いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 7、農村の土地改革、始まる

2011年04月07日 10時43分41秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
地主を打倒し、人々に平等に土地を分け与えるという土地改革は、
すでに国共内戦の時期から先に共産党によって統治が行われていた「解放区」では実施されていたが、
全国的に実施されたのは、全国統一後も半年以上たってからである。


1950年6月、中国共産党第7回三中全会にて、全国規模で土地改革を実施することを決議、
『中華人民共和国土地改革法』など一連の文書が次々と公布された。


つまりは地主の土地、家畜、農具、余った食糧、余った家屋を没収し、
土地を持たない、または土地の少ない農民に分け与えよ、という一連の政策の実施である。


但し、日本の戦後の進駐軍による農地改革のように自分で耕せない土地はすべて没収、という段階まで一気に徹底させたわけではない。

ある一定の規定値以上の土地、小作人、雇用者を持つ者を「地主」と規定し、自前使用のほかは没収したわけだが、
それに満たない場合は、土地を貸し出したり、人を雇ったりしていても「富農」に分類し、土地の没収はされなかった。

また小作人、雇用者を少数抱えている者でも「中農」に分類され、これも土地の没収はなかった。

どれくらいの土地の広さを持てば「地主」なのかは、
前述のとおり、広大な国土の北と南ではまったく概念が違うため、個々の地方によって決められたようである。

土地の生産力の高い高温多湿の南方では小さく、北方では大きく枠を決めたのだろう。ここでは本題と外れるため、詳細は省く。


一気にすべての人の土地を均一化しなかったのは、社会主義に徐々に国民を慣れさせるためであり、
さらには戦争で荒廃し切った国土を早く回復させ、まったく貯蓄のなかった国庫を満たすために、
既成の体制のまま頑張ってもらって生産力を上げるためでもあった。

農村の完全な社会主義化はその後、十数年の月日をかけて徐々に進められていく。


都会でも同様であり、北京市が共産党下に入った段階では、まだ体制が一気に変わったわけではない。

時伝祥の目線から見れば、1949年に解放を迎え、労働者の世の中が来た、と喜んでいる中で
当局主導の下、労働組合の発足が始まる。

時伝祥はすでに40歳を越えており、糞夫としてはリーダー格になってしかるべき年どころでもある。
前門区の糞業工人工会の組長に選ばれた。


自分たちが主役になれるという興奮と期待の渦の中、
あれよあれよと夢中になって過ごしているうちに半年ほどが経ち、
1950年6月から農村の土地改革が始まり、同僚たちが次々と北京を離れていったのである。



時伝祥も山東の田舎に帰るかどうか、大いに迷いがあった。
山東の実家では、土地改革で再び時家も土地を持つ自作農になることができ、
壮年の男子といえば家には弟一人しか残っていない。

広大な土地を耕し切れないから帰って来い、と山東から知らせも届いた。


迷っているうちに、北京ではどんどんと糞夫の数が減ってくる。
ここで彼の伝記には、彼が糞夫らを組織して賃金値上げの労働争議を起こしたこと、
糞夫の月給がほかの労働者より遥かに高い50元となったことが書かれている。


つまり働き手の人数が減ってきたために、残った糞夫らへの労働負担が増えたが、給料は上がらない。
仕事はどんどんきつくなるわ、糞覇は相変わらず、威張ったままでいる。

が、共産党政権になってからは、党の組織から労働者の権利や尊厳を説く思想教育ががんがんと進められつつあった。
もはや糞覇の味方をして、でたらめな理屈で糞夫らをいじめる警察も存在しなくなったのだ。

そこで賃金値上げ要求を起こしたのである。
糞覇の方もいかんせん人手不足である。

もはや解放前と違い、糞夫らには帰る場所がある。

都市に残るメリットをはっきりと示さねば、本当に誰もやり手がいなくなる可能性もある。
賃金値上げは受け入れられ、それが50元にもなってゆく。


人手不足の事情は、糞業が完全に国営化しても同じである。
50元といえば、普通の工場労働者の月給が20元程度であったことを思えば、破格の待遇だ。

しかし裏を返せば、それくらい出さないと、人材を確保できないという現実があった。
解放前には北京市だけで5000人も群がりひしめいていたことを思えば、なんという違いだろう。



時伝祥は素直にこれらの変化がうれしかったのだろう。
労働者の世の中が訪れ、社会から尊重されるようになり、待遇まで雲泥の差のごとくよくなった。
素直に労働者の天下になったこの職場で、他の革命家に負けぬように一肌脱ぐべえ、と奮起したのである。

もはや山東に帰ることは、考えなかった。



社会におけるあらゆる社会主義化は、ゆっくりと数年の時間をかけて推進、浸透が進められた。
糞業も然(しか)り、農村も然(しか)り。

農村では、土地を持てるようになった農民らが大喜びしたわけだが、
一度はすべての農民に分配された土地は、その後再び「公共化」に向けて組織化される。

--しかしそこは慎重に。
一度分配した土地をもし一気に公共化した場合、人々の心理的抵抗があまりにも大きい。

ぬか喜びさせておいて、やっぱり取り上げるのか、と解釈されかねない。
農民たちのやっとの思いで手に入れた土地に対する愛着・執着・情念は、鬼気迫るがごとき迫力だっただろうことは、想像に難くない。


だからこそ土地改革の直後、農民の生産への士気は大いに上がったという。
自分の土地を手に入れ、平和も訪れた。
戦いのために田畑を踏み荒らされたり、兵隊が理不尽にも収穫を押収するようなこともなく、働いた分だけ見返りがあるのだ。


土地改革は1950年から始まり、1952年末までには新疆、チベットなどの辺境地域を除き、国土の90%で終了した。
農業人口の60-70%に当たる3億人の人々が土地改革の恩恵を受けたという。

1951年の農業生産高は2873.7億斤(1斤は500g)。
これは内戦が終わった2年前の1949年の28.8%増し、
翌年の1952年には49年と比べ48.5%増しとなったというのだから、確かに驚異的な増産だ。


しかし土地の分配から3年たった1953年には、
早くも中央政府から『農業生産合作社の発展に関する決議』の文書が公布され、初期段階の農村の社会主義化が始まる。

つまり「入股(株主になる)」という形で、土地を合作社に預け、
集団で作業し、収穫物は株の額により配分するというものである。


それでもこの段階では土地はまだ私有財産であり、土地を合作社に委託し、
その土地の大きさにより株の額が決まり、収穫物の配分の量が決まった。

農具、耕作に使う家畜も個人の財産であり、合作社で使う場合は、「借りる」ことを建前として、レンタル料も支払った。


こうして人々を「集団作業」、「大鍋飯(ターグオファン=同じ釜の飯を食う。平等に分け前を得る)」に慣れさせること3年。

これと並行して社会主義の利点を説き、繰り返し叩き込む啓蒙教育も徹底される。
集団で作業することにより、農作業の効率が上がること、
1頭いれば、使いまわしの効く水牛を何頭もそれぞれの家庭で飼う無駄、
集団で飼育すれば、購入代・手間・飼料代のすべてにおいて節約できることなどを繰り返し説き、
人々に「社会主義」とは何かを啓蒙していくのである。


今度は逆に「差」があることに人々が不満を抱くようになる。
同じだけ作業をしているのに、「富農」だけ株が多く、たくさんの分け前をもらえること、
農具・耕作家畜のレンタルで料金を支払われる人のいることに対する不公平感が広がる。

その雰囲気が熟したタイミングを見計らい、
一気に本格的な「高級合作社」が普及するのは、1976年からである。

土地の私有制をかなぐり捨て、これまで富農などがやや多くの土地を所有していたのを認めていたが、
これも廃止し、完全な平等、社会主義となる。



ここからさらに数年かけて人民公社に発展させていく。



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写真: 時伝祥記念館。

記念館は四合院とその中庭をサンルームにした構成となっています。









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