『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想66   幕末の悲劇の会津藩主  松平容保

2013-04-16 13:38:29 | 日記・エッセイ・コラム

 

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著者     :綱淵謙錠など<o:p></o:p>

 

初出版    :1984<o:p></o:p>

 

出版社    :新人物往来社<o:p></o:p>

 

初題名    :「松平容保のすべて」<o:p></o:p>

 

再出版    :20134月 改題新編集<o:p></o:p>

 

出版社    :(株)中経出版<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 大河ドラマ「八重の桜」で注目を集めている、会津藩と藩主の松平容保について書かれたものである。30年前に出版されたものの再版になる。複数の著者が様々な視点から容保に迫っている。目次と著者名を挙げてみる。<o:p></o:p>

 

  松平容保と「八重の桜」       好川之範<o:p></o:p>

 

  松平容保・人と事績         綱淵謙錠<o:p></o:p>

 

  松平容保の出自とその一族      宮崎十三八<o:p></o:p>

 

 松平容保 関係人名事典       小桧山六郎<o:p></o:p>

 

 京都守護職時代の松平容保      松浦玲<o:p></o:p>

 

  松平容保と会津藩の戊辰戦争     佐々木克<o:p></o:p>

 

  松平容保 関係史跡事典       野口信一<o:p></o:p>

 

  会津藩の閣僚と藩論         星亮一<o:p></o:p>

 

  松平容保 家臣団人名事典      間島勲<o:p></o:p>

 

 幕末・明治維新を語るときに会津藩と松平容保を抜きにすることはできない。今まで語り尽くされてきた感もある。幕府のために実直に尽くし、落城するまで戦ったということでまことに武士らしいと人気がある。幕府の命に従いつづけた容保が、慶喜の謝罪・恭順に従わず、なぜ会津の籠城戦にまで突き進んだのか。

 本書では鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に戻った容保の立場は武装恭順であったが、会津に帰国する前に江戸で反薩長列藩同盟の構想をもって、庄内藩や長岡藩と密約を結んでいたとしている。そして奥羽越列藩同盟が結ばれ、薩長軍との戦いが始まる。同盟軍は続々と薩長軍に下り、最後まで全力で戦ったのは〈朝敵〉とされた会津藩と庄内藩。そして長岡藩。鳥羽伏見の戦いから敗走を続けた会津藩は、その挽回のチャンスも与えられず、武の誉れとしての面目も失っていた。鶴ヶ城の籠城戦は武士としての恥を雪ぐための戦いであり、戦わずして膝を屈することを拒否したのだと述べている。<o:p></o:p>

 

そして本書の中で容保の影で籠城戦を戦った少年が出てくる。スペアの人生を送った人だ。京都守護職時代に病弱で独身であった容保は養嗣子を取る必要があった。それで上京して御所の守衛に任じていた徳川慶喜の弟の昭武を養子にする話を進めていた。しかし慶喜が将軍職に就くと聡明で評判のよい昭武は、やはり実子のいない慶喜の養嗣子となり、フランスへ派遣され、留学することになった。それでその弟の喜徳が容保の養嗣子になった。兄たちとは違って利発でもなくおとなしかったという。12歳の少年が第10代会津藩主として隠居した容保と共に鶴ヶ城に籠城し戦い降伏したのだ。死一等は減じられたが、明治110月から43月まで幽閉された。その後生まれたばかりの容保の実子が斗南藩知事となり、容保と喜徳の幽閉は解かれた。実子が生まれたことで喜徳は実家の水戸徳川家に帰り、水戸家の支藩松平家2万石を継いだ。養子に行っていた弟が死んでその跡を継いだのだ。どんな気持ちだったのか。写真が残っているが子供らしく、強い気性を抑えているように見える。ただただ迷惑な気持ちで一杯だったかもしれない。望まれないで養子に行って何が何だかわからないうちに戦争になって、苦労だけして実家に戻ってきたという感じかもしれない。<o:p></o:p>

 

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