花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

薬のほかの配剤有り│医聖 曲直瀬道三

2016-02-15 | 漢方の世界


「まことに料理の上手は庖丁の他の料理をし、醫者の上手は薬のほかの配剤有りと見えし。」と言う感嘆の言葉で締めくくられているのは、「売家の松」で取り上げた神沢杜口著『翁草』の異本にある、江戸時代の名医、曲直瀬道三先生のエピソードである。御病人の心をしかと受け止めることは勿論のこと、お師匠様に簡単にお尋ねするなどは憚られたであろうこの時代、弟子の質問に対し懇切に説いてお聞かせになる道三先生は、実に仁恕溢れる御人柄である。事の次第は以下の通りである。

細川三斎の御母堂が重湯も通らぬ重病を患い、小倉内外の医師が治療にあたったが全く薬石効なし。そこで名医の呼び声が高い曲直瀬道三に使者をたてて御来訪を仰いだ。到着されるやいなや、周囲は御診察をお薬をと急き立てた挙句、うつけ坊主とまで罵り騒ぐ。これに対して悠然とかまえた道三先生は、
「さて病人の様躯見とゞけしに、都にて聞しに少しも違ふ事なし。さらば薬を調合せん、さりながら大事の病人也、今夜の薬は自からせんじ申べし」
と高らかに宣言され、三日間は人手に触らせず、御大自ら薬を調合なさった。病人はこの有難い薬を戌刻(19~21時)にはじめて服用し、翌朝にはもう元気を取り戻すことが出来た。そして三日目以降には処方の指示を出して人におまかせになったのであるが、一時は明日をも知れぬほどに重篤であった病人は順調に回復を遂げて、見事本復を迎えたのであった。是非とも御師匠様の名処方を書き残さねばと、帰京後に下向に付き従った弟子たちはその内容をお伺いした。道三先生はこれに応えて曰く、

「我此度の配剤何と印し申べき様なし。去ながら其あらましを語らん、抑、小倉より病人の事申来ると、使者に其病態を聞に、かつて死症にあらず、然ども、前々の療治皆補になづみ薬毒脾胃を責、我其事を都にてさとし、下りて病人を見るに少しも相違なし。又、彼是と時うつし夜に及び病人を見し事は、我に逢と薬をくれよといはん、やらずんば心元なく気を落とさん、かねて薬毒胸膈に満あれば、何とぞ其まゝに捨置たけれど、大事の病人薬をのまさで置まじければ、用るところ皆斗り也、此さゆを以て腹中を洗ひ薬毒を下し、其上にて予が見立てし薬をあたへしかば、何の造作もなくすらすらと本復せり、か々る大病人にさゆをのます事、付々の人も思ひ、病人もしらばいな事におもふべしと、自身薬をせんぜし也。」
(「随筆百花苑」第十巻、第九、當話、附名医話、p138-139、中央公論社、1984)
このたびの処方のあらましを何と記せと申すべきか。小倉の御病人の現症や治療歴を使者から伺うに死にいたる病などではない。これまでの治療がすべて補法に傾いて薬毒が脾胃を傷めているのであり、出向いて下した診断結果も同じであった。時間を置いて御病人を診たのは、逢えば薬ばかりを欲しがるからである。薬毒が胸膈に壅滞しているのであるからそのままに捨て置いて薬毒を抜くべきなのだが、切にお薬をと願う病人に何も出さなかったら不安で気落ちするに違いない。まずは白湯を飲ませて腹中を洗い薬毒を瀉し、その上で見立てた本治の薬を服用させたのであるから当然本復を得たのだ。白湯をただ白湯だとして飲ませたならば、周囲の人間も御本人も、重篤なのにこの様なただの白湯をのませるだけかと不信に陥るだけだろう。そこで大事の病人であるから自ら煎じると称し、それと知られぬ様にした訳だよ。(拙訳)

御著『啓迪集』巻之六、老人門には「不同年少用狼虎之剤務求速攻」と戒めが記されている。迅速な効果発現を求めて狼虎の峻剤を用いて薬毒を瀉すれば、老人においてはすでに虚している元気が脱してしまう弊害がある。一般人にとってはただの白湯であるが、病人の病因や病態生理を見極めた道三先生の手にかかればこれも薬方である。ところで『列子』巻第五、湯問篇には「甘蠅,古之善射者,彀弓而獸伏鳥下」と記された射術の名人、甘蠅老師が出てくるが、中島敦著「名人伝」において、甘蠅老師は断崖から半ば宙に乗出した危石の上に事もなげに立ち、見えざる矢を無形の弓につがえて頭上の鳶を鮮やかに射落してみせる。老師曰く「弓矢の要る中はまだ射の射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。」なのである。一つの生薬も含まない道三先生御処方のこの白湯は、言うなれば「無薬之薬」か。