花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

大阪市中央公会堂の桜│義侠の相場師 岩本栄之助

2019-04-25 | 日記・エッセイ


「なぜなら「師」という言葉には「学問・技芸を教授する人」「宗教上の指導者」「専門の技術を職業とする者。医師・美容師」「中国周代の軍制で、旅の五倍、すなわち2,500人の称」等々、ズシリと重い意味があるからだ。「相場師」という言葉にはある種の畏敬の念すら込められている。相場道に精通した安達太郎によると、「相場師ほど精神修養の大切な職業はない。その終始怠らざる研究と、普段の貴重な体験とは、精密な観察、周到な注意、冷静な考慮と相まって、機敏で公平な判断を生み、沈着で、しかも果敢な実行力となり、確固不動の信念による進退は、行くところ可ならざるはなく------」とし、相場師には徳義が必須の条件であると述べているほどである。」
(鍋島高明著:日経ビジネス人文庫「日本相場師列伝」,p4, 日本経済新聞社, 2006 )

『日本相場師列伝』は明治から昭和の時代を生きた70人の相場師陣の逸話を収録している。第三章・明暗分けたインテリ相場師の章で、《中之島公会堂を残した侠気の人》として挙げられているのが、「北浜の風雲児」、「義侠の相場師」と称された岩本栄之助(1877~1916)である。大阪の両替商、岩本商店に生を受け、明治期の大暴落時に市場を買い支え、後に渡米実業団で彼の地の富豪が私財を投じて公共事業や福祉に寄与する振舞を眼にし、中之島の大阪市中央公会堂設立基金の原資となる大金(100万円、現在の50億円に相当)を大阪市に寄付した。第一次世界大戦の高騰相場の逆張りで巨損を背負った岩本栄之助は、この中央公会堂の完成を見届けることはなく、「その秋をまたでちりゆく紅葉哉」の辞世を残し風雲の生涯を霜降に閉じた。

大阪市中央公会堂は1913年に着工、5年の歳月をかけて完成し、現在、国指定重要文化財に指定されている。先々週末、桜花爛漫の時節に訪れた中央公会堂は、「岩本記念室」が設けられた地下一階は賑やかであったが、上の階に上がるにつれ人影が消え、耳を澄ませば閉じられた会議室の中から幽かに講演らしき声が漏れてきた。同じく「師」という言葉を持つ生業ながら、私は斯界とは無縁の素人である。踊り場近くに置かれた椅子に座って窓の外にすでに散り始めた桜の花びらを眺めていた時、修羅道にあっておのれの信念に従い去就を定め、弁明や悔恨のかけら一つ残さず時代を駆け抜けていった、鳴蝉潔飢たる男の大きな後ろ姿が見えるような気がした。