花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

身をつくしてや│戯曲「桂春団治」

2016-02-27 | アート・文化


『わが喜劇』(館直志、二代目渋谷天外著)の中に掲載された戯曲「桂春団治」をこの正月に読み返した。彼をこよなく愛するが故に並とは違う女の人生を歩んだ三人の女性が描かれ、その肩越しに覗くかたちで初代春団治像が浮かび上がる。原作「小説 桂春団治」(長谷川幸延著)における色模様は湿熱内盛の世界である。芳香化濁、清熱祛湿を経て、戯曲「桂春団治」では一幅の舞台に昇華されている。

三人三様の設定は以下の通りである。「おたま」は逆鱗に触れるのを百も承知で、師匠のあんたには芸人の苦しさは分かっても人間の苦しさが分かってないと言い放つ。生来冷たい性(さが)かと思うほどの冷静さを見せて身の引き時を決断する。「おとき」は、騙され泣きすがるだけの世間知らずの嬢さんから、程経て春団治が訪れて来た時には戯れ言をさらりといなす大人の女性に成長する。再びの別れに際して、日本一になっておくれやすと万感の言葉を絞り出す。「おりう」は春団治のために蕩尽した御寮人さんで、冒頭から噂になるも前篇で姿を見せるのは一度だけである。彼が彼岸へ旅立つ枕元で、おたまさん、おときさん、たった一人の子供の春子さん、みんなの手を握ってゆかせてあげたいとその人となりを見せる。彼女らは男の芸の肥やしにされて舞台の隅に転がるだけの女などではない。大向こうと闘い続け一世を風靡し、賑やかな大輪の話芸の花を咲かせた春団治師匠の業績が偉大であろうとも、この女性陣がなにわの春団治に敢然と差し出した澪標(みをつくし)の凄味に比べたら、それさえもが虚仮威(こけおど)しに映る。

金子光晴の詩《葦》には、「愛憎の/もつれのまゝに/うきつ、しづみつ、/なにをみるひまも僕にはなかった。/しかし、おどろく程のことはない。/女たちの/やさしさ以外は/みんなつまらないことばかり。/葦の葉から/葦の葉へ/ぬけてゆく風のように みんな/こけおどかしにすぎないのだ。」の一節がある。心揺さぶられるのは無私の心から生み出されたやさしさだからであろう。見返りを期待すれば、示すやさしさは撒き餌でしかない。女大学が指し示す静謐な女の道からはみ出た生き方であっても、三人の内の誰一人として最後まで性根が曲がった女性に描かれていないことがしみじみと余韻を残す戯曲である。