P90~P92<o:p></o:p>
この家でも雪が降って風が吹いて時間が経って午前0時に近づいているはずだが、母は娘を待つことをすっかり忘れているようだった。<o:p></o:p>
「私、遅かったよね? 今何時頃?」<o:p></o:p>
「さあね」<o:p></o:p>
「ね、すごい吹雪。私、危うく吹き飛ばされるところだったの」<o:p></o:p>
「…」<o:p></o:p>
母は何も答えず、ぼやけた影法師のようによろよろと台所へ入って夕食の準備を始めた。<o:p></o:p>
私は呆然として石段に立って雪の積もった庭と星のちりばめられた空を見た。<o:p></o:p>
〈母が待っているでしょう…母が待っているでしょう…〉<o:p></o:p>
〈まあ、子供のようなのでね…ふっふっふっ〉<o:p></o:p>
母が御膳を持って出てきた。ようやく私は雪まみれの靴を脱ぐと、向かいの部屋まで灯が明るくついているのに気付いた。私はぎょっとして服の雪も払わないまま、向かいの部屋の引き戸を開けた。<o:p></o:p>
いつも壁にかかっているギターが床に転がって、何冊かの写真集がすべて広げられ写真まで散らばって、さらに片隅には柔道着がくるくる丸まっていた。私はその柔道着に体温を感じた。<o:p></o:p>
娘を待つことを忘れさせたのはまさにこれだったんだ。<o:p></o:p>
柔道着を胸に抱いて、写真を見てギターを弾きながら。私は喉にぐっと込み上げてくる憐憫かも憤怒かも知れないものを耐えることができなかった。<o:p></o:p>
母は緩慢な動作で少し前かがみになって御膳を持って来た。<o:p></o:p>
「今まで向かいの部屋にいたの?」<o:p></o:p>
私は厳しく問い質した。<o:p></o:p>
「向かいの部屋に入ってはいけないと何回も言ったじゃないの。一人で入ってはいけないと言ったのに」<o:p></o:p>
母は頼りなく笑うばかりだった。<o:p></o:p>
「どうして入ったの、どうして? そう言ったのに、どうして入ったの? 一人では駄目だと言ったのに…」<o:p></o:p>
「居間に座っていようとしたら、だから向かいの部屋でギターの音がしないかい? まるでウギが弾いているようだったよ」<o:p></o:p>
「それはつむじ風の音だったのよ。私はその吹雪の中を凍って死にそうになって歩いてきたのよ。このギターの音ではないのよ」<o:p></o:p>
私は〈のよ〉に力を込めることが出来ず、そのままギターを持ち上げて床に投げつけて粉々に壊したいという、残酷な衝動に駆られた。<o:p></o:p>
「こんなギターの音ではないのよ」<o:p></o:p>
とうとう私はギターを高く持ち上げた。<o:p></o:p>
「駄目よ。駄目」<o:p></o:p>
突然母は20年若返ったような金切り声を上げて、ギターを奪い取ろうと私に飛びかかった。<o:p></o:p>
私は、壊してしまおうという強い衝動にますます駆られて、体を震わせてギターを高く持ち上げてぐるぐる回った。<o:p></o:p>
母も負けずに歯向かった。母はもはや影法師ではなかった。力強い脈動が駆け巡る元気な熱い女性だった。<o:p></o:p>
ついに私の腕をひっかくようにしがみついた母の手に、ギターの一部が捕まった。私も必死にギターの頭部を抱きかかえて引き寄せていたが、母が力一杯ひったくる弾みに床にひっくり返った。しかし私は放さなかった。<o:p></o:p>
私達母娘は、ギターを間に置いて気が狂ったように床を転がって獣のように息を切らせながら、自分の体をいたわりもせず凄絶な喧嘩をした。<o:p></o:p>
しばらくしてから私は荒い息をしながら、空っぽの手で退いた。勝ったのは母だった。<o:p></o:p>
せっかく試みた過去との断絶はこうして水泡に帰した。<o:p></o:p>
再びギターと柔道着がもとの場所にかかり、アルバムが差し込まれ、ふだんと同じ部屋の様子になるやいなや、私達母娘は差し向かいに座って何もなかったように、冷めたキムチ汁をずるずる飲みながら淡々と夕食を摂った。
ー続くー
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