花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

平成三十一年の万朶の桜

2019-04-21 | 日記・エッセイ


「大宰師として筑紫に赴任した旅人を、大宰府の官人たちは、けっしてあたたかい眼で迎えたとは思えない。なぜなら、当時、彼のすぐ下に居た太宰大弐は多治比県守であり、多治比県守は藤原兄弟と共に長屋王を死に追い込んだ陰謀の加担者であった。
 多治比県守ほどではないにしても、多くの官人たちは、多く藤原兄弟の息がかかっていた。息がかかっていないにしても、もう長屋王と藤原兄弟のどちらが勝つかはほぼ明らかであり、誰が一体、負け犬に加勢してひどい目にあうというようなことをあえてしようか。大伴旅人の周辺には、無数のスパイがいたといってよい。彼等は藤原兄弟の命を受けて、彼等の長官である旅人を監視していたのである。」

(第三部 大宰府にて│梅原猛著作集 第十二巻「さまよえる歌集」, p649, 集英社, 1982)

「無礼講そのままやれば無礼者」というような句をかつて何処かで読んだ記憶がある。集う人々の心底は様々であろうが、そのような状況下であっても、いやそうであるがゆえに、大宰師大伴旅人、配下の大宰府管下の全官人が集まり倭歌を詠んだ梅花の宴の意義は深い。
 それにしても万葉集の時代は歌の一つも詠めなければお話にならず、鼻息荒く歌垣に参加しても独りかも寝むとなるは必定である。歌の素養がなくとも公私ともに生活できる現代人で良かったと身にしみて思う。などと安堵していたら、「日本東洋医学会は、令和年度から学術集会参加、演題申込、あるいは論文投稿の際に一首ないし一句の提出が義務付けられることになりました。」という通知が次の会報に載っているかもしれない。江戸時代の医家、儒学者、亀井南冥先生の『古今斎以呂波歌』には、「医は意なりと意と云者を会得せよ、手にも取れず、畫にもかかれず。」、「論説をやめて病者を師とたのみ、夜を日に継いで工夫鍛錬。」などの多くの含蓄ある歌がある。通仙散を完成し世界で初めて全麻手術を成功させた華岡青洲先生が、春林軒を卒業する門下生に下された「竹屋蕭然烏雀喧、風光自適臥寒村。唯思起死回生術、何望軽裘肥馬門。」の漢詩しかり枚挙に暇がなく、先哲の医家は皆一流の教養人である。
 梅花、桜花に続いて、また新しい季節がはじまろうとしている。

  探丸子の君、別墅の花見もよほさせ給ひけるに、昔のあともさながらにて
さまざまの事思ひ出す桜かな   真蹟懐紙 松尾芭蕉


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