たちは、
邪気を洗い落とすために、泉の水で体を洗った。

その記憶のとおり、ナシの年越しでは、沐浴をする習慣があるという。
春節の頃といえば、一年で最も寒い時期である。
普段でも冬にあまり沐浴する習慣がないだろうことは、想像に難くない。
それを敢えて沐浴するのは、そういう由来がある。


 

大研城の露店。

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カム族との戦いで民族の絶滅を逃れた記憶は、
トンパ経典に盛り込むことにより、葬儀や祭事の行事のたびに演じられ、民族の記憶として、綿々と語り継がれてきた。

ナシ族はトンパ教を信奉する。
トンパ教は原始的なシャーマニズムをベースとし、チベット仏教の影響もある。

世の宗教とは大方、
この「土着の原始的なシャーマニズム=八百万の神の信仰」+「世界宗教として生き残った、高度な哲学的、科学的教義を持つ(当時としては)近代的宗教」
のミックスで成立したところの方が多いのではないだろうか。

日本の宗教観も神道と仏教が混然一体となっているし、ヨーロッパのキリスト教でも土着の聖人信仰や太陽信仰などが取り入れられているという。
中国の民間信仰は仏教と道教が判別不能なところが多くあるし、チベット仏教も後期インド仏教と土着ボン教の融合したものだ。

閑話休題。
とにかくナシ族は、人が死ぬとシャーマンであるトンパが呼ばれ、儀式を執り行って死者の霊を弔う。
彼らの意識は、数千年たった今もなおかつて暮らした祖先の地にあり、
死者の魂はかつてナシの人々がたどってきた道を同じように遡り、祖先の地に戻って家族と団らんの場に戻ることを極上の幸せとした。
それが彼らの価値観の中の「天国」ということだろう。

住み慣れた土地を生きるためにやむにやまれず離れてきた無念、生爪をはがされるがごときの痛み、
その道中で嘗め尽くした艱難辛苦、限界まで追いつめられた恐怖が数千年の時を経ても未だに生きている。

人間にとっての「天国」とは、時代と場所によってさまざまなものがあり、人々の価値観を反映しているものだろう。
中国で強調される不老不死であったり、コーランに書かれているのは美食と左右にはべり放題の美女だったり。
ここで思い出したのは先日河北の田舎で見た、地元の地べたで売っていた紙銭や死者のために燃やす「供え物」の紙である。
そこには、お金のほかにも、冷蔵庫、洗濯機、携帯電話、ベンツなどの絵が描かれており、思わず微笑んでしまった。

そういった「これ以上幸せなことはない」と人々が夢見る価値観が、「故郷の地に飛んで帰る」ということだった。
そのおかげでナシの人々が、南遷の道中で体験してきた苦難が、
死者が祖先の地に帰るために経験する苦難の道として、まるでビデオテープを逆戻しするかのように再現され、
文字に書き写されることもないままでも数千年に渡り、綿々と口伝として語り継がれてきた。





   

だ、だいぶ美人に描いている???
大研城内のお店にて。


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ナシ族には、古い「巴瓦捕(カムの山塞を襲う)」という葬儀の儀式が伝わる。 
司祭のトンパが先頭に立ち、「献馬」の儀式を行う。
太古の昔は馬を殺して生贄にしていたが、後に仏教の影響により「放生(捕えた動物を自由にする)」に変わり、
それでも人が死ぬたびに貴重な馬を差し出していたのでは経済的に辛抱たまらんということで(殺しても放しても、どちらにしてもいなくなるわけだから)、
清代の「改土帰流」以後は、竹の骨格に紙で張りぼてした馬で代用してきたという。

これもナシ族が麗江の盆地におちつき、農耕と定住を中心とした生活に変わることにより、
人口密度が高くなり、馬が貴重品となったことによる変化だろう。
遊牧生活であれば、馬はいくらでもいるし、老いて乗り物として役に立たなくなった馬を生贄にすることは、それほど無駄な行為でもなかったはずだ。
ところが農耕生活に入ると、馬を育てるだけの草の確保はそう簡単ではなくなる。
牧畜ならば、数㎞にわたって草地が放牧のために確保できるが、農耕となれば、
一家族に与えられる土地は、せいぜい数十、百数メートル四方でしかない。

そうなると、一家族で養える馬の数は1-2頭に限られてくるだろうし、10頭も20頭も飼うには、飼料が足りない。
貴重な馬を人が死ぬたびに殺していたのでは、不経済この上ないというわけだ。


トンパが「献馬」の儀式で「馬の由来」の経典を読経する。
読経の間、死者の家族から3-9人の青年を選びだし、それぞれに1頭ずつの馬を率いてくる。

原則は青年らが全員、1頭ずつ牽いてくることになっているが、
そこはすべての家庭にそんなに多くの馬がいるわけではなく、その家庭の経済状況によりまちまちながら、
どんなに貧乏でも最低でも1頭は、隣近所のどこかから馬を借りてくる。
馬は死者を祖先の地まで連れて帰ってくれる大事な使者であり、馬の一頭もなければ、魂が本当に路頭に迷ってしまうからだ。

青年らは、雉の羽根のついたフェルトの帽子をかぶり、トラ柄のベストを羽織り、
手には楯と大なた、弓などの武器をもち、全身武装で馬を牽いて死者の霊前にやってきて棺に跪いて頭を下げ、口上を述べる。

「阿普(アブ)、阿注(アチュ)、我らを守りたまえ。これに馬を洗いたり。
 道中に蟠踞する巴人(カム人)の山寨を殲滅させ、道中で略奪を働く巴人を撃退し、四代祖母三代祖父の暮らす祖先の地へ送りたまえ。」

祖母が四代で、祖父が三代。
祖母の方がやや格が上なのが、母系社会といわれるナシ族らしく、ほほえましい。



      


お兄さんのタトゥーTシャツがナイス。
  
後ろのおっちゃんの似顔絵は、まだ似ているわね。
目撃写真として見せられても、これなら判別がつく。。。。
前回のおねえちゃんは、あれは。。。。似顔絵と本人は、絶対見ても気づかないと思うよおおおお。 
やっぱり女心をよくつかんでますな。きれいに描いてくれないと、商売になりまへん、てことですかね。
大研城内のお店にて。


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次に青年らはトンパに率いられ、馬を河べりまで牽いてきて、土のお椀に河の水をすくい、1椀は馬の頭に、
もう1椀は馬の体に、さらに1椀は馬の尻尾に注ぎ、土の椀をその場で地面にたたきつけて割る。

トンパは読経する。
「馬を洗い、人も清潔に洗い、物を入れるかごも洗いけり。
 馬は雷の如く疾走し、掛け声は雷の鳴る音のごとし、虎や豹も馬の蹄を止めることはできず、狼も楯と大なたの行く先を止めることあたわず。
 巴人の寨を殲滅し、勝利とともに祖先の故地へ送りたまえ。」

青年らはトンパに率いられ、素早く馬にまたがり、馬を鞭打って葬儀の家に駆け戻る。
道中では、「虎が跳ね、鷹が飛ぶ」戦いの踊りを踊り、虎と鷹の動きを模倣しつつ、
さまざまな道中を妨げる敵に勝ったことを象徴する勝利の踊りを踊りつつ、練り歩いて家まで戻る。
モンゴル相撲で勝者が踊る鷹踊りのようなものでしょうかね。。。。見たことないので、想像ですが。

葬儀の家にたどり着くと、家の前には、手に武器を持った敵に扮した相手が立ちはだかっており、
青年らはこの敵との戦いを模した踊りを踊り、その垣根を突破して家の中に突撃していく。
家の中に入ると、順番に馬から降り、霊前に駆けつけ、口上を述べる。
「山の中に潜伏する巴人あり。撃退せり」と。

トンパが霊前で読経するが、経典は口汚く巴人を罵る。
「目の見えない巴人ども、七股に分かれた舌をもつ巴人ども。嘘と欺瞞に満ちた巴人ども。
その心臓を弓で射抜き、その首を大なたで掻き切り、白樺の木で殴りつけ、その骨を切断し、頭を粉々に砕かん。
巴人の(女性の)陰門はでかく、猫が7回飛ばなければ窪みを超えることができない(す、すごい口上。。。猫7飛び分くらい陰門がでかいといいたいのでしょうか。。)
巴人を強姦せよ(そんな女でも強姦したいのですね。。。)
巴人の男根は九柞の長さ(どういう単位なのか、調べても出てきませんでしたが。これまでの流れでいくと、短いと罵りたいのでしょう)。
巴の男根をぶった切れ。巴人の寨を焼き尽くせ。巴人の地をさら地にせよ」


・・・・・・と、まあ。穏やかならぬ野蛮の限りを尽くした経典じゃ。

トンパが読経を上げている間、青年らは家の中庭で「虎跳び鷹飛び」踊りを舞い、村の若者も武装に身を固めておたけびをあげつつ踊りの輪の中に入る。。。


という儀式らしい。



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麗江・歴史2、ナシ族、南遷の始まり

2013年08月11日 11時44分49秒 | 雲南・麗江の旅
前回は、麗江一帯の中心的少数民族であるナシ族が、古代羌族より出ていることまで追ったところで、沈没してしまった。

陝西の渭水から興った羌族の一部は、中原から南下したり、西に進んだりして原住民と融合し、
シナ・チベット語系の諸民族であるチベット族、イ族、ナシ族、白族、ハニ族、リリ族、ラグ族、ジノ族などを形成するにいたる、というところまで見た。

ナシ族の祖先にあたる人々は、その中の「低(のにんべんなし)羌」であり、
秦代の記録に「皇(+さんずい)河間、少五穀、多禽獣、以射狩(守を昔に変える)為事」、「畏秦之威、南徒」とある。


「皇(+さんずい)河間」とは、そこに住んでいたということである。
「皇(+さんずい)」の字を調べると、「皇(+さんずい)水」を指すと出てくる。
現在の青海・西寧の近くを流れる黄河の支流である。
「河」は、つまり黄河。

皇(+さんずい)と黄河の間に挟まれた土地、現在の西寧の南あたりの土地である。
「低(のにんべんなし)羌」の人々は、故郷の陝西から西に移動し、青海まで来て定住していた一派ということになる。

位置関係図は、下の地図を参考に。


「少五穀、多禽獣、以射狩(守を昔に変える)為事」、穀物をあまり食べず、禽獣を多く食べ、狩猟を生業とす。
それはそうでしょう。
西寧のあたりは、もうすっかりチベットの表玄関である。
西寧から少し西に行った青海湖なんちゅうのは、今でも無人地帯に近い。

農業のできる緯度線をとっくに超えており、農作物などとれるものではないことはおろか、
「多禽獣」だって危ういくらい、人間の生存に必要な条件が乏しい場所である。


「畏秦之威、南徒」、秦の威を恐れ、南に移った。
それがナシ族の民族的なアイデンティティとなる壮絶な南遷の始まりである。
西寧から出発し、最終的に麗江に落ち着くまで、どうやら壮絶な旅だったようだ。


以下、荒いながら、今後の話の展開のための参考地図。





秦の武威を恐れて南下せざるを得なくなったナシ族の祖先、「低(のにんべんなし)羌」の人々。

ここで思うのは、遊牧民の「敗戦」と農耕民の「敗戦」の違いである。
農耕国家の国同士の戦争、あるいは遊牧民に攻め入れられて負けた側が農耕民の場合、
負けた側は戦争責任者が一部殺されたり、賠償金として金銭を出さされたり、領土の割譲をさせられたりする。

しかしそこに住む庶民は、そのままそこで暮らしていく。
負けたことにより統治者が変わるか、余計な税金をかけられるか、首都付近の一部の土地が奪われるか、利権を奪われるといった「痛み」は伴うが、
基本的には元の場所で暮らしを続けていくことになる。

中国歴代の征服王朝である金、遼や元、清しかり、
モンゴルに征服された中央アジア、ロシア、イランなどの国々しかり。
イスラム勢力に征服されたインドのムガール帝国しかり。


ところが遊牧集団同士の戦いは、そのまま「丸追い出し」となることが多い。
庶民の一人一人に至るまで、すべてその土地から追い出されて、その土地を追われ、「ところ天式」に近隣の土地へ雪崩れて込んでいく。

もしそれが「略奪」を目的とした戦争の場合は、物や人や家畜を奪い終われば、自分の家に戻っていく。
しかし仕掛けた側が生活の基盤、つまり遊牧の場所を求めた場合は、本当にまるごと追い出す。

それは遊牧という形態が恐ろしく生産性が悪く、膨大な土地を必要とするからに違いない。
以前、内モンゴルで実家が牧畜を営んでいるというモンゴル族の知り合いがおり、話を聞いたことがあった。

そんなごく初歩的な知識でしかないが、牧草地には夏の牧草地と冬の牧草地があり、草の量を維持するために、
決まった時期以外は入らないように、厳格に管理しているという。

草が足りなくなり、家畜がひもじくなって、足の蹄で草の根っこまで掘り出して食べてしまえば、
もう二度と自然にそこに草ははえることはなく、そのまま砂漠化するからだ。

一家族を養うためにどれくらいの草原が必要なのか、いずれ詳しく調べてみたいとは思うが、
農業と比べ、恐ろしく広大な土地が必要なことだけは明らかだ。

その生計はかつかつであり、新たに入ってきた侵入者とともに、土地を分け合い、生産を分け合うということが、
農耕国家とは比べ物にならないくらい困難なのだろう。

だから先住民をまるまる追い出すしかなくなる。

そうやって「ところ天式」に追い出されたのが、
ローマ帝国滅亡の原因となったゲルマン民族の大移動であり、それは東から来た匈奴の一派とおぼしきフン族に追い出された結果である。
あるいは、モンゴル高原にあった回鶻(かいこつ、ウイグル)汗国が、キルギスに追い出されて、民族ごと雪崩の如くモンゴル高原から逃げ出し、

タリム盆地のウィグル族、甘粛の裕固族となったことしかり。
タリム盆地に住みついていたアーリア系のイラン系諸民族は農耕もしており、彼らを追い出すことなく、支配しつつ、混血して融合した。

あるいは、清代にモンゴル高原にいたモンゴルのハルハ部が、西モンゴルのオイラト部のガルダン・ハーンの侵入を受け、
大挙して内モンゴルになだれ込み、康熙帝に泣き付いて代わりの牧草地を与えてもらったこともしかり。


ナシ族の祖先が、青海から追い出されたのも、
おそらくそういう構造があったのではないだろうか。


南への移動を始めたナシ族の祖先は、一気に麗江の周辺まで下ってきたわけではなく、
家畜を追いつつ、前漢末までに大渡河の上流あたりまで来た。
上記の地図を参考とされたし。


つまりは100年、200年をかけたゆっくりとした南下である。
恐らくは、暮らしているうちに人口が増え、生産性には限界があるために、新天地を求めるしかなかったということではないだろうか。
最終的に麗江で落ち着き、それ以上南下しなかったのは、麗江までくると、ようやく気候がおだやかになり、
農業を営むこともできるくらいの環境ができてきたので、多くの人口を養うことが可能となり、
「ところ天」式のはみ出し人口の移動が必要となくなったからではないだろうか。

麗江のすぐ北は、シャングリラ・エリアと今、言われる気候の厳しい地帯となり、
途端に人家がまばらとなってくる。
人間の生存には厳しい地域なのだ。

大渡河の上流地区から南下する際、ナシ族はその地に住む「康巴(カンパ)」族(=カム族)の妨害に出くわした。
カム族が剽悍無類で知られるのは、現代でも同じこと。

カムの人たちは、美男美女が多いことで有名だが、
特にカム男は、赤か黒の紐の束を頭のまわりに束ね、長身がっしり、顔の堀が深く、へらへらと笑わず、高倉健の役柄のごとき硬派な性格で
欧米のアラフォー女たちが、子供の種をもらいに、カム男の子供を孕みにやってくる人が多いらしい。

学生時代、ラサでホンダのバイクにまたがる赤紐をまいたカム男のあまりのかっこよさにがつんと脳天を殴られ、
写真を撮ろうと思わずカメラを向けたら、殺気さえ感じるような強烈なオーラを出され、
手のひらを手前に出されて「NO!」と静かにねめつけられた。

旅の途中、一枚でもいいからカム男のイケメン写真を撮りたいと血眼になったが、
結局、毎回殺気ビームで阻止されて撮らせてもらえず、ラサの画廊で見つけたカム男の肖像画があり、仕方なくその絵の写真で願望を成就させたものだった。

そんなことはどうでもいいのだが、要するに言いたかったのは、カム族というのが、半端なく剽悍なる民族だということじゃ。


 


大研城の路地で売られているスナック類。

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麗江・歴史1、ナシ族は羌より出づる、タングート族の西夏も羌

2013年08月10日 15時28分16秒 | 雲南・麗江の旅

ライトアップされた木土司府。



さて。
フライトの遅れを文句たらたら言ったり、昔のヒッピーの思い出ばかりを書き立てても発展性はないので、
遅まきながら、現地の歴史と風土についても少し復習をしたいという気になった。

麗江の主役といえば、ナシ族の人々。
その歴史を抑えておこうと、現地で買ってきた『木氏土司秘史』なる書籍を紐解く。

ナシ族が古代羌(きょう、Qiang1)族の一派だという部分の記述でまずはひっかかる。
そもそも羌族の概念をよくわかっておりませんー。

というわけで、まずは羌族について調べてみた。
「百度百科」によると、羌とは炎帝の姓「姜(きょう)」と同音同義、つまりは炎帝の一族のを指し、現在の陝西の渭水のほとりに居住していた。
つまりは現在の西安から宝鶏にかけての一帯である。

「羌」も「姜」も「羊の角の飾りを頭につけた人々」を指し、彼らのトーテムが羊だったことがわかる。
篝火の周りを羊の角かぶりのシャーマンがトランス状態で飛び回るようなシーンが浮かんでくるのは、ハリウッド映画(あるいは宮崎アニメ?)の見すぎだろうか。。。。

そこに隣接するのは黄帝(姫姓)の、この二つの部族の間で争いが起き、同時に次第に融合していったのが「華夏」族、つまり現在の漢族、中国人の祖先である。
よく使う言い回しで中国人が自分たちのことを「炎黄子孫」というのは、そういう意味らしい。

実在が怪しいとされている黄河の治水をした「禹」だって、両族が交じり合った「華夏」から出ていることになっている。

つまり羌族の存在はそれよりも古いということだ。
民族創設の神話の太古昔、有史以前まで遡っていけることになる。
まさに中国人がよくいう「中国悠久の歴史3000年」。少し箔をつけたくなったらそれを「5000年」と水増し(神話時代も網羅)する、その神話時代である。

そうして一部、黄帝の部族と融合して華夏族になっていったほかにも、
一部の羌族の一派は、中原から南下したり、西に進んだりして原住民と融合し、
シナ・チベット語系の諸民族であるチベット族、イ族、ナシ族、白族、ハニ族、リリ族、ラグ族、ジノ族などを形成するにいたる、ということらしい。




羌族の一派であったナシ族が、西安近くの誕生の地からどうやってヒマラヤの山奥にまでたどりつくかという歴史を追う前に、羌族の主流部隊のその後も追いたい。

華夏族に融合していった人々のほか、羌族は四川にも広がっていき、今の四川の西部に住み着く。
漢末の動乱で起こった東晋十六国の分裂時代には、成、前秦、夏、後涼、後趙などの地方政権を作った時代もあった。

唐末、羌族の一派である党項(タングート)羌人の拓跋思慕が夏州(内モンゴルと陝西の境の白城子)に「夏」を打ちたて、陝西、甘粛、寧夏、青海一帯のタングートを支配した。
これが宋末、チンギス・ハーンに滅ぼされるまで続いた所謂「西夏」王国である。

唐末から宋末まで、ということは延々と600年も続く超長期政権である。
朝鮮の李朝600年という長さもアジアではごく珍しいが、西夏もぶったまげる。

ちなみに「拓跋」姓といえば、北魏、隋、唐の王家であるアルタイ語系の鮮卑拓跋部のものだ。
なぜシナ・チベット語族のタングートが拓跋姓なのか、といぶかしく思い、調べたところ、どうやら直接の関係はないという説が有力らしい。

ただ単に西夏側が、拓跋部の名声にあやかりたくて勝手につけた可能性が高いという。
のちにその拓跋本家である唐王室から彼らの漢姓である「李」姓も賜り、それ以来李姓を名乗っている。

当初、タングートは四川の西部の山岳地帯を拠点にした部族だったが、チベット高原の吐蕃の度重なる侵入を受けて疲弊したため、唐王朝に請い、陝西、寧夏へ内遷したという。
唐の領土内に自分たちの居住地を賜るように願い出たというのだから、非常に興味深い。
西夏の首都の遺跡が誕生の地よりも遥かに東にある寧夏の銀川に残っているのもそういう事情らしい。

現在、西夏のタングート族の末裔といえるのではないか、といわれているのは、四川西部のアバ・チベット・チャン族自治区の羌族らしい。
今回の地震で一番の被害を受けたところである。

チャン族は文化的、言語的にもチベットに近く、抗議のじさつなども絶えないかなり敏感な場所でもあるので、
今回海外からの援助はおろか、中国国内からの援助もかなり厳しく規制されたというのことだが。

かれらの言語は、西夏文字によって残されているタングート語と比較的近いという。

チベット語アムド(現在の青海、四川、チベットの三角地帯)方言を話す遊牧民のことをタングートと呼ぶ場合もあり、
実際、古代のタングートの居住地域と、現在のチベット語アムド方言の話者が住む地域はほぼ重なっている。

一方で清代にいう「唐古特(タングート)」というのは、チベット、モンゴルを広く指したようだが、
これは西夏を作ったタングート族とは、厳密な意味では少し違うような気もする。




ウィキペディアより転載。アムドは麗江の北の地方。







どこもかしこも芋を洗うような人出。これでももう夜10時でっせ。
治安維持部隊の行進もその中を進む。こんだけの混雑だとそれも必要でしょうー。
お役目、ご苦労様ですー。



麗江名物土産。木彫りのプレート。
今は電気ドリルでジジジジっと掘っているが、図案は幾何学的でなかなかセンスがいい。
接写で撮影したいといったら、断られてしまったので、しかたなく遠巻きに。

うちにも帰国した友人から譲り受けた奴を飾っている。
何年もたった今頃になって、あれは麗江みやげだったのね、と判明した。

一瞬アフリカものかしら、と思うくらいにワイルドでアジアくさくない。
写真の上のほうに見える「福」の字のような、俗をてらったものもあるのですが。
まあ。それは俗な趣味の人も満足させるよろしきサービス精神ということで。





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麗江・ログ湖3、ログ湖の有名人・ジャシについて

2013年08月09日 04時19分39秒 | 雲南・麗江の旅
2日目、道連れの女の子と炭火焼きの食事をしていると、
偶然にも(よく考えたら、偶然でもないのだが)モソ族の有名人の一人に会ってしまった。

むつくけきプロレスラーのような巨体にロン毛、ふてぶてしい面構えの、どう見ても堅気には見えない兄ちゃんが、焼肉屋のあたりをうろうろしていた。
一目見たら、誰もが忘れないだろう、強烈な面構えだ。

座った焼肉屋の席の横にいたので、なんとなく雑談になると、
「何をしている人なの」
と聞くと、
職業は「用心棒」だと彼は答えた。
つまりは場所を取り仕切り、みかじめ料を徴収しているやくざさんである。
「盛り場に刃傷沙汰はつきものだからね。やっぱり俺みたいなのが、納めにいかないと、納まらないのさ」

恐れ多くも相場なんぞを聞くと、一店当たりから月数百元から1000元程度、里格には100軒ほどのお店があるから、数万元から10万元の収入になるということだ。
「あなた武術でもやっていたの?」と聞くと、
「おうさ。崇山少林寺の武僧だったさ」と勇ましい答え。
「もしかして兵役なんかも行ったことある?」
「おうさ。兵隊もやったし、ラマ修行もしたし、何でも経験しているよ」
ラ、ラマですか。。。。えらい生臭いラマもいたもんだ。。。


彼は盛り場の道脇の欄干に腰かけ、あちこちにぎょろぎょろりと睨みを利かせる。
「お勤めは毎日、何時まで?」
「夜12時までさ。そこから後はあちこちの娘っ子のところに走婚(夜這い)に行かないといけないからね」
と、モソ族男としての見事な模範回答を言い放ってくれた。


「あなたいくつよ。」
「俺か? 40過ぎさ」
「えええ。だって走婚って、30過ぎくらいになったら、もう落ち着いて結婚するんじゃないの?」
「はは。そりゃあ、もう動けなくなったら、そうなるさ。じたばたしようにももう体力がなくなるからね。
 それは個人差によるさ。俺様はここがまだまだ元気なんでね。あしからず」
と、ダイレクトに股間を指差す。
「あはは。それは恐れ入りました!」

そこに若い女の子がきゃあきゃあ言いながら割りこんでくる。
「あああ! 本当に走婚王子がいた!」
「本当に走婚王子なの? 今日も(夜這いに)行くの??」
「いっしょに写真撮らせてー!」
と、若い女子らが、いきなり彼の巨体をぺたぺたと触りまわしにくる。

じ、実はすでに観光に来た人たちの間では、「走婚王子」とあだ名がつき、ネットでは有名人らしいのだ。
。。。。そりゃああ、さっきみたいなトークを会う人ごとにしていれば、そういうあだ名もつくわいさ。。。。そういうことだったのねえええ。


  

ログ湖の有名人・ジャシ。

しかしさすがこの国の人たちは、好きなことをいう。
先ほどのべたべた用心棒を触りまわしていた中国人女子。
「王子っていうくらいだから、何人子供がいるのよ」
「2人だ」
「まあ。王子っていうくらいなのに、たった二人だけ? 名前負けしているじゃない、ふん」
と、捨て台詞を残し、そのまま去っていった。


。。。。それって、すんごい捨て台詞。まさに感情のポイ捨て。
それを受けた側が、どうなるか、まったく知ったこっちゃない、ってええことだねえええ。
記念写真までさんざんいっしょに撮っておいて。
私は横で見ていて、目が点になったわいさ。


しかしこちらの人はそれで一々傷ついたり、失礼だと感じたりしない、鋼鉄で完全武装した心を持っているから大丈夫。
場面はそのまま何事もなかったかのように流れていくのだ。


彼が胸にぶら下げているものは何か、と聞くと、嗅ぎタバコだという。
おおお。かのチベット人やモンゴル人がたしなむあれですな。

北方民族の町である北京でも民国時代以前までは皆、嗅ぎタバコがコミュニケーション・ツールだったという話は聞いたことがあった。
今の中国人男性がコミュニケーションのために初対面の相手にたばこを勧めるように、
嗅ぎタバコを親指の爪の上に1/3程度乗せて相手の鼻の先に差し出し、
「一つ、いかが?」
と勧める。

相手は、その親指の先に自分の顔を突き出し、片方の鼻の穴にずずううう、と吸い込み、
もう片方の鼻の穴でもずずううう、と吸い込み、勢いよくはっくっしょん、とくしゃみをし、
「けっこうなおタバコで」
と、いうのが、話のきっかけだった、と。


それだけ北京という町は、モンゴルなどの騎馬民族の風習も大量に根付いていた町だったということだ。
モソ族はチベット人の分派でもあるし、チベット仏教の文化が根付いており、
彼自身がラマ僧をしていたことがあるというところから来る嗜好なわけですな。

そんな話を連れの女子にしていると、「王子」はうんうん、と満足そうにうなずき、
「おぬし、なかなかやるのお」
といった風情で認めてくれた表情になった。
しばし満足。でへ。







彼は8つの言葉ができるという。
モソ語、中国語、チベット語、モンゴル語、プミ語、ペー語、サニ語・・・・ほかにも言った気がするが、忘れました。
でも漢字は一文字も読めないそうで、すべて耳学問なんだという。
ラマ修行をしていたからもちろんチベット語の読み書きの教養はあると思われる。

以前は普通の吸いたばこを1日に1箱半も吸っていたが、喉ががらがらになってしまったので、禁煙するために嗅ぎタバコに変えたという。
胸に下げている壷で1ヶ月以上ももち、一日に数回嗅ぐだけで満足できるそうだ。
値段も何壷も入るほどの量で10元程度。経済的にもやさしいらしい。



ネットで調べたら、「走婚王子」というのは、何人も出てくるのだが、お仁も出てきましたがなあ。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_5040710a0100bpzh.html

このブログの後半に彼の客桟に泊まった旅行記が出てくる。
彼の名前は6文字のものを紹介してくれたが、長すぎて私も覚えられなかった。
「扎西(ジャシ)でいいよ」
と彼はいい、上記の旅行記にもそう紹介されていた。

チベット系の名前としては、日本の太郎ひろしの如く、きわめて平凡でどこにでも転がっている名前だが。


「ジャシの家は非常に貧しく、そのために村から一番近いラマ廟である扎美寺に送り込まれた。
 8歳から18歳までジャシは10年間僧侶としての生活を送った。
 厳しい日々ではあったが、そこでチベット語の教養を身につけ、ほかのラマたちとチベットに旅したことで所謂『現代文明』に接した。

 その後、成人すると還俗し、『馬幇』(馬キャラバン)を5年率いたり、山に入って冬虫夏草を掘り、売ったこともある。
 それでも貧困から脱することはできず、上海や広東に行ったこともある。
(旅行記の主は婉曲にそう書いているが、つまりは出稼ぎに行ったということだろう)

 (その後、故郷に帰ってきて)ジャシは中国語ができるので、現地でガイドになった。
 泊まる場所のないという客は、自分の家に泊め、食事とベッドを提供した。
 こうして彼の名声は次第に高くなり、ログ湖を紹介する書籍、ウェブサイトにはほとんど彼の名前が載り、
 彼を慕ってくる人が増えると、ジャシは自分の二階建ての客桟を持つようになった」。






前述のブログより転載。
20代の頃の写真でしょうかね。


この旅行記ブログは2008年に書かれたものだが、
昨日私たちが出会ったジャシは、自分のことを宿の主人ではなく、用心棒だと名乗った。
。。。。。。まったく、酔狂なお仁じゃ。


あとからわかったことだが、彼の宿兼焼肉屋は私たちが座った席の隣の店。
彼が呼び込みの声をかけてくれたのを私たちは無視し、横の店に座ったということらしい。
彼の店は、外の席がすべて埋まっていたから。
(その時点では、何の認識もなしの私ら)


どうやら彼の用心棒としてのみかじめ料の徴収というのは、
彼がこの村の発展のためにしてきた貢献の結果として、この村の人たちが受け入れていることらしい。


ほかのサイトには、
「里格(リゴ)の今の発展は、ジャシによるところが大きい。
 現地の人は、ジャシなしに今の里格はない、という人もいる」
とも書かれていたことからも、そうなのだろう、と見当をつけることができる。



旅行記が書かれた頃は、自らがガイドとなって車も運転して旅行客を案内していたらしいが、
今は毎晩、欄干の上に座ってたばこを吸っている。
用心棒として、みかじめ料だけで毎月10万元近い収入になるということだろう。
欄干に陣取っているのは、もちろんそれだけのためではなく、町の中を通る美女をくまなく物色して夜這いをかける相手を決めるためでもあるらしいのだが。


巨漢にすごい殺気を帯びた彼が顔を出せば、大抵の酔っ払いはおとなしくなるだろう。
彼にとって用心棒という家業はたいした負担でもないにちがいない。

さらに客桟も経営し、まさにリゴの「名士」である。
一つまたログ湖観光で押さえるべきポイントをクリアできたみたいで、私は大いに満足したのだった。





ラマ姿のジャシ。これも20代のときの写真でしょうかねー。
めっさ男前。




ログ湖へ来る際には、束河から往復のバス・チケットを買った。
復路は日程を決めていなかったので、予約をしていなかったが、ついた翌日の朝、旅行社から電話がかかってきた。

明日の便には乗るか、と聞くので、まだ決めていないが、もし晩に電話しても空きがあれば乗せてくれるか、と聞くと、
空きがあればもちろんOKだ、などという会話を交わした。


夜になり、もう1日滞在する必要性も感じなくなっていたので、旅行社に電話した。
すると、残念ながら翌日の便は満席で取ることができず、仕方ないので2日後の便になってしまった。

「2日後の便は、来たときと同じ運転手かしら」
と私は聞いた。

またちょいワル運転手の車に乗ることができたら、麗江でのホテルの予約もお願いできるのではないかしら、ともくろんでいたのだ。
何しろ、世間ではまだ端午の節句の連休が続いている。
ここリゴでも連日部屋が満室で寝る場所の確保にもかなり神経を使い、苦労したのだ。
ホテルの予約なしで麗江に戻って、また路頭に迷うのではないか、と不安だった。

今回、ちょいワル運転手さんに紹介してもらったリゴのホテルは快適だった。
おくさんと子供と今は、麗江に定住しているという彼なら、いい伝手があって、
どこもかしこも満室、という絶望的な状態になっても、なんとかどこかに私をねじ込んでくれるのではないかしら、と期待していたのだ。


すると、相手は
「どうしたんだ。彼はあなたによくしてくれたか」
と妙なことを聞く。


「ええ。よくしてくれたわ。客桟も予約してくれたし。彼が予約してくれなかったら、私は路頭に迷うところだったわ。」
「彼に客桟を紹介してもらったということは、彼はあなたに走婚(夜這い)をかけたのではないでしょうね」
と、突拍子もないことを言い出す。


声の主は20代の男性と思しき声質。
ちょいワル運転手さんには前科があるのだろうか。


そして声の主は、なまりの少ない標準語、
そこそこの教育を受けた人間の話す言葉遣いから察するに大学を出た漢族、おそらくちょいワル運転手さんの上司に当たるキャリア組なのだろう。


この数日の観察で出した結論。
それは、モソ男はスケこましにすべてのアイデンティティと人生の真髄をかけて挑んでいるため、
女性を落とすテクニックと成功率にかけては、並みの漢族男は足元にも及ばないくらいレベルが高いらしいということだ。


かくしてモソ男と接する漢族の若い男は、気も狂わんばかりの嫉妬の鬼のようになっているということではないのだろうか。




ロゴ湖のほとり。


「何人で予約するのか」
と声の主は、さらに問いかけてくる。
「一人よ」
「一人でロゴ湖に遊びに行ったのか」
「そうよ」
「走婚(夜這い)に来たのではないだろうな」
と、さらにわけのわからないことをいう。



このIT時代、わざわざこんな辺鄙な世界の果てまで来て夜這いを体験しにこなくたって、都会のど真ん中でも別に同じことはいくらでもできるんですけど。
自分と価値観や生活観、衛生観念の似た魅力的な相手と、と思いつつ、あきれて答える。

「わけわからないことをいうわね。意味がわからないんですけど」
すると、長い長い沈黙。

「ウェイ(もしもし)」
「ああ。聞いているよ」
「とにかくもしこの前の運転手なら携帯番号はわかるからもうメッセージは送ってくれなくてもいいけど、
 ほかの運転手なら連絡が取れないまま置いていかれたら困るから、メッセージで電話番号を送ってね」
「それはもちろんだ」

翌朝、また旅行社の番号でかの声の主から電話があった。
すでに予約は済んでいるはずだから、はっきり言って無用の電話である。
「いつ麗江に帰るのだ」
「だから今朝の便はもうないんでしょう。乗せてくれないから仕方ないから明日の便を予約したじゃない。
 今日帰れないからおかげでホテルも追い出されて、新しいところを探す羽目になって大変だったわよ」

「かわいそうな目に遭っているんだな。」
「そうよ。乗せてくれないから」
「早めに予約しないからあなたが悪い」
「それはわかっているから、仕方ないから明日の便にしているじゃない」
「夜のキャンプファイヤーの踊りでモソのイケメンでも見つけて泊めてもらえば、宿も探す必要はないじゃないか」
「はあああ? わけわからないこと言わないでよ」
「・・・・俺に甘えた声を出すのはやめてくれ」
もおおおおお、目が点なんですけど???? 誰が甘えた声出しているのよ???


つまり以上の会話をわざわざ書きたてた理由は、何が言いたかったかというと。
声の主は私に会ったこともなければ、どういう容姿なのかも年齢も国籍も知らないのに、
一人旅の女性、ばあさんの声でもなさそうというだけでもう妄想で頭が爆発しそうになり、モソ男どもに嫉妬して狂わんばかりになり、
私の行動が気になってストーカーをかけてきているわけである。



これって、相当ヤキが回っていませんか???




  

ログ湖。
写真ではわかりづらいが、白い花びらが浮かんでいるのがわかるだろうか。
水中の水草が白い花を咲かせている。
高原独特の高山植物だろうか。。。なんか貴重なものなのではないか、という気がする。。。


ということは、本来は保守的(というより、性を取引の商品として後生大事にしまいこみ、出し惜しみしてなかなか与えないということ)な漢族女性であっても、
モソ男の手練手管にかかると、コロコロと次から次へと落ちて行くという事実があるということなのだろう。
旅先の気楽さも手伝って。

モソの夜這いの基本は秘密の守り方の段取りにあるので、人に知られることもなく、都会に戻った後の生活には一切影響しない。
そして漢人男には、そんな訓練を受けた経験がないし、
保守的な中原の社会概念では下手すると相手に告訴されたり、牢屋に入ったりしなければならない危険もある。

だからやりたい放題のモソ男どもの「専横」をみすみす指をくわえて見ているしかない。
そのマグマのはけ口が、電話の向こうの通りすがりの旅行者でしかない私にも向けられたというわけか??


・・・・・やっぱり迷惑すぎる。。。。


その後、バスの情報が送られてきたが、運転手の電話番号は先日のちょいワル運転手のものではなかった。
上司としてシフトを組む権限のある20代男が、
私を彼といっしょの車にしないためにわざとはずしたのではないか、というのは、勘ぐりすぎだろうか。

連休中で麗江のホテルが取れるかどうかも心配な私としては、チャキチャキと段取りを取ってくれるちょいワル運転手さんを当てにしていたのだ。


もおおお。男の嫉妬、思いっきり迷惑なんですけど。




湖岸。
サイクリングを楽しんだ人たちの集団。
この辺りは、レンタサイクルもレンタバイクも充実している。



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麗江・ログ湖2、リゴに到着

2013年08月08日 14時00分56秒 | 雲南・麗江の旅
ちょいワル兄ちゃんの夜這い談話でバス中が、やいのやいのと盛り上がっていると、時間が過ぎていくのも忘れる。
あっという間にロゴ湖に到着した。

観光客にとって、最もポピュラーなのは、里格(リゴ)というロゴ湖の西側の湖畔。


危ないところだった。すでに端午の節句の連休は始まっており、
何の情報もろくに集めることができずにそのまま来てしまったせいで、ホテルの予約もできていなかった。
何しろ北京を出発する時は、ここに来ようという発想さえなかったのだから。
道中、旅仲間が頻繁に口にするのを聞いて、そうか、行ってみるべ、と突発的に決めたことだった。

同乗の学生らが、
「宿は空いているかな」
とちょいワル運転手さんに聞いた。
彼は、リゴにある知り合いのホテルに電話してくれるといったが、聞いた当の学生らは、ぐずぐずと返事を迷っていた。

こういう運転手からの紹介は、彼自身のマージンが入っていることが多く、自分で飛び入りで探した方が安いのではないか、と疑ったのではないだろうか。
確かに彼のいう1部屋200元、と値段はまったく安くない。
麗江の大研城の古民家ホテルが130元程度だったことを思うと。

しかし何しろ端午の節句の連休はもう始まっているのだ。
それが相場なんでしょう、というのも想像できたので、路頭に迷うリスクを考えると、私はそのまま予約を取ってもらうようお願いした。

現地につくと案の定、同じバスに乗った人たちでさえ、運転手とのコミュニケーションが遅れたおかげで数時間の差で部屋をとれず。

ホテルに到着して荷物を下ろすと、ホテルのロビーには、空き部屋を求めて次々に人が入ってくるが皆、満室だと断られている。
その様子を見て、あさっての分も予約しておいた。
これは本気で取れなくなると思ったから。

それにしてもやっぱり高地だああ。
ちょっと坂道や階段を上っただけでぜえぜえいう。
私がへたれすぎるのもあるにしても。がは。
いや。本当に息が苦しいです。



  

ついにやってきました!
世界の秘境(かつての???)、ログ湖ー!


ログ湖2日目、湖畔をぶらぶら歩いていると、向こうから歩いてくる女の子に
「もしかしてK2(束河のユースホステル)にいました?」
と話しかけられた。

「ええ? そうそう。」
「座っている時ににこりと笑いかけてくれたじゃないですか。覚えていないかもしれないけど・・・」
・・・・本当に覚えていない。でも聞くと、彼女も一人だという。


今回の旅でしみじみと感じたことの一つは、
こちらの若者もバックパックを始めるようになったが、一人旅が圧倒的に少ないということだ。

欧米や日本のバックパッカーは一人が主流だが、そこがぜんぜん違う。
特に女子の一人旅は圧倒的に少ない。
それだけ日本人が平和ぼけしているとも言えるのかもしれないが。



とにかく学生時代のバックパッカー時代はすぐに知り合いだらけになったが、
今回の孤独さは私がおばさんになったことだけでは説明できない要因がここにあると残念に思っていたところだったので、
ここで出会ったが百年目とばかりに彼女の腕に絡みつき、
「夕食、いっしょに食べまひょ!」
とお誘い申した。

卒業旅行で来ているという彼女は、江蘇の塩州の出身。
就職先は蘇州のIT企業に決まっており、7月から出勤し始める前の最後の旅行だそうだ。
在学中は家庭教師、携成旅行ネットでのシステム管理などのバイトをし、そういうお金が旅行の資金になっているという。
今時の大学生は、最後の1年くらいは、インターンでほとんど働きづめっぽい。

ログ湖名物は、子豚の丸焼きなどのバーベキュー。
道沿いにはバーベキュー屋さんが軒を連ねる。
彼女を誘って焼肉屋さんの物色に出かける。



   

名物の子豚の丸焼き。



2日目の晩は、道連れ女子と二人でバーベキューを食べたが、
翌日、彼女が束河で知り合ったという20過ぎの広東人男子3人組を紹介され、皆で食事をすることにした。

元々は3人、それぞれに単独行動しており、道中でいっしょになってこの数日は、行動をともにしているようだった。
この3人で印象的だったのは、「さすが広東人」と思わせる、他省の若者にはない特徴だ。



1、  3人とも中卒。中卒の子がバックパックに出ているケースはごく稀で正直、驚いた。
 いくらバックパック(つまりは貧乏旅行)といえどもやはり無駄金がかかるわけで、結婚資金の貯金や家族への仕送りもせず、
 終わってしまえば、何も手元に残らない旅行という贅沢にお金をかけようという酔狂な人間は、
 やはり大学程度の教育レベルがあり、旅という経験を知的財産として、今後の人生に役立てることのできる程度の基礎を持っている人たちがほとんど。

 学費が無料だった90年代以前までと違い、今時の大学の学費は貧乏な地方の農民であれば、一族郎党のお金をかき集めても、
 数年しか学費を供給できず、やむなく中退する子も多いくらい高いのだ。

 だからこそ大学進学は、比較的裕福な家庭の子が多く、そのために旅代も親からもらうこともできる。
 または大学生は家庭教師やデスクワークのアルバイトで効率よく稼ぐことができるために、旅行資金を貯めることができる。


2、中卒ながら、容姿が極めて洗練されている。そのへんの大卒の子たちと遜色ない垢抜けた雰囲気、ノーブルないでたちをしている。
 (写真がなくて残念。すんません)


3、  3人のうち、2人は家族、または親戚から楽な仕事の恩恵を受けている。
 3人のうち、一人は広州市、一人は東完市、一人はあまり判別のつかない広東の地方都市の名前を挙げた。
 
 その中で広州市の子が最も秀逸。
 中学を卒業してから一度も就職したことがなく、家が多くの不動産を持ち、家主業をしているので、その家業手伝いだそうだ。 
 しかしほぼ「オタク」。
 家でゲームに熱中していることが多いらしい。
 今回の資金も当然、家業手伝いによるお小遣いで来ている。

 東完の子は、運転手などの職業をしてきたが、すべて親戚の商売の手伝いであり、
 つまりは一族の一員として職にありついており、今後もおそらく親戚筋が世話してくれるから、
 食いあぶれたり、きつくて割に合わない仕事に就かなければいけないことはないだろうと思われる。

 最後の一人は、家族や親戚のコネに関する話は出てこなかったが、
 おそらく地元の人間として、就職先にはあまり困らず、家を買う資金や結婚資金を貯める必要もなく、
 稼いだお金を旅行に投入することができるのだと思われる。彼はこれからラサまでヒッチハイクで行きたいそうだ。


この3人を見て、つくづく感慨深かった。
彼らは畸形なほど競争が激しくなってしまった高等教育を受ける機会を完全に放棄してしまっているのだなあ、と。

大学に行くのは、いい人生、いい就職先を得るためであり、
彼らは一族、または地縁の中でそれを解決してしまっているから、その必要がない。

中国の二大工場地帯といえば、珠江デルタと長江デルタ。

少なくとも中国全土の、いや全世界のかなりの部分の生産がここに集まっているのだから、富の集積があって当然だ。
以前にも温州の若者に電車で出会ったことがあったが、彼らも非常に洗練された雰囲気を出しながら皆、高卒だった。
曰くは、温州では高校を卒業すれば充分であり、あとは家業の手伝いを始め、商売に精を出し始める、とのこと。




ロゴ湖のほとり。


それにしても。
特に広州のオタクくんの場合などは。

中卒から引きこもり、家業手伝いとなると、もはや家業への依存なしの自分の存在などはありえないわけで、
当然婚姻も家族に意見の制限を受けるだろうし、まさにマルグリット・デュラスの『ラマン』の世界だべええ。
そんなことは別に他人の人生でどうでもいいことなのだが。
余計なお世話だわさ。



広州といえば印象深いのは、12年に全土で吹き荒れたはんにち「おさんぽ」の際、
ジャージの制服姿の小中学生たちが、「理性あるあいこくを」
というプラカードを掲げて暴力に反対する勇気ある声を多数上げたことだ。

頭に血の上った連中に抗議の声を上げることは、自分も暴力の対象になって袋叩きになる可能性だってあるのだ。
誰にでもできることではない。


事実、西安では頭を強打されて未だに意識不明のままの犠牲者だっている。

カントン語も話さず、市内交通のプリペイドカードさえ持たず、現金で地下鉄に並ぶような、
あきらかに当日に現地入りしたとおぼしき「よそ者」ども。
もし1ヶ月でも本当に市内で暮らしているなら、公共交通のプリペイド・カードは絶対に持っているはずだ。
それすらも持っていないというのは、当日にどこからか、運ばれてきた連中に決まっている。

自分たちの町を破壊し、暴れまくっていることに無言の抗議の意を込めて、
彼らが犯した狼藉に対し、子供たちが無言で黙々と掃除を進めた。
投げ散らかされたペットボトルなどのごみを拾い、壊された花壇の鉢を塵取りで掃き取った。


そこに「市民」の成立した姿を見、さすが広州はレベル高いわ、と感慨深かった。
一部の知識ある人たちだけが、意識が高いのではなく、一般市民に至るまでのレベルの高さである。
小中学生までが、自主的に抗議の、沈黙の清掃を始めるような。


同じように激しい「おさんぽ」があった西安などでは、
たとえば「Diao頭哥」(Uターン兄ちゃん、
「前方で日系車をはかい中、日系車はUターンされたし」という看板を持って立ち、多くの車主に注意を喚起した兄ちゃん)などの
個別に英雄視された人は出現したが、広州のような群集的行動、しかも子供たちの行動という現象には至っていない。


そういう意味では、やはり私は彼らに一目をおき、ほかの地方の人とは違う見方で見ている。


  

ロゴ湖のほとり、リゴの街並み。




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麗江・ログ湖1、モソ族の村へ

2013年08月06日 11時36分15秒 | 雲南・麗江の旅
束河4日目、翻訳原稿もほぼ終わりに近づき、白沙も今日の半日だけで大体見学が終わってしまった。
これ以上、ここでやることを思いつかないので、そろそろ移動することにした。

次の目的地は、モソ族のいるロゴ湖ですかね。
ここは行っておく価値があるでしょう。
かの有名な通い婚の風習を続けるモソ族の暮らすエリアである。

20年前の学生時代、当時はまだロゴ湖エリアは、あまりにも未開で観光の交通手段がなく、行き着くことなく帰ってきた。
今はガンガンと観光路線バスが走っており、ロゴ湖のまわりはモソ族の経営するホテルやレストランやバーで大賑わいということなので、ぜひ20年前のリベンジなのだ。

ちょうどユースホステルからバスが出るというので、乗ることにした。
往復160元。復路は1週間以内に電話から予約すれば、好きなときに帰ることができるという。
往復で買った方が割引になるということで、買うことにした。

バスに乗って運転手に雑談を仕向けると、なんとラッキーなことに運転手もモソ族だという。
39歳、松田優作っぽいワルワルなムードを出す伊達男風じゃ。
道中、自らの「夜這い奮闘人生」をがんがんと話してくれ、車内はやんややんやとこれを煽り立てて、拍手喝さい。
バスの大半を占めたおぼこい漢族の学生らの目を白黒させたのだった。


モソ族はチベット系なので(ナシ族の一派。ナシ族もチベット族もともに古代羌族の出だからということ)、チベット仏教を信仰し、家族に男の子が数人いれば、必ず一人をラマにするという。
戦前のモンゴルなどの記録を読むとそういう話が良く出てくるが、
現代(少なくともアラフォーの運転手さんの小さいころ)にも、しかもチベットの話ではなく、それ以外の場所にもそういう風習があったと聞くと、ちょっと感動。

特にこの数年、規制が厳しくて外国人のチベットへの接触はそんなに気軽ではない。
旅行に行くにもいろいろ制限がつくし、安くもないらしい。
そんな折にかろうじてこんな「チャラい」観光地でその文化の痕跡にでも触れると、感慨深いものを感じる。

兄弟の中で自らラマになりたい、と立候補する人がいなければ、モソ族の中では家長に当たる祖母が指名することになるそうだ。
運転手のちょいワルさんはこれから待ち受けている華やかな夜這い人生を思うと、宦官のように一生女性を抱くことなく終わる人生など真っ平ごめん、と、
祖母から指名されないかどうか、戦々恐々としていたいう。

幸いにもお兄さんが自分が行くしかない、と自ら犠牲になることを買って出てくれたので、彼はほっと胸をなでおろした。
その時、彼は15歳。お兄さんはひとつ上の16歳。


   

 モソ族の(元??)色男、運転手さん。


バスの中では、ちょいワル運転手さんによる独壇場が続く。
彼の「夜這いネタ」に皆が、時々合いの手を入れつつ、どんどん話を引き出す。

本格的に運転手さんの「夜這い人生」が始まったのは意外にも遅く、22歳からだったという。
兵役に行き、帰ってきたのが22歳だったからだ。
「夜這いを始めたばかりの若者は、それは苦労の多い、大変な思いをするもんだ」。

年上の若者に「弟子入り」し、夜這いのいろはを教わる。
「今の若者は、甘いね。携帯やQQや、いろいろなツールがあるから、
俺たちがしていたような待ち合わせのための合図の段取りの仕方など、そういう技術がなくてもやっていける」。
と、アナログ時代にぶいぶい言わせた夜這いの達人としては、この安易に便利な世の中が納得いかないらしい。

「それから大切なのが、犬を手なずけることさ。
 わんわん吠えられて、家の人たちが全員起きてきたら、もう一巻の終わりだからな。
 そこで夜這い人生はもう終わりよ」。

つまりまずは日中に二人でこっそりと這っていく時間、門を開ける際の合図などを決める。
せっかくそこまで段取りしたのに、男が闇に紛れて忍んでいった時に犬に吠えられてはならないのだ。

「夜這い」は、あくまでも「夜這い」でなければならず、もし家族が起きてきて見つかってしまえば、
そこで「結婚」が成立し、女側の祖母が筆頭となり、荘厳な「誓い」の儀式がただちに始まってしまい、そこで「夜這い人生」は終了。
永遠の愛を誓わされ、妻以外の女性とは、交際できなくなる。
だから本当に添い遂げたい相手を見定めるまでは、決して犬にわんわん吠えられてはならないのだ。

犬を手なずけるために日ごろからえさをあげたり、かわいがったりして、
吠えられないようにするという「下準備」も「夜這いテクニック」の中に入っており、
そういうことは、兄貴分が弟分に手取り足取り指導していくのが、民族の伝統なのだそうだ。

「あなたもその後、弟子を取ったの?」と聞くと、
「おう。とったわいさ。皆、なかなかの腕に育ったぞ」。



    

ログ湖への道中のスピンカーブ、つづら折りの坂道。
バスはこのスポットでとまって、皆が写真撮影をするが、日本人の私にとっては、日本にはこの程度のつづら折りはいくらでもあるので、珍しくなーい。



それから充分に訓練を積んで一人前の「夜這いかけ」に成長した彼は、
「俺は最盛期には一晩で17人も夜這いを梯子したもんさ。全員、とびっきりの美人だ」。

「夜這いは、本当に大変な仕事さ。
家族が寝静まる夜中の1-2時まで待ってやっと這って行き、家族が起き出す夜明け前までに抜け出さないといけない。へとへとになるよ」

「ある日、夜這いであまりにも消耗して(笑!)、あっと気がついたら、もう日が高くなっていた。
家族はもちろん全員起きているから、女の子の部屋から出ようにも出られない。
そのうち尿意を催してどうしようもなくなってくるし、肉体の限界さ。
女の子に瓶を何本も持ってきてもらって、やっと用が足せた。夜になって抜け出す時には、こけて足までくじいて数週間寝て過ごす羽目になったよ」
と、夜這いは体を張った、一筋縄では行かない、体力も気力も技術も要求される大変なお仕事なのだ。

「ある弟分なんか悲惨さ。
犬の手なずけが甘くて、わんわん吠えられた。女の家族はその晩は何知らぬ顔で黙認したが、
次の日に地面に灰を巻いて足跡で証拠をつかみ、そのまま儀式を強行されて、結婚させられた。
技術の詰めが甘いとそういう目に遭うのさ」

「粋な夜這いというのは、誰にも二人の関係を嗅ぎ取らせないようにすることさ。
中には自分の寝た相手を公言する馬鹿男もいるが、そういうのはみっともないね。」
と、「夜這い」の美意識、プライド、あるべき理想の姿、といろいろと哲学があるのねええ。

どうやらこのお仁が並々ならぬ「ワル」オーラむんむんなのは、このような壮絶な「夜這い修行」で鍛え抜いたためらしい。
道理で漢族と比べ、「スケこましたるでええ」という雰囲気をムンムンに出しているわけだ。
手練手管の権化の風情が全面に出ているのは、厳しい訓練の末に培われたものだったのね。
格闘家、武道家が佇まいからして一般人と違うのと同じように??
モソ男たち、おそるべしだあああ。
参りましたー。


  

運転手さんの夜這い人生談義で盛り上がる社内。


モソ族程度のフェロモンの出し方は、ラテン諸国なら屁にもならん程度のものかもしれないが、
何しろここは中国である。

草食民族と肉食民族では、やはりタンパク質の摂取量に比例してフェロモンの強さが違う気がするのは、私だけだろうか。
しかも儒教の影響のある国は、愛の表現が動物的であることを忌むので、余計にモソ族の「ラテン」な乗りが際立つ。


閑話休題。
ちょいワル運転手さんの夜這い人生に話を戻そう。

そんなふらふらと夜這い人生を満喫していたちょいワル運転手さんもついにこの人、と決めた女性ができる。
2歳年上、この人に決めようか、とおぼろ気ながら考えてはいたが、何しろ二人ともまだ若い。
彼もこっそりあちこちの夜這いをかけ、彼女もあちこちの男を受け入れて、互いにそれが重なると、信頼関係が崩れ、結局は別れることになった。

どうやら実は本気で惚れていたらしく、この傷はかなり深かったようだ。
「それ以来、もう二度とモソ族の女とは付き合わない、と誓った」。
「漢人は俺たちをフリー・セックスだと勘違いしているが、俺たちの男女関係だって、恋愛感情の上にしか成り立っていない。それを間違えないでほしい」

・・・・って。
それは私が、よく日本女は皆AV女優みたいにやり放題だと思って近づいてくる馬鹿中国人男どもに向かって言いたいのと同じセリフだああ。

つまり日本も夜這い文化が根底にあるので、彼らの行動の意味や心理はよくわかるし、
中国人(漢人)がAV大国・日本として、描いている幻想の種類は、モソ族に対して抱いているイメージともよく似ているということだ。


「運転手さん、子供は何人?」と学生の一人が質問。
「一人さ。もう40近いのに、子供が一人しかいないのは、あれから愛の迷走を続けたからだ」
「あの別れ以来、1-2年はうまくいくのだが、3年目になると、どうしても立ち行かなくなる」。

「じゃあ、子供のお母さんとは、どういう関係?」
「女房は君たちと同じツーリストだったんだよ。四川出身の漢族さ。
 ログ湖に遊びに来たところを走婚(夜這い)をかけ、引き止めて何日かいっしょにいた。
 その後、彼女は帰っていったが、十数日ほどすると戻ってきたんだ。
 戻ってきたということは、何か面倒なことが起こったに決まっているから、これはまずい、と思ったが、案の定妊娠したという。」

彼女は当時まだ20歳そこそこで世間のことを何もわからないおぼこい女の子だったからどうしていいかわからず、途方にくれてやってきた。
彼女のお姉さんは二人の仲に断固大反対だというので、お姉さんをログ湖に招き、一族郎党に引き合わせ、心づくしのもてなしで迎えた。
それでもお姉さんはなお大反対。麗江に行き、子供を下ろすことになった。

病院で手術の順番を待っている時、彼ははたと強い衝動に駆られた。
自分たち仏教徒は家畜を殺すときでさえ、念仏を唱えて殺生をした罪深さを償うために供養するのに、ましてやこれは人間の子であり、自分の子供だ。
いかんいかん、何かが間違っている、と。
そこで手術を中止、四川にとび、あちらの両親に会いにいき、もう一度説得に当たり、ようやく結婚を許してもらえた、ということだった。


  

窓の外は、険しい山道が続く。



今、彼はログ湖と麗江をバスで往復する仕事をし、おくさんと子供を麗江に住まわせている。
本来、モソ族は男女ともに籍を入れることはなく、愛という感情の上のみに成立した男女関係を誇りにするそうだが、
漢族であるおくさんは、当然のこと
「何の名分もないなんて」
と、悲しそうにするので、今は入籍しているという。

左手の薬指には、キラキラした金の指輪がまぶしい。
同車の漢族学生らに「運転手さん、お金持ちねえ」と、からかわれていた。
身に着けるものに本物の貴金属にこだわる習慣は、日本には今時あまりないので、面白かった。

そんな彼の今の一番の心配事は、3歳の息子のことだ。
「麗江で漢族の中で育てば、走婚(夜這い)のできないでくの坊になっちまう」

モソ族にとって夜這い技術のない男というのは、言葉をしゃべることのできない人間のようなものだということなのだろう。
これはまずい、と本気で案じているのだ。

子供の民族登録は、両親のどちらの民族でも選べるが、彼は当然のこと、息子をモソ族として育てたいと思っているようだ。


たとえば、日本人のお家芸といえば、なんと言っても一糸乱れぬ阿吽の呼吸で紡いでいくチームワーク、団体行動だが、
これは物心がついた時からの長年の厳しい鍛錬により培われるものであり、
成人してからいきなり訓練を始めても一朝一夕に習得できるものではない。

だから大人になってから日本に来た外国人は、
最後までなかなかそのチームワークの一員になれないし、
子供のころやってきた外国人もこっぴどく「いじめ」という洗礼を受けつつ、その技術を習得していくことを強いられる。

それと同じように、おそらく彼らの夜這いの技術も小さい頃から訓練していかないと、身につくものではないということなのだろう。

バスに乗ったとたん、ログ湖につく前から、いきなり濃厚なモソ族の話を聞くことができ、大満足であった。





出発の朝まで激しい雨が降っていた。
道中はそのせいで土砂崩れであちこち道がふさがれており、ごろごろと落ちている岩をよけつつ、踏みしめつつ進む。
道路脇も雨で崩れてきた石ころだらけ。




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麗江・白沙1、あらたなフロンティア

2013年08月05日 12時17分56秒 | 雲南・麗江の旅
束河3日目。
持ち込んだ4本の原稿のうち、昨日やっとこさ2本を送り出した。
今日は残りの2本をなんとかやってしまいたい。
昨日あたりから昼はネットのつながりがあまりよくない。
どうやらユースホステル全体の容量自体があまり大きくないのに、大勢の人で共有しているかららしい。
でも夜になると、またよくなってくるので、これは昼間の間にオフラインでできるところまで原稿を仕上げ、夜にオンラインでしかできないことを残していくしかない。

今日、2本の原稿がすべて終われば、やっと完全フリーになれる!
今日は午後、白沙に行ってみたい。
束河から6kmほどの距離にあり、欧米人らはそこにいるらしい。
彼らはテーマパーク化した大研城(つまり、いわゆる麗江)にはもはや寄り付かず、自分たちだけの楽園を見つけ、そこに溜まっているらしいのだ。

午後になり、まだ終わっていないが、いいかげん翻訳も集中力が切れてきたので、
夜仕事をすることにして、せっかくなので、観光に出かけてくる。
前から予定していた白沙村へ。


バス亭をあちこち聞きながら探し当て、ローカルバスに揺られること4-5駅分。
あっという間についてしまった。

束河からはレンタサイクルで行く人が多いが、ひとつはレンタサイクルは1日20元、バスなら往復2元の費用の差、
それと自転車に乗ると、日焼けしまくること、その対策の装備に自信がないこと、
フリルの広がるマキシ丈のスカートをはいているので、チェーンに絶対巻き込みをやらかすことが予想できること、などを考えて私はバスにした。

  

地元のバスの中。
民族衣装を着たナシ族のおばあちゃんもいまっさ。


  

外は田園風景

大研城ができる前、白沙はかつてナシ族の都が置かれていた時期もあるという。
詳しいことは、また後から歴史篇で見ていきたいが。。。

白沙に入ると、客桟などはまだ建設中で、長期滞在の場所はみつからなかった。
だからこちらに移ってくるというプランは中止。
あまりにも「秘境」すぎて、あまり人がいないので、これまた寂しすぎる。

しかしまあ。あちこちで一斉にカフェ、バー、客桟を内装しまくっており、
まるで統一オープン日にでも合わせるのではないか、と思うくらい建設中、内装中の店が多かった。
これは半年から1年くらいであっという間に束河の「汚染度」にはなるな、という匂いがむんむん。




町の入口にある門。象徴的建築ですかね。








なんだか、20年前の大理の町中を思い出させるような、素朴な土産物露店。




すでにオープンしているバー。







一階だけオープンし、2階がまだ工事中のカフェ。




こちらも準備中。





開発ラッシュの合わせ、民家物件の張り紙がたくさんありまっさ。
一旗揚げようというよそ者が、こういうところで商売を始めるのでしょうな。




これも。




町の中を歩いてみると、あちこちで新しい建物をたてておりまっす。
これは自分で住むというよりも、テナントとして貸し出すためのものでしょうな。


【2018年1月追記】
2017年に白沙を旅された記事があります。

【雲南散歩2017】麗江古城からバスで行く「白沙鎮」のお粥的な味わい

おお、あの時の白沙がこんな風に発展したんだー、
ゴージャスなホテル、泊まってみたいー! とワクワクしてしまいました。



************************************


一通り、ぐるりと歩くと、白沙は見るところもなくなってしまった。
1-2時間ほどぶらぶらし、ぼちぼち束河に引き返すことにする。

この数日、座ってばかりな上に脂っこい中華ばかりで少し気持ち悪いので、少し運動のために歩くことにした。
バス路線に沿って歩き、疲れたら、バスに乗ろうという考えで。





すると、畑の中はあちこち建築中の家だらけ。
工事の人に何を立てているのか、と聞いた。




ベーシック・スタイルは、正面三間の2階建て。

このおじゃれたカーテンの感じなどは、如何にも都会からの移住者風。
地元の人の家ではない、という匂いがぷんぷん。
北京か上海あたりからの移住者ではないのだろうか。




これで建築費はいくらなのか、と聞くと、大体20万元くらいという。
それを10年、20年単位で貸し出すのだという。
こちらは土地の売買はできないので、あくまでも「貸し出し」ながら、数十年という長期。





白沙村からあまり離れていない範囲のところの新築が一番多く、少し遠くに離れると、もうさすがにない。
ということは、やはり客桟にする目的が多いらしい。
今のところ、値段は大体年間5万元くらい、最低10年からというパターンですって。
つまり貸す側は、なんとか20万元をあちこちから工面して用意することができれば、50万元を手に入れることができるというわけだ。

このにわかな一斉ブームは、いったいどういうことだろうか。







景気よくでっかい建物立てておりますなああ。





こちらも玄関がすでに出来上がっている。
立派な構えじゃ。




テナント募集の文字。



地元の人に聞いたところ、客桟(民宿)として想定しているものが多いという。
なぜこんな辺鄙な田んぼの中に、と思うが、確かにわかる気もする。

世界遺産であり、目玉の大研城のキャパがもう一杯一杯なのは事実だ。
わずか2㎞四方程度の小さな城に13億人の中国人が殺到するのだから。

大研城内の古民家を改造した客桟は、絶対数が少なく、客室数も少なく、大型バスも乗り付けることができない。
ツアーで来ているような中国人団体は、どうやら様子を見ていると、古城の周辺の普通の市街地のビルのホテルに泊まっているようだ。
城内の客桟では、多くの客室を一気に確保するのが難しく、割引もないのだろう。

しかしいくら安いツアーだからといって麗江に観光に来ているのに、ビルのホテルに泊まるのは、いくらなんでも味気ない。
というわけで、こういうニーズも出てきたのではないだろうか。

縁もゆかりもないただの田んぼの中に建てるよりは、歩いて行ける距離に白沙という古い町並み保存区があり、
カフェやバーまでのんびりと散歩していけるのだから。

やっぱりこういうときは、13億人の消費規模を見せつけられますなああ。
作っても作ってもまだ需要があるという。。。。。

あの大研城内の押すな押すな、のアホみたいな人ごみといい(しかも何の祭日でもない、普通の日に)
日本では考えられないスケールだ。。。。




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麗江・束河2、麗江は今や「艶遭之都」

2013年08月04日 11時48分15秒 | 雲南・麗江の旅
昨日、すごい言葉を耳にしてしまった。
麗江は、なんと「艶遭之都」といわれているそうな。
つまりは「リゾ・ラバのメッカ」????
「艶遭」は、男女の出遭い。


そういえば。
数日前、麗江で町の散策ついでによさげな客桟があれば、中をチェックし、値段なども聞いて回っていたのだが。
ある客桟(民宿)で中年のおっさんがめんどくさそうに出てきて、
「部屋は自分で勝手にみろ。言っておくが、門限は12時、異性の『お友達』を連れて帰ってくるのはご法度だ。宿の風紀を維持するためにな。」
と、なんか意味もなく、最初からいきなりすんごい攻撃口調。
こちらでは、素人女性はあまり化粧しないので、水商売女にでも間違えられて、客でも連れ込むと思われたのかしら、
思いっきり失礼なんすけど、とこちらもぷりぷり怒って、部屋も見ずに出てきた。

しかし「艶遭之都」という言葉を知った今から思い返せば、もおおお、そういう輩ばかりだということねえええ。
しかも別に商売女ではなく、素人の都会の若い娘が。
つまりはバーなんぞで意気投合した男女が、どちらかを部屋に「お持ち帰り」することがあまりにも多く、宿のおっちゃんとしては、頭を痛めていたというわけ。
私の出で立ちが中国的にいえば、ばっちりメイクして着飾って「出動」しているなんて、「やる気まんまん」という解釈??
それもそれで超失礼なんすけど!


しかしまあ。
まるで中学高校の風紀委員のような言いぐさだ。
お金を払って部屋を借りていて、「お持ち帰り」も問題になるというのは、どうよ。
誰に迷惑をかけるわけでもなく、
欧米や日本では、まったく問題にならないことが、この国では、えらい大げさな問題になる。
なおまだ「保守」と「前衛」が混在一体のまま並存しており、「前衛」的な若者らを悩ましているのだなああ。



束河のお泊りが20年ぶりにドミトリー、女子6人部屋であったことは、前述のとおり。
毎日、入れ替わりは激しいが、寝る前に会話が盛り上がることも多い。

最初の夜に出会ったのは、22歳の貴陽出身の元気な女の子。
大学4年生で卒業旅行で来ているという彼女は、
「1年前に麗江に来た時、艶遭やっちゃったーん」とぎゃはぎゃは笑いながら話してくれた。

彼女のお相手は、同じ旅行者ではなく、バーの店員だった地元ナシ族の青年。
山岳地帯でワイルドに育った野生児のたくましさに、がつんとやられちまったらしい。
このあたりは高原だけあって紫外線がきつく、こちらの人たちはひどく色が黒く、男はその分だけワイルドに映る。

しかし1年たって再び麗江を訪れた彼女は、最近付き合い始めたという彼氏と二人で来ていた。
彼氏は大学の同級生。
解体したマウンテンバイクを麗江まで郵送し、これからラサまで二人で自転車で踏破するという。
1年前「あたし、絶対にまた戻ってくるから!」とナシ族青年に約束して帰った彼女は
今回、律儀にも彼を訪ねていったが、あいにく留守だったという。

彼女はそれを幸いに、メモを残して帰り、自らの約束の成就を証明した。
「必ず帰って来るからという約束は、これで果たしたもんね! 留守なのは、私の責任ではないわ」と、
自らに大いに満足し、彼氏と消えて行ったのである。


中国版「セックス&ザ・シティ」といわれるドラマ《好想好想談恋愛》(2003年)にも麗江が出てくる。
ちなみにこのドラマは、「あまりにも奔放な恋愛の描写が風紀を乱す」といって、放送禁止になりましたが。
中国国内では、ネットでみれまっす。

奔放な恋愛を楽しむサマンサの中国版女子は、都会での恋の駆け引きに疲れ、一人で麗江に旅に出る。
そこでレストランを経営する地元の青年と恋に落ち、そのまま雲南に沈没して帰ってこない、という結末になっている。

つまり「前衛」の最前線を行く「都会女子」の「かっこいい結末」という位置づけだ。
金満主義の跋扈する都会であらゆる快楽と贅沢を堪能し尽した果てに行き着く先として。

しかしそれが口でいうほど生易しいことでないことは、異国で「適齢期」中(のつもり!)の我ら日本人女子にもよくわかる。
ドラマでは彼女が麗江で知り合った「都会高学歴・高収入女子」と「地元からほとんど出たことのない低学歴・地元っピー男子」
というリゾラバの果てに成立したカップルが、破綻していく様子を多く目にする、という場面が出てくる。

所詮は、非日常というベールが取れてしまえば、
目の前にいるのは、価値観も経済力も知識レベルも違う見知らぬ相手、というわけだ。
それでも統計学的にいえば、絶対数が増えれば添い遂げるカップルもそれなりに出てくる。

ただその数は、我々の周囲にいる「国際結婚カップル」程度の比率でしか存在しないと思う。
同じ国の中ではあるが、まさに国際結婚くらいのギャップがそこには存在し、成就にはよほどの条件が揃っていなければならないだろう。

非日常の中の「テーマパーク」で出会った、自分にとっての非日常を演じてくれる「俳優」のような存在の相手。
それはあくまでもその環境とシチュエーションが作り出した「ドラマ」でしかない。
忘れてはならないのは、ここは世界でバック・パッカー女子がはまる代表的な場所としてのバリ島やネパール・ヒマラヤの山中ではなく、同じ「国内」だということだ。
「今度、北京(あるいは上海なぞ)に行った時に、あなたに会いに行くよ」と相手がすぐに言える。
何しろ、先進国と発展途上国ほどの格差が存在しても、そこはビザもいらない「同じ国」の中なのだから。

その言葉が出た途端に、娘たちの前をさっとかすめるのは、
自分が今、都会の生活で歯牙にもかけていない、学歴の低く、教養がなく、単純労働にしか従事できない「民工」の小汚い男たち。
そんな青年が北京の「日常」で自分に会いにくる・・・・。
それを想像した途端にざあああ、っと夢が覚めるのである。


ちなみに日本人男性と中国人女性のカップルは毎年1万人前後、
中国人男性と日本人女性のカップルは毎年1000人前後。
離婚率はともに50%程度という。
これがイギリス男性と日本人女性の結婚あたりでは、離婚率が20%程度になる。
やはり日中の通婚はまだまだ乗り越えなければならないギャップが大きい。
「麗江婚」の成就率は、どれくらいだろうか?


あやや。
まじめに歴史のお勉強をしようとがんばっている私の元に、妙な検索記事がひっかかった。
あまりにも笑えない内容なので、ここで独断と偏見の意訳によりご紹介を。

http://wenku.baidu.com/view/98921861168884868762d6a1.html


どこの新聞の切り抜きなんだかはわかりませんが。
地元の新聞でしょうかね。

麗江「艶遇大王」が廃人に。多情女たちを傷つけたことを後悔

2010年2月18日晩、雲南省麗江市古城区の某客桟にて、あるカップルが熱い時間を過ごした後、
若い女は突然ベッド・サイドに置いたかばんの中から1本のはさみを取り出し、眠りこけている最中の男に躍り掛かり、局部を切り取った。
血の海を目の前にして、女は冷笑を浮かべ、通報の電話をかけた・・・・。

情熱的な一度の逢瀬が、なぜ血のショーに様変わりしたのか?
若い女が自首して供述したところによると、男は麗江で有名な「艶遇大王」、その「職業」は麗江を訪れた美しい女性旅行客をハントすることだという。
女は自分がいつの間にか、男の手口にはまり込んでいた、と述懐した。

「結婚が暗礁に乗り上げ。ロマンチックな出会いで傷を癒そうと」

結婚生活が暗礁にのち上げたのでなければ、関咏が麗江に行くことはなく、ましてや瞬く間に麗江でも有名な「艶遇大王」になることもなかった。
今年30歳になる関咏は山東省済南の出身、2004年に大学を卒業後、某広告代理店の顧客部マネージャーを務め、年俸10万元を稼いでいた。
2004年の5月の連休中、彼は同じ会社の美しい出納係のフウ莉と結婚した。
ところが2年後、妻が実は大型顧客が自分に「処分」した元愛人だったことが発覚、
自分と結婚した後も愛人関係が途切れることはなく、続いていたのだ。
憤懣やる方なき彼は、直ちに妻と離婚した。
この挫折の後、関咏はふさぎ込むようになり、仕事をする気力もなくなり、部門の業績はガタガタに下がり、まもなく会社から解雇された。

2007年7月初め、彼は雲南の麗江に気分転換の旅行にやってきて、古城区の文治巷にある客桟に宿をとった。
高原の盆地にある麗江古城は、その美しさ、リゾート地としても有名だったが、それよりも名をはせ、人々を惹きつけたのは、
町中に所狭しと並ぶさまざまな趣向をこらしたバーと茶館である。

そこで出会った男女がここで一夜の熱い逢瀬を演じる。
叱責を受けることなく、隠す必要もなく、バーに置かれている本でさえ『麗江艶遇指南』である。
このため麗江は又の名を『艶遇之都』、『男たちの天国』ともいい、毎年500万人以上の観光客がその名を慕って集まる。

当初、関咏は数日遊べば済南に帰ろうと思っていたが、
この地、この風景、この情、そして離婚の傷が、彼を強烈に艶遇に惹きつけた。
そこでしばらく滞在し、「麗漂族」を決め込むことにしたのだ。
(「麗漂族」、初めて知りましたねー。「北漂族」が、チャイニーズドリームを夢見て北京で貧乏生活に甘んじつつ、頑張る若者。その麗江版ですな)

その後は昼間は寝、夜は「後街5号」、「桜花屋」、「2416」などのバーでナンパに精を出した。
心動かされる女を見つけると、近寄って行ったが、相手は揃いも揃ってまったく脈なしだ。

ある時、彼は失望して客桟の主人・阿龍にこぼした。
若い阿龍は、本質をズバリと言い当てた。
「ファッションがあまりにも凡庸なんですよ。
 今は、『新壊男人』の時代ですよ。 (ぎゃああ。「ちょいワルおやじ」じゃ!! これは完全に日本語から来てません?? )
 できるだけ個性的な恰好をして、トレンディな男、クールな男、ほかにはない男を演じないと出会いの相手には選んでもらえませんよ」

関咏は目からうろこが落ちる思いだった。
直ちに近所の床屋にいき、韓流スター系のウェーブヘアーにし、コロンビアのパーカー、本革のローファーを買い込み、
頭のてっぺんから足のつま先まですべてアレンジしなおした。
自分で見てもエネルギーがほとばしる硬派のロックンローラーのような出で立ちになった。
(どんなんや)

それから関咏は3ヶ月をかけ、古城のありとあらゆるバーを制覇し、蟠踞する腕利きの艶遇のプロ中のプロたちと知り合い、
多くの「テクニック」を学び取った・・・・。

まず艶遇で求められるのは刺激であり、刺激とはミステリアスなものからくる。
そこで自分におしゃれなハンドル・ネームをつけ、同時にできるなら一芸に秀でているのが望ましい。
歌、ダンス、ギターと言ったものなぞは、女たちを惹きつけるにはよい。

次にバーにいる女が全員「その気」というわけではなく、相手を見てこちらの出方を決める能力が必要だ。
年齢ごとに女側の「覚悟」もちがい、相手を見て判断できなければならない。

最も面白いのは、関咏は女たちのバーでのしぐさ、表情から八大料理大系である山東料理、四川料理、浙江料理、湖南料理、広東料理、福建料理、蘇州料理、安徽料理に分け、
さらに相手を「料理」する手段-- 焼く、炒める、蒸す、強火炒め、弱火煮こみ、蒸し焼き、とろ火煮こみ、煮込みを決めていたことだ。

彼が自分につけたハンドル・ネームは「偽装不聊」(話さない振り)。
歌もダンスもできないため、無理やり数百首の唐詩と小話を丸暗記し、「先天的な不足」を補った。

関咏がよくいくバー「千里走単騎」(あいや。あたいの写真にも最初のころ、映ってましたがな)で20歳前後、張柏芝(セシリア・チャン、香港の女優)に似た娘と知り合った。
彼女は音楽に合わせ、激しく踊っているところだった。
こりゃ典型的な辛い「湖南料理」だ、料理は「強火炒め」が必要だぜ、と瞬間的に判断。
そこでグラスを片手に大胆にも目の前に立ちはだかり、お酒をつきあってくれないか、と誘った。
娘は案の定、気軽に承諾した。
関咏は紳士のようにただ娘のダンス、酒、おしゃべりにつきあった。


・・・・・・・と、ここで残念ながら、「試し読み」が終わりですわー。

後ろ髪は惹かれますが、要するに外地から来た大卒の「プチ・インテリ」がどうやって自分を演出し、ナンパ大王になり、
最後に大事なものを切り取られるか、というストーリーなんでしょうから。
大体、主旨はわかったっちゅうことで、もうええんちゃうんでしょうか。

つまりはこのように現地のナシ族男子だけでなく、中国全土から「腕に覚えのある」強者どもがここに集まり、
ほかではいくら努力しても成功の可能性の薄いナンパというゲームに命をかけているか、っちゅう世界があるってえええことですかね。
生産活動もせず、朝から晩までそんなことに精を出すなんて、ご苦労様と思ってしまうが、
それくらい中国のほかの都市では、成功率が低いということでもあり、ここだけがなぜか女たちには「治外法権」と写り、
なぜか男について行ってしまうということねええ。

しかし正気に目覚めた後は、しっかり恨みも残り、
あげくの果てには、阿部定と化すのだから、やっぱり「天国」とは一概にいえないかあああ。






前回からの麺のお店の続き。

このテーマパーク化した町で10元以下の食べ物が見つかること自体、
もうとっても貴重なわけで。らーめん一杯7元。ありがたいっす。

これまたタイトルには、ぜんぜん関係ない味気ない写真で失礼。





あまりに観光地の食事が高いので、ついつい麺だけ、などと主食が中心のメニューになってしまい、野菜が不足してきた。
なんだか気持ち悪いので、明日は自由市場の場所を聞き、きゅうりやトマトなど、そのままかじれる野菜を買って来よう。





らーめんの具に入っていた烏骨鶏の煮汁。
油がれろれろに浮いていますが。
「土鶏」と書いていますから、そのへんでこっここっこと放し飼いにした烏骨鶏のようです。
田舎ならではの楽しみ。



   




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